併発事実と故意責任--客体の特定および故意の個数の視点から-香川大学学術情報リポジトリ

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屎II圓

併発事実と故意貴任

客体の特定および故意の個数の視点から

はじめに

 方法の錯誤あるいは客体の錯誤をめぐっては、いわゆる法定的符合説︵柚象的法定符合説︶と具体的符合説︵具体 的法定符合説︶との間で、故意の符合を認める範囲について従来から争いがある。たとえば、法定的符合説は、殺人 罪における﹁人﹂という抽象的レペルでの認識事実と実現事実との符合により故意犯の成立を認めるのに対して、具 体的符合説は、﹁その人﹂という︵法定的符合説から比べれば︶具体的レペルでの認識事実と実現事実との符合によ りはじめて故意犯の成立を認めるのである。また、行為者が一人の人を犯って攻撃を行った結果、行為者の予期に反 して複数の人に結果を発生させたような、いわゆる併発事実については、法定的符合説の中でも二つの見解に大きく 分かれ、結果︵あるいは未遂結果︶が発生した複数の人に対して故意犯の成立を認める数故意犯説と、行為者があく       一 (香法20㈲ 28−3・・4−365

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       コ までも一人の人に対する故意しか有していないことを重視して一つの故意犯の成立︵他の人に対しては、過失犯の成 立が問題となる︶を認める一故意犯説とが対立している。  判例は、大審院の時代から基本的に法定的符合説を堅持している。そして、併発事実については、意図した客体に 対するのと同時に意図しない客体に対する故意犯をも認める数故意犯説を維持してきた。たとえば、併発事実につい ての初期の判例として、大判昭和八年八月三〇日︷刑集二I巻︸四四五号︶は、Aに対する殺意をもって日本刀で数 十回突き剌したところAが抱いていた女児Bをも殺害したという事案について、AのみならずBに対しても殺人罪の 成立を肯定していがoまたヽ最判昭和五三年七月二八日︵刑集三コ巻五号一〇六八頁︶では、被告人が警察官から拳 銃を奪取することを企て、周囲に人影が見えなくなったとみて、Aの背後から同人の右肩付近をねらって建設用びょ う打銃を改造したものを用いてびょうを発射させたが、Aの右側胸部を貫通させて右側胸部貫通銃創を負わせると同 時に、偶然Aの約三〇m右前方の道路反対側の歩道を通行中のBの背部に命中させて腹部貝通銃創を負わせたもの の、拳銃強取については結局は目的を遂げなかった、という事案について、次のように判示して、A・B両名に対す る強盗殺人未遂罪の観念的競合の成立を肯定した二審の判断を支持して、上告を棄却した。まず、﹁犯罪の故意があ るとするには、⋮⋮犯人が認識した罪となるぺき事実と現実に発生した事実とが必ずしも具体的に一致することを要 するものではなく、両者が法定の範囲内において一致することをもつて足りるものと解すべきである⋮⋮から、人を 殺す意思のもとに殺害行為に出た以上、犯人の認識しなかつた人に対してその結果が発生した場合にも、右の結果に ついて殺人の故意があるものというべきである。﹂として、法定的符合説に立つことを述べた上で、﹁披告人が人を殺 害する意思のもとに手製装薬銃を発射して殺害行為に出た結果、被告人の意図した巡査Aに右側胸部貢通銃創を負わ せたが殺害するに至らなかつたのであるから、同巡査に対する殺人未遂罪が成立し、同時に、被告人の予期しなかつ ︵ 3 ︶

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(小島) 併発事実と故意責任 た通行人Bに対し腹部貫通銃創の結果が発生し、かつ、右殺害行為とBの傷害の結果との間に因果関係が認められる から、同人に対する殺人未遂罪もまた成立し⋮⋮、しかも、被告人の右殺人未遂の所為は同巡査に対する強盗の手殴 として行われたものであるから、強盗との結合犯として、被告人のAに対する所為についてはもちろんのこと、Bに 対する所為についても強盗殺人未遂罪が成立するというべきである。﹂として併発事実においては複数の故意犯が成 立することを認めたのである。本判決は、従来の立場を踏襲するものではあるが、それを最高裁として明確に示した ものとして意義を有する。  判例のこのような状況に対して、学説においては、判例が拠って立つ数故意犯説が併発事実について一人に対する 故意しかないのにもかかわらず複数の故意犯の成立を認める点を批判して、判例と同様に法定的符合説をとりながら も一つの故意犯の成立しか認めない一故意犯説をとる見解も有力に主張されるようになった。また、これと同時に、 判例の拠って立つ法定的符合説そのものを批判して、故意の符合のレペルをより具体的に考える具体的符合説も有力 に主張されるようにもなった。かつては通説的な地位を占めていた判例の立場は学説の上ではもはや少数説といって もよく、学説の多くは一故意犯説あるいは具体的符号説を支持しているといえよう。  上記のような議論状況において、併発事実に関する注目すぺき判決が近年出された。束京高判平成一四年一二月二 五日︵判ター一六八号三〇六頁︶である。事案は、被告人AIB両名が、披害者Xを殺害すぺく共謀の上、斎場にお いて、被告人Bがけん銃の弾丸一発を、被告人Aがけん飲の弾丸三発を、それぞれXに向けて続けて発射したところ、 Bが発射した弾丸、および、Aが発射した弾丸のうち一発がXに命中し、このうちAの発射した弾丸が致命傷となっ てXは死亡した。︸方、Aの発射した弾丸のうち他の一発は被害者Yに命中して、これによりYは死亡、また、残り の一発は被害者Zに命中して、これによりZは重傷を負った。原判決は、観念的競合によりこれらを一罪としてXに       三 28−3・4−367(香法2009)

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       四 対する殺人罪の刑で処断することとし、Aに無期懲役︵求刑死刑︶、Bに懲役二〇年︵求刑無期懲役︶を言い渡した。 これに対して、検察官及び被告人両名が量刑不当を理由に控訴したが、本判決は次のような理由により控訴を棄却︵確 定︶したものである。すなわち、﹁本件は、打撃の錯誤︵方法の錯誤︶の場合であり、いわゆる数故意犯説により、 二個の殷人罪と一個の殺人未遂罪の成立が認められるが、Y及びZに対する各殺意を主張して殺人罪及び殷人未遂罪 の成立を主張せず、打撃の錯誤︵力法の錯誤︶の構成による殺人罪及び殺人未遂罪の成立を主張した以上、これらの 罪についてその罪名どおりの各故意責任を追求することは許されないのではないかと考えられる。したがって、⋮⋮ 周囲の参列者に弾丸が命中する可能性が相当にあったのに、これを意に介することなく、Xに対する殺害行為に出た との点で量刑上考慮するのならともかく、Y及びZに対する各殺意に黄づく殺人、同未遂事実が認められることを前 提とし、これを量刑上考慮すぺきことをいう所論は、失当といわなければならない。﹂と判断した。この判決は、い わゆる数故意犯説に立って、XおよびYに対する二個の殺人既遂罪とZに対する一個の殺人未遂罪の成立を認めたも のである。しかし、量刑にあたっては、立証されていないYおよびZについての故意の存在に基づき刑を加重するこ とはできないとした。すなわち、力法の錯誤の構成によって複数の故意犯の成立を認めるものの、量刑にあたっては 現実に存在した︵と立証された︶故意のみが考慮されるべきことを述べたのである。  このように、判例は数故意犯説を堅持しており、これに一故意犯説および具体的符合説が絡み合って、併発事実に 関する議論には依然として錯綜している状況が見られるのである。それでは、法定的符合説および具体的符合説それ ぞれの立場において、俳発事実はどのように処理されるべきとされ、そして、その処理にはどのような問題が存在す るのであろうか。本稿では、併発事実に問題を限定して、方法の錯誤および客体の錯誤に関するそれぞれの立場の考 え方を検討していくことにする。

