章學誠の地方志編修と方志學
著者
稲(稻)葉 一郎
雑誌名
人文論究
巻
53
号
2
ページ
1-20
発行年
2003-09-10
URL
http://hdl.handle.net/10236/6190
章學誠の地方志編修と方志學
稻
葉
一
郎
は
じ
め
に
中國文化史上、宋代以後の特徴的現象は史部 書の飛躍的發展であろう 。 ﹃ 資治通鑑 ﹄ の出現とそれに派生する紀事 本末體史の登場、三通・會要などの政書の編纂、掌故の學の隆盛、舊史の考證の流行などに加えて、地方志の壓倒的 な増加が特徴的である。著録された地方志の數量は、一説では宋代が三三種、元代が一一種、明代が九八九種、清代 が五七〇一種を數えるまでになったとする 。そしてこの地方志の増加が史部 書の突出の大きな要因ともなっている のである。 このような地方志の發展を背景に、地方志を 史學の立場から理論づけようとしたのが清代中期の 史學者、章學 誠︵一七三八∼一八〇一︶ ﹃文史通義﹄である。 ﹃文史通義﹄は一面では高邁な 史哲學を説き、他面では地方志の編 纂法を論じているところから、思想史研究者によって取り上げられるか、地理地誌學者の俎上にのぼせられるかに分 かれる傾向がある。それは彼が地方長官の依頼を受けて、あるいは總督・巡撫の幕僚として地方志の編修にたずさわ り、地方志編修の在り方、それを基礎とする 史理論、 史學を論じたことに由來する。ここでは章學誠の 史學の 基礎をなす地方志編修の過程とそこから得られた彼獨自の方志論または方志學について考察することにしたい。 一なおテキストには主として劉氏嘉業堂刊﹃章氏遺書﹄ ︵以下﹃遺書﹄と略稱︶本を使用する。
一
章學誠の生平
章學誠︵一七三八∼一八〇一︶は字を實齋、號を少巖といい、乾隆三年、章 4の長子として浙江省紹興府會稽縣塔 山下に生まれた。 學誠の屬する章氏は、元初以來、浙江省紹興府會稽縣︵現上虞市︶ 山道墟鎭を本貫とし、祖父の代に紹興城内の 南、塔山下の善發 >︵辛弄︶に居を定めたものである 。 上虞市の 山道墟鎭は紹興市の東方一舎の行程、今日では車で二十分ばかりの距離にある湖沼と水田にかこまれた 靜かな集落であり、集落の西北には日本でなら某某富士と呼ばれそうな、すり鉢形の小山、 山がある。章學誠が 山道墟と親しみをこめて呼ぶのは、この山が鎭のシンボルとなっていたのであろう。 章學誠の銘記すべ き祖先は章拱辰 ︵ 字 2︶ である 。 ﹁ 膂力あり兵法に通ず ﹂ とされ 、 元 末 、 郷勇を組織し 、 海 寇 方國珍の侵攻を撃退して郷鎭に安寧をもたらした 。道墟はこの章拱辰以來の故里だったのである。 さて章學誠の、より近い祖先、拱辰十世後の祖父、章如璋︵字君信︶についてみると、如璋は紹興府城内の善發 > に居を構え、候選經 、布政使司の書記となり、文書の出納に從事したが、讀書を好み、なかでも﹃資治通鑑﹄を愛 讀したとされる 。孫の學誠の 史嗜好はこの祖父讓りの ものだったのだろうか 。 父 章 4︵ 字勵堂 、 號驤衢 ︶ は乾隆 七年︵一七四二︶ 、科擧に及第して進士となり、十 六 年、 湖北省應城知縣のポストを得て任官したが 、 二一年には職 を失い、それ以後は應城縣や︵湖北︶天門縣の縣學や書院の主講などに任ぜられて教育に從事し、乾隆三三年冬、こ の地で終焉を迎えている 。 章學誠の地方志編修と方志學 二章學誠の母 、 史氏は紹興府 會稽縣出身の官僚 ︵ 贈朝議大夫潁州知府 ︶ 史義遵の九女として生まれ 、章 4に嫁い で 、 あまり豐かでない章家を守り立てた 。 教養あり經 濟的觀念にも長けていたとされる 。 正しく良妻賢母であっ た。紹興市塔山下の二百年前の章氏の故居も、豪邸ではないが、梁や柱、扉には彫刻が施されており、つつましいな がらも徃事の生活が偲ばれる。 章學誠の學問を語る場合に、無視することのできないのは、章氏の近い親戚、邵氏の存在である。邵晉涵との關係 についてはよく知られているが、忘れてならないのが邵廷采︵一六四八∼一七一一︶である。邵廷采の後母に章氏の 女性が入った ことから、邵氏と章氏は親戚となり、廷采の學問が章氏にも及ぶことになる。 邵廷采は科擧に一度は應じたものの、功名利禄には恬淡であり、一生をこの地の教育︵姚江書院教授︶に捧げた。 そのため名は中央には知られることなく終わったが、多くの門生を育て、浙江地方では高名な陽明學者として尊敬さ れていた 。祖父章如璋、父章 4も廷采の學問を高く評價し、學誠にその學問・學風を學ぶよう薦めたとされる 。 章學誠は、家人に示した﹁家書六﹂ ︵ ﹃遺書﹄巻九︶などを見ると、幼少時には頭痛持ちで記憶力が弱く、一日に百 字程度の文章を憶えるのが精一杯であり、百字憶えた翌日は病氣になった、などと面白おかしく語っているが、いさ さか自身の過去を滑稽に語ったようなところがあり、文面通りに信用することはできない。 彼は少年時代から 史に強い關心を 示 し、 十六歳の時には正課の餘業に 史家の眞似事をし 、 ﹃ 春秋左氏傳 ﹄ ・ ﹃ 國 語﹄や戰國時代の文獻をもとに紀傳體史﹃東周書﹄約百巻を編纂し たという 。 しかし個性的な學習がたたり 、 二 十 三歳︵乾隆二五年︶と二十五歳の時、つづけて順天郷試を受けて失敗したため、科擧及第への捷徑として國子監︵太 學︶に入學した。しかしながら彼自身の記述では、そこでの成績も芳しくなく、四十歳の乾隆四二年まで國子監生活 をつづけることになる。 章學誠の地方志編修への參加は、二十七歳の乾隆二九︵一七六四︶年、當時、湖北省天門縣學主講の父 4が知縣胡 章學誠の地方志編修と方志學 三
