はじめに イギリスの文学研究者イアン・ウーズビー は,近代のガイドブックの特徴を「非個人的 (impersonal)」と捉え,その特質を次のように 分析している。 「十九世紀の中頃から,外来者の注目に値す るものに関する情報は体系化されて,マレ ー,ブラック,ベデカーといった総覧的で 「非個人的な」ハンドブックが生まれた。/ こうして土地は二重の意味で知られるように なった。土地はローカルな交通のためという より長距離交通用の道路によって貫通され た。土地は旅行者自身の階級の趣味と見方を 表現するガイドによって説明され解釈され た。変化のこの二つの局面は地図作成の慣例 の変化にただちに具体化された。…ある意味 で,挿入された地図はツーリズムの勝利を体 現している。つまり,その場所について知ら れるもの,あるいは知るに値するものはどこ かへのルート上で見られ得るのである」1)。 ガイドブックそのものを旅行文化の観点から 否定的に評価するか2),肯定的に評価するかと いう問題は別にして,まずその国や都市ないし 地域の全体の一般情報を記し,その中でルート (旅程)を設定し,このルートの一般情報に続 いて周辺の名所を逐次説明していく,また主要 地域については地図を挿入する,こういった編 集形式を持つマレーやベデカーのガイドブック *立命館大学産業社会学部教授
旅行ガイドブックのなかの「見るに値するもの」
─『公認東亜案内』日本篇と『テリーの日本帝国案内』の1914年─
赤井 正二
* 本稿の目的は,近代の旅行文化の一つの構成要素としての「旅行ガイドブック」に注目し,その戦 前期の日本での発展を跡づけ,その発展メカニズムを分析することを通して,旅行を支える情報の客 観性と批評性の差異を明らかにすることである。第一に,1927年(昭和2年)から刊行が開始され 1936年(昭和11年)に完結する鉄道省編『日本案内記』全八巻に至る経過を概観し,第二に,国内旅 行向けのガイドブックの発展と,「外客誘致」という政策の一環として編集された外国人向けの英文 日本ガイドブックとの関係を考え,第三に,鉄道院・鉄道省およびジャパン・ツーリスト・ビューロ ーが作成した英文日本ガイドブックと,外国人自身が作成した日本ガイドブックとの差異に注目し, 「ガイドブック」の基本性格としての正確性・客観性,公平性,批評性の差異を扱う。 キーワード:旅行ガイドブック,鉄道院,『日本案内記』,『公認東亜案内』,『テリーの日本帝国案内』が,少なくとも道路網と鉄道網の成立という近 代的条件の下で生まれたことは確かである。こ のような限定的な意味においてさえ近代化の産 物に他ならない旅行ガイドブックが,主に「個 人的な」形式と内容をもつ『道中記』(もとより 「個人的」でない文献もあるが)の分厚い伝統 をもつ日本でどのように成立したのであろう か。 本稿の目的は,近代の旅行文化の一つの構成 要素として「旅行ガイドブック」が多様な形で 生み出されたという社会文化現象に注目し,そ の戦前期の日本での鉄道省を軸とした発展を跡 づけ,その発展メカニズムを分析することを通 して,旅行を支える情報の客観性と批評性の差 異を明らかにすることである。その際,鉄道 院・鉄道省3)及びジャパン・ツーリスト・ビュ ーローが編集したガイドブックを主な対象とす るが,それは,ウーズビーの指摘するように近 代 の ガ イ ド ブ ッ ク が 本 質 的 に「非 個 人 的 (impersonal)」であり,従って「平均的な旅行 者」を対象としつつ行われる多かれ少なかれ計 画的・組織的な協同作業の産物である点を重視 するからである。 以下,第一に,1927年(昭和2年)から刊行 が開始され1936年(昭和11年)に完結する『日 本案内記』全八巻4)に至る経過を概観し,第二 に,このような国内旅行向けのガイドブックの 発展と,「外客誘致」という政策の一環として 編集された外国人向けの英文日本ガイドブック との関係を考え,第三に,鉄道院・鉄道省およ びジャパン・ツーリスト・ビューローが作成し た英文日本ガイドブックと,外国人自身が作成 した日本ガイドブックとの差異に注目し,「訪 れて,見るに値するもの」における「見せたい もの」と「見たいもの」との差異,及びこの差 異から,「ガイドブック」の基本性格としての 正確性・客観性,公平性,批評性の差異につい て考えたい。 