〔論 考〕
下田「欠乏品交易」とその貨幣問題
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ペリーとハリスのはざまで
─
山
本
有
造
は
じ
め
に
安 政 二 年 四 月 二 一 日 ( 一 八 五 五 年 六 月 五 日 ) 、 ア メ リ カ の 商 船 カ ロ ラ イ ン・ E・ フ ー ト 号 Caroline E. Foote が 下 田 を 出 港 し て 箱 館 へ 向 か う に あ た っ て、 ヘ ン リ ー・ ド ー ティー Henry H. Doty はサンフランシスコのデイリー・ヘ ラルド紙編集者にあてて下田港の弱点を論ずる手紙を書い た。地理・気候に関する問題点を述べた後、彼はこの手紙 を次のように結ん だ )( ( 。 「 こ の 地 の 日 本 政 府 に は、 彼 ら の 準 備 し う る 船 用 必 需 品 に支払われる 法外な 0 0 0 値段にもかかわらず、外国人との交易 ないし交流を促進するつもりは全くない。粉、米、豆類、 甘藷、ねぎ類、燻製の鮭、鮮魚、鶏、卵、等は大量に生産 されるが、現在のところこれらを手に入れることは困難で、 この港に入る船舶を誘引することにはなっていない。これ らの困難は、われわれが日本との通商条約を持つまでは回 避できないであろう。その時にはじめて、すでにわれわれ に最大の敬意と友情を表明している人々と、直接に交際す ることになるであろう。 」 ペリーとハリスのはざま、安政二年正月末に下田に渡来 したフート号の物語は、すでに別に書い た )( ( 。ウォース船長 Captain Worth 所 有 の 一 四 五 ト ン の ス ク ー ナ ー 船、 フ ー ト号 を ホ ノ ル ル で チ ャ ー タ ー し た 六 人 の 紳 士 と そ の 家 族 ( 夫 人三人と子供二人) は、 ペリーが締結した 「日米和親条約」 におけるアメリカ市民の居留権を拡大解釈し、箱館におい て捕鯨船相手の船用品店を開き、かつ日本物産のアメリカ 輸出をもくろんでやってきたパイオニア商人であった。た またま、ロシアが派遣したプチャーチン使節団の大津波被 災に遭遇したために、それに乗じて下田に三ヶ月滞在する 機会を得たが、結局は幕府の忌避にあって箱館滞在は認め られず、空しく帰国を余儀なくされた。彼らは帰国後、新 聞や政府に訴えて日本側の非を大いに鳴らしたが、その苦 情のなかには、アメリカ市民の居留権の「侵害」とならん で、日米貨幣交換率や物価の「不当」も含まれていた。 小論では、下田にやって来た「異人たち」の体験を通じ て、ペリー使節団が定めた日米貨幣交換率が内包した諸問 題と初代総領事ハリスによるその処理について考え る )( ( 。
一
ペリー来航と「一ドル=一分替え」の
発生
嘉 永 七 年 ( 安 政 元 年 ) 三 月 三 日 ( 一 八 五 四 年 三 月 三 一 日 ) 神奈川において調印された「日米和親条約」は、その名の 通り日米両国の「永世不朽の和親」を取り結ぶことを目的 とする条約であり、いわゆる「通商開港」を目指すもので はなかった。しかしその第二条において「亜米利加船、薪 水食料石炭 欠乏の品 0 0 0 0 を、日本人にて 調 ととの へ候丈は給し候」と して「右代料は 金 きんぎん 銀 銭 ぜに を以て相弁ず可く候事」と定め、ま た 第 七 条 で は「 合 衆 国 の 船 右 両 港 〔 下 田・ 箱 館 〕 に 渡 来 の 時、金銀銭竝に品物を以て 入用の品 0 0 0 0 相 あい 調 ととの へ候を差免し候」 と定め た )( ( 。したがって、外国貨幣による物資購入を認める 以上は、 彼 ひ 我 が 貨幣の交換比率を定めなければならないこと は当然であった。この問題は、帰途につくペリー艦隊船用 品 の 供 給 と そ の 支 払 い、 な ら び に ( ペ リ ー 艦 隊 が 視 察 に あ た っ た 下 田 な ら び に 箱 館 に お け る ) 艦 隊 船 員 の 上 陸 と 個 人 的 な買物にあたって具体化した。 貨 幣 問 題 に 関 す る 談 判 は、 「 日 米 和 親 条 約 附 録 協 定 」 の 締 結 の た め に 下 田 に 入 っ た ペ リ ー 艦 隊 ( の 主 計 官 ) と 下 田 奉 行 所 ( の 支 配 組 頭 ) と の 間 で、 五 月 一 七 日 ( 六 月 一 二 日 ) から下田・了仙寺において行われた。 幕 府 側 は、 「 長 崎 表 唐 から 紅 こうもう 毛 引 合 之 銭 相 場 」 す な わ ち 長 崎 における中国・オランダ交易における相場を参考とし、ま たすでに神奈川で艦隊の物資代金として受領していた三五〇ドルの金銀貨を江戸で分析した結果を踏まえて、次のよ う に 主 張 し た。 「 其 国 [ 貴 国 か?] 銀 位 之 義、 日 本 ニ て は 銀 目 め 方 かた 拾匁ニ付、日本銀弐拾弐匁五分、一ドルラル日本銀 拾 六 匁 之 積 」。 こ れ に つ い て は ア メ リ カ 側 か ら い く つ か の 異議が唱えられたが、結局は「承知致し候」ということに なって、決着がつい た )( ( 。 日 本 側 の 主 張 を 理 解 す る に は、 ( 当 時 の ア メ リ カ 人 に と っ て も、 現 代 の 日 本 人 に と っ て も ) 若 干 の 註 記 を 必 要 と す る。 その後のドル談判における主張も加味して解釈を加えれば、 次 の よ う な 論 理 に な る ( で あ ろ う ) 。 す な わ ち、 ① 外 国 通 貨 は 日 本 に お い て は 地 金 ( 地 銀 ) と し て し か 認 め ら れ な い。 ② 日 本 に お い て 銀 地 金 は そ の 重 量 一 〇 匁 に つ き 秤 量 銀 貨 ( 通 用 銀 ) 二 二 匁 五 分 ふん と 評 価 し て い る。 ③ ア メ リ カ 銀 貨 は そ の 量 目 が 七 匁 一 分 二 厘 余 と な り、 し た が っ て ア メ リ カ 銀一枚を日本の通用銀に換算すれば一六匁二厘にあたるが、 端数は切り捨てて一六匁とす る )( ( 。さてここから、④当時の 金銀相場一両=六〇匁に照らしてこの一六匁を金位一 分 ぶ と み な し、 ま た 一 両 = 六 貫 文 ( 六、 〇 〇 〇 文 ) の 金 銭 相 場 を 適用してこの一六匁を銭一、六〇〇 文 もん とする。しかして、 当時の (少なくとも関東における) 主たる流通貨幣は、正貨 と し て は ( 金 貨 を 補 助 す る 計 数 貨 幣 と し て の ) 天 保 一 分 銀、 また日用の小銭としては天保銭ほかの銭貨が用いられてお り、結局、一ドル銀貨一枚は一分銀一個と、また銭一、六 〇〇文と等値され る )( ( 。 この論理をアメリカ側が正確に理解していたかどうか。 ペリーの公式報告書には、交渉を担当した主計官スペイデ ン W. Speiden ならびにエルドリッジ J. C. Eldridge による 五 月 二 〇 日 ( 六 月 一 五 日 ) 付 け の 報 告 が 載 っ て い る の で あ る が )( ( 、これがまた、われわれには理解がむずかしい。 彼 ら は い う。 「 日 本 に 於 て は ヨ ー ロ ッ パ 諸 国 に 於 け る と 同様に、重量価値の標準と通貨の秤量標準とは異る。人々 の語るところによれば重量一両の銀は、今日にては地金の 場合二百二十五キャンダリーン、即ち二両二マース五キャ ンダリーンと等しと見做され居るも、鋳貨となりたる時に は同じ重量のものが四両四マースの価値ありと考へらる。 日本政府は、地金の価値をもって吾が 弗 どる 貨 か を受取るべしと 決 定 し た る も の に し て、 〔 中 略 〕 彼 等 に と り て は そ れ 以 上 の 価 値 な き も の な る こ と を 確 か め た り。 〔 重 量 と し て の 〕 一 両と比較すれば一弗は七マース十一・五キャンダリーンに して、地金価値の比較においては一両六マース即ち一、六
