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IRUCAA@TDC : 東京歯科大学黎明期における海外への発信 : 高山紀齋・血脇守之助の国際性

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Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/

Title

東京歯科大学黎明期における海外への発信 : 高山紀齋・

血脇守之助の国際性

Author(s)

金子, 譲; 高橋, 英子; 北林, 伸康; 渡辺, 賢; 福田,

謙一; 上田, 祥士; 片倉, 恵男; 吉澤, 信夫

Journal

歯科学報, 113(3): 254-272

URL

http://hdl.handle.net/10130/3099

Right

(2)

1.はじめに

高山紀齋は,1893(明治26)年の Dental Review に 「Dentistry and Dental Science in Japan」を掲載 している1)

。この論文は,シカゴの第2回 Interna-tional Dental Congress(万国歯科医学会)での発表 原稿である。血脇守之助は,日本における歯科の現 況を Dental Cosmos に1903(明治36)年に掲載し2)

, その翌年の1904(明治37)年セントルイスで開催され た第4回 International Dental Congress の第9セ クションで日本の歯科現況について講演の予定をし ていた。血脇は渡米をしなかったが,その講演原稿 の 全 文 は1905(明 治38)年 の Dental Cosmos に 掲 載 されている3)。これらの発表は,それぞれ高山歯科 医学院創立3年後,東京歯科医学院になって3∼5 年後という早期で,日本の歯科医学教育の黎明期で あった。 120年余の東京歯科大学を支えてきたのは,創設 者の高山紀齋の精神であり,そして学校の発展にと どまらず歯科医師の社会的地位向上に生涯をかけた 血脇守之助の精神であることは間違いない。歯科医 学校揺籃期の心意気が120年の過程で常に新鮮な息 吹となって,今日の東京歯科大学に継承されてきた はずである4) 。高山と血脇があるべき歯科医学教育 機関を目指し,歯科医療の普及確立のために苦闘を してきた航跡に,その精神は宿っているはずであ る。 大学は,その存在意義を己に問いかけることを常 としている。それが大学を時代に適合させ,存続さ せる源泉となるからである。そしてこの問いかけの 根底には,私立大学の背筋である「建学の精神」が 常に存在する。「建学の精神」はその大学のルーツ といってもよい。東京歯科大学は2010(平成22)年に 創立120年を迎えた。現存する最古の歯科医学教育 機関である。筆者は学長として毎年壇上で「歯科医 師である前に人間であれ」という言葉を,「建学の 精神」として新入生に訓示し卒業生に生涯の指針に なるよう贈ってきた。しかし,この言葉だけが「建 学の精神」とは思えない。 本学のメインキャンパスは,120年のうちその1/4 に当たる年月を稲毛で活動して来た。そしてメイン キャンパスは再び水道橋に戻る。本学の今後の新し い出発のために,この機会に改めて建学の精神を再 確認する必要を感じている。 高山紀齋,血脇守之助の両先達は,文明開化の意 義を強く認識していたことはその経歴から明白であ る。高山の上京と渡米(明治5年),血脇の英語習得 のための学校遍歴(12∼20歳)などがその事を示して いる。彼らは後年歯科界で日本を代表する立場に 立った時,自らの学校と日本の歯科をどのように創 りたかったのか。その点を海外に向けた彼らの発信 から探求することは,同時に彼らの国際性を知るこ とでもある。 本稿に関連して,次号に Dental Cosmos(1905)3) に掲載されている血脇守之助論文の全和訳1編を掲 載する。その肉声に触れることは彼の崇高な意思と 建学の精神を探求する上で大変貴重な資料になると 考える。

― 解 説 ―

東京歯科大学黎明期における海外への発信

―高山紀齋・血脇守之助の国際性―

金子 譲

高橋英子

北林伸康

渡辺 賢

福田謙一

上田祥士

片倉恵男

吉澤信夫

東京歯科大学の歴史・伝統を検証する会 254 ― 32 ―

(3)

2.黎明期における海外への発信 明治時代における海外への発信は,英文雑誌,国 際会議発表や参加,そして留学を含めた人事交流を 通じて行うことが主体であることは現在と大差な い。本稿では英文雑誌と国際会議に絞って検証す る。 1)英文雑誌

American Dental Association の Index of the Pe-riodical Dental Literature による1876−1895年の20 年間における日本人名は1890年 Katayama A,同年 Kitasato,1893年に Nakahara I,同年 Takayama K. の4名である。

Katayama A は,片山敦彦であり,題名が“Den-tistry in Japan”の論文が Dental Review の Origi-nal Communication 欄 に 掲 載 さ れ て い る5)

。Ki-tasato は,北里柴三郎であり,London Medical Re-corder, Oct. 1989掲 載 か ら の 抜 粋 記 事 を Dental Register が selections のコラムで紹介している6)

。 ベルリンでのドイツ外科学会で供覧した tetanus-bacillus の単独抽出についてである。

Nakahara は後に共立歯科医学校(1906)の創設者 となる中原市五郎であり,Dental Cosmos の Hints, Queries, and Comments 欄で“The Palatal Rugae in Man”と題して補綴時の口蓋皺壁の形態につい て自身の方法を述べている7)

Takayama K. は高山紀齋であり,Dental Review の Original Communication で 題 名“Dentistry in Japan”1)

が掲載され,またA Short Biography of Dr. Kisai Takayama, of Tokio, Japan が Review and Communicationで紹介されている8) 。末尾に Editor がこの高山の経歴の大変興味深い説明は爽快な気分 になるので採録されている,と注釈している。 幕藩体制での支配階級であった武士が,近代化へ の革命によって職を失いながら困難な渡米を果た し,そこで考えてもいなかった新しい職を身につけ た。そして帰国して近代歯科医業を成功させ,さら には新しい高度な教育のための歯科医学校を創設し たという,東洋の一人物における波乱万丈物語に同 業者としてエールを送るという心境に編集者は至っ たのであろうか。

なお,A. Katayama 論文は,同年に British

Jour-nal of Dental Science に他雑誌から選択されたコラ ムで編集者が紹介している9) 。米国の歯科雑誌掲載 論文が英国で興味を引かれたわけで,権威ある英文 雑誌の伝播力の好例である。 2)国際会議 今日では歯科医学国際会議は多数に上るが,その 規模と質においてInternational Association for Den-tal Research(IADR,1920年発足)と World DenDen-tal Federation(FDI,1900年発足)を挙げることに異論 はないと思う。前者は臨学の研究者,後者は臨床医 (歯科医師会)が主体となって組織されている団体で

あるので,自ずからその性格は異なっている。 高山が参加し,血脇が参加を予定した Interna-tional Dental Congress(IDC,万国歯科医学会)は19 世紀末から20世紀初頭にかけて開催された当時最大 の国際学会10) であったようである。しかも,IDC の コンセプトは,現在活動している上記2巨大会議を 先導したとも解釈され,FDI は特に IDC の後継学 会ともいえる。かっての IDC に関する歯科学報の 記事11) は,現在では存在しない最大の国際会議で あった IDC と成長しつつある FDI との関係を理解 させてくれる。 3)片山敦彦について 日本の歯科について国際誌上で報告したのは片山 が最初と思われるので紹介する。片山は高山が歯科 医学院を設立する以前の門下生である。彼は1885 (明治18)年4月に美山寛一牧師につれられて一井正 典ら一行35名と横浜から渡米した。サンフランシス コで彼は一井を Van Denburgh(バンデンバーグ)に 紹介し,同居して Van Denburgh 農園で働 く12) 。 Ohio College of Dental Surgery で DDS 称号を得て 1891(明 治24)年 に 帰 国 し た。し た が っ て,彼 の Dental Review 論文は在米中か一時帰国中(1888.9 ∼1889.7)に著したことになる。帰国後に高山歯科 医 学 院 講 師 と し て「歯 科 機 械 学 Mechanical Den-tistry」を担当した。そして高山歯科医学院講義録 「歯科機械学」(1−296p)の口述者は片山敦彦で あった13) 。1897(明治30)年1月には高山歯科医学院 評議員に就任している。1899(明治32)年新春には歯 科実地担当として年に2・3回開業の神戸から上 京。そして同年夏の記事には「本年1月清国上海に 航し目下南京路20号に開業しえり」14) ,となっている。 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 255 ― 33 ―

