昭和58年12月(1983年) 一27一
主 と し て"三 川 雑 記"に 拠 つ て 概 観 し た
天 保 飢 謹 の 様 相
浅 見 益吉郎,高
島 功 子
An Aspect of the Feature of "Tenpo-Famine", Mainly Based on a Contemporaneous Memorandum, Named
"Sansen -Zakki"
.
Masukichiro Asami and Noriko Takashima
.序 言 近 代 以 前 の わ が 国 で は,ほ ぼ 完 全 な 閉鎖 経 済 系 が 形 成 さ れ て い た の で,食 糧 自給 体 制 の 確 立 と 維 持 が こ の 国 土 内 で 生 活 一一 一 層 ドラ ス チ ック な表 現 を す れ ば "生 存" 一 して 行 くた め の 絶 対 要 件 で あ った の は言 う ま で も な い 。 大 和 民 族 が主 食 と して 選 択 した コ メ は, よ く この 国 の風 土 に 適 合 し,種 々 の点 で す ぐれ た 特 性 を 具 え て い た ので,さ して 広 くな いそ の 領 域 に 極 めて 高 密 度 の人 口扶 養 を 可 能 と させ た。 しか し反 面,コ メ に 対 す る依 存 度 が 高 ま り,し か も そ の 作 付 限 界 が東 北 日本 へ 拡 が る につ れ て,予 期 を 上 廻 る 気 象 異 常 や各 種 の 自然 災 害 に対 す る 稲 作 の 感 受 性 は漸 次 増 大 して 激 甚 な 凶 作 が 頻 繁 に起 り,時 と して こ れ が 飢 餓 の発 現 に ま で エ ス カ レー トす る事 態 も しば し ば生 ず る に至 った の で あ る 。 この よ う な飢 饅 発 生 の 機 序 と様相 は,さ き に筆 者 ら が 六 国 史 を 根 拠 と して 調 査 した 上 代1)'2》か ら,近 世 末 期 に 至 る ま で何 ら本 質 的 に変 らな か った よ う に見 受 け られ る。 そ れ ど ころ か,徳 川 政 権 が 確 立 し,強 固な 封 建 体 制 下 に 二 百 数 十 年 の"泰 平"を 保 ち得 た 江 戸 期 に入 って 以 来,日 本 の 国 土 は 一 層 閉 鎖 性 の 高 い 無 数 の幕 ・藩 領 な どに 細 分 さ れ て しま った の が 災 い して,生 活 物 資, こ と に食 糧 の 円滑 な 流 通 が 著 し く阻 害 さ れ る に 至 った 。 さ らに 中期 以 降,米 穀 は商 業 資 本 に よ る恰 好 の投 機 対 象 とな り,そ の 価 格 調 整 も為 政 者 の 思 う に任 せ ぬ 状 態 に 陥 った た め,只 で さえ 生 活 基 盤 の 劣 弱 な貧 農 や都 市 京 都女子大 学食物 学科衛生 学第1研 究室(公衆衛生 学) 細 民 た ち は,こ の 時 代 を 通 じて 絶 え ず 窮 乏 と飢 餓 の 不 安 に晒 さ れ て い た 。 試 み に3種 の 資 料3>'4)s5}を総 合 して 関 ケ原 役(慶 長 五 年,1600)*よ り 江 戸 開 城(慶 応 四 年,1868)に 至 る269年 間 に,凶 ・飢 年 と して 採 録 さ れ て い る年 数 を 計 上 す れ ば,実 に206力 年 に達 し,む しろ全 江 戸 期 を 通 じて,凶 作 な い し飢 饒 の 記 載 が 無 い 年 数 は 全 体 の 1/4に も満 た ぬ63力 年 に す ぎな い 有 様 で あ る 。 