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我十有五にして学に志す : 桜美林大学を退職するにあたって

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Academic year: 2021

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1  この世に哲学という学問が存在することを知り、それを学んでみようと思い始めたの は、やはり十代後半の頃であった。当時の「社会(倫理 / 政治・経済)」という教科の影 響であるが、それ以前に私が幼児から屁理屈をこねることが好きな性格であったからでも あろう。他方、中学生の頃の親しい友人の父親が開業医であり、しばしばその家に遊びに 行っていたこともあって、将来は医師になろうという思いもあった。この内心の葛藤は、 1968 年 4 月、医大を捨てて北海道大学教養部文類に入学したことで結着がついた。  どの時代の大学生も同じことであろうが、入学して最初の二年ほどは学生生活を享受す ることが半分以上、勉強は半分以下の状態が続いた。しかし、後半の二年間はまるで違っ た。私が進学したのは文学部哲学科西洋哲学専修科(三講座)であったが、隣接する専攻 として倫理学(講座)、宗教学(講座)があった。各講座教授一、助教授一、助手一とい う編成だから、五講座で教員十五名という大世帯である。学内の哲学倫理学関係教員とし て、他に一般教育担当教員四名がいた。所属学生数は三専攻を合わせても各学年十名以下、 大学院修士課程各学年二~三名、博士課程はそれ以下という時代だから、学部学生だけと ると、その総数よりも教員数の方が多い。隅から隅まで監視の眼が行き届く体制だった。  授業は「~哲学演習」という名称の原典購読と議論が中心なので、予習に思いのほか時 間が必要であった。真面目に授業に出席していると、否応なしに勉強させられる仕組みに なっているのである。上に「監視の眼」と書いたが、その監視役は助手や先輩諸兄で、私 が外国語が不得意である(教養課程であまり外国語に熱心でなかった)ことがすぐに暴露 して、同じ学年の学生数人で始めた J・ロック『人間知性論』の読書会には助手の小野誠 二氏(北海学園大学名誉教授)、卒論の準備で読み始めた R・デカルト『省察』(仏訳)に は同じく助手の加藤精司氏(北海道大学名誉教授)、またドイツ語とラテン語の初等文法 は修士課程の先輩が、それぞれチューターの役を引き受けてくれた。  私自身も博士課程進学後は卒論や修論の手助けをする機会に恵まれた。このような状態 で、私は十二年間学生として暮らした。その頃、郷里の札幌は冬季オリンピックが開催さ れ、町全体が大いに盛り上がっていた。本学の荒木晶子教授は NHK 札幌放送局でアルバ イトに励んでいたそうであるが、私は研究に以外にすることがなかった。  次は「三十にして立つ」であるが、この「立つ」というのは、孔子にとっては諸子百家

