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信仰と社会科学のあいだ : 評伝 大塚久雄(その七)完

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目   次 Ⅰ 新しい出発 Ⅱ 信仰と社会科学のあいだを Ⅲ   レ ク イ エ ム

Ⅰ 新しい出発

楠  井  敏  朗

l九六八 (昭和4) 年二月一日'大塚の東京大学経済学部での最後の講義(いわゆる最終講義)が開かれた。新築間

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もない経済学部講義棟の中で最も広い第一番教室は'受講する学生だけでなく、多くの聴衆で満員になる盛況であっ たO テーマは「イギリス経済におけるl五世紀」で'同年度冬学期に予定されていた大塚の講義科目「西洋経済史」 の講義を綜括するものであった。 この年大塚は'この講義科目で「前期的資本」をテーマに講じたのである。すなわち'人間の歴史とともに古-か ら存在して来た商業資本と高利貸資本が、近代の産業資本とどこがどのように違うのかという問題を'理論的・歴史 的に論じたのである。 二〇世紀前半期まで経済史学で支配的地位を占めていたドイツ歴史派経済学は'このような「前期的資本」がその まま量的に発展して、近代の産業資本へ質的に転回したと論じていた。「最終講義」 で大塚は、ドイツ歴史派経済学 が提唱して来たこの歴史理論を否定して'大塚が打ち出した近代社会成立に関する独自な考え方、すなわち'封建的 共同体の解体'そしてこれに続いて成立して来た「中産的生産者層」 (独立自営農民層と独立の手工業者層) の両極 分解から近代の産業資本が成立したことを、一五世紀のイギリスの史実に基づいて論じたのである。それはいわば自 らの理論の東京大学への置き土産であった。 講 義 の 内 容 に つ い て は 本 論 文 「 評 伝 大 塚 久 雄 ( そ の 3 ) 」   ( 「 近 代 社 会 成 立 の 経 済 的 ・ 人 間 的 基 礎 」 ) と 重 複 す る の で ' ここでは詳しい紹介は割愛する。 大塚はこの 「最終講義」で'ボスタン‖コスミンスキーの学説を紹介した後、一五世紀のイギリスが封建制から資 本主義への決定的な転換期であったこと'すなわち、封建的土地所有を基礎にした経済構造から自由な市場経済を基 礎にした経済構造への転換期であったと論じ'その原因が何に由来したものであったかを明らかにした。それは一四 世紀末から一五世紀に至る時期のイギリス農村工業の発展と'その成立・発展の基礎条件であった新しい市場、すな 68

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わち 「局地的市場圏」 の成立に基づくものであった。 講義終了後万雷の拍手に見送られて'大塚は何時ものようにリズミカルなあの松葉杖の音を残して'教壇から去っ て い っ た 。 そ の 後 ' 大 塚 は 、 ﹃ 著 作 集 ﹄   の 完 成 に 打 ち 込 ん だ 後 、 一 九 七 〇   ( 昭 和 t S ) 年 四 月 国 際 基 督 教 大 学 の 教 授 と な っ た 。 東京三鷹にある国際基督教大学は'広大なキャンパスの中に緑の木々が適当に配置され'落ち着いた風情をみせた 大学であった。中央の教会堂を取り囲むように'図書館'教室、事務棟'食堂が配備されていて、まさに絵に描いた ような大学であった。自然環境を愛した大塚にとっては'これは掛け替えのない素晴らしい大学であったに相違ないO 大塚は'この大学に'ユニヴァ-シティー・プロフェッサーとして迎えられたのである。それは、特定の専門分野に ( -) 限定せず、何を研究してもよい、何を教授してもよい特別の資格をもった教授であった。大塚はその後一九七八 (昭 ( 2 ) 和 E A ) 年 三 月 ま で 、 同 教 授 を 務 め た 後 、 定 年 退 職 し た . そ の 後 は 、 l 九 八 五 年 ま で ' 客 員 教 授 を 勤 め た . その間大塚の家庭事情にも大きな変化が見られた。長女の佐和子は一九六一年東大大学院文学研究科修士課程終了 後、経営学者高柳暁と結婚Lt一女美香をもうけた。次女正子も同様に一九六三年東大大学院文学研究科修士課程修 了後'一九六八年緑地学を専門に研究する東大農学部の井手久登と結婚Lt一女野菊をもうけた。長男和彦は東大法 学部を卒業後通商産業省(現経済産業革に入省。米国ニューヨーク州にあるコ-ネル大学に留学中に'アメリカで一 九七〇年、明治の元老松方正義の孫に当たる松方喜美代と結婚'一子圭一郎をもうけた。 + ' . 1 1 1 1 大塚は'順調に成長した孫子に囲まれた時など、顔の綻びが絶えることなく仕合せそのものであった。 69

