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日本近代西洋医学の夜明け(英医ウィリアム・ウィリス)

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Academic year: 2021

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(1)

日本近代西洋医学の夜明け(英医ウィリアム・ウィ

リス)

著者

佐藤 八郎

雑誌名

鹿児島大学医学雑誌=Medical journal of

Kagoshima University

47

Suppl. 1

ページ

27-31

別言語のタイトル

At Dawn of Modern Western Medicine in Japan, a

British Medical Doctor, William Willis

(2)

日本近 代 西 洋 医 学 の 夜 明 け(英

医 ウ ィ リア ム ・ウ ィ リス)

佐 藤 八 郎

元鹿児 島大学 医学 部長 ・鹿児島大学第二内科学教室教授

At Dawn

of Modern

Western

Medicine

in Japan,

a British

Medical

Doctor,

William

Willis

Hachiro SATO, M. D.

Past Dean, Emeritus Professor, Faculty of Medicine,

Kagoshima University, Kagoshima (The Deceased)

幕 末 か ら 近 代 日 本 の 夜 明 け に か け て 医 学 の 分 野 で 活 躍 し た 英 国 人 医 師 ウ ィ リ ア ム ・ウ ィ リ ス(William Willis 1837 ∼1894)は ,わ が 国 の 医 学 界 に と っ て 忘 れ る こ と の で き な い 恩 人 で あ る.し か し現 在 ウ ィ リ ス の 名 を 知 る 者 は 非 常 に 少 な い よ う に 思 わ れ る.わ が 国 の 医 学 の 歴 史 を繙く と き,ウ ィ リ ス が 如 何 に 重 要 な 位 置 に あ っ た か,そ の 意 義 は ま こ と に 深 い も の が あ る.も し合 理 的 医 学 教 育 を 志 向 す る 英 国 流 の 医 学 教 育 体 系 が わ が 国 に 取 り入 れ ら れ て い た な ら ば,そ の 基 盤 を ドイツ 医 学 に お く わ が 国 の 体 系 が よ り合 理 的 な 方 向 へ 育 っ て き て い た か も しれ な い か ら で あ る. 昭 和43年4月 鹿 児 島 大 学 医 学 部 の25周 年 記 念 式 典 を 行 っ た 際,鹿 児 島 西 洋 医 学 開 講 百 年 記 念 式 典 を 挙 行 し,ウ ィ リ ス の 孫2人 と そ の 叔 母 さ ん を 呼 び,英 国 大 使 代 理 マ ン ダ ー ス 夫 妻,文 部 大 臣 代 理 福 田 得 志 鹿 児 島 大 学 長,武 見 太 郎 日 本 医 師 会 長,小 川 鼎 三 医 史 学 会 長,ウ ィ リ ス 研 究 者 鮫 島 近 二 博 士,ウ ィ リ ス の 高 弟 高 木 兼 寛 の 孫 ・樋口一 成 慈 恵 医 大 学 長 は じ め 医 師 会 ・医 学 会 関 係 者 多 数 列 席 し て,ウ ィ リ ス の 徳 を た た え,そ の 際 ウ ィ リ ス の 記 念 レ リ ー フ の 除 幕 を 行 い,更 に 拙 著『 英 医 ウ ィ リ ア ム ・ウ ィ リ ス 略 伝 』 を 配 付 し て,わ が 国 近 代 医 学 の 功 労 者 を 知 っ て 貰 お う と し た の で あ っ た. 最 近 ウ ィ リ ス に つ い て 萩 原 延 寿 氏 に よ る 朝 日 新 聞 連 載 の 「遠 い 崖 」 や 前 駐 日英 大 使 サ ー ・ヒ ュ ー ・コ ー タ ッ チ の 「あ る 英 人 医 師 の 幕 末 維 新 」(英 文 と 日 本 語)が 出 て い る. ウ ィ リ ス は1837年(天 保8年)5月1日 北 ア イ ル ラ ン ドのCo.Fermanagh(フ ァ ー マ ー ナ ー 州)Enniskillen郊 外 の Maguiresbridgeに 生 ま れ た. ウ ィ リ ス が グ ラ ス ゴ ー お よ び エ ジ ン バ ラ 大 学 で 医 学 を 修 め,エ ジ ンバ ラ 大 学 を 卒 業 し た1859年(安 政6年)の 頃 は, ち ょ う ど わ が 国 で は ペ リ ー,ハ リ ス の 来 航 に よ っ て も た ら さ れ た 横 浜 開 港 の 年 で あ っ た.医 学 部 卒 業 後,ロ ン ド ン の Middlesex病 院 でSenior Clinical Assisttantと して1年 半 程 勤 務 し,1861年(文 久 元 年)11月 駐 日英 国 公 使 館 及 び 領 事 館 付 医 官 を 命 ぜ ら れ,1862年(文 久2年)に な っ て 上 海 経 由,5月12日 に 長 崎 に 到 着 来 日 し た.時 に 弱 冠25歳 で あ っ た. 当 時 の 英 国 公 使 オ ー ル コ ッ ク は 賜 暇 帰 英 中 で,公 使 代 理 は ニ ー ル 中 佐 で,ま も な くパ ー ク ス 公 使 に か わ っ た.文 久 の 頃 と い え ば,わ が 国 は 風 雲 急 を つ げ る と き で,安 政 の 大 獄 を き っ か け に,鎖 国 か ら 開 国 へ,幕 府 の 崩 壊 か ら 明 治 の 新 政 府 へ と世 は 移 り変 わ っ て ゆ くの で あ る. 一 方,当 時 の ス コ ッ トラ ン ド医 学 は 隆 盛 を き わ め て お り,多 く の 卓 越 し た 医 学 者 が 輩 出 し た.James Symeは 麻 酔 使 用 の 開 拓 者 で あ り,産 科 学 のJames Young Simpsonは1846年エー テ ル 麻 酔 を,さ ら に1年 後 ク ロ ロ ホ ル ム 麻 酔 を 導 入 し た.Symeの 助 手Joseph Listerは,1857年 す で に"The Early Stagesof Inflammation"と い う論 文 を 発 表 し た が,石 炭 酸 を 用 い て の 消 毒 法 を 開 拓 した の は,実 にListerそ の 人 で あ っ た.こ れ ら の 傑 出 し た 医 学 者 を 生 み 出 し た 土 壌 と歴 史 の 中 で,ウ ィ リ ス は 医 師 と して の 心 と 技 術 を 身 に つ け た の で あ る.彼 の 学 位 論 文"Theory of Ulceration" (1859年)の 中 に,外 科 医 と し て ば か り で な く 医 学 者 と し て の 素 質 を 随 所 に み る こ と が で き る.

