ブリテンにおけるケルト人――その社会経済組織に
関する基礎的考察――
著者
原 征明
雑誌名
東北学院大学論集. 経済学
号
63
ページ
97-119
発行年
1973-12-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1204/00024415/
本稿の目的は、アングロ・サクソン人侵入・定着以前のブリテンで先住民族をなしていたケルト人について、その 社会経済組織の蕪本的特徴を少しく考察しておくことにある.そのた坊に、ここでは先ず旧来よりの先駆的業績を当 ︵ 1 ︶ 初の手がかりとするのだが、もちろんそこに樅じた若干の礎間も提示し、且つまたそれに対する解釈を併せて試翠る プ リ テ ン に お け あ ケ ル ト 人 九 七 六五四三二一 、 、 、 、 、 、
ブリテンにおけるケルト人
次 1 1 はしがき いわゆるケルト人の柵成 ケルト社会の生姫と所布の形態 簡催ならび腫線鵬肘の牝格について 鮎び廷かえて ケルト人の社会細微 一、はしがきlその社会経済組織に間する基礎的考察I
原
征
明
1実際、後者の見解との関わりでいうならば、テムズ河などの流域にある砂礫地帯では、初期のアングロ・サクソン ︵ 7 ︶ 人定住地と同じ密度においてケルト人の定惟地が分布したことや、またこの両定佐地添オー?ハー・ラップしていた事 ︵ 8 ︶ 例のあることも既に指摘されていた. ︵ 6 ︶ 媛近また主張されたのである。 ブ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 九 八 ことにより、私なりの視角から一応の整理、検肘をして象たいと考える。 なお、このケルト人とその社会組織に関しては、大むね二つの問題が随伴していることをつけ加えたい。その一つ は、ケルト社会に対するローマの影響如何の問題である。というのは、周知の通り歴史的には一時期プリテンのケル ト人に対するローマ支配の時代があったため、当骸社会とその後の発展に対するローマの影響︵Ⅱローマ化︶が、そ れ自体一つの考察領域をなしているからである、ただ、本稿では直接にはその点について詳述しないこととし、一般 に次のように理解されることの詮を付記するにとどめたい。即ち、この島に対するローマ支配は、軍事的占領にその ︵ 2 ︶ 本質的な意装があったといえることである。従ってケルト社会に対するローマの影響は、われわれが関心を諦く生産 活動、あるいばまた生活様式への意義についても大むね否定的であり、全体として旧来の経済社会を大幅に変革する ︵ 3 ︶ ような動向をもたらさず、ローマ支配はぼほ三世紀から四世紀末葉にかけて、急速に衰退していくことである。 次に、アングロ・サクソン人の侵入とその結果に関する問題がある。これについては、従来アングロ・サクソン人 による征服と、そのゲルマン的定住の展開とともに、ケルト人が一掃ないし絶滅されたとか、あるいはまた地名学上 ︵ 4 ︶ の証拠が示しているように、彼らが西方へと放遂されてしまったとして、一般にアングロ・サクソン・イングランド ︵ 5 ︶ におけるケルト的要素の残存を軽視する見解が承られたといえよう。しかしながらこれと反対に、とりわけサクソン 人地域では、かなりの数のプリトン人連︵Ⅱケルトの一派︶が、旧来の状態を保持しつつ共存していたとする見解解、 ⑪﹄
このような定住地の継承をふまえると、初期のアングロ・サクソン人達は、その先住者たるケルト人達と大差のな い発展段階にあったのではないかとさえ、いえないこともないだろう。いずれにしてもこの点は、定住初期のアング ロ・サクソン社会を理解するうえで興味のあることといえようが、しかしそれは別の機会に検討を加えて鍬たいと思 う私の課題なのであり、本稿の内容はあくまで首記の通りにすぎないわけである。 ローマ人撤退のあと、アングロ・サクソン人︵シ垣。I普桝。冒切︶による本格的な侵入がいまだ開始されなかった時点 に至る比較的短い時期のブリテンを指し、チャドウィック女史︵zo3〆④g且乱烏︶はこれを。翁電。鞄ミミ葛と呼 3 ブ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 九 九 祉 ︵1︶例えば、邦書としてば田中正義教授の﹃イングランド封津制の形成﹄が、この領域の問題にまで遡及して体系的に叙述さ れたものの一つをなすだろう。河害は本稿の作成にあたっても、種々の点で示唆的であったことをここに付記したい. ︵2︶氏.⑦。○⑳い“淫⑱岬、弓胃富里常弓旦司C匡口生異ご目餉島国曰哩魁目鼻思剖︾ヨョ基匡25口︾己冒〆くIxa⑳ ︵ 3 ︶ ︺ ◆ Z r 菖 苫 郁 瞬 ︾ 罰 C ョ 四 . 国 昌 里 冒 ︵ 冒 号 晶 酌 。 a 良 い 錘 諒 雷 閏 角 、 ’ か ﹃ 酎 騨 興 呂 風 ︾ の 監 骨 且 ど の g 鷆 司 亀 国 幽 司 胃 ざ 匡 函 戸 届 g ︶ ロ邑驍﹀z屍.O富八一畠烏﹄⑦①言。国豊嘩ヨ︾届電、恒隠.︾の.○⑳切亀汚切︾。、.句騨、一日日昔日ざ目︾やH]間. ︵ 4 ︶ a . 嗣 印 ロ ロ の 牙 、 画 日 ⑮ 3 画 ﹄ 国 二 哩 賦 ︺ 四 m 8 z 煙 日 隅 ︾ 届 $ ︶ ロ 謹 焦 ︵5︶ケルト人に関するかぎり、例えばロ・’ンもそのような立場にあるといわれている. 顕、馬◆F○望ロンロ唾Cl⑱“〆。国両。哩四員一曲。﹂号のZ。.己卸宮︵ざ弓P臣巾輿︾思篭、 ︵6︶永井一郎﹁早期ウエセッ〃又王国に関する一、二の問題﹂︵﹃社会経済史蛾﹄三七巻六号所収︶、八四頁以下参照。 ︵7︶畑中正義.〃ングロ・サクソン社会の基本構造﹂︵﹃社会経済史学体系﹄Ⅱ、中世前期、所収︶二二二頁参照。 ︵8︶媒須徹コノングロ・サクソン人の初期定佐形態﹂︵元東北学院大学論集﹄経済学、第四九・五○合併号所収九○頁参照。 二、いわゆるケルト人の構成