翼と﹃天門縣志﹄を編修することになり、學誠にも參加するよう要請したことに始まる。彼は﹁修志十議﹂などを提 出したりして積極的に働いたが 、 その過程で彼自身 、 文章表現力の不足を感じたものら し く 、 翌三十年 、 文壇の大 家、朱 7の門を敲いている 。 そしてそこで文章力を養う一方 、 朱 7の多數の地方志を含む 藏書によって研究するう ち 、 劉知幾の ﹃ 史 通 ﹄ を見つけて熟讀する 。 ﹃ 史通 ﹄ の發見は 彼 の 史學への目を開いたという意味で重要であ る 。また朱 7の紹介で戴震、錢大 ;、洪亮吉、孫星衍、任大椿、王念孫 らの人々と交わるようになる 。 とくに錢大 ;とは、のちに﹃文史通義﹄の草稿の下讀みをしてもらっており、 史學や地方志に關して意見を交換するなど、深 い學問的交流のあったことが知られる 。 この國子監生時代の三二年 、 彼 は ﹃ 國子監志 ﹄ の編修に從事し 、 三八年には和州知事劉長城のも と で ﹃ 和 州 志 ﹄ の編修にたずさわり、翌年、これを完成している。ついで乾隆四二年、永清知縣周震榮に招かれて﹃永清縣志﹄の編 修に着手したが 、 途 中 、 順天郷試を受驗して及第 。 翌四三年には會試にも及第して進士とな り 、 吏部の銓考を待っ た 。 しかし母史氏の喪に遭い任官を見合わせる 。 そして服喪中に身の振り方を反省し 、 以 後 、 官途につくことを諦 め、安定した生活を犠牲にして著述の道を選んだ 。 その後は各地の書院の主講を 任。四六年には︵直隷︶清 書院に職を得、四七年には︵永平︶敬勝書院、四九年 には︵保定︶蓮池書院、五二年には︵歸 ︶文正書院で教鞭をとった。清朝では雍正年間より書院︵公私塾︶の教育 が再評價されて各地に書院が建てられ、民間教育の據點となっていたの で 、 章學誠は書院の教師になって生計を立 て、地方長官の依頼をうけたり巡撫・總督の幕僚になって地方志の編修をし、その學問的な裏づけをすることに一生 を捧げたのである。 その後の地方志の編修についていえば、乾隆四四年﹃永清縣志﹄刊行の後、五四年十月には知亳州裴振の下で﹃亳 州志﹄の編修を始め、翌五五年、これを完成している。さらに五七年には湖廣總督畢 ?のために﹃湖北通志﹄の編修 章學誠の地方志編修と方志學 四
に從事し、五九年に脱稿している︵後述︶ 。 ところで著述﹃文史通義﹄は三七年に、 ﹃校讎 通 義﹄ は四四年に書き始めたことになっているが 、 しかし四六年 、 彼は河南で盗賊に遭い、荷物と著述の一切を失い、以後、著述には副草を作るようになったというから、一部は友人 の保存していたものを回收したにしても、現行の兩書はそれ以後の作品と考えてよいだろう。 學誠が﹃文史通義﹄に結實する論文 を書き始めるのはその二年後 、 乾隆四八年からである 。 この年 、 彼 は ︵ 永 平 ︶ 敬勝書院での學生の受驗休暇を利用し、五經に關する獨自 の見解を文章化した 。 これが ﹁ 詩 教 ﹂ 上下篇である 。こ の年の作品は﹁詩教﹂ ﹁言公﹂上中下しか記録されていないが、 ﹁易教﹂上中下や﹁書教﹂上中下の諸篇も前後して書 かれたと見られる。 ﹁禮教﹂篇も五三年には完成したが、 計畫されていた春秋教はついに文章化されるに至らなかっ た 。注目すべきはこれら某教篇が彼の著作活動に新展開をもたらしたこ とである 。 これら諸篇を示された周永清こ と、周震榮は一讀してその内容を高く評價し 、彼に朱彝尊﹃經 義 考﹄ に對抗して ﹃ 史籍考 ﹄ を執筆するよう提案す る一方で 、 ︵ 河南巡撫 ︶ 畢 ?に彼を紹介したからである 。 そしてこの周震榮の紹介が奏功し 、 學誠は五二年 か ら 畢 ?の援助により ﹃ 史籍考 ﹄ の編修に從事する中で 、 一層精力的に ﹃ 文史通義 ﹄ の諸 論文をも執筆することになる 。 ﹃史籍考﹄の編修がいわば觸媒となり﹃文史通義﹄の内容に飛躍的な發展をもたらしたのである 。 彼はまず五三︵一七八八︶年には﹃校讎通義﹄を校定。翌五四年には﹃文史通義﹄の中核をなす﹁原道﹂上中下、 ﹁原學﹂上中下、 ﹁博約﹂上中下、 ﹁經解﹂上中下、 ﹁史釋﹂ 、 ﹁史注﹂ 、 ﹁習固﹂ 、 ﹁文集﹂ 、 ﹁天喩﹂ 、 ﹁師説﹂ 、 ﹁假年﹂ 、 ﹁ 説 林﹂ 、 ﹁匡謬﹂ 、 ﹁辨似﹂ 、 ﹁朱陸﹂ 、 ﹁知難﹂ 、 ﹁感遇﹂ 、 ﹁感賦﹂などの諸論文を書き上げている 。 そして五五年には畢 ?のために更に ﹃ 續資治通鑑 ﹄ の編修にも從事し 、 五七年にこれを完成した 。 しかし ﹃ 亳 州 志﹄ ・ ﹃湖北通志﹄の編修と並行し、多忙な中で書き上げた﹃史籍考﹄は嘉慶二︵一七九七︶年、スポンサー畢 ?の死 去にあい、未刊に終わることになる 。 章學誠の地方志編修と方志學 五
こうした <況で嘉慶四年、太上皇︵乾隆帝︶の崩御を承け、嘉慶帝が言路を開いたのに應えて彼は經世論六篇﹁上 執政論時務書﹂ 、 ﹁上韓城相公 書﹂三 篇、 ﹁ 上尹楚珍學書 ﹂ 、 ﹁ 與曹定軒侍御論貢擧書 ﹂ を執筆し 、 日 頃 、 胸底に蓄えて いた經世論を開陳している。 かくして思想統制の緩和の下、執筆意欲 をかき立てられたのも束の間 、 翌五年 、 ﹁ 浙東學術 ﹂ を著した頃から視力 が衰え、やがて失明。翌六年十一月、彼は紹興塔山下の自宅で六十四年の生涯を閉じた。