わ が 国 へ 初 め て 来 航 した 公 的 な 英 国 使 節 は,お そ ら く1858年(安 政5年)のLord Elgin Missionで あ り,1859年 (安 政6年)オ ー ル コ ッ ク に よ っ て 江 戸 高 輪 の 東 禅 寺 に 公 使 館 が お か れ た.そ の 後,文 久1年 お よ び2年 に,そ れ ぞ れ 第 一 及 び 第 二 東 禅 寺 事 件 が お こ り,ウ ィ リ ス は わ が 国 で 初 め て の 苦 難 を な め る こ と に な る.さ ら に,1862年(文 久2年)

8月 生 麦 事 件 が 発 生 した. 攘夷

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〔28〕 鹿 児 島 大 学 医 学 雑 誌 第47巻 補冊1平 成7年8月 の街 道 を東 海 道 の 風 景 を愛 で なが ら馬 をす す め,秋 の 行 楽 を楽 しん で い た.生 麦 に さ しか か っ た と き,島 津 久 光 の 行 列 に無 礼 が あ っ た と して 事 件 が 突 発 した.結 局Richardsonは 殺 され,同 行 のMarshallとClarkは 負 傷 した.半 狂 人 の よ うに な っ たMrs.Borrodaileの 通 報 に よ り,真 先 に駆 けつ け て負 傷 者 の 治 療 や 検 屍 に 当 っ た の が ウ ィ リス で あ る. そ の後 ウ ィ リス の 関 係 す る戦 争 は多 いが,中 で も薩 英 戦 争[1863年(文 久3年)]と わが 国 に お け る 史 上 最 大 の 内 乱 とい わ れ る戊 辰 戦 争[1868年(慶 応4年)]を あ げ ね ば な らない. 生 麦 事 件 で英 国 公 使 は幕 府 へ 厳 重 に抗 議 したが,要 領 を得 な い の で,直 接 鹿 児 島 と談 判 す る外 な い と して 軍艦 を さ し む け た.時 に1863年(文 久3年)7月 中旬,キ ュ ーパ ー 中将 は 英艦7隻,旗 艦 ユ ー リア ラス 号 で 下 手 人引 渡 し と賠 償 金 2万5千 ポ ン ドを請 求 した が,薩 摩 は こ れ を拒 絶 したの で,遂 に砲 火 を相 交 え た.こ れ が 薩 英 戦 争 で あ る.薩 摩 は英 国 の ア ー ム ス トロ ン グ砲 や ロ ケ ッ ト弾(火 箭)の た め大 打 撃 を受 け た が,英 国 方 は旗 艦 の 艦 長 ・副 艦 長 及 び9名 の 水 兵 が 戦 死 し,戦 意 を失 い,錨 を薩 摩 方 に と られ て心 な らず も英 艦 は 逃 げ去 っ た.こ の 戦争 で ウ ィ リ ス は ア ー ガ ス 号 に搭 乗 し 鹿 児 島湾 に従 軍 した.こ の 薩 英 戦 争 に よ り泰 西 文 明 の 威 力 を知 り攘夷が 不 可 能 で あ る こ と悟 っ た薩 摩 は,英 国 と和 を結 ん で親 善 関係 に な った.そ して1865年(元 治2年)3月22日,薩 摩 は英 国へ19名 の留 学 生 を出 す こ とに な っ た.そ の 中 に は,後 に 日本 の 近 代 化 に貢 献 した五 代 才 助(友 厚 ・後 の 大 阪 商工 会 議 所 初 代 会頭),松 木 弘 安(寺 島 宗 則,後 の 外 務 大 臣),鮫 島 尚信(後 の フ ラ ンス大 使),森 有 礼(後 の文 部 大 臣),後 に ア メ リカ に渡 り葡 萄 王 とな っ た 磯 永 彦 輔 ら も含 まれ て い た. 1868年(慶 応4年)1月3日,鳥 羽 伏 見 で薩 長 兵 と会 津 ・桑 名 兵 との 間 に 戦端 が 開 か れ た.こ の 鳥 羽 伏 見 の 戦 争 に薩 藩 の依 頼 で,1月27日 ウ ィ リス は,親 友 の ア ー ネ ス ト ・サ トウ と共 に 入 洛 し,相 国 寺 境 内 の 養 源 院 に 設 け られ て い た薩 藩 病 院 に て 治療 に従 事 した.彼 の合 理 的 な 治療 に よ っ て多 くの 将 兵 の生 命 が救 わ れ,西 洋 外 科 のす ぐれ て い る こ とが 認 め られ た.ウ ィ リス に対 す る信 頼 は次 第 に篤 くな り,名 声 を博 した の で あ る.こ の 時,薩 摩 の石 神 良 策,上 村 泉 三,山 下 広 平 らが助 手 と して 働 き,西 郷 従 道 も彼 の手 当 を受 け て九 死 に一 生 を得 た.こ れ が わ が 医 学 界 の檜 舞 台 に 登 場 す る契 機 とな り,ま た 後 年 西 郷 隆 盛 と親 交 を結 ぶ機 縁 と もな っ た.