〇〇キャッシュとなる。 」 そ も そ も 彼 ら は、 「 日 本 人 は 支 那 人 と 同 様 に 斤( catty )、 両( tael )、 マース( mace )、 キャンダリーン( candareen ) 及 キ ャ ッ シ ュ( cash ) の 十 進 秤 量 法 を 有 し、 夫 に よ っ て 一 般に物品をはかるなり」という、やや不可解な前提に立っ て計算をしたらしい。しかしともあれ、アメリカ側として は、①ドル銀貨は地金価値しか持たないこと、②銀重量一 両 の 地 金 価 値 は ( 通 貨 単 位 で い え ば ) 二 両 二 マ ー ス 五 キ ャ ン ダ リ ー ン で あ る こ と ( た ぶ ん 銀 一 〇 匁 = 通 用 銀 二 二 匁 五 分 ふん の 誤 解 で あ ろ う ) 。 ③ 銀 弗 一 ド ル は 重 量 七 マ ー ス 一 一・ 五 キャンダリーンであるから通貨価値としては一両六マース に あ た る ( た ぶ ん 通 用 銀 一 六 匁 の 誤 解 で あ ろ う ) 。 ④ さ て こ こ か ら、 ( た ぶ ん 通 用 銀 一 匁 = 銭 一 〇 〇 文 と い う 誤 解 に も と づ い て ) 銀 貨 一 ド ル は 一、 六 〇 〇 キ ャ ッ シ ュ、 す な わ ち 一、 六〇〇文にあたるという。 すでにこのドル談判のときから、アメリカ側は、①一分 銀の三倍の量目をもつドル貨が一分銀と等価に扱われるこ と、 ② ド ル 貨 を 改 鋳 す る こ と に よ り 幕 府 は ( 些 少 の 改 鋳 費 は 別 に し て ) そ の 六 六 パ ー セ ン ト 三 分 の 二 を 利 得 す る こ と、 ③このためドルの貨幣価値が切り下げられ、日本物価が切 り 上 げ ら れ て い る こ と、 と い っ た「 不 正 」 あ る い は「 不 当」に気がついていたであろう。しかし「和親条約」締結 という主要目的を果たした彼らには、これを荒立てるつも りはなかったようである。ドル談判より先、条約調印直後 に第一回視察のため下田を訪れた時には、どのような根拠 によったのか、一ドル=一、二〇〇文という「ドル安・円 高」の交換率で支払いを済ませ、ドル談判以降は一ドル= 一、六〇〇文ですべての支払いを済ませて、退去していっ た。
二
欠乏品交易と「欠乏会所」
ペリー艦隊がようやく退去して安堵したのもつかの間、 そ の 冬 嘉 永 七 年 ( 安 政 元 年 ) 一 〇 月 一 八 日 ( 一 八 五 四 年 一 二 月 七 日 ) に は、 ロ シ ア 使 節 プ チ ャ ー チ ン が 五 〇 〇 名 に お よ ぶ 乗 員 を 擁 し た デ ィ ア ナ 号 Diana で 下 田 に 入 り、 折 か ら の大地震に妨げられて半年にわたって滞在し、下田と 戸 へ 田 だ を 大 い に 騒 が せ た。 翌 安 政 二 年 に な る と、 「 日 米 和 親 条 約 」 批 准 書 の 交 換 の た め に ア ダ ム ズ 中 佐 Commander Adams の 一 行 が、 さ ら に ロ ジ ャ ー ズ 大 尉 Lieut. Rodgers を司令官とするアメリカ海軍の北太平洋測量遠征隊の艦隊が入港し、また時にはフランス軍艦なども一時寄港して下 田を賑わせることになった。さらには、捕鯨船や商船など 民間船も頻繁に姿を見せるようになったが、そのなかで異 彩を放ったのは、日本において船用品店を開き、日米交易 のパイオニアたらんとカリフォルニアから意気込んで乗り 込み、そしてロシア兵の帰還問題に絡んで乗客一〇名が下 田に三ヶ月滞在したカロライン・フート号の一行であった。 これらに対して幕府は、下田奉行所を再置するとともに 下 田 取 締 掛 を 新 設 し て こ れ を 補 佐 せ し め、 ま た「 欠 乏 会 所」を設けて欠乏品交易に対処した。 まず「日米和親条約」第二条にいう「船中欠乏品」を具 体的にいえば、条約にも明記される薪・水・食料・石炭で あった。石炭の品質と値段については外国側も敏感で、す でにペリー交渉のときから議論があり、のちにはその安定 供給のために「お雇い」外国人を招いて北海道の石炭開発 を 試 み た り し て い る。 ま た 食 料 に つ い て は、 先 の ド ー ティー書簡に見られるように、米、粉、大小豆類、甘藷、 ねぎ類、酒、醤油、砂糖、鮮魚類、海老蟹類、鶏、卵、等 を供給した。言葉の食い違いからこれらの供給が円滑にい かずにトラブルとなったケースもあるが、一番の問題は肉 類 で あ っ た。 幕 府 側 は「 高 価 之 鳥 獣 並 に 牛 馬 は 不 相 渡 候 積」といい、また町民もその供給を拒んだが、実際にはや がて牛の屠殺も行われたという。 さて条約第二条によれば、この「和親条約」は緊急避難 的に入港するアメリカ船にたいして船中「欠乏の品」を供 給することを認めたものにすぎなかった。しかしその第七 条では、やや広く「入用の品」を金銀銭 あるいは 0 0 0 0 アメリカ 側 持 参 の 品 物 に よ る 交 換 を 認 め る 条 文 が 含 ま れ て い て、 「 取 引 商 品 」 の 範 囲 が か な り 曖 昧 に さ れ て い た。 実 の と こ ろ、下田取締掛からの幕府への伺書による「相渡候品」す なわち交易許可品のリストをみると、とても欠乏品とは思 われない物産、たとえば絹布・縮緬・緞子類、糸細工・袋 物類、塗物類、瀬戸物・硝子類、傘・蓑笠類、木石細工・ 紙細工・提灯類、筆墨・硯箱・扇・団扇類、竹麦藁細工、 海草貝類細工物、などが並べられている。幕府としても、 長崎貿易に倣って多少の「官営貿易」を行うつもりがあっ たと見てよいであろう。 ペリー時代の欠乏品交易は、了仙寺などでささやかに行 わ れ た 模 様 で あ る が、 安 政 元 年 一 一 月 四 日 ( 一 八 五 四 年 一 二 月 二 三 日 ) の 大 津 波 で 下 田 の 町 が 壊 滅 的 被 害 を 受 け、 ま
たロシア将兵が多数滞在するようになって混乱を起こした た め に、 御 用 所 に 付 随 し た「 欠 乏 会 所 」、 す な わ ち 外 国 人 専 用 の 専 売 所 ( バ ザ ー ル ) を 設 け る こ と に な り、 同 年 末 に は下田二丁目脇に仮建築が出来、翌安政二年五月には同心 町に新築された御用所の構内に移され た )( ( 。 さて「欠乏会所」の運営がどのように行われたか。安政 二 年 三 月 ( 一 八 五 五 年 五 月 ) に 下 田 に 入 っ た 北 太 平 洋 測 量 遠征隊の士官として、新築された「会所」を実地に体験し た ハ バ シ ャ ム 大 尉 Lieut. Habersham の 記 録 か ら こ れ を 見 てみよう。全文一五頁にわたる詳細な描写を全訳するわけ にはいかないから、部分的な摘記を連ねることを許された い )(1 ( 。 「 建 物 は 一 エ ー カ ー 四 分 の 三 ほ ど の 地 所 を 占 め、 完 全 に 四角であって、高さは大体一五フィート、一階建てで、大 きな四角い中庭を囲んでいる。中庭は多分建物よりも大き いであろう。屋根はわら葺で中庭に傾斜している。入口は ひとつしかない。 」 「 こ の 建 物 の 四 つ の 納 屋 風 の 棟 の う ち、 二 つ は 売 店 の 区 画に仕切られている。そのひとつは、各商人が商品見本を 見栄えよく展示できるように棚が備えられている。売店の すぐ前の区画は商品を詰めた箱で一杯である。棚にあるの はサンプルである。彼らはわれわれが大量に買い込むこと を期待している。多分、われわれが他ならぬ投機的な旅行 に来たものと考えているのであろう。残りの二棟のうちひ とつは空いていた。もうひとつは大一、小二の部屋に分か たれていた。前者の大きいほうは、クッション風のマット で小奇麗に飾られ、ラウンジとしてわれわれに与えられた。 後者のふたつは政府の役人に割り当てられ、彼らは事務室 および監視室として使った。いうまでもないことながら、 監視室は門に続いていて、彼らは総てを見張った。 」 「 わ れ わ れ が あ ち ら の 売 店 こ ち ら の 売 店 と ブ ラ ブ ラ 通 り 過ぎると、外見からするとどれも同じようなものに思われ た。ところが、あれとこれでは材料が違うのであった。そ の違いは、漆器かと思うと陶器でできているといった具合 であった。しかもその陶器たるや! もっとも繊細なフラ ンス磁器よりもはるかに上質で、われわれの貨幣が減価し ていたにもかかわらず、ずっと安かった。 」 「 各 売 店 の 棚 や 床 に 詰 め 込 ま れ た 名 も な き 職 人 技 の 珍 し い見本の、多様で美しい展示をよく見るためには何時間も