二
地方志の編修
章學誠は少年時代から 史敍述に強い關心を示し、既に十代の後半には自らもいうように兒戲ながら﹃東周書﹄な る紀傳體史を編纂したが、この 史敍述への關心は後の地方志編修につながっていると見ることができる。そして地 方志との關わりは乾隆二九︵一七六四︶年に生じている。學誠は當時、北京で國子監生として受驗勉強にはげむかた わら、清代の撰述に係る地方志、 ﹃江南通 志﹄や﹃ 湖廣通志 ﹄ などを通してその編修方法などを研究していたが 、 同 學の甄松年が二八年 、 ﹃ 文安縣志 ﹄ の編修に從事した時には 、 三通の書簡を送り編修方法に關して助言を試みてい る !。そしてその翌年、今度は學誠自身が﹃天門縣志﹄の編修に 參加することになる 。 彼はそこでは ﹁ 修志十議 ﹂ を 提案したり "、﹁ 天門縣志藝文考序 ﹂ 、 ﹁ 五行考序 ﹂ 、 ﹁ 學校考序 ﹂ の諸篇を執筆して積極的に働いたの で 、 作業は一年 ほどで完了、翌三十年、胡翼の名で刊 行された 。 この方志には 、 章學誠の提案で 、 方志本體のほかに資料集 ﹃ 文 徴 ﹄ が作られ、 ﹃志﹄と並行させていることが注目される #。 章學誠が次にたずさわったのは﹃和州志﹄である。乾隆三八年、章學誠は、當時、師で提督安徽學政の朱 7の推薦 により知州劉長城の下に 赴き方志の編修に從事した 。 ﹃ 和州志 ﹄ 四二巻の編修作業は一年ほどで完了 、 別に資料集 章學誠の地方志編修と方志學 六﹃ 和州文徴 ﹄ 八巻を編修し竝行させようとした $。 しかし學政が朱 7から秦潮に代わると 、 學誠は秦學政と編修方 法 で對立し、ついに刊行されないまま原稿も散佚した %。 學誠が手がけた次なる方志は﹃永清縣志﹄である。詳細は 別稿にゆずる &が 、 この方志で も﹃志﹄ を紀傳體形式で 編纂した。紀・表・圖・書・政略・傳のうち、とくに書を吏戸禮兵刑工の六部構成とし、經世的要請から戸書に大量 の制度史資料を盛りこんだ。しかしこれが著述としての﹃志﹄の構造的均衡を亂す結果となった。 この﹃永清縣志﹄の失敗の反省の上 に立って編修されたのが ﹃ 亳州志 ﹄ である 。 ﹃ 史籍考 ﹄ の編修にはげんでいた 五四年、彼は知亳州裴振に招かれて﹃亳州志﹄の編纂に取りかかり、翌年、これを完成した。この方志では書に收め られていた制度史關係の資料を ﹃ 掌 故 ﹄ としてまと め﹃志﹄ から分離し たところが特徴である 。 その結果 、 ﹃ 掌故 ﹄ と﹃文 徴﹄が﹃志﹄ 本體から獨立し 、 ﹃ 志 ﹄ ﹃ 掌 故 ﹄ ﹃ 文 徴 ﹄ の三部構成になった 。 こ の ﹃ 亳州志 ﹄ は章學誠自身 、 會 心の作と認めるものであった 'が、しかし完成後、知州裴振が轉任となり、刊行されないまま原稿も散逸した。 章學誠が最後に取り組んだのが﹃湖北通志﹄である。彼は當時、湖廣總督畢 ?の幕僚として﹃史籍考﹄と﹃續資治 通鑑﹄の編修に從事していたが、乾隆五七年、畢 ?の命で﹃湖北通志﹄の編修にもたずさわることになった (。 ﹃ 湖北通志 ﹄ は多くの州縣 を統括する統部の通志であり 、 州縣單位のものに比べ 、 その取り扱う領域が極めて廣 い 。 彼はこれまでの州縣志で採用していた項目を捨て 、 大局的見地から項目を立てる統部方志の編修方 針を採用し た。この方志では資料集﹃掌故﹄ ﹃文徴﹄のほかに口碑集﹃叢談﹄を加えたのが特徴である。かくて五九年、 ﹃湖北通 志﹄は章學誠の獨創的な構想の下に三種の資料集をそなえた四部構成の方志として完成した。しかし脱稿の後に予期 せぬ破局が訪れたのである。乾隆五四年から編修が開始されていたところへ畢 ?の要請で學誠が參加し、彼の主導で 編修が進められたことから、既に編修 の過程で摩擦があったようである 。 ﹃ 湖北通志 ﹄ が完成して間もなく 、 畢 ?が 湖北巡撫惠齡に留守を託して入覲するや修志局内の軋轢が顯著にな り )、 ついで邪教案問題により畢 ?が山東巡撫に 章學誠の地方志編修と方志學 七
左遷され、學誠も後楯を失い編修局を去ると、學誠の方志像に納得できなかった人々は完成していた﹃湖北通志﹄を 徹底的に改竄し、その面目を改めてしまったのである。今日では﹃章氏遺書﹄の中に收録されている﹁湖北通志檢存 稿﹂によって彼の主張の大略をうかがい知ることができるのみである。
三
方
志
學