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島) 併発事奥と故意責任(/j

二 数故意犯説と併発事実

 ︼﹂ 観念的競合による処理  まず、判例が採用する、法定的符合説のうちの数故意犯説について検討する。法定的符合説によれば、﹁人﹂とい うレベルで客体の抽象化を行うため、同一構成要件に属する客体であれば、意図した客体とは別の客体に結果が発生 した場合でも故意の符合を認め故意犯の成立を認めることになる。たとえば、Aを狙って銃弾を発射したところ意図 した客体に命中したもののそれはAではなくBであったという﹁客体の錯誤﹂の場合だけでなく、Aを犯って銃弾を 発射したところ銃弾は狙いを外れてAの傍にいたBに命中したという﹁方法の錯誤︵打撃の錯誤︶﹂の場合にも、B に対する故意犯の成立を認めることになる。法定的符合説は、このようにおよそ﹁人﹂を狙って﹁人﹂に結果を生じ たのであるから﹁人﹂に対する故意が認められると考えるのであり、これを徴底させると、Aを犯って銃弾を発射し たところAに命中すると同時にBにも命中したという﹁併発事実﹂に対しても、Aという﹁人﹂とBという﹁人﹂と は構成要件的に同価値であることから、A・B両方に対する故意を認める、という結論に達する。いわゆる数故意犯 説である。そして、この立場では、Aには命中せずBにのみ命中した場合にも、Aこn両方に対する故意を認めるこ とになる︵ただし、Aについては未遂となる︶。  そして、数故意犯説の代表的な論者は、﹁甲をねらって発砲したところ、乙に命中して乙が死亡したときは、甲に 対する殺人未遂︵甲を傷つけたにせよ甲には全然命中しなかったにせよ︶と乙に対する殺人既遂の観念的競合になる。 甲・乙両者を死亡させれば、甲だけをねらったのであっても、甲・乙両者に対する殺人既遂の観念的競合︵同種の観       五 (香法20㈲ 28−3・・4−369

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       六 念的競合︶になる﹂として、複数の客体に対して成立する故意犯を観念的競合によって処理することとし、﹁一罪の 意思をもってしたのに数罪の成立をみとめるのは不当だという批判があるが、観念的競合を科刑上二非としているの は、このような趣旨をも含むものと考えるぺきである﹂として観念的競合による処理の意義を述べるのである。  このような見解に対しては、まず、一つの客体に対する故意︵すなわち、一つの犯罪に対する故意︶しかないとこ ろに複数の故意犯の成立を認めることは責任主義に抵触する、との批判がある。たとえば、﹁この見解︵数故意犯説一 筆者注︶は故意の個数を無視しているので、甲を殺すつもりで発砲したところ、弾丸が甲を貫通し、後方にいた乙、 丙に命中し全員を死亡させたときには、甲、乙、丙につき殺人罪︵既遂︶の成立をみとめることになるが、このよう に故意の無制限な拡大をみとめることには、刑法における頁任主義に反することになろう﹂、あるいは、﹁たとえ観念 的競合になるにしても、一個の故意に対して二個以上の故意犯の成立を認めることは、責任主義、より具体的には刑 法三八条二項に反するというべきであろう﹂との批判が提起されている。  また、数故意犯説は複数の故意犯を認めうる根拠として観念的競合を挙げるが、これに対しても、批判が加えられ ている。たとえば、﹁たしかに観念的競合は、﹃一個の行為﹄で複数の罪名にふれる場合であるから、﹃一個の故意﹄で 数個の罪名にふれる場合も含むと解する余地があるようにも見える。しかし、ここでコ個﹄の故意というとき、﹃一 個﹄ということばの意昧は、﹃一個﹄の行為という場合と違っている。一個の故意というのは、一罪の故意というこ とである。こ徊の行為というのは、一個の意思活勤という意昧である。そしで一個の行為で数罪が成立することはあ るが、一罪の故意しかない場合には、故意犯は一個しか成立しないのである。もともと観念的競合というのは、各々 の罪が何罪を構成するか、故意犯であるか過失犯であるかがきまった後に、単に﹃科刑上﹄ 一罪としてとりあつかう にすぎないのであって、観念的競合であることによって、故意のなかった罪まで、故意犯になるというように犯罪自

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島) 併発事実と故意頁任(/j 体の性質が変ることは牡大﹂、あるいは、︷観念的競合が科刑上一罪とされるのは、数罪の成立を前提として、ただそ れが︸個の行為によるものである点に着眼して、科刑上一罪として処断するのが妥当であるとされたことによるもの であって、故意の成否といった犯罪の成立にかかわる問題とは関係がないから、もともと一個の故意しかないばあい に複数の故意犯の成立をみとめる根拠にはならないように思われる﹂などの批判が提起されている。すなわち、観念 的競合は一つの﹁行為﹂によって複数の罪名に触れる場合を規定したものではあるが、それは一つの﹁故意﹂が数個 の罪を成立させることを認めているものでもなく、また、観念的競合においては実体法上は数罪が成立することを観 念しているのであるから、観念的競合を根拠に一つの故意から実体的には存在しない複数の故意犯が認められるもの でもないのである。  確かに、Aに対する一つの故意からBやCなど複数の客体に対して結果が生じる併発事実の場合には、観念的競合 により﹁その最も重い刑により処断﹂されることになるため、結局は一つの客体に対する故意犯の法定刑の範囲内で 処断されることになり、複数の故意犯を認めることによる問題は生じないようにも思われる。しかし、犯罪成立の場 面と量刑の場面とを分けて考えたとき、犯罪の成立の問題として、一つの故意、すなわち、一つの犯罪を意図した故 意によって複数の故意犯の成立を認めることの当否の問題は、依然として残されているので軋加。  I 量刑における責任主義の考慮  一つの故意から複数の結果が発生する併発事実と、複数の客体に対する故意が存在しそれによって複数の結果が発 生する場合とでは、いわゆる責任の量︵程度︶が異なる。そして、刑罰は責任の量に応じて量定されるべきであり、 前者と後者との相違は当然ながら量刑において考慮されるべきである。確かに、複数の結果に対する故意犯が観念的        七 3・・4−371(香法2009) 28

