目
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総合テーマ『歴史と文化の旅』
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第一回 (四月十六日) 甲子園球場と観光開発の歴史 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四方 啓暉 5 田中 義次 第二回 (五月二十一日) ワークショップ ~阪神甲子園球場・甲子園歴史館を訪ねて~ ・ ・・・・・・・・・・・・ 51 第三回 (六月十八日) 歴史にみる西宮・阪神 ―近代黎明期をめぐって― ・ ・・・・・・・・・・・ 尾﨑 耕司 55 第四回 (七月十六日) ワークショップ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大崎 正雄 79 第五回 (九月十七日) 阪神間の近代建築 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 川窪 広明 99 第六回 (十月十五日) ワークショップ ~ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)を訪ねて~ ・ ・・・・・・・ 川窪 広明 137 山元 勝彦 第七回 (十一月十九日) ジャズの魅力を味わいませんか ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 澤崎 至 149 第八回 ( 十二月十七日 ) ワークショップ ~ジャズの魅力を味わう~ ・ ・・・・・・・・・・・・・・ 野坂 純子 185目
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総合テーマ『歴史と文化の旅』
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第一回 (四月十六日) 甲子園球場と観光開発の歴史 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 四方 啓暉 5 田中 義次 第二回 (五月二十一日) ワークショップ ~阪神甲子園球場・甲子園歴史館を訪ねて~ ・ ・・・・・・・・・・・・ 51 第三回 (六月十八日) 歴史にみる西宮・阪神 ―近代黎明期をめぐって― ・ ・・・・・・・・・・・ 尾﨑 耕司 55 第四回 (七月十六日) ワークショップ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 大崎 正雄 79 第五回 (九月十七日) 阪神間の近代建築 ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 川窪 広明 99 第六回 (十月十五日) ワークショップ ~ヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)を訪ねて~ ・ ・・・・・・・ 川窪 広明 137 山元 勝彦 第七回 (十一月十九日) ジャズの魅力を味わいませんか ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 澤崎 至 149 第八回 ( 十二月十七日 ) ワークショップ ~ジャズの魅力を味わう~ ・ ・・・・・・・・・・・・・・ 野坂 純子 185○四方啓暉講師 皆 様 こ ん に ち は。 四 方 で ご ざ い ま す。 今 日 は、 第 一 回 目 の 講 演 で ご ざ い ま す。 ご 参 加 い た だ き ま し て 本 当 に あ り が と う ご ざ い ま す。 当 初 は 雨 だ と 思 っ て お り ま し た け れ ども、天気になりまして、よかったと思います。 早 速 で は ご ざ い ま す け れ ど、 今 年 の 公 開 講 座 の テ ー マ は 阪 神 間 の﹁ 歴 史 と 文 化 の 旅 ﹂ と い う こ と で、 そ の 第 一 章 ︱ 本 日 の 講 座 と 次 回 の ワ ー ク シ ョ ッ プ ︱ で は、 甲 子 園 球 場 と 観 光 開 発 の 歴 史 についてとりあげてまいります。今日は、二つのパートに分けて進めさせていただきます。一つは、阪神 間の観光開発のお話をまず私、四方からさせていただいて、その後、今日の話で一番皆様の興味のおあり になる甲子園球場については田中先生からお話をさせていただきます。 それでは、 第一のパート、 阪神間における観光開発の歴史について始めさせていただきます。その前に、
甲子園球場と観光開発の歴史
四
方
啓
暉
田
中
義
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第一回 平成二十三年四月十六日から、 NHKで年末に司馬遼太郎の作品﹃坂の上の雲﹄がドラマ化され三年にわたって放映されています。 これからのお話の背景は、あの時代だというふうに思い浮かべていただいたらいいかと思います。テレビ をご覧になっている方は、︱ 秋山兄弟とか、正岡子規が出てくるドラマですけれども ︱ あのころを思い 浮かべながら聞いていただければ、 と思います。いわゆる文明開化の時代、 象徴的な出来事といいますと、 明治五年にご存じの新橋、横浜間に蒸気機関車が走った事ではないでしょうか。じつは今日は、そこから お話したいと思います。 蒸気機関車が走り、その後全国的に鉄道ブームといいますか、いろんなところで鉄道が敷設されていっ た よ う で す。 そ の 次 に、 全 国 的 に 広 が っ て い っ た の が 電 気 鉄 道 で し た。 電 気 鉄 道 と い う の は 最 初 は 市 電、 例えば東京や大阪の市内を走る市電というものが全国でブームになったようです。その後、この時代は日 露戦争の前後ですが、 だんだん都市間を電車で結ぶという時代に移り変わっていったようです。全国でそ う いう都市間の電気鉄道ブームがおきたわけですが、どうもそのころは、そういう事業に手を伸ばすとい うことは投機が目的だとか、また、株価のつり上げということで、世間には鉄道に手を出す人は真っ当な 人はいないと、鉄道事業に手を出すのには、まじめな企業は皆無といわれたぐらい、鉄道が、全国に広が っていく中で、世間の人たちは違う目で見ていたのかも知れません。関西は東京と比べて私鉄王国と言わ れ て お り ま す。 さ き ほ ど﹁ ま じ め な 企 業 は 絶 無 ﹂ と い う 言 葉 が あ る と い う ふ う に 申 し 上 げ ま し た け ど も、 皆様のお手元の資料をご確認ください。ご用意させていただきましたのは、 簡単な年表のようなものです。 それから、私のパートについてはスライドを少しご覧いただきながら進めたいと思っております。よろし くお願いいたします。 さてここで、二つほど皆様にお尋ねをさせていただ きます。差し支えなければ質問にお答えいただきた い のですが、まず一つは、実は私は昭和二十一年生まれでございます。私よりも先輩の方、ちょっと恐縮 でございますが、お手をお挙げいただけますか。どうもありがとうございます。よくわかりました。皆様 全員といいますか、大先輩でございます。気をつけてお話をさせていただきたいと思っております。 もう一つ、皆様方の中でこの阪神間に長く住んでおられて、阪神間は私のふるさとだというふうに思っ ておられる方、ちょっと恐縮ですが、再度挙手いただけますか。はい、ありがとうございます。よくわか りました。メンバーの皆様の事情を踏まえた上で、それではこれからお話をさせていただきます。 今日の私と田中先生の話には、多分、今ご出席の皆様方にとりましては非常に懐かしい名前だとか、施 設名だとかいうのが出てくると思います。皆様の若いころに行かれたところの名前もあるかも知れません ので、当時を思い出しながら、お楽しみいただければ幸いです。 そ れでは、まず観光開発の歴史です。話しは、江戸時代の慶応年間から明治に改元されて数年、それこ そ明治政府が日本を統一国家に、違う言い方をすれば近代化しようとした時代から始まります。一昨年前