プ リ テ ソ に お け る ケ ル ト 人 一 ○ ○ ︵ 1 ︶ び、ケルトの慣習や制度が普遍的な、従ってケルト人達がこの島を支配した時期であったと述べている。 ところで、このようなケルト人達は元来ライン河、ドナウ河流域、↑コール地方の広範な地域に居住していた大陸の 民族であり、後にローマ拡大などの影響をうけて移動を開始したもので、プリテン︵吾③国昌罫屋の鋤︶に対しては、 ほぼ紀元前七世紀から紀元前一世紀に至る長期にかけて渡来してきたものと象なされる。もとよりその場合、彼らの 侵入は間断のない連続したものとしてでなく、時期的に相異なるおよそ三つの波動をもって行なわれたのであり、先 ︵ 2 ︶ ずこの点に留意しなければならない。即ちプリテンにあって既に先住民をなしていたビーカー人︵騨鳥閏ざ房︶を抑 ︵ 3 ︶ え、まず最初に侵入した者達ば、青銅器文化を担ったゲール族ないし・コイデル人︵・鎗堅“ゞg箆堅“︶であり、その時期 は青銅器時代の末、ほぼ紀元前七世紀のことであった。しかし彼らの多くは、やがて後続の侵入者達に漸吹追いはら ︵ 4 ︶ われ、紬局スコットランド高地、マン島、アイルランドなどにその居住地を求めることになる。 さて、紀元前五世紀から紀元前三世紀にかけ、侵入の第二の波動として、この地にはブリトン人達︵国q号。ロ“︺厚 き国晩︶が渡来した。彼らのうち最初のものは、ほぼ紀元前五○○年頃にこの島の南部、東部沿岸地帯に上陸し、初期 の鉄器文化を展開するのだが、それより一五○年ないし二○○年後、つまり紀元前三世紀頃に渡来したブリトン人達 は、西はゴーンゥォール︵g目憩邑︶から北はスコットランドに至る広範な地域にす詮、文化的、技術的にも比較的 ︵ 5 ︶ 進んだ鉄器時代を担ったとされている。 さらに紀元前一世紀頃には、侵入の第三の波動として、チュートン人の血をひくペルガエ人︵醇喧。︶が渡来する。 旧来と比較して進んだ農耕技術を携えてきた彼らも、当初はこの島の南東部、特に今日のケントやハートファドシャ ︵ 6 ︶ 地方に定着を開始するに至ったと考えられるのである。 このようにして、いま考察の対象とするブリテンのケルト社会を構成した者達は、等しくケルト人と呼ばれるが、
それぞれプリテンに渡来する時期ならびにその文化的発展に、いささか差異を有していたのである。もちろんその場 合、これらのケルト人達は生産用具の発達につれ漸次他の地点にも移動したであろう。あるいはまた相互に混血し、 従ってそのことによる文化的平準化の現象も多かれ少なかれ進行したことと思われる。しかし、その社会経済的な組 織を象るにあたっては、さしあたり彼らを囲む自然的条件が大なる制約をなしたということを、当然のことながら念 頭に諮かねばならないだろう. 注 ︵1︶&、z・丙.○コ且畠鼻︺・営門国﹃冒言.患雪︾ロ展. ︵2︶ビーカー人は、アルプス系人種に属し、初期青銅器文化を担ったものである。元来大陸に居住していた彼らは、蝿に紀元 前二○○○年頃よりノリテンの東部無よび南東部を経て渡来し、東部海岸に沿いイースト・アングリァからテムズ河渓谷 に至る広範な地域に散在した。ビーカー人なる名称は、彼らの使肘した独特の陶器1冊状をなした幾何学的槻様潅打ずろ 広口の壷lが、その墳墓から共通して出土したことによる。ビーカー人については、例えばシF,巨。§.ゞシ勺g樫の。“ 四回。q亀画邑巴目鼻届驍、鈴木、荒川、浜林共訳﹃イングランド人民の歴史﹄一八’一九頁、川中正義﹃イングランド封 迩制の形成﹄二三頁、三好洋子判イングランド王国の成立﹄一六’一七頁などを参照. ︵3︶弓.国恩國C冒翻ゞシ冒凰印員国費四冒四且昏句冒轌目。ロ軌呉旨冒醜︵忍⑮笛﹃、患苫ゞ弓.験?賎P ︵4︶三世紀以降、帝政ローマの衰退につれ、その軍事的支配下にあったイングランドに、北方から来襲するピクト人︵観息︶、 また四世紀以降、西方からの侵入を試染るスコト人G8蚤︶などの蛮族は彼らの後齋でもある・田中正義、前掲誓二’ 一二頁。なお、弓.四用.国。冒鵬の説明によると、ピクト人はこの善コイデル族と新石器時代に風する土新人lイ・ヘリァ 人 l と の 混 血 種 ︵ 日 寅 a や g 樫 ② ︶ な の で あ る 。 目 . 霞 。 巾 . 閏 。 言 研 、 ・ 醤 、 農 ︾ 弓 ◆ 麓 ? 邑 騨 ︵5︶嵩向.、認9面眉目馬脚く。盲目・胃冨間昌一暮閻目︾岳篭、再穐. ︵ 6 ︶ 言 . 両 . 切 思 冒 す 貝 爵 へ . ︾ 弓 . お ︲ 翁 . プ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 一 ○ 一 5
支配的構成原理なのである。 既述の通り、ブリテンのケルト社会は青銅器ならびに初期の鉄器文化を携えて大陸から渡来した者達で樵成されて いたのだが、ここでは、そのようなケルト人達に認められうる社会組織の形態如何について考察をする。 さてこの問題は、当然この社会の生産形態、所有形態l後述lとも関係を有するが、われわれは先ず、この時代に は一般に人間自体が所与の自然的条件の下でその支配を強くうけていること、あるいはまた自然そのものに包摂され ている低位の発展段階にあるのだということの認識にたたねばならない。それはまた、諸個人単独による自然︵環境︶ への積極的な働きかけを困難ならしめている客観的理由なのである。従って、彼らはさしあたりそれ自体血縁集団を 意味する家族、否その拡大された集団を形成し、血縁的なlまた慣習、言語の共通性によるl細帯で相互に強く ︵ 1 ︶ 結合し、自然的条件に相対しながら存続していたと考えるべきだろう。 かくして当時のケルト人達が、自然発碓的な血縁関係にもとづく部族的社会秩序︵旦邑曽愚口鴨目の貝︶即ち、い ︵ 2 ︶ わゆる氏族制度︵§。鰐肖目︶にもとづく社会組織の形態を有したことは確かなところなのである。換言すればケル トの社会組織は、共通の祖先から出た濃い血縁者、即ち比輪的にいえば血肉を同じくする者達からなる氏族をもって 構成されていたといってよい。なお、氏族そのものば必ずしも完全な血縁連鎖を承たさない場合もありうるだろう。 というのは、この社会組織は相互に類似の血縁を有すると信じあう意識の上に成立し、維持されているからでも ︵ 3 ︶ ある.つまりそのようにして、すべて何らかの氏族に所属するものと象なすことが、このような社会における全体の ところで、周知の通り氏族制社会には母系制︵日曽邑旨①巳里切蔚目︶と父系制︵攪息胃駿圃席目︶なる二種類の存在 プリテンにおけるケルト人 三、ケルト人の社会組織 ■■■■■■■■■○ 二