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       八 躾合となることによって、︸つの罪の刑の範囲内で処断されるため、﹁法定刑の上限﹂としてはその限りで故意責任 の量は考慮される。しかし、それはあくまでも刑の上限が限定されるというだけのことであって、具体的に宣告され る刑が故意責任の量を反映するとは限らない。  そこで、数故意犯説からは、観念的競合による刑の上限の限定に加えて、行為者が本来意図した結果の数に応じた 故意責任の量を量刑において考慮すぺきであるとする主張がなされる。すなわち、﹁方法の錯誤がつねに観念的競合 であることは、それが一罪に準じたものとして包括される点において、またその処断刑が﹃其最モ重キ刑﹄とされて いる点において、故意が﹃一個﹄であることによる責任量の限定のために必要な前提粂件をすでに作り出している﹂ とした上で、︷方法の錯誤の場合は、︸人を殺す故意しかなかったのであるから、たとえコ人を死に致したとしても、 故意責任の面では、ぞの責任の量に対応して、一人を殺したものとしての刑以上の刑を量定することは許されない。 つまり、この場合は、観念的競合であることによる刑の制約の上にさらに責任による量刑の制約が加わるのであって、 それによってはじめて責任主義が全うされるのである﹂とするのである。そして、このような故意責任の量の問題は、 故意責任を認めるかどうかという故意責任の﹁質﹂の問題とは異牡ことして、複数の故意犯を認めると行為者の予見 した範囲を超えた責任を認めることになって不当だという批判に対しては、﹁それは故意責任の量の問題であって賀 の問題ではない。二個の故意犯を認めても、故意責任の量としては、予見した以上のものを行為者に非難することは 三八条二項に示された責任主義の精神に反するから、刑の量定に際しては、その責任の量を予見した範囲︵Aを殺そ うとしてA・Bを死に致した場合でいうと、一人を殺すこと︶に止めるぺきであり、そうすることによって妥当な結 論を得ることができるはずである﹂とするのである。すなわち、故意責任を認めるか否かについてはこれを﹁責任の 質﹂の問題とし、一方で故意犯としてどのような刑量を科すのかについてはこれを﹁責任の量﹂の問題とし、両者を ︵ 1 8︶

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併発事実と故意頁任(小島) 明確に分けた上で、故意責任の量としては行為者の意図した結果の数に応じた刑罰を量定することで責任主義は全う される、と考えるのである。  しかし、このように故意責任の量を量刑において考慮するとしても、行為者の意図した結果の数を超えた故意犯の 成立を認める点については、やはり責任主義に反しないのかという疑念を払拭することはできない。また、数故意犯 説に立つ論者自らも指摘するように、複数の故意犯の成立を認めた上で故意責任としては意図した結果の数に対応し た責任の量を量刑で考慮するとしても、その事後審査は判決にとくに説明がある場合のほかは困難で、結局は通常の 刑の量定の当否の問題として審査されることになるとされ、したがって、量刑における責任量を限定する基準として 十分に機能しうるかははなはだ疑問である。このため、数故意犯説が故意責任の量を量刑において考慮すればよいと する点については、被告人の権利保障という観点からは十分なものとは言いがたい、との批判が向けられるのである。

三 一故意犯説と併発事実

 ︼﹂ 意図した客体およぴ予想外の客体の両方を死亡させた場合  構成要件における抽象的なレペルでの故意の符合を認める法定的符合説の中でも、﹁故意の個数﹂を重視して一人 の﹁人﹂に対する故意からは一つの故意犯の成立しか認めないという立場が存在する。一故意屁説である。一故意犯 説においては、Aの殺害を意図して銃弾を発射したところAにはあたらずに傍にいたBにあたって死亡させたという 場合に、Bに対する殺人罪の故意犯を認めることについては、一故意犯説を採る論者の中でも見解の相違はないであ ろう。しかし、BのみならずAも死亡した場合や、Bは死亡しAは傷害を負ったような場合については、︸故意犯説        九 (香法2009) 28−3‥4−373

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一 1 0 の中でも必ずしも結論は一致しない。以下では、このような場合について、一故意犯説における見解の相違をみるこ とにする。  まず、殺意をもってAを犯って殺害行為を行い、その結果Aおよび予想外のBの両方を死亡させた場合については どうであろうか。この場合、一故意犯説に立つ論者の多くは、そもぞも錯誤論の適用を否定する。すなわち、錯誤論 は、本来の故意が実現されなかった場合に本来の故意とは別に発生した結果について故意を認めることができるか否 かの議論であるから、本来の故意が実現した場合、すなわち本来の故意であるAに対する故意がAの死亡という結果 によって実現された以上、そこに錯誤はなく、Aに対する故意犯の成立を認め、そして意図していなかったB死亡の 結果については過剰結果として過失犯が問題になるに過ぎない、と考えるのである。この立場に立つ見解として、た とえば、﹁行為者が意図した事実を実現した上に、予定外の事実が併発したときは、錯誤理論は関係がない。たとえ ば、甲は乙を殺そうとして射撃し、弾丸は乙に命中したが、同時に乙の傍にいた丙にも命中したため、乙丙両名とも 死亡したとする。乙に対する殺害目的は達成したのであるから、同人に対する殺人罪は成立するが、そこに乙以外の 者に対する結果発生をも認容する態度がないかぎり、丙の死については過失致死の罪責しか生じない。一人だけを殺 す意志なら、結果として何人死んでも、殺人は一罪しか成立せず、他はみな過失致死の問題となるに過ぎない﹂、あ るいは、﹁錯誤は故意論の例外的場面であるから、故意論で処理すぺきときは、錯誤論の入る余地はない。すなわち、 本来の故意が実現されれば、行為者が意図した犯罪は意図通りに完成したのであって、ぞこでは故意既遂犯の成立を みとめれば足り、行為者の意図した以外の結果が発生しても、結果的加重犯の規定のあるばあいをのぞき、それは単 なる過剰結果として過失犯の成否を論ずれば足りるからである﹂などが述べられている。そして、一故意犯説におい ては、錯誤が問題となる場合に、本来意図した客体に対する故意を結果が生じた別の客体に﹁転用する﹂などと説明

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島) 併発事実と故意責任(片 されるが、その故意を他に転用するのか否かの基準については﹁本来の意図に対応する結果が生じたか否かである。 対応する結果が生ずれば、その生じた結果との関係で未遂ないし既遂とする評価がなされる以上、その故意を他に転 用する必要はなくなってしこ﹂とするのである。したがって、前述の例でいえばAに対する殺人︵既遂︶罪とBに対 する︵過失が認められれば︶過失致死罪が成立することに牡こ。  以上のような、本来の故意が実現された場合には錯誤論の適用を排除しようとする見解に対しては、﹁甲を殺す意 思なのに甲も乙も死なせたのであるから、そこに方法の錯誤があることは明かである﹂、あるいは、A・Bの両方が 死亡の場合に﹁B死亡の結果について行為者は認識していなかったのであり、認識事実と実現事実との開に不一致が 存在しているから、この⋮⋮併発事例も方法の錯誤であることは否定できない﹂など、錯誤の︸場面としてとらえる ぺきであるとする批判がある。AIBの両方が死亡した場合のような併発事実について、複数の故意犯の成立をみと める数故意犯説に立って考えた場合には、意図しない客体Bに対しても故意を認めることになるのであるから、それ はまさに錯誤論の適用の結果である、と判断されよう。また、結果的に意図された客体Aに対してのみ故意犯の成立 を認める︵と同時に意図しなかった客体Bに対しては故意犯の成立を認めないご故意犯説および具体的符合説に立っ て考えた場合にも、意図しなかった客体Bに対して﹁予期に反して﹂結果が発生した以上、それは錯誤の事例である と考える方が自然であるように思われる。  一方、意図された客体に結果が発生した場合にはこれを錯誤の事例と捉えない見解は、故意の個数の観点から故意 犯の成立を一つの客体に﹁特定﹂するための基準の一つとして、意図した客体に結果が発生した場合には﹁錯誤論が 排除される﹂旨の理論を展開するのである。一故意犯説においては、法定的符合説を前提にすることから複数の客体 を構成要件的に同価値であると考えるため、いずれの客体に故意を﹁特定﹂するのかその基準の定立が問題となる。        一 一 (香法20㈲ 375 4 28−3

