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台湾新文学における日本プロレタリア文学理論の受容 : 芸術大衆化から社会主義リアリズムへ

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(1)台湾新文学における 日本プロレタリア 文学理論の受容. 一芸術大出化から 社会主義リ. ブ. リ. ズムヘ一 垂水 千恵. [ キーワード ]. 1 .. 台湾新文学、 プロレタリア 文学、 芸術大出化、 社会主義リア リズム. はじめに (1899 一 1958) の「形象化につ ,。 冒頭が「暢達 様 お手紙拝見」に 始. 1935 年 2 月の『台湾文芸』 2 巻 2 号に徳永直. いて」という 一文が掲載されている. まっていることから 判断して、 同文は、 暢達 の 「新聞配達夫」への 徳永 評に 対して暢達 が 反論の私信を 書き、 それに答えた 私信を転載したものであ ろう。 揚陸 の 「新聞配達夫」は 周知のように『文学評論』誌の「第一回応募原稿」 の 入選作として 1934 年 1(U 月に同誌上に 掲載された。 同誌の編集相談役を 務め、. 「第一回応募原稿」の 選者の一人であ った徳永は同号掲載の 選評においては 「この小説は 、 決して上手ではない。 むしろまだ小説にはなってみない」「こ. の小説が大衆のものとなるには、. もつと高い意味での 芸術化、 形象化がなさ. れなければならぬ」と 評している,。しかし一方で、 同年 12 月号の同誌掲載 の 評論「姉四年度に 活躍したプロ 派の新人たち」において. 楊 睦を取り上げた. 時にはにれは 今年度において 殖民地を描いた 文学の 、 しかも殖民地大自身 によってなされた 意味で、 最も意義あ るものであ る」「ぼくらは 殖民地犬田. 身の プロレタリア 文学に対して 決して日本のそれと 同様の程度のイデオロギ ーや技術を要求しない」「 ヘン に日本紳士の 好みに合ふそうに 粉飾され、 去 勢されたのよりも、 むしろ本来の 意味における 芸術性の擁護のためだ」と 述 べている,。 この二つの評には「矛盾」があ るのではないか、 徳永の言 う 「高き形象化とは 何か」というのが 楊 睦の質問の主旨であ ったのだろう。 それに対する 徳永の答えは「諸人物を、. もっとまざまざと ホウフツ させた. い」「構成といふ 点でも、 何となくバラバラな 感じがする」「主人公の 帰 白 あ まり必然的に 感じられない」などとごく. 常識的なものに 過ぎないが、 何故. こうした徳永の 私信が創刊間もない『台湾文芸』に. 掲載されなければならな. かったのだろうか。 果たして徳永とはどのような 人物なのだろうか。. 一 91 一. も.

(2) 本稿は徳永直を 一つの手掛かりとして、. 台湾新文学と・. 日本プロレタリア 文. 学の関係を論じようとする 試みであ る。 徳永と台湾文学との 直接的な関係は 前述の「形象化について」および、. 同年 m2 月の『台湾新文学』創刊号に 掲載. された「台湾の 新文学に所望する 事」、 1942 年 3 月の『文芸台湾』 載された「諸家芳信」の. 3 作のみであ. 3 巻 6 号に掲. る。 特に後の 2 作はその他大勢の 作家と. ともに答えたアンケートに 過ぎず、 それからだけでは 徳永が台湾新文学に 与. えた影響の大きさを 窺えない。 しかし、 「形象化について」の 内容からも見て 取れるよ の 「新聞配達夫」を 掲載した『文学評論』誌の. う. に、 徳永は楊 睦. 中心白9 メンバ一であ る。 さら. に、 「新聞配達夫」と 並んで日柄 右 の「牛車」もまた『文学評論』に 掲載さ れたものであ ったことを鑑みれば、 徳永の台湾新文学に 与えた影響は 浅から ぬものがあ ったことが推察されよ. う. 。. 以下、 『文学評論』創刊双後の 徳永の動きを 追 い つつ、 日本プロレタリア 文学とさ清新文学の 関係を論じて い く。. 2.. 『文学 評. 』の創刊双後の 事情. 『文学評論』は 1934 年 3 月、 プロレタリア 短歌運動の中心的存在であ った 渡辺順姉を「編輯 人 」に、 林房雄、 武田麟太郎、 森山 啓 、 亀井勝一郎、 徳永 直を編集相談役として. 創刊された。 。 しかし、 そのきっかけをつくったのは. 徳永直であ ったことは、 渡辺の自叙伝『烈風のなかを』において. 以下のよう. にはっきりと 語られている ,。 ( 渡辺が検挙されて. 失業したことを. 徳永が心配してくれて、. ). 「ナウ カ 社. の大竹さんに 話して、 何か文学雑誌を 出させようじゃないか。 そして 君 がその編集をすればいい」ということで、. その相談に二人で 社長の大竹. 博 古さんに会いに 行った。 その結果 紋学 評論』という 雑誌を出すこと. になり、 私がその編集者としてナウ こうして創刊された『文学評論』であ 月に日本プロレタリア 作家同盟. カ 社に入ることになった。. ったが、 奇しくもその 創刊の同年同. ( ナルプ ). が解散したことで、 結局『文学 評. 論 』が「ナルプ 解体後のプロレタリア 系文学者の中心的な 拠 , 点 」を提供する ことになるのは 一種の歴史の 皮肉であ ろう。。. 一 92. 一.

(3) というのも後述のように 徳永の文学的主張はたびたびナルプ. 指導者から批. 判されており、 それもあ って徳永と渡辺はナルプ 解散前の 1933 年にはすでに ナルプを脱退していたからであ る。 そして「従来の 作家同盟は政治主義運動 と 文学運動をごっちゃにしていた。 そのために必要以上の 弾圧をうけ、 文学 そのものとして 発展しなかった。 いまこそ過去の 政治主義的偏向を 克服し、 文学運動として 再出発しなければならぬ」という が 『文学評論. コ. であ ったからであ. 決意のもとに 創刊されたの. る,。. こうして創刊された『文学評論』誌であ. るが、 それは一体どのような 雑誌. だったのだろうか。 祖父 江 昭二は「『文学評論』復刻版・ 別冊解説」の 中で. 『文学評論』の 特徴を. 9. 点にまとめている。 以下、 祖父江の指摘を 要約して. おく,。 1. ナルプ. と 男妾との対立を. 止揚しょうとする 編集上の努力が 見られる。. 2. プロレタリア 文学運動に参加していなかった 作家の寄稿があ る。 3. 社会主義リアリズム 論争に誌面を 提供した。. 4. 日本の植民地・ 半植民地の台湾を 含む中国や朝鮮等への 共感的な関心・ 視線を失わずに 関連する文章を 掲載した。 5. 国際的な反ファシズムの 文学者たちの 戦いを追跡・ 紹介する記事を 掲載 した。. 6.. 5 と関連して、 国内における 反 ファシズム文学者の. 結束の反映であ. る. 「独立作家クラブ」への 好意的特集を 組んだ。 7. プロレタリア 文学の段階ではまだ 無名の作家たちや 新しい著作家の 登場 を促す意識的試みがなされた。 8.. 7. と関連して、 「文学通信一村の 生活・町の生活」欄を 設定し 、 「広く読. 者からの寄稿」を 呼びかけた。 9. 島木健作の「 癩 」、 中野重治「イデオロギー. 的 批評を望む」等、. この 期. の 重要な作品を 掲載した。 以上の. 9. 点の特色のうち、 直接 りに台湾新文学に 関係してくるのは 4 の 自. 「日本の植民地・ 半植民地の台湾を 含む中国や朝鮮等への 共感的な関心・ 視 線を失わずに 関連する文章を 掲載した」という 点、 7 および 8 の「プロレタ リア文学の段階ではまだ 無名の作家たちや 新しい著作家の 登場を促す意識的. 一 93 一.

