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佛教学研究 第64号 015那須, 円照「『倶舎論』の時間論における「第十三処」と聞こえない音声についての考察」

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(1)

f

倶舎論』の時間論における「第十三処」と

間こえない音声についての考察

那 須

R

R

〈序論〉 F俣 舎 論j (AKBh)の三世実有論批判の欝所において,非存在であると 一般に認められるものについての認識についての議論がある。 それは,例えば, F第十三処J という,「仏教の存在の体系としての十二処 というカテゴリー」から逸脱する概念や,現在において関こえない音声が問 題となる。 これについて,二部に分けて検討する。 l. r非春在が罰縁と ~るなら第十三処忌月号譲となるのかj という問題ζついて

(

F

俣舎議_o(AKBh)の所説)(AKBh(P) 1st ed.:p.3目立 7-8)

く有部〉 もし,非存在なもの (asat) も 所 縁 包lambana) となるなら,第十三処 (trayodasam ayatanam) も所縁となるであろう。 〈反論〉 では,「第十三処はない」という,この識 (vijnana)の所縁は何か。 〈有部〉 [第十三処という]この名称 (nama)こそが所縁である。 〈量親〉 そ の よ う な 場 合 , そ の 名 誌 は 存 在 し な い と 理 解 さ れ る で あ ろ う

(2)

f倶舎論』の時間論における F第十三処」と関こえない音声についての考察 (pratiyeta)。 (f倶 舎 論 称 友 釈J (SA)の解釈)(SA(W). p.475. 11-17) 〈有部〉 第十三処も所縁となるであろう,と。十三処の序数が第十三処である。そ れが,識の所縁となってしまう。非存在なものを所縁とすることが認められ るなら,それ(= [非存在である]第十三処)を所縁とする識もまたあろう。 く反論〉 このようにヴァイパーシカによって言われるのに対して, [ヴァスパンド ゥ]闘は,では,「第十三処は云々」と言う。 く有部〉 この名称こそが,とヴァイパーシカは[言う]。第十三処というこの名者、 が所縁である。 く堂親〉 そのような場合,その名称、は存在しないと理解されるであろう。非存在な る「第十三処J [という名称]を特教とする言表されるものは存在しない。

(f倶舎詰安慧釈.JI(TA)の解釈)(TA. D.146. a. 1・b.7, Pe.283.a.3-284.a.4) 〈有部〉 第十三処も所縁となるであろう,と。もし,意識の所縁が存在するものな ら,そのような場合,第十三処が存在するものではないから,過去・未来の もののようにはそれ(第十三延〉は[意識の]所縁ではない。それ故に,存 在しないものを所縁とする知識はないと確定される。 く反論〉 では,第十三処,云々。「第十三処はない」というこの認識の所縁が実在 であることは不合理である。第十三処は,員艮等のようには存在しないからで ある。それ故に,非存在とは異なるこ[の認識]の所縁は何であるかが説か れるべきである。 -

(3)

22-F倶舎論』の時間論における F第十三処Jと間こえない音声についての考察 く有部〉 [第十三処という]この名称こそが所縁である,と。ヴァイパーシカは言 う。[名称以外に]対象がないから,と。 〈衆賢説〉 サンガパドラ師辻言う。「この場合,存在しないというこの言明の同義異 語が存在するから,これ(非存在)を言表するのである。それ故に,存在し ないというこのことを述べるそのことの同義異語も[非存在という]言表の 知識を生じさせるものであるj と。 〈世襲〉 [第十三処という名称が]葬存在なものであるなら,そのような場合,そ の名称は存在しないと理解されるであろう。それ(第十三処という名義~)は 対象がない。その名誌も耳識によって知覚されるものでないから,どうして 理解されょうか。 く有部(衆賢説)> サンガパドラ師は言う。その場合,確定していることは,非存在であると いう知識が生じるのではないことである。それで

i

まどうなのか。存在すると いう知識が生じるから,その実在(甲)の否定を対象とする[諸知識]は, 実在(乙〉を対象として有して実在(甲)を否定する。その非存在という言 表の故に,言表を対象とする知識がある。

