――目次――
1, 神道, 折口信夫, Shint
ō, Shinobu ORIKUCHI, pp.1-10.
2, 宗教現象とは何か, 岸本英夫, What is religigious phenomena?, Hideo KISHIMOTO, pp.11-26.
3, 宗教的行動及び心意, 長谷川如是閑, Religious behavior and religious mind, Nyozekan HASEGAWA,
pp.27-47.
335
折
口信
夫
へ て 私 ほ ら 風 非 は ふ 「 な ほ の 、 お に 常 、 た 側 坤 か い 田 者 紳 聞 お な 我 ビ の 道 な で り へ 道 か 驚 懸 々 今がと
ら 。 が 何 ふ ひ な あ へ を 単 題 クコ 、 処 言 た る る て 研 な で澄 。 一 院 大 租 も 紳 ひ れ 、 愚 知 を 紳 " 道 ゐ て に な す る ふ 甘, 学 の な ま な 或 が る る こ 葉 目
の学が
学説
ら す。
いほど
。 御う校
学だと
らに
が 問 で の 何 そ 存 い と う な 果 に あ 道 侍 れ 知 ふ い と っ し ほ つ と か だ な も ふ 思 て て 本 か "ていのけいのと
"ふ機
武力
か "ひぬ
まま
適 に 古@ 風 回 観 答 究 り い 所 お 力、
を
そ ら に考院
学課
しす進と世
へがか
提 ら なワ へ の た る み 存 問 供 @ る かだ道のと
る紳もこで
ねま
じのし
方 ま 紳 と け 譲 ら が た す の し 道 @@ の の し 出 か 。 老 た を ふ 桑 代 り 来 に そ へ 国 開 地 表 と る な ん て 学 れ 題 ま でで ナ る ぁ 位 ひ - す に 神 学 の の り に ま か 国 道 ぐ 学 そ だ ま 把、 す ら 学 と ら 者 せ は 陳 ね ん ほ な と ん れ た そ の・我 の ど 不 う 都 セ " 合 ふ な 風 @o と
抽 ほ て に な も し 考 て ま ん な で せ Ⅱ
も貰
ら任かふ論
い青果へ
てる。
ぬ す ゐ と ふ た と べ が ね 紳 存 た お こ き 俺、 き あ る 遣 外 か 烏、 と せ ひ 老 り か と 世 ひ ほ て き へ ま と の 間 さ に 差 頂 す 芳 し い 間 の う な 支 い 。 で た ふ に 方 言 。 申道
一
を 含んだ熟語になると、 実
と 、近世の人の考へた 、一
。その﹁Ⅱかいなな 卜爪 卜ら﹂Ⅱ 才ヒ 二言 口
ありま す 。 例へぱ 万葉集の
のが集ってゐる 0 右の﹁ か
きのある1
@ 後出の﹁続目右の万葉集、その他の文学系統の本に出上﹂ ゐ る Ⅰ 1 かむながら﹂と 言ふ三 二口
ほ 古く、﹁続日本紀﹂の方
要素が沢山含まれてゐる。
々官廷がある形式によって
れるや う になり、文武天皇
てゐるけれども、その言葉の組合 はせは、古 い 形式をそのま上使って ゐ
して来る。だが、全体とし
に用ね られてゐる D ある 個
といふ 趣 ぎすら 比 えるものです。その点でほ 、 この 語 以外にも、万葉 穏糸
まづ 大体前期飛鳥時
らだとき 口つチ Ⅰ い 亙でせ う 。
威儀 す る様になったもの 336
葉 と続日本紀とで
は
、それが逆になって
わ て 、
宣命の方に古い型空言葉
言語 は使
ふけれども其で
から﹂と
言ふ語は
、標準
本紀によりますと、宣命
い な ら も う ろ で 力て と ス の だ の 的 も ザ で 337
四
変な違ひたのです。宮廷の
も 其が、年代からすると、 逆になってわるので 甲 。
も 、その用例におけるか
を 持つて ぬ るのか。かむながらといふ言葉に 、 ﹁ 道 ﹂といふ言葉を繋いで
々が持った神道といふ言葉
と 深い、広い内容があった
い 感覚を盛って、古代から あったもの ム 如く信じたのだと思ひま す 。
ほ 不正確だといふ問題で
の 研究 は 無駄になる 0 随分