(4) 試みがなされ」その 一環として「「文学通信一村の 生活・町の生活」欄を. 設. 定し 、 広く読者からの 寄稿を呼びかけた」という 点であ る。 暢達 の 「新聞配達夫」が 1 9 3 4 年 4 月の『文学評論』. 1 巻 3 号巻末には. 「本誌の使命であ る進歩的な若い 作家諸君によって 文壇に新しい 空気を導き いれるため」に 企画された「第一回れ 、 説 /詩 /短歌 /戯曲 /論文 /募集」に応募し 、 人選した作品であ ることは広く 知られた事実であ. る. "。. また、 品柄 若の 「牛車」も「創作 欄 の 呂赫若 氏は台湾在住の 全くの新人で あ る。 かつて本誌が 募集小説に揚陸尺 の 「新聞配達夫」が 当選したことが 刺. 我 となって、 俄然台湾文壇の 活躍が目覚ましくなり、 新人作家を紹介し 得たことは、 本誌の大きな 誇ン). ここにまた一人台湾の. と 考へる。. この「牛車」は. 「新聞配達夫」に 優る佳作として 敢へて推薦するものであ る」という『文学 評論』編集部の 推挙によって『文学評論』 1935 年 1 月号に掲載された " 。 さらに呂は「牛車」掲載の 前号の『文学評論』 1934 年 12 月号の「文学通 信一村の生活・ 町の生活」欄に「南国風景」という 一文を投稿した。 残俳な がら締め切り 後の到着であ ったため、 掲載は見送られ、 現在知りえるのはそ のタイトルだけであ るが、 おそらくこの 投稿が翌月の「牛車」掲載に 繋がっ たのであ ろう。 この「 ( 文学通信. ). 村の生活・町の 生活」は 1934 年 9 月号から始まった 新企. 画であ るが、 同欄 初回の末尾には 以下のような 原稿募集の知らせが 書かれて いる。 「村の生活、 町の生活」の 原稿を 、 広く読者諸君から 募集します。 あ. ら. ゆる職場、 農村の中でいろいろな 生活を経験して 居られる人々の 、 生き た生活記録が 知りたいのです。 出来るだけ特異な、 そして地方色の 豊か. な その上、 あ くまでも文学的な 匂ひを 失はないものであ って欲しいの です。 複雑で豊富な、 なまなまし い 現実の姿が、 諸君の筆によって 誌上 に 躍動することを 期待して ゐ ます " 。. ここにはナルプ 崩壊後も粘り 強く大衆との 接点を求めようとする、 自身も 労働者出身であ った徳永の姿勢が 反映している。 こうした姿勢が 台湾新文学 作家たちとの 出会いを生んだわけだが、 それはまたナルプを 中心とした日本 プロレタリア 文学運動において、 徳永が主流にはなり 得なかった要因でもあ. 一 94 一.

(5) った 。. 以下、 時間をナルプ 解散前に戻し、 徳永は日本プロレタリア 文学運動にお いて如何なる 主張を繰り広げ、 それはどのように 受け入れられて 来たか、 と いうことについて 触れてみる。. 3.. 日本プロレタリア. 文学運動における 徳永直の位置. 徳永直が日本プロレタリア 文学運動にはっきりとその 存在を示したのは 1929 年 6 月号の『戦旗凹から 連載を始めた「太陽のない 街」であ る。 共同 印 ( 会社 ). 刷. における「日本労働 史 運動上画期的な 大ストライキ」を 描いた同. 作品は、 同年 11 月には戦旗社から 単行本が刊行され、 「日本プロレタリア 文 学の盛期を代表する」「記俳碑的な 作品」として 日本国内において 評価を受 けたばかりでなく、 1930 年にはドイツ 語版、 32 年にはロシア 語版、 33 年には フランス語版の 翻訳が出版されるなど、 世界的に注目された 作品であ った " 。. 同作品によってまずは 作家として出発した 徳永が、 評論においても 議論を 巻き起こしたのは 1932 年 3 月に発表した「プロレタリア. 文学の一方向一大出. 文学の戦線へ 一 」においてであ る " 。 同文において 徳永は満州事変以降、 、ジオ、 新聞、 雑誌、 映画等の「ブルジョア. 「プロレタリア 全大衆」を「戦場へ」と. ラ. 的文化機関」が「総動員」され、. 駆り立て始めた「ファッショ. 文化の. 強化」への危機感を 強調する。 『キンバ』『講談クラブ』といった「通俗大出 雑誌」において 忠勇美談、 戦争鼓吹の作品が 大量生産され、 それが大衆に 影 響を与えていること。 一方、 ナルプにおいては「プロレタリア 説方面において、 その 力 が著るしく欠如している」のみならず、. 大衆向長編小 それに対し. て 批評家たちの 危機意識が薄いことを 指摘している。 さらにナルプは、 大衆. 的資質を持っていた 所属作家に対して「大出向け 作家の小市民性や 其の他を 、. やっつけることはやったが、 それを育てること」をしなかった、. と批判する。. しかし、 大衆はプロレタリア 大衆小説の出現を 希望しているのであ. 「プロレタリア 的人情」に基づいたプロレタリア. るから、. 大衆小説をつくる 勉強をし、. プロレタリア 大衆作家を正しく 育てて、 ファッショ化の 進む「大出文学の 戦 線」. へ 主力を向けなければならない、. 向一大衆文学の 戦線へ. 一 」の要旨であ. というのが「プロレタリア 文学の一方 る。. ところが徳永のこの 一文は宮本 顕治 、 小林多喜二から「. 批判されることになる。. 一 95 一. 敗コヒ主義」として.