から、 NHKで年末に司馬遼太郎の作品﹃坂の上の雲﹄がドラマ化され三年にわたって放映されています。 これからのお話の背景は、あの時代だというふうに思い浮かべていただいたらいいかと思います。テレビ をご覧になっている方は、︱ 秋山兄弟とか、正岡子規が出てくるドラマですけれども ︱ あのころを思い 浮かべながら聞いていただければ、 と思います。いわゆる文明開化の時代、 象徴的な出来事といいますと、 明治五年にご存じの新橋、横浜間に蒸気機関車が走った事ではないでしょうか。じつは今日は、そこから お話したいと思います。 蒸気機関車が走り、その後全国的に鉄道ブームといいますか、いろんなところで鉄道が敷設されていっ た よ う で す。 そ の 次 に、 全 国 的 に 広 が っ て い っ た の が 電 気 鉄 道 で し た。 電 気 鉄 道 と い う の は 最 初 は 市 電、 例えば東京や大阪の市内を走る市電というものが全国でブームになったようです。その後、この時代は日 露戦争の前後ですが、 だんだん都市間を電車で結ぶという時代に移り変わっていったようです。全国でそ う いう都市間の電気鉄道ブームがおきたわけですが、どうもそのころは、そういう事業に手を伸ばすとい うことは投機が目的だとか、また、株価のつり上げということで、世間には鉄道に手を出す人は真っ当な 人はいないと、鉄道事業に手を出すのには、まじめな企業は皆無といわれたぐらい、鉄道が、全国に広が っていく中で、世間の人たちは違う目で見ていたのかも知れません。関西は東京と比べて私鉄王国と言わ れ て お り ま す。 さ き ほ ど﹁ ま じ め な 企 業 は 絶 無 ﹂ と い う 言 葉 が あ る と い う ふ う に 申 し 上 げ ま し た け ど も、 皆様のお手元の資料をご確認ください。ご用意させていただきましたのは、 簡単な年表のようなものです。 それから、私のパートについてはスライドを少しご覧いただきながら進めたいと思っております。よろし くお願いいたします。 さてここで、二つほど皆様にお尋ねをさせていただ きます。差し支えなければ質問にお答えいただきた い のですが、まず一つは、実は私は昭和二十一年生まれでございます。私よりも先輩の方、ちょっと恐縮 でございますが、お手をお挙げいただけますか。どうもありがとうございます。よくわかりました。皆様 全員といいますか、大先輩でございます。気をつけてお話をさせていただきたいと思っております。 もう一つ、皆様方の中でこの阪神間に長く住んでおられて、阪神間は私のふるさとだというふうに思っ ておられる方、ちょっと恐縮ですが、再度挙手いただけますか。はい、ありがとうございます。よくわか りました。メンバーの皆様の事情を踏まえた上で、それではこれからお話をさせていただきます。 今日の私と田中先生の話には、多分、今ご出席の皆様方にとりましては非常に懐かしい名前だとか、施 設名だとかいうのが出てくると思います。皆様の若いころに行かれたところの名前もあるかも知れません ので、当時を思い出しながら、お楽しみいただければ幸いです。 そ れでは、まず観光開発の歴史です。話しは、江戸時代の慶応年間から明治に改元されて数年、それこ そ明治政府が日本を統一国家に、違う言い方をすれば近代化しようとした時代から始まります。一昨年前
その中ではまじめな大手の私鉄の歴史というものが、関西の観光開発の歴史に、オーバーラップしていく ものじゃないか、というふうに考えております。 年表をもとに少しこれからお話をさせていただきます。まず具体的に鉄道の歴史がどうだったかといい ますと、明治三十七︵一九〇四︶年、日露戦争が勃発した年です。先ほどから申し上げている﹃坂の上の 雲﹄もそうですね。この戦争は一年半ほど続いたようですが、その最中の一九〇五年、明治三十八年に初 めて大阪 ・ 神戸間を民間の鉄道が走ります。スライドに映っているのは、 昭和の最初のころの地図です︵図 1︶ 。 線 が 引 か れ て い る 部 分、 こ れ が 阪 神 間 で 最 初 に 敷 設 さ れ た 私 鉄、 阪 神 電 鉄 で す。 こ の 地 図 で は 梅 田 となっておりますが、当時の大阪は出入橋が終点だったようですね。それから神戸は加納町が最初の阪神 電鉄の神戸側の終点だったようです。この間を一時間半で結んでいたようです。 この阪神電鉄は、鉄道を引い た後、沿線開発の中で観光開発に着手していくわけです。最初に着手した の は︱ここに、打出という駅がありますが︱この打出の浜辺に海水浴場をつくることでした。大阪・神戸 間が開通した翌年のことです。当時、日露戦争でそれこそ日本海海戦などがあって、海というものが非常 に国民にとって親しいものというふうになっていたらしくて、手っ取り早くお客様を呼ぶのには、海水浴 場開発がいいだろうということで、まずは打出浜に着手したのです。ちなみに同じ年にちょっと南のほう に あ り ま す が、 南 海 電 鉄 が 浜 寺 を 開 発 し て い ま す。 当 時 は 北 の 打 出、 南 の 浜 寺 と い わ れ て お り ま し た が、 参考資料:年表 1904(明37)年 日露戦争 〔∼明治 38 年 9 月〕 1905(明38)年 阪神電気鉄道(株) 大阪―神戸開通 打出海水浴場(関西初“北の打出 南の浜寺”) 1907(明40)年 香櫨園(こうろえん)開園 〔∼大 2 年〕 香野蔵次 櫨山慶次郎 動物園・博物館・遊園地・ホテル・運動場 ウォーターシュート・奏楽堂 1908(明41)年 鳴尾競馬場 (関西初) 鳴尾球場(大 6 年 第 3 回全国中等学校優勝野球大会) 1910(明43)年 箕面有馬電気軌道(株) 梅田―宝塚開通 箕面動物園・民鉄初の建売住宅(池田) 1913(大2)年 宝塚少女唱歌隊(宝塚音楽学校) 1914(大3)年 宝塚新温泉 1920(大9)年 阪神急行電鉄(株)梅田―神戸開通、百貨店 1921(大11)年 枝川・申川(さるかわ)河川敷 譲り受ける 1924(大13)年 甲子園球場 “東洋一大球場” 1926(大15)年 甲子園総合運動場“関西唯一堂々たるスポーツセンター” 1927(昭2)年 六甲山開発 有野町 1928(昭3)年 阪神パーク(甲子園娯楽場) 1929(昭4)年 浜甲子園健康住宅地 〔大 15 年“海岸遊覧地帯計画”〕 阪神百貨店 1930(昭5)年 甲子園ホテル(甲子園会館) 1932(昭7)年 六甲ケーブル・ドライブウェー 1933(昭8)年 高山植物園 “日本唯一” 1934(昭9)年 六甲オリエンタルホテル 1943(昭18)年 多くの施設が軍の要請によって取り潰される 図 1(阪神電気鉄道株式会社提供)
その中ではまじめな大手の私鉄の歴史というものが、関西の観光開発の歴史に、オーバーラップしていく ものじゃないか、というふうに考えております。 年表をもとに少しこれからお話をさせていただきます。まず具体的に鉄道の歴史がどうだったかといい ますと、明治三十七︵一九〇四︶年、日露戦争が勃発した年です。先ほどから申し上げている﹃坂の上の 雲﹄もそうですね。この戦争は一年半ほど続いたようですが、その最中の一九〇五年、明治三十八年に初 めて大阪 ・ 神戸間を民間の鉄道が走ります。スライドに映っているのは、 昭和の最初のころの地図です︵図 1︶ 。 線 が 引 か れ て い る 部 分、 こ れ が 阪 神 間 で 最 初 に 敷 設 さ れ た 私 鉄、 阪 神 電 鉄 で す。 こ の 地 図 で は 梅 田 となっておりますが、当時の大阪は出入橋が終点だったようですね。それから神戸は加納町が最初の阪神 電鉄の神戸側の終点だったようです。この間を一時間半で結んでいたようです。 この阪神電鉄は、鉄道を引い た後、沿線開発の中で観光開発に着手していくわけです。最初に着手した の は︱ここに、打出という駅がありますが︱この打出の浜辺に海水浴場をつくることでした。大阪・神戸 間が開通した翌年のことです。当時、日露戦争でそれこそ日本海海戦などがあって、海というものが非常 に国民にとって親しいものというふうになっていたらしくて、手っ取り早くお客様を呼ぶのには、海水浴 場開発がいいだろうということで、まずは打出浜に着手したのです。ちなみに同じ年にちょっと南のほう に あ り ま す が、 南 海 電 鉄 が 浜 寺 を 開 発 し て い ま す。 当 時 は 北 の 打 出、 南 の 浜 寺 と い わ れ て お り ま し た が、 参考資料:年表 1904(明37)年 日露戦争 〔∼明治 38 年 9 月〕 1905(明38)年 阪神電気鉄道(株) 大阪―神戸開通 打出海水浴場(関西初“北の打出 南の浜寺”) 1907(明40)年 香櫨園(こうろえん)開園 〔∼大 2 年〕 香野蔵次 櫨山慶次郎 動物園・博物館・遊園地・ホテル・運動場 ウォーターシュート・奏楽堂 1908(明41)年 鳴尾競馬場 (関西初) 鳴尾球場(大 6 年 第 3 回全国中等学校優勝野球大会) 1910(明43)年 箕面有馬電気軌道(株) 梅田―宝塚開通 箕面動物園・民鉄初の建売住宅(池田) 1913(大2)年 宝塚少女唱歌隊(宝塚音楽学校) 1914(大3)年 宝塚新温泉 1920(大9)年 阪神急行電鉄(株)梅田―神戸開通、百貨店 1921(大11)年 枝川・申川(さるかわ)河川敷 譲り受ける 1924(大13)年 甲子園球場 “東洋一大球場” 1926(大15)年 甲子園総合運動場“関西唯一堂々たるスポーツセンター” 1927(昭2)年 六甲山開発 有野町 1928(昭3)年 阪神パーク(甲子園娯楽場) 1929(昭4)年 浜甲子園健康住宅地 〔大 15 年“海岸遊覧地帯計画”〕 阪神百貨店 1930(昭5)年 甲子園ホテル(甲子園会館) 1932(昭7)年 六甲ケーブル・ドライブウェー 1933(昭8)年 高山植物園 “日本唯一” 1934(昭9)年 六甲オリエンタルホテル 1943(昭18)年 多くの施設が軍の要請によって取り潰される 図 1(阪神電気鉄道株式会社提供)