J

うる場合,対象なしに[知識が] 生じることはできないから,否定の対象がある。その場合,対象(=言表) を言表するものと, [言表を対象とする]知識誌存在する。椀えば,「バラモ ン」や「吉住」と¥,"¥う言表としては言表されないように。存在しないものの ように。 く答論〉 その場合,対象がないから,存在しないという言表の知識によって,もし 非存在が言表されるものであるなら,どんな語も対象を有しないことになる。 もし,実在の否定を[言表=名称としても]対象として石しない知識によ れば,名祢を対象とすることはなくなる。あるいは,名称の非存在を自性と

(4)

F倶合論』の時開論における「第十三処Jと照こえない音声についての考察 することになってしまうからである。 もし,実在の否定を対象としても,実在こそが所縁であるなら,「バラモ ンJ 等の否定の対象も,同じバラモンという所縁になってしまうであろう。 「ある人は言う。実在の否定は非存在を言表することであるから,この場 合,非実在を自性とするから,あるいは,言葉によって表示されな¥,,)から, 実在の否定を言表すると考えられるj というなら,どちらの場合も[所紘 が]生じることはない。[所縁は]それ(非存在〉を本性としているから。 またもし, f実在という語法,「存在」という語を言表する」というなら, その場合でも不合理である。ここで,「非存在」という語の本性とは,切り 離されるとは認められない。 それではどうなのか。 第十三処という語の対象が存在すると[認められる

J

o

r

非バラモン」とい う[語]によっても,バラモンに叡た他のものが理解される。[非バラモン とは]到のすべて[のバラモン]でないものというものが,この場合,「非 バラモン」と言われる。[非バラモンという]語に対して[対象の]知識が あるのではない。「第十三処は存在しないj と い う こ の 場 合 札 第 十 三 廷 と いう語の対象は存在しないということが成立する。

r

[

第十三廷の]非存在」という語を自性とするこれには,二つの表示対 象が認められるから,それ故に,実在と非実在を言表する語は対象を持たな いと認められる。「実在として全く存在しないと言われるもの辻,認識対象 でもなく,表示対象でもない」というなら,そのような場合, f壷」や「布」 等も認識の対象でもなく,表示対象でもないということになってしまう。実 在として全く存在しないものも,「まだない〈前無)J等の区別によって,異 なることは不合理で、ある。関係によって異なる F壷」や F布」等のように。 (r倶舎論満増釈..1(LA)の解釈)(LA.D. 118.a.4-b. 1, Pe.148.a.8-b.5) く有部〉 第十三処も所縁となるであろう,と説かれる。もし,非存在なものも意識

2

4

(5)

-r倶合論sの時間論における「第十三処」と照こえない音声についての考察 の所縁であるなら,そのような場合,第十三処も非存在であるから,過去・ 未来のもののように,それも所縁になる[という]なら,それも所縁ではな い。それ故に,非存在を所縁とする識は存在しないと確定される。 〈註親〉 では,第十三処はないと,云々。第十三処は存在しないという知識の所縁 が実在であることは合理的ではない。践等のようには第十三処は存在しない からである。それ故に,それの所縁は,非実在と辻別なものとして存在する と言表される必要がある。 〈有部〉 ヴァイパーシカは, [第十三処という]この名称こそが所縁である,と言 う。第十三とは数の名称であり,それだけが所縁である。それ故に,これも 存在するものを所縁とするのか,というなら, く反論〉 そのような場合,さて名称、こそがないと理解されるが,言表の対象である 処としてはない。 〈解龍〉 経量蔀(世親)は,

AKBh

で 認 識 の 対 象 ( = 所 縁 ) は 存 在 す る も の と 存 在しないものとの両方であると考えているが,杏蔀は,もしそうなら,「第 十三処」という仏陀の法の棒系から逸脱する概念もまた,所縁となるのでは ないか,と論難する。 安慧は T Aで,有部の説として,意識の所縁が存在するものであるなら, 有部にとっては,法としての過去のもの・未来のものは,それぞれ過去の位 霊・未来の位置に存在して認識の対象となりうるが,第十三処は,意識の所 縁となり得ない,絶対的非存在であるから,認識の対象とはならず,存在す るもののみが所縁となり,第十三処のような存在しないものは知識の所続と なワ得ないと主張する。