(6) 宮本はその批判文「プロレタリア 文学における 立ち遅れと退却の 克服へ」 の中で、 徳永の主張は「我が 作家同盟で基本的には 一応その誤謬が 指摘され、 そうしたものはプロレタリア 文学のなかにあ り得ないことが 批判されてきた 「プロレタリア 大衆文学論」の 公然たる復活であ. る」として批判している. "。. 「プロレタリア 大衆文学論」は「プロレタリア 文学を高級と 大衆向きと二つ ぼ分けることを 前提とするもの」であ. るが、 「プロレタリア 文学は、 唯物弁. 証 法の世界観に 立脚する文学であ る」ので「形式と 内容とは不可分離の 関係」. にあ り、 従って「一定の 認識内容から 高低二つの形式が 発生」すると 考える のは間違いであ る、 「プロレタリア 文学に、 ブルジョ. ワ. 大衆文学に対立する. 意味でのプロレタリア 大衆文学一高級文学、 大衆文学の区別はあ り得ないこ とは、 「芸術大出化に 関する決議」以来、 基本的には一応明らかにされたこ. とであ る」というのが 宮本の要旨であ る。 この時点では 徳永自身もすぐにその 批判を受け入れて 自己批判 書 文学形式」の 提唱を自己批判する. 「「大出. 一 併せて、 貴司 山 治の所論に触れっ っ一. 」. を書いてしまい、 これ以上の議論の 発展は見られない " 。 現時点から見てみ. れば、 メディアの影響力に 敏感に反応し、 その後の歴史的危険を 予知し 、 警. 鐘を鳴らしたものと 思われる徳永の 一文が、 1932 年の段階では「敗北主義」 と批判され、 自身も自己批判しなければならなかったのは 何故だろうか。 ま た、 宮本の論拠としている「芸術大出化に 関する決議」「唯物弁証法の 世界. 観 」とは一体何だろうか。. 日本プロレタリア. これらの問題を 論じる前提として、 まずはプロレタリア 大衆文学をめぐる 文学運動内での 動きを簡単に 整理しておこ つ、. 4. 「芸術大出化論争」から「唯物弁証法的創作万法」. へ. 1928 年 8 月、 蔵 原 唯 人 が 『戦旗』誌上に「芸術運動当面の 緊急問題」を 発 表したことを 契機に、 ナップ 課題であ った. (全日本無産者芸術連盟. ). 結成時からの 中心的. 芸術大出化の 問題をめぐっての 論争が始まった。 いわゆる「 芸. 術 大衆化論争」であ る。 東京外国語大学ロシア 語科の出身であ り、 ソ連留学 の経験もあ る茂原 は 『戦旗Ⅱ創刊号に「プロレタリア・レアリズムへの 道」 を発表以来、 プロレタリア 文学の創作方法の 理論的リーダ 一であ った。. 「約 2. 年にわたって 続きたこの論争の 開幕を告げた 茂原の「芸術運動当面の 緊急問 題」とは一体どのような 内容であ ったのだろうか。. 一 96. 一.

(7) 当該論文はまず「わが 国のプロレタリア 芸術運動は、 その長い発達の 道程 において今、 一つの重大なるモメントを 経過しっつあ. る よう. に思われるⅡ. 「最近二年間におけるわが 芸術運動は 、 主としてその 組織のための 運動であ った 。 それは一面においては、 小ブルジョア 芸術運動をプロレタリア. 芸術運. 動に転換せしめるための 闘争であ り、 他面においては、 プロレタリアートが その芸術運動を 展開するための 最も合理的な 組織を作り出す 運動であ った。 そしてこの地盤の 上に幾多の分裂と 合同とが行われたのであ る。」という文 章で開始している " 。 これは 1927 年 6 月の日本プロレタリア 芸術連盟の分裂 と 労農芸術家連盟の. さ. 創立 らには同年 11 月の労農芸術家連盟の 分裂と前衛 芸術家同盟の 創立、 といった絶え 間ない分裂を 経てきた日本プロレタリア 文 学運動が、 1928 年 3 月 15 日に起こった 全国的政治弾圧に 対抗する形で 日. 同月. 25. 、 全日本無産者芸術連盟を 結成し、 運動の最盛期を 迎えつつあ ったことを. 指している。 しかし、 蔵 原は組織は「一部完成されるにいたった」ものの、 「一部同志 たち」が「プロレタリア 芸術運動の新しき 段階の意義を 理解し得ず」「我々 の運動を過ぎ 去った段階の 古い殻の中に 閉じ込めよう」としている、 として 塵 地豆. と. 中野重治批判を 行. う. のであ. る. ロレタリア芸術はプロレタリアートの. " 。 厳原はまず廃地を 批判しつつ、 プ. 必要によって 決定されるが、 それを生. み出す技術は 過去の芸術的技術の 蓄積から生み 出されるものであ る、 として 「芸術性 R。 の形式は新しき 内容に決定されたる 過去の形式の 発展としてのみ. 発生する」と 述べる。 さらに中野に 対しては. 「わずかに 三 干、 四千の読者観出一しかも 主として. インテリゲンチャのそれにしか 迎えられていない」「我々の 芸術はさらにさ. らに大衆化されなければならない」が、. それは「大出の 生活を単に客観的に. 描き出した」だけでは 不可能であ ることを強調する。 レーニンが説く「大出. に理解され、 大衆に愛され、 しかも大衆の 感情と意志とを 結合し、 それを高 芸術的形式を 生み出すためには①マルクス 主義的研究②過去において 大衆を捉えた 芸術形式の研究③ソビエト 等のプロレタリア 芸術の研究、 が必 め」 る. 要であ る、 というのが厳原の 論旨であ る。 と同時に、 蔵 原はプロレタリア 芸術の指導機関と、 大衆のアジ・プロの 機 関を分け、 『戦旗』を双者のためのものとすると 同時に、 後者のために 写真、. 漫画、 絵入り物語等を 掲載する大出的給人雑誌の 創刊の必要を 説いている。. 一 97. 一.

(8) この厳原の批判に 対して中野は 再び「問題の 涙. じ 戻しとそれについての. 意. 見」を書いて 反論、 さらに厳原 は 「芸術運動における 左翼清算主義一再びプ ロレタリア芸術運動に 対する中野・ 臨地雨君の所論に 就いて 一 」を、 また 林 房雄が「プロレタリア 大衆文学の問題」を 書いて論争を 繰り広げる " 。 こう. して厳原が提起した 芸術大出化の 方法論に関する 議論は、 プロレアリア 文学 外の作家も加わった「形式主義論争」「芸術的価値論争」と. 波紋は拡げたも. のの、 やがて前述の 宮本論文において 言及されているプロレタリア. 中央委員会発表の「芸術大出化に 1930 年 7 月号の『戦旗. 団. 作家同盟. 関する決議」として、 結実するのであ. る"。. に掲載されたこの 決議の中で強調されているのは. 「芸術大出化の 唯一の目的は、 広汎な労働者及び 農民大衆の中に、 革命的イ デオロギーを 浸透せしめること」であ って、 そのために「最も 適当な形式 こ そが プロレタリア 芸術の形式であ り、 それ以外に大衆的形式の 存在する謂は. れ」はない、 というものであ った。 そしてプロレタリア 文学が描くべき 題材 として以下の. 1. 0 項目を提示し、 芸術大出化に 関するナルプの 運動方針を示. した。 引用してみよう。 1. 前衛の活動を 理解させ、 それへの注目を 呼び起すや. 2.. 社会民主主義の 本質のあ らゆる方面ょりする 暴露。. 3. プロレタリアヒロイズムの 正当なる現実化。. 4.. 謂 ゆる マッ センストライキを 描いた作品。. り 5. 大工場内の反対派、 刷新同盟組織を 描いたもの。. 6.. 農民闘争の現実を 労働者の闘争に 結びつけねばならぬことを. う. な作品。. よ. く. ゎ. からせるもの。 Ⅰ. 農民、 漁民等の大衆的闘争の 意義を明らかにするや. 8.. ブルジョア政治・ 経済過程の諸現象. ウ. ( 例へば. う. な作品。. 、 恐慌、 軍縮会議、 産. 業合理化、 金解禁、 保安警察拡張、 買 勲 事件、 私鉄疑獄等 ) をマル クス主義的に 把握し、 それとプロレタリアートの 闘争を結びつけた Ⅰや. 9. 1 0. R",. 戦争、 反 xx. 反 xxxx. の闘争を内容とするもの。. .小面民地プロレタリアートと 国内プロレタリアートとの 連帯を明らか にするそうな 作 R。 、 プロレタリアートの 国際的連帯心を 呼び起すや う. な作品。. 一 98 一.