ウ ィ リス は京 都 滞 在 中,山 内 容 堂 の重 病 を治 癒 せ しめ,ま た2月 晦 日パ ー クス が 宿 舎 の智 恩 院 よ り参 内 の 途次,2人 の 凶漢 に襲 わ れ12人 の 負 傷 者 を 出 した が,随 行 の ウ ィ リスが 手 当 して大 い に功 績 を挙 げ た.間 もな く ウ ィ リス は,4月13日 横 浜 に軍 陣 病 院(仮 病 院,横 浜 病 院,養 生 所,修 文 館, 野 戦病 院,天 朝 病 院 等 の 異 名 あ り)が 開 設 され る と,招 聰 され,房 総 戦 争,上 野 彰 義 隊 の 変 等 の官 軍 方 の 負 傷 兵 を治 療 した.中 村 半 次 郎(後 の 桐 野 利 秋),益 満 休 之 助(西 郷 と勝 の会 見 の仲 だ ち を した)等 の 多 くの 薩 摩 兵 は 治 療 を 受 け た が,益 満 は化 膿 の た め 死 亡 した. 同病 院 は 同 年7月20日 東 京 下 谷 御 徒 町 ・藤 堂 邸 に移 転 し,英 医 シ ドルが 治 療 に当 る こ とに な っ て,ウ ィ リス は 明 治 新 政 府 の 乞 い に よ りパ ー ク ス の斡 旋 で東 北 戦 争 に 従事 す る こ とに な った.8月15日 横 浜 か ら越 後 に 向 か う こ と に な っ た. 碓 井 峠 を経 て 高 田へ 入 る 関川 の番 所 で は,通 過 を拒 絶 す る番 人 を 「自分 は一 外 国 人 と して で な く 日本 天 皇 の 勅 命 に よ っ て通 過 す る もの だ」 と,大 喝 一声 怒 鳴 りつ け る 史 実 な ど,ウ ィ リス の 気概 を見 る思 い で あ る.高 田 を経 て柏 崎,新 潟, 新 発 田 そ して会 津 に転 戦,各 地 で赤 十 字 精 神 を発揮 して敵 味 方 な く負 傷 者 の 治 療 に 当 っ た. 彼 の 手 記 に よ れ ば,ウ ィ リス は 自 ら600人 の負 傷 者 の 治 療 に当 っ た.約1,000人 の患 者 治 療 につ い て処 方 を書 い た.こ れ らの 負 傷 者 の う ち官 軍 の者 が900人,会 津 藩 兵 が700人 で あ っ た.小 指 の 除 去 の 手 術 か ら大 腿 骨 の 関 節 の 切 断等 大 小 手 術38回,23個 の 銃 弾 の摘 出,200人 以 上 の患 者 の腐 骨 切 除,鉄 の副 木 の使 用 な ど西 洋 医 学 の 面 目 を発 揮 した の で あ っ た. か く して ウ ィ リ ス は戦 功 を た て て12月25日(新 暦)約3ケ 月振 りに帰 京 した. 内 乱 は新 政 府 の 勝 利 の うち に終 り をつ げ,慶 応4年9月8日(新 暦10月23日)を 改 め て 明 治 元 年 と し,10月 天 皇 は初 め て 京 都 か ら東 京 へ 移 られ,翌2年(1869)3月 東 京 が 首都 と定 め られ て 明 治 の 新 政 府 が 始 まっ た. ウ ィ リス は,同 年3月2日 シ ドル に 代 り,下 谷 御 徒 町 よ り神 田和 泉 町 に移 転 した東 京 医学 校 兼 大 病 院 を主 宰 した.こ の東 京 医学 校 兼 大 病 院 は東 京大 学 医 学 部 の 前 身 で あ る.ウ ィ リス は こ の病 院で 市 井 の患 者 を 診療 し,ま た 学 生 に講 義 し て ク ロ ロ ホ ル ム麻 酔 法,四 肢 切 断術 を行 って,わ が 国 外科 学 の発 展 に貢 献 す る こ と大 で あ っ た.東 京 医 学 校 で の 当時 の 門下 生 に は,明 治初 期 の 医 学 界 の 指 導 者 と な った 石 黒忠悳,池 田謙 斉,佐 々木 東 洋 な どが い た.講 義 録 の『 日講 紀 聞』 や薬 に 関す る薬 範等 を出 して い る. 『 日講 紀 聞』 は,エ ジ ンバ ラ大 学Syme教 授 の外 科 教 科 書 を参 考 に して 自験 例 を ま じえて 講 義 した もの で あ る よ う だ. こ この 入 院患 者 の大 部 分 は 薩 摩 の 傷 病 兵 で あ った が,仲 々 手 に負 え な い乱 暴 者 が 多 く看 護 人 を 殴打 す る もの も あ っ た の で,試 み に 女 の 看 護 人 を して 看 護 せ しめ た と こ ろ患 者 も従順 に な っ た.こ れが わが 国看 護 婦 の は じ ま りであ る.そ の 頃, ウ ィ リス は 日本 で お そ ら く初 め て 緑 内 障 患 者 に虹 彩 切 除 を施 して い る. ウ ィ リス は 医 学 教 育 機 関 と総 合 病 院 の 基 盤 をつ く りわ が 国 の 近代 医学 の 開拓 につ く した が,わ が 国 の 方 針 が 英 国 医 学