が認められ、一般に前者をもって歴史的には低次の発展段階に照応する古い形態だといわれている。このような母系 ︵ 4 ︶ 制先行説は、↑︿ツハホーフェンの﹃母権論﹄︵馬臼︶やモルガンP・震冨。周唱ロ︶の主張以来有力となったものである が、いま当面の対象とするケルト社会に関しては、構成員の出自︵号翰。③貝︶を父方によって辿る画瞥豊”な、即ち父 ︵ テ ロ ︶ も も 、 ︵ ︹ 0 ︶ 系制的氏族l古代ローマの鷺登畠相当lが当時支配的な血縁制度であったと考えられるのである。また、ここ に注目されるべきことば、右にのべたケルトの父系制氏族がそれ自体新たに複数の固唱農。な親族団体Ⅱ小氏族 ︵望弓③︶へと分裂を遂げ、従って棋数小氏族を包含するところの胞族︵吾忌日、︶と化しており、更にこの小氏族も今 ︵ 7 ︶ やその胎内に家族的集団を分出しつつあった、と指摘されていることなのである。 かくして、以上のことをふまえれば、われわれは今この家族的集団をもって当時のケルト社会における生産、消饗 の基礎をなす、事実上の構成単位として位置づけることができるだろう。ただしその場合、こうした家族的集団の把 握に関しては、いささか検討を加えて象る必要があると思われる。というのは、それをもって通例いわゆる﹁父家長 制大家族﹂ないし家父長制大家族︵冨昌目、冨房。胃⑦目離宮日罠①︶であるといわれるが、私はいくつかの理由から、 それと今いうところの家族的集団を区別して把握するのが適当かと考えるからである。 もとより、この家族的集団は一夫一婦制の単婚小家族、ないし近代の個別家族を意味するものでない。おそらくそ れは、曽祖父︵噴函T唱豐望昌胃己にばじまりその、曽孫達︵噴命鷺’四豐号星島g︶に至る四世代を包含する画瞥豐。 ︵ 8 ︶ な櫛成の集囲であったろう。そしてこのような形態に関しては、早期時代の部族的特徴を残存させていた後世ウ露l ︵ 9 ︶ ルズの事例から、かのシーポーム︵野①号胃解③ぎず日︶によって既にその存在が指摘されていた。彼はそれを弓寓蝿 や9.患という共同土地保有形態からひきだしたのであるが、重要なことは、その内容が大家族共同体ないし世帯 ︵ 、 ︶ 共同体︵言員吻③18ヨョ自房、︾国豐侭go晩峨曾翰。冨弓を意味するものであったということにある。 ブ リ テ ﹀ ︾ に お け る ケ ル ト 人 一 ○ 三 ヴ ノ
ブ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 一 ○ 四 ところで、いまシーポームの所説に糸たこの言屋鰯?八。ヨョ宮宮冨、なるものは、元来コヴァレプスキーによって主張 された家父長制世帯共同体l彼は南スラブに存在し、ザードルガ︵恩骨匡唱︶と呼ばれた集団をこれにあてたlの 基本的特徴と一致するのである。また、これを踏襲したエンゲルスも﹁⋮⋮世帯共同体という中間段階課ドイツ・ス ︷ Ⅱ ︶ カンジナピャ・イギリスについて、きわめて多くの蓋然性をもっているということを否定することはできない。﹂と のべ、家父長制世帯共同体を母権制家族と個別家族との間の過渡的段階として位置づけたのである。因にこの世帯共 同体の基本的特徴は、簡略次のように説明されてよい。即ちそれは先ず、一人の父の数世代にわたる子孫を一つ屋蛾 に包含し、共同耕作と共同の貯蔵によって衣食をし、収穫の余剰も共有する集団であること。またこの共同体は、規 則的な仕事の連営に責任を負い、外部に対してそれを代表する家長の管理のもとにあるのだが、砿要な決定は成年に ︵ 唯 ︶ 達した家族全体の会議にもとづいていることなのである。いずれにしても、われわれには当面の問題とするケルト社 会の家族的集団も、およそ以上のような性格を有していたと考えられるのである。 ところがこれに対して、いわゆる家父長制大家族︵冨胃胃。冨扉⑥言⑦﹃。鋤鈎雷ョ崖③︶の名称で呼ばれている家族形態 は、その基本的特徴が右の世帯共同体と区別されるところに求められるべきでないだろうか。もとより、この家父長 制大家族なるものも近代の個別家族や封建的な直系家族︵Ⅱ家父長制小家族︶と比較するならば、しばしば三世代に わたる全構成員を包含し、しかもなお旧来の血縁的関係を残存させている家族形態なのである。 ︵ 卿 ︶ しかしながら、その特徴ば先ず﹁多数の自由人と非自由人とを家長の家父権力のもとに組織すること﹂にあり、従 って今や家族構成員に対する家長の地位の優越性が本質的な部分の一つをなしているという点である。そればまた、 ︵ Ⅱ ︶ ウェーバー︵冨閏語句意端︶にいわせれば、あたかも専有l妻子・奴隷・家畜・労働用具におよぶlが全く一個 人、即ち家長の象に帰属せしめられているような、絶対的、終身的かつ世襲的なる家長の存在にあるとさえ表現でき
るだろう。因に、このような家長権l妻に対する夫権、言曽曽︶子女に対する父権尋負亀畠︶lは、古代ロー ︵ 喝 ︶ マの家父畏制家族において典型的なあらわれ方をしたのである。もちろん、この家父畏制大家族を染るにあたって は、家長権の一方的な発達の染が強調されるのでなく、他方ではその家族形態がまた、妻子や非自由人︵奴隷︶への 保護羨務を多かれ少なかれ随伴する内容ものとして把えられるべきこともあるだろう。 従って、いま後者の要因の相対的な発迷が促される場合には、この家族形態も必らずや古代ロー↓、的典型事例の出 現に帰結するのではなく、地域的、民族的な事情によってば、優越した家長権の下にありながら、なおある稗度の保 護椎︵冨筐員︶を包摂した内容を示すだろう。いずれにせよ、家父長制大家族においては既にみた世帯共同体の血縁的 な意義よりも、家父長の権威と専有椎が策要性をもつに革っていることなのである。 最後にこの家族形態は、今象たように旧来のごとき強い血縁関係が弛緩して、他の家族との地緑的関係が形成され てくる時期にあらわれるものと象なされる。それはまた、家長を中心としたこの家族形態が、それ脚体一つの労働組 織としての自立性をもつために、土地耕作の意義が更に高まって、歴史的には多かれ少なかれ土地私有制が形成され ︵ 略 ︶ ︿ ” ︶ てくる段階なのである。以上のように考えるなら、家父長制大家族の存在を当時のケルト社会にも妥当するように広 く解釈することには疑問が残るのである。むしろわれわれにば、肚帯共同体と家父擬制大家族という二つの形態を雁 別して、当面の対象としてきたケルト社蕪の家族的集剛を、前者によって把梶することが適切だと猫もわれる。 ︵1︶聞知の通り、エンゲルス︵同国。鴨丙︶は生産力水準的視点から﹁労働がなお未発連であ鯉ぱあるほど。⋮.、社会秩序はそれ だけ強く血緑的紐憎に支配されて現われる.﹂とのべている.祠.嗣晶印一晩ゞ胃﹃ご風も日晶令爾司鯉目一吊匙駅勺昌曽①億m昌昌目 色且堅釈聾息厨ゞ扇望.戸原四郎択一家峡・私侮財産・闘家の起源﹄︵器波文蠅︶一○面。 ︵2︶田中正雑﹃イングランド封建制の形成﹄二三’二四頁. プ リ テ ソ に お け る ケ ル ト 人 − 0 五 9