かかった。われわれをもっとも驚かせたのは、それぞれの 品物の値段がドルとセントで付けられていることであった。 それはまるでわが国の店頭のウィンドウやドアに見本とし て出してある品物に値札がピンで留めてあるのを見るよう であった。 」 「 オ ー! こ の 日 本 人 の 商 人 と い う 奴 ら は、 こ い つ ら は 小狡くて不正直な奴らだ。われわれの前に物をみせびらか し、幾許かの金を調達するために船に戻ってパーサーの許 へ行かせ、ついには借金に深く嵌り込ませる! われわれ が一番感心した物を驚くべき正確さで判断し、翌日になる とまさにそれらの値段が上がっている。時としては一〇〇 パーセントも。彼らは夜のうちに値札をはがし、高い値札 を つ け、 そ し て い つ も の 白 々 し い 顔 で「 昨 日 と 少 し も 変 わっていません」と言い張るであろう。これは全くもって 腹立たしい。しかしわれわれに何ができる。われわれは条 約と商人によって金を騙し取られるか、あるいはここに来 られない友人のために日本の珍しい美しい工芸品のプレゼ ントを買わないで日本を去るか、どちらかで満足せざるを えない。 」 「 こ の よ う に し て 種 々 の 品 物 を 選 ん で い る と、 わ れ わ れ の買物の程度を見計らって、一人、二人、三人のボーイが ついて来る。ある品物を買うと、われわれはその名前と値 段を書き込んで、他の品物のほうへ通り過ぎてゆく。目ざ とい従者はその品物を取上げるとわれわれについてくる。 ひとりの商人に飽きると、中庭を横切って担当の役人の居 間へと入っていく。そこではいつも、熾った炭をいれた金 属の火鉢を囲んで、彼らがトルコ風に座っており、ときど き火鉢で小さいキセルに火をつけたり、砂糖なしの茶を温 めたりしているのを見た。彼らもまた、われわれについて きたボーイが持ってきた品目によってリストを作り、費用 を計算し、自分たちの金額をわれわれの金額および商人の それと比べ、それからその額を銀貨で受取る。こうして商 品はわれわれの許に配達され、支払われた一ドルにつき一 分の割合で、政府が商人に負債があるという証明書が商人 に渡される。 」 「 夜 が 近 づ い て そ の 日 の 商 売 が 閉 じ ら れ る と、 受 取 っ た 全 て の ド ル が 役 人 と ス パ イ 〔 目 付 〕 の 立 会 い で 勘 定 さ れ、 注意深く箱詰めされ、直ちに江戸へ送られる。江戸ではそ れらのドルが一分銀専用の造幣所へ送られ、三倍と余りす こしに増量されて出てくる。受取ったドルの代わりに一分
銀が下田に送り返され、そして先の証明書が商人から回収 される。 」 「 か く し て、 も し 商 人 が 一 分 銀 一 〇 〇 枚 相 当 の 商 品 を 売ったと仮定すれば、彼はその金額を全額、適当な時期に 受取る。政府はその銀ドル一ドルごとに六七セントを越え る余部を清算で得る。なぜなら、商品には価格として一〇 〇ドルと表示してあるが、それは三倍は重い一ドルが一分 と等しいという理解のうえになされているからである。も しわれわれが銀の重量でその実際価値を換算できさえすれ ば、 同 じ 商 品 が 三 三 ド ル で 売 ら れ る こ と に な る か ら で あ る。 」 「 私 は、 日 本 人 が 金 よ り も 銀 を 好 む と い う こ と に か ね て から気がついていた。その理由はこうである。彼らの金貨 〔 小 判 〕 は 一 分 銀 四 個 の 価 値 が あ る が 〔 一 両 = 四 分 〕 、 重 さ は わ れ わ れ の 二 ド ル 半 金 貨( a quarter-eagle ) と 同 じ で あ る )(( ( 。 し た が っ て も し あ る 品 物 に $ (. (1 と 値 が つ け ら れ て いて、二ドル半金貨で支払われたとすれば、受取られた金 量 は た っ た 四 つ の 一 分 銀 と 同 じ 価 値 〔 す な わ ち 一 両 〕 で あ る。 と こ ろ が、 も し 銀 貨 で 支 払 わ れ る と す れ ば 〔 銀 ド ル 二 ド ル 半 は 重 さ で は 〕 一 分 銀 七 個 と 四 分 の 三 〔 す な わ ち 一・ 九 両 〕 に 等 し く、 つ ま り ほ と ん ど 二 倍 近 く に な る。 こ こ か ら、 日本では他国より金が安いことが見て取れる。もし適切な 政策が取られないならば、この価格差は外来者に大きく有 利な投機をもたらすであろう。しかし金を買い上げて国外 に持ち出す可能性はないのだから、この事実はその重要性 をほとんど失っている。 」 欠乏会所の一日が目に見えるような、実に見事な描写で はないか。また、背後のメカニズムに関する洞察が行き届 いていることにも感心する。幕府はドル貨を死蔵すること なく、直ちに銀座で一分銀に改鋳し、その六六・六%余を 利得していたのである。ハバシャムの最後の指摘、すなわ ち金銀比価の内外格差の問題についてはよく考えてみなけ ればならない。もうひとつ、下田の「欠乏品交易」におけ る物価の問題についても、すこし考えてみることにしよう。
三
欠乏品交易の価格と価額
欠乏会所の取引が一種の官営貿易であったことはすでに 見た。会所に出店できる商人は下田奉行所が指名した御用 商 人 で あ っ た 。 会 所 設 置 当 初 、 安 政 元 年 末 か ら 同 二 年 の 「 欠乏 所 世 話 役 」 と し て は 五 名、 「 欠 乏 品 売 込 人 」 と し て は 一 二名の名前が挙げられている。後者が会所における実際の 売込みに当たったものと思われるが、下田商人が一一人、 箱 根 商 人 が 一 名 リ ス ト ア ッ プ さ れ て い る )(( ( 。 彼 ら に は、 ( 多 分「 長 崎 貿 易 」 に 倣 っ て ) 売 上 高 の 三 割 に 上 る「 冥 加 金 」 が課せられ、その収入は入港外国船向けの経費のほか「道 橋堤 川 かわよけ 除 普請、掛リ役人御手当筋」の出費に充てられたと いう。 提 供 さ れ る 商 品 価 格 に は ( こ れ ま た「 長 崎 貿 易 」 と 同 じ く ) か な り の「 割 増 し 」 が 付 せ ら れ た。 概 し て い う と、 米、 大小豆、野菜類には一割五分、鶏卵、酒、薪には二割、鶏、 魚類、燈油には三割、石細工、材木類には五割、大材木に は七割の割増金が付せられ、さらに漆器、反物、細工物な ど、欠乏品を越えた奢侈品には「納め値段」の三倍の値段 が付けられたとい う )(( ( 。日本に慣れるにつれて、外国人もこ の「法外な値段」設定のカラクリに気が付いて、腹を立て たことであろう。 外国人が下田で購入した欠乏品の「物価表」については ペ リ ー 報 告 の 中 の 表 (『 ペ ル リ 提 督 日 本 遠 征 記 』[ 下 ] 七 九 七 頁 ) が 著 名 で、 よ く 引 用 さ れ る。 と こ ろ が こ れ は ( 第 一 節 の 最 後 に ふ れ た よ う に ) 、 一 ド ル = 一、 六 〇 〇 文 ( = 一 分 ) という協定が成立する以前の仮の交換率、一ドル=一、二 〇〇文を基準に作られており、やや信頼性に欠ける。ここ では、下田に住み込んだドイツ人商人フランツ・リュード ルフ Fr. August Lühdorf によって作られた表 (を示そう。 彼 は、 ハ ン ブ ル グ 商 船 グ レ タ 号 Greta の ス ー パ ー カ ー ゴ (「 上 乗 り 」 = 積 荷 監 督 人 ) と し て 香 港 に 入 り、 そ こ で ア メ リカ海軍の北太平洋測量遠征隊の物資輸送に雇われて箱館 に 至 り、 さ ら に ( カ ロ ラ イ ン・ フ ー ト 号 と 同 じ く ) ロ シ ア 将 兵のシベリア送還を請負ってグレタ号を下田からカムチャ ツカに送り出し、 その間の約半年 (一八五五年七月四日(安 政 二 年 五 月 二 一 日 ) ~ 一 八 五 六 年 一 月 二 日( 安 政 二 年 一 一 月 二 五 日 ) ) を、 ( フ ー ト 号 の 乗 客 と 同 様 に ) 柿 崎 の 玉 泉 寺 に 滞 在 した。その冒険に満ちた物語は彼の日記『グレタ号日本通 商記』に詳しいが、その附録に「入港船舶のひとつの参考 として」示されたものがこの表であ る )(( ( 。 こ の 物 価 表 は、 リ ュ ー ド ル フ が 下 田 で 生 活 し た お よ そ 六ヶ月に掛かった諸経費のいくつかについて、その平均的 物価を示したもので、いわゆる欠乏品交易の価格とはやや 異なるかもしれない。しかし、日傭い労働者が一日一九セ
ント、炊事夫が一日三一セントで雇えた一方、鶏が一ダー スで五ドル二五セントというのは、いかにもアンバランス に見え る )(( ( 。当時、日本側が肉類やたんぱく質の提供に何ら かの操作を行って、入港外国人の生活を制限しようとした の か も し れ な い。 ハ バ シ ャ ム の 記 録 は い う。 「 わ れ わ れ が 日本にいる間、数個の卵、たまに硬い鶏肉、時として一、 二クォートの生の豆以上の物を獲得できたことはなかった。 米、 醤 油、 酒 だ け が 彼 ら が 豊 富 に 提 供 す る 三 品 目 で あ っ た」 (
Habersham, op. cit., p.
