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日本女医史の研究(二) : 高橋 瑞子

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日本女讐更の麟究

儲)

醤學士吉

 初代女醤荻野吟子女史は.前號の爲眞にても知らる曳如く.外見極めて柔和にして.而臨四に彊重なる意志の持主であった が、第三代高橋瑞子女史は、内外共に頗る豪傑肌の人物であっだ。女史の篇翼を掲載するから.その風貌を熟載せられよ。  女史が、日本女早史に取って特筆せらるべきは.女子の爲に馨學校の門戸を開かれた最初の入であるといふ鮎である。此の 事は、荻野吟子女史が女子の書術開業試験に諭する樺㎜利を獲得せる功と共に.女筈の開拓者としての功婦中は、永久に浩ゆるも のではないだらう。此の黙に於ても㎜畢に第一二代の女車としてよゆも,更にノ\女史の功績が認められるのであるω。  そこで、下書校の門戸を最初に開放した婦女といふ由來を.こ玉に物語らうと思ふ。私自身の禿筆を用ふるより、女史自身 をして語らしめよう。これは大正三年憲.日本博讐倉員が.女史を訪問した節の問答の︸節である①。 ﹁私が盛事時代は随分惨めなものでした。何しろ素寒貧の上に.肇費と云っては親からも誰からも、何一つ補助を受けません  でしたからね。とても今の方には御想像もつきますまい。ですから母校へだって金のある聞だけ通って、其内に一ケ月もす  ると金がなくなるから止めて.叉金をためて行くといふ風で.満足に行く事は出警ませんでした。﹂  女史が學生時代苦墨せられた歌況は.充分是で了鯵が出來るのである。    告樋H口本女讐史の研究       一二五

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   由口⋮岡“H[本女三酉史の研究      一一=ハ ﹁亡者になゆ度いとは豫ての願ひでありましたので、忘れもしない明治十六年の三月でした。長井せい、岡田光と私の三人で  時の衛生課長長輿專齋氏に女馨を許可して曲れる様再三頼みましたが仲々聞き入れまぜん。他からも頼んで.來て居るが,ま  だ時期が到らぬから今少し待って呉れ、薩婆開業の方は許されてあるから.産婆の方をやって居て直れとばかりで一向はか  どりません。︵産婆の墨壷は既に十五年に貰ってあるのです。︶已むなく前橋市へ参りまして産婆を開いて居りました。あち  らには、まだ本態の冤罪を得た産婆はありませんでしたから、立地に居る間には随分土地の爲に鑑しました。有力家を読い  て産婆墨校を設け.産婆ω地位,學力を高める事業も計りました。﹂  當時女讐となる累の困難な有様が,如實に物語られて居る。 ﹁斯うして居る申に︵明治︶十七年の八月か九月かに墨壷を許すと言ふ事が東京から傳はりましたので、早速上京致しましたが  肝心の學校が無いのです。﹂  これは、荻野吟子女史の湿動で、女讐が許可された時代である。これからが、高橋女史の活動舞墓であったのだ。 ﹁これでは仕方がありません。長谷川さん︵當時の濟生星舎長、長谷川泰氏︶に直接談判し様と決心して、濟生學舎の門の前に  毎日頑張って居ましたが、生憎なものでなか一出逢はないのです。漸くの事で逢ひましたから、懇々と謬を話して頼みま  した所、兎に角馬歯が許されたのに學校が無いとは不都合であると思ふが、自分の﹂了見にも行かぬから、敏授蓮と相談の  上で返凹し様との事で。愈々入墨が許されたのは同年︵明治十七年︶の十二月でありました。其時分女生徒は私一人だつたの  で、他の蒼生から随分馬鹿にされましたつけ。教室へ這入ると足拍子をしだり、ボールドへ悪口を書いたりしたものです。﹂ iかくして、途に、我が國で、讐學校の門戸が女子に初めて開かれた諜である。高橋女皮の功績は、誠に不朽なものであ る。入學後も、如何に困難を営められたか、文面に依るも、想像に盗りがある。 ﹁翌十八年の春、前期を及第しましたが、それから含煮かで實地に患者を見なければなりません。それには順天堂病院が最適  當と思ひまして、入學を願ひましたのに、同じく女子は若美させぬといふ事で再三頼みましたが、許可されませぬ。そこで