上に見たように、章學誠の學問は 邵廷采の學問を基礎とし 、 方志編纂の中で發展し 、 ﹃ 史籍考 ﹄ 、 ﹃ 續資治通鑑 ﹄ の 編修を通して開華し完成したといってよい *。ここでは主としてその方志に關 する彼の見解について考察することに しよう。 ところで當時の地方志編纂の立場は大別して二派、すなわち方志を地理書と見なすいわゆる地理派と方志を 史書 とするいわゆる 史派に分かれ、外に方志を 史と地理書を兼ねるものとする折衷派、數は少ないが方志を編年體で 著し地方政治の參考書にしようとする立場が並存した +。この中、最も一 般的だったのは地理派であり 、 方志を隋唐 以來の﹃諸州圖經集﹄の趣旨にそって編纂し、篇首に地圖を げ、當該地方の境疆を示し、山川、湖沼、城市、寺觀 を記載し、人物、藝文を敍述し、名勝古蹟を記述するのを基本とした。この形式ではたとえば全國志では唐の﹃元和 郡縣圖志 ﹄ や宋の ﹃ 太平寰宇記 ﹄ 、元・明・清 の﹃大 一 統 志﹄が、 地方志では宋の ﹃ 呉郡圖經續記 ﹄ をはじめとし て 、 當 時 、 千種類以上のものが行われていた 。 その一方で南宋 の范成大 ﹃ 呉郡志 ﹄ や周應合 ﹃ 景定建康志 ﹄ のよう に、地方志の中に人物の傳記を大き く取りこみ 、 全體を 史敍述化したものも著された 。 乾隆初年の ﹃ 江南通志 ﹄ ・ ﹃湖廣通志﹄などはこの流れを汲むものである。 ﹃江南通志﹄などから大きな影響を受けた章學誠は地方志を單なる地 誌あるいは沿革地誌とするような考えには同調できなかった 。 章學誠の地方志編修と方志學 八彼は ﹃ 天門縣志 ﹄ の編修に參加する以前から 、 既 に ﹁ 志は乃ち史の體なり ﹂ と か ﹁ 史志の書は風教に裨すものあ り ﹂ といい 、 方志を 史 敍述と見なす立場をとっていた ,が 、 ﹃ 和州志 ﹄ 、 ﹃ 永清縣志 ﹄ 以 來 、 地方志を紀傳體で著 し、晩年にはもっと明確に、 且つ天下の史あり、一國の史あり、一家の史あり、一人の史あり。傳 <・誌述は一人の史なり。家乘・譜牒は一 家の史なり。部府縣志は一國の史なり。一朝を綜紀するは天下の史なり。 ︵ ﹁州縣請立志科議﹂ ﹃遺書﹄巻十四︶ といい、方志を 史敍述の範疇に屬するものとしてとらえ、國史︵紀傳體史︶との關連を強調したのである。彼は別 に方志、すなわち一國の史を諸侯の 史にも擬えている。彼はこの一國の史と天下の史との關係について次のように もいう。 方州は小なりと雖も、その承奉して施布する所のものは、吏・戸・禮・兵・刑・工、備えざる所なし。これ則ち いわゆる體を具えて微なるものなり。國史はここにおいて取裁すること、方に﹃春秋﹄の百國寶書に藉資せるが 如くせん。 ︵ ﹁方志立三書議﹂ ﹃遺書﹄巻十四︶ と。これによれば、方志の敍述の對象である地方の省・州・縣は、いわば國家のミニチュア版であり、そこには國の 機關は全て備わっている。州縣の史である方志も同様に、國史のミニチュア版であるべきであり、そうであってこそ 國史の資料になりうるのであるという。國史と方志の關係は﹃春秋﹄と百國寶書の關係に擬せられているのである。 この主張は彼の別の表現﹁方志は 國史の要刪たり ﹂ ︵ ﹁ 覆崔荊州書 ﹂ ﹃ 遺書 ﹄ 巻十四 ︶ という言葉と照らし合わせる なら一層明確になるであろう。章學誠は方志をば將來編纂されるであろう國史の一つの資料集として編修し整備しよ うとしていたのである。方志は地方の 史として完結したものであると同時に、將來の國史のための資料集でもなけ ればならなかったのである 。 彼が方志の起源を 、 遠く春秋時代の晉 の﹃乘﹄や 楚 の﹃檮 =﹄、 百國寶書に 求めるの は、このような見解に基づくものである。 章學誠の地方志編修と方志學 九
方志が完結した 史であると同時に、將來の國史の資料集として編まれたものであるとすれば、そしてそれらの著 述性と資料性を徹底的に追求するとすれば、舊來の方志とは異なった形をとらざるを得ないであろう。彼は南宋の周 應合﹃景定建康志﹄の流れを汲む﹃江南通志﹄や﹃湖廣通志﹄の立場を繼承して著述性と資料性を追求し、この兩面 を徹底させようとして模索した結果、到達したのが方志に三書を立てる構想であった。すなわち方志を﹃志﹄と﹃掌 故﹄と﹃文徴﹄の三部構成とすることである。 凡そ一方の文獻を經紀せんと欲すれば、必ず三家の學を立てて始めて以て古人の遺意に通ずべし。紀傳正史の體 に傚って志を作り、律令典例の體に傚って掌故を作り、文選・文苑の體に傚って文徴を作る。三書相い輔けて行 い、一を闕くも不可なり。合して一となすは尤も不可なり。 ︵ ﹁方志立三書議﹂前 ︶ とある 。 ﹃ 志 ﹄ とは紀傳體形式の 史敍述 、 ﹃ 掌故 ﹄ とはその地方の 法 律 ・ 制 度 ・ 慣行に關する資料集 -、﹃ 文 徴﹄と は韻文・散文などの文學作品を文體別に收録・整理したもの。この三書を設けて始めて彼の理想に適った方志になる とするのである。この場合、大事なことは、三書はそれぞれ並存してこそ資料集として價値があるのであって、三書 を合して一つにすることは最も良くないことであるという。それはできるだけ原形に近い形で保存しておくのが資料 としての價値を高めるからである。 なお、章學誠の最後の地方志﹃湖北通志﹄では、この三書の外にもう一つ、 ﹃叢談﹄を設けている。 ﹃叢談﹄は歌謠 ・方言・巷説・異聞など、口頭でその地方に傳わっている資料の聞き取り集で、當時の地方の政治・社會 <況を活冩 するための、瑣末ではあるが、捨て難い資料を收録する篇である。章學誠は最終的には方志を四部構成としたが、そ れぞれ性質の異なる資料をそれぞれ類別して保存しようとしたのである。 では章學誠の理想の方志とは具體的にどのような形をとったのであろうか、あるいはどのような形のものにしよう としたのであろうか。彼の晩年の理想の方志像は、幸い﹃章氏遺書﹄に收録されている﹁湖北通志檢存稿﹂によって 章學誠の地方志編修と方志學 一〇