(1( ) 。 しかし捕鯨船や軍艦ではなく、商船にのって日本に乗り 込んできた商人たちは、このような状況の中でもなんとか 日本物産を仕入れて輸出し、その珍しさで初期利益を挙げ よ う と 試 み た。 カ ロ ラ イ ン・ フ ー ト 号 の 傭 船 を 主 導 し て 「 ジ ャ パ ン・ パ イ オ ニ ア 」 を 目 指 し た ウ ィ リ ア ム・ リ ー ド William C. Reed な ど が そ の 事 例 で あ る。 彼 ら は ど れ ほ ど の日本産品を買い込んだのであろうか。この購買価額の一 表 1 下田物価表(((((-((年)((ドル=(,(11文) 品名 単位 銭文 ドル換算 てんぷら油 (壜 (,111 1.(( ろうそく (箱((1-(1本) (,((1 1.(( 鶏 ((羽 (,(11 (.(( 鴨 (羽 (,(11 (.(1 兎 (羽 (11 1.(( 狸 (匹 (11 1.(( 猪肉 (ポンド ((1 1.(( 鹿肉 (ポンド (11 1.(( 魚 (ポンド ((1 1.1( 葱 (ポンド (( 1.1( 人参 (ポンド (1 1.1( 生姜 (ポンド (( 1.1( グリンピース (ポンド (1 1.1( 白菜 (ポンド (( 1.1( 甘藷 (11ポンド (,111 1.(( 胡瓜 ((ポンド ((1 1.(( 栗 (11ポンド ((1 1.(( 卵 (1個 (,111 1.(( 米 (ポンド ((1 1.1( 小麦粉(上) (11ポンド (,111 (.(( 小麦粉(中) (11ポンド (,111 (.(1 小麦粉(下) (11ポンド (,((1 (.1( 薪 (11ポンド ((( 1.(( 蝦 (ポンド (1 1.1( 鮑(大牡蠣の一種) (ポンド (( 1.1( 酢 (壜 (11 1.1( 塩 (ポンド (( 1.1( 唐辛子 (ポンド (11 1.(( 桃 (11個 ((1 1.(( 蜜柑 (11個 ((1 1.(1 梨 (11個 ((1 1.(( 葡萄 (ポンド ((1 1.1( 生石灰 (ポンド (( 1.1( ニカワ (ポンド ((1 1.(( 木炭 ((俵 (,(11 (.11 明礬 (ポンド ((( 1.(( 樟脳 (ポンド (11 1.(( 包丁 (本 (,((( 1.(( 米俵 (枚 ((1 1.1( 杉箱(註() (,(11 (.(( 木箱(註() (,111 (.(1 鉄釘(註() (11本 (11 1.(1 藁 (11ポンド (11 1.(( 綿 (ポンド (11 1.(( 日傭い(人(日 (11 1.(( 炊事夫(人(日 (11 1.(( 大型の船(荷積用) (隻 (11 1.(1 出所:『グレタ号 日本通商記』附録 ( 。 註 ( :長さ ( フィート、高さ ( フィート、幅 ( フィート。 ( :長さ ( フィート(1インチ、高さ ( フィート ( イン チ、幅 ( フィート ( インチ。 ( :長さ ( インチ。
例を見よう。 リ ー ド は そ の 同 僚 の ト ー マ ス・ ダ ハ テ ィ ー Thomas T. Dougherty と パ ー ト ナ ー シ ッ プ を 組 み、 箱 館 に お い て 捕 鯨船相手の船舶用品店を開き、かたわら日本物産の対外輸 出で儲けることを目論んで来日した。しかし思わざる事情 で下田に三ヶ月も滞在することになる一方、箱館での長期 滞在や商売が認められないことを知っていったん退却する こととし、とりあえずは帰り荷としてサンフランシスコ向 けの日本品買い付けに奔走して、下田欠乏品会所の最大顧 客のひとりとなった。 「 リ ー ド は 下 田 に や む な く 滞 在 し た 二 ヶ 月 半 の 間、 サ ン フランシスコで売れると感じた品物を選ぶことに時間を費 やした。全体で、彼は一二五ケースの商品を買い、約七、 四〇〇ドルを支払った。約束手形の外に、彼は金貨および 銀貨で支払った。銀貨にはメキシコ銀、スペイン銀、五フ ラン貨、アメリカ半ドル貨があった。リードの購入リスト は残っていないが、彼の獲得品には以下のようなものが含 まれていた。陶器、漆器、手袋やハンカチ用の引出し付の キャビネット、テーブル、玩具、絹、クレープ、壺、色ガ ラ ス、 道 具 箱、 彩 色 の 屏 風、 そ し て パ ン チ 用 の ボ ー ル 」 (
Van Zandt, op. cit., pp.
((( -((( ) 。 彼 が 振 出 し た「 約 束 手 形 」 お よ び 支 払 い に あ て た「 金 貨 」 に つ い て は、 の ち に ( 第 七 節 で ) 考 え な け れ ば な ら な い。ともあれ、下田において彼は少なくとも七、四〇〇ド ルの日本産品を仕入れたという。これを一ドル=一分で換 算しても、日本円にして一、八五〇両になる。これは日本 側にとっても 一寸した 0 0 0 0 商売であったにちがいな い )(( ( 。リード とダハティーは、サンフランシスコ帰着の直後に日本産品 の展示会とオークションを開いてこれらを販売し、およそ 二三、〇〇〇ドルの売上げを得たという。当初の計画の思 わぬ挫折にもかかわらず、彼らアメリカ商人のパイオニア は、この冒険航海でとりあえずは「まったくすばらしい仕 事 」 を し た (『 グ レ タ 号 日 本 通 商 記 』 二 三 四 頁 ) と い っ て 良 いであろ う )(( ( 。
四
日本における「銀高・金安」問題
さて、ハバシャムがいう「日本人は金よりも銀を好む」 という表現は、この時期の日本体験記にかなり頻繁に現れ る。ただ、これには思わぬ多面的な側面があって、かなり 慎重な検討を必要とする。まず、これを欠乏会所の 日本人商人の立場から 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 見ること にして、ペリー艦隊のドル談判における金貨価格の設定の 舞台に立ち戻ろう。 第 一 節 の 考 察 で は、 ( 当 時 の 東 ア ジ ア の 国 際 通 貨 と し て の 「 洋 銀 」 を 念 頭 に お い て ) 主 に 銀 貨 価 格 の 設 定 を 見 て き た )(( ( 。 金貨についてはどのような折衝があったのであろうか。ペ リー艦隊の報告書のいうところはこうであ る )(( ( 。 「 一 両 の 重 量 の 金 は 通 貨 十 九 両 に 評 価 さ れ、 一 マ ー ス は 一両九マースに評価さる。金弗は大体五キャンダリーンに 評 価 さ る る も、 日 本 人 は そ を 二 十 弗 貨 幣 の 二 十 分 の 一 〔 訳 文 の 誤 記 十 二 分 の 一 を 訂 正 〕 と 換 算 し、 二 十 弗 貨 幣 を ば 八 マース八キャンダリーンとなしたる故、一弗は四キャンダ リーン四キャッシュに過ぎず。この秤量によれば一金弗は、 十九両の価値ある地金一両と比較したる場合には八百三十 六 キ ャ ッ シ ュ の 価 値 あ り、 二 十 弗 貨 幣 は 一 六、 七 二 〇 キャッシュ即ち十六両七マース二キャンダリーンの価値あ る こ と と な る。 …… そ の 結 果 右 の 評 価 に よ れ ば 金 は 〔 銀 の 〕 五 十 パ ー セ ン ト と な り て、 吾 々 に と り て は 銀 に よ つ て 支払ふよりも一層悪し。 」 この説明も、銀貨価格の場合と同様、あいかわらず理解 に難しいが、 (銀貨の場合の注釈をも思い出して) 要約すれば、 こういうことになるであろう。①日本においては、銀貨と 同じく金貨についてもドル貨は地金価値しか持たないこと、 ②金の重量一両は通貨価値としては一九両に評価されるこ と、③二〇ドル金貨から換算した金一ドルの地金は四キャ ンダリーン四キャッシュになること、④この地金を通貨価 値に換算すると八三六キャッシュ、すなわち八三六文とな ること。したがって、⑤銀ドル一ドル=一、六〇〇文と比 べれば、金ドル一ドル=八三六文はさらにその半額価値し かないことにな る )(1 ( 。 銀に比べて金が半額に値切られるのはアメリカ側である。 しかし日本人商人にとっては、同じ一ドルの正札のついた 商品を売ったとしても、銀ドルで受取ると一、六〇〇文に なるのに、金ドルで受取ると八三六文にしかならないから、 金ドルより銀ドルで受取るほうがはるかに得になったであ ろう。 さて、この状況を 幕府側から 0 0 0 0 0 見ればどうなるか。いま一 〇 ド ル の 商 品 を 売 り 上 げ て こ れ を 一 〇 ド ル ( イ ー グ ル ) 金 貨 ( 量 目 一 六・ 七 グ ラ ム、 品 位 九 〇 〇・ 〇、 そ の 純 金 量 一 五・ 〇 グ ラ ム ) 一 枚 で 受 取 る と し よ う。 こ れ を 天 保 小 判 ( 量 目