もち ろ ん こ の 中 に は ご く局 発 的 な 凶 ・飢 事 象 も数 多 く算 入 さ れ て い る の で,こ の数 字 を 以 て,直 ち に江 戸 時 代 を 通 じて の"全 国 民 が 常 に"飢 餓 に お び や か され て いた と 解 釈 す る の は い さ さ か 短 絡 的 で あ ろ う。 しか し鎖 国 体 制 下 に あ って 海 外 か らの 食 糧 輸 入 は ほ とん ど期 待 で き ず,細 分 化 さ れ た小 領 域 内で の 自給 自足 を 建 前 と して い た わ が 国 で は,国 民 の 大 多 数 に と って 凶 作 と それ に 伴 って 起 る穀 価 の騰 貴 が,生 計 維 持 ど こ ろか 死命 を も 制 せ られ 兼 ね な い切 実 な 問 題 で あ った の は,今 日の 常 識 で 推 し測 れ な い もの が あ る 。 ま して 累 年 の 違 作 が 広 域 的 に 発 生 した 場 合,そ の 深 刻 な 影 響 は 全 国 的規 模 に 及 ぶ 社 会,経 済 な らび に政 治 上 の 重 大 事 態 に ま で 発 展 した事 例 も少 くな い 。通 常 こ の よ うな 大 飢 謹 は発 生 時 の年 号 を冠 して 呼 ば れ,と り わ け そ の被 害 が 惨 烈 で あ った享 保,天 明 な らび に天 保 期 の 飢 饅 を"江 戸 期 の 三 大 飢 饅"と 称 して い る 。 こ れ らに 関 す る 諸 資 料 の 収 集 や 実 態 の 調 査,研 究 は既 に 剰 す と こ ろ な く行 わ れ て い る ので3)・5∼13>,騨尾 に 付 す べ き余 地 もほ とん ど残 され て い な い が,本 稿 で は 近世 最 *以 下 和暦年 は漢数字,西 暦(太 陽暦)年 は算用数字 を用 いる。
後の大飢鐘である天保飢鍾の最中に多感な青年期を過 ごし,異常なまでの強い関心を以てその推移を観察し, かつ丹念に関連情報を収集したー儒生の筆録である ‘三
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雑記川4>*を主たる根拠として,乙の期の飢鐘の 実態追究を試みたい。 本論に入るに先立ち,著者,山田三川と三川雑記に ついての概要を紹介しておく必要があるだろう。I
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.
山 田 三 川 と 三 川 雑 記1
.
山田三川の人となり 山田三川〔名:飛,詣:載飛,字:致遠,別号:四 有,通称:三良町は文化元年 (1804)伊勢国三重郡平 尾村の里正で医を兼ねた素封家,山田孝純の3男とし て生れ,文政四年 (1821・17才)伯父の藤堂藩督学, 津阪東陽に身を寄せて,折柄藩校lζ招聴されていた名 儒,斎藤拙堂の薫陶を受けた。八年 (1825・21才)伯 父の意に反して江戸に出奔し,幕儒,古賀伺庵に入門, 憧れの官学,昌平校への入学を許された。以後天保九 年 (1838・34才)150石 5口の高禄を以て松前藩儒と して仕えるまでの間,昌平校に在籍し,舎長として後 進の指導に当ると共に,当代の碩学,松崎懐堂の知遇 Eうどう を得て師事し,先輩で後に名を為した安井息軒,塩谷 宕蔭をはじめ,藤田東湖,小宮山楓軒,羽倉簡堂,渡 辺華山,大槻盤渓,安積艮斎等,史上に名を遣す当時 の一流人士とも親交を結んだ。嘉永元年 (1848・44 才)故あって松前藩を辞し,一時下総,水海道に身を 潜めたが五年 (1852・48才),上州, 安中藩主,板倉 勝明の招きに応じて同藩の教学と藩政に数々の功績を 遺し,文久二年 (1862・58才)同地に残した。2
.