︵7︶田中正義、前掲書二五’二六頁を参照。 ︵8︶亀.罠シ︵0頁﹃一隅l同要E由﹃号、穴旨晩旨ゞ聾凹冒馳国且○﹃億ヨ。富冨室丘印.︵旨二伸、白質陣、爵§ぶz○.認.雷討、︶弓.ぷI弓. ︵9︶即鼠印。。の忠ゴ○雪国﹄剖壺巾閃己哩一婆くこ勵碩命︵ど言昌巨匡己噂︾届罵︾壱届吟 ︵ 岨 ︶ 亀 ◆ 両 静 的 ぎ ぎ 回 ゞ 唖 凝 晶 . 己 壱 ﹄ 鵠 1 届 罫 誤 岸 ︵Ⅱ︶同国畠爵ゞ戸原訳、前掲苗一八九頁、傍点は釧燗者. ︵ 吃 ︶ 同 、 七 八 頁 を 参 照 。 ︵ 蝿 ︶ 同 、 七 六 頁 、 傍 点 は 引 刷 者 。 ︵魁︶冨四〆葛命冨﹃︾黒正・肖川訳﹃一般経済史要論﹄上巻、一三三頁を参照。 、 、 、 、 ︵鴫︶周知の通り、これにあっては婆子を含む家族成員全体におよぶ生殺与奪朧の掌狸が、家長朧の蹴大さ、絶対惟を示してい る。司.国畠:︾戸原訳、前掲書七六頁、言.詞芯冨﹃.黒正・青山訳、前掲書一三三頁参照。 ︵岨︶それゆえ、このような家父長制家族は古代社会の埜礎として典型的な発腱を示す。なお、そ札に到達する過渡期︵Ⅱ氏峡 制社会の崩壊期︶に形成されるのが艇業共同体︵盲8日目匡邑②畠﹃§庁︶だろう。凶に、この腱難共M体においては家屋蛾 だけが私的所有となり、耕作地はいまだ共有のものとして、耕作家族が定期的訓替をうけることになる。換言すれば、耕作 プ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 一 ○ 六 ︵3︶平凡社﹃大百科辞典﹄所収﹁氏族﹂の項目を参照。 ︵4︶F民冨。晶豐.ン目鳥貝鱒曇①噂息麗副荒畑寒村択罰占代社会﹄︵鮒川文蛎︶。ただし、モルガンなどの古典学純も今や 、 、 U 、 q 1 凍 型 の ま ま で は 承 認 で き な い と す る 批 判 が あ る 。 そ の 諸 説 に 関 し て は 、 例 え 噸 和 励 誠 一 他 細 ﹃ 古 代 史 諦 陥 媚 ︵ 2 ︶ l 原 始 社 会 の 解 体 ’ 二 ○ 八 頁 以 下 な ど を 参 照 。 こ こ で は 母 系 l ← 父 系 へ の シ 垂 ’ て か 、 労 働 過 程 に お け る 男 性 の 社 会 的 地 位 ︵ 優 位 性 ︶ 確 立 と い う 、 歴 史 発 展 上 の 一 般 的 な 事 実 か ら も 、 未 開 社 会 の 説 明 に 適 切 な 間 を 離 す と い う 患 味 に お い て で あ る . ︵5︶で.く冒畠国号竃ゞ弓胃⑦8吾昏昆筈印写冒宮C﹁.届露︾g、7F質.冨.弔烏昌雪︵且、︶︾、旦昂・自罫乱囎向8コ。ョ胃閏醗9.皇 で . く 百 。 唱 貨 さ 竃 ︾ 弓 胃 ⑦ 目 ︺ ︵6︶これと並んで一般に古い形態が残澤として存在したことを思わせるのは、一婦多夫制︵宮 一簡且ロ、︶的形態かブリテンに 象られると、カイサルが叔述していることである。像鵬曾︺○○目隠ロ岳豊︵一mm豊。○煙害3、ご.固近川企吹択制ガリーノ戦 記﹄︵瑞波文庫︶一五六頁.また、亀.勺.く冒畠昌︵ざ魚。詩︵勢・もわ, ︵7︶田中正義、前掲書二五’二六頁を参照。 ︵8︶亀.罠シ︵0頁﹃一隅l同要E由﹃号、穴旨晩旨ゞ聾凹冒馳国且○﹃億ヨ。富冨室丘印.︵旨二伸、白質陣、爵蒔理ぶz○.認.雷討、︶弓.ぷI弓. ︵9︶即鼠印。。の忠ゴ○雪国﹄禺云巾閃己哩一婆くこ勵碩昨cc言属目匡己噂︾届罵︾壱届吟 ︵ 岨 ︶ 亀 ◆ 罰 的 の 処 ご 罫 。 ゞ 琴 瞳 ・ ・ 雪 ︺ ﹄ 鵠 1 届 罫 誤 岸 ︵Ⅱ︶同国畠爵ゞ戸原訳、前掲苗一八九頁、傍点は釧燗者. 両匡日己岬﹃]④、毎ぷう一.]﹄酉軌い
ここでは先ず、当時のケルト社会に満ける生産形態から検討してぷたい。ところで、かっては牧畜と農耕が全く異 ︵ q l ︶ なった生産力段階であるとして、人類の歴史は牧畜段階から幾耕段階へ進んだという一般的な公式が説かれてきたの である.加えて、カイサル︵○鷺翰目︶により﹁︵プリテンの︶・・・内地のものは、殆ど穀物を蒔くことなく、乳と肉 へ り ︾ ︶ で生活し獣皮を着ている⋮:.。﹂と叙述されたことは、ケルト人をして優れて牧畜に依拠する民族であると考えさせた 理由の一つである。しかしながら、以下にのべる通り今日までの考古学的成果によれば、ケルト人はもとよりのこと、 その先住者であり初期青銅器文化を担っていたビーカー人さえも、牧畜と並び多かれ少なかれ農耕に従事していたこ ︵ 3 ︶ とが立証されており、この点留愈すべきことである. 従って、当時牧畜の有した一般的な意義を否定はできないが、しかしそれをもって単純に、ケルト社会が農耕と全 く無縁の状態にあったと象なしてはならないだろう。もちろん等しく農耕とはいえ、後代と比較してそれが未発達で ︵ 4 ︶ あったことは自明であり、生産力には過大な評価を与えるべきでないだろう。 さて、この問題に入る腱あたり、・フリテンの地理的事傭を考慮して、いま便宜的に﹁商地地帯﹂と﹁低地地帯﹂の 区別をしておく必要がある。その場合、尚地地帯とは今日のコーンウオール地方を含めたブリテンの西部ならびに北 部を指しており、主として花崩岩・片岩等の原成岩層の風化土からなっている地域である。雨瞳が多いため艇耕より プ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 一 ○ 七 地腫対しては私的占有の関係が存在することになる.なお農業共同体については、藤原浩﹁ゲルマン的共阿体﹂とはなに 、 カー﹁渚形態﹂の理解のためにI︶一思想﹄三九一号、同﹃イギリス経済史研究一所収︶を参照. ︵”︶例えば、閃中正義、前掲書三六’三七頁の注︵胆︶を参照。 四、ケルト社会の生産と所有の形態 11