(6)

『イ具合論Jの時間論における「第十三処Jと聞こえない音声についての考察 このことについて,

SA

LA

で,称友と満増は,これといった特色ある 註釈をしていない。 設親は

AKBh

で,「第十三処はない」という認識をするこの識の所縁は何 かと問う。 安慧は T Aで,「第十三処はない」という認識の所縁が実在するというこ とは不合理で、あると言う。第十三処は,仏陀によって説かれた十二処の中の 眼処等のようには存在しないからである。しかし,「第十三処

i

まない」とい う認識は現に生じるので、あるから,その所縁として向かが必要とされる。そ れは何なのか。 このこと ζついて,

SA

LA

で,称友と満増は,これといった特色ある 註釈をしていない。 世親は,

AKBh

で,有部の答として,第十三処というこの名称こそが所 縁である,と述べる。 安慧は T Aで,有部が名詞:以外に対象がないから,第十三処というこの 名称こそが所縁である,と述べる。 ここで,安慧によって,衆賢説が述べられる。「存在しない」という言明 に辻同義異語があり,それが,非存在という言表の知識を生じさせる,と衆 賢は主張する。これは, f存在しない」ということも,何らかの同義を有す る諸語として,認識の諸縁となりうるという立場である。 このことについて,

SA

LA

で,称友と満増は,これといった特色ある 註釈をしていない。 n h U 丹 L

(7)

r{民舎論sの時間論における F第十三処』と開こえない音声についての考察 これに対して,世親は,

A

Bh

で,その第十三処というような名称誌存 在しないと反論する。 者:友は

SA

で,非存在なる「第十三処j という名称を特徴とする言表され るものは存在しないと述べる。十二処の法の体系の中のもののみが,言葉の 対象として実在するものであるという立場でるって,第十三処は,名称のみ としても,所縁として認められないという立場である。有部の器める,乙、不相 応行法の名は,経量部では認められないからである。 安慧は TAで,第十三処という名称は,その名称に対応する対象がなく, 実在しないと述べる。アビダルマの学説では,名称には必ず対応する実在が あるとされる。ところが,第十三処という名称は対応する実在を持たない。 よって,その名称が存在する意義はないのでるる。 さらに安慧は,その第十三処という名称も,耳識によって知覚されないと いう。有部にとっては,法の体系で心不相応行法に分類される名・匂・文の 中の名としての名称があるが,世親などの経量部の立場では,物質的吾声 (声処)としての言葉以外に,心不相応行としての名は認められない。「第 十三処」という名称が,心不相応存の中の名であるならば,それは関こえな いのである。「第十三処」という吾で,聞こえる言葉は,十二処にJl又められ る声処であり,「第十三処」という心不相応行法ではないことになってしま うのである。 安慧は,さらに衆賢の主張を挙げる。 衆賢は,言う。[一般に]非存在であるという知識は生じない。存在する という知識が生じる。ある実在(甲)の否定を対象とする知識辻, 5;11の実在 (乙)を対象としており,実在(甲)を否定する。 また,非存在という言表があるから,その F非存在=存在しない」という 言表を対象とする知識があるとされる。有部にとって, τ存在しない」とい う勾や,「第十三処」という名は,実在する対象を有しないが,その言葉そ

(8)