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か ら ドイツ 医 学 へ と一 変 した た め,そ の 犠 牲 と な って 在 任 わ ず か9ケ 月 で そ の 職 を辞 さね ば な らな か った.当 時,政 府 は 医学 学 制 の 一 大 改 革 を行 うた め,明 治2年 正 月 佐 賀 藩士 相 良知 安,福 井 藩 士 岩佐 純 を医 事 取 調 御 用 掛 と な した.彼 等 は長 崎 で ポ ンペ,ボ ー ドイ ン らに学 ん だ 蘭 方 医 で あ った. 徳 川 時 代 に全 盛 を極 め て い た オ ラ ン ダ医 学 もそ の 内 容 は,ド イ ツ 医学 の翻 訳 に す ぎ ない の で,識 者 は 将 来 日本 の 医学 は,範 を ドイツ に と らな け れ ば な らな い と感 じて い た.相 良 知安 は ドイ ツ か ら医 学 教 師 を招聘 しな け れ ば な らぬ こ と を 鋭 意 政 府 に建 言 した の で あ る.相 良 の 意 見 に賛 成 す る者 も少 な くな か っ たが,何 分 ウ ィ リス が 現 職 に あ るの で,こ れ を 罷 免 しなけ れ ば な らぬ と い う厄 介 な 問 題 が 横 た わ って い た の で行 き悩 ん で い た.ウ ィ リス は英 国公 使 パ ー ク ス の後 援 が あ って 要 路 の 大 官 と も交 際 して勢 力 が あ っ た の み な らず,当 時 の文 部 大 臣 と もい うべ き知 学 事 ・山 内 容 堂 と も親 善 の 間 柄 で あ って,容 堂 が 非 常 に反 対 した の で,こ の 問 題 の 解 決 は 一層 困難 とな っ た.そ こで 相 良 はか つ て の 恩 師 で 当時 大 学 南 校 の 教 頭 フ ルベ ッキ を訪 うて,ド イ ツ 医 学 こそ 世 界 に 冠 た る もの で あ る との証 言 を得 て,こ れ を書 類 に書 いて貰 って, 要 路 の大 官 を説 得 した.相 良 の 同郷 の 先 輩 で あ る副 島,大 隈 も卒 先 こ れ に賛 成 し,そ の 他 の 大 官 連 も賛 成 して 廟 議 は 決 定 したの で あ る.そ の 背 景 に プ ロ シ ア の 君 主 体 制 に ひ か れ た要 因 の あ っ た こ と も否 め な い.長 い 間,漢 方 医 学 の土 壌 の 中で 育 って きた わ が 国 は,明 治 維 新 とい う怒 涛 の な か で,医 学 の流 れ は オ ラ ン ダ医 学 か ら英 国医 学 へ の 激 しい 渦 を ま き なが ら急 転 しつ つ あ っ た時,さ らに ドイツ 医 学 へ と急 回転 して しま っ た の で あ る. ウ ィ リス の 解 雇 につ い て は相 良 も大 い に 困 り,ウ ィ リス が西 郷 隆盛 と戊 辰 の役 以 来 大 変 懇 意 で あ る事 を知 っ て い た の で,相 良 は西 郷 を訪 ね て ウ ィ リス の後 始 末 を依 頼 した.西 郷 は快 諾 して大 久 保 甲 東 と相 談 の 上,4年 の 契 約 で 月 俸900 弗 で 鹿 児 島 に傭 入 れ る こ と に した.当 時 の 太 政 大 臣(総 理 大 臣)が 月800円 で,明 治 初 頭 の1ド ル は だ い た い1円(日 銀 調 べ)に あ た り,日 本 最 高 の 月給 取 り と して 鹿 児 島 入 り した わ け で あ る. ウ ィ リス は1868年(明 治 元 年)江 戸 駐 在 の 英 国 副 領事 に任 命 さ れ て い たが 日本 新 政 府 の 前 記 の東 京 医 学 校 兼 大 病 院へ の 雇 用 の 要 請 に際 し英 政 府 か らは,1年 間 の 賜 暇 を与 え られ た ウ ィ リス は 同 医学 校 兼 大 病 院 で 英 国 医学 の 手 腕 を発 揮 し よ う と して い る矢 先 へ 日本 政 府 は ドイ ツ 医学 を範 とす る こ とに した ので ウ ィ リス は志 半 ば に夢 破 れ て,鹿 児 島 か らの 要 請 もあ り鹿 児 島 で 病 院 を指 導 し医 学 を教 え る た め に 公使 館 の職 を辞 任 した. 