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東大を定年退職した後'大塚の住居も変わった。東京都巣鴨区南大塚に住んでいた大塚は、一九七二年練馬区石神 井台に新しい住居を建て、そこに移り住んだ。それは石神井公園を眼下に見下ろすことの出来る静かな位置にある住 居であった。大塚はここに二棟の住居を建て'母屋は大塚夫妻の住居、離れ家は新婚の和彦夫妻の住居とした。大塚 はここから国際基督教大学に通ったのである。 70

Ⅱ 信仰と社会科学のあいだを

大塚は内村鑑三に直接洗礼を受けたキリス-者であった。東大時代は東大聖書研究会に属し'矢内原忠雄に師事し ( 3 ) た。大塚が国際基督教大学に勤務するようになったのも'恐らくこのことと関係してのことだろう。 だが'大塚は東京大学経済学部での講義その他の機会に'自らキリス-者であることを素振りにさえ見せたことは なかった。その点で大塚は憤しい信者であったと言えよう。大塚は大学では自分が経済史家であることを自覚してい た。そして公の場では少なくともその立場で思考し'かつ行動していたと言えよう。 それではキリス-者としての大塚と経済史家としての大塚は、どのようにして按合し得たのか。この間題を最後に ここで考察しておきたい。 大塚は、東京大学を定年退職して ﹃著作集﹄ の編集に集中していた一九六八年五月、国際基督教大学の宗教強調週 間で次の二つの講演を行なっている.1つは「学問と信仰 - 科学と信仰」であり、もうlつは「信仰と社会」 であ ( 4 ) った。これによるとキリス-者大塚の生活態度がよくわかるように思われる。

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A 学問と信仰 - 科学と信仰 -この講演で大塚の述べていることは、要約すると次のことであった。すなわち、科学と宗教のあいだには闘争と言 うべき一面がたしかにあった。しかし、それが全てではない。科学と宗教のあいだにはもう一つ見逃すことのできな ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ■ ● ● ● ■ ● ● ● ■ ● い重要な一面があった。それは宗教を支える信仰と呼ばれる態度 - まだ見たことのない其理が存在するということ ● ● ● ● への確信 - が科学の営みとその進展を根本において支えているということ、これである。 この講演は、高校生以上のものには誰にでもわかるように、実に平易な表現や言葉を用いて進められた。だが、そ れ故に、聞いている間は分かったような気持になるが、講演が終って暫らくすると要点さえも的確に思い出せない難 しいところがある。それは 「学問とは何か」、あるいは 「宗教とは何か」 という大切な問題を聴衆が十分に理解して いないことに起因しているからであろう。 I I己に 「宗教」といっても「宗教」といわれているものには実に多くの宗派があることに注意しておかねばならな い。これら宗派の分れを決定づけているものは 「教義」 である。それぞれの宗派の信仰内容が莫理として公認され' 信仰上の教えとして言い表わされているもの ー これが、ここでいう「教義」 である。 われわれ日本人がよく知っている宗教、例えば仏教'神道、キリス-教など'これらにはすべてへ独自の 「教義」 がある。これらの宗教、あるいは宗派が相互に対立し合うことがあるとすれば'それは、「教義」 の違いによるので あ る 。 大塚は僅かT時間内の講演中にこれらの予備知識の全てをも含めて話をすることができないと感じ、表題の意味を 限定して 「学問」を科学、とくに社会科学に限定し'「宗教」をキリス-教に大きく傾斜することを断って講演をは