r1真舎論』の時間論における「第十三処」と間こえない音声についての考察 のものが,心不栢応行法の中の名・匂という実体として,知識による認識の 対象となるのである。 安慧はそれに対する反論として答える。 経量部にとっては,十二廷という実在の否定としての第十三処は,その 「第十三処j という名称としても,十二処にi読められる声延(物質的音声) 以外にないから,「第十三処」という名祢は声処以外の独立した認識対象で はない。また,「第十三処」という名としての心不相応行法は,経量部にと って認められない。「第十三延」という名称が声処以外のものと主張するな ら「第十三処」という名称は非存在を自性とすることになってしまう。 また,実在を否定しても,それに対応する到の実在がない場合,その否定 に関係して存在するのは,その実在だけであるから,「バラモンj 等の否定 の対象が,その同じバラモンということになる。しかしそのバラモンは肯定 の対象でもあるから,合理的でおiまない。 安慧は言う。「非バラモンJ という場合誌,バラモンに似た,バラモンで はない,他のものが理解される。「非バラモン」という語に対して知識があ るのではない。 「第十三処は存在しない」という場合も, F第十三処」という語の対象は 存在しないと安慧は言う。 非存在という語は,ある実在の否定としての他の実在を指すか,るる実在 の純粋な非存在を指すかのどちらかなのである。結局,安慧は,実在と非実 在を言表する語は,対象を持たない,と主張する。これは,言葉というもの は,例えば,「壷j というものを表示する場合でも,非「査」の否定を表示 するだけであって,査という表示対象を指すのではないという考え方である。 それ辻,「第十三処J というものを表示するものが,十二廷の否定であり, それは,非存在を表示しているのであるということと詞様なのでるる。この 場合は,非「十三処J の否定を表示するだけなのである。ここでは,アポー ハ論的な考え方が見られる。

2

8

(9)

-r倶舎論五の待関論における「第十三処」と関こえない音声についての考察 j詩増は

LA

で,第十三処という名称は,言葉の対象である処としてはない, と述べている。この名称が,有部の認める心不相応行法の名を指すなら,経 量部にとってはそれ辻,十二処の体系内でも認められないからでるる。

2

.

音声の認識について

(r1:異舎論.Jl(AKBh)の所説)(AKBh (P) 1st ed. p. 300. 9-12) 〈世親の詞〉 また,音声 (sabda)のまだないこと(前無) (pragabhava)を所縁とす る人にとって,所縁とlま何か。 〈有部の答〉 音声こそが[所縁]である。 〈世親の反論〉 そのような場合, [常住なる]音声のないことを認める (prarthayate)人 にとって,音声こそが発せられるべき (kartavyal).)であろう。 〈量親の反論〈続)> もし,未来の位量 (anagatavastha)に[音声がある]というなら,存在 するにもかかわらず,どっして,「ない」といっ知識 (n亙stibuddhi)がおこ るグ〉走、 現 在 の (vartamana) [音声]はない,というなら,そうではない。[三 時にわたって] [音声の自性誌]毘ーであるから (ekatvat)。 あるいはまた,それ(吾声)の特定性 (visesa),それが前に存在しない で今存在することが成立する (abhutva-bhavasiddhi)。 く註親の結論〉 それ故に,認識の所縁は吾在するもの (bhava) と存在しないもの (ab・ hava) との両方 (ubhaya)である。

(10)

f倶舎論sの待問論における「第十三処」と陪こえない音声についての考察

(

r

i

異舎論者、友釈J (SA)の 解 釈 )(SA (W). p.475.17-34) 〈世親の関〉 ま た , ま た , 音 声 の ま だ な い こ と を 所 縁 と す る 人 に と っ て , 所 縁 と 辻 何 か。 rbhavati(であるわと辻, [この]文章に補われるべきものである。 [すなわち, F所縁とは何であるのか」となる。] く春蔀の答〉 そのような文脹において,ヴァイパーシカは言う。「吾声こそがj と。「所 縁である」という文献である。 く世親の反論〉 そのような場合,云々と[ヴァスパンドゥ]障は[言う]。音声のまだな い こ と を 所 縁 と す る 人 に よ っ て , 音 声 こ そ が 所 縁 と さ れ , ま だ な い こ と が [所縁とされ]ないなら,次のようなことになる。