今 申 し 上 げ ま し た の は、 地 図 で い い ま す と、 夙 川 が 流 れ て お り ま す、 こ の あ た り 一 帯 で す ね。 私 ど も の 大 学 は こ こ、 森 具 と い う、 森 と い う 字 の ち ょ っ と 右 に 建 っ て い ま す が、 こ の 場 所 に ご ざ い ま す の で、 あ る 意 味 で は こ れ か ら 関 西 の 歴 史、 観 光 の 歴 史 を お 話 し 申 し 上 げ る の に、 こ の 大 学 の 立 地 は非常にふさわしいと改めて思いますね。 さ て、 こ の 香 櫨 園 が ど ん な も の だ っ た か と い い ま す と、 ス ラ イ ド を ご 覧 く だ さ い︵ 図 2︶ 。 今 で も 面 影 が ご ざ い ま す が、 こ れ が J R で す。 ち ょ っ と 北 側 に ウ チ ヨ ド 池 と い う の が ご ざ い ま す。 こ れ を 中 心 に、 こ の よ う に、 音 楽 堂︵ 写 真 1︶ だ と か 動 物 園、 そ れ か ら あ と は 博 物 館 だ と か、 さ ら に 運 動 場 ︱ こ れ が で き た こ ろ に、 早 稲 田 大 学 と シ カ ゴ 大 学 の 国 際 野 球 が 行 わ れ た 歴 史 も ご ざ い ま す ︱ さ まずこれらがある意味で観光開発の最初といえるかも知れません。当時の文献を読んでみますと、一日に 五万人ぐらい来たということですから、大変な人気だったこと がうかがえますね。大阪の町にちんどん屋 を 歩かせて広告もしたといったことも、文献には載っております。 ここでもう一つ質問をさせていただきたいのですが、大手前大学の近くには阪神の香櫨園、それから阪 急 の 夙 川 と い う 駅 の 間、 ま た J R の さ く ら 夙 川 と い う 駅 が ご ざ い ま す け ど、 こ の 香 櫨 園 と い う と こ ろ に、 遊園地があったことをご存じの方、 ちょっと恐縮ですが手を挙げていただけますか。ああ、 おられますね。 ありがとうございます。実はそうなんです。この遊園地も阪神電鉄が行った観光開発の一つなんです。 再び地図をご覧いただきましょう。ここが先ほど話に出た打出ですね、そして、ここが香櫨園です。そ の北側に森具という地名が載っています。さらにその北にJRが走っていて、またその北を阪急電車が走 っていますが、当時は、まだ阪急電車は走っておりませんでした。夙川のこのあたりには当時、株などで 大儲けした人たちがおりました。そのうちの一人、香 野︵こうの︶さん、お名前は蔵治︵くらじ︶さんと い い ま す が 、 そ れ か ら も う 一 人、 櫨 山 慶 次 郎︵ は ぜ や ま け い じ ろ う ︶ と い う、 そ の 二 人 が、 こ こ に 遊 園 地をつくることを考えました。そのときに阪神電鉄の景気もよかったものですから、一緒に出資してやろ うではないかということで、香櫨園という遊園地ができました。これは、香野さんの香と櫨山さんの櫨の 二字を取ってつけられた名前なのです。 図 2(阪神電気鉄道株式会社提供)
今 申 し 上 げ ま し た の は、 地 図 で い い ま す と、 夙 川 が 流 れ て お り ま す、 こ の あ た り 一 帯 で す ね。 私 ど も の 大 学 は こ こ、 森 具 と い う、 森 と い う 字 の ち ょ っ と 右 に 建 っ て い ま す が、 こ の 場 所 に ご ざ い ま す の で、 あ る 意 味 で は こ れ か ら 関 西 の 歴 史、 観 光 の 歴 史 を お 話 し 申 し 上 げ る の に、 こ の 大 学 の 立 地 は非常にふさわしいと改めて思いますね。 さ て、 こ の 香 櫨 園 が ど ん な も の だ っ た か と い い ま す と、 ス ラ イ ド を ご 覧 く だ さ い︵ 図 2︶ 。 今 で も 面 影 が ご ざ い ま す が、 こ れ が J R で す。 ち ょ っ と 北 側 に ウ チ ヨ ド 池 と い う の が ご ざ い ま す。 こ れ を 中 心 に、 こ の よ う に、 音 楽 堂︵ 写 真 1︶ だ と か 動 物 園、 そ れ か ら あ と は 博 物 館 だ と か、 さ ら に 運 動 場 ︱ こ れ が で き た こ ろ に、 早 稲 田 大 学 と シ カ ゴ 大 学 の 国 際 野 球 が 行 わ れ た 歴 史 も ご ざ い ま す ︱ さ まずこれらがある意味で観光開発の最初といえるかも知れません。当時の文献を読んでみますと、一日に 五万人ぐらい来たということですから、大変な人気だったこと がうかがえますね。大阪の町にちんどん屋 を 歩かせて広告もしたといったことも、文献には載っております。 ここでもう一つ質問をさせていただきたいのですが、大手前大学の近くには阪神の香櫨園、それから阪 急 の 夙 川 と い う 駅 の 間、 ま た J R の さ く ら 夙 川 と い う 駅 が ご ざ い ま す け ど、 こ の 香 櫨 園 と い う と こ ろ に、 遊園地があったことをご存じの方、 ちょっと恐縮ですが手を挙げていただけますか。ああ、 おられますね。 ありがとうございます。実はそうなんです。この遊園地も阪神電鉄が行った観光開発の一つなんです。 再び地図をご覧いただきましょう。ここが先ほど話に出た打出ですね、そして、ここが香櫨園です。そ の北側に森具という地名が載っています。さらにその北にJRが走っていて、またその北を阪急電車が走 っていますが、当時は、まだ阪急電車は走っておりませんでした。夙川のこのあたりには当時、株などで 大儲けした人たちがおりました。そのうちの一人、香 野︵こうの︶さん、お名前は蔵治︵くらじ︶さんと い い ま す が 、 そ れ か ら も う 一 人、 櫨 山 慶 次 郎︵ は ぜ や ま け い じ ろ う ︶ と い う、 そ の 二 人 が、 こ こ に 遊 園 地をつくることを考えました。そのときに阪神電鉄の景気もよかったものですから、一緒に出資してやろ うではないかということで、香櫨園という遊園地ができました。これは、香野さんの香と櫨山さんの櫨の 二字を取ってつけられた名前なのです。 図 2(阪神電気鉄道株式会社提供)
と 続 け ば よ か っ た の で す が、 五 年 ほ ど し て 廃 園 に な っ て し ま い ま す。 と い う の は、 こ こ を 最 終 的 に は 住 宅 地 と し て 開 発 す る と い う 目 的 で 外 国 人 の 所 有 す る と こ ろ と な っ た の で す。 五 年 で 閉 じ て し ま う こ と に な り、 動 物 園 の 動 物 は ど う な っ た か と い う と、 こ れ は 後 で ご 紹 介 し ま す け れ ど も、 そ の 後、 阪 急 電 車 が 梅 田 か ら 箕 面 で す と か 宝 塚 に 電 車 を 走 ら せ る こ と に な っ た 際、 箕 面 に 動 物 園 が つ く ら れ ま し た の で、 そ こ に 引 き 取 ら れ て い きました。 そ れ か ら、 こ こ に 音 楽 堂 が ご ざ い ま す が、 こ れ は 香 櫨 園 浜 の 海 水 浴 場 に 移 さ れ ま し た。 先 ほ ど 打 出 の 海 水 浴 場 の お 話 し を 申 し 上 げ ま し た が、 こ の 海 水 浴 場 も 実 は 二、 三 年 で 閉 鎖 さ れ て い ま す。 こ の あ た り の 砂 浜 に は、 牡 蠣 の 貝 柄 が 多 過 ぎ て、 怪 我 をする人が多かったそうです。