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じめている。正当なやり方だと思われる。 さて、この講演で大塚が論じたのは次の四つの事柄であった。 ( 5 ) ま ず 第 一 に ' 「 科 学 」 と   「 宗 教 」 が 歴 史 上 敵 対 関 係 に あ っ た の は な ぜ か 。 第二に 「科学」が自生的に生まれでて、すくすくと成長し、現在のように独自な地位を獲得したのはヨーロッパに ( 6 ) おいてであり'キリス-教文化のなかにおいであったがへ その原因は何であったのか。そして' ( 7 ) 第三。科学者として 「科学」 という営みを行なっているのはどのような人間か。 ( 8 ) 第 四 。 「 科 学 」 と   「 宗 教 」   ( あ る い は   「 思 想 」 )   の 関 係 が ど う し て 取 上 げ ら れ ' 問 題 に さ れ る の か 。 以 上 で あ る 。 以 下、順次大塚の説明を聞いていこう。 ま ず 、 第 一 。 「 科 学 」   と   「 宗 教 」   が 歴 史 上 敵 対 関 係 に あ っ た の は ど う し て か 、 と い う 問 題 で あ る 。 大 塚 は ' こ こ で ガ リ レ オ ・ ガ リ レ イ   ( G a l i l e o G a l i l e i , 1 5 6 4 -1 6 1 2 )   の 地 動 説 に 対 す る 宗 教 裁 判 、 ダ ー ウ ィ ン   ( C h a r i e r R o b e r t D a r w i n , 1 8 0 9 -1 8 8 2 )   の 進 化 論 に 対 す る キ リ ス -教 の 側 か ら と ら れ た 頑 な 否 定 の 態 度 を 事 例 に 挙 げ 、 「 宗 教 」 と ( 9 ) 「科学」 の闘争と呼んでもよい例証を示している。そしてこの間題について'自分の体験に照らして'大略、次のよ う に 述 べ た 。 「 科 学 」   と   「 宗 教 」   の あ い だ に は ' 確 か に 根 本 的 に 違 っ た 点 が あ る よ う に 思 え る 。 「 宗 教 」   の 考 え 方 の な か に は 、 非合理なるが故に我信ず、というような'一種の倫理的飛躍が必ずあるものだから、両者はどこかで本質的に違うも のを含んでいる筈である。けれども、キリスー教の 「信仰」 は根底的に 「科学」 の営みと相反する。だからキリスー 教の信仰をもつ者は科学する'つまり科学的精神にしたがって研究に携わることはできない、というふうに決めてか ( S ) かってしまうとなると、これは相当考えてみなければならない問題を含んでいるように思う。なぜか。大塚続ける。 72

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「宗教」と「科学」のあいだには'両者に相反する面が確かにある。これは「宗教」の真の正しいあり方に起因し ているのか。あるいはまた両者の相反する面が、両者の間にある関係の全てであるのかと問い直すと、別の面が見え てくるのである。というのは、科学が現在のように独自な地位をもつに至ったのは'何といってもヨーロッパにおい ( 3 ) てであり、キリス-教文化のなかにおいてであったから。こういう事実を突きつけておいて、大塚は第二の問題に進 む。 ここで大塚は'ヨーロッパ文化の中には二つの流れがあったことを指摘する。一つはギリシャ文化の流れであり' もう一つはヘブライ-キリス-教文化の流れである。ここで'「科学」を育てたのはギリシャ文化であったと考えてい る人が多い。だが、次の事実を想い出して欲しいとして'イギリス史におけるピユウリタニズムと自然科学及び産業 の発展に見られる微妙な関係を例証として提起した。そして次のように言うのである。 「科学」なるもののなかには、ヘブライ‖キリス-敦文化のなかのある重要な要素が遺産として受け継がれている ( 3 ) と言えると。 これは、「科学」はギリシャ文化の流れの中で育ったという俗説に対する、反論である。そして第三の問題に入る。 第三の問題で、大塚はまず、「科学」なるものが人間から離れてどこか別のところにそれだけで存在するわけのも のでなく、科学者'いや広く人間によって担われているものであることを想起させ'こうした営みを担っているのは、 どんな人間なのかと問うのである。そして、それは'知的価値を追究している特殊な人'知るに値するものを知ろう ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ _ ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● と努力している人だと論じ、科学者は'さし当たって、価値判断にこだわらないで、己を虚しくして、物事そのもの' ●   ●   ●   ●   ●   ■   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●         ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   1   1         ●   ■   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●   ●         ●   ● 事柄そのものが実際にどうなっているのか、どういうふうな状態にあり'どういうふうに運動し変化するのか'そこ ● ● ● ● ■ _ ● ● ● ● ● ● ● にはどういう方法があるのか、などIこういう対象的知識を獲得しようとしている人だと述べ'だから、こうした