1.「内外案内記類展覧会」と『日本案内記』 情報と知の近代化という観点に立った場合, ガイドブックに先立って一つの方向を示したの は,当初は「旅行案内」と呼ばれ後には「時間 表」と呼ばれる「時刻表」であった。明治27年 に,手塚猛昌の経営する庚寅新誌社が日本最初 の全国版時刻表である『汽車汽船旅行案内』を 発行して以来,交通網の拡充に従い,交益社, 博文館も時刻表を発行し,大正初期にはこの三 社が激しく競争した。鉄道院の検閲業務が膨大 なものとなり,その結果検閲担当者と出版社と の好ましくない関係も生まれたという事情のも とで,運輸局長木下淑夫が三社を合同に導き, 1914年(大正3年)「株式会社旅行案内社」を設 立し,時刻表を一本化した。この結果生まれた のが『公認汽車汽船旅行案内』であり,「公認せ られたる旅行案内は日本国中本旅行案内あるの み」5)と記されているように,「公認」という権 威づけこそが,旅行に関する情報の近代化の有 力な方向となった。「公認」は「理想的な旅行 案内」6)を目指すことと一体であった7)。 では,旅行ガイドブックについて鉄道院が持 った問題意識はどのようなものであったのだろ うか。1912年(明治45年)に鉄道院の外郭団体 として設立されたジャパン・ツーリスト・ビュ ーローは,1919年(大正8年)7月に「内外案 内記類展覧会」を開催する。この会の模様を読 売新聞は次のように伝えている。 「東京駅構内ジャパン・ツーリスト・ビュー
ロー社では旅行季節に入った昨今内外名勝旧 蹟をあまねく紹介し旅行者の便に供し様と云 う趣旨で東京駅出口の八角塔二階に内外旅行 案内,名所案内,地図等を陳列して四日から 六日まで展覧会を開いている,外国の分は各 国別に案内記写真帳と云う様に纏めてあり, 内地のは各県別にして地図とか案内記,写真 帳,絵端書等あらゆるものを蒐めてある,古 いものでは大庭景秋氏の蝦夷地全図壺の石と て安政二年時分のや,蝦夷路程便覧とか江見 水蔭氏の日光の名所絵図,黒田富美子氏の京 都一覧など面白いものがある,此の室に足を 踏み入れると従来余り知られていない名勝も 手に取る様に知れて旅行欲をそそり立てられ る事夥しい」8)。 しかし,同展覧会についての『時事新報』の 記事9)からは,従来のガイドブックについての もう少し立ち入った問題意識を読み取ることが できる。 それによれば従来のガイドブックの問題点 は,第一に紀行文と客観的な情報との区別が曖 昧であることである。現状の多くのガイドブッ クは,「現代離れのした漢文句調や,又は徒に 美文許り並べて,旅行者に最も必要な経費,旅 程等の詳細が兎角疎かにされて」いる。流行し 始めていた日本アルプス登山についても登山家 の紀行文しかなく,十和田湖の紀行文にも,宿 泊や交通についての情報はなく,行ってみよう としても行き方が分からない10)。第二に指摘さ れている問題点は,広告との関係であり,「一 番困るのは案内記を編む人が金で動いて当にな らぬ者を出版し或は金を取る広告などの目的で 許り編む為めに,情実一方で公平な批評,案内 が出来ない」ことである。ベデカーは広告を原 則的に掲載しないという方針を採ったが,日本 ではこのような方針をもった出版社はないとい うことであろう。 また,数多くのガイドブックの著者である松 川二郎も,「一般旅行案内書に対する信用が地 に堕ちむことを,私は怖れる」という視点か ら,古い情報が更新されないまま掲載されてい ること,地名の読み間違い,無断転載などの問 題点を,例を挙げて指摘している11)。 一方には,マレーやベデカーのようなヨーロ ッパでの先行例があり,他方には江戸時代以来 の「道中記」の豊富な伝統があるなかで,ガイ ドブックそのものの在り方が問われた訳であ る。日本の「ガイドブック」の現状は漢文調・ 美文調の紀行文が主であり,このような旅行案 内はしばしば情報として誤謬を含んでいたり, 実際の旅行をガイドする情報として不十分であ り,さらにまた,広告との区別が曖昧である場 合も多い,このように,鉄道院とジャパン・ツ ーリスト・ビューローが,ガイドブックの再生 に取り組み始めた時期の問題意識は,情報の 「客観性・正確性」と「公平性」にかかわるもの であった。 「現代離れのした漢文句調」という指摘は例 えば次のような表現であろう。 「日本橋は府の中央通り一町目と室町の間に 架せる繁華橋 諸方道程茲に源す 橋の通りは 大路にて,一に通とも称し家屋は土蔵造に て,鉄道馬車の敷設あり 尋常馬車や人力車 轟々絶ゆる間もなく人行絡駅織るが如し,さ て日本橋の以北にて最も名高き町名は,本町 及大伝馬町 横山町にして,以上は則ち商軍 の最も劇しき中心たり,家屋は通と異りなはげ く 駿河町に三井銀行あり,高楼美麗の建築