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| 一 1 W W 1 ← ・ そして、次に述べるような意図した客体であるAが傷害を負い予想外のBが死亡した事例においては、特定のための 基準の問題はより顕著となる。  I 意図した客体に傷害結果を、予想外の客体に死亡結果を発生させた場合  次に、殺意をもってAを犯って殺害行為を行い、その結果Aに傷害結果を、予想外のBに死亡結果を発生させた場 合についてはどうか。この場合については、Aの傷害結果を行為者が意図した結果であると捉えるのか否かによって、 結論が分かれる。すなわち、意図した客体Aには傷害という結果は発生しているものの、それは行為者が意図した死 亡結果とは厳密には異なる結果である。そこで、①ともかくも行為者が意回した客体に﹁何らかの結果﹂が発生した 以上故意は実現したと捉えるのか、あるいは、②行為者が意図したのはあくまでも死亡結果でありその死亡結果は予 想外の客体に発生していると捉えるのかの相違により結論は分かれるのである。①の見解は行為者の意図した内容の うち客体に重点を置いて結果をある程度抽象的に捉えるのに対し、②の見解は結果に重点を置き客体を︵前者に比ベ て︶拍象的に捉えるものである、といえよう。  まず、①の見解は、Aの傷害結果も行為者が意図した結果であると捉え、Aに対する殺人未遂罪を認める。たとえ ば、﹁当初の故意に対応する事実の発生はあり、したがって⋮⋮殺人未遂を認めればたりることになろう。そのかぎ り、故意の流用を認める必要もなく、⋮⋮錯誤論の登場を必要とする課題なのでは礼ぐあるいは、﹁Aに対し傷害 の結果を発生せしめてしまった以上、たとえ既遂に達しなかったとはいえ、もはやそこには錯誤の存在する余地はな いのであって、そこには殺人未遂が成立してしまっており、それと同時に故意は完全に燃焼し切ってしまっていて、 のこるかけらはないと解すべきではあるまいか。従って、のこるのは過失犯成立の可能性のみであ﹂るとする。すな

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(小島) 併発事実と故意頁任 わち、意図した客体に﹁結果﹂が発生した以上、錯誤論を論ずるまでもなく、意図した客体に故意は認められその結 果故意犯、ただし意図した結果が完全に発生しているわけではないので未遂犯が成立し、その他の客体については過 失犯が問題となるに過ぎず、過失犯が成立する場合は殺人未遂罪と過失致死罪の観念的競合となる。  一方、②の見解は、行為者が意図した結果はあくまで死亡結果であり、その結果は意図した客体には発生せずに予 想外の客体に結果が発生したと捉え、Bに対する殺人既遂罪を認める。しかし、意図したAに対する傷害結果につい ては、②−㈱これを過失致傷罪とし予想外のBに対する殺人既遂罪との観念的競合を考える見解と、②−㈱Aに対す る傷害結果はBに対する殺人既遂罪に吸収されると考える見解とに分かれる。  ②−㈲の見解︵A・B双方に対する罪の成立を認める見解︶は、たとえば、甲を狙って、乙は死亡、甲は負傷の事 例について、﹁乙に対する殺人既遂、甲に対する過失致傷の観念的競合の成立を肯定すべきであると解寸錨﹂、あるい は、﹁第三︵の見解一筆者注︶は、乙に対して殺人既遂罪を、甲に対しては過失致傷罪をみとめ、それらの観念的競 合とする見解です。わたくしは、第三説が妥当であると考えています。φ争・・1●行為者は、﹃人﹄一人を殺そうとして﹃人﹄ 一人を殺しているのだから、その事実について故意をみとめ、過剰の致傷の点には過失を論じるということは、まさ に法定的符合説の当然の事理にほかならないからです﹂とする。この見解は、意図された客体Aに意図された結果︵死 亡︶が発生しない以上それは典型的な錯誤の問題であり、﹁人﹂をねらって﹁人﹂を殺害した以上、死亡結果の発生 したBに対して故意犯すなわち殺人既遂罪が成立するのであり、これによって殺人罪の故意は﹁燃焼し切った﹂ので あり、Aの傷害結果については︵過失が認められれば︶過失傷害罪が成立するというものである。そして、Aに対す る過失傷害罪とBに対する殺人既遂罪は、一個の行為によって実現されたものであるから、観念的競合となるのであ る。 一 1 1 1 一 377(香法2009) 3・・4 28

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      一四  一方、②−㈲の見解︵一方の罪が他方の罪に吸収されると考える見解︶は、﹁甲を殺す意思が人を殺す意思として 抽象化され、乙の死、すなわち人の死を惹起し、構成要件が一回充足されたとみるのが正当である。甲の負傷は途中 の経過として、その中に吸収され別罪を構成せず、たかだか量刑上考慮されるにすぎないと解七こ﹂とし、Aが傷害 を負っている点を評価しないという点については、﹁法定的符合説の立場からは、一個の故意が実現されたものとし て殺人既遂罪一罪を認める点で、妥当である﹂とするのである。  国 一故意犯説に対する批判  以上のように、﹁人﹂という抽象的レベルでの故意の符合を認める法定的符合説に立ちながら故意の個数を考慮す る一故意犯説においては、予想外の客体Bは死亡したものの意図した客体Aは傷害を負うにとどまった場合について は、Aに対する故意犯︵殺人未遂罪︶を認める見解と、Bに対する故意犯︵殺人既遂罪︶を認める見解とに分かれる ことになる。このように、同じ一故意犯説に立ちながらも、このような場合について結論が犬きく分かれるのは、何 故であろうか。もちろん、一つの学説あるいは理論の中である具体的事例について相異なる見解が存在すること自体 をもって、その学説二埋論の非合理性を指摘することはできない。しかし、同じ立場に立ちながらも結論において大 きく異なることの理由如何によっては、その学説・理論における根本的な問題を看取することができる。したがって、 重要なのは、一故意犯説において以上のように結論が別れることの理由である。  一故意犯説は、前述のように、意図した客体に対する一つの故意しか認められないにもかかわらず符合が認められ るすべての客体に対して複数の故意犯の成立を認めようとすることが行為者に過剰な故意責任を科すことになり貴任 主義に反するという理由から、故意犯の成立を一つに限定しようとするものである。問題は、その基準である。前述

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島) 併発事実と故意責任(/j のように、これを錯誤論の適用ではないとするかどうかは別として、一故意犯説は、意図された客体Aと予想外の客 体Bの両方に結果が発生した場合には、﹁行為者の意図﹂を基準としてAに対する故意犯を認める。その一方で、A について結果が発生せずBについて結果が発生した場合には、﹁発生した結果﹂を基準としてBに対する故意犯を認 めるのである。もっとも、﹁発生した結果﹂として、行為者が意図した結果のみを考えるか、殺人に対する傷害結果 のように意図した結果とは厳密には異なるものの何らかの結果が発生すればよいと考えるかの相違はあるが、﹁行為 者の意図﹂という基準と﹁発生した結果﹂という基準の二つを使い分けていることは確かである。問題は、その理由 が明らかではないことである。  そもそも、法定的符合説においては、﹁人﹂というレペルではAもBも構成要件的に同価値であるはずである。し たがって、法定的符合説において意図された客体Aが無傷で予想外の客体Bに死亡結果が発生した場合にBに対する 殺人既遂罪を認めるのは、﹁人﹂を殺す意思で﹁人﹂であるBを殺害した以上Bを殺したことの故意貴任を問う実質 的根拠を認めるからである。そうであるならば、AIBの両方に死亡結果が発生した場合にも、行為老は、同様に﹁人﹂ を殺す意思でBを殺害しているのであるから、この事例においてもBを殺したことの故意責任を問う根拠が欠けるも のとは思われない。さらにいえば、Aが無傷でBに死亡結果が発生した場合について、Bに対する殺人既遂罪を認め ないでAに対する殺人未遂罪を認めることも、理論上可能であると思われ託゜すなわち、一故意犯説が法定的符合説 の考えを前提とするかぎり、﹁ぞの﹃一人﹄はAでもBでもよく、とにかく一人でありさえすればよいのであるから、 どちらに故意を認めるべきかについての基準は、垣論的には存在しえないはずぬ﹂り、﹁柚象的法定符合説とは、 構成要件的に同価値である限りいずれの客体との関係でも故意を認めうるとする見解なのであるから、そのうちいず れかの客体にのみ故意の成立を限定するための基準はもともと存在せず、あえて限定しようとすれば、その基準が恣        一五 28−3・・4−379(香法2009)