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人々は特別の心構えをもつ必要がある、すなわち'正直に駆け引きなしに、事実を事実としてそのまま受取る謙虚さ ( 3 ) が必要だと述べた。 その上で「科学」という営みには、もう一つの面があることを付け加えている。それは'「科学」する者に課せら ■ ● ● ● ● ● ● れた問いかけの必要である。すなわち、理論的枠組みを考え、確実な対象的知識を得ることである。ここで大切なこ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ■ ● ● ■ とは、倣慢さを捨て去ること、終始謙虚な態度を保持することである。科学的真理は限りなく深く、どこまで究めて も分からないことが沢山残っているものである。真理を発見するには'従って倣傾きを捨てて謙虚に対象に向かって いかなければならない。自分の学説なり研究が絶対的に正しいと考えてはならない。でなければ、その学説は公式主 義'教条主義 - キリスト教で用いられている吉葉でいえばパリサイ主義に陥ってしまう. この点で 「科学」は「宗教」から自己を解放すると同時に、たえず「科学」自身から解放されるものでなければな ら な い 。 こ こ ま で 論 じ て 、 大 塚 は 、 最 後 に 究 極 の 問 題   -  「 科 学 」 と 「 宗 教 」   ( 「 思 想 」 )   の 関 係 に つ い て 論 じ た 。 第 四 の 問 題 で あ る 。 先に大塚は'「科学」はたえず「科学」、あるいは「宗教」 から自己を解放されなければならないt と述べた。しか し、ここでは'大塚は「科学」という営みの奥底には'土台としてそれを支える「思想」なり「宗教」がつねに存在 しているということを想い出させたのである。しかし、この場合'大塚は限定をつけている。どの「思想」、どの 「宗教」 でもすべてが「科学」 の営みを支えてきたのではないと0 ( 3 ) 世界史上「科学」を生み出し'それを支えて来たのはただキリス-教だけであった。正確にいえばヘブライ-キリ スー教文化がギリシャ文化と手を携えて科学的精神の生誕に大きく貢献して来たのである。それでは'その原因は何 74

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で あ っ た の か 。 大塚はここでM・ヴューバーによりながら次のように言う。ヘブライ=キリス-教文化は「呪術からの解放」に大 きな推進力をもたらしたからだと。すなわち'キリス-教が「科学」の営みを内面から支え'推し進め、科学的精神 ( 3 ) を成立させるために決定的に大切なものを提供したのはへこの「呪術からの解放」をやり遂げたからであった。 それでは「呪術からの解放」とは何か。ここで大塚は、旧約聖書の「ヨブ記」を持ち出して説明する。そこには神 の創造の業と、それを支え、また動かしていく神の摂理の事実が、事細かに語られている。 これまで律法に逆うことを何一つ行なったことがなく、懸命に律法を守り続け'自分こそ神の前で正しい人間であ ると思い込み,今自分に訪れている災厄に、なぜこんなことが起こったのかと必死に抗議していたヨブは'つむじ風 の中から聞こえて来た神の答えを聞いて,完全に納得'口を喋んでしまうという最後の件り(「ヨブ記」三七-E]二章)o そこには,神の驚くべき創造と摂理の事実は、人間の頭では分かったつもりのことが真実の全てではない。そこには ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 人間の理解を遥かに越えた,さらに広大な真理があることを納得させる響きがあった。それゆえにヨブは口を喋んだ の で あ っ た 。 ヘブライ思想の中にはこのような強烈な「思想」があり'これがキリス-敦文化のなかにも流れ込んでいる。大塚 はこう論じ、この謙虚さが「科学」の成立を支えた根本的条件の一つとなったのだと述べた。 それでは「呪術」とは何かOさらに「呪術からの解放」とは何か。- 「呪術」とは、いろいろな呪術的方法によ って現実と取引しようとする態度のことである。自然や人生の背後にいると考えられている八百万の神々、あるいは 無数の精霊(spi畳に対して,お供え物をしたり,何か呪文を唱えて歓心を唆り'これを通じて精霊と取引をして' ( 3 ) 自分の目的を遂げようとする宗教的態度-これが「呪術」である。こうした「呪術」によっては、物事は決して解

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決しない。それは'人間の頭ではどうしても知り得ない世界があるからで,人間はこの神の創造の業と摂理の事実の 前に謙虚に脆いて悔改めをする以外にない。ヘブライ=キリス-教文化は、他の宗教と違ってこのことを教えたので ある。「呪術からの解放」とはまさにこれであった。 さらにキリスト教にも流れ込んでいるこの強列盲思想の例として、大塚は新約聖書の「へプル害」(「へブル人への 手紙」)第十毒に記されている「信仰」の定義を挙げている。「信仰」とはまだ見たことのない真理が存在している ことへの確信であること。そして、これが、人間が現在もっている認識の枠組みでは掴みとれない真理への確信をわ れわれに与えてくれるのだ、と。 公式主義とか教条主義、あるいはパリサイ主義といわれる偏向に陥りがちの「科学」の営みは,これによってつね に健康な姿に引き戻され'歯止めをおかれることになったのであった0 (W こうして大塚は、科学の根底には、「信仰」がなければならないと述べて,講演を結んだ。 76 B 「信仰」と社会 一九六八年五月国際基督教大学の宗教強調週間で行なわれた大塚の二日目の講演は、「信仰と社会」であった。こ こで大塚はt M・ヴエーバーの﹃宗教社会学論集﹄tと-にその「序言」で論じられている「神義論」 - 「幸福の 神義論」と「苦難の神義論」を論じ、「宗教」‖「思想」のもつ社会への影響力を論じた。以下がその要旨である。 「宗教」はこの現実の社会でどのような働きをするのか。-この問題に対して多くの人々は,次のように考える のが普通である。すなわち二宗教は、この現実の社会から人々の目をそらさせてしまう働きをもつ」と。