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 私の下宿の隣に居た佐藤進先生の甥某と言ふ人が見験ねて.先生に話してくれましたので、漸く入る事が出來煮した。就い  ては月謝は免除して貰ぴましたが庵規則として.束修の五圓だけは納めなければな聯ませんでしたのが、其の華魁すら無い  ので、どうぜ夜分本當に寝た事はないのですからも夜具を費って基金を調達しました。然し其五器は、程なく返して下さい  ましたから、・それでやっとステトスコープ等を買ふことが出來たのです。先生も奥様も非常に親切に御世話下さいまして、  奥様は衣類までもこしらへて下さいましたG叉先生や佐藤佐先生等は病院の患者に撃て委しく親切に御敏笹下さいました。  これが天砧であ砂ます。﹂  百難に屈せす、順天堂熾盛に入つπ物語は、女史の霞目を躍如とせしめて居る.その苦學の歌況は.誠に現代では、撫像だ も及ばざる事である。 ﹁斯様にして、十九年春、後期試験に及第しました◎此の満二年聞と云ふもの.夜分は本當に床を敷いたことはありません位  .でした、殆んど寝る暇がなかったのです,畢校は六時に始まりますから四時孚頃からら書物を首に脊負って、てくく出掛  けますと、まだ暗いし、妙な丁寧をして居るものですから.よく巡査に餐められましたよ.ハ、、。それで夕方は七時頃か  ら臨って復脅を濟まして、十二時頃から又内職に取掛のましお。だから凝る暇なんか殆どありません﹂。  目出度醤師となられ.第三代の女醤となったのであるが.その間の苦心は.濡夫をして奮報せしむるものがある。次いで ﹃明治廿年一月、此丈︵日本橋国詰大工町︶に初めて開業しました。併し日本ではまだ女馨を研究させてくれる廣がありません  ので、是非一度海外へ行って患者を澤山診て來たいと思って居ゆました。幸.佐藤先生の奥さんの弟さんが米國に居られる  からそこへ行くなら御金も掛らないからと仰って下すつたのでしたが.佐藤佐さんに.いっそ行くなら本場の濁逸へ行って  は全うだと云はれて、そうしませうと冒ふ事にな夢.突飛な話ですが.金主を見付けて猫企行と云ふ事にきまりました﹄。  かく.女史は日本橋に開業したが.典の鶉侠的廃館と這々落々たる態度とは頗る江戸ツ雄弁分に適し、魚河岸方面の入氣に 投合して、診療を請ふもの門前市をなすの歌を呈し陀といふことである。    吉岡・翻H本女竪史の砺銘      一二七