一 一・ 二 五 グ ラ ム、 品 位 五 六 七・ 七、 純 金 量 六・ 四 グ ラ ム ) に 改 鋳 す る と す れ ば ( と り あ え ず 小 判 に 含 ま れ る 銀 量 は 無 視 す る と し て ) 二・ 三 両 余。 一 方、 こ れ を 銀 ド ル ( 量 目 二 七・ 〇 グ ラ ム、 品 位 八 九 八・ 〇、 純 銀 量 二 四・ 二 グ ラ ム ) で 受 取 る と す れ ば 一 〇 枚 に な る が、 そ れ を 天 保 一 分 銀 ( 量 目 八・ 六 グ ラ ム、 品 位 九 八 八・ 六、 純 銀 量 八・ 五 グ ラ ム ) に 改 鋳 す るとすれば、二八枚半、すなわち七両余となる。どちらも かなりの改鋳益がでるが、金よりも銀のほうが改鋳益はは るかに大きかった。幕府としてもまた、金ドルよりも銀ド ルの支払いを好む理由があったのである。 さ ら に、 ハ バ シ ャ ム の 指 摘 の 最 後 の 部 分、 「 金 銀 の 価 格 差」問題には、もうすこし掘り下げて考察しておく必要が ある。そこでもう一度「ペリー報告」に戻って、金の地金 重 量 一 両 が 通 貨 価 値 で は 一 九 両 に 当 た り、 ( 第 一 節 で 述 べ た ) 銀 の 地 金 重 量 一 両 は 通 貨 価 値 で は 四 両 四 マ ー ス に 当 た る、という事実から導かれる日本の金銀比価は何か。すな わち、一対四・ 三 )(( ( 。このときの中国を含む世界の金銀比価 がおよそ一対一五。 もしも 0 0 0 、外国から銀貨を持ち込んでこ れを 量目で 0 0 0 日本一分銀に替え、それで小判を買い、これを 外国に輸出して一対一五で銀貨に交換できるとすれば、一 体 ど れ ほ ど の 儲 け に な る か。 し か し 当 面 の 条 約 で は、 「 金 を買い上げて国外に持ち出す可能性はないのだから、この 事 実 は ほ と ん ど そ の 重 要 性 を 失 っ て い る 」。 こ の 時 日 本 人 に は、 ま だ こ の 事 実 の 重 要 性 は ほ と ん ど 認 識 さ れ て い な かった。しかしハバシャムはこれをはっきりと認識してい た。そして、やがて「日米修好通商条約」の締結と横浜開 港によって「その可能性が」現実のものとなった時に何が 起こったのか。それについては後に第六節で触れる。
五
フート号「輸入関税」問題とその処理
日本政府の「無知と頑迷」によってせっかくのパイオニ ア計画を妨害されたカロライン・フート号の商人、リード やダハティーやドーティーたちは、サンフランシスコに帰 りつくや地元新聞やワシントン政府に働きかけて、自分た ちに加えられた不当と侵害を大いに吹聴し、さらには損害 賠償を求めて司法にまで訴えた。その要点は、①「和親条 約 」 で 保 障 さ れ て い る ( と 彼 ら が 理 解 し た ) ア メ リ カ 市 民 の 居 留 権 侵 害 の 問 題、 な ら び に ② ペ リ ー が み と め た「 一 ドル=一分替え」 から派生する不当な (と彼らが理解した) 貨幣評価の問題、に整理できる。前 者 は、 条 約 第 五 条 の「 当 分 の 滞 在 」 す な わ ち tempo -rary living に 関 す る 解 釈 の 相 違 の ( し か し 結 果 と し て は パ イオニアたちの思い込みの) 問題であった。日本側がこの条 項を、あくまで緊急避難的船舶に対する例外的措置、すな わち数日の 逗留 0 0 と必需品の 交付 0 0 と見做したのに対して、パ イオニアたちは条約第七条と合わせて、下田および箱館の 一種の「開港」措置と見做し、家族連れでの 居留 0 0 と 貿易 0 0 を 主張したのである。彼らのキャンペーンも与って、これら の問題はアメリカ中の世論を喚起し、国務省をも動かし、 やがてハリスの来日につながることについては、次節に回 す。ここでは、後者の特殊事例として、カロライン・フー ト号のサンフランシスコ入港時に発生した輸入関税額の査 定問題を取上げよ う )(( ( 。 一八五五年九月一七日にサンフランシスコに入ったリー ドとダハティーは、積荷の陸揚げと入管手続きをG・P・ ポ ス ト 商 会 に 委 託 し、 チ ャ ー ル ス・ ブ ル ー ク ス Charles Brooks が 担 当 し て 関 係 書 類 を 税 関 に 提 出 し た。 こ の 書 類 では、日本での物産の買付けは日本の一分銀および銅銭で 行われ、その総額は七、五四六 分 ぶ であるが、一分銀は米貨 三六セントにあたると主張した。これに対して関税職員ミ ル ト ン・ レ イ サ ム Milton S. Latham は こ の 書 類 の 受 取 り を拒否し、支払われたドルの額で申請しなければ荷物の引 取りは出来ないと宣告した。そこでブルークスは改めて一 分銀一枚を三六セントではなく一ドルで換算した目録と書 類を作り直して提出した。この結果査定された輸入税は、 当初の八一五・一〇ドルではなく、二、二六三・八〇ドル になっ た )(( ( 。リードとダハティーがこの巨額の税金を取りあ えず支払ったのは、一日も早く荷物を陸揚げし、物珍しい 日本産品が新鮮なうちにオークションで売り捌きたかった からであろう。 リードとダハティーは、オークションが成功裡に終わっ たのち一〇月一一日に輸入日本商品の再査定を要求したが、 徴税官は連邦査定官と相談の上でこれを却下した。リード とダハティーは直ちに上訴したが、これも却下された。 リードはあきらめなかった。一八五六年九月二六日、連 邦巡回裁判所に対して徴税官レイサムに対する告訴が起さ れた。ウォース船長やブルークスもくり返し証言台に立ち、 実に九年をかけて審理が行われた。ついに一八六五年六月 二〇日、裁判長は本来の輸入税額を八一五・一〇ドルと査 定し、支払い済み額の二、二六三・八〇ドルとの差額一、
四四八・七〇ドル、ならびに一八五五年九月二〇日からの 利息一〇%、さらにこの間の諸費用七六・九〇ドルを加え て、総額二、九三八・一八ドルの支払いを命じた。この間 に「 日 米 修 好 通 商 条 約 」 が す で に 調 印 さ れ、 「 一 ド ル = 三 分 替 え 」 の 原 則 ( 後 述 ) を 過 去 に 遡 っ て 適 用 し た 判 決 と なったものであろう。 これは、リードとダハティーにとっては執念の、そして 日本に関わる訴訟におけるほとんど唯一の勝利となった。 日本側の妨害による損害賠償に関する訴訟は、もう少し 悲喜劇的であった。一八五六年にはじまり、ダハティーが もっぱら取り組んだこの訴訟は、一八七五年にダハティー が死んだ後もダハティー夫人やリードに引き継がれてくり 返し蒸し返され た )(( ( 。国務省との間で無益な応酬が繰り返さ れたが、一八九九年一月二五日にいたってついにその跡を 断った ( Van Zandt, op. cit., Chap. (( ) 。日本においては、す でに明治も三二年目を迎えていた。 なお、サンフランシスコ港の荷揚・入管業務を請負うポ スト商会のクラークであったチャールス・ブルークスは、 これを契機に日本との関係を深めた。一八五八年には、彼 が 船 主 で あ っ た ソ フ ィ ア 号 Sophia が 箱 館 へ 雑 貨 類 を 運 ん だ。一八六〇年には咸臨丸来航に際して市の歓迎委員を務 め、 一 八 六 一 年 に は「 お 雇 い 」 鉱 山 技 師 ブ レ ー ク William B. Blake とパンペリー Raphael Pumpelly の招聘を斡旋し、 一 八 六 七 年 に は サ ン フ ラ ン シ ス コ 駐 在 の 日 本 名 誉 領 事 ( 貿 易 事 務 官 ) に 任 命 さ れ た。 さ ら に 明 治 維 新 の 後 も、 一 八 七 一年には岩倉使節団を迎えてこれに同行補佐するなど、永 く日米親善に尽くしたことで知られることになっ た )(( ( 。
六
ハリス着任と「一ドル=三分替え」の
成立