たり 其対岸は四日市,郵船会社の倉庫在り 郵便本局電信局,発着の車馬絶ゆるなし 日 本橋の北岸を,一に魚岸と通称し諸方の漁船うおがし 衆りて,朝市最も繁盛せり」12) あつま しかし「内外案内記類展覧会」の問題意識に みたように,漢文調や美文からの脱却という文 体の問題は,読みやすい文体の確立という事だ けではなく,情報の客観性・正確性と表裏の関 係にある。鉄道院は既に1910年(明治43年)か ら,『鉄道院線沿道遊覧地案内』というガイド ブックを発行しているが,口語体に代わるのは 1914年からである。しかしより重要な変更が, 1924年(大正13年)8月発行の『鐵道旅行案内』 から行われる。つまりこの版から,縦型から横 型への判型が変更され,鳥瞰図や名所図絵の挿 入といった外見の大きな変更をともないなが ら,なによりも情報量の格段の増加が計られて いる。同じ大正十三年版でありながら,7月発 行のものと8月発行のものにおける東京中心部 についての記述を比べてみたい。 7月発行の『大正十三年版 鐵道旅行案内』 (鐵道旅行案内編纂所發行)の記述は,鉄道沿 線の案内というこれまでの形式を踏襲し,運賃 と駅周辺の名所とホテル・旅館の名称を列挙す るというごく簡単なものである。 「⃞●東京 驛は丸の内に在る,付近には宮城の外,諸官 省,大会社,大商店,大銀行が多くある,地 方の人士が此處でおりるは京橋,日本橋,神 田,麹町の一部に用たすに便である。他區へ は驛内すぐ官線電車がある,驛前に市街電車 があるから自在である,宮城,日本橋,魚河 岸,日本橋通筋,白木屋呉服店,三越呉服店 等を見るにも此處から降りるがよい,旅館は 東京驛ホテル(驛内)…(略) ⃞●有楽町 東京驛より○哩五分賃金(二等) 十三銭(三等)六銭 驛は東京市麹町區有楽町に在る,汽車は止ま らね電車驛である,東京横濱間には當時の如 き電車丈けの驛がある,夫れは一々記す。附 近には【市役所】,【日比谷大神宮】,【日比谷 公園】,【帝国ホテル】,【宮城二重橋】,【帝国 劇場】,【有楽座】,【京橋】,【銀座】,【大根河 岸】,【歌舞伎座】等,近くの旅館は帝国ホテ ル(麹町區)…(略) ⃞●新橋 東京駅より一哩二分賃金(二等)十 三銭(三等)六銭 驛は東京市芝區鳥森町に在る。驛の裏手が鳥 森花柳界,近くに新橋花柳界がある附近で見 るものは【新橋】,【濱離宮】,【虎の門金比 羅】,【霞ケ關】,【愛宕山】等近くの旅館は吾 妻屋(芝區)…(略)」13) これに比べて,情報量が格段に増えた8月発 行のものでは,東京の記述は次のような震災復 興の概観から始まる。 「束京及其附近 東京市は日本本州の東部關東平野の中央武蔵 國の東南海濱に臨み,太平洋沿岸の大内海た る東京湾の北に窮る所に位置を占めて居る。 江戸幕府三百年の繁華に加へて明治維新以來 宮城嚴として竝虚に在り,翠松色濃き千代田 城を包める街衝は古の武蔵野の一部を占め, 東洋第一の大都会として,世界に其名を輝か して居たが,不幸大正十二年九月一日の大震 火災の爲め,神田,日本橋,京橋,芝,下谷, 淺草及隅田川向ふの本所,深川,いはゆる下