明 治2年12月3日(1870年1月8日)ウ ィ リス は石 神 良策,門 人 林 卜庵 と と もに東 京 か ら鹿 児 島へ 赴 任 して きた.33 歳 で あ っ た. ウ ィ リス は 現 在,南 州 神 社 の あ る 区域 の 浄 光 明寺 跡 に 医学 校 を建 て滑 川 の ほ と りに煉 瓦 で 赤 倉 病 院(約30人 収 容)を 建 て,医 学校 長 兼 病 院 長 と な っ た.早 速,活 動 を 開始 し,ウ ィ リス指 導 下 の 病 院 は 明 治3年4月 か ら入 院患 者 を受 入 れ た. ウ ィ リス の 職 務 は 医 学 教 育 の 各 分 野 を理 論 と実 践 の両 面 に わ た って 教 授 す る こ と,さ らに 医 学 生 徒 に対 し,普 通 教 育 た とえ ば 英 語 の 正 字 法,読 解,作 文,会 話,文 法,算 術,幾 何 な ど を教 え る こ とで あ る.午 前6時 か ら平 均12時 間働 い た.午 前 を診 療,午 後 を講 義 に した.鹿 児 島 医学 校 の制 度 は本 科 と別 科 に分 か れ て,本 科(原 語 科)は4年 で 正 科 と し て 英語 を教 え 原書 で 講 義 した.別 科(訳 語 科,簡 易 科)は2年 で 多 くは医 者 の 子 弟 に実 地研 修,調 剤 等 を教 え,高 木 兼 寛,三 田村 忠 国(故 三 田 村 篤 志 郎 東 大 教 授 の父)等 が 教 授 して い た.ウ ィ リス が 赤 倉 病 院 で 英 国 流 のman to manの ベ ッ ドサ イ ド ・テ ィー チ ン グで 医 学 生 の 教 育 を した こ と は特 筆 に値 しよ う. 当 時 ウ ィ リス の 学 徳 を慕 って 遠 く会 津,静 岡,和 歌 山地 方 か ら入 学 した もの もあ っ た.廃 藩 置 県 後 に は鹿 児 島 県 下 の 生徒300名 を下 らず,他 県 よ り入学 した 者 も合 わ す と5∼600名 に も達 し,校 運 日 に盛 ん で あ っ た.鹿 児 島 時代 の 門 下 生 で 後年 名 を な した の に 高 木 兼 寛,河 村 豊 州,三 田村 忠 国,藤 田 圭 甫,加 賀 美 光 賢,石 神 良 策 らが い る.当 時 の 医 学 生 に は 医学 修 業 が 目的 で な く英 語 の 勉 強 の た め 入 学 した人 もか な りあ って,後 年 他 の 方 面 で 名 を挙 げ た 人 もあ っ た.現 在 の 東京 慈 恵 会 医科 大 学 は ウ ィ リス 門 下 の 高 木 兼 寛 男 爵 が 創 立 した 医 学 教 育 機 関 で,ウ ィ リス の流 れ を汲 んで い る もの とい え る と思 う. ウ ィ リス は,解 剖 に は 自分 が 持 って きた 骸 骨 に よ って 或 い は 牛 ・豚 ・鷲 鳥 等 を用 い,ま た 人体 模 型 や 顕 微 鏡 等 を使 っ て い た そ う で あ る.鹿 児 島 医 学校 時 代 の『 日講 紀 聞 』 をみ る に外 科,内 科,産 婦 人 科,耳 鼻 科,眼 科 等 全 科 の 講義 を し て い る.特 に外 科 が 得 意 で あ っ て 赤 の 人 参 を 山葵 卸 で 卸 して 患 部 を巻 い て繃 帯 す るの が 普 通 で あ っ た.従 来 の 医 師 は止 血 法 を知 らな い の で成 績 が悪 か っ た が,ウ ィ リス は結 紮 や ゴム 管 をは め て 止 血 法 を講 じた の で治 療 成 績 が 甚 だ良 か っ た の で あ る.患 者 の治 療 に は周 到 な 注 意 を払 い と くに ク ロ ロホ ル ム麻 酔 に よる 手術 に当 って は,そ の 脈 を はか り,緩 厳 度 を失 わぬ よ う戒 め て い た. 明 治5年 に『 徽 毒 新 論 』 を鹿 児 島 病 院 か ら出 版 して い る.そ の 中 に水 銀 剤 の 乱 用 を戒 め て い る.そ の 頃,梅 毒 治 療 の た め の性 病 院,ハ ンセ ン氏 病 の 隔 離病 院 の 設 立 を訴 え,貧 者 の た め の病 院 を社 会 的 寄 附 に よ っ て設 立 す べ きで あ る と説