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片山については不明な点が多いが,「高山歯科医 学院過去及現在ノ状況:第4章 創立の趣旨及び沿 革」には以下のように記されている15) 。「(明治)24 年5月高山紀齋門下「DDS」片山敦彦は米国オハ イオ府歯科大学に学び,卒業後帰国し本校の講師と して歯科医学院の講義を担任して以来,高山歯科医 学院の名声は漸く世間に…」とあり片山は高山に期 待された人物と推測される。最後は上海にわたって 明治41年1月17日に急性肺炎で当地で病没,享年 43。片山の卒業学校に関しては,カリフォルニア大 学歯学部16) ,サンフランシスコ大学中退,再度渡米 しインディアナ大学歯学部卒業17) とあるが,自身の 論 文 と 上 記 の 歯 科 医 学 叢 談 か ら Ohio College of Dental Surgery 卒業が正しいと考える。 血脇が歯科医を志して新潟から上京するにあたっ て,相談をした三条病院長の田原 利医師は片山敦 彦への添状を血脇に手渡している。血脇の上京は, 片山が神戸に去った後であったため会うことは出来 なかったが,田原は在米中に片山と下宿を共にした ということであった18) 。 なお,片山の叔父は,明治初期のキリスト教中心 人物である熊野雄七で横浜共立女子学校の教員(宣 教師),後に明治学院の創設に理事として参画とあ る12) 。

3.International Dental Congress について

世界の歯科医師が一同に会して学術会議をすると いうアイデアは1881年ロンドンでの医学会議の歯科 部会で発議され,英米仏が軸となって International Dental Congress(IDC)開催が準備された10) 。 なお,IDC の日本語の命名は歯科学報では一定 していない。すなわち,「International」は,「万国」 でほぼ一定している。ただし,1931(昭和6)年の 第8回に関する記事では,「国際」が「万国」に混 じって使用されだしている11) 。「Dental Congress」 は,「歯科医学会」「歯科大会」「歯科医大会」「歯科 医学会議」「歯科会議」「歯科医会会議」と多様であ る。昭和15年10月日本歯科医師会が発刊した歯科医 事衛生史の索引欄には,「万国歯科医学大会」とあ るが,そのページにはその言葉がタイトルに加わっ ているのみで記事はない19) 1)第1回。Paris,1889(明治22)年10) 第1回 IDC は,1889(明治22)年のパリ万国博覧会 の会催中に9月2日から6日の会期で Ecole Den-taire de Paris の Charles Godon 歯学部長がオーガ ナイズしてパリで開催された。学術内容は,1.解 剖・生理 2.保存修復 3.補綴 4.審美,歯 科衛生 5.展示といった部門で構成された。この 会にはノルウエー,ヴエノスアイレス,ブリュッセ ル,ブダペスト,ジュネーブ,バルセロナ,ハバナ などの代表団が仏英米とともに参加した。 2)第2回。Chicago,1893(明治26)年10,20) 第2回大会は1893(明治26)年8月にシカゴで開催 されている。この大会もコロンブスのアメリカ大陸 発見400周年記念のシカゴ万国博覧会中に開催され た。IDC の開催テーマは歯科医師の男女間の差別撤 廃とされた。参加者は前回よ り 増 し1,100名 余 と なった。 高山紀齋は明治政府から万国博覧会の臨時評議員 を指名され,IDC において「日本に於ける歯科医 術の既往現在及将来」の講演予定21) で参加し,高山 は名誉会頭に推薦された。学術会議では,コカイン 局所麻酔における安全量なども取り上げられた。コ カイン注射の口腔内麻酔は普及していたが,中毒と 弱い麻酔効果が大きな問題となっていた。中毒は 1900年のブラウンによるアドレナリン添加法で改善 が多少見られたが,1904年のプロカイン合成までこ れらの課題の解決は待たなければならなかった。 15カ国,計1,116名(米国999,海外117)が参加し た。日本は国としての代表団には含まれていない。 3)第3回。Paris,1900(明治33)年10) 第3回は1900(明治33)年のパリ万国博覧会中の8 月8日に開催され1,173名が参加した。本会議では 歯科医学教育について論議されたことが特筆されて いる。歯科医学教育は,4・5年の歯学教育の後に 2年の医学教育をする方法が最良だとの主張もあっ た。 この会議において,IDC が開催される中間時期に 教育・衛生などの問題を研究することと,IDC の次 回の準備機関の設立が決定された。名称を Federa-tion Dentaire InternaFedera-tionale(FDI), World Dental Federation とし,25カ国50名の組織委員が決定さ れ,血脇守之助(陸海軍歯科医務委員会委員)と榎本 積一が日本の代表者となった22) 。FDI 創設者はパリ 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 256 ― 34 ―

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大学歯学部の Eduoard Charles Godon 学部長(1854 −1923)である。 4)第4回。St. Louis,1904(明治37)年10) 第4回は1904(明治37)年8月(29日−9月3日)に 米国セントルイスで開催され,25カ国の参加が得ら れ,同時に本会議は毎年行われてきた FDI の4回 目の会議ともなった。この年はフランスからルイジ アナ州を米国が購入した100周年にあたり,テオ ドール・ルーズベルト大統領による万国博覧会にあ わせて開催された。この会には血脇守之助,榎本積 一,藤島太麻夫が演題を提出23) したが,3名とも渡 米はしていない。次号に掲載されている血脇論文 は,このときの発表である。この第4回は大日本歯 科医会として正式の参加であった。 前回の IDC で設立が決まった FDI(万国歯科連合 会)は,その規約がこのときの会議で承認された。 IDC と FDI との関係は,FDI が各 IDC 間の中間時 期において存立する永久の万国的一団体であるとし てある24) 。実際に第5回 IDC の間に,ハノーバー, ジュネーブ,アムステルダム,ブリュッセルと毎年 FDI が開催され,1909年にベルリンで第5回の IDC を迎えている。 5)第5回。Berlin,1909(明治42)年10,25) 第5回は1909(明治42)年8月(23−28日)にベルリ ンで開催されたが,FDI の大会でもあった。この年 には万国博覧会の開催はない。コカインとノボカイ ンによる局所麻酔の成功と失敗,注射器の消毒など はこの会での大きな話題であった。ノボカインは, 1905年にドイツの化学者 Ernest Einhorn が発見し た。ノボカインはコカインの化学構造式を一部変え たことにより合成した薬物で,合成薬品として薬理 学上の最初の成功であった。Novocaine は,ラテン 語の“novus”「新しい」と cocaine をつなげて,「新 しいコカイン」という語になっている。余談だが,コ カインからの合成麻酔薬はフランスの化学者 Ern-est Fourneau(1872−1949)が 発 見 し た(Stovaine) が,一般化しなかった。 ドイツ準備委員会から日本での委員会設置を血 脇,伊澤信平の両氏に依頼があり会長を伊澤,幹事 を志村,他の委員を奥村,中原,高橋,榎本,富 安,原田とし,また,伊澤を大会名誉会頭としてド イツに知らせることとした。しかし,大会に出席す べき代表者は,時期が切迫していたため派遣しない とした26) 。 6)第6回。London,1914(大正3)年 第6回は1914(大正3)年8月(3−8日)ロンドン で開催されるはずであった。しかし,第一次世界大 戦(1914−1918)が7月28日に勃発し,英国が8月1 日にドイツに宣戦布告をしたことから,会は2日間 だけ開催し早々に中止された。その様子は日本政府 参列委員島峯 徹医学士から血脇に報告されてい る27) 。日本政府が委員を派遣したのは今回が最初で あった。また,花澤 鼎は参加のための旅程の途中 で戦乱となりオランダを経由してロンドンに入った が,すでに閉会していたという状況であった。 日本歯科医学会(会長血脇守之助)は,この年に FDI に入会した28) 。なお毎年開催されていた FDI も同様に1914年を最後に中断し,再開されたのは大 戦終了3年後の1921年であった。 7)第7回。Philadelphia,1926(昭和元)年29) 第7回は12年ぶりに1926(昭和元)年8月(23−27 日),米国独立150年記念万国博覧会に合わせてフィ ラデルフィアで開催された。「何しろ此の大会は平 常でも5年目に一回開催せらるるに過ぎぬ規則なる に,今回は欧州大戦後始めての会合である為に準備 委員国たる米国は勿論世界各国の会員の意気込みに はドエライものがある。」30) 日本国政府代表として島峯 徹,金森虎男そして 奥村鶴吉が派遣された。また奥村は日本連合歯科医 師会代表でもあった31) 。この政府代表の肩書きは米 国大統領から日本国への要請である。万国歯科医学 会を歯科関係者だけの私的会合に留めず前回のロン ドン大会と同様に国家的事業となさしめる目的で, 米国歯科医師会は上下両院を通じて米国大統領に対 し,米国政府として加盟各国に正式に政府代表派遣 を依頼するよう建議していた。ちなみに日本への場 合は,大統領から在京マクベー米国大使へ日本政府 からの派遣依頼命令があり,大使から外務省へ,外 務省から内務大臣と文部大臣に代表者人選を移牒す るという手順である。そして政府代表は事故あると きあるいは各種調査に便が大きい と 書 か れ て い る30) 。 学術発表は演題440余,日本からは16演題で,そ の発表大略も紹介されている。また,展示も華やか 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 257 ― 35 ―