(9) しかし、 この決議はこの. ょう. に題材については 明確な方針を 示したものの、. 作品化に際する 方法論に関しては「これのみが あ ると ぃふ. 唯一のプロレタリア 的形式で. が如く、 形式を単一の 型に限定することはできない」というもの. であ った。 その結果「従来の 文壇文学そのままの 枠のなかに共産党員と 女闘 士を登場させ、. あ. とは恋愛とストライキとスローガンの. 絶叫に終わる 無数の. 作品」が生まれるに 到る " 。 それに危機感を 覚えた 蔵 原惟 人は再び「芸術的. 方法に就いての 感想」を発表する。 同文の中で 蔵 掠 は「唯物弁証法的認識」 による「主題の 積極性」を強調、 この尺度で次々とプロレタリア 文学作品を 姐 上に載せていくのだが、 そこで批判の 対象となった 作品の一つが 徳永の 「「赤い. 恋 」以上」であ った " 。 厳原 は 「「階級的必要」とか「階級的義務」と. かいうものは、 個人的な幸福に 対立し、 それを破壊する 或るものではなくて 愛 より強き 力 」であ 愛 より大きな幸福」であ るということが 描き出さ れなければならない」のに 徳永たちは「「愛情の 問題」を、 それだけ引き 離 り. 「. 「. して作品の中心的主題とすることによって、. 主題の積極性を 喪失」. し、. 「. 小. ブルジョア的見地への 若しい後退」を 見せた、 と「「赤い 恋 」以上」を批判 している。 さらに茂原は 徳永の「戦列への 道」は「現実の 中における必然と. 偶然とをはっきり 見てそれを描くかわりに、. ただ現実の表面だけを 撫でまわ. しているか、 もしくは頭の 中で勝手に現実を 歪曲しているか」であ るため. 「現実性を失って 捕え物」になっている、. と批判するばかりでなく、 徳永の. 代表作「太陽のない 街」に対してすら「個々のストライキや. 小作争議に付随. した偶然な出来事が、 何等整理なしに 描かれていて、 我々はそこから 時代の 本質をつかむことも、. また闘争に対する 作者の批判を 聞くこともできない」. と 批判したのだった " 。. こうした厳原 惟 人の徳永批判を 念頭において、 再び徳永の「プロレタリア 文学の一方向一大出文学の. 戦線へ. 一 」を読むならば、. 徳永の言う. 「大出向け. 作家の小市民性や 其の他を、 やっつけることはやったが、 それを育てること」 をしなかった、 という批判も 納得が行くであ ろう。 つまり「プロレダリア 文学の一方向一大出文学の. 戦線へ. 一 」の中で徳永が. 訴えたかったのは、 蔵 原の代表されるプロレタリア 作家同盟の方針が「「階 級闘争」や「階級的観点」についての に 、 メディアを通じてのファシズムの. 狭い機械論的な 要請」になっている. 間. 文化支配が進むことへの 批判であ った " 。. 一 99 一.

(10) 一方、 それに対する 宮本の徳永批判が、 プロレタリア 作家同盟中央委員会 発表の「芸術大出化に 関する決議」、 およびそれを 補完する茂原 惟 人の「芸 術的方法に就いての 感想」における「唯物弁証法的創作方法」というプロレ タリア作家同盟の 指導部の方針に 沿ったものであ ることも納得が 行くであ. ろ. つ 。. 5,. プロレタリア. 作家同盟の解散と 徳永直. 結果 りに見れば非常に 重要であ ったはずの徳永の 問題提起が、 批判を受け、 自. また徳永自身もすぐにその 批判を受け入れて 自己批判 書 の提唱を自己批判する. 一 併せて、. 「「大出文学形式」. 貴司 山 治の所論に触れつつ 一 」を書いてし. まったことは 前述の通りであ る。 プロレタリア 作家同盟は 1932 年 2 月に国際 革命作家同盟に 正式加入、 略称を NALPF. とするなど、 まだまだその 影響力が. 健在であ ったということかもしれない。 しかし、. 4. 月には 茂 原 惟人 が逮捕され、その後ますます「文学、 芸術分野の. プロレタリアートの 政治白 9 課題への結合という 政治の優位性」. (宮本題. 治 ) ,,が. 強調される一方で、 思想的弾圧は 強まり、 1933 年 2 月には小林多喜二が 獄中. にて拷問死し、 6 月には獄中にあ った共産党最高幹部の 佐野学と銅山貞観が 共同転向生命を 発表する。 こうした状況の 中で、 徳永は 1933 年 9 月、 再び沈 黙を破って「創作方法上の 新転換」を発表する。 同文の中で、 徳永は キ ルポーチンの 社会主義リアリズム 論を援用しつつ、 蔵 原が提唱し、 ナルプの指導理論であ った「唯物弁証法的創作方法」を「機 械的であ り観念的であ った」と批判する " 。 「イデオロギー 官僚的支配に. 白. 9 立場を強要し、. 作家をくくりつけるなら、 作品は「ビラ」のようになり、 作家. は大衆からまったく 孤立するであ. ろう」「 ( 唯物弁証法白 9 創作方法はⅠ事態を. 単純化し、 芸術的創作とイデオロギー 上の企図との 複雑な関係、 作家と彼自 身の階級の世界観との 複雑な依存関係を、 抽象的な、 自動的に作用する 法則 へと化し去る」「芸術の 複雑性を単純化してはならぬ」と 言った批判が 続い た 後で、. 「今日もなお 新しい大衆の「生活に 学ん」で ゆ かねばならぬ。 無限 に豊富な現実を 正しく反映しえてこそ、 主題の積極性も 生きてくるのだ」 「文学批評の 官僚的支配を 蹴って、 のびのびと、 自由に、 ぼくらは大いに 創 作しょうではないか」と 徳永は結論付けている。. 結局、. この徳永の「創作方法上の 新転換」は後世「ナルプ 解体の一つのき. 一 100 一.