町方面は殆ど全焼し,山手方面の麹町,赤 坂,本郷の一部も亦震火の害を被り,麻布, 四谷,牛込,小石川の四區のみ稍々舊態を維 持するのみで,今は上下協力帝都の復舊復興 に努力しつゝある状勢である。人口も大正九 年の国勢調査當時の二百十七萬人が,大震後 の十三年十一月現在は百五十二萬九千人に減 じたが,復興に伴うて漸次増加することは疑 を容れぬところである。接続町村たる品川, 大崎,渋谷,千駄ヶ谷,淀橋,大久保,巣鴨, 王子,千住,亀戸,大井,大森,中野等の各 町村も住宅地又は工集地として市と比肩すべ き繁栄を來し,相俟って大東京を形成するの 素地を爲して居る震災以來市の繁華區は一時 山手に移つた観があり,牛込神楽坂通,最殷 賑を極め,本郷大通,小石川白山上,四谷大 通,赤坂,青山大通など之に亜ぎ,渋谷道玄 坂附近など私に新淺草など唱へる程の脹ひを 見せて居る。京橋の銀座通,日本橋の大通, 人形町通,神田小川町通など,東京の目貫と も云ふべき大通は,バラック式の建築ながら 文化的の色彩巷豊に復興の気運が盛である。 下谷の廣小路通,浅草雷門前も上野,浅草兩 公園の遊楽地を控へて震災前の繁栄に返らん とする有様である」14) 以下,1交通,官庁,学校,銀行・大企業, 地理といった一般情報に続いて,2宮城,上野 公園などの公園,明治神宮などの神社と寺院, 歌舞伎座などの劇場について小見出しなしで記 述し,さらに3「東京及付近遊覧暦」として月 別の行事・祭礼・花の見所を紹介し,4主要産 物と震災での被害についての情報を付記してい る。また吉田初三郎の鳥瞰図が多数挿入されて いることがこの版の特徴であり,そのパノラマ 的視角を生かすために版型は横長でなければな らなかった。 このような試みと他のいくつかの試み15)を 経て,鉄道省旅客課は1926年(大正15年)から, 『日本案内記』の編集作業を開始し,1929年(昭 和4年)に「東北篇」から順次刊行を開始し, 1936年(昭和11年)に「北海道篇」をもって完 結した。この『日本案内記』刊行の経過は,『日 本交通公社五十年史』16)では次のようにまとめ られている。 「種田氏が旅行文化の面で残した最も大きな 業積は「日本案内記」の編纂という大事業の 先鞭をつけたことであった。大正13年,一時 門鉄局長として本庁を離れていた氏は,大正 15年運輸局長として本庁に帰ると,直ちにこ の大事業の立案を菊地旅客課長,井上万寿蔵 事務官,谷口梨花嘱託の3人に命じた。案を 練ること1年,翌昭和2年3月準備成って編 纂に着手した。なにぶんにも日本全国の史 蹟・名勝・天然記念物等広範にわたる内容の 正確,完備を期するため文学博士黒板勝美氏 及び理学博士山崎直方氏の両権威を編纂顧問 に迎え,編纂員としては課内より谷口梨花, 河上寿雄の両名のほか,新たに富士徳次郎, 浜田真名二,津田敬武,田沢金吾,川村真一 の5名を嘱託とし,その他補助員2名という 大編集陣を作った。また東京ステーション・ ホテルに各省局長その他知名の士60余名を招 いて協力を要請するなど非常な力の入れ方で あった。/この計画は最初の案では全6巻で まとめることになっていたが,その後種田氏 が局を去り後任の筧運輸局長時代に近畿編を 上下2巻に分けることとなり,結局昭和4年 に東北編を出版したのを皮切りに同5年関東
編,同6年中部編,同7年近畿編の上,同8 年近畿編の下,同9年中国・四国編,同10年 九州編,同11年北海道編をもって全8巻全部 を完成した」17)。 東京,神奈川,埼玉,群馬,栃木,茨城,千 葉を扱った『日本案内記 関東篇』を例に取る と,全体は「概説」と「案内篇」に区分され, 「概説」には次のような項目が含まれている。 位置 區域/地形 地質/氣候/動植物 植 物 動物/行政区劃/風俗/方言/産業 農業 蚕業 牧畜業 水産業 林業 鉱業 工業/石器時代の遺蹟及遣物/上代の遺蹟及 遺物/沿革及史蹟/神社/寺院 佛像及佛畫 /學術上の施設/名勝温泉及海水裕場/登山 及スキー,スケート/交通/旅行日程案 最後の「旅行日程案」には,次の33のルート が例示されている。 その日歸り遊覧地 三浦半島めぐり 箱根温 泉めぐり 豆相温泉めぐり 大島行 南伊豆 めぐり 身延詣で 三保,久能廻遊 奥多摩 へ 富士登山 富士の裾野めぐり 大菩薩嶺 登山 増富,昇仙峡めぐり 秩父連峯登山 浅間山登山 赤城山登山 伊香保行 上毛温 泉めぐり 尾瀬招探勝及燧岳登山 日光見物 男體山登山 白根山登山 日光から奥上州へ 塩原温泉めぐり 塩原から鬼怒川渓谷へ 高 原山登山 那須温泉めぐり 那須岳登山 水 戸及三濱めぐり 香取鹿島めぐり 香取鹿島 銚子めぐり 房総一周 また,「概説」にあたる一般情報は「案内篇」 の「東京及近郊」にも附され,そこでは次のよ うな項目が挙げられている。 