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であり,「日本からの諸模型類には米国ヤンキー連 のみならず,いたずらに在米十何年を鼻に掛けてい る日本人歯科医師の一部の連中もまた母国の歯科学 術上の進歩に驚くに違いない。」31) と意気軒昂であ る。学術発表は15のセッションに分かれていて,血 脇守之助,奥村鶴吉,花澤 鼎,岡田 満,佐藤運 雄がそれぞれ第7回 Philadelphia 大会の名誉会頭と して指名されている30) 。なお,参加国47,出席 者 13,000名,日本からの参加者は37名だった。しか し,今日の FDI のように日本から歯科医師の多数 が海外に行けるわけもなく,ほとんどの日本人参加 者は留学生や在米の開業医であった32) 。 8)奥村鶴吉の報告32) 奥村は20年余ぶりの留学地の再訪であり車中の情 景や町の変わりようなど筆が踊るように血脇に報告 をしている。歯科学報は第31巻6号から計4号にわ たり多数のページを使って本会に関する情報を提供 した。万国歯科医学会の性格,日本の関わり方,本 学の意気込みなどが目に浮かぶようである。ちなみ に奥村の出発に際しては日本連合歯科医師会,東歯 同窓会,大日本歯科医学会の役員発起をはじめとし て,東京市歯科医師会神田支部,神奈川歯科医師会 (同県会長早野連之助同行),ペンシルバニア大出身 者主催(出席者名簿に一井正典が掲載),東歯医専校 などが壮行会を開催し,また横浜港では多数が校歌 で横浜丸を一路平安なることを祈りながら送ったと ある33) 。 奥村は学会参加のみならず,米国歯科の現状視察 も重要な役割であった。彼の通信には「カーネギー 財団も愈々報告書を発表致候が Gies 氏の論文に論 述せる通りの結論にして大要は封入せる別表の通り に御座候。」という一文がある。1910年代の米国で は,医学教育・歯科医学教育の再生のために大改革 が吹き荒れ廃校にいたった学校も多数生じたほどで あった。カーネギー財団によって医学部・医学校 の次に歯学部・歯科医学校の評価が行われ,医は Abraham Flexner による1910年の「アメリカとカ ナダにおける医学教育」はフレクスナー報告34) とし て知られ,医学教育における20世紀最も重要な出版 物とされている。そして歯科はコロンビア大学の Gies 教授(IADR の創設者)が担当した35)。今日の米 国の医学部歯学部の質評価の倫理はこのときから継 続したものである。さらには,歯学部のあり方に関 する現在日本における一元論,二元論の論議では, カーネギー財団報告書を知ることなくしてその是非 を問えないであろう。 奥村は,「ペンシルバニア大学歯学部への留学に 関して,Turner 氏は東京歯科医学専門学校と日本 歯科医学専門学校の卒業生に限り4年級入学を快諾 してくれた。ただし,英語が出来ることが第一で, 卒業証明書の成績があまり低くては体裁が悪い。」 と記している。 Turner 氏とは,1917年から同大学の歯学部長を 勤めた Charles R. Turner 教授である。同学部長は, 同校歯学部における修学年限等の改革,歯学部学生 への内科学コース導入などの業績が記録されてい る36) 。 また,「米国学界において花澤君の名が極めて一 般的に相成居候事誠に愉快御座候。」とも報告して いる。 9)第8回。Paris,1931(昭和6)年37) 第8回は1931(昭和6)年パリで8月2日から8日 まで開催され,日本歯科医師会(会長:血脇守之助) は大代表団を組み,花澤 鼎(日本政府代表・日本 歯科医師会代表),島峯 徹(日本政府代表),中原 市五郎(日本政府代表),斉藤 久(日本矯正学会代 表)を派遣した。また,積極的にポスター発表,多数 の展示,講演,シンポジウムに参加した。東京歯科 医学専門学校では学校紹介と各教授の業績に関する 展示品を船便で送った。荷物は函で10個にもなり, インド洋と紅海を通過することから出品の花形であ る蝋模型が変形変色するのではないかと心配も絶え な か っ た よ う で あ る38) 。な お,花 澤 鼎(第 二 分 科),加 藤 清 治(第 六 分 科),島 峯 徹(第 十 三 分 科),奥村鶴吉(第十四分科),中原市五郎(第十五分 科),血脇守之助(第十六分科)が名誉会頭に推薦さ れている。 花澤は,帰朝講演会でかなり詳細な報告をして いる11) 。この報告により本会の運営母体は FDI に よって行われていたことが読み取れ,次回 IDC の 1936年開催地はウィーンに決まったとされている が,実際は第9回 IDC ではなく FDI が同地で開催 されている。 第8回会議の記録集(図1)を手に取れば,いかに 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 258 ― 36 ―