r

[

吉住なる]音声のない ことを認める人にとって,音声こそが発せられるべきであろう j と。 〈堂義の反論(絞り く有部の説〉 もし,未来の位置に[音声がある]というなら。ある人にとって,あるも の(音声)が前に[現在の位置に]ない場合,未来の位置にあるそれが彼に よって所縁とされる。それ故に,音声の[未来の位置における]非存在を認 める入に,音声が発せら在ることはないであろうと考えられるであろう。 く量親の反論〉 それ故に, [音声が未来の位置に]存在するにもかかわらず,どうして, 「ない」とIt"¥う知識がおこるのか, と批判される。その音声が[未来の位置 に ] 存 在 し て い る に も か か わ ら ず , あ る 入 に と っ て , そ の 前 に 〔 未 来 ・ 現 在・過去の位量に]ないということが, [つまり]その人にとって,「ないj という知識が,どうしてあるのか。前に[未来・現在・過去の位置に]ない ということを,その[知識]は所縁とするのだから。 〈有蔀の説〉 現在の[音声]はない, というなら。その場合,現在の〔音声]はないと -

(11)

30-f倶舎論』の待関論における「第十三処」と関こえない音声についての考察 いうなら,そのような場合,

[

r

ある」という認識辻]それ(=未来の音声) を所縁とするから, [現在の音声がないとき,それ(現在の音声)が]rな い」という知識が生じるというなら, 〈註親の反論〉 そうではない。[三時にわたって

J

[音声の自性は]同一であるから。未来 のものそれがそのまま現在のもので為る。それ(現在のもの〉と[未来のも の は ] 尉 で は な い , と 。 ど う し て そ の 現 在 の も の に 他 な ら な い も の に 対 し て,「なしりといフ知識が生じょうか。 く註親の説〉 あるいはまた,それ(音声)の特定性が,あるい;ままた,それ, [すなわ ち]未来の[音声]に後に,特定笠が現在の位置において生じるとき,その 特 定 性 が な い と き , 現 在 の も の は な い と い う そ の 知 識 が 生 じ る な ら , そ れ (特定性)が前に存在しないで今存在することが成立する。それ,特定性は, 前に存在しないで,後で存在する,それが成立する,と。 く世親の結論〉 存在するものと存在しないものと,と iま,現在の設置に存在するもの,過 去・未来の位置に存在しないものである。認識の所縁は両方である。 (r俣 舎 論 安 慧 釈J

(

T

A

)

の解釈)

(

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A

.

D

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1

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6

.

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.

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1

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7

.

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7

, Pe.

2

8

4

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a.

4

-

b

.

6

)

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t

辻義の関〉 音声のまだないことを所縁とする入, [すなわち]ぺ音声が]まだ生じて いない」ことを所縁とする入,その人にとって所縁とは何かと[ヴァスパン ドゥが]いうなら, く有部の答〉 「生じるもの,滅するもの以外の別のものはないから,音声がまだ生じな いで存在する」と考える。ヴァイパーシカは,「奇声こそが[所縁である

J

J

と言う。三時においても,音声の自性に区別はないからで為る。 〈世親の反論〉

(12)

r倶合論sの詩情論における「第十三処」と聞こえない音声についての考察 Fそのような場合j 云々と[ヴァスパンドゥは]言う。もし, f音声がま だ な い 」 こ と を 所 縁 と す る 場 合 , そ れ に よ っ て , 吾 声 の み を 所 縁 と し て

[

r

音声がまだない」という]否定のみを得ること以外のものはない。その ような場合,音声のないことを認める人にとって,音声こそが発せられるべ きであろう。それによって,音声[の実在]を望む入にとって,音声がない ことはない。 〈堂親の反論〈続)> く有部の説〉 もし,未来の

f

立量に[音声がある]というなら,とは,前にない音声が, いまだ生とていないものの位量[にある]という音声そのものでるる。吾声 がないことを認める人は,それが,いまだ生じていないものの位置の音声で あると認めているのでるって,その[未来の位置の吾声]には作用がない。 く世親の反論〉 [未来の位量に音声が]存在するにもかかわらず,どうして, fなI.,"¥J と いう知識がおこるのか,とは,前には,生じた音声はない, [つまり]現在 の音声は把握されているから,存在しないという知識は生じないということ で、ある。 く有蔀の説〉 現在の[音声] ,まない, とは,現在[の吾声]はないというように,それ (現在の奇声)に対して「ない」という知識が生じるが,それでも, [未来 あるいは過去の音声を所縁としているのであり]非存在なものを所縁として いるのではない。 く註親の反論〉 [三時にわたって] [音声の自性は]同一であるから,とは,未来のもの のみが現在のものであるなら,どうして現在のものがないのか,と。そして, 現在のものも,未来のものがないから,それ〈現在のもの)に対しても Fな いj という知識があるであろう。[未来のものと現在のものとに]区別がな いからである。