プ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 一 ○ 八 も牧畜に好適なところといわれている。これに対して低地地帯とは、南部・東部を意味している。この地榊は、しば しばグリーン・カントリーと呼ばれるところで、石灰岩・チョーク・砂礫および柚土地からなっていて、雨量も西北 部より少なく耕作に適する条件を有していたのである。因に以上の間地帯の境界ば、通例今側のヨークシャー北部、 ノース・ライデイング︵Z。﹃号屑島員︶とグラムe員冨.己との境いに位偶するテイーズ河免・目恩い︶川と、デヴ ︵ 毎 J ︸ オンシャー南岸西部のエクセ河負〃屏巴口とを結ぶ線で画されるといわれる。 さて、先ず西部、北部﹁高地地帯﹂についてであるが、ここでば当時の各ケルト氏族がその地理的事傭のもとにあ って、主に放牧的利害を中心に比較的広大な地域をほぼ固定的腫しめ、その内部を季節的に移肋する半疋化的な牧畜 生活を営んだと思われる。このことをヴィノグラドフ弓.く言。喝且。弓は次のように説明するのである.即ち﹁古 ウェールズの史料は、山岳地帯にあったあらゆるケルト地域に共通していたと思われる風習を、しばしば詳細に記述 している。それは家畜と牧童が夏に移動をし、山の斜面に夏小段が建てられる風習で、土地を個人的占有地に分割せ ︵ 6 ︺ ず、部族的共有地として数家族の放牧の要求に見合うよう利川していた地域に特有の風習であった.﹂と。同様のこと はシーポームその他によってもいわれているのだが、いうまでもなく、夏期間に家畜と共に移動したのは飼料を得る ︵ [ ︲ I ︶ たあで、冬には渓谷へと戻ったのである。かくして、この地帯のケルト人達はその居住場所を季節的に変え、生活の 柵を大むね家畜がもたらすものに依存していたと考えてよいだろう。ただしこのことは、牧畜以外の喰産形態が存在 ︵ 8 ︶ しなかったということでない。詣そらくは、極めて粗放な農耕により燕麦︵82を栽培し、他方で狩猟・漁桝にも ︵ 9 ︶ 従事し、また蜜蜂の飼育に沸っていたものとおもわれる。しかし、ともかく高地地帯の生産形態は、先ず牧畜が優越 的な地位をしめ、それを生業として、農耕その他が副次的存在をなしていたということになる。 さて次に、南部・東部の型低地地帯﹂における生産形態であるが、もとよりこの地帯でも牧畜の有した意義は否定で
きないだろう。しかし、それにもかかわらず注目されるべきことは、ここに住むケルト人達瀞いま艇耕的定住を漸汰 展開しつつあったと考えられることである.例えば、既に紀元前三三○年頃との島に上陸したといわれるギリシア人 ︵ 冊 ︶ のピュテァス亀罵言“⑫︶は、ブリテンの南東部における小麦の栽培を報告し、土着人遠は気候が湿潤なため磯物の束 ︵ Ⅱ ︶ を集め、そこで脱磯すると述べたのである。また、デイオドルス・シクルス︵p旨き目唖駿、昌虞“︶も、プリトン人達が ︵ 吃 ︶ 穀草の穂をきりとって地中に貯蔵し、古いものをより分け、そこから食柵を得たと記している。さらに、カイサルは その著﹃ガリァ戦記﹄の他の筒所で、﹁ブリタ|ニノの。⋮:海躍にば掠蕪と戦争のためペルギゥムから来て⋮⋮そこに ︵ 耐 ︶ 止まり、土地を耕作し出したものが住んでいた。﹂と叙述したのである。これらは謀かれた記録であるのだが、もとよ り最近の考古学・航空写真の成果もその証拠を明らかにした。従って、低地地帯のケルト人達承牧畜と併せて多かれ 少なかれ殺物生産︵Ⅱ典耕︶に従事していた﹄﹂とは確実である。そしてここでの典耕形態は、一般に農。亀胃国侭愚 夢員魚篭⋮に代表されるものであったといわれている。即ちそれは、おそらく既に象た家族的集団︵Ⅱ世帯共同体︶の 佐用のいくつかで櫛成される、き︵Ⅱ冨昌宮︶に付随したと思われる短形の土地を軽駄華︵一億鷺豆C侭gで耕す形態 ︵ Ⅱ ︶ をとったのである。この軽儲蓮は、口lマ人達によってアラトルム︵胃肖匡邑と呼ばれたものであり、元来乾燥地 農耕あるいは職士瞬の耕作に適し、おそらく二頭の雌牛でひかれたのであるが、その性質上、交又華耕︵貝。閉l淫。厚︲ ︿ 鵬 ︶ 吾ヨ巴を呈したと考えてよい。なお、一説ではベルガエ人達がいたところでは、既に彼等によって一層効果的な華耕 技術が知られていたともいわれてい為。即ちそれは、既述のアラトルム以上に深い穿入力をもち、且つまた有輪の醜 ︵ 崎 ︺ つ二︺①っ一&l]︶一。長gであったと黙なされているのだが、それがいわゆる並仙革︵言騨勇荏。侭gを意味するか否かに ︵ 胴 ︶ 関しては諸説があり、明らかでない。以上、簡略にではあるが、その地剛的特性をふまえてケルト社会の生産形態を 考察した。改めてくり返すまでもないのだが、要するにケルト人性は単なる牧畜の枠にとどまらず、多かれ少なかれ プ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 一 ○ 九 13
プ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 二 ○ 農耕さえも併存せしめる生産形態を有していたというのがその一般的な結論である。 ところで、ケルト社会にば一体いかなる所有関係が存在したといえのか。以下それについて検討して黙たい。その 場合、ここでいう所有閃係とば、それ自体いわば恵の雅盤たる土地そのものに対する所有の関係なのである。しかし 厳密にいうならば、このような社会では少なくとも土地に対する明確な所有観念がいまだ確立されていないと象るべ ︵ 旧 ︶ きだろう。因に土地に対する所有観念は、既述の通り氏族制的血縁関係に代り、地縁的な相互関係が重要性をもつと きに現実のものとなるからである。従ってまた、われわれにおいては世譜共同体に代り家父長制大家族︵息賃冨﹃・一︺島 ”号⑦。g“鳥目筐。︶が出現し、それによる個別的土地利用︵Ⅱ占有︶が発達する時期に所有が明確となる。 さて以上の認識にたつならば、ケルト社会では厳密な意味での私的・個別的土地所有など存在せず、一般にいわゆる ﹁集団的土地所有﹂の状態にあったと象るべきである。ただ、既に糸た生産形態との関連でいえば、そのような土地所 有関係も少しく具体化して把握できるだろう。そこでまず、先の地域区分にもとづいて﹁高地地帯﹂の場合から検討を 試魏る。既述の通り、ここでは当時のケルト人連が各氏族として、放牧的利害を中心に比較的広大な地域をほぼ固定的 ︵ 由 ︶ に占めたのであった。換高すれば、”↑3営唱宮[日鼬時&宮匡ロ号働︺︾とヴィノグラドフが表現するような境界で仕切 られた区域を各々の氏族が占めたのであって、その土地を集団的に所有︵Ⅱ共有︶する形態を呈したということにな る。ただしその場合、こうした鴎族単位の集団的土地所有はその原則を維持しつつ、なおそのもとで若干の個別的土 地利用の状態を分出していたと思われる。なぜならば、先ず第一に高地地帯における当時のケルト人達は、氏族単位 に土地を占め、しかもその中を季節的に移勤するという、半定住的性質を有していたからである。また第二には既に 指摘した通り、この氏族そのものが複数の家嫉的集団︵Ⅱ世帯共同体︶から構成されていたのだが、今やそれらが事 実上の生産・消費の基礎的単位であったということによる。従って、これらの事情を併せ躍るならば、おそらく高地