三川雑記の特質 三川雑記は天保四年より弘化四年 (1833'""-'47)にわ る著者の見聞雑録で,遺稿となっていたものを,外孫 lと当る弓削田精一(元朝日新聞大阪通信部長,昭和十 二年残)により保管整理され,後,水海道の医師で三 川研究家でもあった富村登の手に移り,昭和四十七年, 息富村太郎によってはじめて公刊されたものである。 天保十年 (1839)に至るその前半部は天保飢鐘の時期 を完全に包括しているが,何故か天保六年 (1835)お よび十一年(1840)の記事が一切失われているのが惜 まれる。 この時期,著者三川は全国各藩より選抜された秀才 が集まる昌平校の中核的な儒生であり,彼等がもたら す郷藩の動向や前述の知名師友から得た機微にわたる 牢以下,標題以外の箇所では単に“雑記"と記す。 諸情報は労せずして彼の耳目に達し得る極めて恵まれ た立場にあった。彼のごとき存在は,現在のような各 種報道システムが皆無で,通信手段も全く不十分であ った当時にあっては稀有に属するものであったといえ よう。 加えて三川は津藩士であった次兄の弟なる故を以て 資格*を整え, 昌平入学を許されたのであるが,前述 のように彼の出自は常に農民との接触の多い里正(大 庄家)の家柄だけに,専攻する儒学を単なる教養の目 的だけでなく,実学的学殖を蓄えて,これを経世済民 の場l乙活用したいという意欲に燃えていたのは当然で あろう。 乙の雑記はまさに,他日乙のような機会が得られた 時を予測しての実務資料集的性格が強く,市井の民 俗・茶飯事をはじめ,公儀・諸藩の内情動向,海外事 情,故事逸話から農事・医療・殖産等に至るまで,凡 そ何かの参考になると判断した知見,情報を見聞する ままに雑然と筆録している。まして眼前へ無気味に迫 ってくる飢鐘の脅威l乙彼が重大な関心を向けぬ筈は なく,収録されている関連情報の量は,全篇のおよそ 1/10にも達するであろう。 以下,焦点を雑記に収載された天保飢撞関連記事に 絞り,その内容の検討を試みたい。I
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.
三 川 雑 記 に 筆 録 さ れ た 天 保 飢 鐘,
.
その資料的価値 雑記に収載されている飢鐘関連記事は,約900項に も上るがとれを地域別,年次別に分類,集計したのが 表1
である。 これを一覧すれば,当時の三川の居住地であり,か っ最も情報の集中する江戸を除けば,連年の凶作で最 も直接的な飢簡の惨害を蒙った奥羽諸藩領の記事が圧 倒的に多いのは当然である。関東諸州および信州がこ れに次ぎ,彼の生国,伊勢よりもたらされた情報がか なり多いのも首肯できる。これに対して畿内以西,乙 とに山陰の記事が極めて少いのは,被害の中心地域が 偏東的であったとはいえ,その深刻な影響は西日本で も決して免れ得なかったといわれる天保飢鐘の実態よ りすれば,彼の情報網にもいささか不備があったと考 えられぬでもない。 *昌平校は元来幕臣子弟の教育機関であったが,諸藩 の子弟にも“書生"として入学を許した。ただしそ の資格として,藩士ないしその処士(部屋住み)で あることと,幕府儒官の門下に在籍していることを 条件とした。昭和58年12月 (1983年) 表
1
三川雑記に記載された飢鍾関連記事項目の年次別・地域別集計 道 │ 国 (地〉 名 │ヨ保三│天保四│天保五│天保七l
天保八│天保九│天保十│天保十三│ 計 - 29-蝦 夷 4 1 3 1 9 陸 奥 5 65 34 26 7 6 2 3 148 (津 軽) (1) (24) (5) (6) (1) (37) (南 部) (3) (28) (8) (4) (1) (44) (仙 台) (4) (13) (9) (9) (2) (3) (2) (42) 東 (その他) (12) (6) (6) (4) (3) (1) (32) 出 羽 1 33 27 11 2 1 75 (秋 田) (11) (13) (1) (25) 山 (米 沢) (7) (5) (4) (1) (17) (新 庄) (5) (6) (1) (1) (13) (その他) (1) (2) (2) (1) (17) 下 野 9 3 13 道 上 野 1 1 11 5 4 22 濃 9 7 10 5 1 32 飛 騨。
美 濃 3 1 4 近 江 1 2 3 東 山 道 3 2 1 6 計 7I
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(1983年) 西 海 道 既述のように,雑記に天保六年の記事が全く失われ いるのは,乙のような目的の根拠資料とするのに致命 的な欠陥とも考えられぬではないが,荒川11)によれば, 乙の年は前年の作柄がかなり持ち直したため,ほぼ全 国的に小康を保ち得たとされているので,むしろ表1
は数年にわたった天保飢鍾のピーク期を前半(四,五 年〉と後半(七,八年)に分けてその様相を比較する 目的にはかなり参考となるであろう。2
.