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〔30〕 鹿 児 島 大 学 医 学 雑 誌 第47巻 補冊1平 成7年8月 い た.ま た,病 院 職 員 の 待 遇 改 善 を要 望 して い る.明 治7年 に は征 台 の役 で鹿 児 島 か ら出征 した 将 卒 で マ ラ リア に罹 り 帰 還 した 多 数 の 患 者 を ウ ィ リス が 治 療 して全 治 せ しめ て い る. ウ ィ リス は1875年(明 治8年)3月,一 年 間 の帰 英 に際 し大 山県令 に これ まで の勤務 を総括 して報告 して い る.(ビ ュー ・コー タ ッチ 「あ る英 人 医 師 の幕 末 維 新 」 か ら) 「西 洋 医学 の指 導 に あ た り私 の 尽 力 の 成 果,す くな か らず,ま た この 治 療 法 が きわ め て 効 果 的 で あ る こ と が 判 明 す る にお よ び当 県 民 が 私 を信 頼 す る に い た っ た こ とは満 足 の きわ み で あ ります.」 「今 日 まで 当病 院 の 処 方 箋 に記 載 され た 外 来 ・入 院患 者 はす で に1万5千 余 名 に達 し,こ の ほ か 往 診 に よ り治 療 を施 した 在 宅 患 者 数 は数 千 人 にお よ び ます.」 「右 の よ うに大 勢 の患 者 中 に は 普 通 の 疾 病 も創傷 もあ り,手 術 も小 は 手 指 の 載 去 か ら大 は大 腿 の切 断 まで 行 い ま した. この よ う に当 病 院 は学 生 の 医 学 教 育 の場 で あ る と同時 に病 人 に とっ て も有 益 な 医療 を 受 け られ る と こ ろ とな り,院 名 は 日 を追 う に した が って 高 ま っ て きた の で あ ります.」 「現 在 病 院 の 各室 に は患 者 が 充 満 し,医 学 校 な らび に病 院 に 出席 す る学 生 は150名 で あ ります.こ の 学 生 の 中 に は,近 在 出 身 者 の ほか に各 県 や 各 島か ら来 た もの も少 な くあ りませ ん.な お,最 近 県 内 の 各 地 に 支 病 院 が 新 た に建 設 され ま し た.」 「さ らに 医学 指 導 の 成 果 の 例 をあ げ る な らば,さ き ごろ他 県 で も鹿 児 島 の よ う な病 院 を建 設 す る た め に 当 病 院 の 医 師 数 名 の招聘 依 頼 が あ り,ま た 旧学 生 で現 在 従 軍 軍 医 の 高 官 に任ぜ られ た もの もす くな くあ りませ ん.」 翌1876年(明 治9年)4月 英 国か ら鹿 児 島 に帰 っ て きた ウ ィ リス は鹿 児 島 を永 住 の 地 と決 め た の で あ ろ うか,2階 に 4部 屋,1階 に6部 屋 の か な り広 壮 な住 宅 の建 築 に と りか か り,医 学 校 ・病 院 の仕 事 は あ い か わ らず 多 忙 を きわ め た. 各 地 か ら新 入 生60名 が 医 学 校 に入 学 して くる こ とに な り今 年 の 医学 校 な らび に病 院 の 学 生 お よ び職 員 の 総 数 は250名 に な る 予 定 で あ った.ウ ィ リス は平 穏 な気 持 ち で勤 務 生 活 を続 け て い た.明 治10年1月27日,宮 崎 へ 出か け美 しい 景 色 の 中 で 旅 行 中,西 郷 軍 の 部 下 が 新 政 府 の兵 器 庫 へ 乱 入 して 軍 需 品 を収 奪 した とい う緊急 情 報 を受 け取 っ た.