さて吹に、﹁低地地帯﹂に潟ける土地所有関係について。もちろんこの地帯でも原則に変りなく、氏族を中心とす る集Ⅲ的土地所有の関係が、全体の堆礎であったと思われる。しかし、ここでの定住ないし生産形態との関連でいえ ば、少なくとも世帯共同体による燗別的土地利用は、比較的進んだ状態を呈したといってにい・というのは、先ずそ もそもこの地帯のケルト人達は、高地地帯のごとき夏、冬を季節ごとに移動する半定住的形態をとらなかったからで ある。それに加えて、低地地帯のケルト人連は、既述の通り牧畜に依拠しなぶらも︽﹂。侭冨n国蝿闘鞄曽§﹄︺︾に代表さ れる農耕により、多かれ少なかれ穀物生産を展開するという生産形態の特徴を有していたからなのである。従って、 そのような農耕の進化しつつある事実をふまえれば、低地地帯における土地定着化そのものも、相対的にではあるが 高地地帯と比較して強くあらわれたといわざるをえないだろう。そして、艇耕目的のために占められた場所に関して は、おそらくぼぼ固定的な形で、各世帯共同体の個別利用に付されたと考える。ただ、例えば放牧地など農耕以外の 目的に使用されるその他の上地は、依然として総有︵Ⅱ集岨的土地所有︶の状態にあったと黙なければならない。そ ブ リ テ ン に 満 け る ケ ル ト 人 一 一 一 地滞では各氏族の領域で季節的移動が行なわれ、その朏鮎場所が定められる時に、先ずその生業たる牧畜のために放 牧地が投定されたろう。しかし残りの土地は、各世帯共同体に配分され、そのもとで粗放農耕による燕麦の栽培、蜜 蜂の飼育などが行なわれるという様に、世帯共同体による個別的土地利用が許容されたと思われる。ただし、それが 個別的土地所有の出現でないことはいうまでもない。つまりこの場合、特定の世帯共同体がくり返し同一の場所を保 持しうるという恒常的な関係は、存在しえなかったと考えられるからである。いわばそれは、あくまでも季節的、経 ︵ ” ︶ 過的意味あいをもつ、不確定的性格のものにとどまったろう。従って、商地地帯に塒ける土地所有関係は、以上のよ うな具体性を有したにせよ、それは原則として氏族的関係に規定された集団的土地所有の枠を脱してはいなかったと ゑるべきだろう。 さ て 吹 に 、 恵 15
ブ リ テ ﹀ / に お け る ケ ル ト 人 一 二 一 れは、いま土地所有関係との関連で問題にした世帯共同体が、改めていうまでもなく氏族そのものを描成する一単位 なのであり、やはり全体的制約が作用していたと思われるからである。 砧 、 J 1 Ⅱ ︵1︶これは、スミス、リスト、、、ル等によって確立された古典的学説である.本唯栄次郎﹃経済史概論﹄第六章等を参照. ︵2︶像伸切豊oC司昌毎m冒冨豊号呼号○囚匡8︾己.眠.近山金次沢ヨガリァ戦記﹄一五六頁、傍点は引用者。 ︵3︶ビーカー人についていえば、碇らはブリテンの東部を中心とする胆範な地域で、砿、羊等の飼荷とならび、小湊、大淡の戦端 に従事していた↑﹂とが知られている。亀.菅冒・豊富日.シog風い②胃95目。閏嘘5コ、皇国﹃冒言津ロ昌号”圃藍異目目⑪弓 電呂.患呂弓皐l瞳.また、川中正義﹃イングランド封建制の形成借三一’三二頁を参照. ︵4︶シーポーム︵員圃縛3号日︶によれば、鉄器時代のケルト人ばローマ人の伎入以前に、牛八頭だての有輪箪の使川を知 っていたとある。筥.駒.静普U言]︺門冨固く巳目。自亀号幅屈畠房面爵コョ︾思紺.固鼈ゞ烏・段.しかし、それほど高疫の球が 全体としていかほどのウエイトをもっていたのか私には疑聞である。 ︵5︶︾﹂のような地理的区分に関しては、鼻。○肋段常咽ゞ目罵言&討舗巴罰︶匡且:。再鯛呉祠畠一弾且﹀悪剖消昌目旨呂0コ︾弓.潤一屋卜 誤く.、刃.。︵ど雪弓碩君8竪伸].z,炉駕冒鬮﹀詞C冒艮.切身凹冒色且芽印嗣回哩登牌邑⑮日毎昌哩↓岳剖、句詞甲式︾○国富ョQ煙斉、闘い シ 、 ︾ 弓 ﹃ 、 亘 瞬 さ ﹃ 胃 同 日 哩 曲 且 ︾ 愚 岳 ︾ ロ 甑 ︷ . 旧 中 正 義 、 前 掲 詩 二 七 頁 。 ︵ 6 ︶ 兎 ご 曰 。 四 国 ユ 。 覇 一 円 蔵 、 ⑦ 己 君 忌 亀 讐 命 夛 厨 毎 。 ﹃ ︾ 患 、 騨 口 弓 § 箒 詞 の 画 弓 C 房 魯 巴 。 ︵7︶亀.野⑯号﹃胃⑭舟言宮己今月ゴ印祠冒哩一号く垂色鴨。。。冒弓巨口扇.、患思、匂や]電I屋鈩︾門。己同﹃己巾、閃冒哩一号罰胄口昌。mも画鷺四画﹄勺夙出恂。言ゞ ] ④ ③ 二 石 今 昌 一 罫 。 ︵8︶ ︵9︶ ︵Ⅲ︶ ︵Ⅱ︶烏.冨④岡.、常ぎぎ]︺︵︾、息占己恒呂l紺 由 今 、 1 J 垂 1 1 、 Q 二 / L ﹁ 歩 ︵ 鼠 ︲ 三 この場合の鯉耕技術については、Ⅲ中正義、前掲醤三二’三三頁とその︵朧︶を参照. 勺‘く盲。唱農。壷︾・署門奇.︾や扇、 ピュテァスなる人物については、例えばショ︽冨冨脚員皇砿ゞ雷“且﹃︹一雲鈩畠冨㈹﹃﹃俺皀罵式水野成夫訳﹃英圃史﹄︵新湘文叩︶
既述の通り、ケルト社会は氏族制をとり、またそれが基本的には、一定の地域をしめた複数の世帯共同体の同族的 結合をもって構成されていたということである。さらに、各々の世帯共同体は外部に対しその共同体を代表する一人 の家長を有したことも明らかにされたが、周知の通りこのような家長は、氏族制社会特有の血縁関係による地位の差 を除き、けっして構成員に対し窓意的ないし専制的な家畏権を行使するような性格の者ではなかったのである。従っ て、われわれはまさにこの点にも家父長制大家族と区別される差異を見出したのであった。 そこで以上のことをふまえつつ、本節では、こうしたケルトの氏族制社会組織の頂点に位侭する首長︵。茸③冒冒︶ ないし族長の性格について少しくふれ、さらにまた、この社会に包含されたとはいえ、その韮本的構成員でないため に隷属層を形成した者達について検討を加えて糸たい。先ず首長についてであるが、一例をあげれば彼らは後世ウエ ・ プ リ テ ン に 詣 け る ケ ル ト 人 一 一 三 /一、ハハハヘハハヘへ 20 19 1817 16 15 14 13 12 、−'叫呈Jレレレ、ジレレ 亀◆夛爲向.⑫、⑮ワ○言弓蔦罰艮も靹障 像隅員近山訳、前掲醤一五四頁 、 閉 ︲ F o a 閃 司 ﹂ P 。 、 n 鷺 . ・ ロ メ 浜 ご 房 ○○臺日瞬謁﹁。。﹄陣辱ご弓印︾。、、湾・︾ロ博匡・亨FOa両目厨。衿目角。︺詞〆Hご芦曽夛畠.同.m濡す○ず目.。謡艮韓・一種“印︾詞“ぬ固い司 黒 . ○ 昌 言 噴 き & 陣 冨 胄 隅 ︾ 。 、 畠 . 亀 . 巴 ] ・ ﹀ 圏 . 両 、 牌 把 き ず 日 。 、 a ﹄ ・ も 詞 亀 I 弓 . この諸説腱ついては、田中正装、前掲機三八頁︵注︶︵鋤︶を参照. なお、動産などの所右とその窓誰については言,国.静号呂自侭島.︾詞急. 詞く旨C騨且C魚・雷aPp弓. 田中正義、前掲書四一’四二頁を参照。 五、首長ならびに隷属層の性格について 17