つた 心理と論理とほ 、さう 言ふ 言語を明確に掴む所にあるのです。
仰 といふ側に対して ゐま
へることばかりによって、解決がつきません。 現に 紳祀 神道 も 、最初から
のあるものと考へられてゐました。其が 、 そつ くり宗教 紳祀 として、受け
ての解釈から 拒 外して ぬ た
のがある:つまり神道を非常に局限して ぬ たの 3%
十分持つたものを認めない たちの誤解を訂 す べき所が多い。
治 的方面もある。その 摘 方面に活 ぅて 、重要性を感
ほ もつと個々に近づけて 艮
て老, へて来てゐるものム中 といふことでほない 0 陰陽 てゐるが、浅薄なムロ理化した神道 詮 を経蔑して 俗神道と言ほれてゐ た 0 そ して、何か古神道の解釈に
仙の研究や、実験といふ 所 まで踏み出して 居 ま す 。
さぅ した要素を持つて ゐ 面 に落着いて ぬ るの ほ、民
に 、宗教意識を残してゐる ので よ り。
し 荷文 に 対して、右の民
は、 先に申しましたや う に
ものほ、宮廷における天子 申 道 五 339
/¥
になって 、 此にも種々の 要
起って来るの ほ 、すべて 政
まつ り
ごヒ
力行ほ 荘 ている 0 一 ,まつり ど 共こ といふの ぼ 非常に広い意味と膏ふのほ、 紳のみことを
言ふが、 多く地方の行政に関係しておました。
い 状態でおさまった、 其形
だりしますところで は、如
政治 は 違ってゐる 0 さう巳 ﹂ 口
ぅが、 長い年月の間に神道 究 者にとりましてほ大変 重 要 なものが残ってねる訳です。
ては 、日本人ほ元々自覚
仏教との関聯において、 或
枠 に考へれば、名誉 か 不名
において、神道の覚醒が 起
0 無ければ 祀適 はない。自覚を持って居るか、 居ないか、といふことほ大き
らないと思ひます。
使ひ 方が非常に多い。 近 310
の神を恐れたり、 又は、仏
として分類せられた傾向が
とほ 出来ないと思ふので 申 溝 - 帝卍 七 綴 1 セへ つ す 的 法 ゐ 心 と 象 か く る 赴 代 ち さ て か な か ま 理 い 的 ら さ 。 仏 に を 敬ふ 0 このやうに、 反対になっを部分があ には 註釈 ガ あって 、い 註が 入ってゐる。もと いで せぅ けれども、 抽 ま す 。神道を軽んす 、 ですの語の持つ論理、 絶対のものを意味して ひ 尊ばれたと共に 、仏 , 。天皇が神々の異端 いたまし 行 ほれて 屈 ま 来ないと 言 ふことにな ゐ たんで せぅ 。 達は なかった。それを す 。更にも︵ ノム ﹂ %% ム一いか ト
り
、
紳肚
神道をして正当
眼 をふさいでも、あいても触れて来る神道 は、 神社神道ですが 1@ 唯 ふ 欲望を持つて ぬ るので、望 がある。なにもかも ひつ かもその神道の中へひき く 神道ばかりだといふ風に考 ちだけで見ても、あんなに
ますが、どうしても関係を なものほ、神社祠 道 がさ ぅ りました。どんなに世の中 そのものを内容としなくて てしま ふ 0 宗教として独立 徳 意識です。と言って 、不
壇場に立つてゐる今、改め す 。 め 3
これから出て来るのでありませ う 0 脚 祀 、 宗 砥 、民俗 さぅ した綜合の上
ほ 、自由な状態で居るのだ た思ひま す 。
う に見えるけれども、それ
ら 自由になれば、もつと
信
で 引っ込めて考へると、
神
道の形が
、かぅ言ふ
風になって来るのです。
、つまり古代に若いてほ
内容を与へれば、紳の心で
らもなくなって
、 単なる
伝
で失ってしまったが、何も
ムロして神道の範囲だといふ
の 対象である民俗そのもの
領域に這入って行くものがあります。
ノ
Ⅰ な
要素を傭へてゐる
領域に若いて、範囲をひろ
になったのです。近代の人
た 同時に、神道に非常に重
道
九
紳
3%ナ 。
、ふ 若く る あのお話をしようと思ひましたが、 うまくまとまらなかつ 元 やう に思ひます。 O
して 取 挙げるのである。
間 にほ、多少の相異があ 巧
宗教観
凍とは何か