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開催事務局と FDI がこの国際学会に使命感を持っ ていたか明解である。 10)第9回。Vienna,1936(昭和11)年 第9回は1936(昭和11)年8月1−8日までウィー ンで開催された。この年万国博覧会はいずれの都市 でも開催されていない。奥村鶴吉が日本代表で講演 の予定であったが,渡欧を見合わせたため講演要旨 を事務局に送った39) 。演題は「日本における学校歯 科の現況」40) であり,その要旨は30頁と記されてい る。 ウィーン大会の様子については,地元の歯科雑誌 である Zahnarztliche Rundschhau が詳しく報告し ているので,その訳文(松宮誠一訳)を歯科学報に4 号にわたって掲載している41) 。 大きな役割を担っていた IDC は,第二次世界大 戦のために第9回をもって中断する。 11)その後の IDC IDC の 再 開 は,1947(昭 和22)年8月4−8日 に ボストンでの第10回であった。41カ国の参加で,第 88回アメリカ歯科医師会学会と同時開催された。 FDI が従前同様に運営母体であり AE Rowlett, FDI 会長が開会宣言と挨拶をしたと報告されている。彼 は,FDI の歴史と役割,そして IDC の意義を述べ たとある42) 。終戦2年後で日本は占領下の各種統制 にあって衣食住に困窮していた。NHK ラジオの 「向こう三軒両隣」「鐘の鳴る丘」が放送されだし, “Japan as Number One”の主軸となった団塊の 世代が元気に生まれだした時代である。 同年の歯界展望が「第88回アメリカ歯科学会開 催」とのタイトルで海外ニュースとして約2段組で 知らせている。学会プログラムから内容を紹介して いて,「日本の学会と較べると,日本のは学位論文 を作るための学会発表で,多数の人々に興味が少な いのにかかわらずアメリカのは如何にも歯科医学を 楽しみながら勉強しているという感が深い。」43) と正 鵠を得た評論であると同時に,さまざまなイベント を手探りで理解しようとしていて,長期の学術交流 断絶の傷が深いことを想像させる。 東京歯科大学百年史年表では1962(昭和37)年第13 回 ケ ル ン 大 会 ま で が 記 さ れ て い る が,第9回 の ウィーン大会も含めてケルン大会までの5回はいず れも万国博覧会の開催とは合致しない。第二次大戦 後には1922年に米国で始まった International Asso-ciation for Dental Research が発展してきたことも あり44) ,IDC は,毎年開催されていた FDI の拡充 によって継続され,IDC は発展的解消に至ったと 考えられる。 4.高山の発信 1)雑誌と学会等 高山は,日本の歯科事情を世界に発信することに 積極的であった。1893(明治26)年シカゴ万国博覧会 に臨時博覧会評議員として政府から派遣を命じら れた折には,英文冊子“A short Biography of Dr. Kisai Takayama of Japan.”を作成し,博覧会場で 配布した45)。その会期中に開催された第2回 IDC に

おける講演として“Dentistry and Dental Science in Japan”を 用 意 し た。本 原 稿 は,同 年 の Dental Review, vol.7, No.10に K. Takayama 著として掲載 されている。ところが,この講演原稿は紛失し1週 間後まで見つからなかったと付記されている1)

の で,高山が手持ち原稿無しで講演したかどうかは不 明である。この論文に続いたページに上記の“A Short Biography of Dr. Kisai Takayama of Ja-pan.”が掲載されている46)

高山は,1896(明治29)年には“Prospectus of Ta-kayama Dental College”の冊子を欧米各国の歯科 雑誌社,歯科医師会,歯科医学校・歯学部に配布し て,日本の歯科医学教育について紹介している。な お同英文は同年の「歯科医学叢談」の付録として院 友会会員にも配布されている。 上記の Dental Review 論文や直接配布の冊子に 図1 第8回萬國歯科醫學會1931年パリ開催の事後抄録集 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 259 ― 37 ―

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よった と 思 わ れ る が,1893年 の British Journal of Dental Science に Editorial として高山歯科医学院 が紹介されている47) 。 「最近数年間での日本の発達は世界を驚かしてい る。」という文に始まり,西欧文明の導入,国内政 治の変革,戦場,海域などの拡大のみならず芸術, 科学,医学などが世界の注目を浴びても不思議はな いとしている。医学については,東京大学医学部が ヨーロッパの大学と同様に高度に運営されていて, 無知と迷信といんちき療法の集まりであったものが 一世代ですべて変わったと評価している。高山歯科 医学院については, 「東京の高山歯科医学院は,1890年に Dr. 高山に よって設立された。彼は1872年−その年封建制度は 消滅した−に渡米し,そこで歯科の職業が尊敬され しかも利益の多いことを知った。その頃まで日本で は歯科は残酷な方法でだけ行われていて無学な人々 の手に委ねられていた。この結果歯科は蔑まれた職 業とされていた。日本の高貴な身分に属していた高 山は,武士としての職業以外従事したことがなかっ たが,賢明にも歯科の修学を決心した。彼は7年間 の在米の後に帰国し,東京で診療を開始した。彼は 歯科に関する書籍を数冊自国語で書き,日本で最初 の歯科医学校を彼の名前を付けて始めた。1890年に 歯科医学校は9名の学生と7名の教員で始めたが, 最初はその方法では採算が合わなかった,高山はそ の負を埋めて行った。そして,遂にさらに多くの学 生が集まり,いまでは歯科医学院は繁盛して最近5 年間で100名の歯科医師を輩出した。この数は日本 の歯科医師の1/3に相当する。 修学は3年間のカリキュラムで,学院の目的は, 十全の歯科医学 dental surgery を身体と自然科学 とともに教えることである。最良の近代的方策によ り完全な歯科医師であるように若い人を教育するこ とが目的である。」と記され,また同学院のカリ キュラム,授業内容,入学資格など学院の概要が紹 介されている。そして, 「中国人でさえ習得するのに膨大な時間がかかる 難解な中国漢字を,(日本人は)使いやすい漢字に改 良してしまうのを見ても,今まで多数の変革がもた らされてきた日本は,今後も様々な改良方法を見つ け出すに違いない。」と結んでいる。高山は,この 英文紹介記事の抄録を「歯科医学叢談」に約2頁に わたって掲載した48) 。 2)高山の国際性 高山が国際的な人物であったことは,改めて説明 を要しないことである。米国の歯科医術を現地で修 得し,それを帰国後開業医として,また学校教育を 通じて普及発展させた業績は,わが国の近代化に貢 献した代表的人物といって間違いない。 高山の留学は1872年(明治5)で,1868年(明治元 年)からその年までに留学(遊学)した人物は「国際 人 事 典−幕 末・維 新−」に よ れ ば 総 計188名 で あ る。そのうち医学は9名であり,留学先は1名(名 倉 納)のアメリカ以外はドイツ(うち1名欧州)と なっている。歯学での留学は高山が最初であり,そ れ以後では1882年(明治15)に安藤二蔵,アメリカ, と初めて目に飛び込んでくる49) 。それにしても明治 時代を作った各界人物の留学先はアメリカが圧倒的 に多い。 さて,高山に関する在米中の一次資料は驚くほど 少ない。高山の13年後に渡米し,Van Denburgh の 元に身を預けた一井正典は,米国から日本へ多数の 手紙を出している。一井は Van Denburgh の農園 労 働 者 か ら Philadelphia Dental College(現 在 の テ ンプル大学歯学部)を主席卒業し,米国で開業した 後に帰国した。高山歯科医学院の講師にも就任した 人物であるが,彼の在米中の状況は細かに研究され ている。高山に関しては6年間の長期にわたる在米 中の状況が不明であり,高山研究の欠落部分となっ ている。しかし,彼が早々に留学生として渡米して 歯科を志したことなどの心境は,後年の彼の論文等 で推し量ることが出来る。 万国歯科医学会での“Dentistry in Japan”の講 演は,この意味でも貴重である。なお,「歯科医学 叢談」第5号(明治29)に本英語講演原稿を更に充溢 させた「日本に於ける齒科醫術の既往,現在及将 来」50,51) が掲載されている。漢文脈(明治時代の文体) のため今日のわれわれには馴染みが薄く読解も容易 でないが,格調高い。 3)高山論文の要旨と時代背景 ⑴ 要 旨 高山の英語論文1)は,6ページにわたり,約2,000 語である。この論文のタイトルの通り日本の歯科に 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 260 ― 38 ―