ブ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 一 一 四 ︵ 1 ︶ Iルズで血綜集間︵。g①皇︶の長を意味した︽︽胃冨勇畠翁・︾あるいはまた小王に相当する員零亀蚤鶚︾︾の名称で呼ばれ ︵ 2 ︶ 者にあたるだろう。ところで、この社会組織の特徴から染て、何らかの原因により血縁不明者溌生じた場合、その 判定が亜要な迩味を有したことば当然である。このため、首畏が行なった通常の機能は、主として血縁集団の一員で あると主張する者達の承認や拒絶に関する行為であった。もちろん判定に際してば、どの場合にも杵装は単独で行動 せず、彼の血縁者たちlまた、血縁関係の連鎖を検証するため必要ある時は、その婦人迷lの同窓を得てそれを ︵ 3 ︶ ︵ 4 ︶ 行なったのである。またこの他に、首長は種灸の調停や裁判も行なったろう。 ところで、首長が軍事的指揮者︵目言“ロ﹃8目冒騨乱①門︶として機能する場合、その権限は強力な性質をおびたよう である。即ち、ヴィノグラドフの言葉を借りるなら﹁戦時になると首長の支配ば専制的なものとなり、彼はすべて の者の排他的所有者となり、軍事行動の遂行に必要とする負担はどんなものでも、その地域の者達に課することがで ︵ 5 ︶ きた。﹂とあるからである。従って、右の文脈だけに依拠すれば、外観的にはあたかも彼が、椛成典に対し自己の恐恵 通りに振舞っている専制的な支配者、あるいは貴族的身分者のごとき様相を呈するが、しかしそのような解釈は誤り だろう。なぜならば、戦時における首長の機能はけっして私的性質のものでなく、それが少准くとも当該氏族構成員 全体の存続にかかわる任務だという見地からすれば、妥当なことであるからである.さらにまた、このような首艮自 身の選出方法も、その貴族的性格を否定する一つの材料だろう。即ち、後世ウエールズ法に関して、﹁⋮⋮首炎は部 族民の中から選出された頭目であり、その役職は世襲でない。後継者11§鳶ないし︽魁専碕lは、彼の存命中 ︵ 6 ︶ に選出される溌必らずしも彼の息子ではない。﹂と指摘されているのである。 しからぱ、一体ケルト社会の首抵はいかなるものかということになるが、われわれは要するにそれを本来的には、 各世帯共同体の家長の延長的性格を有するにとどまっていたと象なしたい。従って、氏族制的首長の行動は、基本的
に慣習や当該社会の単位集団︵Ⅱ世帯共同体︶を代表するものの決定により制約されたというべきであり、この点注 意を要するところである。かくして、当時のケルト社会における首長は、いわば尊敬すべき長老、もしくは﹁先見の ︵ 7 ︶ 明を有する者﹂lウェールズ語で囎馬静遵島員lとして、当該社会の全体にかかわる公務を担う地位にあった と思われる。こうして、彼ば謂そらく日常の物的生産労働からも解放され、それより分化、独立した機能をはたす者 であったといえようが、この首長に対し貢租の支払いが行なわれたにせよ、しかしそのことは直ちに封建領主的秩序 ︵ 8 ︶ の萌芽をもたらしたことにならないだろう。 さて次に、この社会に包含されていたとはいえ、隷属層を形成していた者達について考察しておきたい。周知の通 り、これまでに鋸た社会組織を構成した主たるものは、ゲール人︵I↑コイデル人︶、プリトン人、?ヘルガエ人など、 元来は大陸にあったケルト諸族であり、彼らは先住民を征服しこの国の支配的民族になった者達なのである。 ところが、その他に良鴬鳶﹀鼠。観ないし画ミ量。§瀞なる名称で呼ばれた者達も存在し、非氏族民に属するとし て先の基本的構成員から区別され、隷属層を形成し当時のケルト社会に包含されている者達がいた。総じて彼らは、 当該の氏族制社会を支える基本原理、即ち血縁的紐帯をもたぬものと糸なされ、その限りでは非氏族員を意味したが、 その出自は必らずしも同一でなく、従ってまたこの社会に鴬けるあり方も少しく異なっていたようである。以下それ らの者達について順次検討をする。 先ず第一に良鷲鼻であるが、これは国境外から来たとか喧嘩・殺害・経済的貧窮など、の理由で、血縁を断たれた ︵ 9 ︶ 者達芹ヨー切冨胃時&目g︶、ないしは血縁不明となった者連︵普邑侭自切言匡8sなのである。そして、彼らは特 定の土地に緊縛されず、ある土地から他の土地へと移動したり、また保護を求めることもできたのであるが、本来親 族・近親との関係で存在を保障される社会では、その地位も不安定な状態にあったというべきだろう。 ブ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 三 五 19
次に、タイオグ︵蔓。繋蔦・鶴︶ないし員鴬蕨なるものの存在である。これらの者達は、明らかにケルト人が支配 的民族となる以前からこの島にいた先住民、ないし土着人︵菖職息︶の後窟であり、ケルトの首長たちに宣誓をして、 ︵ 皿 ︶ その許可を得て別個のトレフ︵零§︶のもとでこの社会にとどまった隷属層である。そして、一般にタイオグが氏族 の首長たちに対し貢納をする状態におかれたことは確かであるのだが、重要なことは、原則としてこの社会の基本的 、 、 、 、 h 、 ︵ E ︶ 構成員に対する奉仕や支払いには服しなかったという点にある。因にタィオグの貢納は、先ず貴§§爵豊島:ないし 冨宮煙匙I鰹言忌と呼ばれた食物納付であり、それを夏冬一定量だけ支払ったのである。しかし、こうした種類の食 物納付はタイオグだけに固有のものでない。例えば、年二回の大巡回︵雪。喝①鷺曽目巨巴胃。噴①轆駕“︶に無ける饗応 ︵ 、 ︶ など挺象る通り、その負担は多かれ少なかれ氏族構成員にもまた同様に課せられていたのであり、このことにば留意 する必要談ある。その他に、タイオグは氏族構成員と共に城︵砦︶の修築に召集され、さらにまた、戦時には軍役に ︵ H ︸ も参加した。ただし後者の場合、彼らの役割は斧を使う者達︵冨鳶言目9︶として、陣営を張ることである。 以上のことを象るならば、先住民ないし土着人の後喬であるタイオグないし亀罵巌に関しても、彼らがケルト社 会の非血縁者達として隷属層という社会的身分にあったとばいえ、その負担に関しては、多かれ少なかれ氏族織成員 と同じ範につけられていたと象なされなくもない。最後に、ケルト社会には﹁物﹂という観念で扱われたような奴隷 者達であったと思われる。 プ リ テ ン 腱 お け る ケ ル ト 人 一 一 六 ただし、この息韓蔓酔の注目すべき特徴は、例えば後世ウエールズの事例に糸るように、や解て彼らの身辺に血族 ができ、三世代間その人格的自由を維持し続けたならば、四世代目には冨邑罵冒臘曹島ごなる名称で、当該社会の構 ︵ 、 ︶ 成員たる地位につくことができたといわれている点である。従ってその特徴をふまえれば、圏寓爵酔はそもそも氏族 社会の基本的構成員から区別されたのであるが、少なくともそれに到達する可能性をもつ、いわば準構成員的存在の 20