奥羽と江戸の様相 とくに興味深いのは奥羽両州と江戸との記載数の経 年推移で,表2
のように,両地の項目総数では大差を 示さないが,生産地である奥羽では前半に圧倒的に集 中し,消費地の江戸では後半にかなりの増加を示して 表2
天保飢鐘の前,後半期における奥羽と江戸 との記載項目数比較 前 半 │ 後 半 計 l天保四,五年i
天保七,八年 159 46 奥 羽 │(7Mmi(2μ%) I(100~O彪)
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- 31ー いる。 乙れは,文政末年頃より断続的な違作で疫弊の兆を 示していた東北各地の農民が,皆無に近い天保三・四 年の大凶作に遭って早くもその前半より多数の犠牲者 を出していたのに対し,江戸市民も早くから食糧の欠 乏と諸色の高騰に痛めつけられてはいたが,破局的な 窮迫状態に達したのはその後期に至ってからであった という,天保飢撞の実態とよく一致を示すと考えられ る。 天保八年 (1837) に集中している摂津(大阪)の記 事は,いうまでもなく,天下を震憾させた“大塩の 乱"の関連情報で占められているが,これに関しても 後に論じたい。3
.
三川雑記の内容 雑記に記述された飢鐘関連項目を,全国と江戸につ いて,その内容事項別に分類,集計したのが表3
であ るが, 1項目に複数の内容事項を記載したものもかな り多いので,表1
の数字とは当然一致しない。 これを一覧しても,三川が眼前に進行してゆく飢鍾 の経過に只ならぬ関心を示し,次々と耳目に触れる関 連事象を及ぷ限り漏れなく収集,把握しようと努めた9
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年) 熱意が理解できょう。とりわけ彼自身が肌で感じとる ととができる江戸市中の情況推移は的確に把握されて おり,民心が不安から自棄荒廃,さらには沈滞無気力 化して行く過程や,食と職を求めて各地から市中へ流 亡して来る逃散農民や浮浪者の生態も,時を追って克 明に観察しているのが注目される。 各地の米麦作況と気象との関連性も彼の重大関心事 で,気象異常や自然災害とその被害程度に関する情報 も努めて広範囲に収集している。 裕福な実家を持つ彼自身が経済的に困窮していた形 跡は,雑記の内容からはうかがわれないが,米価や諸 物価の動向,さらには食糧の流通管理に関する情報も かなり詳細に記録されている。また彼も士籍にあるだ けに,直接幕臣の生計に響く蔵米相場の変動や諸藩士 の国許や江戸における給与情況についての記載も少く ない。4
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三川の筆録姿勢と視点 しかし,当初は飢謹の進行を比較的客観的に見守り 続け,忠実克明な情報収集を第一義的とする態度を執 っていたと思われる三川も,漸く飢鐘という現象の中 に包蔵される“人災"的要素が決して少くないととに 気付きはじめるに従い,雑記の中には筆鋒鋭く公儀や 諸藩の政策の問題点を指摘し,その裏面に論及する記 事が目立ちはじめる。すなわち彼は,飢鍾の単なる “観察者"の地位にあきたらず,次第にその根因を摘 発,究明しようとする“批判者"的立場への姿勢転換 を意図するに至ったと,筆者らは考えるのである。 幕・藩政の機微に触れる“極秘"情報が,彼ごとき 一介の書生に果してどのようなjレートから入ったのか, 或いは入手したとの種の情報がどの程度の信頼性を持 つものであったかの吟味は,今後厳密になされるべき であろうが,もしそれらの確度を信ずるならば,正義 感溢れる青年,三川ならずとも,中央,地方を問わず 政治の要路にあった人々の怒意や苛政を糾弾し,無能 と愚策に拒腕したくなる念を,我々とても禁じ得ない。 乙のような悪政の犠牲となった飢人たちが市中の路 傍にうづくまり,肩息づかいに目だけをピカピカ光ら せながら死んでゆく状の目撃記事(天保八年)の文末 に記された“……可憐可憐"。に,彼の万備の感概が にじみ出ているように思われる。5