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一 1   i 、 / X 意的になることは避けられないのである﹂。一故意犯説が、故意犯の成立を一つに限定してそれをいずれかの客体に ﹁特定﹂しようとすることは、﹁人﹂というレペルで故意の抽象化を行う法定的符合説にたつ以上、理論的には無理の ように思われる。

四 客体を特定しない一故意犯説

 ︼﹂ 客体を特定しない一故意犯説とその趣旨  法定的符合説をとるかぎり、故意犯の成立する客体をいずれか一つに特定することについては、その基準の定立に は無理があるように思われる。また、次のような事案においては、一故意犯説に立つ場合には客体の特定に困難が生 じることを否定することはできないものと思われる。すなわち、Aを殺害しようとして予想外のB・C・D・:らを︵同 時に︶死亡させた軋七、あるいは、Aを殺害しようとして部屋の中めがけて発砲したところ、Aは部屋におらず、B・ CID・:らが死亡した軋七について、一故意犯説においてはB八・ごD⋮いずれの客体について故意を認めるのかは 確定できないであろう。  そこで、一故意犯説の中で、客体を特定する基準を定立することの困難さ、あるいは、客体を特定することが困難 な事例の存在を正面から認め、故意犯の成立する客体を特定することなく行為者が意図したのと同じ数の故意犯を認 めようとする見解がある。すなわち、法定的符合説︵および拍象的符号説︶は﹁AかBかという具体的事実を論ずる ことなく、拍象的に観察し、人を殺そうとして人を死亡させたという事実に対して罪責を論ずるのである。したがっ て、そこには一人の人に対する殺人罪が成立するだけで、Aという具体的な人に対する殺人未遂も、Bという具体的

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(小島) 俳発事・実と故意責任 な人に対する過失致死も、犯罪として論ずる余地が牡宍﹂のであり、どの客体に結果が発生したのかという﹁具体的 事実にこだわることなく、単に一人が死亡して一人が意外にも負傷したという事実を刑法的に評価すべ鈎﹂であると 考える。したがって、﹁甲を犯って乙と丙を殺した場合には、一個の殺人罪と一個の過失致死罪が成立するが、それ が乙と丙のどちらかは問う必要がない。同様に甲を狙って甲を傷つけ乙を殺したときも︸個の殺人罪と︸個の過失致 傷罪が成立九匹﹂と考えるのであ罷。さらに、﹁Aを殺す意思で開始された行為が、ありがちな因果経路を辿ってB 殺害という結果に到達したとき、B殺害の意思でBを殺したのと同じ刑法的評価を与えようとするのが、法定的符合 説の意昧内容﹂であると捉え、﹁それは、決して犯意︵故意︶の転用でもなく、発生結果の擬制でもなく、ありのま まの因果的行為事実全体を一個の故意既遂犯と評価することが、構成要件の同一性ないし同質性のゆえに許される⋮ ・:さればこそ、個々の構成要件の枠内での評価からは、︵Aを狙って予想外のB・C・Dを死亡させた場合に一筆者 注︶殺人未遂あるいは過失致死となるぺき事実が統合されて一個の殺人既遂罪と盛﹂るとも考えるのである゜  I 客体を特定しない一故意犯説に対する批判  確かに、客体を特定せずに行為者が意図した数だけの故意犯の成立を認める見解は、およそ﹁人﹂を殺そうとして ﹁人﹂を殺したという点で故意の符合を認める法定的符合説の趣旨に最も忠実で礼昨、誰か︸人の﹁人﹂を殺す意思 で誰か一人の﹁人﹂を死亡させたという点で符合を認めるという一故意犯説の本来の考え方を垣論的に一貫させた見 解であると思われる。そして、このように考えることによって、故意の﹁転用﹂とか﹁擬制﹂になるという批判を回 避することができるとも考えられ加゜  しかし、このような客体を特定しない一故意犯説に対しては、わが国の訴訟制度上ぞのような処理は不可能である。       一七 28−3・・4−381(香法20㈲

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一 ● 八 との批判が向けられている。すなわち、﹁構成要件を基準として犯罪の成否を考えるぺきものである以上、殺人や傷 害の罪においてはどの客体に対する罪かを特定しないわけには行かないであろう。また、そうしないと有罪判決の理 由である罪となるべき事実も害けないことに如ご﹂との批判である。そして、﹁たしかに、立法者は、﹃B殺しの構成 要件﹄と﹃C殺しの構成要件﹄を個別化するほどに無意昧な立法にでていない。Bを殺そうと、Cを殺そうと、Dを 殺そうと、﹃人殺し﹄として﹃同価値﹄で南ると判断される現象を、統一的に包括しうるような立法態度にでている のである。しかし、このことから、﹃B殺し﹄と﹃C殺し﹄の区別がないという結論を導くことは許されない。Bを 殺そうと、Cを殺そうと﹃殺人の構成要件﹄に該当することには変わりはないというだけであって、﹃B殺し﹄・﹃C 殺し﹄を捨象した抽象的な﹃殺人の構成要件﹄該当性そのものが存在するにすぎないというわけではないのである。 そうでなければ、すくなくとも、わが現行刑訴法のもとでは、検察官は﹃訴因﹄を特定することができないはずであ る。そもそも、﹃人殺しそのもの﹄は存在しないのである﹂とも批判する。客体を特定しない一故意犯説は故意の符 合を認めるか否かという場面において客体の抽象化を行うものではあるがい故意の符合を認めるか否かという﹁理論 の場面﹂における抽象化のあり方と、刑罰法規の適用および刑事手続の進行という﹁現実の場面﹂における抽象化の あり方︵むしろ具体化というべきであろうか︶とが、果たして同じレペルで成り立ちうるのかははなはだ疑問である。