我十有五にして学に志す

 ―桜美林大学を退職するにあたって―

坂 井 昭 宏

book_桜美林_人文研究_本文.indb 1 2014/02/25 19:01:51

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2 のなかで独自の学問を打ち立てたということであろう。数学や物理学の領域なら、若くし て偉大な業績を残すということも珍しくはない。しかし、哲学や倫理学の領域ではそう多 くはない。たしかに、私も十年に及ぶ修行期間を経て、第三者の評価に耐えうるような研 究論文を書くことができるようになり、1970 年 4 月、千葉大学教養部に哲学担当の講師 として採用された。本学教授(化学)秀島武敏氏も同じ時期に講師として着任された。こ のような「立身」(世の中でそれなりの位置を占める)という意味では、私も「三十にし て立つ」ことを経験することができたのである。  一番の難題は「四十にして惑わず」である。31 歳で職を得て、哲学の講義をまさに「教 えられたように」教え始めたのであるが、それが当時の学生にはまったく通用しない。私 が大学院で勉強を始めた頃から、大学は大きく変化し始めていた。いわゆるエリート型段 階からマス型段階への移行の時期である。私自身も私の講義を聴講する学生の興味関心に 合わせて、何をどう教えるかという問題に直面せざるを得なかった。大学院在学中にデカ ルトに関する研究論文三編を書き、ほかに F・アルキエ『デカルト』の訳稿も持っていた が、このような専門研究が教養課程の学生に理解できるはずもない。何とか自分の研究領 域を、眼の前の学生の期待に応えるような仕方で拡大しなければならない。  この苦境を打開する機縁となったのが、その頃各大学で採用され始めた「総合科目」(あ る主題について異なった学問分野の複数の教員がリレー式で担当する授業)という授業 形式である。哲学に関連した主題で年間 30 回の授業案を作ることは、当時の私には不可 能であった。しかし、最大 4 ~ 5 回程度ならそれほどの苦労は必要ではなかった。また、 我が国でも、生命倫理や環境倫理などの新しい研究領域が紹介され、広く学界で認知され るようになったことも、自分の研究領域を広げるという点では大いに役に立った。この点 に関して、またその後の現代倫理学の教育研究についても同様であるが、当時千葉大学文 学部教授であった加藤尚武氏(京都大学名誉教授)に非常に多くを負っている。  千葉大学教養部では、私も他の新米教員と同様に各種委員会委員の仕事が与えられた。 やがて教育改革に関わる委員会に関与するようになり、国立大学協会教養課程に関する特 別委員会、大学セミナーハウス大学教員懇談会の委員を務め、一般教育学会等に参加する ようになった。我が国に FD というシステムを組織的に紹介したのは一般教育学会の大き な功績であるが、私自身も大学セミナーハウスでの活動を通して多少なりとも寄与すると ころはあったと思う。また、本学理事長佐藤東洋士氏の知遇を得たのもこの頃であった。  このような次第で、三十代から四十代にかけて、私は内的動揺の只中にあり、とても「不 惑」という境地には到らなかった。では、「五十にして天命を知る」はどうか。訳註には、 「天命」は「自ら選んだ使命」でははく、「自分の力を越えた運命」とある。  教育面での困難を教育方法の改善としてではなく、私は研究領域の拡大による教育内容 の充実という面で捉えた。このこと自体が私の教育よりも研究重視という姿勢の現れかも しれない。従来からのデカルト研究に関しては、千葉大学在職中に研究論文 5 編を発表 book_桜美林_人文研究_本文.indb 2 2014/02/25 19:01:51

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3 したことが評価されて、1990 年 4 月、母校である北海道大学文学部西洋哲学第 3 講座助 教授に採用された。当時、私はすでに教授の地位にあり、これは降格人事でもあったのだ が、私は「出世」にはまるで関心がなかった。  着任時の北大文学部はあらゆる面で旧態依然であり、私の恩師の一人である倫理学講座 教授宇都宮芳明先生(故人)は、「冠付の倫理学は、倫理学にあらず」と公言して憚らなかっ た。国内では脳死臨調が各地で公聴会を開催し、脳死移植を巡る論争が頂点を迎えようと していた。私は医学部、法学部、看護学部の教員とともに生命倫理に関する研究会を組織 し、学内研究費の交付を受けて、公開シンポジウム等の研究活動を推進した。  大学設置基準の大綱化が行われたのもその頃である。私の所属する文学部でも大規模な リストラ(学部と大学院文学研究科を担当していた文学部旧来の小講座と、一般教育担当 教員の所属する大講座との統合再編)が行われ、1995 年 4 月、私は倫理学講座に配属さ れた。その理由はじつに簡単だった。ある日、哲学倫理学関係教員の中で最年長の旧倫理 学講座教授田中享英氏(北海道大学名誉教授)が私に言った。「もう倫理学には飽きたので、 私は本来の哲学研究に専念したい。ついては、二番目に年長である坂井君に倫理学講座の 主任をお願いしたい。君は応用倫理もできるから適任でしょう。」  このような書き方をすると奇異に思われるかもしれない。しかし、私自身は田中さんの この言葉が、まさに私の「天命」を告げたのだと信じている。古典の注釈に過ぎない哲学 研究の現状に、私が自分では自覚することなく不満を覚え始めていたことを、すでに田中 さんは見抜いていたのであろう。  西洋哲学第三講座の義務講義は西洋近世哲学史であり、私はその前半(ルネサンスから フランス啓蒙思想まで)とそれに関連した講義・演習を担当していればよかった。しかし、 私自身はこの分野で自ら進んで論文を書こうという気が薄れていた。私が直接指導する大 学院学生の論文の方が優れているように思われてきたからである。実際、私の赴任当時は、 大学院の学生で日本哲学会や日本倫理学会の機関誌に投稿して、論文が掲載される者は稀 であったが、着任後のある年度の『哲学』掲載論文 13 編中北大大学院学生の論文は 4 編(内 3 編は私の指導する学生)というレベルに達していたからである。  他方、私は倫理学には学生時代はまったく関心がなかった。田中さんは生命倫理など応 用倫理の教育と研究で十分と言ってくれたが、倫理学講座教授である以上はそのうち倫理 学概論も担当せざるを得ない。事実、倫理学講座所属の熊野純彦助教授(現東京大学教授) が東大へ転出することになって、私の恐れていたとおりの事態になった。  私は否応なしに、それ以前と同様に私の優秀な大学院学生諸君とともに、本格的に現代 倫理学の勉強を始めた。これがじつに面白い。当初は五里霧中の状態だったが、何を読ん でも興味が尽きない。「六十にして耳従う」は、他人の言葉を素直に聞くことができるよ うになるという意味である。私は恩師の伊藤勝彦先生(東京女子大学名誉教授)と安藤義 宣氏(北海道大学名誉教授)を除けば、他人の苦言にはまったく耳を貸さないタイプの人 book_桜美林_人文研究_本文.indb 3 2014/02/25 19:01:52