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   吉闘H口本重二皮の獄舞      一二八  斯る盛況にあっても、女史の燃ゆるが如き好學心は止まる事を知らす、前述の如く、明治廿三年漂然ドイツへ留學された。 今日より見れば、女子の留書も敢て異とするに足りないが、當時に在ては實に異数であったの忠言ふ迄もない。其の間の事情 を、女史自身に聞かう。 ﹁丁度其時、榎本武揚さんがあちらへ御立ちになるので連れて行って貰ふ筈でしたが、急に榎本さんの方は中止になったので  一入出撃しました。偶然にも華中で一人の日本人を見掛けましたので、なつかしく思って話しますと、私もドイツのプレー  メンに行くのだとの話。共人は今嘘字の+杢病院長をして居られる山根文作さんです。   あちらに着いてからの苦勢は、とても御話になりません。   ベルリン大腿では自分の國の婦人でさへまだ入學を許しませんでした。敏授に直接逢って事情を話したくも言葉が通ぜす  丁度私の下宿の前は婦人科の病室で、毎日それを眺めなから、あの中へ入れて貰へないと思ふとロ惜しくて、一嵩あの病室  の前で首を括ってやらう。さうすれば自分一人犠牲になってあとの人々の爲に道が拓けると實際燈悟した事もあのましたQ   併し其内ある機會を得まして、下宿屋の老婆と共に大學婦人科宗室のウオルスハゥゼンやマルチンに面會する事が出來ま ゴしたから、こ玉ぞと一生懸命になって片言乍ら自分の希望を述べました。熱心は恐しいもので、どうにか意味が向ふへ通じ  たと見えて、快く承諾し、それでは學生として入れる事は規則が許さぬが,客分として毎日斯てもい玉と言ふ慕になりまし  た。私の方は却って客分として扱はれた方が、敏授の傍に椅子等を與へて鄭重にして貰って便宜な事もありました。それで  此のウオルスハウゼンやゼナトールやマルチン等に懇篤なる教を受けました。マルチンは日本に露ってから噛、度々珍らし  い患者に就いて手紙をくれますし,爲貫等を此の間、途ってくれました。﹂ 誠に、女愛のドイツ留心中の苦心は、察するに飴りがあろ。女早ならでは出來ぬ事であったらう◎ ﹁斯うして﹁年を伯林に暮しました。所が突然喀血しましたので,巳むを得す、鶴國せねばならなくなりました。此の時は先 の三人の方が代る一診察して下すつて、皆とても駄目だ、船中でもむつかしいだちうと云はれたのですが,露って宣ると

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 不思議に何ともなくなって今は斯の通ゆです。﹂  繁く外瞬で大患に罹砂しも.幸ひ天は此の女丈夫を見捨てる事はなかったのである。そして録朝後は信用寺門厚く、業務の 獲展頗る顯著にして.同業者間の羨望の的となった程である①。  緒方正清博士の日本産科學史㊥には.女梁の此のドイツ留學に就き次の如く述べて居る。 ﹁同年︵明治二十四年︶四月産科婦人科研究の爲凋逸に留學せし高橋瑞子麟朝す。女面にして封建に留尽せしは氏を以て始とす  衆民猫逸大罪に於て未だ女讐入學を許可するの規情なく,予︵緒方正清信士︶は同氏の依糧により、維納大塵ブラウン藪授  に計りしも、途に許話するに至らす。氏はポツツダーム開業潮入科馨及私立マルチン嬬人科病院に於て實地夏春せり。﹂  私はこ玉鴨二轄して、女史の生立を記して見よう。  女史ば高橋駿六郎氏の第二女として.嘉永五年十月二十四爾、愛知縣幡豆郡西尾町に生れたのである。父駿六郎民ほ漠墨者 であったから、幼時より嚴粛な家庭に育てられ.保守的の時代思潮に包まれて人となったのであるから、普二百の教育を受け 叉漢學漢文を授けられた慕も想像に難くない。  善言で一言述べなければならないのは、高橋女史は、心霊になってからの事蹟は.糟當明瞭になって居るが、二五の事は殆 ど分って居らないのは非常に残念である。筆者は.高橋女史の門弟.女讐、江間調子氏の御厚意に依り、稽々其の聞の事情が 明かになったから、此に述べる事とする。かく事情が不明なのは.女史の結婚が極めて不審功に絡つたので、其の爲女史自身 が入に語る宴を避けたに逸する喜多大であらう。江間氏の余が頂いた書翰にも、﹁高橋先生は過去を物語る事至ていやがられ年 齢さへ辱ねても年に一つム\年は取るものだとのみにて死亡されではじめて承知致し候位ひのものにて委しくは存じ不申候﹂ 主あ塾.大髄其の心境が察せられるのである◎  それは兎も角、女面は郷重に居られた時、既に結婚せられたのであるが、︵それ捲当歳の時か不明である︶その結婚は極めて 不調で,而も婚家は絵程吝膏で.食事を惜んで女史は搬⋮翻し潅事かなかったといふ事である。而も此の夫君は︵︸読には車夫    書潤打口本女盤史の研究        一二九