カロライン・フート号の帰国と乗客のキャンペーンが引 き起こした、ペリー条約の「不備」に対する不満と日本政 府の「姿勢」に対する憤激は、一時は「砲艦外交」による 解決という国民世論までも醸成する勢いであった。しかし、 多方面からの新聞報道と論説により事実が明らかになるに つれて、世論も落着きを取り戻した。一八五五年一一月一 日付けのワシントンの有力新聞ナショナル・インテリジェ ンサー紙は、次のような論説を載せた ( Van Zandt, op. cit., p. ((( ) )(( ( 。 「 こ れ ら の 紳 士 〔 リ ー ド と ダ ハ テ ィ ー〕 が 申 し 立 て た 条 約下での権利なるものは、彼らが主張する範囲までは認めら れないであろう。この問題についてのわが国内の意見には さほど重大な多様性があるとは思わない。……リード、ダ ハティー両氏が日本人との間に引き起こした最近の困難事 は、 〔 こ の た び 任 命 さ れ た 〕 わ れ わ れ の 対 日 代 表 〔 ハ リ ス 〕 による一層突っ込んだ交渉の機会を与えるであろうし、ペ リー提督の最初の立場を一歩進めることを可能にするであ ろう。 」 初 代 駐 日 総 領 事 ( お よ び 外 交 代 表 ) タ ウ ン ゼ ン ト・ ハ リ ス Townsend Harris が 蒸 気 フ リ ゲ ー ト 艦 サ ン・ ジ ャ シ ン ト 号 San Jacinto に 送 ら れ て 下 田 に 入 港 し た の は 一 八 五 六 年 八 月 二 一 日 ( 安 政 三 年 七 月 二 一 日 ) 、 通 訳 の ヘ ン リ ク ス・ ヒ ュ ー ス ケ ン Henricus Consadus Heusken と 中 国 人 従 僕 五 人 を 伴 っ て 柿 崎 の 玉 泉 寺 に 入 り、 「 最 初 の 領 事 旗 」 を 掲 揚したのが九月四日 (八月六日) のことであった。 日本に向かうハリスに与えられた国務長官ウィリアム・ マ ー シ ー William Marcy の 訓 令 が、 ( 下 田 と 箱 館 で カ ロ ラ イ ン・ フ ー ト 号 乗 客 の 権 利 の た め に 大 い に 尽 力 し た ) ア メ リ カ 海 軍 北 太 平 洋 測 量 遠 征 隊 の ロ ジ ャ ー ズ 司 令 官 Commander John Rodgers が 送 っ た 詳 細 な 報 告 書 を よ く 読 ん だ 上 で 作 成されたことは、夙に知られている。ハリスに与えられた 主 要 な 任 務 は、 ま ず「 和 親 条 約 」 の 不 備 ( す な わ ち リ ー ド や ダ ハ テ ィ ー た ち が 遭 遇 し た ア メ リ カ 市 民 の 居 留 権 の 問 題 な ら び に 内 外 貨 幣 の 不 等 価 交 換 の 問 題、 等 ) を 解 決 す る こ と、 そ してその上に正式な「通商条約」を締結することであっ た )(( ( 。 当初「砲艦外交」に頼ることができなかったハリスが、 粘 り で 勝 ち 取 っ た 最 初 の 成 果 が 一 八 五 七 年 六 月 一 七 日 ( 安 政 四 年 五 月 二 六 日 ) 下 田 で 調 印 さ れ た「 下 田 協 約 」 全 九 条 であり、前者の課題を解決するとともに、後者の背景を準 備 す る も の と な っ た。 こ こ で は と り あ え ず、 「 下 田 協 約 」 第三条の貨幣条項について検討することにしよう。 第三条 亜米利加人持来る所の貨幣を計算するには、日 本金壱分或は銀壱分を日本分銅の正きを以て金は金 銀は銀と秤し、亜米利加貨幣の量目を定め、然して 後吹替入費の為六分丈の余分を日本人に渡すへし この条項によって日米通貨の交換比率は、金貨は金貨、 銀 貨 は 銀 貨 同 士 の ( 品 位 は 問 わ な い ) 量 目 0 0 に よ っ て 等 値 し、 改鋳費としてアメリカ側が六%を負担することと定められ
た。これによりペリー艦隊が定めた一ドル=一分という交 換率が改定されて、およそ一ドル=三分に評価されること となり、ドル貨の価値はこれまでに比べて一挙に三倍に跳 ね上がることとなった。 貨 幣 談 判 に お け る 議 論 の 第 一、 「 同 種 同 量 」 交 換 に つ い ては、たまたま日露和親条約の批准書交換のため下田を訪 れ た ロ シ ア 使 節 ポ シ ェ ー ト 大 佐 Captain K. Pos’et の 側 面 援助を得て、 一八五七年一月二五日 (安政三年一二月晦日) にはほぼ同意がなった。第二の「改鋳費」については、幕 府側は当初二五%を要求して膠着したが、結局、取りあえ ずは六%で互いに妥協することで決着した。第三の、ハリ スが主張する外貨と日本貨幣との「兌換・両替」は、幕府 の最も忌避するところであった。幕府は、開港地における 「 欠 乏 品 交 易 」 に つ い て は す べ て「 欠 乏 会 所 」 に お け る 官 営管理貿易として行い、外国人が日本の貨幣を持って市場 で自由に売買することを許すつもりはなかったからである。 こうして「下田協約」の貨幣条項は一応の決着をみた。 幕府はこれをもって当面を糊塗したつもりでいたが、ハリ スがさらに出府要求をくり返し、結局一八五八年七月二五 日 ( 安 政 五 年 六 月 一 五 日 ) 「 日 米 修 好 通 商 条 約 」 締 結 に い た っ た 経 緯 に つ い て は、 す で に 幕 末 外 交 史 に 詳 し い。 「 下 田協約」第三条との比較のために「通商条約」第五条を挙 げよう。 第五条 外国の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て 通用すへし(金は金、銀は銀と量目を以て比較する を 云 )、 双 方 の 国 人 互 に 物 価 を 償 ふ に 日 本 と 外 国 と の貨幣を用ゆる妨なし 日本人外国の貨幣に慣されは、開港の後凡一箇年の 間、各港の役所より日本の貨幣を以て亜米利加人願 ひ次第引換渡すへし、向後鋳替の為め分割を出すに 及はす、日本諸貨幣は(銅銭を除く)輸出する事を 得、竝に外国の金銀は貨幣に鋳るも鋳さるも輸出す へし 「 下 田 協 約 」 第 三 条 に お け る 議 論 の 第 二 点、 幕 府 が 当 初 固執した六%という改鋳費が「通商条約」第五条で削除さ れたのは、議論の第三点、すなわち貨幣交換は原則的に認 めないという点を優先させる幕府の意図に関係した。貨幣 交換を認めない以上、改鋳費を求めることは不要というの
が、幕府の主張にあった。しかし現実の「通商条約」第五 条では、貨幣の直接交換を拒否するという幕府側の言い分 を 原則的に 0 0 0 0 認めるとして改鋳費はナシ、ただし相互に不慣 れな開港後一年間は内外貨幣の直接交換を 例外的に 0 0 0 0 認める と し た。 さ ら に は ( 国 際 慣 習 上 当 然 と も い え る ) 貨 幣 輸 出 禁 止規定までをも放棄した、誠に不合理・不平等な条項に終 わった。ここにおいて、内外貨幣の交換レートは公式には 洋銀一〇〇枚=一分銀三一一枚、一般通用には「一ドル三 分替え」が定めら れ )(( ( 、かつ外国人は金銀貨ともに交換、輸 出する自由を得たのである。 「 金 銀 複 本 位 制 」 的 な 貨 幣 世 界 に 生 き た ハ リ ス が、 内 外 貨 幣 の 交 換 に あ た っ て、 金 は 金、 銀 は 銀 に よ る「 同 種 同 量」原則を主張したことは理解できる。しかし、その貨幣 理論が当然の「文明国標準」であったかどうかとなれば、 話は別である。 江戸時代における貨幣システム、いわゆる「三貨制度」 についてここで詳述することはやめる。すくなくとも幕末 期 の 日 本 に つ い て い え ば、 小 判 を 本 位 貨 と す る「 金 本 位 制 」 で あ っ た と 理 解 す る の が 正 し い ( 山 本、 前 掲 書、 第 一 章) 。それでは、 外からきた 「洋銀」 と対峙させられた 「一 分銀」とは何であったか。これは本来の銀貨ではなく、金 貨 を 補 助 す る 定 位 貨 幣 token coin で あ っ た。 し か し 天 保 一分銀が大量発行されるようになって、通用正貨の大半が 一分銀になり、外部から見れば日本は「銀貨国」かの如き 様相を呈していた。 したがって問題の第一は、東アジア貿易の価値基準であ り交換手段であった「洋銀」と定位貨幣である「一分銀」 と を 裸 で 0 0 重 量 比 較 を 行 い、 「 一 ド ル = 三 分 替 え 」 が 強 制 さ れ た 結 果、 こ れ が ド ル 貨 の 貨 幣 価 値 ( す な わ ち 購 買 力 ) を 一挙に三倍に跳ね上げ、日本の 対外 0 0 物価を一挙に三分の一 に切り下げたことである。欧米資本の対日通商貿易の貨幣 的基盤はこうして完了した。 問題の第二は、鎖国のうちで形成された本位貨の一分判 金 と 定 位 銀 貨 の 一 分 銀 ( あ る い は 小 判 一 枚 と 一 分 銀 四 枚 ) と から、人工的に計算された国内の金銀比価一対四・六四が、 裸で 0 0 欧米の金銀比価一対一五に対峙させられたことである。 一〇〇枚の洋銀を香港あるいは上海から持ち込んでこれを 三〇〇枚の一分銀に換える。三〇〇枚の一分銀すなわち七 五両を小判に換えてこれを香港あるいは上海に輸出し、国 際比価で三〇〇枚の洋銀と交換することができたとすれば、