一一 一つの作業仮設的な規定を試みようとするのが 、本稿の目的である。り 、その研究の丸家となるものな、結局の処 、 世間で常識的に宗教とよ
ている特定の現像群がる
ものを指してい う のか。
旧
宗教現象を規定する意味
二 一宗教現象を規定する意味 従来の定義について 三 宗教現象の構造と二重の操作 四 宗教行動と 佃限 意識 五宗教行動の位置 六 第二股の操作け拝
英
大
木
出 石
教
現
象
こ
/丈
| +何
・ ヵづ二
の 関わりを持つものと考え
。併し、宗教学としてほ
、
て 関与しょうとしない
0 そ
行 う
ことを、その目的とするのである。
即 ち
、 世間で宗教と考えているも
るのである。
よ うとほしない。それ
故
0 そこで、究極的にほ
、世
と 云うことになるのである。
るにせよ、詳細に見てゆく
違 により、宗教と考えてい
が 出来る。
34 市. 347 な る が 宗 な 何 案 こ あ で 教 も 手 意 。 ら 教 が が 教 ・宗 と る あ 現 の 椀 斯 味 本 、 現 ら 宗 君 数 に 。 る 象 は ぎ 様
教 け も 定 基 現 れ の が 本
る
教 業 前 の 学 め 示 試 を " と に つこ 数 正 宗 ま 宗 作 廣 る 豪 な の り る 出 で 識 の 象 設 近 も 通 そ の と 似 . の な も 規 ょ 値 で 特 そ す 以 も 。 天 そ
る で の 宗 ぅ の で、
京詞
, 、
み,
数機
現 とと け Ⅹ 一 ほ ろ 何 %
従
来
仮 の諾足
な義
つ " 亡 ;"
現象
て
に つ の 規 定 を 与 え る と で にワ る 然 一 り 一 - 一 と ナ れ f 丈 今 日 ま で の不合理を胃すことになる。
営みであるが、 そあ 超絶者 実在に基いて宗教現象の規 に 来いて、実証的な研究を 一四 のか Ⅰ 義 として き げられて来た 既に膠しい数にのぼって い も 、四十八種あった。それ以後の四十年間に 、 更に、数多くを加えたに 相 、斬 らしい一つの概念規定 起るの ほ、 けだし当然である。 場が 、従来の定義設定の 批判して、立場の相異を明 が 出来る。 、 然る後、具体的な宗教 り 、実証的 且 帰納的な立場 ぬ程 上の暫定的な仮設であ とが出来ない。 定義しょうとするものが 348
七 % 汝 学
現 う
か 象 、 卍 憶 象
象、
と に-
""" ハ Ⅱ 。人 間 の 営 み 弔 あ る 人 文 : 正二 タ已 象, クフ 山 , で
一か
五教
2丁・、
曲勺 な 特 廣 を 備 た ま児 349ぎ を目的として、紳の存在を必要条件としない。
る
む "
てほ 、適当でほないことになる。
畏敬の情、神聖感、 等 、専ら情緒的 特慣に於
を
る
" 舟 咲
な 採用することほ出来ないのである。
で、こしで は 、常識的に示教現象と 児徴 されて セ卜
たいと考えるのである。 らすると,適当とし得る るものを基盤としながら ﹂ え 云う定義の如きもの 併し、宗教現象として 一 それである。解脱や悟得 フレアミニズム的な宗教 宗教がある以上、紳の観 いて、宗教現象を規定し 突いているとも見られよ ことになる。寺院 教ムム の には 、宗教現象と考え も いの即ち、その盤でほ 、
文
現象の一部を構成する。
ぱ
ならない。
文
現象
は、
大きく、これ
コの
︵︶ ヰ 仁井
pO
目リ
︶七
% の 二
0 日の口
曲 ︶
こや文化︵
nFp
︵年
S
︶
ほ、
機構的現象である。
を取
養いて、その
興
りに
、書物、言語、風俗、習慣、等
は
、
い
づれも、
機構的現象である。
とに分けて考えることが
示教的態度、信仰、境地、
築
、儀礼の形成、宗教的伝
承
、
等は
、機構的宗教現象となる。
、それを分析的に観察し
ていて、直接にほ観察する
ほ
、当事者、
或は
、第三者
ぢムぅ
様な
、
広い意味に
於
ける行動︵すしぎ
丘
0 ︵︶が、それである。
3 冊
現象である。人間の環境
順
行動と云
うのほ
、身体的行