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   吉岡H日本女騎皮の研究      一三〇

であったといふ事であるが.眞儒は⋮判然しない。︶女史にとっては少々臓力不足の感があったので、遽に自分から離縁してし まった。そこで、何んとかして自活の道を立て様と大に苦心した様子で、途に産婆に志し、上州前橋市津久井と申ず家で撒年 間産婆を砂地に習得した。此の津久井家といふのは代々讐家で、瞬時未亡人が産婆を開業して居り、其良人といふ方は殊に産 科に熟宣して居たとの事である。女史は、此の家に見習きして住み込んだのである。其後、女史は櫻井事事欝の東京産婆學校 へ入學、卒業後再び津久井家に戻り、産婆に從殺したが、産婆のみでは不充分と考へ、是非讐墨を修得せんと考へたのであっ た。斯ぐて途に意を決して上京し、女馨となるべく蓮心し.その後のことは並立の、如くである。爾.前記の産婆學校及び馨學 校に於ける霊魂の墨資は,此の津久井産婆の厚意に依るもので、女史にとっては、老母は第二の親ともいふべ遷恩人である。 而して老母は既に故人となられた。  女史は性來強健にして能く苦學に堪え、其の豊満なる醒纒は能く人を懐柔し。業務は年を追ふて隆盛であっだ。然るに女史 は、老齢の爲、大切な人命を預るに萬一間違があってはならぬと、大正三年漏六十歳にして断然斯界から引退せられ、悠々風 月を友として絵生を逡られたのである③。  女史がドイツ留塵申喀血せられたのは上述の如くであるが、其後大正元年.血管枝加答兇に罹り、引重き三管枝膿漏であら うか臭氣ある血褻を出すこと一週間、共の後引績き喘息檬の難詰夏冬共に起し、殊に冬季に於て甚しかった。然るに大正六年 九月、自動車に右足部を礫かれ、同時に人事不省に陥られた。重縫、左後頭部に裂傷を生じ出血甚しく、同時に膝蓋下よゆ足 部まで三倍大の太さに腫脹し,暗黒色に断じ血瘤檬のもの生じ、順天堂病院に一11切開を行ぴ治癒した。次いで、大正九年夏、 突然全腹部に甚しき膨満感があって甚だしい苦痛を言えた.︶南博士及び高比良欝師が診察の結果,雑石症と診臨されたが、疹 痛はなかつだの。  斯ぐて、此の年から兎角健康が勝れなかったのであるが、大正十年前春.多川澄子氏が病氣見舞κ行かれた一文④を拝借し て、當時の女皮を偲ぶ因とす乃。

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 零時、女史は京橋匿五郎兵衛町に居佳ぜられて居たが驚凝に昔日の元氣はなかった悉のの様で、次の如く霧音を吐いて居ら れる。 ﹁こんなに生きる積ぢやなかったのに、叉生き延びちゃってどうも閉口です。イヱほんとに用のない身艦を生き延びてしまぴ  ましたよ。三業してからもう十年にな夢ますからね。こんな積ぢやなかったのに⋮一⋮。﹂  その時、大正九年の病患の症状を話して居られるから.摘記する。大正九年八月一疑.食物の小言等を云ぴながら、重々不 愉快に食事をされてから、翌こ月の朝俄かに嘔吐秘まむ謄汁を吐出する事野曝に六七杯. 一週聞後になって腹部に﹁種名歌す べからざる緊習性の痙痛があって.非常な苦悶を訴へ、嘔吐によって一時緩解する。又一週間位すると爽作が起る。又時に悪 寒載懐四十一、二度の熱食が起る。八、九.十の三月は此の歌態で.其後更に機作身写して苦しんだへ.謄写のないこと,﹁レン トゲン﹂で不明な事が不思議であるが.輝石だらうとの事である。翌+年二月には更に流感から肺炎を併獲して、今度こそ死 ぬもめと、吉岡彌生女史に解剖の事を依頼された除したが,又夫れも追々快方に晦って,床上に起き疫り寝たりして居る。モ ヒを連績一日刃引注射された爲中毒を起したので.昨今は内服で我漫して居られ.大分結果が宜しいといふことであった。此 の年に既に元氣は飴程嚢へられだ様子である。  斯くして、昭和二年二月二十三自.再び感胃に糧嚢.二十四臼左上葉に肺炎を起し.漸次増進し左肺全都に及び、途に同月 二十八E午後九時、 七十六出威の山簡齢即をM以ても滋養・として逝去さ、れ甑κのであ︸る。  誠に立派な生涯といふべきである。而も.註ハの死後輪世に釜せんといふ志から,遺骸を解剖して學伊上の資に供せんとし、 豫め遺囑する厨があったことは覧盆々女史の生涯をして光輝あらしめ泥事である。またも女史は死に臨み、特に金こ百圓を東 京女子磐學軍門學校に寄附し、解剖料として金箭耀を後嗣修三民よ夢寄贈され旋。樹遺骨は東京女子讐腰髄細革校内に保存さ れてある。遣骨には次の如き文が附せられてある。  高橋瑞子刀自は其の父膜六郎氏の第二女として嘉永五年十月廿四単葉知縣幡豆郡西尾町に生る長じて醤を早生學舎に墨び明    吉陶∬目本女盤箆の研究       一三一