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関する過去,現在,将来が語られている。社会的に は賎業のイメージが強い歯科ではあるが,元来歯科 は科学である医学の一部である,と高山は確信して いた。今後は医術開業試験による政府の医療制度整 備によって,新しい歯科医師が誕生すると希望を抱 いている。歯科医学の教育においては高山歯科医学 院が創立されたばかりでもあり,教科書,雑誌も少 なくて遅れているが,歯科は,先行している日本の 医学との連携協調で速やかな発展が期待できる。そ して文明国の中で影響のある国になるであろう。幕 末維新における米国人歯科医師の日本,また米国で の指導に感謝する,と述べられている。 原文の内容に従って下記のように小表題をつけ分 類し,その抜粋(和訳)を掲載する。 「日本に於ける齒科醫術の既往,現在及び将来」 1.歯科医学の重要性と全身への影響 「現在の科学の中で太古からその萌芽を発したも のは,農業,工業と医学だと信じているのですが, その医学の一科である歯科医学も同様にその源を太 古に遡ることができます。 なぜなら歯牙は人間の体の中で最も重要な臓器の ひとつで,極めて疾患に罹りやすく,時には他器官 の疾患の原因になります。」 2.徳川時代の歯科 「徳川時代の初期,およそ15世紀に歯科を職とす るものが最初に出ています。当時は現在のように医 者として扱われておらず,これらの職をもつ人々の うち,その職を父より受け継いでいる数人はその術 に非常に長けていましたが,ほとんどは武士の道を 外れた浪人で,武士道の本来の意味を理解していな いものたちでありました。彼らは医学の知識を持た ず,不法行為によりその地位を取り上げられていた ので,生活のために歯科施術をせざるを得なかった のです。」 3.歯科蔑視の原因と発展の障害 「徳川時代の歯科施術家50) は軽蔑され,この軽蔑 された感情は現在まで続き,この感情が日本の歯科 医学の発展を妨げていたと我々歯科医は残念に思っ ています。」 4.明治維新とアメリカ歯科医術の導入 「しかし明治維新以来,西洋文明の潮流は素晴ら しい速度で日本国内に流れこみ,大きな改良がさま ざまなものに影響を与えました。歯科医学もまた大 きく改良されました。明治初期に一人のアメリカ人 が横浜で歯科を開業し,そして開業のかたわら何人 かの日本人にその技術を教えたのです。または同じ 目的でアメリカに渡った日本人の元で手技を勉強し ました。しばらくして多くの日本人がアメリカの歯 科医学に関心を持ち始めました。」 5.政府による整備:歯科医術開業試験制度 「特に明治14年より西洋の論理と実習について歯 科医学試験が整備され,法律が施行されました。そ してこの法律により,試験に合格しなければ開業で きなくなったのです。これは歯科医学の勉強に大き な引き金となりました。」 6.歯科医学の卒前・卒後教育の黎明 「特別な科として系統的に勉強することを人々は 強く必要と感じ,ついに歯科医学校,歯科医師会, 同様の会議や学会が東京で次々と設立されました。 これらの組織全てはしかるべき会員数を有し,会員 たちは歯科医学の素晴らしい発展が大きく促進する ための明るい見通しを持つようになりました。歯科 医術開業試験の合格者は200名を超え,歯科医学の 勉 学 に 携 わ る 人 は1,000人を超える人数となりまし た。」 7.医学に対する歯科医学の後進性 「このように日本の歯科医学界は豊かな状況にな りましたが,医学の発展と比較すると未だ非常に後 方にあるといわなければなりません。日本が世界の 国々と交流を持ち始める前に,既にオランダとの交 流があったため,ヨーロッパの文明はオランダを通 して導入されました。即ち医学もまたかなり早い時 期に入ってきたのです。その後各国と交通条約(文 献51)ママ)が締結され,医学の重要性を認識した日 本政府は科学の発展に力を注ぎました。その結果, 医学会には数多くの偉大な著作物と優れた医師が輩 出され,その発展は目を見張るものでした。」 8.医学教育の現状 「医学校については,第一に医科大学,第二に高 等中学校に付属する5つの医学部,第三に各地方で 設立された官立の医学校,そして第四には官立に劣 らない数多くの私立医学校があります。従って数多 くの医学書や雑誌が出版されています。また新聞に その発刊の通知を見ない日はありません。」 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 261 ― 39 ―

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9.歯科医学教育の現状と高山歯科医学院 「目を転じて現在の歯科医学界を見てみると,残 念な気持ちにならざるを得ません。他の種々学校が 溢れているにもかかわらず,歯科医学校は私が設立 した「高山歯科医学院」のみです。他からの支援な しに私が設立した小さな学校で,この国(米国)の歯 科医学校とは比べることはできませんが,幸いにも 100人を超える学生を有しています。創立以来数年 の間に38人の歯科医を輩出することが出来ました。 帰国後に私の学校を改善するため,この米国訪問中 に様々な学校の現状を視察するつもりです。」 10.歯科医学の教科書 「わが国ではこれまで歯科の本は非常に少なく, 若い学生たちは歯科医学を勉強するのに非常に困難 でありました。この困難を乗り切るために,私はか なり前から執筆をはじめ,「保歯新論」「衛生保歯問 答」「歯科手術論」「歯科汎論」「実用歯科器械学」 「歯科冶金学」「第五対神経解剖編」等数書を出版 しました。これらは完全な教科書とはいえません が,現在のわが国の歯科界の要求には十分応えるこ とが出来ると信じています。」 11.歯科医学雑誌 「長く米国で歯科医学を学ん で き た,伊 澤,片 山,菅沼氏らは新しい理論と手術を我々の学会に紹 介するために歯科雑誌の編集を始めたところです。 月刊の小さなパンフレットですが,歯科医学界での 称賛を得られているように思われます。この雑誌の ほかに既にお話した歯科医師会による編集の月例報 告も出されています。」 12.日本の歯科の今後の発展:医科との連携・協調 と日本人の特性(器用さ) 「今お話したように,日本の歯科医学は一般的な 医学と比較すると遅れを取っていますが,両者は相 互に連携し,協調して速やかに発展していくことと 思います。なぜ私がそう思うかをお話します。日本 では医学は既に大きく進歩し,歯科医学生が病理学 や生理学を勉学する施設はアメリカ以上にあると思 います。将来の歯科医学の発展には非常に好ましい 状況といえます。更に日本人の特性の一つでもあり ますが,学生達は手作業に長けています。そしてそ の器用な手で科学に輝かしい結果をもたらすことは 難しいことではありません。」 13.日本の歯科医学の将来 「今まで歯科に携わってきた私は歯科医学の発展 を支援し,歯科の繁栄を目にすることを切望してい ます。日本の歯科医学が未熟であることは疑いあり ませんが,やがてまもなく文明国の中で大きな影響 を持つ国の一つになるに違いない と 思 っ て い ま す。」 14.米国への謝辞 「この望ましい状況は誰のお陰でしょうか?この ように日本の歯科医学の発展はすべて米国に帰する のです。米国の歯科医学は日本の歯科医学の母であ り,日本の歯科医師は米国の歯科医師の子供です。 母が大儀式に向かうときはその子が敬意を持って母 を迎えるのは人間としての重要な大義であります。 私がこの盛大な会に出席した理由はこのためであ り,日本を代表してその謝意を伝えるために日本の 歯科医学についてお話し致しました。ご静聴ありが とうございました。」 ⑵ 時代背景 高山の渡米中には医制が1874(明治7)年制定さ れ,翌年小幡英之助が医師としての歯科専門1号で 誕生していた。高山が帰国して銀座に開業した翌年 に医師試験規制が制定(1879,明治12年)され,この とき従来の口中科は歯科に変更されている。そして 第1回歯科医術開業試験(1884,明治17年)が実施さ れ,これまでは医籍の中での歯科医師であったが, この試験以降合格した歯科医師は歯科医籍に登録さ れることとなった。歯科医籍第1号は青山千代次 で,高山の門下生であった。この試験では高山は東 京医術開業試験委員に任命されている。小幡が私淑 した St. G. Eliott は,高山が上京したときには横浜 で開業を始めたばかりであったが,高山の当初の留 学目的は歯科医術の修得ではなかったので,渡米 (1872,明治5年)前に高山が横浜居留地(1899年返 還)にどれだけの興味を持っていたか不明である。 高山は,帰国後米国歯科医術によった開業で大成 功を納め,社会的な地位も得て歯科医学院新設に よって米国に伍する歯科医師の継続的な育成を志し た。本論文は学校経営という新しい事業を始めて3 年が経ったところでの文である。高山は日本の医学 の急速な進歩は,官学(公立を含む)による医学教育 が多大な役割を果たしていると考えていて,歯科医 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 262 ― 40 ―