五 具体的符合説と併発事実

T4体的符合説における併発事実の処理 ﹁人﹂というレペルで客体を抽象化する法定的符合説に対して、﹁その人﹂と いう程度に客体を具体化する具体的符

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併発事実と故意頁任(小島) 合説においては、﹁その人﹂以外の客体に発生した結果については故意は否定される。たとえば、Aの殺害を意図し て銃弾を発射しAにはあたらず予想外のBに命中してBを死亡させた場合、および、Aに傷害を負わせBを死亡させ た場合については、いずれもAに対する殺人未遂罪とBに対する︵過失が認められる場合には︶過失致死罪が成立し、 A︰Bともに死亡した場合には、Aに対する殺人既遂罪とBに対する過失致死罪が成立し、それらは観念的競合とな るのである。また、Aの殺害を意図してAと同時にBを殺害し、さらにCに傷害を負わせた事案︵前述の東京高判平 成一四年二I月二五日︶については、Aに対する殺人既遂罪とBに対する過失致死罪、Cに対する過失傷害罪が成立 し、これらは観念的競合となる、という結論が得られることになる。さらに、て限意犯説では客体の特定が困難とさ れる事例のうち、Aを殺害しようとして予想外のB・C・D・:らを︵同時に︶死亡させた場合︵前出四〇参照︶につ いては、Aに対する殺人未遂罪とB・C・D・:それぞれに対する過失致死罪が成立し、それらは観念的競合となる。 これらの事例については、故意の個数という観点からも、また、客体の特定という観点からも、具体的符合説は明確 な結論を提供しうるのである。 圖 具体的符合説における問題点 もっとも、具体的符合説によってもすべての併発事実の処理に問題が生じないわけではな い。まず、行為者が客体 の数だけを特定したものの、客体そのものを特定しない場合、たとえば、目の前に立っているAとBいずれか一人に はあたるだろうと思って発砲したところ、両方にあたった︵または、どちらにもあたらなかった︶という択一的故意 の場合については、具体的符合説においても、いずれの客体に対して故意犯が成立するのかという問題は生じう鋸。 また、一故意犯説では客体の特定が困難とされる事例[前出四]﹂参照︶のうちのもう一つの事例、すなわち、Aを殺        ▽几 (香法20㈲ 3・・4−383 28

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       二〇 害しようとして部屋の中めがけて発砲したところ、Aは部屋におらず、B・C・D・:らが死亡したという客体の錯誤 が絡む場合については、具体的符合説においても客体の特定に困難を伴うことに変わりはない。そして、重要なこと は、以上のような事例の検討をとおして、具体的符合説における暗黙裏の前提が浮かび上がってくることである。す なわち、﹁具体的符号説の基準を適用するためには、行為者が﹃そこにある﹄と思った客体が、そこにー認識した通 りの態様・個数でー現実にも存在しなければなら牡宍﹂のであり、このような前提が成立しない場合には、具体的符 合説はその理論的明確さを失うことになるのである。  具体的符合説は、﹁その客体﹂というレペルで客体を特定する以上、犯罪成立の前提として、①行為者が意図した 客体に侵害結果が発生することが条件となる。そして、それと同時に、②行為者の意図した数と同じ数の客体が侵害 されるということが条件として必要となる。したがって、択一的故意のように、結果の発生自体は認識しているもの のそれがいずれの客体に向けられたものであるのか特定できない場合には、前述の①の前提条件が充たされずに、結 局は故意犯成立の前提条件を欠くことになってしまうのである。具体的符合説は、前述①の﹁客体の特定﹂の問題と 前述②の﹁故意の個数﹂の問題を同時に扱おうとする説である。そして、方法の錯誤の也ハ型事例︵Aを殷害しようと して傍らにいたBに結果を発生させた事例など︶のように、①の問題と②の問題を相反させることなく処理すること も可能ではある。しかし、前述のような行為者が客体そのものを特定していない場合あるいは客体の錯誤が絡む場合 が示すように、①の問題と②の問題とは、常に一体として処理できるわけではなく、①の問題に重点を置いて基準を 設定しようとすれば②の問題への考慮が不十分になり、②の問題に重点を置いて基準を設定しようとすれば①の問題 に困難が生じる、という相反する関係にもなりえるのである。このように、①の問題と②の問題とは本来は次元の異 なる問題であり、したがって別個独立のものとして取り扱われるべきものである。具体的符合説は、このような次元

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島) 併発事実と故意頁任(ノj の異なる問題を犯罪成立の段階で一元的に律してしまおうとするところに問題の本質があるものと思われる。そし て、このような指摘は、具体的符合説に限らず、法定的符合説の一故意犯説についてもいえるのである。   l _ ノ ゝ

﹁客体の特定﹂と﹁故意の個数﹂

 ︼﹂ 客体を特定しない見解  俳発事実においては、﹁客体の特定﹂の問題と﹁故意の個数﹂の問題とが存在するのであり、これらは別個独立の、 そして、次元の異なる問題である。そこで、次元の異なるこれらの問題を同時に処理することが不可能であるのなら、 いずれか一つの問題にまず焦点を当てることによって問題を解決しようとすることが考えられる。そして、このよう な考えは、コつの方向に分かれる。一つは、﹁客体の特定﹂について考慮することを放棄しようとするものであり、 前述︵四〇︶の客体を特定しない一故意犯説がそれである。他の一つは、﹁故意の個数﹂を少なくとも犯罪成立の段 階では考慮しないというものであり、前述︵二I︶の数故意犯説がそれである。﹁客体の特定﹂および﹁故意の個数﹂ を同時に考慮することが困難な事例に対する処理の方法として、これらの見解はどのように評価すぺきなのであろう か。あらためて、検討したいと思う。  まず、客体を特定しない見解について、検討する。前述︵四ド︶のとおり、客体を特定することなく併発事実の事 案を処理しようという考えは、一故意犯説の中から生まれてきたものである。すなわち、一故意犯説は、法的に符合 が認められる客体の中から故意犯の成立を行為者が意図した数に限定しようとするものであるが、客体の特定につい       コー 28−3・・4一385(香法2009)

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      ニコ ては前述︵三曰︶のように困難な問題を生じる。そこで、一故意犯説のうちの一部の見解は、一故意犯説において故 意の対象を特定の客体に固定することは理論的に無理であるということを正面から認めて、客体を特定することを放 棄しようとするのである。そして、この見解の﹁故意犯の成立を認める客体を特定しない﹂という基本的な考え方に ついては、択一的故意の場合や客体の錯誤が絡む併発事実のように﹁客体の特定﹂および﹁故意の個数﹂を同時に考 慮することが困難な事例︵前述五I︶を念頭においたとき、一故意犯説以外︵正確には、具体的符合説ないしはその 修正説︶の一部の論者からも肯定的に受け止められているのである。たとえば、﹁我々の立場︵具体的法益符合説一 筆者注︶でも、このような客体の特定が理論上不可能な事案については、一故意犯説と同様、意図しない複数の発生 結果について、行為者の特定した﹃具体的法益﹄に応じた数の犯罪をその全体について択一的あるいは選択的に肯定 することになる。このような場合には、例外的に、罪名について客体不特定のまま、択一的あるいは選択的に行為者 の意思内容に即した数の故意犯を認めるのであ穏﹂、あるいは、具体的符合説において意図した﹁その人﹂以外の客 体に故意を認めないのは、その人のみを殺すつもりであって他の者は殺すつもりがなかったからであるとした上で、 ﹁択一的故意の場合、行為者が行為当時Aを殺すつもりでなかったということはできないし、Bを殺すつもりでなかっ たということもできない。だから、①Aに対する殺人罪の故意を否定する理由はないし、②Bに対する殺人罪の故意 を否定する理由もない。したがって、どちらを認める判決を書いても、﹃法令の適用に誤りがあ﹄ることにはならな いと思われる。⋮⋮ゝ﹂のような場合には、客体を特定しない一故意犯説のように﹃訴訟法による特定︵後述 筆者 注︶﹄をすれば足し心﹂とする見解が存在する。  もっとも、前述︵四I︶のように、客体を特定しない一故意犯説に対しては、わが国の訴訟制度上そのような処理 は不可能である、との批判が向けられている。しかし、客体を特定しない考えを肯定する見解は、次のように反論を