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   吉岡翼H本女鋳史の研究       =二ご  漕二十年讐籍に登録せらる時に歳三十六なり既にして難を日本橋に創むるや忽ち世人の信馨する所となりしが越えて廿三年  濁逸に留年し研究一年有蝕にして編朝し再び業に就く家運更に盛なり刀自性幕下艘躯豊満人能く之に懐く大正元年還暦の壽  を迎ふると共に業を漏し悠々自適虚しτ娯む後病を得昭和二年二月審日濫焉として逝く壽七十六死に臨み余に託するに死後  屍を解剖に附し且遺骨を止め永く馨學研究の資料たらん事を以てす余多年交遊情誼忍びすと錐も瓦燈背く能はす則ち涙を呑  んで同年三月二日本校解剖室に於て之を剖着し共の遺骨を保存するものなり   昭和三年三月二個        東京女子書學專門墨校長 吉 岡 彌 生識  解剖は、東京女子讐墨專門並校病理學教授警學博士佐藤誌面に依て、三月二日午後二時に行はれた。その病理解剖的結果に 依れば、死因は書師の診噺の謄石症に依るのではなく、左側のクルfプ性肺炎の次白幡喪章の経過中に、心臓機能不全の爲で あった一、此の病理解剖の際・の病歴及び覇見記録qDが存するから次に此れを掲げる。 病

 年 齢 嘉永五年+月二十四日  出生地 愛知縣幡豆郡西尾町 既往症  生後大患に罹りしことなし。幼時燃疹に罹ゆ顔面及び後頭部に疲痕あり。四歳の時癖疹を病む。七歳の時無耳を⋮替にてつき 出血多量、其の後常に膿汗を出す。其の頃適當の療法無き澄め其のま玉捨て置きたるに時々痂皮様の小指頭位のものを出す。 近時耳鼻科欝師の治療を受け少しく輕快せり。明治こ十二年頃より時々紳維痛を起し、始めは右側のみなりしも後瀬側に畳ゆ 桐二十四年稠逸國に留學中感冒に罹り少しく電気ありしも其の後治癒せり。大正元年氣管枝宮答兇に罹り、瀬瀬き血管枝膿漏

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ならんか臭氣ある血漿を出すこと一遇聞、其の後引績き喘息様の濃鼠夏冬共に起し殊に冬季に於て甚だし。大正六年九月自動 車に右足部を礫かれ同時に入事不省に陪る、、左後頭部に裂傷を生じ出血甚し.同時に膝蓋下より足部まで三倍大の太さに腫脹 し、翌日暗黒色に攣じ血瘤檬のものを生じ.順天堂病院にて切開を行ぴ治癒せ蚕。大正九年夏突然全腹部に甚だしき膨満感あ 砂て甚だしき苦痛を畳ゆ。南博士及び高比良倉岳診察の結果隠密症と診塾せられしも疹痛更に無し。 今圖の病歴  本年︵昭和二年︶二月二十三H感胃に罹㊨二十四瞬左t棄に練餌を起し.漸次増進し左肺全部に及び遽に二月二十八日午後九 蒔に死去せらる。 臨床的診噺  肺   炎 病理解剖的所見  昭和二年三月二日午後二時剖槍  執刀者 馨學博士 佐藤清 解剖的診断  一、方側上葉に於けるクループ牲肺炎︵灰自肝墜期︶  二.左側の化膿性繊維性肋膜炎  三、左右肺臓の慢性氣腫及び代償的氣種  四、繊維性癒着性心嚢炎及び心筋脂肪遇多  五、傳染脾,膿石及慢性繊維性謄嚢炎及総轍謄管炎  六、肝臓の織維性闇質炎及實質沼濁︵死後攣牝著明︶    吉岡昇巨本女醤史の研究        一” 三