(11) っ かけをつくった 文章」とも言われるほどの. 影響力を持つに 到るのだが、 何. 故であ ろうか " 。 それは厳原が 提唱し、 ナルプの指導理論であ. 証法的創作方法」の「機械的」. な. った「唯物弁. 「文学批評の 官僚的支配」に 作家たちがう. んざりしていたこと、 さらに徳永が. 自 論の理論的バックボーンとして. キ ルポ. ーチンの「社会主義リアリズム」論を 援用したためであ ろう。 実のところ 1932 年 10 月、 ソヴィエト作家同盟第 1 回組織委員会総会において・ V去的. 創作万法は正しくないので、. 唯物弁証. それに代わる 社会主義リアリズムが 必要で. あ ると主張されたことが、 33 年 2 月号の『プロレタリア 文学』に上田遊によ って紹介されていたからであ. る. "0 さらに同年 4 月に創刊された『文化集団』. 誌において、 ソ連におけるこの 新しい理論が 精力的に紹介され 始めていた。 こうした背景のもと 書かれたのが「創作方法上の. 新転換」であ ったが、 同. 丈 による徳永の 提案はまたもやナルプ 指導部によって「 撹乱 音的態度」とし 頁 て否定され、 結局徳永はナルプを 脱退する。 そして翌年 3 月に歌人の渡辺 /ll. 三 とともに創刊したのが『文学評論』誌であ. った。 前述した「従来の 作家同. 盟は政治主義運動と 文学運動をごっちゃにしていた。 そのために必要以上の 弾圧をうけ、 文学そのものとして 発展しなかった。 いまこそ過去の 政治主義 的 偏向を克服し、. いう『文学評論. コ. 文学運動として 再出発しなければならぬ」. は度辺 順三 ). と. 創刊の目的には 以上のような 背景があ ったのであ る,。 。. しかし、 ナルプ自身、 もはや建て直しを 図ることを放棄、 奇しくも『文学 評論. 凹. 創刊と同じ 1934 年 3 月に解散し、 結局『文学評論』が「ナルプ 解体後. の プロレタリア 系文学者の中心. 自. りな拠点」を 提供することになるのは 歴史の. 皮肉であ ろ 、つ 6. 台湾新文学における 社会主義リアリズムの 受容 さて、 周知のように 1934 年 5 月 6 日、 台中市の西湖 伽腓館 2 階において第. 1回. 台湾全島文芸大会が 開かれた。 合計 82 名が参加したというこの 大会の様子の 一部は、 『台湾文芸』 2 巻 1 号に掲載された「第 1 回台湾全島文芸大会記録」に よってうかがい 知ることができる " 。. うち、 準備委員会. ( 篭委会 ). によって提案された. 「文芸大出化 案 」が含まれている。 前掲の「第. 1. 7 項目の提案の. 一つぼは. 回台湾全島文芸大会記録」. にょ れば、 「文芸大出化 案 」は「台湾義務教育 猶未 普及、 一般大衆智識 尚低 、. 作品 興 読者官立花不即不離 Z 間万能普遍」との 理由で提案され、 その方法と. 一. 10. Ⅰ. 一.

(12) しては「 一 、 描写 興 大衆生活 有 密接関係文作品. 者容易理解程度. 一 、 文体異文字互用一般 読. 一、 対一般大衆 喚醒他澗 曲芸術趣味」の 3 点が提案され 満. 場一致で可決されている。 。. またこの記録を 掲載した『台湾文芸』 的誤謬. 一 確立大出化白. 2巻. 1 号は同時に 林 克夫の「清算過去. 9 根本問題」を 掲載している " 。 林は前日の文芸連盟 結. 成 大会における 決議で最も重要な 問題は文芸大衆化の 問題であ る、 としなが ら、 関 欣造 個 問題、 過去日本内地数年双栽 把這個 問題化 了 」「当時所収的効 果胡地不壊」だったと 述べている。 「. 林の言説から 台湾文芸連盟が 日本における 芸術大出化をめぐる 動きを把握 していたことはわかるが、 しかし、 これまで概観してきたようにナルプは 同 年 3 月にはすでに 解散しており、 関心は社会主義リアリズムに 移っていたの であ る。. 周知のように、 ナルプおよび 中国左翼作家連盟. (九通 ). の動きと関連しな. がら 1930 一 32 年に台湾において 行われた郷土文学論争においても、 化は重要な要素であ. った " 。 郷土文学論争における. 文芸大衆. 台湾訴文の提唱者であ. っ. た黄石輝は最初の 論文「 焦様 不提唱郷土文学」において 文芸大衆化の 方策と しての台湾請文を 提唱している。 この論文が掲載された『仕人 報 』は、 台湾 共産党員であ った正方 得 が全日本無産者芸術連盟 (NAPF). との連絡 下 に創. 刊した雑誌であ り、 おそらくは日本における 芸術大出化議論に 喚起された 形 で、 この提案がなされたであ ろうことは想像に 難くない。 しかし、 松永正義. が「黄石輝の 議論の方向は、 同時期の日本、 中国におけるどの 議論とも似て いない」、 むしろにの論文の 約 2 年後に発表され、 中国における 文芸大衆化. 論争再燃のきっかけとなった、. 崔 秋口「 普 浩大衆文芸的現実問題」にこそ. 呼. 応するもの」であ る、 と指摘するように、 議論の中心は 文芸大衆化の 方策と しての台湾訴文の 提唱に進んでいったのであ. る,。 。. その後台湾詩文提唱派と 中国白話 文 提唱派の論争が 起こり、 言語改革の方 法を焦点として 争われた郷土文学論争であ. ったが、 明確な決着を 見なかった. ことはすでに 諸家の指摘する 通りであ り、 冒頭に触れた「満場一致で 可決」 されたとされる 第 1 回台湾全島文芸大会における「文芸大出化 案 」において も、 一 、 文体異文字官用一般読者容易理解程度」とはあ るものの、 その 言 「. 語 が何であ るかは言及されていない。. とすれば、 このナルプ解散後の 1934 年. 5 月において、 どのような形で「文芸大出化 案 」は議論されたのだろうか。. 一 102 一.