せっかく開設したけど、これではよくないということで、香櫨園の浜に海 水浴場がつくられたのです。いずれにしましても、短命ではありましたが、まず関西の観光開発は海 水浴 場 から始まって、そしてこのすばらしい一万坪の遊園地がつくられていったのです。 そうこうするうちに、鳴尾に競馬場をつくる話がでてまいりまして、明治四十年に完成しました。これ は関西で初めての競馬場で、その後、仁川競馬場に移ることになります。さらに阪神電鉄は、明治四十三 ら に、 現 在 の こ の 近 辺 を ご 存 じ の 方 は お 気 付 き か も し れ ま せ ん ね、 こ こ に ホ テ ル と 書 か れ て あ り ま す が、 この場所は今のカトリック教会がある場所です。施設としては以上のようなものが建てられていたようで す。さらに奥のほうも開発されていて、そこでは、例えばウサギ狩りだとかキツネ狩りなどをして楽しん でいたようです。まだ阪急が走っておりませんでしたので、山手の方まで伸びていたということですね。 さて、ちょうどここは、今、ダイエーの建物があるところです。そして、この池には⋮おわかりでしょ うか?じつはウォーターシュートなのです。写真をお見せしましょう ︵写 真 2 ︶。 こ れ で す ね。 長 さ は 五 十 メ ー ト ル あ っ た そ う で す。 私 も ウ ォ ー タ ー シ ュ ー ト に 乗 っ た 年 代 で す け れ ど も、 子 供 の こ ろ、 こ れ に 乗 せ て も ら い た い と か、 ボ ー ド の 先 に 立 っ て い る 人 が 落 ち な い か な、 な ん て 言 っ て いた思い出があります。それは冗談ですけれど⋮。 い ず れ に し ま し て も 貴 重 な 写 真 が こ の よ う に 残 っ て お り ま す。 こ の 時 代、 明 治 四 十︵ 一 九 〇 七 ︶ 年 頃 で す が、 一 万 坪 の 敷 地 を 使 っ て、 今 申 し 上 げ た よ う な 施 設 が で き た わ け で す ね。 先 ほ ど 運 動 場 で 国 際 野 球 が 行 わ れ た 話 を し ま し た が、 こ れ は 実 は そ の 後、 今 日 の も う 一 つ の テ ー マ で あ る 甲 子 園 球 場 に つ な が っ て い く こ と に な り ま す。 そ の 後 も 香 櫨 園 が ず っ 写真 2 写真 1
と 続 け ば よ か っ た の で す が、 五 年 ほ ど し て 廃 園 に な っ て し ま い ま す。 と い う の は、 こ こ を 最 終 的 に は 住 宅 地 と し て 開 発 す る と い う 目 的 で 外 国 人 の 所 有 す る と こ ろ と な っ た の で す。 五 年 で 閉 じ て し ま う こ と に な り、 動 物 園 の 動 物 は ど う な っ た か と い う と、 こ れ は 後 で ご 紹 介 し ま す け れ ど も、 そ の 後、 阪 急 電 車 が 梅 田 か ら 箕 面 で す と か 宝 塚 に 電 車 を 走 ら せ る こ と に な っ た 際、 箕 面 に 動 物 園 が つ く ら れ ま し た の で、 そ こ に 引 き 取 ら れ て い きました。 そ れ か ら、 こ こ に 音 楽 堂 が ご ざ い ま す が、 こ れ は 香 櫨 園 浜 の 海 水 浴 場 に 移 さ れ ま し た。 先 ほ ど 打 出 の 海 水 浴 場 の お 話 し を 申 し 上 げ ま し た が、 こ の 海 水 浴 場 も 実 は 二、 三 年 で 閉 鎖 さ れ て い ま す。 こ の あ た り の 砂 浜 に は、 牡 蠣 の 貝 柄 が 多 過 ぎ て、 怪 我 をする人が多かったそうです。せっかく開設したけど、これではよくないということで、香櫨園の浜に海 水浴場がつくられたのです。いずれにしましても、短命ではありましたが、まず関西の観光開発は海 水浴 場 から始まって、そしてこのすばらしい一万坪の遊園地がつくられていったのです。 そうこうするうちに、鳴尾に競馬場をつくる話がでてまいりまして、明治四十年に完成しました。これ は関西で初めての競馬場で、その後、仁川競馬場に移ることになります。さらに阪神電鉄は、明治四十三 ら に、 現 在 の こ の 近 辺 を ご 存 じ の 方 は お 気 付 き か も し れ ま せ ん ね、 こ こ に ホ テ ル と 書 か れ て あ り ま す が、 この場所は今のカトリック教会がある場所です。施設としては以上のようなものが建てられていたようで す。さらに奥のほうも開発されていて、そこでは、例えばウサギ狩りだとかキツネ狩りなどをして楽しん でいたようです。まだ阪急が走っておりませんでしたので、山手の方まで伸びていたということですね。 さて、ちょうどここは、今、ダイエーの建物があるところです。そして、この池には⋮おわかりでしょ うか?じつはウォーターシュートなのです。写真をお見せしましょう ︵写 真 2 ︶。 こ れ で す ね。 長 さ は 五 十 メ ー ト ル あ っ た そ う で す。 私 も ウ ォ ー タ ー シ ュ ー ト に 乗 っ た 年 代 で す け れ ど も、 子 供 の こ ろ、 こ れ に 乗 せ て も ら い た い と か、 ボ ー ド の 先 に 立 っ て い る 人 が 落 ち な い か な、 な ん て 言 っ て いた思い出があります。それは冗談ですけれど⋮。 い ず れ に し ま し て も 貴 重 な 写 真 が こ の よ う に 残 っ て お り ま す。 こ の 時 代、 明 治 四 十︵ 一 九 〇 七 ︶ 年 頃 で す が、 一 万 坪 の 敷 地 を 使 っ て、 今 申 し 上 げ た よ う な 施 設 が で き た わ け で す ね。 先 ほ ど 運 動 場 で 国 際 野 球 が 行 わ れ た 話 を し ま し た が、 こ れ は 実 は そ の 後、 今 日 の も う 一 つ の テ ー マ で あ る 甲 子 園 球 場 に つ な が っ て い く こ と に な り ま す。 そ の 後 も 香 櫨 園 が ず っ 写真 2 写真 1
た阪急電鉄が、お客様を誘致するために、レジャー施設、観光施設をつくった。それが宝塚の新温泉であ ったり、少女歌劇であったとご理解ください。 では、阪急電鉄は、いつ神戸まで電車を走らせたかといいますと、お手元の表にもございますが、大正 九︵一九二〇︶年に神戸︱梅田間が開通しています。ですから阪神と比べるとちょっと遅れていたようで すね。香櫨園ができたのは先ほども申し上げたように、まだ阪急電鉄が走っていなかったから、大きな香 櫨園の一万坪の敷地で遊園地ができたわけですね。 あと一つ、阪急電鉄のこれも観光開発と言っていいのでしょうか、当時はやっぱりお客様誘致の目的に 近かったと思いますけれど、神戸まで開通したと同時に阪急百貨店を開店しています。人を動かす︱集客 につながるような︱ものをつくろうということだったと思います。このように、阪神間における二大私鉄 の阪神、阪急に関わる施設の基礎がこの時代につくられていたというふうにご理解いただければと思いま す 。 ち な み に 先 ほ ど か ら 阪 急 電 鉄 と 言 っ て い ま す け れ ど も、 で き た こ ろ の 阪 急 の 名 前 は﹁ 阪 神 急 行 電 鉄 ﹂ ということですから、ちょっと今とは違う名前ですね。今は阪急電鉄と短くなっていますけど。 日露戦争があって国民が苦しい思いの中で立ち上がって来て、しだいにレジャーを求め始め、企業はそ れにこたえ始めた、その矢先に、第一次大戦が起きるわけです。一九二〇年少し前後になるわけですけれ ども。再度、世の中は不況に陥り、重苦しい雰囲気になっていったようですが、ここでまた一つ、阪神電 に競馬場ができたということとあわせて頭の片隅にとどめておいてくだされば結構です。 年に住宅地開発に着手します。これは観光開発とは重ならないかもしれませんけれども、ここでは鳴尾浜 今 ま で 阪 神 電 鉄 を 取 り 上 げ て お 話 を す す め て き ま し た が、 こ こ で 初 め て 阪 急 電 鉄 が 出 て き ま す。 明 治 四 十 三︵ 一 九 一 〇 ︶ 年、 阪 神 が 神 戸、 大 阪 間 を 電 車 で つ な い だ 後 、 五、 六 年 た っ た こ ろ で し ょ う か。 阪 急 電鉄が箕面有馬電気鉄道というものを始めます。最初は、先ほども言いましたでしょうか、神戸ではなく て宝塚と梅田の間を走らせたのです。当時五十分ほどで行ったようです。その開通と同時に箕面に動物園 をつくって廃園となった香櫨園の動物を移した。そして民鉄で初の、建て売り住宅を開発しました。同じ く阪神も住宅開発をすすめていたのですが、建て売り住宅という売り方は初めてだったようです。池田に 室町というところがございますが、非常に人気があったようです。 さらに阪急電鉄は、 宝塚の観光開発をすすめます。そこには皆様ご存じの大々的な施設が登場しました。 ま ず 宝 塚 新 温 泉 が 開 業 さ れ ま し た。 こ れ は 箕 面 動 物 園 が で き た 翌 年 の こ と で す。 そ の 次 に﹁ 宝 塚 唱 歌 隊 ﹂ が結成されます。初演は宝塚新温泉の余興場でした。大正二︵一九一三︶年のことです。その後、宝塚音 楽歌劇学校が設立され、在校生 と卒業生で宝塚少女歌劇団が組織されました。今の宝塚音楽学校と宝塚歌 劇 団の前身ですね。こういうアミューズといいますか、エンターテイメント的なものをつくるということ は、阪急電鉄が、観光開発を行っていく上での、大きな特色の一つといえます。梅田から宝塚まで開通し