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記事内容の信頼性 雑記の各項目には,そのすべてではないが,当該情 *中には“カミユイ"と記されたものもあり,江戸市 民の情報交換場の機能を果していた髪床で仕入れた 噂話をも収録していた乙とがわかる。-
33-報の提供者と覚しき氏名が付記されている*。しかし 彼と交際のあった知名人士以外,それが何びとかを探 るのは容易でない。恐らくそのほとんどは昌平の舎生 か,古賀塾又は松崎塾の同門であろう。との他にも“郷 書"あるいは“某ヨリノ来信"と記されているものも多 く,とのように典拠は比較的はっきりしているものの, その内容が多岐にわたっているので,その一々につい て事実であったか否かを同定するのは不可能に近い。 そこで,事項を表3
・1-7
に掲げた“一挟,打投, 暴動"に限り,雑記の記事となっている5
3
件を,この 関係の研究業績として定評のある青木の著書山の附録 年表によって検索を試みたと乙ろ,5
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件中4
件につい ては該当する事実を年表中に見出し得なかった。しか しその他は,時日,発生場所について多少の相異点が 見られるものもあったが,ほぼ雑記の記述に該当する と推定できる事件と同定することができたので,少く ともとの項に関してはかなり信頼性が高いものと判断 される。N.
考 察1
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飢鍾の機序 天保飢鍾の概勢を把握するには,小鹿島5)が引用し ている“古老実験"の記事が最も要を得て説明してい るように思われるが,この時代を去る約8
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年前の宝暦 飢鐘(元年 五年,1
7
5
1
",--,5
5
)
ならびに約5
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年前の天 明飢鐘料(二年 八年, 1782~88) と本質的に軌をー にした“冷夏一不順気型"の凶作が根本原因となった ことは異論なく認められている。 気象学的に見れば,夏季に入っても冷気塊であるオ ホーツク高気圧の勢力が何らかの原因で衰退せず,乙 れより本州東岸に向けて吹き込む冷湿な北東風〈やま せ風)が異常低温をもたらすと共に,梅雨前線を混乱 ないし刺戟して,列島全域に不順な天気を醸成するが, 西南日本に対する影響は比較的小さい。 乙のような気象異常は通例,数カ年にわたって連続 発生し易いので,累年の違作が絶糧状態を惹き起し, これが窮極的に飢餓の発現に至るものと解釈され勝で ある。しかし飢鐘の過程と実態を仔細に観察すれば, 決してそのように単純な直線的パターンで割り切れる ものではない。事実,明治以後にも同程度の連年凶作 が何度か起っているが,少くとも餓死者が出る程の事 態に至った例は一度も知られていないのである。 料天明三年の浅間山噴火による降灰の被害も冷害と 相乗的に作用し,江戸期最大の飢謹となった。気 象 災 害 (~令,皐} l風,水/ 図