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学教育機関でも官立が必要だという意識は,1897 (明治30)年にその請願を両院に提出するまでに至っ ている52) 。高山はかって藩の下級武士として生きて きたことからも,中央政府の支援のない人材育成と その業種の発展には大きな危惧をもっていたことは 想像に難くない。 高山は上記の論文で,日本の歯科は,必ずや発展 すると確信をしている。その理由の一つとして,日 本人の手先の器用さを挙げている。そしてこの事が 科学に輝かしい結果をもたらすと述べている。器用 さと科学との間には距離があるように思うのである が,物を製造するに当たって理解力がなければ手先 の器用さは生きないといってもよい,そしてその製 造過程で創意工夫が生じることで精緻にしてより 進歩した製作物になるのが日本の職人技である。 Medicine is an art based on science とも表現され ているように技術は欠かせない。 長崎海軍伝習所の教育版班長として就任したオラ ンダ人 Kattendijke(後に外務大臣)の日記(「長崎海 軍伝習所の日々」)を紹介したい。高山が意にすると ころの推測になると思う。カッテンディーケは,1858 (安政5)年4月29日,勝 海舟を艦長とする内燃蒸 気軍艦の咸臨丸に乗って,鹿児島を訪れた。そのあ と彼はある光景を目にして驚きの声を上げることに なる。それは,湾内の咸臨丸に繋がれた小さな船 が,日本最初の蒸気船であったことを知ったからで ある。その船(雲行丸)は,薩摩藩が江戸で作った日 本最初の蒸気機関を搭載した銅張りが施された木製 の6メートルほどの小船であったが,聞けばオラン ダの書に載せられた「図面」だけを頼りに江戸や薩 摩の刀鍛冶や鉄砲鍛冶の職人がこしらえたという。 「何としても,一度も実際に蒸気機関を見たことも なくして,ただ簡単な図面をたよりに,この種の機 関を造った人の才能の非凡さに,驚かざるを得な い。我々オランダ人でも,蒸気機関の働きに,十分 の理解を持つまでになるには,並大抵の苦労ではな いではないか!」53) 5.血脇の発信 1)血脇の国際性 血脇守之助は,千葉我孫子から11歳で上京し,一 旦慶応義塾童児寮に入り,その後8年にわたって東 京英学校,共立学校,明治学院その他に通学し, 1889(明治22)年に慶応義塾別科で一年の過程を修了 して就学を終えている54) 。都合9校であったが,目 的は英語の習得であった。血脇は,高山歯科医学院 入学まで新潟三条の米北教校で英語教師に就いてい たほどなので高い英語力を有していたが,本来英語 習得は西洋文明への手がかりとしてであった。した がって,この意欲は後年自身で歯科医学校を運営す るに当たって大いに発揮された。高山という米国生 活体験者が身近にいたことも血脇の刺激になってい たに違いない。高山歯科医学院入学早々に高山のシ カゴ万国博覧会への出張があり,第2回 IDC 用の 高山紀齋小伝を英語翻訳作業に携わったことなど は,血脇にとって欧米が一気に身近になったと思わ れる。 血脇の国際性は,世界の歯科医学会への積極的な 関わり方,また東京歯科医学院から広瀬武郎(1901, 明治34年)を初めとして,その後奥村鶴吉(1904,明 治37年),花澤 鼎(1913,大正2年),また遠藤至 六郎(1922,大正11年)などを継続的に若いうちに留 学に出したことからも知ることが出来る。血脇は, 自校に限らず日本人歯科医師の米国留学には積極的 で,自身が1926(大正11)年に,日本連合歯科医師会 会長としての職責と東京歯科医学専門学校校長とし て8ヶ月にわたる欧米視察の大旅行をおこなった。 旅の最終に近いロスアンジェルスでの全米歯科医学 校教授会において,血脇は「日本の歯科医育につい て」講演し,この会において加盟28校の最終学年に 東京歯科医学専門学校,日本歯科医学専門学校,大 阪歯科医学専門学校の卒業生は,無条件で編入でき ることを決定してもらっている55) 。 血脇は,日本の歯科の現状を世界に知らせる論文 作成に以下のように関っている。最初は高山出張の ために1893(明治36)年に英語翻訳を担当し,1904 (明治37)年には自身の講演原稿を作成し,そして血 脇の視察旅行のために奥村が主体になって1922(大 正11)年に作成している。また,任意に1902には同 様の論文を血脇自身で英文雑誌に投稿している。そ してその記述内容は時代とともに進歩してきた日本 の歯科であり,血脇の辿ってきた道でもあった。 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 263 ― 41 ―

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2)血脇の欧米視察大旅行55) 血脇は1922(大正11)年1月から日本の歯科界代表 として8ヶ月にわたって欧米を視察し多大な収穫を 得た。血脇はこの視察で公式非公式の招宴に,また 招待返礼合わせて67回以上にわたり主賓またホスト として各国の要人と懇親をしている。昼間の訪問面 会・各施設見学等約50回,正式演説4回,その他当 時の移動にかかる交通日数を考慮すると,移動日以 外の活動には,並外れた体力(51歳)と意欲が備わっ ていなければ不可能であったと思われる。そして, 会食では呼ばれても迎えても挨拶は必須であり,ま たその歓談などで英会話が不自由では最後まで任務 を遂行できたか疑問である。随行の遠藤至六郎によ れば,最初の挨拶の機会がパリ歯科医学会であり, 心配していた遠藤を血脇は堂々の英語挨拶で感心さ せたという。「血脇守之助傅」でこの辺の逸話は痛 快である。パリでは3月1日に Godon 歯学部長を 訪問し,3月8日の日仏交歓会では再会している。 帰国後の9月には血脇は,FDI(万国歯科連盟)の常 任理事,教育委員(再任),法律委員(新任)に就任し た。 血脇は,1898(明治32)年清国に渡航し,芝罘,天 津,北京,上海などで1年にわたって開業をし,帰 国後には台湾で診療することを希望していた。日清 戦争後という事情はあるにしても血脇は海外に強い 興味を抱いていたことには疑念がない。上記の大旅 行に際しては事前に「日本における歯科界の現況」 という小冊子を仏,英,独三か国語で1,700部作成 した。世界に日本を紹介しようという強烈な意気込 みが窺がわれたとされている。 血脇にとってこの大旅行は最初で最後の欧米視察 となったが,血脇にとって視察は二義的な意味でし かなく,国威発揮こそが第一目標であったとも評さ れている。そうでもあろうが血脇は歯科医師育成, 歯科医療の各国事情を極めて詳細に記録報告し56) , 米国では野口英世によって歯科医学教育改革の多数 の貴重な資料を収集もしている。野口は離れること なく終始血脇に付き添い案内に努めた。野口はこの 6年後(1928.5.21)アフリカのアクラで客死し,二 人は再び会うことは無かった。あれやこれやで血脇 の精力的な様相は随行の遠藤を感服させ,我々は明 治人の並外れた気骨に敬服するのである。 6.第4回 IDC(1904)と血脇論文(1905) 国際学会は世界という土俵へ登る絶好の機会であ る。第2回第4回ともに日本が世界への仲間入りを 意図した演題である。日本の歯科医師育成が体系的 に始まりだした時期でもある。高山紀齋と血脇守之 助における発表の約10年間は,日本の歯科における 一世代の発達を示していることにもなる。 第4回 IDC はセントルイス万国博覧会開催のと きであったことは前述した。日本は官民上げてこの 万国博覧会で日本の存在を知らせようとするのであ るが,そこには日清戦争を勝利し,さらに日露戦争 中であることから欧米では日本の近代化に瞠目する と同時に,一方では警戒心も出てきていた。その警 戒心は多数の中国人移民労働者を含めた黄禍論がメ ディアに出現することでも示されていた。明治政府 は,この万国博覧会で日本文化を通じて良いイメー ジ作りをする意図があったとされている。開催され た1904年はこのような時代であった。 1)血脇論文(1905)の背景 血脇守之助の1905年 Dental Cosmos 論文3) は,興 味深い背景を持っている。本来この論文は第4回 IDC に発表を申し込んだ内容である。この論文は 血脇守之助の単著になっているが,血脇の個人的な 発表ではない。そのバックには高山紀齋を長とした 大日本歯科医会が存在し,その共同作業によったと 思われる論文である。その経緯が歯科学報に記載さ れている。IDC への参加は大日本歯科医会の事業 であり,3名の講演者はその代表であった。 まず,歯科学報に本学会の開催案内が,1903(明 治36)年10月(8巻10号)に1ページ半にわたって掲 載され57) ,その約半年後(9巻4号)には IDC への取 り組みについて以下のように報告されている。 2)IDC 参加への準備情報58) 「IDC の Dr. Kirk 準備委員長(米国)から各国へ参 加要請がされ,本邦へは大日本歯科医会会長の高山 紀齋宛に勧誘状が送られてきた。そこで高山会長 は委員会を設置し,高山が自ら委員長となり石原 久,伊澤信平,富安 晋,血脇守之助,佐藤運雄, 吉田千里,曽我龍蔵,榎本積一,藤島太麻夫の9名 を勧誘委員として指名し,その準備を開始した。委 員会では本邦における歯科の進歩の程度を発表する 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 264 ― 42 ―