た阪急電鉄が、お客様を誘致するために、レジャー施設、観光施設をつくった。それが宝塚の新温泉であ ったり、少女歌劇であったとご理解ください。 では、阪急電鉄は、いつ神戸まで電車を走らせたかといいますと、お手元の表にもございますが、大正 九︵一九二〇︶年に神戸︱梅田間が開通しています。ですから阪神と比べるとちょっと遅れていたようで すね。香櫨園ができたのは先ほども申し上げたように、まだ阪急電鉄が走っていなかったから、大きな香 櫨園の一万坪の敷地で遊園地ができたわけですね。 あと一つ、阪急電鉄のこれも観光開発と言っていいのでしょうか、当時はやっぱりお客様誘致の目的に 近かったと思いますけれど、神戸まで開通したと同時に阪急百貨店を開店しています。人を動かす︱集客 につながるような︱ものをつくろうということだったと思います。このように、阪神間における二大私鉄 の阪神、阪急に関わる施設の基礎がこの時代につくられていたというふうにご理解いただければと思いま す 。 ち な み に 先 ほ ど か ら 阪 急 電 鉄 と 言 っ て い ま す け れ ど も、 で き た こ ろ の 阪 急 の 名 前 は﹁ 阪 神 急 行 電 鉄 ﹂ ということですから、ちょっと今とは違う名前ですね。今は阪急電鉄と短くなっていますけど。 日露戦争があって国民が苦しい思いの中で立ち上がって来て、しだいにレジャーを求め始め、企業はそ れにこたえ始めた、その矢先に、第一次大戦が起きるわけです。一九二〇年少し前後になるわけですけれ ども。再度、世の中は不況に陥り、重苦しい雰囲気になっていったようですが、ここでまた一つ、阪神電 に競馬場ができたということとあわせて頭の片隅にとどめておいてくだされば結構です。 年に住宅地開発に着手します。これは観光開発とは重ならないかもしれませんけれども、ここでは鳴尾浜 今 ま で 阪 神 電 鉄 を 取 り 上 げ て お 話 を す す め て き ま し た が、 こ こ で 初 め て 阪 急 電 鉄 が 出 て き ま す。 明 治 四 十 三︵ 一 九 一 〇 ︶ 年、 阪 神 が 神 戸、 大 阪 間 を 電 車 で つ な い だ 後 、 五、 六 年 た っ た こ ろ で し ょ う か。 阪 急 電鉄が箕面有馬電気鉄道というものを始めます。最初は、先ほども言いましたでしょうか、神戸ではなく て宝塚と梅田の間を走らせたのです。当時五十分ほどで行ったようです。その開通と同時に箕面に動物園 をつくって廃園となった香櫨園の動物を移した。そして民鉄で初の、建て売り住宅を開発しました。同じ く阪神も住宅開発をすすめていたのですが、建て売り住宅という売り方は初めてだったようです。池田に 室町というところがございますが、非常に人気があったようです。 さらに阪急電鉄は、 宝塚の観光開発をすすめます。そこには皆様ご存じの大々的な施設が登場しました。 ま ず 宝 塚 新 温 泉 が 開 業 さ れ ま し た。 こ れ は 箕 面 動 物 園 が で き た 翌 年 の こ と で す。 そ の 次 に﹁ 宝 塚 唱 歌 隊 ﹂ が結成されます。初演は宝塚新温泉の余興場でした。大正二︵一九一三︶年のことです。その後、宝塚音 楽歌劇学校が設立され、在校生 と卒業生で宝塚少女歌劇団が組織されました。今の宝塚音楽学校と宝塚歌 劇 団の前身ですね。こういうアミューズといいますか、エンターテイメント的なものをつくるということ は、阪急電鉄が、観光開発を行っていく上での、大きな特色の一つといえます。梅田から宝塚まで開通し
それから公会堂、ホテル、野球場などの建設が計画されたわけです。その中でまず最初に取り組んでいっ たのは何かというと、本日のもう一つの大きなテーマであります野球場︱甲子園球場︱をつくろうという ことになったわけです。実際、甲子園球場ができのは大正十三︵一九二四︶年ですが、当初の構想は東洋 一の大球場をつくるということだったようです。これについては後で田中先生から、さらに詳しくお話し 申し上げることができると思います。 さ て、 少 し 話 は 戻 り ま す け ど、 先 ほ ど 競 馬 場 が あ っ た と い う ふ う に 申 し 上 げ ま し た が、 競 馬 場 の 跡 に、 鳴尾運動場というのがございました。これは非常に大きな競馬場だったので、その競馬場の真ん中の敷地 が空いてるから、そこをほっといてはもったいないので、スポーツ施設をつくろうということですね。競 馬場のこの真ん中に、二面の野球場、それから一周八百メートルのトラックの陸上競技場だとかプールな どをつくったよう でございます。そこの野球場で野球が行われたわけですけれども、非常に当時野球の人 気 があって、多くの方が大阪から阪神電車に乗って球場に詰めかけて、収容し切れないということも随分 続いたようです。このような背景があったので、阪神電鉄は兵庫県から払い下げられた敷地にレクリエー ションセンターを、まず第一番目に野球場をつくろうとしたのですね。 大正十三︵一九二四︶年に甲子園球場ができるわけですが︱細かいことは田中先生に引き継ぎをしたい と思いますが︱そのときに、併せていろんな運動施設ができました。甲子園総合運動場ということで、こ 鉄が考えました。こういう言葉で表現されます。 ﹁川底と山上の開発﹂ 。文字通りの川底と山上の開発を阪 神電鉄は考えました。具体的にそれらは何かと言いますと、この近くに武庫川が流れております。よくご 存じの方もおられると思いますが、当時の武庫川というのは、地元の人たちからは暴れ川といわれるぐら い急流で非常に扱いにくい川だったようですね。水害の歴史がたくさん残っておりました。当時の川は天 井 川、要は川底が結構高かったようです。万葉の時代の歌人も、暴れ川ということで、この武庫川の急流 を表現しているようですから、古くから非常に問題の大きい川だったことが伺えます。まず兵庫県が、こ の武庫川の問題解決に乗り出します。 武庫川がこう、流れているとしますね。山から海に。当時、武庫川の横に、支流が流れていました。支 流の横にさらに分流がありました。兵庫県が考えたことは、まず武庫川を低くすること、そして早期に支 流の枝川︵えがわ︶ 、分流の申川︵さるがわ︶ 、これらの川をなくしてしまおう、つまり、全部、武庫川と 一緒にしてしまおうと考えたようです。そして、その支流と分流がなくなった、要は武庫川に移った後の 敷地に、阪神電鉄は目をつけたわけです。ああ、いい土地ができた、ここの開発に取組もう、というわけ です。 そこで、阪神電鉄は兵庫県から払い下げられた、その大きな敷地にレクリエーションセンターをつくろ う としました。非常に大きな構想でした。児童遊園地から、 それこそ海水浴場、 それから動物園、 水族館、