年中行事 宮城及離宮 官公庁 兵営 大公 使館 学校 図書館 銀行 信託会社 食料 工場 新聞社 会館 倶欒部 署名のビルデ ィング 公園 植物園 動物園 博物館 劇 場 能舞台 活動常設館 寄席 百貨店 ホ テル 旅館 日本料理店 西洋料理店 支那 料理店 菓子 パン 果物 市内見物 これに続いて,東京市が八つの「方面」(一 丸ノ内及日本橋,京橋方面/二 芝,麻布,品川 方面/三 麹町,赤坂,原宿方面/四 四谷,牛 込,新宿方面/五 小石川,巣鴨方面/六 神田, 本郷方面/七 下谷,浅草方面/八 本所,探川 方面)に区分され,それぞれの名所,見所が解 説される。 本文は,例えば次のような記述である。 【日本橋通】日本橋より京橋に至る延長約一 粁の街路で,南は銀座通,北は室町通に連 り,小売店街として賑ふ。百貨店には白木 屋,高島屋,呉服店には西川,伴傳,書店に は丸善などがある。 【銀座通】京橋から新橋まで延長約一粁の街 路,明治五年頃洋風の商店を造榮してから漸 次繁榮を増し,今は小売店街として市内目貫 の地となつた。百貨店には松屋,松坂屋,時 計店には天賞堂,服部,食料品店には明治 屋,亀屋,文房具店には伊東屋,鳩居堂など がこゝにある。銀座通と云ふは慶長七年駿府 からこゝに銀座を移し,銀を吹き貨幣を鋳造 したのに起源し,その銀座は今の二丁目にあ つたが寛政十二年蠣殻町へ移された18)。 『日本案内記』は「日本全国の名勝・史跡・ 産業・経済・人情・風俗・地質その他各般の事 項を旅行案内書式に収録しようとするもの」19) とされているように,「概説」やそれに相当す る部分が極めて学術的に記述されていること
が,『日本案内記』の形式面での最大の特徴と なっている。 この「旅行案内書式」という形式が,マレー やベデカーを念頭に置いていることは明らかで あろう。例えば,ベデカーの1890年版イギリス 案内では,概説(INTRODUCTION)部分は, 11項目(Ⅰ 貨幣 旅行費用 パスポート 税 関 時刻/Ⅱ イギリスへのルート,イギリス からのルート/Ⅲ 鉄道 馬車 蒸気船/Ⅳ 旅 行計画 徒歩での周遊/Ⅴ ホテル/Ⅵ スポー ツと娯楽/Ⅶ イギリス史の概略/Ⅷ ウェール ズとウェールズ語/Ⅸ 文献目録/イギリス建 築の歴史的スケッチ/古代遺跡)で構成され, ルート別案内部分で例えばロンドンの場合は, 以下の項目が予め記載されている。 到着 鉄道駅 蒸気船 ホテル レストラン カフェ [地下鉄(1897版で追加)][テムズ 蒸気船(1897版で追加)] 辻馬車 乗合バス 路面軌道 大型馬車 劇場 音楽ホール 娯 楽施設 絵画展示場 合衆国公使 婦人ガイ ド協会 [主要名所(1897版で追加)] 鉄道院・鉄道省・ジャパン・ツーリスト・ビ ューローの旅行ガイドブック作成への取り組み は以上のような経過をとって発展した。この場 合,漢文調やことさら美文を連ねる紀行文や広 告との区別が曖昧な旅行記から離れて,正確な 情報を「公認」として提供するという方向性 は,「経費,旅程等の詳細」こそが「旅行者に最 も必要な」情報であるとの認識に繋がってい る。ジャパン・ツーリスト・ビューローは1919 年(大正8年)より『旅程と費用概算』という 実用性を前面に出したガイドブックを発行して おり,また同年に刊行された谷口梨花著『汽車 の窓から』に寄せた序で木下淑夫は現在の案内 書は「其多くは旅行記を集めたものでなけれ ば,一地方に限られたもので,消閑の耽読には 好いが,旅行者実際の手引としては,誠に頼り 少ない心地がする」20)としている。この問題意 識からマレーやベデカーの形式がモデルとされ たのである。 しかし,このような実用本位的な認識と「公 認」という形式が,社会文化現象としてのガイ ドブックに必然的に伴う「批評性」という問題 を「美文調の紀行文」とともに,後景に押しや ってしまう。だが「批評性」を完全に排除した 純粋な情報というものは存在しないのだとした ら,それはどのような形を取ったのだろうか。 次に,日本で作成した英文の日本ガイドブック と外国人が作成した日本ガイドブックとの比較 からこの点について考えたい。