をも、併せて含むものであ
に
促されて、緊張解消の方
の
一連の生活活動の過程が
達成を目指すものと云
うこ
精度
を
備えているか。それ
うべき、態度や知識とに
、現実の行動的なもの
却ち
度
とに、分けて見ることが出来る。
とり挙げるか。これほ
、
従って、その上に立てられる宗教生﹂の
体係も、
根本的に変って来る。
ヂュ
ほ
、個人的宗教現象から、
さきに
は
いつて行き良いと考えるの
、
常に、其体的な現象の
る
現象である行動を取り
拳
一七
景致現象とは何か
351活動の営みのすべてを 指
第一段の操作 は 、宗教行動の規定 同じく人間の行動でありながら、 とされるか。それ等の行動が 、 何か 明らかにするためにほ、一般に宗教 い 0 その様にして、宗教行動の暫定 この手続きの際に 、 我々 は、 他の 動 だけの説明に供してほならない。 の 新しい概念を借用するだけの事に そこで、先す 、 極めて普通な 、一 である。
動 がある
ぅ 。その
特憤 を取
目的であ
勝手に導
では、一
ない。 に 関聯 しム 。何故、それ等 は 、宗教 共通な 特廣 とぼ何か。そ り出して見なければな る。 入して、それを用いて 宗 つの概念を説明する為に に意識経験に着目してみ﹂ 行動 れを らな - 敢行 ィ也 よ う。
四
宗教行動と無限意識
一八 352たいり
内面に 蔵 されたもの、 却
的 現象と機構的現象の すベ
には 、この現象・群に属する るのである。 ることが出来るかと考え る 。
九 ミ V Ⅰ さ
宗教現象とは何か
を 持った任意の事柄とする 0 ゆるものが、比較の内容となって来る 、ガ の方が 、 Ⅰよりも優性にあると 云 あってもよい 0 より大きい、より強い ガと 比較して見る様な事態が生じた ぅ 関係が成立する様な経験がなされたとする。 k VQi 比較して見ると、 矢 張り、その場合の あると云 う 関係が成立した。 k VQ.w 経験を繰近して見ても、常に 、ズは、 証された。 kV ゑ kVS 経験としても、 ガは色 よりも優位に それ等よりも、優位にあることが 実 ぅ 関係を示 す ものと見る。両者の間 処、ガは、色 よりも優位にあると 云 3 品二 O
に、 人々 ほ、ガを 何と把握
較が、 % 回 試みられた限り
政経験へと、回を重ねるに
理学が主張する様に 、 人の
位 にある ガ ﹂﹁この次も恐
、 個々の経験 は、ガの 全面
優位的な性格を帯びて来る
となる。
繰 返えすことにある 0 し
助ける大きな力となる。 ガ
の 様なものが、当事者によ
しながら、比較を趨 え た 超
として確立した場合に 、
限 意識と云う一つの意識 形
含んでいると云うことが、
共通な 特廣 となり得る様に思われるのである。
て 下さいと、母親が近所の流行神 に 願 う 。その 様な母親の行動を検討し 3%
での経験に徴して見ても、 に 勝れていることは確実と 中にほ 、 紳の能力の病気に ぼ 、世間が宗教行動と見 倣 である。 いる。これも、一般の常 た 空間の広がりに打たれて ない。 た 心の底に、一脈の体験 、その純粋さに 掩 いて、その 鮮 かさに 砕 いて、 その迫力に 拾 いて、日常の 意識が宿っていると考え も れる。 慨 している行動にほ 、無 て 、成立っかと思われる。そこで、暫く、この 無限意識と云う意識経験の 走 する目安としたいと考えるのである。即ち 、 含むものである。﹂ つて、第一段の操作、 / 十 - る 。 一一一
宗教現象とは何か
355歌行動を規定し
、従来の定義につ
ほ ついて、二三の
う 。
れない事実であ
感 とぼ、如何なる関係にあるかと云うことほ 、 当然考えて見なけ ない問題となって来る。
行動の営みにつ
講経験 は 多様で、偶然的なものも多い。併し 、 その中にほ、宗教
置いて見ると、 畏
める。 と 云 う ことほ、宗教行動が 尭 すあって 、 その結果として、
すれば、宗教現象
の方が、より基本的なものと云うことになる。 その基本的な行動
かれる意味も出