垣間見ることができる。 ﹃志﹄ 紀︵二篇︶ 皇言紀・皇朝編年紀 圖︵三︶ 方輿圖、沿革圖、水道圖 表︵五︶ 職官表、封建表、選擧表、望族表、人物表 考︵六篇︶ 府縣考、輿地考、食貨考、水利考、藝文考、金石考 政略︵四篇︶ 經濟略、循績略、捍禦略、師儒略 傳︵五三篇︶ 列傳、名臣、郷賢、人物、忠臣、孝子、義士、列女、仙釋等 ﹃掌故﹄ 吏科︵四目︶ 官司員額、官司職掌、員缺繁簡、吏典事宜 戸科︵一九目︶賦役︵上中下︶ 、倉 1、漕運、雜税、牙行、錢法、鹽法等 禮科︵一三目︶祀典、儀注、文 3事宜、學校事宜、書院、頒發書籍、禁書目録等 兵科︵一二目︶將備員額、各營兵丁技藝額數表、武 3儀注、驛站等 刑科︵六目︶ 里甲、囚糧衣食、秋審矜恤、冬春二季巡緝江面督捕事宜等 工科︵一二目︶陵 5祠廟、城工、江防、關 、開採銅鐵礦廠等 ﹃文徴﹄傳記・論説・詩賦・箴銘 ﹃叢談﹄考證・軼事・瑣語・異聞 ﹃湖北通志﹄では﹃志﹄ 、 ﹃掌故﹄ 、 ﹃ 文 徴 ﹄ 、 ﹃ 叢 談﹄の 四 書、 すなわち四部構成の形をとったが 、 この方志の中心に なるのは、いうまでもなく﹃志﹄である。 ﹃志﹄は、紀・圖・表・考・政 略・ 傳から構成される 。 ま ず﹃志﹄に︿紀﹀ を置くのは 史派の傳 統であって 、 方 志一書の經に相當するものである。當該地方に下された詔勅・諭旨・訓辭あるいは施政を恭録して、後の採訪に備え 章學誠の地方志編修と方志學 一一
るものである。 ︿圖﹀は﹁形勢・水利の體、宜し く圖すべし ﹂ といい 、 文字や表などでは明らかにし難い事柄を一目 で把握できるよう圖示したもの。切實有用の目 的で設けられたものである 。 ︿ 表 ﹀ は文字では字數ばかり費やして説 明し難い事柄を一目で理 解できるよう 、 表の形をかりて記載されたもの 。 ︿ 考 ﹀ はいわば制度史に當たるものであ る 。 府縣の建置 ・ 沿 革 、 山 川 、 古 蹟 、 城 池 、 經 濟 ・ 財 政 、 水 利 、 學 藝 、 碑文の收録 、 考證などを論ずる 。 ︿ 政 略 ﹀ は 地方官たちによる當地の經綸に關わることを敍述するもの。經︵世︶濟︵民︶ 、循績︵善政︶ 、防衛、師儒︵教育︶に 關する事柄をまとめて敍述する。 ︿傳﹀ は人物の傳記であるが 、 章學誠は ﹃ 和州志 ﹄ 編修以來 、 列傳の編成には事件 を 中 心にして人物を取り上げる 、 いわゆる紀事本末體の敍述方法を應用している .。﹃ 湖北通志 ﹄ でも例えば明季寇 難傳では複數の人物の傳を通して明末の農民反亂のことを述べ、復社名士傳では同じく明末の黨爭のことを敍述し、 歐魏列傳では、歐陽東風と魏運昌の二人の傳を通して、この地方の水利事業を敍述している。傳に關して特筆すべき は前志列傳を設けていることである。章學誠は史學が滅んだのは史官の傳がなく、家學が滅び史法が傳わらなかった からだとし、儒林傳・文苑傳とともに史官たちの列傳を立てたものである。また彼は﹃和州志﹄以後、闕訪列傳を立 て、記載が簡略で事情の詳らかでない事象や疑わしいが是非を決しかねる資料を保存している。 ﹃掌故﹄は﹃永清縣志﹄では︿書﹀の名で﹃志﹄の中に置かれ、制度史的事象を敍述していたが、 ﹃志﹄の敍述構成 を亂すところから 、 ﹃ 亳州志 ﹄ 以 後 、 ﹃ 志 ﹄ 外に移されたもの 。 ﹃ 永清縣志 ﹄ では經世的内容が盛ら れていたから 、 ﹃志﹄外に移されたとはいえ、重要な位置づけがなされていたといってよい。 ﹃文徴﹄は正しく資料集であり、 ﹃志﹄の敍述の基礎になった諸文獻記録を類別し收録したもの。 ﹃叢談﹄は﹃志﹄ ・ ﹃掌故﹄ ・ ﹃文徴﹄に比べて一段低い位置づけがなされるが、口碑などの聞き取り資料集である。 これらを見れば、彼が資料の重要性を熟知し、その保存に腐心していたことが知られる。 ところで方志には 、 例えば ﹃ 永清縣志 ﹄ 、 ﹃ 和州志 ﹄ 、 ﹃ 湖北通志 ﹄ などのよ う に 、 その對象とする領域に相違があ 章學誠の地方志編修と方志學 一二
り、領域の規模によって四種類に大別される。大は省から府、州、縣に至る諸方志があり、個々に見れば省も二省以 上にまたがるものから、小は縣の下の鎭や郷に至るものまである。章學誠はそれらの區別に關して﹁方志辨體﹂ ︵ ﹃ 遺 書﹄巻十四︶で次のようにいう。 如し統部通志を修めんとすれば、必ず部する所の府州を集めて成す。然れども統部には自ら統部志例あり。但に 諸府州志を集めて通志と稱すべからざるのみならず、亦た統部通志を分析して即ち府州志を散じ爲るべからず。 諸府の志にも又た府志一定の義例あり。既に以て上、通志を分ちて成すべからず、亦た以て下、州縣屬志を合し て成すべからず。苟し通志及び府州縣志、以て互相に分合して書を爲すべくんば、則ち天下亦た安ぞ重見疊出の 綴旒を用いるを爲さんや。 と。統部︵省︶の方志には通志の體例があり、府州縣の方志にも各方志の體例がある。通志は府州縣志を寄せ集めれ ば、直ちに完成するものではなく、府州縣志も通志を分割すれば、それで出來上がるというものでもない。縣志、州 志、府志、通志はそれぞれの分に應じた對象を取り上げ敍述すべきものである。たとえば府州志はその府州段階での 記載内容︵府州賦役全書︶を、州縣志はその下部の、より細々した事象︵州縣賦役全書︶を記載し、統部︵省︶通志 はそれら府州縣のレベルを超えた大局的な敍述 ︵ 湖北十一州賦役の大勢 ・ 沿 革 ・ 利 病 ︶ を受け もつべきであるとす る。 ﹃湖北通志﹄についていえば、 山川 ・ 古 蹟 ・ 陵墓は皆な府縣の領する所の地なり 。 城 池 ・ 壇 廟 ・ 祠宇は 皆なその地の建つる所なり 。 これ則ち 例 、 府州縣志に詳し 。 通 志 、 重複して之を詳にすれば 、 その體を失す 。 茲に その大を擧げてその瑣細を略し 、 各々專志に屬せしむ。 ︵ ﹁通志凡例﹂ ﹃遺書﹄巻二四︶ とある。山川・古蹟・陵墓や城池・壇廟・祠宇のような、府州縣段階で管轄すべき事物については府州縣志に敍述す べきであって、通志が府州縣志の敍述したことを重複してとりあげるべきでない。州縣志、府州志、通志はそれぞれ 章學誠の地方志編修と方志學 一三