国内旅行ガイド ブックについては,多様な試みがあり,例え ば,森寅重,長井愛爾編著『興味を本位とした 新鐵道旅行案内 本州西部九州の巻』は,「在來 の無味乾燥な記録的なものや,徒に感傷的な字 句を列ねて,その本體の曖昧模糊たる案内記」 を批判し,「記憶に困難で興味の薄い數字的な ものは,必要以外に努めてこれを省略」21)する としているが,実用本位的なものもまた批判の 対象とされている場合もある。だが総合的な英 文日本ガイドブックを作成する力を持っていた のは,公共的あるいは非営利的な組織だけであ った。 2.『公認日本案内』と『テリーの日本帝国案内』 訪日外国人向けの英文ガイドブックを最初に 作成した日本の非営利な組織は1893年(明治26 年)に設立された「喜賓会」であった。「我が国 山河風光の秀,美術工芸の妙,夙に海外の称讃 する所なり,万里来遊の紳士敵女は日に月に多
きを加ふるも之を待遇する施設備わず,旅客を して失望せしむること砂なからざるを遺憾と し,同志深く之を慨し遠来の士女を歓待し行旅 の快楽,観光の便利を享受せしめ,間接には彼 我の交際を親密にし貿易の発達を助成する」22) ことを目的としていた。この喜賓会が英文日本 旅行案内書を出版したのは1905年(明治38年) であるが,数年前にすでに出版手前まで準備は 行われていた。この遅延の理由は,「明治三十 四年第一版英文日本案内作製の事となり上梓さ れたが,チエムバーレン及メーソン氏の抗議に 由り未刊行に終つた」23)からであるという興味 深い事実によって説明されている。 「チエムバーレン及メーソン氏」とは,1891 年にロンドンのマレー社から出版され以後1922 年の第9版まで改訂され続けた『日本旅行者の た め の ハ ン ド ブ ッ ク』(“A Handbook for TravellerinJapan”)24)の第三版(1891年)以降
の著者,B.H.チェンバレンとW.B.メイソンの ことである。「喜賓会」の英文ガイドブック作 成に対する彼らの「抗議」の詳細は不明である が,チェンバレンが自らのガイドブックの作成 に並々ならぬ力を注いだこと,ガイドブックの 作成を「人生の最も大きな喜び」25)と語ってい るが,他方では家計上の事情もあったこと,ま た,ガイドブックの海賊版に悩まされていたこ と26),このような事情から,抗議の主な理由は 経済的なものであったと推測することができ る。このような一種の外圧を受けるほど,ガイ ドブックは重要になっていたのである。 このチェンバレン・メイソンのガイドブック と並行して,第一次世界大戦が開始された1914 年前後に,新たに三つの英文日本ガイドブック が生み出される。第一は,ジャパン・ツーリス ト・ビューローが発行した『日本ポケットガイ
ド』(“PocketGuidetoJAPAN”)であり,第二 は,鉄道院が約8年の歳月と莫大な費用をかけ て綿密な調査に基づいて作成した『公認東亜案 内─ヨーロッパとアジアの大陸横断連絡─』全 5 巻(“An OfficialGuideto Eastern Asia: Trans-continentalConnectionsbetweenEurope andAsia”)27)である。第三は,新聞通信員など
の経歴を持つアメリカ人,T.P.テリー28)が作
成 し た『テ リ ー の 日 本 帝 国 案 内』(“Terry’s GuidetotheJapaneseEmpire”)である。
『日本ポケットガイド』はジャパン・ツーリ スト・ビューロー第一回理事会(1912年(明治 45年)5月2日)で正式に計画されたもので, 幹事生野團六の方針,つまり「外客誘致,日本 紹介の為に海外へ配るものと,内地へ来遊した 外客の便宜に供する為にこちらで配るものと二 種に分けて考へ,前者には一般的興味を盛ると 共に必ず旅費,交通,所要時間其他を記し体裁 なども充分考慮を加へる,後者は実用本位にし て便利第一主義で行くといふ方針」29)のもとで 作成され,以後幾度か改訂された。 『公認東亜案内』は,第一巻 満州・朝鮮(1913 年),第二巻 南西日本(1914年),第三巻 北東 日本(1914年),第四巻 中国(1915年),第五 巻 東インド(1917年)からなり,鉄道院総裁時 の後藤新平の業績30)とも,鉄道院営業課長時 代の木下淑夫の業績31)とも説明されているが, 鉄道院が組織的に作り上げたものであることは 確かであり,対象地域が広大でデータが綿密で あったために改訂は容易ではなく,1933年に日 本の部分だけが一冊に圧縮され,『公認日本案 内』(“AnOfficialGuideToJapan”)として出 版されることになる32)。『公認東亜案内』の目