一回の資金回転で理論上は二〇〇%の利益を得ることがで きる。開港直後の横浜居留地外商が、商売をそっちのけに し て、 こ の「 人 口 に 膾 炙 し た 小 判 輸 出 」 ( カ ー ル・ ラ ー ト ゲ ン) に狂奔した姿はオールコックの証言に生々しい。 それでは、鎖国下日本における金銀比価およそ一対五を 国 際 標 準 の 一 対 一 五 に 合 わ せ る に は ど う す る か。 幕 府 が 取った方式は、本来補助貨である銀貨の量目を三倍にする 「 銀 貨 良 鋳 」 方 式 で あ っ た。 い わ ゆ る「 安 政 改 鋳 」 で 生 ま れた「安政二朱銀」がこれであって、天保一分銀よりもは るかに重く、洋銀一枚のちょうど半分にあたる二朱銀貨を 新 鋳 し、 こ れ 二 枚 ( す な わ ち 一 分 ) が 洋 銀 一 枚 と「 同 種 同 量」となる。 「一ドル=一分替え」の復活であると同時に、 金銀比価を一対一七・二三とし、国際的平準化も達成す る )(( ( 。 しかし欧米資本には、折角ハリスが獲得した「一ドル= 三 分 替 え 」、 「 日 本 の 金 安 」 利 権 を 手 放 す つ も り は 毛 頭 な かった。列強外交代表の強硬な抗議に屈して幕府が余儀な くされた「万延改鋳」では、一転して「金貨悪鋳」方式を とる。これまでの天保小判に比してその実態を三分の一に 減じた「万延小判」 (および主に「万延二分金」 ) を新鋳し、 通用一分銀との金銀比価一対一五・七〇を実現する。しか し、日本の 本位貨である 0 0 0 0 0 0 小判を三分の一に貶質化させたこ の貨幣改革は、新しい貨幣問題を胚胎していた。①金貨幣 資産が三倍増されたことによる一般物価の高騰、②金平価 の切り下げによる金両の対外購買力の三分の一縮減と輸入 財価格の三倍の騰貴。これらは幕末維新期のハイパー・イ ンフレーションの引き金を引くとともに、近代化路線を目 指す幕府財政に大きな圧迫要因となっ た )(1 ( 。 やや話が進みすぎた。それでは「一ドル=三分替え」の 維 持、 「 金 価 格 の 三 倍 増 」 の 実 現 が「 異 人 た ち 」 に 何 を も たらしたか。その奇妙な事例を次に見よう。
七
フート号「未払金」問題とその処理
一 八 五 五 年 六 月 ( 安 政 二 年 四 月 ) 、 フ ー ト 号 の 下 田 退 去 に 際して、リードとダハティーが購入した日本物産七、四〇 〇 ド ル の う ち、 「 未 払 金 」 ( す な わ ち 幕 府 へ の 負 債 ) の 処 理 が問題になっ た )(( ( 。 日本側の史料によれば、奉行所との会談においてリード は、 「 当 所 に 於 て 相 求 め 候 品 物 代 料、 凡 そ 五 千 二 百 ド ル ラ ル程に相成り」といい、現在のところ銀貨二、〇〇〇ドル と金貨二、〇〇〇ドルしか持ち合わせていないので、不足分一、二〇〇ドルは手形で残し、一度サンフランシスコへ 帰 っ た の ち 再 び 当 所 へ 戻 っ た 節、 「 此 度 相 納 め 置 き 候 金 ド ルラル并に不足の分、銀ドルラルにて引替え決算勘定仕る べ く 」、 ダ ハ テ ィ ー と 連 名 の 誓 約 書 を 残 す と 主 張 し た、 と い う )(( ( 。 ところが、この債務を最終的に処理することになったア メリカ側、ハリスの報告によれば、景色は大分変わってく る。一八五九年八月二二日付け (すなわち問題発生から実に 四 年 後 の ) 国 務 長 官 ル イ ス・ キ ャ ス L. Cass 宛 の 報 告 に お いて、ハリスはこのようにい う )(( ( 。 「 一 八 五 五 年 五 月、 ア メ リ カ の リ ー ド & ダ ハ テ ィ ー 商 会 が下田の日本当局に五、七三一ドルの借越を作りましたが、 その負債の一部は一、四九〇ドルと一、〇〇〇ドルの二枚 の約束手形で支払われました。……残額の三、二四一ドル については、彼らは保証金の一部としていくらかの金貨と、 併 せ て 〔 手 形 支 払 い の 節 に は 金 貨 に つ い て も 銀 貨 に 転 換 し て 決済する旨の〕 両者連名の誓約書を残しました。 」 しかし一八五五年八月付けの二枚の「約束手形」は支払 われず、日本側がわずか五八三ドル九一セントと査定した ( と い う ) 「 金 貨 預 け 金 」 も 決 済 さ れ ず、 結 局 そ の 処 理 は ハ リスに委ねられた。 まず前者の「約束手形問題」は、ハリスが下田に到着す る 直 前、 一 八 五 六 年 八 月 一 三 日 付 け の ( ア メ リ カ 海 軍 北 太 平 洋 測 量 遠 征 隊 ) ロ ジ ャ ー ズ 司 令 官 か ら の 覚 書 に よ り 国 務 省の知るところとなり、同八月一九日付けマーシー国務長 官 か ら ハ リ ス 宛 の 訓 令 に よ っ て 調 査 が 命 ぜ ら れ た ( た だ し ハ リ ス が 受 取 っ た の は 一 八 五 七 年 一 〇 月 二 〇 日 と い う ) 。 そ の 後ハリスが「下田協約」と「修好通商条約」の締結に奔走 して多忙であったせいであろうか、あるいはハリスに何ら かの思惑があったからであろうか、決着は一八五八年夏ま で引き延ばされた。一八五八年七月三一日付けハリスから 国務長官キャスへの報告において彼はい う )(( ( 。 「 私 は こ の 事 件 の 諸 事 実 を 調 査 し、 次 の こ と が 分 か り ま した。日本側はリードとダハティーが署名した二通の手形 を持っており、一通は一、〇〇〇ドル、もう一通は一、四 九〇ドルです。そこで私は、次のアメリカ船が到着し次第、 これらの手形の支払いを行う事を当局に通知しました。ま た同時に次のことも通知しました。わが政府がこの負債を 支払うという事実は今後の先例と見做すべきでないこと、 これを支払うことには同義的にも法律的にも義務があるわ
けではなく、日本側の信頼に起因する損失から彼らを助け たいという希望によるものであること、また将来にわたっ て私人により契約された日本に於ける負債が合衆国政府に より支払われることはないこと。 」 「 リ ー ド と ダ ハ テ ィ ー の 手 形 は ド ル で 支 払 わ れ る よ う 振 出 さ れ ま し た が、 〔 振 出 し 〕 当 時 の ド ル は 日 本 の 一 分 0 0 と 同 価だと考えられていましたから、私は日本側にこの額を二、 四九〇枚の 一分 0 0 で支払いました。 一分 0 0 は、一八五七年六月 一七日の下田協約では三四セント二分の一に等しいとして いますから、この支払額は八五九・〇五ドルになり、下田 協 約 の 実 行 に よ り 一、 六 三 四・ 九 五 ド ル 〔 一、 六 三 〇・ 九 五ドル?〕 の節約になることが示されました。 」 ドル払いの手形を「一ドル=一分替え」時代の論理を持 ち出して一分銀で支払い、原価を大きく値切ったハリスの 行為が道義的であったか否かについては、やや疑問が残ろ う。また、この手形の支払いにアメリカ政府として「同義 的にも法律的にも」義務を負わなかったとしても、この未 払い手形問題のために後来の外国人が大いなる迷惑を蒙っ たことは、例のリュードルフの手記からも明らかである。 「 リ ー ド 氏 お よ び ド ジ ャ ー テ ィ 氏 〔 ダ ハ テ ィ ー 氏 〕 が 千 五 百ドル 〔正しくは二千五百ドル弱〕 の負債を残して帰国して しまったことは、アメリカ人をはじめ全外国人の信用を落 としてしまった。この人たちが出帆後、多くのアメリカ船 が下田港に来たが、食料品その他の品物の購入にあたり、 非常な困難を感じた。ごく些細なものでさえ、前金を払わ な け れ ば、 日 本 人 が 提 供 を 肯 ん じ な か っ た か ら で あ る 」 (『グレタ号日本通商記』附録 (、三一二頁) 。 さ て 後 者、 「 日 本 側 が 五 八 三・ 九 ド ル と 査 定 し た 金 貨 に よる預け金」について。この「査定額」なるものについて も、 「預け金」なるものについても、実はよく分からない。 日 本 側 の 資 料 に よ れ ば、 リ ー ド は 持 ち 合 わ せ た ( 銀 貨 二、 〇 〇 〇 ド ル に 加 え て ) 金 貨 二、 〇 〇 〇 ド ル を 幕 府 へ の 負 債 の支払いに宛てようとしたが、第四節に述べたような事情 で幕府側が受取りを忌避したので、これを取りあえず「相 納 め 置 き」 、 後 日 手 形 と と も に 決 済 す る つ も り で あ っ た (と いう) 。金貨二、〇〇〇ドルを、第四節で示した ① ペリー の貨幣談判による金ドル一ドル=八三六文で換算すれば二 六 一 両 余、 ② 銀 一 ド ル = 一、 六 〇 〇 文 か ら 単 純 に 二、 〇 〇〇ドルを計算すれば五〇〇両となる。 ともかく、この件もまたハリスの処置に任され た )(( ( 。そし