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この一般的な考え方に対して'大塚は、「宗教」 と 「社会」 の関係にはそうした一面が確かにあるし、事実、その ような性質をもっている 「宗教」 があることも間違いない。しかし'「宗教」あるいは「信仰」と現実の 「社会」 と ● ● ● ● ● ● ● ● の関係を'もともとそのようによそよそしいものだといってよいかと問題を提起して'主題に入って行った。 講演は次の構成をとっていた。 第一に'キリス-教の事例を挙げて'社会に対して疎遠でない宗教であるキリスー教を想い出させ' 第二にt M・ヴエーバーによりながら、社会的現実に対する「宗教」の態度として三つのタイプ'すなわち'回「呪 術」の態度、囲仏教に見られる「隈想」の事例、そして回「社会的現実」の莫只中でこれと対決するキリス-教の事 例を挙げ'大雑把に分類して、一つは社会的現実に対して傍観的態度をとるタイプ。いま一つは'これと反対に'社 会的現実に積極的に取り組んでいこうとする態度をとるタイプの二つを説明する。そして' 第三に古代ユダヤ教からキリス-教に至る思想の流れに身を置いて、文化宗教に見られる「神義論」 (または 「弁 神 論 」 ) 「幸福の神義論」と 「苦難の神義論」を紹介し'個々人の心の内面を支配している「信仰」 の意義を考 察 し た 。 以下この線に沿って順次紹介していくことにしよう。 第一。キリス-教が現実の社会に対して疎遠でなかった事例として、大塚は二つの事例を挙げている。一つは明 治期日本のキリス-教の事例である。このキリス-教が現実の社会に対して疎遠な感じを日本人に対して与えるよう ( 2 ) になったのは、大正末期から昭和初期の頃であったoそれはどうしてか. - 大塚はこれに対して直接に答えてはい ない。だが'後段で 「苦難の神義論」を説明した後に、次のような事例を挙げているのが参考になる。 一九世紀末から二〇世紀初めにかけて'ドイツでマルクス主義が人々の心を捉えキリス-教離れが進み'社会民主

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党に近づいていく傾向が見られたo M・ヴューバーはその原因を尋ねて調査したo そして'マルクス主義は科学で科 学的に正確な知識を与えてくれるからだと答えた人の数は極めて少なく、マルクス主義は、自分たちの現在の苦難の ( 2 ) 原因と救出方法を知っているからだと答えた回答が遥かに多かった事実を知った。 大正末期から昭和の初め'日本でのキリスー教離れが進んだ原因も'恐らくこれに類似した現象があったからであ ろう。 - 大塚がこう推定しただろうことは想像に難くないO 次に大塚は旧約聖書の 「モーセの五書」 の中の 「申命記」を引用Lt モーセに対するヤハウェの呼びかけの言葉' 「私はあなたの神、主であって、あなたがたをエジプ-の地、奴隷の家から導き出したもの」 に注意を促している。 大塚はこれを、「あなた方は奴隷の子孫なんだぞ。それを絶対に忘れるな」 という意味に理解し、「私ヤハウェはあな た方に命じる。貧しい人々'あるいは雇われて貫銀をもらっているのに過ぎない人々、あるいは奴隷、あるいは孤児 や寡婦、それから寄留して寄るべのない他国人'こうした人々を大切にしなければならない」 という思想こそ'モー ( 8 ) セ律法を全体として貫ぬいている思想だと理解した。 大塚は'この旧約聖書に見られた精神が、新約聖書の中にも流れ込み、古代ユダヤ教からキリス-教の歴史に脈々 ( 」 ) と伝えられたと述べたのである。例えば新約聖書「ルカ伝」第一〇章に記された 「よきサマリヤ人」 の讐話である。 それでは 「疎遠」 な関係にある宗教にはどんなものがあるか。 大 塚 が 先 ず 第 一 に 挙 げ た の は 、 「 呪 術 」   ( M a g i e ) で あ っ た 。 や お よ ろ ず 「呪術」 とは'いろいろな呪術的方法によって現実と取引しようとする態度のことである。八百万の神々、あるい は無数の精霊が自然や人生の背後にいて、それがそれぞれいろいろな職能をもっていると考えられていて、そういう 精霊'あるいは神々に対して、例えばお供物を供えたり、呪文を唱えて願い事をすれば、目的が叶うと考えられてい 78