こ れが 西 南 の 役 の 発 端 と な っ た. これ か ら ま もな くウ ィ リス は江 戸 駐 在 英 国公 使 よ り日本 政 府 は 彼 の 国外 退去 を 望 ん で い る 旨 を公 式 に伝 達 す る退 去 勧 告 書 を受 け と る. ウ ィ リス は 英 国 流 の 医 学 教 育,診 療 に盡 力 した ばか りで な く医学 研 修 上 屍 体 解 剖 の必 要性 を説 き,ま た 当時 の 鹿 児 島 の 習慣 の 是 正(牛 の 死 肉食 用 禁 止 な ど)を は じめ,具 体 的 に酪 農 の 方法 を示 しな が ら,食 生 活 の 改 善 に牛 乳 ・バ ター ・ 牛 肉 の 使 用 をす す め,ま た妊 産 婦 の検 診 や上 下 水 道,暗 渠 の 完 備 した清 潔 な 町 づ く りを提 唱 す る な ど公 衆衛 生 ひい て は 予 防 医 学 的 業 績 な どに は顕 著 な ものが あ る.ウ ィ リス は,か つ て 島津 久光 が東 上 の折 建 白 書 を奉 呈 した こ とが あ る.そ の 中で 彼 は財 政 問 題,教 育 問題 や 鉄 道,郵 便 の 開設 の促 進 また 宗教 の 自由 を 許 す こ とな ど をあ げ た.ま た 日本 の実 情 に もっ と も適 した政 府 の形 態 は 「天 皇 を元 首 と して こ れ を貴 族 と平 民 を代 表 す る 二 つ の 議 院 が 補 佐 す る こ とで あ る」 と説 い た.国 家 の 発 展 に まで配 慮 して い た の で あ る. ウ ィ リス は鹿 児 島滞 在 中,明 治4年 藩士 江 夏 十郎 の娘 八 重 子(21歳)と 結 婚 し,男 子 ア ル バ ー トを も うけ楽 し く過 ご して い た が,1877年(明 治10年)西 南 の役 が勃 発 した ため 家 族 と と もに 東 京へ 移 住 し,妻 子 を 残 して 単 身 帰 国 した. 1881年(明 治14年)再 び 来 日 した が,今 度 は ア ルバ ー ト(当 時8歳)の み を同 伴 して 帰 英 した.こ れが ウ ィ リス と八 重 子 そ して わが 国 との永 遠 の 別離 とな っ た.来 日 して か ら通 算20年 の 歳 月 が 流 れ,弱 冠25歳 で 日本 の 土 をふ ん だ ウ ィ リス は,す で に44歳 の壮 年 とな っ て い た. 帰 英 した彼 は1885年(明 治18年)ア ル バ ー トをロ ン ドンに残 して,シ ャム の バ ン コ ッ ク英 国公 使 館 付 医官 と して 赴任 した.上 司 は親 友 の ア ー ネ ス ト ・サ トウで あ っ た.滞 在7年 病 を得 て,1892年(明 治25年)北 ア イ ル ラ ン ドへ 帰 国 した. 1894年(明 治27年)2月14日 フ ァー マ ー ナ ー 州 モ ニ ー ンの 兄 の 家 で 閉 塞性 黄疸 の た め,波 瀾 の57歳 の生 涯 を閉 じた.ウ ィ リス の墓 は北 ア イ ル ラ ン ド ・フ ァー マ ー ナ ー 州 の ア イル ラ ン ド王 国 との 国 境 近 くにあ り,両 親 や 兄 弟 と と もに 眠 っ て い る. 鹿 児 島 で は 明治26年8月 門 人 た ちが恩 師 ウ ィ リス の頒 徳 記 念 碑 をた て,彼 の 徳 をた た えた の で あ っ た.そ の頌徳 碑 は, 前 記 の鹿 児 島西 洋 医学 開 講 百 年記 念 の 時 の ウ ィ リス ・レ リー フ と と もに 現 在 鹿 児 島 大 学 医 学 部 構 内 に移 され て い る. ウ ィ リス の妻 八重 子 は ウ ィ リス と再 び会 う こ とな く昭和6年 東 京 ・麻 布 で81年 にわ た る波 乱 の 生 涯 を 閉 じた.そ の墓 は 東京 白 金 台 の瑞 聖寺 内 にあ り,江 夏 家 の 人 た ち と と もに眠 って い る. ウ ィ リス の 子 アル バ ー トは 英 国 か ら オ ース トラ リア に移 り,明 治39年4月 まぶ た の 母 親 を尋 ね て 来 日 し,横 浜 埠 頭 で 劇 的 な再 会 を して 日本 に滞 在 し,関 西 で 日本 女性 と結 婚 して二 男 一 女 を も うけ,日 本 に 帰 化 して 宇 利 有 平 を名 乗 り昭 和