-

(13)

32-r俣合論』の時間論における「第十三処」と関こえない音声についての考察 く世親の説〉 あるい

i

ままた,特定性が,と

i

ま,現在の位置に[特定性が]ないもの辻, 現在にないと言われる。それ(特定性)が前に存在しないで今存在すること が成立する,とは,未来の位量iこ[特定性が]存在しないで,現在の位置に [特定性が]存在するからである。 〈世襲の結論〉 [認識の対象は]存在するものと存在しないものとの両方である,とは, 現在の位量において存在するものが所縁であり,未来の位置において存在し ないものが所縁である。

U

'

'I:具舎論溝増釈J(LA)の 解 釈 )(LA. D. 118. b. 1-b. 6, Pe.148. b. 5-149. a. 4)

く萱親の関〉 また,音声のまだないことを所議とする人にとって,所縁とは何か,と

L

i

, 生じるもの,滅するもの以外の,音声のまだ生じないもの以外のものはない と考える。 く有部の答〉 「音声こそがJ と。「所縁である」という文抵である。三時において,音 声の自性に豆

Z

せはないからである。 く堂義の長論〉 Fそのような場合」云々と[ウ。アスパンドゥは]言う。もし, f音声がま だないことJ を所縁とする入によって,音声こそが所縁とされ,本体を寄る ことの否定のみが[所縁とされ]ないなら,そのような場合,音声のないこ とを認める人にとって,吾声こそが発せられるべきであろう。それによって, 吾声を望む入にとって音声がないことはない。 く世親の反論(絞り く有蔀の説〉 もし,未来の位置に[音声がある

J

[というなら]と言われている。 〈有部の説〉

(14)

f{具合論sの持隠論における F第十三処」と開こえない音声についての考察 そのような場合,それ〈音声)はない,という知識が, [つまり]現在の それ(音声)はないということが,その場会,成立すると考えるなら, く世襲の反論〉 それ故に, [青声は]ない。 〔三時にわたって] [音声の自性は]同ーであるから,と言われる。未来 のものが現在のものである。どうして,現在のものがないのか,と言われる であろう。さらにまた,現在のものも,未来のものがないから,それ(現在 のもの)に対しでも,ない,という知識があるであろう。[未来のものと現 在のものとに]区別がないからであるという場合札特定性がある,とは, 現在の位置において関かれる。 〈量親の説〉 それ(特定住)がないから,現在のものとしてはない, と言われるなら, それ〈特定住)が前に存在しないで今存在することが成立する,と言われる から,未来の位置に[持定性が]存在しをいで,現在の位量に[特定'1宝が] 存在するからである。 く世親の結論〉 [認識の対象は]存在するものと存在しないものとの両方である,とは, 現在の位量において存在するものが所縁であり,未来の位量において存在し ないものが荷縁である。 〈解読〉 経量部(世親)はA五Bhで,音声がまだ現在にないとき,「そのまだない こと〈前無)J を所縁とする場合,その所縁は何かと問う。 有部は,その音声こそが所縁であるという。 安 慧 は T Aで , 在 部 の 立 場 と し て , 三 世 実 有 論 の 立 場 か ら , 三 時 に お い て音声の白'往に区別がないから「吾声がまだ[現在に]生じていないこと」 を所縁とする場合,未来時にあるその音声こそが所縁である,と述べる。 34

(15)