獨自の敍述領域があり、應分の對象を守るべきである。細々した事柄は州縣志に、より高次の敍述は府州志に委ね、 大局的な敍述は通志が取り扱うことで、それぞれ相互に役割分擔を決め、それぞれの存在意義を明確にしなければな らないというのである。 章學誠は多年の地方志研究と編修を通して資 料收集の重要性と困難を知悉していた 。 ﹃ 永清縣志 ﹄ の編修では編修 スタッフの資料採集に滿足せず、自らも役所の文書を收集し、民間の資料の採集に出かけるなど、資料の收集に心を 碎いたが、それでも採集資料には滿足できなかった。そして方志の編修に當たって充分な資料が集まらず、集まった 資料にも遺漏の多いのは、これらの資料の採集・收集が、方志の編修に際して一時的に、しかも短時日の間に行われ るからであると考えた。彼が方志の列傳の中に闕訪列傳を設けたのは方志の編纂から漏れた資料を集めて、後の 史 像の再構成に役立てようとしたからである。しかしそのようにして個々の編修者が資料の保存を工夫しても、資料の 缺乏は基本的に解消されることはなかった。資料の收集は日常的・恆常的に、しかも積極的に行わなければ十全を期 しがたい。とすれば、府や州や縣の役所にも、將來の方志編纂に備えて資料收集を擔當する役人と部局とを設けるべ きであるというのが、章學誠の地方 志編纂の經驗からする提案であった 。 彼 は ﹁ 州縣請立志科議 ﹂ ︵ 前 ︶ において ﹃周禮﹄宗伯を引用しながら、自らの主張を開陳している。 周官宗伯の屬を案ずるに、外史、四方の志を掌るとあり、注に晉乘・楚檮 =の類を謂うという。是れ則ち諸侯の 成書なり。成書、豈に藉る所なからんや。蓋し嘗みに之を周制に攷うるに、古人の史事における、未だ嘗て纖悉 に至らずんばあらざるを知る。 とて、周代では司會がその地の 書 契︵文 書︶ ・版 圖︵地 圖︶を 掌 り、 誦訓が方志や土地の風俗のことを報告し 、 小 史 が邦國の志、諸侯の世系のことを明らかにし、訓方が四方の政事・君臣關係・傳説のことを報告し、形方が諸國の領 域・境界のことを正し、山師・川師が山林・川澤の名とその利害を明らかにし、原師が四方の地名と丘陵や濕地など 章學誠の地方志編修と方志學 一四
のことを明らかにし、山川・風俗・物産・人倫のことに至るまで、巨細となく遺漏のないように報告することが制度 化されていた。さればこそ行人が五書︵報告︶を獻じ、職方が圖籍を聚め、大師が詩歌を奏聞すると、社會情勢・民 情が天子の耳にも達することになった。しかるに後世はどうか。三代の制度は既に失われて見る影もない。 州縣の記載、並びに專人の典守するなく、大義は闕如す。間ま好事者流ありて志乘を編輯するも、率ね一時の采 訪に憑り、人多く庸猥にして例として完善なること罕なり。 とて、資料の不備と虚僞歪曲資料の氾濫を指摘、地方志編纂の實情を批判し、その對策として州縣に志科を立て、典 吏の文法に明らかなものを選び、一定の規則に從い、恆常的に資料を收集し、整理し編修させるようにすべきことを 提案した。いわば資料室・資料館のようなものを設け、そこに方志の資料となり得るような文書や報告の冩しを集め ようとしたものである。しかし當時の政府や地方長官に取り上げられることはなかった /。
小
結
以上の考察を通して知りうることは、章學誠の方志學の特色は端的にいって國史の據り所としての地方志の在り方 を論じていることである。彼の方志學が當時の地方志の 史派の立場に立つことは上に見た通りだが、しかし彼の場 合は單に流派からのみ説明できないところがある。 少年期の﹃東周書﹄の編修に始まり、彼の著述が紀傳體史を志向していたこと、また學誠自身の、史官になれなけ れば地方長官の幕僚となって志乘敍述に從事したいとする若年か らの願望 0などを併せ考えれば 、 彼が地方志を 史 敍述として位置づけ、國史と關連性をもたせ、國史の資料的據り所としたことは容易に理解できる。彼の方志學にお けるさまざまな理論も要求も國史の編纂を視野にいれたものだったからである。 章學誠の地方志編修と方志學 一五このようないわば地方志を 史敍述化し、各地の地方志の敍述を資料として國史を編纂しようとする見解には、將 來の國史の編纂において中國全土の局地的な 史事象をも網羅的に盛りこんだ 史像を構成するよう期待していたこ とがうかがえる。從來の朝廷中心の資料、中央政府主體の政府機關の資料に基づく、首都、政府中心の偏った國史で はなく、廣汎な中國世界をカバーする 史敍述を各地の細部にわたる記録から立ち上げるためには正に 史敍述たる 地方志の記録を資料として活用せざるを得ない。