それから公会堂、ホテル、野球場などの建設が計画されたわけです。その中でまず最初に取り組んでいっ たのは何かというと、本日のもう一つの大きなテーマであります野球場︱甲子園球場︱をつくろうという ことになったわけです。実際、甲子園球場ができのは大正十三︵一九二四︶年ですが、当初の構想は東洋 一の大球場をつくるということだったようです。これについては後で田中先生から、さらに詳しくお話し 申し上げることができると思います。 さ て、 少 し 話 は 戻 り ま す け ど、 先 ほ ど 競 馬 場 が あ っ た と い う ふ う に 申 し 上 げ ま し た が、 競 馬 場 の 跡 に、 鳴尾運動場というのがございました。これは非常に大きな競馬場だったので、その競馬場の真ん中の敷地 が空いてるから、そこをほっといてはもったいないので、スポーツ施設をつくろうということですね。競 馬場のこの真ん中に、二面の野球場、それから一周八百メートルのトラックの陸上競技場だとかプールな どをつくったよう でございます。そこの野球場で野球が行われたわけですけれども、非常に当時野球の人 気 があって、多くの方が大阪から阪神電車に乗って球場に詰めかけて、収容し切れないということも随分 続いたようです。このような背景があったので、阪神電鉄は兵庫県から払い下げられた敷地にレクリエー ションセンターを、まず第一番目に野球場をつくろうとしたのですね。 大正十三︵一九二四︶年に甲子園球場ができるわけですが︱細かいことは田中先生に引き継ぎをしたい と思いますが︱そのときに、併せていろんな運動施設ができました。甲子園総合運動場ということで、こ 鉄が考えました。こういう言葉で表現されます。 ﹁川底と山上の開発﹂ 。文字通りの川底と山上の開発を阪 神電鉄は考えました。具体的にそれらは何かと言いますと、この近くに武庫川が流れております。よくご 存じの方もおられると思いますが、当時の武庫川というのは、地元の人たちからは暴れ川といわれるぐら い急流で非常に扱いにくい川だったようですね。水害の歴史がたくさん残っておりました。当時の川は天 井 川、要は川底が結構高かったようです。万葉の時代の歌人も、暴れ川ということで、この武庫川の急流 を表現しているようですから、古くから非常に問題の大きい川だったことが伺えます。まず兵庫県が、こ の武庫川の問題解決に乗り出します。 武庫川がこう、流れているとしますね。山から海に。当時、武庫川の横に、支流が流れていました。支 流の横にさらに分流がありました。兵庫県が考えたことは、まず武庫川を低くすること、そして早期に支 流の枝川︵えがわ︶ 、分流の申川︵さるがわ︶ 、これらの川をなくしてしまおう、つまり、全部、武庫川と 一緒にしてしまおうと考えたようです。そして、その支流と分流がなくなった、要は武庫川に移った後の 敷地に、阪神電鉄は目をつけたわけです。ああ、いい土地ができた、ここの開発に取組もう、というわけ です。 そこで、阪神電鉄は兵庫県から払い下げられた、その大きな敷地にレクリエーションセンターをつくろ う としました。非常に大きな構想でした。児童遊園地から、 それこそ海水浴場、 それから動物園、 水族館、
開発です。ちょうど大正から昭和、具体的には昭和二︵一九二七︶年です。 六甲は当時、大高原といいますか、非常に夏は涼しく美しいところです。その裏がご存じの有馬温泉で すけれど、あのあたりに有野町というところがあります。阪神電鉄は、その有野町が七十五万坪という広 大な敷地、土地を払い下げたものを、買い取りました。関西初の山岳公園をつくり、行く行くは観光と山 荘の六甲というものをつくり上げようと考えたようです。 六甲山は海抜が確か千メートル近いですね。私も年に何度か行きますが、最近はそれほどでもなくなり ま し た が、 子 供 の こ ろ 六 甲 へ 行 く と、 や は り、 ひ ん や り し て 寒 い な と 思 っ た こ と が あ る く ら い で す か ら、 夏 の 避 暑 地 に ふ さ わ し い 土 地 柄 な ん で す ね。 明 治 時 代 に 神 戸 で 貿 易 商 を 営 ん で い た 英 国 人 の グ ル ー ム は、 いち早く六甲山上に別荘を建て、ゴルフ場の建設もすすめました。この、日本初のゴルフ場となった﹁神 戸ゴルフ倶楽部﹂の発足は明 治三十六︵一九〇三︶年のことでした。すでに、もうその時代から六甲山で は 一部開発がされていたわけですが、 阪神電鉄が改めてその六甲山に目をつけて開発に乗り出したのです。 観光開発で申し上げますと、昭和二年に払い下げられた五年後、昭和七年には、土橋︵ドバシ︶から山上 まで、あのケーブルカーが敷設されました。合わせてドライブウェイもできました。進んでますよね。運 営していたのは、阪神電鉄の傘下にあった六甲越有馬鉄道ですが、その子会社がさらにつくった施設が高 山植物園です。昭和八年に開設されているので、あの高山植物園も古いですね。日本一の高山植物園とい 日本はよく頑張ってくれていますけれど、当時は欧米と比べてまだまだ遅れてい ポーツは欧米に比べて二十年ほど遅れていたというふうな記録がございます。今でこそオリンピック等で れはある意味では当時、関西では唯一のスポーツセンターということだったようです。当時は、日本のス たようです。それどころ か 東京からも遅れていたようなので、そういう点では、この大きな総合運動場をつくるということは関西 のスポーツを奮い立たせるという大きな目的もあったようです。甲子園球場ができた後、何度か改装され ていくわけですが、改装されていく中では、東京に負けないような施設ができていったようです。 話を戻しますと、甲子園総合運動場ができたのは大正十五︵一九二六︶年ですが、皆様方の中で、これ からお話する言葉を聞いたことがある、とおっしゃられる方が大勢いらっしゃるのではないかと思うので すが、 ﹁百面コート﹂ 。広い敷地に、百面のテニスコートがあったようですね。中にはインドアコートもあ ったようですが、すごいことですよね、想像するだけでも。あとは、先ほど申し上げましたけれど、公会 堂などもあったように聞いております。この時代、この甲子園総合運動場というのは、ある意味日本を代 表するスポーツセンターで、阪神間、関西のスポーツの中心という役割を果たしていったようでございま す 。 ところで、先ほど川底から山上までの開発というお話を申し上げましたが、ここで阪神電鉄が次に取り 組んだものは何かというと、山上です。関西で山の上と言えばもう皆さんもおわかりのように、六甲山の
開発です。ちょうど大正から昭和、具体的には昭和二︵一九二七︶年です。 六甲は当時、大高原といいますか、非常に夏は涼しく美しいところです。その裏がご存じの有馬温泉で すけれど、あのあたりに有野町というところがあります。阪神電鉄は、その有野町が七十五万坪という広 大な敷地、土地を払い下げたものを、買い取りました。関西初の山岳公園をつくり、行く行くは観光と山 荘の六甲というものをつくり上げようと考えたようです。 六甲山は海抜が確か千メートル近いですね。私も年に何度か行きますが、最近はそれほどでもなくなり ま し た が、 子 供 の こ ろ 六 甲 へ 行 く と、 や は り、 ひ ん や り し て 寒 い な と 思 っ た こ と が あ る く ら い で す か ら、 夏 の 避 暑 地 に ふ さ わ し い 土 地 柄 な ん で す ね。 明 治 時 代 に 神 戸 で 貿 易 商 を 営 ん で い た 英 国 人 の グ ル ー ム は、 いち早く六甲山上に別荘を建て、ゴルフ場の建設もすすめました。この、日本初のゴルフ場となった﹁神 戸ゴルフ倶楽部﹂の発足は明 治三十六︵一九〇三︶年のことでした。すでに、もうその時代から六甲山で は 一部開発がされていたわけですが、 阪神電鉄が改めてその六甲山に目をつけて開発に乗り出したのです。 観光開発で申し上げますと、昭和二年に払い下げられた五年後、昭和七年には、土橋︵ドバシ︶から山上 まで、あのケーブルカーが敷設されました。合わせてドライブウェイもできました。進んでますよね。運 営していたのは、阪神電鉄の傘下にあった六甲越有馬鉄道ですが、その子会社がさらにつくった施設が高 山植物園です。昭和八年に開設されているので、あの高山植物園も古いですね。日本一の高山植物園とい 日本はよく頑張ってくれていますけれど、当時は欧米と比べてまだまだ遅れてい ポーツは欧米に比べて二十年ほど遅れていたというふうな記録がございます。今でこそオリンピック等で れはある意味では当時、関西では唯一のスポーツセンターということだったようです。当時は、日本のス たようです。それどころ か 東京からも遅れていたようなので、そういう点では、この大きな総合運動場をつくるということは関西 のスポーツを奮い立たせるという大きな目的もあったようです。甲子園球場ができた後、何度か改装され ていくわけですが、改装されていく中では、東京に負けないような施設ができていったようです。 話を戻しますと、甲子園総合運動場ができたのは大正十五︵一九二六︶年ですが、皆様方の中で、これ からお話する言葉を聞いたことがある、とおっしゃられる方が大勢いらっしゃるのではないかと思うので すが、 ﹁百面コート﹂ 。広い敷地に、百面のテニスコートがあったようですね。中にはインドアコートもあ ったようですが、すごいことですよね、想像するだけでも。あとは、先ほど申し上げましたけれど、公会 堂などもあったように聞いております。この時代、この甲子園総合運動場というのは、ある意味日本を代 表するスポーツセンターで、阪神間、関西のスポーツの中心という役割を果たしていったようでございま す 。 ところで、先ほど川底から山上までの開発というお話を申し上げましたが、ここで阪神電鉄が次に取り 組んだものは何かというと、山上です。関西で山の上と言えばもう皆さんもおわかりのように、六甲山の