(13) その詳細を知るために、. さらに林の「清算過去的誤謬. 一 確立大出化的根本問. 題」の内容を 読んでみよう。 林は「当時所収的効果 却地 不壊」だった「文芸大出化」だが、. その後「 那. 一般破廉恥的作家、 也就把 過去時代的遺物、 通俗化 起 来、 也 要点目視 珠 」し たとする。 しかし、 大衆が「要求自己的文化、 自己的芸術、 自己的文学」す ることによって「発生的 普 羅文学、 オ是 真正的大衆文芸」であ ると説く。 だ が 、 過去においては「文芸大出化. ロ斗 侍食 烈 、 市大出離間文芸無遠」といっ. た失敗が繰り 返された。 それを立て直し「 重 新確立大出化的根本問題」する ため、 林は 1. .. 智識分子が工 農 大衆生活を芸術化し、 文芸作品化すること. 2. 工農 大衆的通信欄を 設置し、 各地方の生活状態を 機関誌に掲載すること 3. 拙 文芸大衆化拡大船工 農 兄弟. の 3 点を主張している。. ここで注目したいのは 林が提案している、. 「. 2 . 工農 大衆的通信欄を 設置. し、 各地方の生活状態を 機関誌に掲載すること」との 3 ケ 月前の 1934 年 9 月から『文学評論』誌において の 生活・町の生活」企画を 『文学評論』. 主張が、 ちょうどその. 始まった「. ( 文学通信 ). 村. 髪 髭 とさせるからであ る。 前述の如く、 日航 若は. 1934 年 12 月号の「文学通信一村の. 生活・町の生活」欄に「南国. 風景」という 一文を投稿している。 つまり、 林 および台湾文芸連盟は「文芸大出化」という. 郷土文学論争初期. の用語を使うことによって 台湾新文学運動の 一貫性を保ちつつも、 その実態 通じて社会主義リアリズムの. においてはすでに『文学評論』を. 受容へと移行し. つつあ った日本の動きを 把握していたのではないかと 考えられるのであ る。。 さらに『台湾文芸』. 2 巻 2 号には暢達 が 「芸術は大出のものであ る」を発表、. その中で「現在、 我が台湾文壇にとっては、. 中国文壇よりも、 日本文壇との. 関係がより密接であ る。 我が台湾文壇を 知る為には 先づ 、 日本文壇を知らぬ. ばならぬ。 我々の進路を 定める為には、 日本文壇の動向を 注視せ #aばならぬ」 と力説している " 。 さらに日本文壇において「プロ. を創設. ( 文化集団. 及 文学評論. 至上主義の捕虜にされんとする. ). 派が自分の ヂャ ナリズム. しながら」「階級的に 文学を見ずして、 芸術 現象は悲しむべきであ. り、 徳永直 氏外 少人数. が、 その間に放いて、 本来の意味に 於ける芸術擁護の 為に苦闘されてゐる 様 は、 悲壮なものであ る」と徳永の 健闘を称えている。 冒頭で言及した 徳永直 の 「形象化について」が 掲載されたのもこの『台湾文芸』. さらに同号掲載の 都天雷「創作万法に 対する断想」には. 一 103 一. 2 巻 2 号であ る。 よ. り具体的な言及.

(14) が 見られる " 。 邦夫 留. ( 劉捷 ). は『文学評論』における. 徳永直や森山啓の 言. 説に言及しつつ、 1. 社会主義リアリズムを 創作方法とすること 、ジョア文学論の 批判的摂取. 2. ブル. 3 . 公式主義を廃し 現実を重視すること. 大衆に理解される 形式をとること. 4 .. 5. 郷土文学の形式を 取り入れること. の 5 点を台湾文学における 創作方法として 挙げている。. おそらくこの「創作方法に 対する断想」が 台湾新文学における 社会主義 アリズムへのいち 早い直接的言及であ ろう。 もっとも邦夫 留 唯物弁証法的世界観を 把握し社会主義リアリズムをその ( リアリズムの. (劉捷 ). リ. は「 1.. 創作方法とすること. 中のロマンチシズム、 否定的リアリズム、 立体的リアリズム. については他日に 譲りたい ) 」としており、 そもそも社会主義リアリズムが 唯物弁証法に 代わるものとして ソ 同盟共産党中央委員会によって. 提唱された. 経緯については 正確に把握していない " 。 しかし、 この時期の日本プロレタ. 議論の交 錯する「社会主義リアリズム 論争」が繰り 広げられていたのであ り、 社会主 義 リアリズムと 唯物弁証法を 敢えて対立的に 捉えないという 立場の論者もい リア文壇においては『文学評論』誌を. たのだから、 邦夫 留. ( 劉捷 ). 中心的舞台としてさまざまな. を批判することはできまい. " 。 むしろその多岐. にわたる論争に 対して果敢に 取り組み、 その台湾文学への 導入を図ろうとし た意気を評価すべきであ. ろう。 また、 これまで揚陸 の 「新聞配達夫」、 日航. 苦め 「牛車」の掲載 託 としての観点からしか 論じられてこなかった『文学. 評. 論 』誌が 、 実は社会主義リアリズムという 新しいプロレタリア 文学理論の受 容 という点でも 台湾新文学に 広く影響を与えていたという 事実にこそ注目す べきであ ろ. 7. まとめ 以上、 徳永直を手掛かりとしっ つ 、 徳永が社会主義リアリズムを. 標傍 して. 『文学評論』誌を 創刊するまでの 経緯、 さらには台湾新文学における『文学 評論』誌を経由しての プ ロ レタリア文学理論の 受容について 論じてきた。 最後に、 では『文学評論』誌を 経由した社会主義リアリズムの 受容は果た して台湾新文学においてどのような. 作品を生み出したのか、. という点につい. て 呂赫 若を例に挙げっ つ 問題提起をして 本稿を終わりたい。. 日航 若が. 『台湾文芸』. 3. 巻. 2. 巻 6 号掲載の「文学雑感一二つの. 号に発表した 評論「詩についての 感想」、 空気」および. 一 104. 一. 3. 巻. 7. .. 3. 8 号掲載の「文学 雑.

(15) 盛一古い新しいこと」が 実は「文学雑感」という 一篇の評論であ ること、 さ らにはその大部分が 森 m 啓の『芸術上のリアリズムと 唯物論哲学』と『文学論. コ. め 切り貼りで構成されていることについてはすでに 別稿で 指摘してきた。。 。. 『芸術上のレアリズムと 哲学上の唯物論』は から、 『文学論』は. 1 9. 3. 5. 年. 5. 1 9 3 3. 年. 1 1. 月に文化集団社. 月に三笠書房から 出版されたものであ る。. 「文化集団」は 前述のようにいち 早く社会主義リアリズムの 導入に乗り出し たグループであ り、 そして森山啓は 前述の都太笛論文にも 言及があ るが、 社 会主義リアリズム 論争の中心的論客であ った。 森山の社会主義リアリズム. 論 は 「可能なかぎりの 広義の解釈によって、 客観的リアリズムの 歴史的正統性 を示し、 逆に 、 ひろまりつつあ る主観主義一般の 非政治的偏向を 抑制する」. 点に最大の目標を 置いており、 ナルプ解散後、 旧 指導部の政治主義に 対す る 批判」が「左翼リアリズム 一般への批判としてひろが」 る 中で、 森山は 「. 「リアリズム 本来の社会的な 目的意識」を 考慮しっ っ も、 「目的意識を 適度に. 抑制する文学表現への 具体的な配慮」を 見せ、 「作家および. 作中人物の『 人. 間 』の教条白 9 政治主義からの 解放を意味した」と 評価されている。 。. 「文学雑感」は 呂が非常によく 森山の言説を 理解し、 適用していることを 示しており、 台湾における 社会主義リアリズムの 受容について 論じる際の、 貴重な文献として 重要な意味を 持っであ ろう。 では、 呂はこうした 社会主義リアリズムの 受容を実作においてどのように 生かしたのであ ろうか。 それを解く鍵は「行末の 記 一 或る小さな記録」、. 「女. の場合」の 雨 作品の評価にあ ると考える " 。 これらの作品に 共通する特徴は. デビュ一作「牛車」に 明確に描かれていた 植民地統治に 伴う社会構造の 変化へ の 批判意識が見られない、. という点、 花柳界の女性を 主人公としているとい う点であ る。 この 雨 作品は同時代の 評論家であ る藤野雄士から「この 頃 はた だ退歩している」「こんなことは 文学にとってはこの 上ない不誠実な 態度だ と思、う 」という牝牛Ⅱを 受けるほど、 かっての自作品とは 趣の異なるものであ った 430. しかし、 これらを武田麟太郎の「市井 事 もの」の台湾におけるヴァリ エー 、ンョンと 見ることはできないだろうか。. やはり『文学評論』誌の 編集相談役. の一人であ った武田は「暴力」「反逆の 呂律」などのプロレタリア. 文学作品. の 執筆を経て、 1932 年頃 から浅草の庶民や 水商売の女などを 描いた「市井 事. もの」と呼ばれる 風俗小説を多く 手がける 26 になる。. 一 105 一.