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島) 併発事実と故意責任(/jヽ している。すなわち、﹁このような処理も現行の訴因制度の中で十分運用可能であると考えられる。訴因はぞもそも 検察官が主張する﹃事実﹄なのであって、法律構成そのものではない︵事実記載説︶。検察官は、訴因ないし罪とな るべき事実を記載するに際して、﹃A一人に対する殺害意思のもとで、客体の錯誤によりBICのコ人を殺害した﹄と いう事実に対して、﹃一個の故意犯﹄が成立することを主張すれば、客体特定、あるいは被告人の攻撃・防御の対象 に欠けるところはないと考えられる。判決理由としても、上述のような認定事実に対して、択一的あるいは選択的に 一個︵ないしは数個︶の故意犯が成立する旨記載すれば足りよう。訴因は、被告人の防御権保障の見地から、可能な 限り具体的に特定されたものでなければならないが、被告人の所為が﹃故意﹄になされたものか、あるいは、﹃客体 の錯誤﹄、ないし﹃方法の錯誤﹄などによってなされたものかを特定し、かつ、侵害客体を特定しうる限り、客体の いずれについて故意犯の成立を認めるかは、訴因制度を前提としても、決定的な問題ではない﹂とする。また、この ような考えを肯定する別の論者は、その具体的なあり方について、﹁刑法の解釈論としては、誰に対する故意犯を認 めるかについては特定しないで一つの故意犯が認められると考える﹂とした上で﹁誰に対する故意犯を認めるかの特 定は、必ずしも刑法の解釈の段階でできなければならないというわけではなく、訴訟法の規定に従ってすれば良い﹂ として、﹁訴訟法による特定﹂を主張寸谷。たとえば、AおよびBに対する択一的故意の場合、①検察官がAに対す る関係でのみ訴因を特定して起訴してきた場合には、鉄判所はAに対する故意犯のみを認め、逆に②Bに対する関係 でのみ訴因を特定して起訴した場合には、裁判所はBに対する故意犯のみを認め、あるいは③検察官がAに対する関 係とBに対する関係の両方について訴因を構成して起訴した場合には、裁判所が訴因事実のすべてを認定したなら ば、裁判所は、Aに対する故意犯の成立を認めるのかBに対する故意犯をみとめるのか、いずれか一つに決めなけれ ばいけないが、いずれにするのかは自由に選んで良い、とするものである。すなわち、訴訟手続の過程において、検        二三 (香法2009) 4−387 28−3

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察官により︵①および②の場合︶、あるいは、裁 一 1 一 四 判所により︵③の場合︶故意の対象となる客体を特定すべしとする のである。  ﹁訴訟法による特定﹂は、実体法︵刑法︶上は故意の対象となる客体が特定し得ないことを正面から認めた上で、 そのことによる訴訟手続上の不都合を訴訟手続の中で解決しようとするもので、傾聴に値する。しかしながら、﹁訴 訟法による特定﹂においては、検察官による起訴をとおして故意犯の成立する客体を特定するとはいうが、現実の立 証の難易度からいずれかの客体のみに絞って起訴をするということは実務上あるとしても、いずれの客体についても 立証の難易度が同じである場合、さらには、そもそも理論的に、いずれの客体を起訴の対象にすぺきかという基準は どのように考えるのであろうか。また、いずれの客体についても起訴が提起された場合、裁判所によっていずれかの 客体に故意犯の成立を特定するというが、裁判所はどのような基準でそのいずれについて故意犯を認めるのであろう か。検察官はどちらか好きな方を故意犯として起訴すればよく、また、両方が訴因に挙げられた場介には、裁判官は どちらか好きな方について故意犯を認めればよい、というわけにもいかないであろう。﹁自由に選んで良い﹂という だけでは、理論としての刑事法学はその役割を放棄することになる。このように、客体を特定しない見解については、 ﹁客体を特定しない﹂ことが現実の訴訟手続において可能かどうかが問われているが、それに対する十分な答えが提 示されているとはいえない。その意昧で、﹁日本の裁判所はどうしたらよいのであろう伺﹂との疑問︵あるいは批判︶ は解消されてはいないのである。 I 数故意犯説 ﹁客体の特定﹂および﹁故意の個数﹂という観点からは、前述︵六︶﹂︶の客体を特定しない見解の対極に位置する

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島) ( 片 併発事実と故意頁任 のが、複数の客体について故意犯の成立を認めた上で故意の個数については量刑の段階において考慮すべきである、 とする見解である。いわゆる数故意犯説である。前述︵二I︶のとおり、数故意犯説はもともとは法定的符合説にお いて主張された考えである。しかし、択一的故意の場合や客体の錯誤が絡む併発事実のように﹁客体の特定﹂および ﹁故意の個数﹂を同時に考慮することが困難な事例︵前述五I︶については、﹁故意の個数﹂に限定されずに行為者が 意図した結果の数以上の︵複数の︶故意犯の成立を認めようとする数故意犯説の考えは、具体的符合説ないしはその 修正説の立場からも肯定されうる。たとえば、﹁故意の﹃個数﹄を考慮することの困難な諸事例については、︲故意犯 の成立をいずれかの客体との関係に限定することは恣意的な操作以外の何物でもない。これらの場合には、理論的に は、どの客体との関係でも故意を認め得るが、どれか特定の客体に限定して犯罪の成立を肯定することはできないの である。⋮⋮一︷疋の﹃規範的﹄基準により故意への帰責を肯定された全ての結果は同価値であって、その中でさらに 区別を設けることはできないのである。これらの場合については、一応複数の犯罪の成立を肯定した上で、量刑にお いて適正な科刑がはかられるように工夫するほかはない﹂、あるいは、﹁AとBが死亡し、それぞれの結果について行 為者が認識を有しているにもかかわらず、一個の殺人既遂罪しか認めない見解が妥当であろうか。⋮⋮Aに対する殺 人既遂罪の成否を考える際に、Bに対して殺人既遂罪が成立するかどうかを考えるぺきではなく、Bについても同じ ことがいえるから、Aに対する殺人既遂罪とBに対する殺人既遂罪がそれぞれ成立するはずである。一人の人を殺す 意思しかなかったのに二個の殺人罪を認めるのは不当である、というのは、Aに対する殺人とBに対する殺人を併せ て考えて初めていえることである。このように考えてくると、数罪の成立を認めた上で観念的競合として処理する数 故意犯説がやはり妥当である﹂とする見解がそれである。これらの見解は、択一的故意の場合や客体の錯誤が絡む伴 発事実のように﹁客体の特定﹂および﹁故意の個数﹂を同時に考慮することが困難な事例においては、対象となる複       二五 (香法20㈲ 28−3・・4−389