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( 2 2 ) た。 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● 大塚が次に挙げたのは「瞬想」 であった。「隈想」とは現世からの観念的離脱に他ならないOすなわち'現世の不 幸な現実のただ中で、自分自身の救いを確保しようとする行為、つまり「隈想」 によって自分の安心立命を得ようと ( 2 3 ) する態度である。 「 瞬 想 」   の 代 表 例 は 、 ヒ ン ズ ー 教 = 仏 教 に 見 ら れ た o ヒンズー教=仏教には 「輪廻」 の思想がある。これは'人間は絶えず「業」へ 「カルマン」を負わされて生まれ変わ り死に変わりしつつ、迷いの世界を流転していくという世界観に基礎づけられている思想である。「院想」 とは'こ の永遠に続く流転から何とかして遮れて自分一人の救いを見出そうとする宗教的方法で、「限想」 という行為がとら ( S ) れた。これによっては現実の社会に対して積極的に働きかけようとする態度は出て来ない。 ここで大塚は立ち止まって'聴衆に注意を促している。今述べたのは1つの理論的=類型把握によって論述された ものであって、勿論例外はあり得ると。例えば、キリス-教思想の場合にも'例えばドイツ中世の神秘主義の場合に は、際想的態度がありへ現実に対して疎遠な態度がとられたし、仏教の場合も全てが瞬想的であるのでなく'社会的 現実に対してかなり激烈な行動的働きをする宗派がある、などなど。 いずれにせよ。ここで大切なことは次のことである。社会的現実に対する人々の態度には、しばしば正反対を指向 するようなタイプの相違があるが、この相違は歴史を潮っていけば'最終的には宗教的な教義'あるいは宗教的世界 ( 2 5 ) 観の相違に由来するものであるということ'これである。 大塚はこのように述べて、最後に、マックス・ヴューバーによりながら'重要な文化宗教'つまり「呪術」 の段階 を 越 え ' 十 分 に   「 思 想 」   と い っ て も よ い も の を 備 え た 宗 教 の   「 教 義 」   の 中 に 見 ら れ る ' 「 神 義 論 」   ま た は   「 弁 神 論 」

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( T h e o d i z e e )   に つ い て 論 じ た . M ・ ヴ ュ ー バ ー に よ る と 「 神 義 論 」   に は 二 つ の タ イ プ が あ っ た . 1 つ は   「 幸 福 の 神 義 論 」   ( T h e o d i z e e d e s G l i i c k e s ) ( 2 6 ) で あ り へ   い ま l つ は   「 苦 難 の 神 義 論 」   ( ≠ e o d i z e e d e s L e i d e n s )   で あ る o 「幸福の神義論」とは、幸福な人々'とくに社会的に優越した地位にある人々から生まれてくる「神義論」である。 ● ● ● ● ● ● ● ■ 二百でいえば今の自分の幸福な状態を正当化する考え方であるといってよい。幸福な地位にある人々、例えば教養の ● ● ● ● ■ ● ● ● ある知識人は'自分たちがこうして支配的地位にあり、幸福な状態にある理由は、例えば血統に基づくものだと考え て自分の 「現在」 の幸福を正当化する。歴史上「幸福の神義論」 の方が早く現れたが、ヴューバーによると、この ( 2 ) 「幸福の神義論」 からはへ真に深い思想は生まれなかったという。 これに対してイスラエルで現われた 「神義論」、前述したあのモーセの律法にはじまり'旧約聖書全体を貫ぬき、 キリス-教にも脈々と流れ込んだ考え方は'「苦難の神義論」 の代表例である。 - なぜこの世にはこんなにもたく さん苦しみがあるのか、この苦しみは何に由来Ltどうすれば人々はこの苦しみから救出されうるか。このことを間 ( 2 8 ) い続けた 「神義論」 であった。そして現世おいて 「苦難」 のなかにある人々'とりわけ抑圧された社会層の方に' ( 2 9 ) 「苦難」を取り除く宗教的使命が与えられていると考えたのであった0 ここまで論じて来て'大塚は'最後にイスラエルの人々の場合、どうして歴史上例外的に 「苦難の神義論」 が作り 出されることになったのか、と問うたのであった。そして、一つの理由として宗教意識の担い手が'他でもなく「苦 難」 のうちにある被抑圧社会層であった事実を挙げている。そして今一つの理由として'ユダヤ教からキリスー教へ と続く流れの中では'手工業者だとか'職人だとかいう人々が'その思想の受け入れ者(担い王として非常に大き な比率を占めていたこと。そして'第三の理由として、ローマ帝国の版図内で生活した、その大半が同様に手工業者 80