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4 間であるが、その年頃には現代倫理学に関連する論文や著書を非常によく理解できるよう になっていた。この意味では、孔子の言葉は人生の真理を語っている。また、先に田中さ んの言葉を「天命」と書いたのはこういうことであり、この分野の勉強を続けているうち に北海道大学を定年退職する年(2007 年 3 月)を迎えた。  北大在職中は応用倫理と大学教育関係を除いて、ほとんど倫理学の研究論文を書くこと ができなかった。その理由の一端は上に述べた通りであるが、本当のことを言えば、現代 倫理学に関する勉強が足りなかったからである。しかし、本学に着任して、思わぬところ に論文執筆の糸口を見出すことができた。三,四年前のことであるが、私のゼミの卒業生 である柴田直樹君に NHK「ハーバード白熱教室」の DVD を一緒に見て欲しいと頼まれた。 その時は、その最初の部分を見ただけで、それほどの感銘は受けなかったが、その後 M・ サンデル『これからの正義の話をしよう』を熟読し、そこに北海道警察および警視庁との 共同研究に端を発する犯罪抑止の問題、加茂直樹氏(京都女子大学名誉教授)に触発され た法と道徳の問題、A・マッキンタイアや B・ウィリアムズらの近代道徳哲学批判の問題等 を解決する糸口が一挙に見えてきたのである。それは「正に対する善の復権」、「機能概念 による<ある > と < べし > の統合」、「卓越主義の再評価」等として表現することができる。  この着想に基づく研究成果は、「排除と共生―万引き高齢再犯者に対する対応」(「桜美 林論考 人文研究」第 3 号、2012 年)、「市民の義務と徳―公共財としての治安」(警察大 学校編「警察学論集」第 66 巻 6 号と 7 号、立花書房、2013 年)、「共通善としての公共 財―自由主義的個人主義の批判」、「哲学」第 49 号、北海道大学哲学会、近刊)として発 表し、また「カジュアルセックスの倫理学的考察」(執筆中)へと発展しつつある。本学 着任以来、これまでの研究優先の態度を改めて、教材開発に力を注いできたが、その努力 が研究の面で結実したことはまったく予期せぬ幸運であった。  この十月に古希を迎え、来年三月には二度目の定年退職を迎える。この歳になって若い 頃の夢が適い、倫理学者としてこの時代に課された課題について語ることができるように なりつつある。これは本学に職を得ることがなければ不可能であった。本学に対して、ま た親しくお付き合い下さった同僚の皆様に対して、心からの感謝の言葉を申し上げたい。  最後は、「七十にして心の欲する所に従って、規を越えず」であるが、これは簡単である。 私にはもはや「規を越える」だけの気力も体力も残されていないからである。改めて「定 年」という制度はよくできていることを認めざるをえないのである。 book_桜美林_人文研究_本文.indb 4 2014/02/25 19:01:52

参照

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