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わ が 国 に お け る 飢 鱒 発 生 の 模 式 図 対策 ① 農 業 技 術 改 善 ② 作 付 転 換 ③ 防 除 ④備蓄放出,調達(食糧,資材等) ⑤消費規制,節約 ⑥代用・増量食摂取 ⑦ 食 糧 流 通 管 理 ③ 救 岨 , 賑 給 ⑨ 加 療 看 護 ⑩ 生 業 補 助 ⑪ 生 産 奨 励 措 置 ⑫ 慰 撫 , 還 農 ⑬ 貢 租 減 免 筆者らは,かつてわが国で発生した大規模飢鍾は, 大抵の場合,図1
の模式図 lζ示すような循環形式をと って進行しており,天保飢鐘もその例に漏れないもの と理解している。 すなわち,異常気象ないしそれが一因となって発生 した病虫害によって生じた凶作が昂じて,飢餓状態さ らには餓死者の発現に至る過程が存在する他に,飢鐘 時の非常救荒食の摂取や貧窮化による衛生水準低下に よる疫病さらには疫死者の発生が飢鍾現象に拍車をか けた事例(むしろ疫病ないし疫死の被害の方が大きか った事例)が多々存在すると推察する。乙のような事 態が,農村からの住民の逃散と相倹って農村の人口減 少による荒廃を招き,栄養失調による体力低下も伴っ て,農村の再生産力を著しく減退させ,翌年の食糧生 産に甚だしい障害となった例は,一旦発生した飢鍾の 規模が大きい程多く見られるのが通例であった。 一方,都市住民にも,絶糧ないし食糧高騰の影響が 著しくなれば,農村と同様に餓・疫死に至る者が出る だけでなく,農村における生活・生産必需品の供給力 も衰え,飢鍾被害の悪循環に一層拍車をかける結果を 招いたことは容易に推察されよう。 とのような循環を絶ち切るには,図1
に付記したよ うな,然るべき諸対策を適時に実施すれば極めて有効 であり,また幕・藩の為政当局者にはそれらを実行す べき責任があったにも拘らず,天保飢僅に際しての対 策には一貫性がなく,精々当面糊塗的なものに終始し た*点は,三川も数多く指摘しているところであり, 窮極的に国民の信頼を裏切って封建体制崩壊の遠因と なったのは明らかである。2
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天保飢鐘の影響 前後7
,,-,8
年に及んだこの大飢鐘も,天保十年には 一応の終熔が見られ,雑記中の関連記事もこれ以降目 立って減少している。しかし飢鐘の及ぼした影響は決 して一過性のものではなく,漸く弱体化の兆しを見せ はじめた幕藩体制を大きく揺がせる結果を招いた。 まづ幕府にとって衝撃的であったのは,飢鰻最盛期 の天保八年(
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初頭,天下の台所,大阪で勃発し た大塩の乱であろう。僅か1日で鎮圧されたとはいえ, 丁度2
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年前の天草の乱(
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以来,幕府に対 して公然と弓を引いた者はかつて無く, しかもこの反 乱が徴禄とは言え,幕府直臣で高名な陽明学者でもあ った中斎,大塩平八郎を首魁として企てられたことが, まさに晴天の震震であったに相違ない。 逸早くその報を得た三川は,この一挙を民衆の塗炭 の苦しみを見るに忍びず遂行された“快挙"として, ほとんど無条件で讃美している。しかし彼の師で大塩 *飢鍾の“人災的要素"とは,まさに乙のような面を 意味するのである。- 35-古 渡 ホ ル 4 l i F ! 一 元 治 j 庁 1 1 1 文久 1 ゎ t n H H 川 方延 1 寸 安 政 1 寸 弘 嘉 イヒ永 1 1 寸 ア 汁T寸 天保 1 文政 1 文化 1 享和 1 昭和58年12