彼の 史學が究極的には 史事象のなかに﹁道の迹﹂を探求する學 問であるとすれば、廣汎な 史事象の把握が不可缺になる。方志學を 史學の一環としてとらえる章學誠にはそのよ うな壯大な 史像が構想されていたように思われる。 註 倉修良﹁ ︽中國地方志聯合目録︾地方志種統計表﹂ ︵ ﹃ 方志學通論﹄齊魯書社、一九九〇年︶附表二。 ﹁ 山章氏京師公會簿後序﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻二 一︶に は﹁ 吾族自元初聚族 山、 今五百年矣 ﹂ といい 、 ﹁ 仲賢公三世像記 ﹂ ︵ ﹃ 遺 書﹄巻二八、乾隆六十年作︶には﹁先世自道墟遷居府城、蓋百年矣﹂という。 ﹃會稽 山章氏家乘﹄ ︵以下﹃家乘﹄と略稱︶巻一總系。 ﹁刻太上感應篇書後﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻二九︶には、 先大父君信 先 生 、 惇 行 隱 、 望於郷黨 、 尤嗜史學 。 晩歳閉關卻 9、︵ 中略 ︶ 取司馬通鑑 、 徃復天道人事 、 而於惠迪從逆吉 凶、所以影響之故、津々蓋有味乎其言。 と見える。 ﹁驤衢公像贊并序﹂ ︵ ﹃ 家乘﹄巻五︶および﹁祭章學誠之母史孺人文﹂ ︵ ﹃ 笥河文集﹄巻十六︶ 。 ﹁勅封文林郎湖北孝感縣知縣例晉奉直大夫史府君墓誌銘﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻十六︶ 。 ﹁祭章學誠之母史孺人文﹂ ︵前 ︶。 ﹃ 思復堂文集 ﹄ に は ﹁ 章氏宗社詩序 ﹂ ︵ 巻 六︶や﹁ 丁母章太孺人傳 ﹂ ︵ 巻十 ︶ な ど 、 道墟の章氏や繼母の章氏に ついて觸れた 作品がある。姚名達﹃邵念魯先生廷采年譜﹄ ︵商務印書館、一九二八年︶參照。 章學誠の地方志編修と方志學 一六
唐燮軍・張偉﹁邵廷采史學述略﹂ ︵ ﹃ 寧波大學學報﹄一九九八年第三期︶ 。 ﹁家書三﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻九︶には、 祖父生平極重邵思復文 、 吾實景仰邵氏而 :未能及者也 。 蓋馬班之史 、 韓歐之文 、 程朱之 理 、 陸王之學 、 萃合以成一子之 書 、 自有宋歐曾以還 、 未有若是之立言者也 。 而其名不出於郷黨 、 祖父獨深愛之 。 吾由是定所趨向 。 其討論修飾 、 得 之 於 朱 先生、則後起之功也。而根底則出邵氏、亦庭訓也。 と見える。 ﹁家書六﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻九︶によると、 至吾十五六歳 、 雖 甚 @滯 、 而識趣則不離乎紙筆 、 性情則已近於史學 。 塾課餘暇 、 私取左國諸書 、 分爲紀表 志 傳 、 作東周書 幾及百巻、則兒戲之事、亦近來童子所鮮有者。 という。 ﹁讀道古堂文集﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻十三︶ 。 ﹃史通﹄巻二載言篇の、 愚謂凡爲史者 、 宜於表志之外更立一書 。 若人主之制冊誥令 、 群臣之章表移檄 、 收之紀傳 、 悉入書部 、 題爲制冊 章 表 書 、 以 類區別。 などは章學誠の地方志に﹃文徴﹄を付置する典據となっている。 ﹁候國子司業朱春浦先生書﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻二二︶には、 是以出都以來、頗事著述。斟酌藝林、作爲文史通義。書雖未成、大指已見。辛 先生候牘所録内篇三首、併以附呈。 と見える。 ﹁與家守一書﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻二九︶ 。胡適・姚名達﹃章實齋先生年譜﹄ ︵商務印書館、一九二九年︶乾隆三二・三六年の條。 ﹁庚辛之間亡友列傳﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻十九︶には、 ︵乾隆︶丁酉、擧順天解試、戊戌成進士、歸部待銓、旋丁内憂。時 8永清、撰輯縣志、己亥志成。 といい、また﹁柯先生傳﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻十七︶には、 又 困棘 3、晩登甲第、痛先君子不及見也。自以迂疎、不敢入仕。文墨干人、前後奔走、幾三十年。 と見える。 章學誠の地方志編修と方志學 一七