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18年 死 亡 して い る.西 宮 市 に住 む ウ ィ リス の孫 た ち は健 在 で あ る. 鹿 児 島 に お け る ウ ィ リス の 主 宰 した 赤 倉 病 院 な ら び に医 学校 は 明治10年 の西 南 の役 で ス トップ した が,や が て 鹿 児 島 県 立 医学 校 とな り鹿児 島市 立病 院,鹿 児 島 県 立 病 院 を経 て 現在 鹿 児 島大 学 医学 部 へ と継 承 され て い る.明 治 の 初 め に芽 生 え た近 代 西 洋 医学 の流 れ は,こ う して 現 在 まで 脈 々 と流 れ て い る ので あ る. 北 ア イ ル ラ ン ドの 荒 野 に生 れ た 勇 敢 な青 年 医 師 ウ ィ リス こそ は,弱 冠25歳 で幕 末動 乱 の 未 知 の 国 日本へ や って 来 て, 滞 日16年,そ の 間 ヨー ロ ッパ 的 な文 化 教 養 に よ って冷 徹 な科学 精 神 を もっ て,英 国 医 学 を 日本 へ 導 入 し,英 国 流 の医 学 教 育,診 療 を や っ て 自 ら ヒュ ー マ ニ ズ ム を実 践 し,日 本 の 医学 の近 代 化 に貢 献 した恩 人 で あ る.

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