的はただ観光という意味での「外客誘致」にと どまらず,貿易や投資を導入することにもあ
り,次のように述べられている。 「この公認東亜案内の主要な目的は,ヨーロ ッパやアメリカからの旅行者が,旅先で出会 う興味深い対象をより詳細に楽しみ,そして 正当に評価することができるようになるため の情報を提供することである。東亜という言 葉には,満州,朝鮮,日本本土,中国本土, インドシナ,そして南洋諸島が含まれてい る。この東亜は,自然と人間の異なった姿, 古来からの伝統と珍しい芸術を蓄えているこ とが魅力となって普通の旅行者を惹きつけて いるが,ビジネスマンと資本家にとっても, 事業や投資に適した多くの新しい分野が開か れている。この種の訪問者にとっても,この 本の提供する情報が貿易と産業に役立つこと を期待している」33)。 このような観光に限定しない観点から見れ ば,既に存在したマレー版の日本案内は,全く 不十分と考えられ,「信頼性が高く,そして詳 細なガイドブックが欠如していることが,多く の訪問者の後悔と不都合の源」であり,このよ うな「長く感じられた必要を満たすであろうよ うなガイドブック」が必要だったのである34)。 しかも,編集形式をベデカーに準拠するのもこ のような観点から必然だったと思われる35)。ま た,第二巻序文では,欧米でのジャポニスムに 照らし合わせて日本の特徴が端的に次のように まとめられている。 「日本はほとんど一世紀に亘って世界を強く 魅了してきた。自然風景の美と芸術品(絵 画,漆器,磁器,銅製品など)の美は広く賞 賛されてきた。優雅で魅惑的な多くの習慣, 長い歴史と皇室の無比の系統,武士道,人々 の愛国心と忠誠心,これらすべてが世界中の 好奇心と関心の対象となっている」36)。 他方,『テリーの日本帝国案内』は,第一次世 界大戦直前の世界的な交通網の整備を背景とし て増加した一般の観光客を対象とし,また二分 冊となってしまった『公認東亜案内』日本篇と の差異を意識しながら,作成されたものである ことが,その序文にうかがえる。 「今日多くの旅行者が毎年の旅行計画に日本 (および一般に極東)を含んでいるので,こ の帝国とその植民地的占領地域についての信 頼できる最新のガイドブックがすぐにも必要 になってきた。この国ほどこうした本がなけ れば理解しがたい国はなく,またどの点にお いても,旅行者にとって魅惑的な関心を引く 国もない。「大日本」は無類の永続的な魅力 をもった国であるが,無数の珍しい習慣と意 味深い陰影の付け方は,しばしばあまりに覆 い隠され繊細であるので,容易には理解でき ない。……本書の目的は,二分冊でより高価 な本よりも,持ち運びに便利なようにコンパ クトな一冊で,日本とその人々についての実 用的で有益な,偏向のない豊富な情報を提供 することである。しかし簡潔さや正確さと両 立させながら豊富な情報を可能な限り興味深 いものにするために,素っ気なさと詰め込み すぎは避けた」37)。 『テリーの日本帝国案内』には,ガイドブッ クとしては地図が不十分であり,交通経路の説 明が不正確であるなどの弱点を持っている38) が,1914年の初版以後,1920年,1928年,1933
年に改訂されており,一定の読者を獲得してい たものと思われる39)。 3.「見るに値するもの」の差異 このように性格のやや異なるガイドブックを 比較するのは注意が必要であるが,まず取り上 げられている項目自体に両者の視点の差異を見 たい。両者ともマレーやベデカーという先行す るガイドブックの編集形式を踏襲しており,特 に重要箇所はゴシック体で表記されている。さ らに『テリーの日本帝国案内』ではベデカーに 倣って,更に重要な箇所はアスタリスクが附さ れている。