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   士口岡昇臨ロ本補剛画輿の研⋮究      曜三四・  七、多焚性子宮筋内筋腫及び内膜の腺腫性ポリープ、左卵巣に於ける嚢腫形成  八、爾側腎臓の萎縮及び樫度の動脈硬攣性萎縮腎及嚢腫形成及び腎孟周團に於ける脂肪過多  九、胸腺腫蕩︵小鶏卵大︶  十、胃粘膜の榊維繊維腫︵小豆大︶  十一、、脂肪過多症  十二、副腎の軟化︵死後憂化︶  +三、動脈硬墾症 剖槍記事︵摘要︶  身長約一四五糎にして骨格良.高度の脂肪過多症ありて腹部は脂肪にて強く肥満し、下腹蔀に二つの溝を有し、頸部は太く 短し。張直は既に去り血液北面著明にして指頭及耳翼にはチアノーゼあり。黄疸及び浮腫を見す。皮下脂肪組織は纏べての部 分に場面佳良にして腹壁は厚さ五二を算す。筋肉は萎縮せり.腹腔内に異常の液艦あの。大網膜は脂肪に富み其の右下端部は 癒着せり。  腸管。 一般に瓦斯を以て膨満す、漿膜は血性に浸潤せり。  肝臓の遊離縁は謡歌突起よゆ四指横径の塵にあり、脾腫あるも癒着なし。横隔膜の高さは爾側索第七肋間に在り、虫様突起 は繊維性に周園に癒浩せり。  縦隔餐は氣腫性にして淋巴腺の腫脹なし。胸腺は一部脂肪攣性せるも其の下端部に小鶏卵大の腫蕩あり割面は面様にして球 形を呈ぜ砂。周囲に浸潤せす。  胸腺の左葉は樫度に左肺と癒着せり、心嚢の前面の左面部の表面には膿性の苔を以て被は  右胸腔内には異常の液盤を見す。

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心嚢ぱ所々に繊維性に硬∼、癒着し内腔は略々閉鎮せ醜・。 心臓、十一糎、爾心室は彊度に叢説し.心外膜脂肪組織は至る所によく獲育せの。碁盤室内には多量の凝血を以て満たさる。 心内膜は雫滑なり,辮膜は箪に硬攣性に肥厚す。筋暦は輕度に血性に浸潤せわ。左心室の厚さは約一・五糎、.大動脈起始部 の内膜は雫滑なり。 左肺容積甚だしく増加し.硬度は一般に塘加し殊に肋膜は張く欝血性に護赤し膿苔を以て被はる。割面に於て上葉の全部次 白色の願粒状の肝百事に攣化し多少乾燥し中央部に不正の欝血竈あり。下葉は充盈性にして凝血を見る。麗麗含有量は中等 度にして、浄腫性少く氣管枝の粘膜一般に強く出血性に潮紅せ動。 右肺は容積を増加し腺腫状を呈し室草枕様に燭るム感あむ.割面は充血し室氣含有量は良にして肺炎竈を見す。 肺門腺は腫大し炭粉の沈着強く叉充血を見る。 肝騰撒。︵二九X一︸二×六︶な・り聴表面は平滑にして血性に染ま動魯圭低面には二つの縦溝を勃贈む、碩晒度柔軟な・bノ、割一面一般に死 後血性に實質は強く瀕濁せゆ。 謄嚢長さ一一糎にして薄き膿汁を容れ三個の謄石あ夢て単解大なるものは栂指大な夢。粘膜は高度に網歌に織維性肥厚あり て小なる癩痕形成を見る。 脾臓、輕度に腫大す︵一一x一〇×三︶.硬度は柔軟な鯵.内面離縁には四つの溝を有す。脾髄は非常に柔軟にして曙赤色を 呈し、脾材は明なるも濾泡は不明。 右腎臓︵一一x五・五×三・五︶硬度は弛緩せゆ。被膜は離離容易にして表面殆んど平滑な夢、数個の搬痕性の略凹あり、割 面は血様に染ま㊧、皮質不李等にして狭く.髄質は短縮し實質の歌況は死後の攣化の爲め不明、腎孟の周園に脂肪過多症 あり。 左腎臓。︵一二×六×四︶ 被膜は剥離し易し鶏表両は畢滑にして充血明な垂鱗肯二三の小嚢腫を認む、割面に於て皮質は荻   吉岡HH本女雪虫の研究      一三五