宗教行動と見 傲す
五宗教行動の位置
べ て c@ の 或 敬 行 れ れ る き く 上 構 は の 動 て レ Ⅰユ エ 。 も る の に 進 " 情 に " な そ 、 と そ や 特 様 ら こ 観 い た 察 で 場 を 述 合 試 べ に験 に至る一聯の自力的な 宗
紡が遠いものが 珍 らしくな
らば、それらの情緒を件 ぅ
定 とすることが出来ることになるのである。
様に規定した場合に 、宗
中 ノ ド ・ Ⅱ一般的宗教行動。
意識を含む場ムロ。 ゑ 特殊的宗教行動。
豫恕 している場合。
ぬ である。当事者の心持
浩行動 は 、それに何等かの
決定にあたって 、 広い意味
間の生活活動に 拾 いて環境
限 意識を含むことがあれ
家 になり得るわけであるの これが、第一の、一般的宗教行動である。
や行動がある。新禧、 儀
動 である。宗教自体を目的
能的 自律 性 ﹂︵片目 痒 po コ呂
宗教現象とは何か
- 一一一一 357示教現象と云われている甘のの規定を試みた
るが如く、宗教現象の場合も同様、宗教行動
現象がある以上、宗教学としてぼ、これ等に 現象の共通なる 特 廣を如何に規定するか。 こ 、宗教行動とほ 、 異なる。宗教行動の様に 、 ほ ほ、如何なるものがあるか。 ホ教行動以外のものがある。世間で、信仰 と たり、観察したり サ ることの出来ないもので -
て 来る所以を、充分に説明 サ ることが出来な 、その人の人格の中に出来上りている心の構
、もつと基本的な点 は 、過去の経験を通して
云 う ことである。それが行動を規定する力と 一眠 優 仕者の実在に対する確信 や 、宗教経験の
打出される行動にほ、その目的に 、伺ぢか の
程にも、無限意識を生するの ほ 、当然である
宗教行動である。 六
第二段の操作
。併し、行動のみが、人文 現 以外にも、世間で、宗教現象 ついても、 士 示教現象としての れが、第二段の操作となるり とんだり、ム一本数曲境地とよん 表面に現われて来ない。もつ ある。併し、そうしたものの いものである。それほ、その ぇ である 0 心理学でほ広い意 二四 、当事者の人格構造の中に 、 なる人云 う ことによって 、充 記憶等が残されて、宗教的態 % での無限意識への 豫想 を含 。かくて宗教自体を目的とし 358いる
0
常識的に信仰や境地と云っているの
ほ、
%
様な宗教的態度の問題で
である。
にして形成されるかと
云
、宗教的態度が形成される
の宗教行動を方向づけることになる
0
さればこ
そ
、場合が興っても、同一
行動の因となり、果となる
と表
ぅ
ことを指摘することが出来る。
的な宗教現象である。機構
、前記の様な諸現象
は、何
ある
描
ほ
ついて、問題を考えて
である。この聖典
は
、現在
く
無関係ではない。
即
ち
、
れたものである。そして、
ともなったであろうことほ
ぅ
意味で、密接な関係があ
宗教現象とほ何か
二五
359の 一
業
仮設である。
ぺ口
む る 現象とである。﹂
つ
に た 付 す ると、これを、次の如く表 3 動と 、宗教行動の原因、 或 ほ ことになる 0 先に述べた様に 、問題の基本的な出発点があ 、 ことが - 締果 、宗教 る 。 そ 出来ようⅠ として、これと密接な 学の研究対象となるの の基本的な枠の中で、 関係にあ ほ 、世間 宗教現象
るのである
ゥ
密接な関係を持つているのである。
通
の精度として指摘し得
ほ
、個人的宗教現象の中での、宗教的態度も
、
同様である。そこで、それ
なる。
機構的現象も、宗教
規
家
である
0 ﹂
3 ㏄
だが、 こム で は その前年と
説明しておく必要がある。
。血液や筋肉の動 きほ
もあるが、それは比倫 的
つた 外部的の動ぎとして 現 われない限り、それほ﹁行動しでほない。
﹁静的行動しであるⅠ
ほ ﹁行動﹂でほない や
われることもあるが﹁ 行
宗教的行動及び心意
二七一行動Ⅰと心意
、それにぼ必然にそれ宗教的行動及び
心
立后
長谷川如是閑