(16) 『文学評論』創刊号に 掲載された評論「創作理論に 関する時評」において、 森 m 啓は「プロレタリア 作家運 が 、 社会主義的リアリズムの 問題に注意を 集 めたのは、 同一の型の造花を づ くるためではなく、 同一の方向を 持っが多様 で 自由な道における、 開花を促すためであ った」としつつ、 武田麟太郎の 「市井 事 第三篇」を論じている " 。 その中で森 m は武田に対しては「もはやプ. ロレタリア作家たることを 完全に 文 公然と止めてしまった」「もはや 階級闘 争の現実から 眼を避けて、 小ブルジョア 生活者の消極的な、 発展性のない ,性 格だけを描くことによって 社会全体の進行に 何ら展望をあ たへてゐない」と い. う. 批判があ るが、 それは「あ まり単純に片付けてゐる」見方であ. る。 武田. の「現実に対する 態度は決して 淡 じものではない」「 ( 武田作品に描かれた 人 物は ) われわれが現代の 社会で遭遇する 無数の、 俗悪にされた、 出口のな い 小市民生活の 実相を赤裸のままで 演じて見せてゐる」「作者はこれらの. 人間. 達にみじめな 空想や欲望やかけ きひ を与へてゐるその 生活の真実の 船底が、 社会全体の生きた 流れの中に浸ってゐることを. 見抜」いていると 評価すると. 同時に 、 「プロレタリア 文学における 創作理論は現代の 諸生活の真相を 容赦. なく描かうとするあ らゆる作家を 支持し導き得るものでなければならぬ」と している。 森 m 啓の社会主義リアリズムの. 捉え方に沿えば、 武田麟太郎の 描. く風俗小説すらもプロレタリア 文学の範時に 入る、 ということであ ろう。. 実際武田は 1936 年 3 月に『人民文庫』を 創刊、 (1) 官製、体制協力的文学 運動への挑戦、 (2) 散文精神の確立一リアリズムの 正統的発展、 (3) 人民 大衆のための 小説の創作」に 目的をおいた 活動によって、 後年、 「その伴っ 「. たさまざまな 弱点にもかかわらず、 現代文学の分岐点において 明らかに文学 的な抵抗の道をえらひとり、. まさにその立場からの. 帝Ⅱ乍 上の多様な試みと. 達. 成」を残したとして 評価されている。, 。 さらに武田を 中心とする旧人民文庫. 派の作家と張 文 環を始めとするⅡ台湾文学. コ. コ. 派の作家の間に 繋がりがあ った. ことは 柳 青翠、 垂水干 恵 、 張文 薫などによって 論じられてきた 点でもあ. る" 。. つまり、 台湾人作家たちは 徳永直、 森山 啓 、 そして武田麟太郎といった ナ ルプ解散期の 日本プロレタリア 文学運動の再建を 担った『文学評論』誌の 作 家たちと複数の 接点を持ちつつ、 1930 年代から 1940 年代へと台湾新文学運動 を継承していったのであ. る。 これまで揚陸 の 「新聞配達夫」、 日航 君 の「 牛. 車 」の掲載 誌 として以上は 論じられてこなかった『文学評論』誌であ るが、 今後はより深く 内容に踏み込んで 論じることによって、 より 詳 木田な台湾 斯 文. 一 106 一.

(17) 学 と日本プロレタリア 文学運動の関係が 明らかになってくるであ ろう。 また、 日本プロレタリア 文学運動がソ 連を中心とする 世界のプロレタリア 文学運動 と無縁ではなかった 以上、 その両者の関係を 明らかにすることは 世界文学に おける台湾新文学の 位置づけを再定義することにも. 繋がるのであ る。 今回一. つの手掛かりとして 提起した社会主義リアリズムの. 日本一台湾の 受容の問題. を契機に、 今後、 台湾文学と世界文学の 同時性をめぐる 研究が. よ. り活発化し. ていくことを 強く期待したい " 。. ,. 徳永直「形象化について」『台湾文芸』 2 巻 2 号、 1935.2 、 pp.13-14. ,. 徳永直「人選小説「新聞配達夫」について」『文学評論. 凹. 1 巻 8 号、 1934.10 、. p.198 ,. 徳永直「姉四年度に 活動したプロ 派の新人達」『文学評論』. 1 巻 10 号、. 1934.12 、 pp.13-21, なお「新聞配達夫」に 関する日本側の 評については 張季琳 『台湾プロレタリア 文学の誕生一場 睦 と「大日本帝国」 大学大学院人文社会系研究科博士論文ライブラリー、 。. 「編輯後記」『文学評論. J. -. 』東京. 2001 に詳しい。. 1 巻 1 号、 1934.3 、 p.143. 。. 渡辺順姉『烈風の 中を』東京 : 東邦出版社、 1971 、 p.159.. 。. 曽根 博義 「戦双・戦後の 文学一昭和. 8. 年から敗戦まで」『昭和文学全集. 別巻』東京 : 小学館、 1990 、 p.370. ,. 前掲渡辺順姉『烈風の. ,. 祖父 江 昭二『「文学評論」復刻版・. 『文学評論 d 月. ・。. 1. 巻. 『文学評論』. 1. 3. 中を』. p.159.. 号、 1934.4 巻末 頁 。 さらに「新聞配達夫」は 同年. 巻. 8. 1. 0. 号に掲載された。. 渡辺順姉「編集後記」『文学評論 『文学評論』. 別冊解説』ナ ウカ社 、 1984 、 pp.5%. d. 2 巻 1 号、 1935.1 、 p.194.. 1 巻 10 号、 1934.12 、 p.90 。 この記載については. 下村作次郎. 『文学で読む 台湾』東京 : 田畑書店、 1994 、 p.l5. が早くから指摘してい た。 詳細は垂水千恵『 呂赫若 研究』東京. :. 風間書房、 2002 、 pp.66-68参. , . '" 、、 0 日 ロ. ". 「. ( 文学通信 ). 村の生活・町の 生活」『文学評論』. 35. 一. 107. 一. 1 巻 7 号、 1934.9 、 pp.25-.