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  曹岡一日本女寄州の研究       一三六

く髄質も短し、其の他右側に同じ。 胃。軽度に擾張し、大鰹の長さ約四〇糎あり、粘膜は脊索に乏しく.充血を認む。内容には少量の萱色の液肥を有す、胃底 部には鰹度の死後軟化あり。小轡の中央に於て小豆大の友白色の結節を認む。 小腸。粘膜は浮腫性にして充血あり、潰瘍等を認めす。 大腸。粘膜には特記すべき攣化無し。 膵臓〇二〇糎、柔軟にして實質ぱ血檬に浸潤ぜり。 膀胱。特記すべき墾化なし。 子宮。殆んど球形至心六糎、子宮底部五玉にして、子宮外膜は充血し、籔ケ子宮筋腫を有し大なるものは揖指頭大にして壊 死せるもの多し。 右卵鼻Q硬化性にして萎縮せの。 左卵集。周園と繊維性に癒着し鳩卵大の嚢腫を有す。 大動脈。硬鍵性にして殊に総腸骨動脈に於て石次化を認む。 臓髄。軟膜は多少水腫性なるも臓髄の泣輪極めて良好にして雨側の啓上球の甘露は普通にして各縫取極めて深し、殊に著明 なるは尉面廻蒋が極めて細く、且つ深く、よく機育せる事なり。臓内部には異常なし。重量一二九七瓦.瀟瀟四三糎。 以上病理解剖的所見によれば、患者は左側の格魯布性肺炎の次白油攣期の経過中に於て心臓機能不全の爲に死亡せるものな ること明なφ。而して斯かる高年者たるに拘らす立派なる灰白肝転置が左軸上葉に成立し、且つ傳、染脾の像よゆ病苦に力職 せる形跡が明瞭にして日常健康な診し禮質を推測するに足る。 されど患者は塩鯨なる脂肪過多症を有し、其の一分症として心臓に脂肪過多症あり◎且つ陳蕉なる織維性癒着性心嚢炎あり