階段から落ちた類の動 きほ ﹁行動﹂ではない 色 しかし不在意や放心 歌 ﹁ 過 諜の行動﹂である。 分列式のようなも いつた場合の動きにお
い う 。 即 ち﹁集団的行 教 的行動﹂というのも かほ その場合場合で認知され b.O 。
あって、それを言い表す言語 は 頗る多い 0 ﹁ 勉 ぬ ﹂﹁修養﹂﹁訓練﹂
い う 角度から見てい う
の 目的である。 というのと同じもの いてたしかな科学的理解をもつことに成功して いないので、 酸 味な意
に 現われたものと 現わ ﹁無意識﹂と呼ばれて
ような心理作用から、 理的 性格をも含めた用語である。 その科学的知識 はま を遇伝 ・自然胸次 等の 原 だ の 「 理 確
「いれ味か
知るてのど
で, 蜜 " 動 け の 甘し ,玉 こ 」 る のコ 二八 3 ㏄ることも否定することもで ればなるまい。 ﹂を認めない 0 本論の立 るの ﹁何かをしようと思 っ と 思う﹂意識 は 偶発的に突 って起る原因がなければね あるというのが本論の立場 @ 。 ぎい 目口 pd ぃ o コ, ︶である。 のである。動物の場合 は、 とうになる。それほ心理的 ぺ ぎであろう。少くとも 生 いうべ き 、むしろ機械的の 二九
余教的行動及び心惹
363 ロ本能的行動﹂とか﹁衝動性 が遺伝されて、自然淘汰
れてい て、それが﹁敵意﹂
いものであると考えられて
ほ その哲学的理解をとらな
三
O
ほ 、この生理・心理的勾配で、それが﹁心意﹂
の 遠因とれうているのであ
意識にもち来たされないの
それによって起ると考えられているのである。
そうしてその意識に上って
思わせる﹂原因
は 何かの
食
者だとすると、前者
は 生理
た 後者
は、
全く心理的の動
の 本能ではなく、後天の経
理 ﹂的操作によって
獲 られ
識 に働いた結果であるかも
た ﹂のかも知れない。それ
のである。﹂という
甘日
, - イヒ
が
握
詮の滴用
さ れる事実かも知れない。
与えられるような発展
過
節 にほ、それに応じた行動
のだが、今の人たちぼ、花見に行こ
う と﹁思
っ た ﹂から行く、と考えてい
り ををど
つ たりする。春の
364の行動傾向に与えた 影捜の ぅ ﹂のほ、その﹁行動﹂の ほ 相手が欲しいと﹁思った﹂ ると、﹁観念﹂の 学 とな 一一一一
宗教的行動及
び 心意 ㏄ 5若しくほ 享 楽の形態をとる
を 始め全体の感覚に対する る 。しかも人間の場合 は、 ﹁意識﹂形態をつくり出 す
文
。 二宗教の形而上学と科学
工学的、哲学的、科学的 で、本論では 暫 らくそれらの定義のどれかを、 もしくほ全部を借用するに 念 との関係について説かれ 言 しようと思う。 の間に説かれている ょ 一一一一一とされてしまうのである。
れに転じたことに大きい 責 任 がある。
的形態であるというのが
のでほないように、有形無
﹁存在理由﹂とを見出し得
ぇば 、日本の天照大神の神
oHo で圧の ヨ, にまで遡る 何
ならない。少くともそのよ
称する﹁論理﹂の 御 遍路の
れば ならない。
拠 にあると説かれた。
験 的に局限をもつことの
るというように解されたの
宗教が存在するとほ一般に
、またあらゆる発達した 宗
つ たのは、文明の相当に発達した後のことで、 そのような高度の観念を
なる。歴史的に存在した 原
ために宗教を最も単純の形
、宗教の根本の性度を知る
不可快の条件でほないとさ 一一一一一一
宗教的行動及
び 心志 ㏄ 7 ﹁無限﹂の観念が 士 示教の根 の 観念哲学のいわゆる 在 ﹂である。 科学的心理学11 0 ﹁ 実 ﹁ 無 ﹁有る﹂である 0 これほ ギ を ﹁ 有 ﹂の っ ≦ちに、 一 ・ 有 ﹂ く 、局限の有無を超絶した押麦はまが
、わは必
、 一念 は自 を 用 究めあ たす 度 力に 珪 ・ ら を 被
、 のとあ
か " るだダこ播的
るめれがを対性
、 以の 仏が 、 彼らの祀のような
無紳教 というのに 肖 るもの もある。 三四 お 8