-f倶会議』の持関論における「第十三処」と関こえない音声についての考察 満増は LAで, T Aと同様の註釈をしている。 このことについて, SAで,称友は,これといった特色ある註釈をしてい ない。 世親は, AKBhで,有部の言うように昔声こそが,「音声がまだないこと (前無)Jを所縁とする人の所縁であるならば,常住なる音声がないことを 認める経量部の人々(堂蔑なりにとっては,音声は,現在有体通未無体で あるから,音声は新たに発せられる(生み出される)ものであると主張する。 世親にとって,この場合,現荘にある法の中の種子から,次の瞬間の現在の 音声の現行があることが,合意されているのであろう。 SA, TA, LAという諸註釈を検討すると,有蔀の立場では,?吾声がまだ ないこと」と言う場合の所縁は,音声そのものであり,経量部の立場では, 「晋声がまだないこと」という状態があれば,それ辻,音声が新たに発せら れる, ということを意味するのである。 有部のまだ現在にない膏声は,未来の位量にある音声で為ろう。経量部の まだ現在にない音声は,種子として,現在にある法の申に潜在しているもの であろう。 世襲はAKBhで,手Z蔀にとって「現在にまだない吾声」が未来の泣霊に あるというなら,存在しているということについては,現在の音声も,未来 の音声も変わらないのに,未来の音声について

q

まだ]ないj という知識 が起こるのか,と問う。 者、友は SAで,まず,有部の立場を説明する。有部にとっては,吾声がま だ現在にない場合,未来の位量にある音声が所縁とされる。もし,世窺など の経量部の説のように,現在有体過未無体論で,未来の位置における音声の 非存在を認めるならば,音声は発せられないと有部は主張する。無から有は

(16)

f倶舎論互の待問論における F第十三処」と間こえない音声についての考察 生じないという論理である。現在の位量にまだない,存在する未来の位置の 音声が,次の瞬間に現在の位置に移動することが,奇声が発せられることで あると,有部は考えるのであるc 安慧は

TA

で,有部の立場について

SA

と同様の註釈をする。ただ特徴 的な点は,未来の音声には現在の音声のようには作用がないということを補 足するということである。

LA

では,有部の立場について, ~詩増は特色ある註釈はしていない。 者:友は

SA

で,世親の反論について解説する。もし,有部にとって, 音声 が未来に位置している場合,現在において音声がなくても,音声が存在して いるということについては未来の位置であれ現在の位歪であれ変わらな1,,"¥か ら,その未来の音声が所縁となりうる。よって,未来・現在・過去のすべて の位置に音声がないということは,有部にとっては所縁となり得ない。 経量蔀はこの場合,現在に音声が開こえないときは,実体としては音声は 存在していないが,現在にある法の中に次の瞬間に発せられる音声の種子が 潜在しており,それが音声の非存在という認識対象でるると考えるのであろ う。その場合,吾声辻現れた実体としては全く非存在であるが,潜在してい る種子としてあるのであろう。 このことについて,

TA

LA

で,安慧とj誇増は,これといった特色ある 註釈をしていない。 世親は

AKBh

でさらに,有部にとって三時にわたって音声の自性は罰ー であるから,現在の音声と未来・過去の音声は有部にとっては区別できない と反論する。 あとで,現在の控室で認識される音声は,前に未来の位置において認識さ F O つ d

(17)

r儀会論sの待問論における「第十三処」と関こえない音声についての考察 れているのである。 称、友は

SA

で,存在するという点で変わらないから,有部にとって,未来 のものがそのまま現在のものであるという。よって, fないj という知識は 生じ得ないと解釈する。 安 慧 は TAで , 音 が 関 こ え な い と き , 現 在 の 音 声 は な い と い う 意 味 で 「ない」という知識が生じるが,その場舎も,存部の考えでは,未来あるい は過去の膏声を所縁としており,非存在なものが所縁なのではない,と解釈 する。 満増は

LA

で,存在するという点では,有蔀にとって,未来のものも現在 のものも変わらないから,未来のものが現をのものであるという。未来のも のがなければ現在のものもないことになってしまうのである。 次に世親は

AKBh

で,経量部の現主有体過未無体論で,音声の問題を解 決する。吾声の特定住は,前に春在しないで、,今存在するものである,と主 張する。 称友は

SA

で,特定'往が現在の位置において生じるとき,特定性がないと き現在のものはない,という知識が生じる,と言う。特定牲は現在有体過未 無体である。特定性があるもののみが現行として認識できるならば,特定性 がないものは現れた実在としては認識できない。よって,有部にとって辻未 来・通去の位置にある現れない所縁というものを,経量部は,現在以外の過 去・未来の位量を認めず,現在の誌の中にある港在する種子という予想・記 穫に対応するものとしての,実体としては非存在な所縁と理解したのであろ フ。