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であった解放奴隷が、キリス-教の受け入れ者(担い手)なったことを挙げた。彼らは自分たちの 「不幸」・「苦難」 はどうして起こったのか'この 「苦難」 からの救出はどうすればよいのか。 このことを常に考え続け、これを自 らの行動倫理として持ち続けたのであった。 マルクス主義が一時期、いろいろな国々の労働者に受け容れられたのもへマルクス主義の中にこの「苦難の神義論」 ( 3 0 ) が流れ込んいたからである。大塚はこう言い切って、講演を閉じた。 Ⅲ   レ ク イ エ ム 大塚が東京大学経済学部に復帰した1九三九(昭和S)年四月から、定年退職した一九六八(昭和g)年三月まで、 * " -' + . -^ 大塚演習に参加した学生は全体で一七八人である。これらの演習生は自然発生的に同窓会を組織Ltその同窓会を 「 ヨ ー マ ン 会 」 と 呼 ん だ . 「 ヨ -マ ン 会 」 と は l 五 ⊥ 六 世 紀 に イ ギ リ ス 近 代 化 を 背 負 っ た 独 立 自 営 農 民 層 ( Y e o m a n r y ) から探られた名称であることは、いうに及ばない.最初の会長は1九四1 (昭和S)年卒業の1回生遠藤湘吉(のち 東 大 教 授 )   で あ り ' 彼 の 急 逝 後 は 一 九 四 三   ( 昭 和 は ) 年 卒 業 の 大 内 力 ( の ち 東 大 教 授 ) が 当 っ た . 一九〇七(明治S)年五月三日が大塚の誕生日であった関係上、この日を記念してその前後の適当な日を選んで' 毎年同窓会が開催された。運営のために'これも自然発生的に幹事数名が選任されて事に当った。 国際基督教大学では、正規の演習はなかった。だが卒業論文作成のためには指導教授が必要で'大塚を指導教授と した人々の間にこれも自然発生的に同窓会、フライデイの会が作られた。大塚がダニエル二丁フォウの小説﹃ロビン ソン・クルーソー﹄を一八世紀イギリス史を語る際史実として多く用いたので、これに因んでフライデイの名が同窓

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会の呼び名として用いられたという。 この二つの会が合同して記念会を催したのは、大塚没後一〇年経った二〇〇六年のことであった。 大塚が東京大学を定年退職した後にも、ヨ-マン会は毎年五月に開催された。しかし'亡くなる四・五年前には、 大塚の体力が都心にまで出向くのに無理だと判断されて、幹事が代表して石神井台のお宅に赴き'記念品を贈るのが 習わしとなった。大塚が米寿を迎えた、一九九五(平成七)年には'自宅周辺の散策のためにと車椅子が贈られた。 大内会長はじめ幹事一同の来訪に大塚は心からの笑みを湛え、感謝の意を表していた。 ここで大塚の妻貞子夫人のことを記しておかねばならない。貞子夫人は、大塚に先立つこと一〇年前一九八六(昭 和G)年二月1六日、天国に召されたoそれは﹃大塚久雄著作集﹄補巻(ll-1三巻)刊行開始と時を同じくするもの で、紅梅の花が咲き乱れる頃であった.t九四〇年代以降の大塚の病気と育児が重なって'貞子夫人の身体は至ると ころに病気を抱え'医師の世話にならない季節がない日の続く状態になっていた。励まし励まし、自らの生活を律す ることで、一家を支えて来たといってよい。 一九六l(昭和墾年四月筆者が東大大学院に入学し'入門を許され、ご挨拶に伺った時、出迎え頂いた貞子夫人 に初めてお目にかかった。質素な身なりで'憤しく上品で、新参の門下生に接して-だきった。心もち首を前方に突 き出しお茶の接待をしながら、優しいお話を頂いた。 一九七五(昭和R)年二月大塚が文化功労者に選ばれ、お祝に伺った頃には'頭髪は既に裏白であった。名古屋 市東区布池町32番地1-0に岡崎熊三郎の四女として出生。一九三五(昭和1 0)年七月三日大塚と結婚。五〇年九カ月の 結婚生活であった。 その後、ヨ-マン会の幹事が訪問しても、あの慎ましい貞子夫人の姿はもはや何処にもなかった。 82