て こ こ で も ハ リ ス は、 手 形 の 場 合 と 同 じ く、 「 一 ド ル = 一 分替え」のマジックを使った。一八五八年一一月、金貨を 保証金とした借財の総額三、二四一ドルを三、二四一枚の 一 分 銀 で 支 払 っ て ( つ ま り「 下 田 協 約 」 の 一 分 = 三 四・ 五 セ ン ト で 換 算 す れ ば 一、 一 一 八・ 一 五 ド ル に 値 切 っ て 0 0 0 0 ) 、 金 貨 を 取り戻した。そして一八五九年一月にはこの金貨を銀貨に 替 え て ( ど こ で? だ れ と?) 、 二、 二 六 六・ 七 八 ド ル を 得 た と い う。 こ の 一 連 の 取 引 に お い て、 ハ リ ス は 一、 一 四 八・ 六 三 ド ル の 節 約 を し た ( (,((( .(( - (,((( .(( = (,((( .(( ) と誇っている。この余剰金は国庫へ入ったのであろうか。 ハリスの手元に留まったのであろうか。しかし本来はリー ド&ダハティーとの間で清算されるべきものではなかった か。これらについても、今となってはもはやよく分からな い。
お
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「 通 商 条 約 」 の 発 効 と 横 浜 開 港 に 伴 い、 下 田 港 は 一 八 五 九 年 一 二 月 三 一 日 ( 安 政 六 年 一 二 月 八 日 ) を も っ て 鎖 港 と な る 事 が 決 ま っ た。 早 く も 同 年 六 月 三 〇 日 ( 同 年 六 月 一 日 ) に は 欠 乏 会 所 が 閉 鎖 さ れ、 七 月 二 六 日 ( 六 月 二 七 日 ) に は 欠 乏 品 世 話 役 に 対 し「 御 免 」 が 言 い 渡 さ れ た ( 地 方 史 研 究 所、 前 掲 書、 七 五 三 頁 ) 。 一 八 五 四 年 三 月 三 一 日 ( 安 政 元 年 三 月 三 日 ) の「 和 親 条 約 」 締 結 と 下 田 開 港 以 来 の「 異 国船」の賑わいは去った。 ハリスもまた、 一八五九年六月二日 (安政六年五月二日) には下田の総領事館を閉鎖し、江戸の麻布・善福寺に公使 館 を 移 し た。 「 ハ リ ス の 日 記 」 も「 ヒ ュ ー ス ケ ン の 日 記 」 もこのあたりは空白で、彼らが下田を去るにあたっていか なる感懐を抱いたか、いま知ることはできない。 ( () 一八五五年九月一九日、すなわち彼らのサンフランシ スコ入港の翌々日に同地のデイリー・ヘラルド紙に掲載 さ れ た 六 月 一 日 付 け の ド ー テ ィ ー の 手 紙。 Howard F. Van Zandt, Pioneer American Merchants in Japan, Lotus Press, (((1 , p. ((( . ( () 山本有造「カロライン・フート号婦人図をめぐる若干 の 考 察 ─ ペ リ ー と ハ リ ス の は ざ ま で ─ 」( 中 部 大 学『 ア リーナ』第一七号、二〇一四年一一月) 。 ( () ペリー艦隊による貨幣交換の発生からハリスの通商条 約締結にいたる通貨問題を、ハリスの外交交渉に焦点を 当てて論じた論考としては、嶋村元宏「幕末通貨問題を め ぐ る ハ リ ス の 政 策 と 幕 府 の 対 応 」( 青 山 学 院 大 学 史 学会『史友』第二三号、一九九一年) 、がある。 ( () 以下、本論における条約条文は、外務省編『日本外交 年表竝主要文書─一八四〇 ─ 一九四五─』 [上] (原書房、 一 九 六 五 年 )、 に よ る。 た だ し、 一 部 の 読 み 下 し、 句 読 点、振り仮名は山本による。 ( () 『(大日本古文書)幕末外国関係文書』第六巻、第二一 六項「自五月十七日至廿二日 下田了仙寺対話書 下田 奉 行 支 配 組 頭 黒 川 嘉 兵 衛 雅 敬 伊 佐 新 次 郎 岑 満 等 と 米 国 艦 隊 主 計官スペーデン、エルドリッヂ等と 通用金銀銭相場 并 石 炭 直 段 の 件 」、 同 書、 第 三 二 七 項「 六 月 亜 米 利 加 応 接 掛 上 申 書 老 中 へ 米 国 使 節 と 応 接 取 極 の 件 」 の 内 「金銀銭交換」の条。 ( () 地金銀の公定買上げ相場を通用銀によって「 銀 ぎん 目 め 」表 示することを「 双 そう 替 がえ 相場」と呼んだが、アメリカ銀貨の 評価にもこれを適用した。ただし厳密にいえば、当時の 銀の双替相場は二六双、すなわち銀一〇匁につき通用銀 二六匁であり、これをアメリカ銀貨の品位八六五弱から 精査された純銀量六・一六匁に適用して通用銀一六・〇 一六匁と算定され、端数を切捨てて一六匁としたという。 田 谷 博 吉『 近 世 銀 座 の 研 究 』( 吉 川 弘 文 館、 一 九 六 三 年)四二九頁、三上隆三『円の誕生─近代貨幣制度の成 立─』 (東洋経済新報社、増補版一九八九年)九二頁。 ( () ペリー艦隊が持参した金銀貨がどのような内容であっ たかはよく分からない。三上は銀貨を「一八三七年以降 〔 鋳 造 〕 の ア メ リ カ・ ド ル 銀 貨 の よ う で あ る 」 と い い (三上、前掲書、九二頁) 、また田谷は金貨が「二〇弗金 貨即ち double eagle 」であったという(田谷、前掲書、 四 二 八 頁 )。 な お、 当 時 の 東 ア ジ ア で 国 際 通 貨 と し て 広 く流通したいわゆる「洋銀」については、下記註 ( (()を 見よ。 ( () ペリー遠征隊の公式報告、フランシス・ホークス編の いわゆる『ペルリ提督日本遠征記』には、英語版にも翻 訳版にも多種が存在する。ここでの引用は、合衆国議会 の命によって一八五六年に刊行された三巻本の第一巻を 完訳した、土屋喬雄・玉城肇共訳『ペルリ提督日本遠征 記 』[ 上 ][ 下 ]( 初 版 一 九 三 五 年、 弘 文 荘、 復 刻 版 一 九 八 八 年、 臨 川 書 店 )、 に よ る。 ス ペ イ デ ン と エ ル ド リ ッ ジの報告は、同上書[下]七八八~七九〇頁。 ( () 地 方 史 研 究 所『 伊 豆 下 田 』( 同 所、 一 九 六 二 年 ) 七 五〇頁、増田正「下田の欠乏所貿易について」 (『歴史教 育』第一四巻第一号、一九六六年一月)六五頁。 ( (1) A. W. Habersham, The North Pacific Surveying and Exploring Expedition; or My Last Cruise, where we went and what we saw: being an account of Visits to the Malay and Loo-Choo Islands , the Coasts of China , Formosa, Japan, Kamtschatka, Siberia, and the Mouth of the Amoor River, Philadelphia and London, (((( , pp. ((( -((( . ハバシャムのこの紀行録の背景については、 後 藤 敦 史「 一 外 国 人 が 見 た 開 国 日 本 ─ ア レ ク サ ン ダ ー・ ハーバーシャムの航海記より─」 (『大阪観光大学紀要』