大久保英子 ﹁ 明清書院の概觀 ﹂ ﹁ 地域別書院概要と分布 ﹂ ︵ ﹃ 明清時代書院の研究 ﹄ 國書刊行會 、 一 九 七 六 年 ︶ 第 一 ・ 二 章 、 とくに六七頁以下および王綱﹁清代四川書院略論﹂ ︵ ﹃ 清史研究﹄一九九一年第一期︶などを參照。 ﹁答周 6谷論課蒙書第二書﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻九︶ 。 王宗炎﹁復章實齋書﹂ ︵ ﹃ 晩聞居士集﹄巻五︶が草稿の中に春秋︵教︶に關する 論文が含まれていないことを訝っているとこ ろからすると、日頃、彼がその執筆に言及していたものと思われる。 ただし詩教篇の一部は震榮を納得させず、彼から批判を受けている︵ ﹁與周永清論文﹂ ﹃遺書﹄巻九︶ 。 ﹁上畢制府書﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄補遺︶には、 學誠始侍鈴轅 、 在丁未之仲冬 、 其端自永清周尹發之 。 周尹見秀水朱氏作經義考 、 未及於史 。 以謂學塗之闕 、 仰知閣下心 羅 二十三史之古、文綜八十一家之奇、而學誠於史學略窺涯 A、可以備鈔胥而佐丹鉛。是以 B縷於閣下、而督學誠以行役。 と見える。羅炳綿﹁史籍考修纂的探討︵上︶ ﹂ ︵ ﹃新亞學報﹄第六巻第一期、一九六四年︶參照。 ﹁與孫淵如書﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻二九︶には、 鄙人比日與洪・凌諸君爲中丞編史籍考、泛覽典籍、亦小有長進、文史通義亦庶可藉是以告成矣。 とある。 舊内藤湖南藏鈔本﹃章氏遺書﹄目録︿庚戌鈔 存﹀ ・ ︿ 庚夏鈔存 ﹀ 、 胡適 ・ 姚名達 ﹃ 章實齋先生年譜 ﹄ ︵ 前 ︶ 乾隆五四年の條を 參照。 畢 ?の死後、章學誠は浙江按察使謝啓昆の後援を得て﹃史籍考﹄の續 修にとりかかったが 、 嘉慶四年 、 謝啓昆が廣西巡撫に 遷ったため、作業は頓挫したことが指摘されている。羅炳綿﹁史籍考修纂的探討︵上︶ ﹂ ︵ 前 ︶參照。 !﹁答甄秀才論修志第一書﹂ ﹁答甄秀才論修志第二書﹂ ﹁與甄秀才論文選義例書﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻十五︶ 。 "﹁修志十議﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻十五︶十議外編および﹁天門縣志藝文考序﹂ ︵同上︶參照。 #﹁答甄秀才論修志第二書﹂ ︵前 ︶では、 近 楚 撫於湖廣通志之外 、 又選三楚文獻録 。 江蘇宋撫聘邵毘陵修明文録外 、 更撰三呉文獻録等集 、 亦佐江南通志之不及 。 僕 淺陋寡聞、未知他省皆是否。然即此一端、亦可類及。 といい、彼自身まだ手探り <態ながら、地方志に資料集を並存することを評價していたことがわかる。 $﹁文徴﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄外編巻十八和州志︶に、 章學誠の地方志編修と方志學 一八
乾 隆 二︵三︶十 九 年、 撰和州志四十二篇 、 編摩既訖 。 因採州中著述 、 有裨文獻 、 若文辭典雅有壯觀瞻者輯 爲奏議二巻 、 徴 述三巻、論著一巻、詩賦二巻、合爲文徴八巻。 と見える。 %﹁方志辨體﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻十四︶によれば、 余嘗修江南直隷和州志 、 具草初成 、 上於學使 、 學使以州轄含山一縣 、 志但詳州而略於縣 、 且多意見不合 、 徃 返 駁 詰 、 志 事 中廢。 と見える。 & 拙稿﹁ ﹃永清縣志﹄編修考﹂ ︵刊行未定︶ 。 '﹁又與永清論文﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻九︶には、 近日撰亳州志、頗有新得、視和州永清之志、一半爲土苴 矣 。 ︵ 中 略︶ 然文獻足徴 、 又較永清爲遠勝矣 。 此志擬之於史 、 當 與 陳范抗行。義例之精、則又文史通義中之最上乘也。 と見える。 (﹁傳記﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻五︶ 。呉天任﹁章實齋編湖北通志的經過及其 檢存稿内容的特色 ﹂ ︵ ﹃ 大陸雜誌 ﹄ 第四九巻第二期 、 一九七四 年︶ 。 ) 陳蔚松﹁章學誠與︽湖北通志︾ ︵ ﹃ 江漢論壇﹄一九八一年第四期︶は滿人惠齡が 復社名士傳の内容が禁忌に觸れることを指摘 したためであるとする。 * 喬治忠﹁章學誠方志學理論的形成和發展﹂ ︵ ﹃ 史學史研究﹄一九八 六年第三期 ︶ 、 ﹁ 章學誠的史學創見與修志實踐的關係 ﹂ ︵ ﹃ 南 開學報﹄一九八八年第四期︶ 。 + 劉光禄﹁ 史上方志的派別・類型和修志主張﹂ ︵ ﹃ 中國地方史志論叢﹄中華書局、一九八四年︶ 。 洪煥椿﹁南宋方志學家的主要成就和方志學的形成﹂ ︵ ﹃ 史學史研究﹄一九八六年第四期︶ 。 ,﹁答甄秀才論修志第一書﹂ ︵前 ︶。 -﹁禮教﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻一︶には、 史志存其綱領、而掌故別具其詳、後史自宜師法其意、庶不至於繁簡失當矣。 とある。 章學誠の地方志編修と方志學 一九
.﹁古文公式﹂ ︵ ﹃ 遺書﹄巻二︶には、 余昔修和州志 、 有乙亥義烈傳 、 專記明末崇禎八年闖賊攻破和州 、 官吏紳民男婦殉難之事 、 用記事本末之例 、 以事爲 經 、 以 人爲緯、詳悉具載。 と見える。 / 倉修良﹁再論章學誠的方志學﹂ ︵ ﹃ 中國地方史志﹄一九八二 年第一期 、 の ち ﹃ 史家史籍史學 ﹄ 山東教育出版社 、 二〇〇〇年 、 所收︶ 0﹁答甄秀才論修志第一書﹂ ︵前 ︶には、 丈夫生不爲史臣、亦當從名公巨 2執筆充書記、而因得論列當世、以文章見用於時、如纂修志乘、亦其中之一事也。 と見える。 ││文學部教授││ 章學誠の地方志編修と方志學 二〇