の 主体としての﹁全能者﹂とか﹁具足円満者﹂ とかい う のも、それを持つ
三五 ㏄ 9
宗教的行動及
び 心意しかし、それが宗教の心
は上
﹂の﹁実在﹂の観念に
を
逆に﹁実在,
一 かも派生し
の
観念
は
、知覚的表象に
、科学的宗教学の説明とし
人間心理に於て思考される
い
う
心理の成立過程を科学
ければならない。
やもすれば、当初から﹁経験以上しの﹁実在﹂
を
想定して、それた研究
科学者その人でさえ、その
者のそれを説明し得ない
科学的立証をサボ っ ているのである。
とに目をつけたからで、
、﹁ 範礒 ﹂とか﹁理性Ⅰ と
たつもりでいるの ほ、彼
は ﹁ 綺祀 しでつくられた
社会学の形而上学的哲学的
義 ほど
う あろうとも、
宗
の文化的に発達した形式で
他ならない。
構の動きに
伴 う、行動の
から怒る﹂のであるが、
言
三宗教的行動と心意の機能
前 あ れ 泣 こ存在だという方が 造 かに
解 ﹂・である自然科学 はそ
く ﹁経験以上﹂の﹁眞に
人文現象の﹁科学﹂には
ればならない。
的に認めているところ
統 をついでいる 0 ドイツ
点で、やほ り一 ドイツ 哲 学 ﹂である。 378
意味しを与える、 心 以前の
る 。
いう意味の儀式や行事を
象 としての行動である 0 始
式 が発達したのである。
教 的意識の発生について
くの動機に
よ る人間的行家 が原始人に与える刺戟に
よる反応と興らない性 廣の
が 社会的に成立したのほ 、
ける個人々々の行動傾向の
応の形が模倣によって伝播
且 1%九八の ,目ヰ 。Ⅰ B, 0
が 、意識的もしくほ 潜意
の 原始人の宗教的行動がそ
動 ﹂が起つたのでほなく、 事実ぼその逆である。
理も心理もさま
ム
Ⅱの形 三七宗教的行動及
び 心意 371る ﹁意味﹂をもつに至った に 過ぎない。 ﹁意味﹂をもつ1行動 が ﹁機能的﹂の行動であるに対して、後者 は、 たビ その﹁反対﹂を表わす といつたか、し目 毛 ぎの 術 もっ1行動だが、犬が主 三八 ところ ほ無 かつたに相違な 居しなかっただけだが l 敬して遠ざける﹂一定の行
るに至ったのである。 魂 ﹂の観念が生じる 理
成せしめられる関係にある 行動に止まることなく、 そ ﹂﹁ 願かぅ ﹂﹁命じる﹂﹁ 抑 稚は 、必然に内省的心理を 感情 は 、いわゆる﹁おのれ 、内省的に意識に上るか、 間 現象﹂に対する﹁人間的 372
ような 防 徳行動の﹁ 逆 ﹂ の いてほ﹁接触﹂が目的で、 ある。しかし、吠えるの ほ ないというのであるりそこ だわけである。 能 をもつ行動なので、 強 習俗的の
|
としても、 ほ ならない。日本人の﹁お ガ, 0 行動である。︵ある そのようなものである。 Ⅰ甘の四の ,の 行動だといつ ものである。 一般に、宗教意識の成立 ほ 、 覗覚が ﹁象徴﹂的形相 であって、宗教意識のすべ 行事としての﹁ 行 ﹂ ぼ 宗教 にしても、結局 は 、生活の の 合一が完全に達成される宗教的行動及び心意
三九 373四 O
0 行動に出るのがその心意
の 終局の満足とされているのである。
ているのであるが、それ
生の不安﹂の心理を刺戟
す
を 与えるものを克服しよう
何 にもとづく感覚、感情を
に 対処しょうとする行動
傾
向 で、そこに宗教があり呪術があるのである。
をもつよりほ
、 ,レコ︵
ヰ
楽でいえば,田仲
の ﹁ 田
Ⅰの
,
︵相の手︶としての11行動的表情である。
が
﹁行動一にあって﹁
心
を 定め、
祓覚と醸覚
とを
刺
理 形態をつくり出
す ためで
その心理がまた、行動を
到達
点は
行動である。
細 4舘 5 ほ 品 数 の 教 仰 と " て の 衆 生 行 を 見 宗 経 、 集 散 活 動 宗 6 % む い
と
到 が 動 。 を ぁ 宗 す か 拍 動 ほ れ て 友 行 を び 動 「 宗 心 で 信 教 意 ぁ 仲 酌 た る 」 心 含 。 と 意 て の ぶ 場
がそ