う も の で し た。 モ デ ル に し た の が ア メ リ カ に あ る、 コ ニ ー・ ア イ ラ ン ド と い う と こ ろ で す。 海 の そ ば の 遊 園 地 で、 こ こ を 模 倣 し、 見 習 っ て つ く ら れ た と い う こ と で す。 こ の 阪 神 パ ー ク は、 色 々 な 文 献、 例 え ば 阪 神 電 鉄 の 社 史 な ど を 読 ん で い る と、 実 は す ご い 施 設 だ っ た こ と に 改 め て 気 づ か さ れ ま す。 少 し ご 紹 介 し ま す と、 今 で こ そ 日 本 で 遊 園 地 と い え ば、 東 京 の デ ィ ズ ニ ー ラ ン ド と 多 分 皆 さ ん 声 を そ ろ え て お っ し ゃ る と 思 い ま す が、 も し か し た ら 当 時 の 阪 神 パ ー ク は、 現 在 の デ ィ ズ ニ ー ラ ン ド ぐ ら い の イ ン パ ク ト が あ っ た の で は な い か と 思 え る ぐ ら い の も の で し た。 ち な み に ど ん な も の が あ っ た の か と い い ま す と、 例 え ば 動 物 園 で す が、 そ の こ ろ の 東 京 と か 大 阪 に あ っ た 動 物 園 と い う の は、 檻 が あ っ て そ こ に 動 物 が い て と い う よ う な 見 せ 方 を す る よ う な も の だ っ た そ う で す。 阪 神 電 鉄 が 考 え た 阪 神 パ ー ク 動 物 園 と い う の は、 そ れ で は お も し ろ く な い か ら、 動 物 の 生 態 を 自 然 に 近 い 形 で 楽 し め る よ う な も の に し よ う じ ゃ な い か と い う こ と う ことでオープンしたようです。すてきな花がいっぱい咲いてますけれども、ちょうど今ごろは春という ことで咲き誇っているのではないかと思います。 さらに阪神電鉄は、昭和九︵一九三四︶年に六甲オリエンタルホテルをつくりました。山上に天狗岩と い う 美 し い 場 所 が あ り ま す け れ ど も、 そ こ に ホ テ ル を 建 て る 時 の コ ン セ プ ト は、 〝 六 甲 山 を 上 品 に 発 展 さ せるため〟だったようです。上品に発展させるためにはホテルが不可欠だということでつくられたようで すね。ただしかし、その後、まことに残念な出来事としましては、阪神淡路大震災のときに、六甲も随分 ダメージを受けました。私も仕事の関係で六甲山オリエンタルホテルにかかわっていた時期がございます けれども、あの震災の後ばったりと人々が六甲山に行かなくなりました。ケーブルカーもダメージを受け たということもありますが、まだ完全には立ち直れていないように も思えます。数カ月前に行ったときに は 、六甲オリエンタルホテルは建物が囲われ、閉館されていました。さあこれからどうなるのかなと心配 も し て お り ま す。 す ば ら し い ホ テ ル で し た ね。 そ の 後 も、 阪 神 電 鉄 は 六 甲 山 上 の 開 発 を 続 け︵ 図 3︶ 、 現 在に至っています。 さて、続いて時代を追うことにしましょう。また浜の方におりてきますと︱皆様よくご存じの︱阪神パ ークができました。阪神パークをつくるに当たっては、川砂や海の砂などで、まず土地を盛り上げるとい うことから始まったようです。そして阪神パークのコンセプトは、異色に満ちた海浜遊園をつくろうとい 図 3
う も の で し た。 モ デ ル に し た の が ア メ リ カ に あ る、 コ ニ ー・ ア イ ラ ン ド と い う と こ ろ で す。 海 の そ ば の 遊 園 地 で、 こ こ を 模 倣 し、 見 習 っ て つ く ら れ た と い う こ と で す。 こ の 阪 神 パ ー ク は、 色 々 な 文 献、 例 え ば 阪 神 電 鉄 の 社 史 な ど を 読 ん で い る と、 実 は す ご い 施 設 だ っ た こ と に 改 め て 気 づ か さ れ ま す。 少 し ご 紹 介 し ま す と、 今 で こ そ 日 本 で 遊 園 地 と い え ば、 東 京 の デ ィ ズ ニ ー ラ ン ド と 多 分 皆 さ ん 声 を そ ろ え て お っ し ゃ る と 思 い ま す が、 も し か し た ら 当 時 の 阪 神 パ ー ク は、 現 在 の デ ィ ズ ニ ー ラ ン ド ぐ ら い の イ ン パ ク ト が あ っ た の で は な い か と 思 え る ぐ ら い の も の で し た。 ち な み に ど ん な も の が あ っ た の か と い い ま す と、 例 え ば 動 物 園 で す が、 そ の こ ろ の 東 京 と か 大 阪 に あ っ た 動 物 園 と い う の は、 檻 が あ っ て そ こ に 動 物 が い て と い う よ う な 見 せ 方 を す る よ う な も の だ っ た そ う で す。 阪 神 電 鉄 が 考 え た 阪 神 パ ー ク 動 物 園 と い う の は、 そ れ で は お も し ろ く な い か ら、 動 物 の 生 態 を 自 然 に 近 い 形 で 楽 し め る よ う な も の に し よ う じ ゃ な い か と い う こ と う ことでオープンしたようです。すてきな花がいっぱい咲いてますけれども、ちょうど今ごろは春という ことで咲き誇っているのではないかと思います。 さらに阪神電鉄は、昭和九︵一九三四︶年に六甲オリエンタルホテルをつくりました。山上に天狗岩と い う 美 し い 場 所 が あ り ま す け れ ど も、 そ こ に ホ テ ル を 建 て る 時 の コ ン セ プ ト は、 〝 六 甲 山 を 上 品 に 発 展 さ せるため〟だったようです。上品に発展させるためにはホテルが不可欠だということでつくられたようで すね。ただしかし、その後、まことに残念な出来事としましては、阪神淡路大震災のときに、六甲も随分 ダメージを受けました。私も仕事の関係で六甲山オリエンタルホテルにかかわっていた時期がございます けれども、あの震災の後ばったりと人々が六甲山に行かなくなりました。ケーブルカーもダメージを受け たということもありますが、まだ完全には立ち直れていないように も思えます。数カ月前に行ったときに は 、六甲オリエンタルホテルは建物が囲われ、閉館されていました。さあこれからどうなるのかなと心配 も し て お り ま す。 す ば ら し い ホ テ ル で し た ね。 そ の 後 も、 阪 神 電 鉄 は 六 甲 山 上 の 開 発 を 続 け︵ 図 3︶ 、 現 在に至っています。 さて、続いて時代を追うことにしましょう。また浜の方におりてきますと︱皆様よくご存じの︱阪神パ ークができました。阪神パークをつくるに当たっては、川砂や海の砂などで、まず土地を盛り上げるとい うことから始まったようです。そして阪神パークのコンセプトは、異色に満ちた海浜遊園をつくろうとい 図 3