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ことを決定し,それぞれ委員が分担調査することと した。また,全国同業者にも調査依頼の書状を送っ た。高山会長はその書面で,日露開戦の結果欧米人 の日本に対する観察は一層増している(切ナル)た め,多くの材料の提出をお願いする。」としている。 こうした歯科学報の記事に呼応した一読者は, 「全国の歯科医師諸君,この好機を利用しないで安 閑として治療室に蟄居していてはいけない。世界の 戦勝国としてその光栄を空しくすることなく世界の 歯科大会で正々堂々と意見を吐くことは爽快な事業 である。また,国際学会に参加して世界の情勢を研 究できれば我が国の歯科にとって多大の利益がある ことから,多数の出席者が得られるように。」と投 稿している59) 。投稿者は日露戦争の戦勝を確信して 記しているが,日露戦争は2月の開戦で旅順口閉塞 作戦の2回目が3月下旬であったことから考える と,投稿時期は戦局の行方はまだまだ混沌としてい た。 翌月号には,本会議の意義を記し,会議案内を掲 載(和文)している60) 。この雑報は11頁に及んでいる ことから,東京歯科医学専門学校血脇校長の意気込 みが伝わってくる。万国歯科医会議の宣言として, 以下を紹介(和文)している。 「本会議は,歯科医学が科学の一分野として今日 までに至った変遷と発達の過程を振り返ることに よって世界歯科医学の科学における現在位置を表す ことを目的とする。本会議はルイジアナ買収記念大 博覧会の会期中に開催するが,同様に開かれる様々 な会議のなかでも最緊最要の一つである。1893年の 閣龍大博覧会以後の世界の有形的進歩を今回の大博 覧会が表明するように,われわれ歯科医学の知能上 進歩を示す会議である。米国で歯科に従事する全て の人々は,この意を体し公私にわたってこの会議を 成功におさめる為の義務があることを知っておかな ければならない。米国の歯科医術は過去において特 殊の記録を有することから,今回の好機に際し世界 におけるこの道の知名人を集めて一大飛躍を期する ことからこれを主催する光栄に過ぎるものはない。 (筆者注:原文のままにあらず)」以上から米国人の 本会議への抱負と予期の大なることを知るとしてい る。 冒頭,今回の世界博覧会の性格を説明し,もって 本会議における日本の参加に意味あることを述べて いる。 「米国人は進取の気性に富みその自信もきわめて 深く,何事も世界一をもって自任している。このよ うなことから米国人は収穫すべき機会があればこれ を逸することなくこれを善用しこれを利用すること で国民的特質を発揮しようとしている。この会議で はこの未曾有の盛況が予測される世界博覧会におけ る第4回万国歯科医会議に集まった斯道知名の士に よって談論風発その知能を交換することが将来に資 することになる。歯科医学は米国にその淵源を発し 医学の一分科として今日あるのも彼らの啓沃によ る。米国歯科医がこの盛時にこの挙あるのは理由が ないことではない。第4回の本会議はこのようなこ とからそれに相応しい地と時を得たというべきであ る。(原文のままにあらず)」 そして,第9巻7号61) では,IDC からの通知とし て各国の勧誘委員長の氏名住所(日本は高山紀齋)と 日本語通訳者2名の氏名を記している。日本からの 発表は,榎本積一が「金箔焼環法」について,血脇 守之助の「日本歯科医術の過去及現在」,藤島太麻 夫の「オドントーム」に関する研究であることを知 らせている。さらに供覧品として古代の上下総義 歯,その製作器具,抜歯器なども説明書とともに発 送するとしている。次号にはセントルイスの旅館の 案内がある。 3)日本代表団の不参加と学会印象記 明治37年9月10日発刊(9巻9号)62) では万国歯科 医会議は予定どおり開催されているはずで定めし盛 会であろうとし,その状況は次次号で詳報するとし ている。しかし,日本からの3名は実は渡米してい ない。そして,そのことの記載はない。大日本歯科 医会が取り組んだ重要事業への出席を中止し,折角 の好機を逃がすことになった理由は何であったの か。 歯 科 学 報 に は そ の 後 連 続 し て4回 に わ た っ て IDC からの会議録が掲載されている。また,この 会議録には FDI(万国歯科連合会)設立の模様が記 され,その規約も掲載されていて貴重な資料であ る63) 。しかし,IDC の事前情報を初期に掲載してい た熱気はすでに失せている。 出席者の印象記が,明治37年12月発行の歯科学報 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 265 ― 43 ―