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しは心臓機能不杢が來り易かのし素因的關係を明にするを得たり。 爾生前に於て氣管枝喘息を病みしと云ふ事は.右肺及び上映下葉に慢性一算があのし歌にて解するを得たり。 旦つ心臓部に疹痛獲作ありしと云、轟ことは此の癒着性繊維性心嚢炎に關係あるが如く推定せらる。 叉生前謄石症ありしことは剖検によゆて確められたれども,肝臓機能不全を臆す程度の病攣には非ざりき。 爾本症に於て胸腺腫瘍、胃に於ける紳維織維腫,子宮筋腫.子宮内膜のポリープ形成等の多嚢性腫瘍を槍出せしは腫瘍言上 極めて重要なる資料となるを以て精細なる研究によ夢て他日之を嚢表せんと欲す。  同年四月十五日、日本女警界春期例會を兼ね.高橋瑞子女史追悼會が.午後一二時より潮路加國際病院で開かれた。その際の 吉岡會長の追悼丈③を揚げて、女史の偉功を心に銘しよう。         鐘 悼 の 舞   謹みて故高橋瑞子刀自の奪漿の御前に申上げます。   紹和二年二月十八日無血だ塞き午後九時.刀自は天壇盆き、筆墨として現實を御去のになりました。先輩と仰ぎ.時には  友として共に語む.互に網談じた私共が.此の悲報を耳に致しました時.何にたとへる事が出來ましたでせう。諒闇の天は  いと穿沸.し .如き二月の風は一入冷たかったのであむます。刀自生前の徳は.今更乍ら。懐しまれるのであります。   世に開拓者となり.先畳者となる事が.如何ばかり難いものであるか.今夏私が申上げるまでもない事であります。しか  も婦人が新しき職業を開く事は、古今東西の歴史を問はす.誠に至難中の至難と云はなければなりません。私は嘗てイギリ  スの女警の泌だるエリヅベス,ブラツクヴエル女史の傅記をよんで.女醤となる迄の苦心受難を知り入情に二つはないもの  と痛切に感じたのであります。そして.加ふるに匙私の貧しき維験はその一言醐句を私の心の奥底に染み込ませたのであり  ました。瑞子刀自の苦心もこれに優るとも劣ることがないであらうとは察するに絵むあるのであります。しかもその人や亡    告岡騒日本女三脚の研究      三七

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  由”岡揺日本・女蟹史の研・究        一三入 し。私の頗には熱き悌が止め度なく落つるを禁じ得ないのであります。  私共が今日あるは全く刀自の賜物と言はなければなりません。女監の將來は、今後隈々多幸であり、多望である事を私は 信じて疑はないものであります。枇會の進展につれて、その活動領域は、豫想も出來な・い程、擾大して行くであらうと思ひ ます。その礎は實に刀自によって築かれたといはなければなりません。何事によらす、第一歩を誤れば,事の成就しない事 は、自明の理でありまして,その第一歩を堅く堅く、刀自が踏み出して下すつたことは、到底永久に忘れ得ない事で.女警 史にとって、大きく申せば、日本の歴史にとって、不朽のととでありませう。  殊に刀自が、一生を通じて、男子屯及ばぬ熱烈なる意氣を以って、業務に當られた事は兎角怠り勝ちな者を,如何.程働ま すか分りません。 刀自よ、私共はこ玉に小やかな追悼の會を催して、あなたの生前の徳を偲んで居るのであります。刀自よ,現實では最早 御別れいたしましたが、刀自の精棘は何時迄も私共女心の永久の力、永久の光であって下さいませ。そして永久に御別れす る事のない先輩であって下さいませ。  昭和二年四月十五日      日本女蟹會會.長 吉  岡  彌  生       交   獄 一、女車界 第一六九號昭和二年四月一日悪行、+二!十四頁。二、日本女馨會雑誌 第二號、大正三年三月、四〇一四二頁.竃、日本女讐 愈幽霊劃一 第四號、大正四年五u刀、=一一百ハ。 四同、 nロ本尊讐命日難山鱒 第十六號、大正十年五月〃十四−十六頁。 菰、 同  第二十九號、昭和二年山ハ月バ 十一十一頁.六、緒方正清 日本産科學史。大正八年、一一八六頁。 ︵附詑、前七賢丈に欲して、各方面より多大の御援助、御激励の御言葉な賜はけ、一々御禮歌差上ぐべ告の所、敏禮致しましれことか深く御詫 び申上げます。前妻一四五頁十一行目、敷男手古市公威夫人︵奮名川名艀子∪とあるは誤にて、男爵吉市公威夫人だ奮名川名幸子﹂が正しいので す。間違とは申ぜ、現存の御方な故人としれる黙は、何と輩申課のない次第です。批の黙に就きては田代義徳樋⋮士及び無名氏より舞注意を 賜つ衷ことに就き御幸申上げます。其の他ニミ誤植がありましたが、何れ皐行本にする時にでも正し象いと思って居纏ます。︶

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参照

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