(18)

f倶会論」の時間論における f第十三処Jと関こえない音声についての考察

TA

(安慧)・

LA

0

語増)の註釈も材、友の解釈を越えない。 最後に,量親は

AKBh

で,存在するものと存在しないものが認識の所縁 であると言う。

SA

TA

LA

共に,存在するものとは,現在の位置に存在するものである と解釈し,そして,存在しないものとは,過去・未来の位置に存在しないも のであると解釈する。 これは,現在に存在して現行しているものが存在するものであり,過去の

f

立量にも未来の位量にも存在しないで,現在に潜在している可龍力としての 現れない種子がいわゆる[実体として]存在しないものと理解しているので あろう。存在するものは知覚でき,潜在しているもの{いわゆる[実体とし て]存在しないもの)は予想され記憧されるのである。 〈結論〉 以上の考察について最後にまとめてみる。 仏教の体系で一般に「非存在j と考えられる「第十三処」というものは, 有部では「第十三処」という名称である, と理解される。よって,有部iこと っては,「第十三処j も心不相応行法の中の名として実在するのであり,認 識の所縁となると言われる。 しかし,経量蔀は,この「第十三処」という名称辻,それに対応するもの がらとしての実在がないから,実在する対象を持たない言葉であるから「非 存主」であると言う。 また,耳に開こえる「第十三処J という名誌は,経量部にとっては十二廷 の中の声処以外のものではなく,組立した存在ではない。また,経量部にと っては心不相応、行法自体が認められていない。 結局,経量苦1・世親にとっては, T第十三処」という独自なものは,存在 しないし認識されないのである。 38

(19)

-f倶舎論』の待問論における「第十三処J と関こえない音声についての考察 次に,現在発せられていない未来の音声辻,有部にとっては,現在の往量 には非存在なものとして,独自に認識されると言われる。 しかし,経量部は,有部が三時に音声が同ーの自性を持って存在すると主 張するなら,未来の音声も,現在の音声も存在することには変わりはないと 批判する。 しかし,未来の音声は開こえず,現在の音声が需こえるのは,この論致で 挙げたテクスト内に辻言及されないが,経量部としては種子論で説明するで あろう。 現在の法の中の潜在する音声の種子が未来の予想と過去の記穏なのである。 経量蔀にとって実在するのは現在の現行している音声のみである。 結局,経量部・世親にとっては,「未来の音声J は F種 子J として,予想 されるものである。現れたものとしては非実在ではあるが,潜在しているも のとしては全くの非存在ではない。 以上の立場の違いは,経量部と有部との存在論の違いに由来する。 「第十三延j の議論iこ関しては,心不相応、行法(名を含む〉が有部にとっ ては実在し,経量部にとっては実在しないということから学説の違いが生じ fこ。 開こえない音声の議論に関しては,三世とt_,"¥う場所iこおいて諸法(音声を 含む)が有部にとっては等しく実在するということと,経量部にとっては, 時は現在時の連続であり,現在の法のみ実在し,未来・過去の訟は,種子と して潜在する仮有〈二非実在)なものであるということから学説の違いが生 じた。 この学説の違いは,実践的な面にも影響を与えるが,それに関する考察は ここでは差し控え,今は存在論的考察のみにとどめた。 〈略号・参考文戴〉

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(20)

F倶舎論主の待問論における F第十三処」と関こえない音声についての考察

Patna 1967 (2nd ed. 1975).

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T A: Abhidharmakosabh丞~yatïka Tattv亙rtha-r逗ma,D. No. 4421; Pe. No. 5875. LA: AbhidharmakosaUka Laksananus忌rirlI-nama,D. No. 4093; Pe. No. 5594.

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I

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Poussin, Bruxelles.

キーワード 『倶舎論』 三 世 実 有 第 十 三 処 音 声 世 親

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