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貞子夫人の葬儀は国際基督教大学教会堂で取り行なわれ、所揮聖地霊苑に葬られた。 貞子夫人が天に召された後'大塚の淋しさはいい尽くせぬものであった。大塚はその後も生涯の一大事業だと思っ て、マックス・ヴエーバー﹃プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神﹄ の訳業を続け'岩波文庫版序文と訳者 解説をも書き改めている.仕事を続けることで、淋しさが顕れると思って、それを続けたO 幸い在宅医療の医師団や周りの人々の温かい励ましに囲まれ、日常生活は平穏であった。だが'一九九二年草成 4)年二月に文化勲章を受賞した時には'嬉しさよりも悲しみの涙がとめどもなく溢れ出た。「貞子。貞子。長い あいだ有難う。遅くなってごめんなさい」 と、泣き崩れた。 大塚は一九九六(平成且年七月九日、自宅で他界した。その年の五月にヨ-マン会の幹事が訪問した時には前年 i i U m 児 贈呈した車椅子に座り、成長した孫子にも囲まれ、l時間半ばかり談笑していたのにと、想い返えされる。 葬儀は貞子夫人と同様国際基督教大学教会堂で七月十七日に取り行なわれ、所揮聖地霊苑に葬られた。 注記 ( -) ( 2 ) ( 3 ) ﹃国際基督教大学学報﹄Ⅲ-A、﹃アジア文化研究﹄Ⅱ、および石崎津義男﹃大塚久雄人と学問﹄みすず書房、二〇〇 六年一一七頁。 石崎著、二二五、二二八頁 大 塚 久 雄 「 ︽ 聖 書 ︾ と 私 」 ' 「 矢 内 原 先 生 に お け る 信 仰 と 社 会 科 学 」 、 「 東 大 聖 書 研 究 会 の こ と 」 ' 「 矢 内 原 忠 雄 先 生 へ の 弔 辞 」 ' 「 解 説   矢 内 原 忠 雄 著 ﹃ マ ル ク ス 主 義 と キ リ ス -教 ﹄ 」 、 「 書 評   矢 内 原 忠 雄 著 ﹃ 教 育 と 人 間 ﹄ 」 ' 「 書 評 ﹃ 信 仰 と 社会科学と - 矢内原忠雄全集﹄第一六巻月報」、「封じこめられた真理をいまこそ - 失内原忠雄﹃土曜学校講義﹄ 1」。以上'﹃大塚久雄著作集﹄第十巻'二七-二九㌧ 三両⊥三七、三六⊥四一、一四八⊥五〇㌧一五一

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⊥五六'一五七⊥五九へ一六八⊥六九頁。 4 (4) この二つの講演は、﹃昭和四三年宗教強調週間講演集﹄国際基督教大学宗教部、非売品、一九六八年tに収録されてい 8 る。また﹃大塚久雄著作集﹄第十巻'六二-九五頁をみよ。この主題に関連しては'古川順1 「大塚久雄 - リベラ ル・プロテスタンティズムとヴェ-バー」 (鈴木信男責任編集﹃日本の経済思想2﹄日本経済評論社、二〇〇六年' .-∼. .-・、      ′一ヽ   (   ′-、  (   ′ーヽ ′-■・・、 ′-I-、 ノー・、       ノ 、 2423222119181716151413121110 9 8 7 6 5 ヽノ ー ヽー ヽー   )   ヽ J  、 J    )   \       ヽ J    ) 第 五 章 )   を 参 照 。 ﹃ 大 塚 久 雄 著 作 集 ﹄ 第 十 巻 ' 六 二 -六 五 頁 。 全 書 ' 六 五 -六 六 貢 。 全 書 ' 六 七 -七 二 貢 。 全 書 ' 七   七 八 貢 O 全 書 、 六 二 -六 四 頁 。 全 書 、 六 四 頁 O 全 書 、 六 五 頁 o 全 書 ' 六 六 貢 O 全 書 、 六 八 -六 九 頁 。 全 書 、 七 三 -七 四 頁 。 全 書 、 七 五 頁 。 全 書 ' 八 四 頁 O 全 書 ' 七 五 -七 」 ハ 頁 。 全 書 ' 七 九 -八 〇 頁 。 全 書 、 九 一 -九 二 頁 。 全 書 、 八 二 -八 三 頁 。 全 書 、 八 四 頁 。 全 書 ' 八 四 -八 五 貢 . 全 書 、 八 六 -八 七 頁 。

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3029 28 27 26 25 全 書 、 全 書 ' 全 書 、 全 書 ' 全 書 、 全 書 、 八 七 頁 。 八 九 -九 〇 百 。 八 九 頁 。 九 〇 頁 。 八 九 -九 一 頁 。 九 〇 L 九 四 頁 。 85

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