(18) 3. 天. 織矧 ﹂人 題 惟 問 原 04 面 当集 lp. 斤. レ顕 所レに ロ0 、 a。原6 旗 ﹄ 刀用0 に1 版治家 % 蔵 , ロ 木 の ロ ㏄ 戦 俺ツ弓即 l8 プ ゥ フ︵ 呂治 2 日 宮 リ 日 ﹂ ﹁ 社 タ " 斤 未 英 甲吉掌篇 5レ 円 五さ 京菜ロ 刊山 本 巻 よ 隠新 -し @ ﹂9 @@ 一学 文 お 9 第 ア 人 リ 准. 判は Ⅰ Oり ll 3. 08.

(19) 同盟の「機械主義的傾向」の 弊害については 戦後さまざ な 批判が発表さ れたが、 ここでは当時蔵 尿路線を支持していた 宮本自身の反省の 言を引 用した。 ,,. 前掲宮本題 治. ,。. 徳永直「創作方法上の 新転換」『中央公論. 「あ. とがき『宮本題治文芸評論集』第一巻」. 1933 年 9 月号。 引用は双掲 後期プロレタリア 文学評論集 2. 『日本プロレタリア 文学評論集・ 7. J. 』. pp.264-274に拠った。 ,,. 小田切秀雄「解説」『現代日本文学論争. 史. 中巻』日本 : 未来社、 1957 、. pp.339-349. ". 上田遊「 ソ ヴェート文学の 近状」『プロレタリア 文学』 2 巻 2 号、 1933.2 、. pp.46-56. ,。. 前掲渡辺順姉『烈風の 中を』 p.159. ,。. 頼 明弘・ 林越峰. ・. 江 賜金「第 1 回台湾全島文芸大会記録」『台湾文芸. d. 2巻. 1 号、 1934.12 、 pp.2-7. 前掲「 第 回 台湾全島文芸大会記録」『台湾文芸』. i 巻 1 号、 1934.12 、 pp.2-7. Ⅰ. ". 林 克夫「清算過去的誤謬 一 確立大出化的根本問題」『台湾文芸』. 2 巻Ⅰ 号、. 1934.12 、 pp.18-20 松永正義「郷土文学論争. (1930 一 32) について」『一橋論叢』第 101 号第 3. 号、 pp.352-370またナルプーカ 連の関連については 丸尾 常喜 「友達双期 における莫大衆化の 問題」『東洋文化 J 52 号、 1972.3 、 pp.69-94 、 前田利 明「 崔 秋日と左達一「第姉次文学革命」と「文芸大出化」に を中心として 一 」『東洋文化』. 52 号、 1972. 3 、 pp.133-156. 関する主張 参照。. (1930 一 32) について」。. ,。. 前掲松永正義「郷土文学論争. ". 前掲 張 事跡『台湾プロレタリア 文学の誕生一場 達 と「大日本帝国」. -. 』. p.58 によれば 楊 睦は台湾文芸連盟に 参加した際に『文学評論 コの 存在を. 知ったと回想、 している。 ,。. ,,. 揚陸「芸術は 大衆のものであ る」『台湾文芸』. 2 巻 2 号、 1935.2 、 pp.8-12. 部太笛「創作方法に 対する断想」『台湾文芸』. 2 巻 2 号、 1935.2 、 pp.l9-20. 小田切秀雄「解説」平野謙・ 争史. ". 中條. 小田切秀雄,山本健吉 編 『現代日本文学論. 中巻』東京 : 未来社、 1957 、 pp.339-349. ( 宮本 ). 百合子「社会主義リアリズムの 問題について」『文化集団』. 一 109. 一.

(20) 1933.11 はそうした立場の 論旨であ る。 本稿では双掲『日本プロレタリア 後期プロレタリア 文学評論集 2J Pp.412-414を使用し. 文学評論集・ 7 た. ". 垂水干 恵. 赫 若竹足跡 一以. 「初期目. 1 9 3. 0 年代日本文学馬背景」『自称 若. : 聯合文学出版社、 1997 、 pp.224-247、 垂水干 恵 『日航. 作品研究』台北. 若 研究 一 1943 年までの分析を 中心として - 』東京 : 風間書房、 2002 、 pp , 98-107o. ". 中村 完 「社会主義リアリズムの 問題 一 森山啓の評論を 中心に」『国文学研. 究 J 2 5 集、 1962.3 、 pp.219-226. 。,. 「行末の記 一 或る小さな記録」『台湾新文学』. 合 」『台湾文芸』 。,. 3 巻. 7. 1 巻 4 号、 1936.5 、 「女の場. , 8 号、 1936.8 。. 藤野雄士「台湾文学界総検討座談会」『台湾新文学』. 2 巻 1 号、 1936.12 、. p.58. 森山 啓 「創作理論に 関する時評」 。,. [ 文学評論 i. 1 巻 1 号、 1934.3 、 pp.37-46. 辻橋 三郎「人民文庫」『日本近代文学大辞典. 第 5 巻』東京. 1977, pp.211-212 。 小田切秀雄「解題と 解説と 学 史の分岐点で f& , 。。. 一」 旺. 『人民文庫』. ;. 講談社, 一 現代文. 人民文庫」解説・ 総目次,総索引』東京 ; 不二出. 1996 , pp , 5-17. 仰書 琴 『双腕左道. 旅日 青年的文学活動 与 文化構想 一以く福爾 廃砂》 系. 統 作家 為 中心』国立清華大学博士, 2001.7,pp.262-266 、 垂水千恵「『 糞 real-. ism 』論争 之 背景一手く人民文庫》批判 Z 関係海中心」. [ 棄石浦波. 代作家』高雄 ; 文学台湾雑誌 社 、 2002 、 pp.31-50 、 張文薫 的迷思 ". 」. 張文環 攻具同時代作家学術研試合論文集、. もっとも社会主義リアリズム あ. [付記 ]. 共 同時. 「「風俗小説」. 2003 、 pp.83-100.. 自体の有効性については 別途議論の必要が. るであ ろう。 本稿は 2004 年 7 月 15 一 17 日、 中央研究院学術活動中心二機国際会議. 庁. において開催された 中央研究院中国文 哲 研究所、 コロンビア大学蒋経国 基金金中国文化度制度史研究中心主催、 『正典的生成台湾文学国際冊封 金』における 配付論文「台湾新文学中的日本普羅文学理論受容 : 従 芸術. 大衆化 到 社会主義 Realism 」の日本語原稿であ る。. 一 110 一.

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