" の 、 行 論 車火 動 ほ の 間 と " も の り 象 に 自 り ほ そ つ で る 」 集 " の 心 あ の と 宗 田 家 信 理 あ ン 「 の も 致 る サ 観 埋 め T. 以 じ l 食 想 か な 上
ののでらいに
い自あ
遠。
迦 ぅ 由 つ い ま べ 如 」 て 生 の た く に " き 否 こ 「 ょ 「 力 走 と 苦 る 生 を の ぼ 学 自 存 遊 観 " 」 己 の け 余 宗 的 否 否 て に 敵も
儀「
に 古句古句 て (
いえども、行動的協同
関
計会から脱して
祀
金的﹁
異
してそれを 祀会の ﹁水底﹂ ﹁光輪的実在﹂論に近い、 る 。 ではなく、また コ 関係﹂というよ う 念 ﹂としての存在でほない。要する にのみ生存し得る動物のそれと同じ して成立する 打能 性のある組織であ 意識﹂と称しているが、しかし 祀会 では 科学的の洋者でさえ往々現実か るように思われる、 円 ・の 宙 & 円コ 幅のの の 考え方 は ・彼自身後に多少修正 られた﹁意識の形態﹂をもって 祀会 初学者のつく つた ﹁意識しなどで 祀る 論理の手品でっくりあげられた﹁ 観
を 過程としての集合生活 は 、﹁ 祀 金的﹂
動物の場合と同じく、﹁心意﹂を 伴 わす
心意﹂を 件 なっていて、それを﹁社会
人 がもっているわけでほない。その点
すべての社会学者が便宜上採用してい
ぅ 概念も、それを 社 会の 水廣 とする 彼
ない心理を想定して、彼の主観につく
め 、人間でさえ﹁同類﹂などという 動
ほ ﹁同類﹂の意識を件 ぅ 場合があると 四二 76 る 。
会 ﹂というのほ、人間的
しくほ心意即ち意識の形態
。これと対立 す る﹁異類﹂の
、事実に反する 点は ないり
から 門 同類﹂だと言 うと、
いるので﹁同類﹂というに
遺論 で何の説明にもならな Ⅹ O
のほ ﹁現象﹂であり﹁ 仮 ﹂であり、それだけが﹁ 実
ほ 理解で、他の立場からほ
儀の ドイツ哲学それ自体を
、宗教意識と同じ性 廣の , pom ヨ p, と 見る。
なければならない。﹁︵ 示
、 前にいつた よう に、人間
ほ 、﹁観念的﹂であっても 、その ょう な意識が、人間 であろうとも、それに依っ
心意﹂というのである。
読経や説教の類 || 四三 37
宗教的行動及び心意
行動の心理的の 力は 、宗教 を 、﹁宗教的心意﹂という 動 と結びっいた心理だが、 心意﹂ ほ 、﹁宗教意識﹂が などというものでもなければ、そんな﹁観念﹂ とさえも没交渉の 、た Ⅰ の 実行力を与へる11心理作用の心 意 である故にヨ示教的心意﹂なのである。 ほ ﹁ 潜 意識﹂と共に心理 過程である。そうしてそれ 実 としての人間心理である。 ﹁社会 的 ﹂に存在すると ﹁社会意識﹂というようないい 方はす るが、 そ れほ個人の意識な離れて 別 ぅ 意味である。 祀会は 心理 ようもない。︵このことほ イ ソ 学に育てられた日本でぼ、今さららしく、 そんなわかり切ったことを
駈
織の心﹂というのほ 、 組成員個人々々の約束 と 四四禧 、礼拝11日本人が日の
動の底力 よりも、 のカトリ 感覚的に となる心理 ﹁宗教的心意﹂ ック 教徒がプロ 獲もれた心理に
宗教的行動
者
イ一 一 一 一 口
自勺 四五 及 び 心意
とほ 別物である。教理
|
﹁宗教的心意﹂
|
生活 行の
宗教意識としてほ重要の地位を占めている
が
、原始形態でぼなくて
楽である。
れるのも、同じ目的をもっ
刺戟となるものほ、意識 内
ある。寺院の建築の造型的
覚 l | そこの焼香、澄明、
刺戟の特徴がそれである。 形 や色 は それ
入
Ⅱ 一 定の心理的効果をもつものが 最も確かに応用されてい
、一種の芸術創作にも比す
って
ほヨ
示教的﹂とほいわれないで、 い わかる ﹁芝居﹂に堕する。それほ﹁道徳的心意﹂であるの
の
両面から観察し判断す
てその機能が達成される 近ヘ 。 わ動 そのものの 潜 意識的 の 心理の強化、という効果 一定の生活集団の行動関係 ことができる。 、即 ち個人の協同的行動 識 ﹂もしくほ﹁ 潜 意識﹂で 四六