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に掲載されている。ハワイ開業の本永常太郎が血脇 に宛てた9月2日付けの書簡である64) 。 「日本人の参加はサンフランシスコの朝比奈藤太 郎と2人だけでしたが,新聞(同封)に私の顔写真と 履歴が載ったほど歓待されたのも一重に戦勝の余光 と思います。当地では大抵の人は長期間滞在できな いほど物価が高くなっています。晩餐会は300名が 出席し,100枚用意した名刺は前夜まですでにな く,200枚追加もすぐになくなりまた200枚追加した ほどで,これも戦勝国民としていかに歓迎されたか 察していただけると思います。日本から一人でも参 加したならば大会に一層の花を添えたこととなり, 返す返すも残念です。大会の実地学説ともに盛大に して甚だ有益でありました。本国から送付された論 文は,最初が藤島氏,次が榎本氏,そして貴下の分 としてニューヨークのシーエスブッレーア氏により 朗読されました。器械展示でもっとも人目を引いた のは米国古代の「インジン(インディアン著者注)」, 日本古代の木製義歯とホワイト会社出品のものでし た。(抜粋と現代文変換)」と国際学会の華やかさが 伝わってくる。なお,Dental Cosmos にはそれぞれ の発表については,タイトルが読まれたと記されて いて手紙の朗読とは異なっている。 7.血脇論文(1905)3)の要旨 血脇の英語論文は13頁にわたり詳細な内容であ る。Ⅰ.総論 Ⅱ.歯科医学校 Ⅲ.出版物 Ⅳ. 歯科医師会 Ⅴ.歯科医師法 Ⅵ.歯科医師免許取 得者数となっている。日本の歯科の歴史と現状の概 略が7頁弱を使って述べられている。この総論だけ を次号掲載の全和訳文から内容に従って分類してみ る。 Ⅰ.総 論 1)徳川時代の歯科 「約2世紀半前の徳川時代の初期以来,歯科は日 本のあちこちで行われていた。行っていた人々のほ とんどは男性もしくは侍(騎士)で,この職業のため に武士を放棄していた。そのうちの何人かは尊敬に 値する医師で,その職業を祖先より受け継いでい た。これらの中で義歯の発明者である佐藤文中と, かつてその弟子であった,清水アンチュウが良く知 られていて,彼は大垣藩主戸田采女正に拝謁の栄を 浴した。その結果この方たちは民衆から敬意を払わ れていた。しかしながらその後低い階級の男達や浪 人たち(不品行により武士を追放された人)は歯の治 療に関することには全く無知であったが,歯科の職 を得るようになった。彼らは力ずくで歯を抜き,歯 磨剤を街頭で売った。通りすがりの人々が注意を引 くような声をはりあげて宣伝したり,4∼5フィー トの刀で立回りをしたり,独楽回しをして人々を惹 きつけた。当然のことながら彼らの行っている歯科 というものは未熟であった。彼らの手技の危険なや り方は徐々にその職の品位を下げる結果となり,も はや民衆からは自尊心のある男の仕事とはみなされ なくなったのである。従って現在でも,居合抜き (立回り)や独楽回しが歯科の仕事であると思われて いる。」 2)米国人歯科医師からの恩恵と近代歯科医術の黎明 「歯科は香具師の仕事だという市民の誤解から, 歯科に関する全ての研究は日本人から無視された。 ペリー提督の来日以来,日本は社会変革が起こり, 歯科も影響を受けた。イーストレーキ,エリオット による日本での診療が日本の歯科を発展させた最初 で直接の原因となった。特に5年間の長期滞在をし たエリオットは,施術のみならず歯科用エンジン, 歯科用椅子などの歯科器具や材料の輸入によって, 旧態依然としていた術者に近代歯科のアイデアを教 え,歯科医に計り知れない恩恵を与えた。彼らの門 下生であった長谷川 保や小幡英之助は東京で評判 の歯科医となり,その後の歯科医師は,完璧な治療 と技術で賞賛を得るのに成功したばかりでなく,歯 科医師を軽蔑して見下していた先祖をもつ上流階級 の患者からも歓迎された。人々は徐々に歯科医に よった歯の治療が必要だと理解するようになった。 旧態依然とした術者は,危険で信頼できないため 人々から完全に見捨てられるようになった。」 3)政府による歯科医制の整備 「古い施術者による治療を厳しく禁じることは実 際的でなかったが,ついに政府によって彼らが忘れ 去れるようにする方策が採られるようになった。 1883年に発令された医師免許証と医師・歯科医師の 醫術開業試験である。この法律は,全ての歯科医師 は醫術開業試験に合格した者であって,古い歯科医 は抜歯と義歯作成だけが許される法律である。これ 歯科学報 Vol.113,No.3(2013) 266 ― 44 ―

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は古い歯科医にとって決定的な打撃ではなかった が,これらの低レベルの施術者の職業はこれ以後, オセロの言葉「消え失せろ」のようになった。」 4)歯科医師育成への政府の無策 「政府は試験制度にはしたが教科書はなく,組織 だった教育機関もない状況にあっても,歯科医師と してきちんとした資格や正確な知識を得るのは困難 であると感じる人などは誰もいなかった。歯科の研 究や臨床が貧しい状況にある間に,日本の医学の発 達は顕著であった。日本帝国は医学生のための教育 機関を主な町に設立し,また政府発行の医学官報担 当者は多数の質の高い人々が担当している。そうし たことは歯科との対照が際立っている。 政府によって歯科医学教育向上の為の効果的な計 画が立てられない限り,歯科医学教育を科学のレベ ルまでに引き上げるという望みは全く叶わないので あるが,この件に関して政府は全く手を打つことは なかった。」 5)高山歯科医学院の設立 「このように歯科医学の研究を進める為の機関の 必要性は痛感されていた。歯科医学校の創設に期待 を寄せる意見はそこそこで聞かれたが,決定的な一 歩は踏み出されなかった。この役割は日本で最も著 名な高山紀齋に任された。彼は自費で歯科医学校を 東京に設立した。この歯科医学校がなし得た成果は 明らかに重要である。歯科の重要性を社会に広め, 歯科医を以前よりも高い地位に引き上げたのであ る。高山歯科医学院は多くの資質の高い歯科医師を 多数輩出し,日本の歯科医療のため自ら望んでその 資格を得る人々のため唯一の歯科医学校として認め られているといっても過言ではない。」 そして,愛知歯科医学校(1894年渡辺敬三郎創立) と1888年に設立され翌1889年には存在していない東 京歯科専門医学校について簡単に述べている。 6)歯科医学会の設立 「近代歯科医学の発展に重要なステップは,1890 年に東京に歯科医学会を設立したことである。歯科 見習い生は,日中は働かなければならないので,夜 間に参加が出来るこの会は好評であった。「歯科研 究会」は榎本積一が会長で,毎月開催され月刊誌も 発刊してアメリカの近代歯科システムについて多く 紹介した。従来家を主な対象とした「歯科講義会」 も同時期に組織された。」 7)従来家の診療制限違反と新制度歯科医師による 「歯科医会」設立 「1883年公布の従来家の診療制限は失敗した。折 に触れて彼らは法律違反し,薬の処方で死亡事故が 起きていたほどである。こうした状況を改善するた め1893年に有資格者による「歯科医会」が設立され た。第1回は1894年6月東京で開催され,従前の社 会的地位改善のための効果的な計画を進展させるこ とと,従来家との判別で自分たちの職業を守ること が会の目的であった。こうした「歯科医会」は地方 でも全国的に組織化されたが,何の連携もなかった ことから次第に合併の必要性を感じていた。1903年 に「日本歯科医会」が全国的な連合組織として発足 し,各地方医会は緊密な連携のもと歯科医師の職業 地位の向上のため努力している。」 8)官立歯学部設置に関する政府対応への失望 「1898年に政府は,歯科医学教育を科学の一分野 として必要であることを認めて,歯科医学教育シス テムの調査で東京帝国大学医学部助教授石原 久を ヨーロッパと米国に1903年まで派遣した。彼は大学 に歯科の課程を立ち上げる野心を抱いたが政府の支 援はなく,大学病院に歯科診療科を設置されただけ であった。したがって,政府は歯科医学教育の促進 に確固たる一歩を踏み出すことについては全く望み が無いと著者は感じている。また,東京,京都,福 岡の帝国大学に歯科の過程や学部がないことは非常 に残念である。」 9)米国歯科大学卒業生による歯科醫術の導入 「国内での様々な努力とは別に,さらに直接的な 隠れた力があり,それは米国歯科大学卒業生による 新しい歯科の方法や発見の導入である。片山敦彦, 一井正典,伊澤信平,曽根龍蔵,山村楳次郎,松原 廣など20人近くの人々が講義,実習などで正確な伝 達をしてくれ,また彼らはその技術によって帰国後 に東京で大きな成功を収めている。 こうした歯科医師に関連して,特に二人の米国人 歯科医師について記する義務があると思っている。 Dr. Van Denburgh と Dr. L. L. Dunber である。二 人とも日本を訪れたことは無いが,留学した人々を 第一級の歯科医師にすることで日本の歯科の向上に 大きく貢献した。」

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