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      一一六 数の客体について犯罪成立の段階ではすべて故意犯の成立を認めた上で、故意の個数は量刑の殴階で考慮しようとす るものである。  ただし、ここで注意しなければならないことは、複数の客体に故意犯を認めることの理論的根拠である。右で述ベ た見解は、行為者が意図した結果の数を超えた複数の故意犯の成立を認める点で法定的符合説の数故意犯説と結論を 同じにするが、その理論的根拠においては法定的符合説と大きく異なる。すなわち、法定的符合説は、たとえば﹁人﹂ というレベルで構成要件的に同価値であるためにおよそ﹁人﹂であれば︵因果関係が認められる限度で︶故意の符合 を認めるものである。これに対して、右で述べた見解は、あくまで具体的符合説ないしはその修正説に立った上で︵そ の意昧では、﹁具体的符合説︵ないしはその修正説︶の数故意更匹﹂であるといえる︶、行為者の意図した結果の数と いう意昧では故意の対象はいずれか︸つであるが、行為者の認識という意昧では、択一的故意の場合におけるAとB、 あるいは、Aを殺害しようとして部屋の中めがけて発砲したところAは不在でB・C・D・:らが死亡したという客体 の錯誤が絡む併発事実における﹁その部屋の中にいる人﹂というように、結果が発生した客体については行為者の﹁認 識の範囲内﹂であるとして、その客体のいずれに対しても故意が認められる︵換言すれば、いずれの客体に対しても ﹁故意が認められない﹂訳ではない︶、と考えるのである。つまり、故意が全く存在しない客体について故意犯を認め るものではなく、あくまでも行為者の認識の範囲内の客体について故意犯の成立を認めるのである。そして、ぞの故 意責任の量は、あくまでも行為者が意図した結果の数に限られるのであるから、それは量刑の段階において考慮しよ うとするのである。  数故意犯説に対しては、一つの故意犯に相当する故意によって複数の故意犯の成立を認めているという点につい て、責任主義の観点から批判が向けられてきた。しかしながら、﹁故意の個数﹂という行為者の具体的意思内容は量

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島) 併発事実と故意責任(ノj 刑において考慮されているのであるから、﹁少なくとも責任主義を﹃行為者の主観内容に応じた﹃処罰﹄に限定すペ し﹄という意昧に理解する限り、責任主義の要請は充足されているとも言しご﹂。さらに、﹁責任なければ刑罰なし﹂ という責任主義を、行為者に責任を帰することのできる行為でなければ﹁犯罪は成立しない﹂という意昧に捉える場 合において︵伺ヽ具体的符合説︵ないしはその修正説︶の数故意犯説においては、行為者の認識の範囲内の客体に対し て故意犯の成立を認めるのであり、故意責任を全く問えない客体に対して故意犯の成立を認めるわけではない。した がって、責任主義に反するという批判は、具体的符合説︵ないしはその修正説︶の数故意犯説に関する限りはあては まらない。その意昧では、従来数故意犯説に対して加えられてきた批判は、丁人しか殺す意思がないのに複数の故意 犯を成立させている点にあるのではなく、法定的符合説によって﹁故意のないところ﹂に故意犯を成立させている点 にあったといえるのである。  もっとも、このように考えることは、結局、行為者の認識の範囲内のすべての客体について未必の故意を認めるこ とになるのであり、したがって錯誤論を論じる余地はなくなるのではないか、との批判も考えられる。しかし、この ような批判に対しては、次のように反論することができよう。すなわち、具体的符合説︵ないしはその修正説︶の数 故意犯説において、故意責任の量という観点からこれを捉えた場合、行為者が意回した結果の数に相応する責任量は、 それぞれの客体に対して成立する故意犯に分散されることになり、逆に、個々の客体に対して成立する故意犯の責任 量の総和が、行為者が意図した結果の数に相応する責任量ということになる。たとえば、一人の殺害を意図し択一的 故意をもって結果的に二人を死亡させたような場合には、その一天に対して故意犯が成立するが、それぞれの故意犯 の有する責任量が合算されたものが、一人の殺害を意図した行為者の全責任量となる。また、Aを殺害しようとして 部屋の中めがけて発砲したところAは不在でB・C・Dの三人が死亡したという併発事実では、BIC・Dの三人に       二七 (香法2009) 28−3・・4−391

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一1 11 八 対して故意犯の成立が認められるが、それぞれの故意犯の有する責任量の三つが合算されて、一人の殺害を意図した 行為者の全責任量になる。これに対して、すべての客体について未必の故意が認められる場合では、個々の客体にお ける故意犯は独立して完全な︵それぞれ一人分の︶責任量を有することになる。したがって、択一的故意の場合ある いは客体の錯誤が絡む併発事実において成立する故意犯は、未必の故意が認められる場合とも明らかに異なるのであ る。  このように、﹁責任の質﹂を犯罪成立段階で、また﹁責任の量﹂を量刑段階でそれぞれ分けて考慮することによっ て、﹁客体の特定﹂と﹁故意の個数﹂という次元の異なる問題は、適切に処理されることが可能となるのであ茄。  国 量刑における責任量の審査と裁判員裁判  数故意犯説に対しては、﹁故意の個数﹂を量刑で考慮するとしても、その事後審査は判決にとくに説明がある場合 のほかは困難で、結局は通常の刑の量定の当否の問題として審査されることになり、明確な量刑基準として機能する ことは期待しがたい、という批判も存在する。しかし、この批判については、前述︵この束京高判平成一四年コー 月二五日が重要な示唆を与える。すなわち、量刑不当を理由とした控訴において、﹁本件は、打撃の錯誤︵方法の錯 誤︶の場合であり、いわゆる数故意犯説により、二個の殺人罪と一個の殺人未遂罪の成立が認められるが、Y及びZ に対する各殺意を主張して殺人罪及び殺人未遂罪の成立を主張せず、打撃の錯誤︵方法の錯誤︶の構成による殺人罪 及び殺人未遂罪の成立を主張した以上、これらの罪についてその罪名どおりの各故意責任を追求することは許されな い﹂との判決文に示されるように、錯誤論を適用することなく複数の結果のすべてについて故意が認められる場合と、 具体的符合説︵ないしはその修正説︶の数故意犯説の考えに則って錯誤の一場面として故意犯の成立を認める場合と

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島) 併発事・実と故意責任(/j では、事実認定が当然異なるはずであり、その結果、判決にあらわれる法律構成も異なるはずである。したがって、 事後的審査が困難であるという批判も、その限りでは懸念するには及ばないように思われる。  懸念すべき点はむしろ、具体的符合説︵ないしその修正説︶の数故意犯説を適用した結果として故意犯の成立が認 められる場合に、その法的構成が法律専門家以外にも容易に理解されうるかである。すなわち、具体的符合説︵ない しはその修正説︶の数故意犯説によれば、択一的故意の場合あるいは客体の錯誤が絡む併発事実の場合には、複数の 客体に対して故意犯は成立するが、責任量としてはあくまでも丁人の殺害を意図したものであると法律構成をするこ とになる。このとき、行為者が意図した結果の数と成立が認められた故意犯の数とは一致しないことになる。それで も、法律専門家であれば、錯誤論適用の事例として構成されることにより、当該事案が錯誤論の適用を受けずにすべ ての客体に対して故意が認められる事案の場合とは異なるものであることは容易に理解しうる︵すべき︶であろう。 しかしながら、コ〇〇九年五月には裁判員制度が開始され、刑事裁判においては法律専門家ではない裁判員が審理に 加わることになる。そのときに、たとえば、﹁被害者三人に対して殺人罪が成立するが、刑の重さを決めるときに考 慮できる故意責任の量は一人分だけである﹂というように説明されることになると思われるが、これを法律専門家で はない裁判員が容易に理解できるであろうか。裁判員に対して正確に説明することは、決して容易なことではないと 考えられる。この点については、故意犯の成立をあくまで行為者が意図した結果の数に限定する﹁客体を特定しない 見解﹂の方が侵れていると思われる。客体を特定しない見解では、たとえば﹁︵いずれの被害者に対するものかはと もかくとして︶ 一人に対する故意犯が成立し、その他の人数分については過失犯の成立が問題となる。刑の量を決定 するときに考慮するのは、一人分の故意責任と︵過失が認められる場合には︶残りの人数分の過失責任である﹂と説 明することになるであろうが、このような説明であれば、具体的符合説︵ないしはその修正説︶の数故意犯説による        二九 (香法20㈲ 4−393 28−3

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