ジラを二頭です。今となってはそんなに驚く話ではないかも知れませんが、当時は今以上にえさの問題や 水 質 の 問 題 だ と か い ろ ん な 問 題 が あ り ま し た。 ま さ し く 多 く の 方 が、 ﹁ へ ー ッ!﹂ と 思 っ て 見 に 行 か れ た のでしょうね。このように非常に珍しい、全国広しといえども関東にもないようなものを、阪神パークで は見ることができたようです。 そこで、 ちょっと古い図面なので見にくいかも知れませんが、 スライドをご覧ください︵図4︶ 。これが、 その後の阪神パークの姿ですが、 ここに甲子園球場が見えます。こちらが百面テニスコートです。そして、 ここに阪神パークがあって、水族館があります。ここで鯨を飼っていたのですね。そして南運動場という のがあって、ここでもいろんなスポーツが行われたようです。これがある意味で全盛期の甲子園近辺ので すね、時代を代表する観光開発の一つというふうにご覧いただければと思います。ご出席の皆様の中では あそこに行ったよ 、その話は両親から聞いたことがあるよ、というようなものもあったと思います。 最 後 に も う 一 つ お 話 さ せ て い た だ き ま す 。 阪 神 電 鉄 は 阪 神 パ ー ク の よ う な 観 光 施 設 を 補 う も の と し て、 ここでもまたホテルをつくるのです。︱先ほどお話したのは、山上の六甲オリエンタルホテルでしたが︱ この写真です︵写真3︶ 。うなずいておられる方がおられますが、そうです。 ﹁甲子園ホテル﹂です。ご存 じですね。今は甲子園会館と呼ばれていて、 武庫川学院の所有となっています。昭和五年に竣工して以来、 ﹁東の帝国ホテル﹂ ﹁西の甲子園ホテル﹂といわれたぐらい立派なホテルだったようです。それもそのはず で︱今でこそ全国の動物園で取り入れておられますけれども︱例えば猿山、猿が動き回るわけですね、あ あいうものを初めてつくったり、それから羊も山をつくってそこに羊が山を登っていくようなものを見せ たりだとか。さらにはペンギンですが、このような数字が出ていました 。 当 時の動物園ではせいぜいペンギンっていうのは五羽から十羽未満ぐらいだったらしいのです。ちなみ に 名 古 屋 に あ る 東 山 動 物 園 な ど で は、 ペ ン ギ ン が 七 羽 い る と い う こ と で、 大 変 喜 ば れ て い た と い う 話 で す が、 そ の 時 代 に 阪 神 パ ー ク 動 物 園 で は、 四 十 八 羽 の ペ ン ギ ン を 飼 っ て い た の で す。 園 内 を 四 十 八 羽 の ペ ン ギ ン が 歩 い て い た よ う で す。 さ ら に 驚 い た の は、 実 は 阪 神 パ ー ク の 中 で 鯨 を 飼 っ て い た の で す ね。 今、 ﹁ へ ー ッ!﹂ て驚かれていますが、 私も、 ﹁へ ー ッ!﹂ と 思 い ま し た。 ゴ ン ド ウ ク 図 4
ジラを二頭です。今となってはそんなに驚く話ではないかも知れませんが、当時は今以上にえさの問題や 水 質 の 問 題 だ と か い ろ ん な 問 題 が あ り ま し た。 ま さ し く 多 く の 方 が、 ﹁ へ ー ッ!﹂ と 思 っ て 見 に 行 か れ た のでしょうね。このように非常に珍しい、全国広しといえども関東にもないようなものを、阪神パークで は見ることができたようです。 そこで、 ちょっと古い図面なので見にくいかも知れませんが、 スライドをご覧ください︵図4︶ 。これが、 その後の阪神パークの姿ですが、 ここに甲子園球場が見えます。こちらが百面テニスコートです。そして、 ここに阪神パークがあって、水族館があります。ここで鯨を飼っていたのですね。そして南運動場という のがあって、ここでもいろんなスポーツが行われたようです。これがある意味で全盛期の甲子園近辺ので すね、時代を代表する観光開発の一つというふうにご覧いただければと思います。ご出席の皆様の中では あそこに行ったよ 、その話は両親から聞いたことがあるよ、というようなものもあったと思います。 最 後 に も う 一 つ お 話 さ せ て い た だ き ま す 。 阪 神 電 鉄 は 阪 神 パ ー ク の よ う な 観 光 施 設 を 補 う も の と し て、 ここでもまたホテルをつくるのです。︱先ほどお話したのは、山上の六甲オリエンタルホテルでしたが︱ この写真です︵写真3︶ 。うなずいておられる方がおられますが、そうです。 ﹁甲子園ホテル﹂です。ご存 じですね。今は甲子園会館と呼ばれていて、 武庫川学院の所有となっています。昭和五年に竣工して以来、 ﹁東の帝国ホテル﹂ ﹁西の甲子園ホテル﹂といわれたぐらい立派なホテルだったようです。それもそのはず で︱今でこそ全国の動物園で取り入れておられますけれども︱例えば猿山、猿が動き回るわけですね、あ あいうものを初めてつくったり、それから羊も山をつくってそこに羊が山を登っていくようなものを見せ たりだとか。さらにはペンギンですが、このような数字が出ていました 。 当 時の動物園ではせいぜいペンギンっていうのは五羽から十羽未満ぐらいだったらしいのです。ちなみ に 名 古 屋 に あ る 東 山 動 物 園 な ど で は、 ペ ン ギ ン が 七 羽 い る と い う こ と で、 大 変 喜 ば れ て い た と い う 話 で す が、 そ の 時 代 に 阪 神 パ ー ク 動 物 園 で は、 四 十 八 羽 の ペ ン ギ ン を 飼 っ て い た の で す。 園 内 を 四 十 八 羽 の ペ ン ギ ン が 歩 い て い た よ う で す。 さ ら に 驚 い た の は、 実 は 阪 神 パ ー ク の 中 で 鯨 を 飼 っ て い た の で す ね。 今、 ﹁ へ ー ッ!﹂ て驚かれていますが、 私も、 ﹁へ ー ッ!﹂ と 思 い ま し た。 ゴ ン ド ウ ク 図 4
この広大な甲子園のいろんな施設が軍によって目をつけられるわけですね。どういうことが起きてきたか と言いますと、例えば、ちょうどプールがあった海側あたりですね、川崎航空機工場の続きとして飛行場 になりました。色々な建造物も軍に接収されました。甲子園球場には大銀傘がありましたが、それも資材 として取り上げられたようです。また一時期、甲子園球場の中も芋畑となったようです。このように明治 から始まった阪神間、甲子園を中心とする阪神電鉄の開発も、戦争によって大きな打撃を受けました。文 献によると、戦後、立ち直り始めたのは昭和二十二︵一九四七︶年頃からだったとあります。 本日は、阪神間の観光開発について、戦前までを私のパートとしてお話させていただきましたが、改め て歴史を振り返りますと、すごい先輩たちがいたのだと、私自身、再発見させていただけたというふうに 思 っ て お り ま す。 こ の た び の 東 日 本 大 震 災 で も ︱ 言 葉 を な く す ほ ど の 衝 撃 で し た が ︱ 被 災 地 を は じ め、 日本全国をあげて復興に向けて頑張っていますが、明治時代以降、文明開化、戦争など、ざまざまな出来 事の内で、これまでの歴史の中でも先輩たちの頑張りがあったのだと感慨深くなります。 最近はなかなか、 これらに携わった方々のことに触れる機会も少なくなってきているように思いますが、 冒 頭 に 申 し 上 げ ま し た よ う に、 本 日 の お 話 を お 聞 き い た だ く 中 で、 き っ と ご 出 席 の 中 に は、 ﹁ 私 の お じ い さ ん が 実 は あ の 施 設 に か か わ っ て い た ﹂ と か、 ﹁ 開 発 に 携 わ っ た 人 を 知 っ て る ﹂ な ど と お っ し ゃ る 方 が た くさんおられるのではないでしょうか。また機会があれば、そういうこともお教えいただければ、私自身 で す。 甲 子 園 ホ テ ル を 設 計 し た の は、 帝 国 ホ テ ル の 設 計 者 フ ラ ン ク・ ロ イ ド・ ラ イ ト の 愛 弟 子・ 遠 藤 新 と 帝 国 ホ テ ル の 林 愛 作 総 支 配 人 と い う 方 々 だ っ た の で す。 た だ 残 念 な こ と に、 ホ テ ル と し て 商 い を し た の は わ ず か 十 四 年 間 だ っ た そ う で す。 太 平 洋 戦 争 が 始 ま っ て し ま っ た の で す。 し か し そ の 短 い 間 に も、 例 え ば 野 球 の ベ ー ブ・ ル ー ス だ と か、 三 笠 宮 が 新 婚 旅 行 で 宿 泊 し た と か、 さ す が は 帝 国 ホ テ ル と 並 び 称 さ れ る ぐ ら い、 お も だ っ た 方 々 が 利 用 さ れ た よ う で す。 甲 子 園 の 開 発 を す す め る う え で、 す ば ら し い ホ テ ル が 要 る だ ろ う と い う こ と で 計 画 さ れ、 つ く ら れ た よ う で す ね。 今 も 美 し く 当 時 の ま ま、 非 常 に す ば ら し い 管 理 をされて残っております。私も先日、 久しぶりに見て来ましたけど、 変わったところはありませんでした。 ただ、今と少し違うのが、このスライドで見えております、これは南側だと思いますけれども、木や芝生 などがありますが、ホテルとして営業していた当時には、ここには小さな遊園地があったようです。子ど もが泊まったときに楽しめたのだと思います。 ホ テ ル ま で 整 っ た 甲 子 園 の 開 発 で す が、 先 ほ ど も 少 し ふ れ ま し た 太 平 洋 戦 争 の 影 響 が 出 て ま い り ま す。 写真 3(武庫川女子大学甲子園会館案内リーフレットより)