もおり、それらはしばしば・常昏︵Ⅱ宮乱目のロ︾:頃③噸︶なる名称で呼ばれていたのである元来この§誉ば、戦闘に よる捕虜のうち殺害されなかった者の後畜と思われるのであるが、彼らはタイオグと異なって別個のトレフに居住す ることを許されず、首長Iそして例外的には氏族構成員lの家内奴隷とし散在することを特徴とした。しかしそ ︵ 喝 ︶ の数は、けっして多くなかったのである。 以上われわれは、当時のケルト社会における隷属層について考察をしたのだが、これまでの事情をふまえると、総 じて隷属増の性格は、むしろ氏族制社会組織の埜本原理たる、血縁的紐帯の有無という側面に力点を猫いて解釈する ことが妥当と思われるのである。従って、単純に彼らを経済的な意味での隷属層としての象とらえることはできない だろう。なるほど、タイオグのごとく、外観的には農奴をおもわせ愚者達も存在したのであるが、しかし彼ら朧R罵瀞 と同様に、けっしてこの社会を支えるに足る蕊本的階層をなしていなかったと考えられるからである。 i l ︵ 1 ︶ 固 く 言 長 田 昏 焦 目 冨 O B 望 昏 皇 吾 句 冨 四 国 。 ﹃ 、 届 露 ︾ 詞 曾 。 ︵2︶軍思呂。の儲宮一畳員弓胃両冒唾罫く三岳のOo目目。ご︾岳駕も﹄9.ゞZ.︻.。一旦皇烏︾P言。国﹃冒冒?壗電も、望. ︵3︶且.砲.く旨。碩日﹄C廟司。診軋F頃曽. ︵4︶一ノイルランドの﹃§鷺営の法によれば、首長はその築団の椛成員数に変化をきたした時、その土地を新たに分割したの で あ る 。 富 . 目 . や 。 鷺 闇 ︵ 且 ︶ ︾ 周 蔚 恩 日 耳 己 鴨 団 g ご ・ 目 。 閉 ぃ g Q & 同 日 。 鷺 ︾ 届 急 ↓ 菊 。 こ も . 認 . ︵5︶弱く旨侭昌:霞、侭島も、鷺. ︵6︶司切淵ぎす貝。静鳥・も.騨副 ︵7︶皇.z,肉g且皇烏ゞ侭、賢貯、望. ︵8︶田中正裁教授憾、翻灸の条件を付しているが、氏峡拙成員、というより特にタイオグなど後述の隷属胸による現物の貢租 支払い邪実をふまえ、封建領主制的秩序を想定されている。田中正義﹃イングランド封建制の形成﹄四八’五一頁。 プ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 一 一 七 21
本稿では、前アングロ・サクソン時代のプリテンで展開されたケルト社会に関し、その人的構成や侵入の時期をふ まえつつ、当時の社会経済組織が基本的にいか次る特徴を有したかについて、少しく検討をした。ただこのような考 察領域は、援用されう為史料そのものが極めて限られている時代にあるために、不明な点、また推論を余鵠なくさせ られる部分の存在を、多かれ少なかれ不可避ならしめるわけである.換言すればそれ餌また、当該社会の諸特徴を把 握するために、基本的なところで類似性をもつような後世の史実に対しても、配慮する必要があったことに示されて いる。もちろん、そうした意味で研究上の困難や限界那あるにもかかわらず、この領域に関しても示唆にとむ先駆的 業績が躍られること催いうまでもない。本稿でも、先ずそれら先学者達の優れた労作やその中にあらわれた素材畜手 がかりとしたのだが、ここでは当時特色ある制鹿を形成したケルト社会を、いかなる仕方で解釈し、またどのように 位置づけるのが妥当なのかという観点から、いま一度の整理、検討を試巍たのである。 プ リ テ ン に お け る ケ ル ト 人 一 一 八 ︵9︶亀﹄︺ゞく旨。硯畠昏︶顕︾。、色韓.︸己鼬埠 ︵蛆︶ただし、四世代目においても亀罵員﹄の家族が同じ土地に住象、その曽祖父と同じく保漉のもとにある場合、その家族は 永久に隷屈の状態におかれた.砲.く言︵︺唱豊C壷.豊か悼馨. ︵u︶島.田.⑫①号○声嘗塀。、◆同罵己碩驍、︾も。く目︽侭﹃具ざ宝ゞ︹︺為︹愚.、ロ駅. ︵蛇︶亀.弓.く旨。瞥農C頭︾琴壁令︾石弓い①l喝. ︵喝︶の岸罰牌佗ご○壷日。。證向鴬︾p届陣︾弓④く旨。瞥且C患︾・語︵鴬.、己尹坤印出浄 ︵ 狸 ︶ も . く ヨ 。 鱒 且 口 焦 、 諏 艮 ︾ 預 鵲 。 ︵鴫︶県.国.⑫⑩号○ヶ日ゞ。、色韓︺ロ思騨︸弓↑く旨O鱈画き患、。雷同亀︲︸︼己.腱l鵠令ゞp画評 六、結びにかえて
その場合、私がさしあたり関心をもち検討したかった主要な問題の一つは、当該社会に象られる家族的集団の把握 であった。そして、既述の通りこの点については、それを家父長制大家族だとするよりも世帯共同体と理解しておき、 且つまた両者を区別して位股づけることがむしろ適切ではないかとしたのである。因に世帯共同体の内容やその位置 づけに際しては、シーポームやエンゲルスなど、いわば古典的著作といわれるものに依拠するところ謀あった。もち ろんこれらの労作には、他の点で修正され為べき部分もあるといわれるが、少なくともこの問題に関しては示唆的で 吟味に他いすると思われたからである。 次に、本稿ではケルト社会が厳密な意味での、いわゆる階級関係を有したかどうかという点についても、一応否定 的に理解しておいた。それは、当磁社会溌血絲紐帯あるいはまた人的結合を根幹とする組織を示していたということ からくる、一般的結耐に他ならない。なるぼどケルトの社会組織を全体として翠れぱ、既述の通り被征服民の存在と、 それによる宜納や部分的な家内奴隷的労働の事実もぷられたが、それらは当該社会にとって決定的な重要性をもつに 至らなかったと考えられたからである。むしろ、もし何らかの階紙関係が見出されうるとするならば、それは韮本的 に氏族猫成員相互間、またこれを統率する首長との間に求められるべきであったといえようが、これにも厳密な意味 で の 階 級 関 係 の 存 在 を 想 定 す る こ と は 、 無 理 が あ っ た と 忠 わ れ 為 。 以 上 *本袖ば、第二六回東北経済学会︵於新潟大学︶で口頭発表した服稿に、加筆修正を施したものである。 ブリテンにおけるケルト人 一 一 九 dy旱I 皇』