表は,テリーの第一版(1914年), 『公認東亜案内』第三巻(1914年)で,それぞれ の東京についての記述の中でゴシック体によっ 表 中央地域:日比谷公園 日本郵船会社 東京汽船会社 鉄道中央駅 銀座 日本橋 日 本銀行 ロシア正教教会 宮城と近隣:*宮城 九段坂 *武器博物館(遊就館) 南西地域:在外事務所 *大倉美術館 *芝公園 *芝霊廟 山門 霊廟 納骨堂 八 角堂 塔 安国殿 弁天神社 慶応大学 四十七士の墓 *日枝神社 清水谷 公園 北東地域:小石川砲兵工廠,後楽園 護国寺 ラフカディオ・ハーンの墓 *帝国大学 *地質観測所 *上野公園 時の鐘 銅製大仏 不忍池 *帝国図書館 *動 物園 *東京帝国博物館 徳川霊廟 東本願寺 *浅草観音 吉原 隅田川 川向こうの東京 向島 亀戸 亀戸梅屋敷 堀切菖蒲園 回向院 築地 鉱物 博物館 商業博物館 *海軍博物館 西本願寺 東京湾 東京の郊外 目黒 テリー第1版 1914年(大正3年) 麹町区:宮城 日比谷大神宮 帝国議会議事堂 参謀本部 英国大使館 靖国神社 遊 就館 日枝神社,山王 平川天神 中央駅 帝国劇場 神田区:東京高等商業学校 神田川 駿河台 ロシア教会 小川町通り 八つ小路 青 物市場 万世橋 神田明神 御岳神社 日本橋区:日本橋 主要通り 魚河岸 銀行街 本町通 十軒店 日本橋から京橋へ 水天宮 薬師 坂本公園 中州 京橋区:銀座 青物市場 浜離宮 歌舞伎座 農商務省 築地 佃島と月島 西本願寺 芝区: 芝口通り 新橋 芝離宮 芝浦 芝神明 芝公園 増上寺 東照宮 塔 円山 弁天池 紅葉館と三縁亭 市 徳川将軍家墓所 有章院殿 文昭院殿 崇源院 殿 台徳院殿 青松院 愛宕山公園 慈恵病院 天徳寺 金比羅 慶應義塾大 学 泉岳寺 東宮御所 東善寺 伝染病研究所 瑞聖院 麻布区:善福寺 麻布御用邸 一本松 天文台 赤坂区:氷川神社 豊川稲荷 青山御所 赤坂離宮 青山練兵場 青山墓地 乃木大将 邸 青山通り 四谷区:須賀神社 嵯峨寺 牛込区:神楽坂通り 築土神社 赤城神社 宗参寺 陸軍戸山学校 穴八幡 高田馬場 早稲田大学 市ヶ谷八幡 陸軍軍医学校 月桂寺 自証院 小石川区:東京砲兵工廠 後楽園 湯島天神 伝通院 金剛寺 東京帝国大学植物園 東京盲唖学校 白山神社 巣鴨精神病院 東京高等師範学校 護国寺 目白不 動 江戸川 鶴亀の松 日本女子大学 本郷区:東京教育博物館 東京女子高等師範学校 御茶ノ水 霊雲寺 湯島天神 麟祥 寺 切通 東京帝国大学 大学病院 第一高等学校 根津権現 吉祥寺 下谷区:上野広小路 上野公園 東京帝国博物館 東京帝国博物館の動物園 東照宮 不忍池 慰霊堂 寛永寺 上野駅 谷中 根岸 五行松 下谷神社 浅草区:浅草公園 待乳山 隅田川 駒形堂 東本願寺 本所区:両国橋 回向院 国技館 報恩寺 日本ビール醸造所 向島 深川区:新大橋 霊巌寺 永代橋 商船大学 深川公園 木場 州崎 『公認東亜案内 (第3巻 東北日本)』 1914年(大正3年)
て記されている箇所である。 『テリーの日本帝国案内』第一版は58箇所, 『公認東亜案内』は154箇所をゴシック体で表記 している。テリーが取り上げている箇所は中心 部に集中し,『公認東亜案内』は東京市全区を 取り扱っている。また選択に特徴が見られるの は,『公認東亜案内』が「東京盲唖学校」「東京 女子高等師範学校」など近代化の象徴の一つと もいえるような教育施設を取り上げているのに 対して,『テリーの日本帝国案内』では「大倉美 術館」「ラフカディオ・ハーンの墓」そして「吉 原」が取り上げられ,とくに「吉原」について は多くのページが割かれている40)。 ともに関東大震災と第二次大戦の戦災以前の 東京の名所を示していて興味深いものがある が,『公認東亜案内』は外国人に「見せたい東 京」,『テリーの日本帝国案内』は外国人が「見 たい東京」を表現していると言えるだろう。 「見せたい」は同時に「見せたくない」であり, 「見せたくない」ものは掲載以前に選択され排 除され,掲載されること自体が「公認」される ことを意味している。しかし,このような選択 は公認された結果からは見えない。 「見るに値するもの」についてのこの差異が 一層明確になるのはその記述そのものにおいて である。日本橋,京橋,銀座周辺の記述を比較 したい。まず『公認東亜案内』における説明の 一部を見てみたい。 「東京の先進的ビジネス街,この区は宮城の 東部に位置し,麹町区,京橋区,神田区,浅 草区と隣接し,「隅田川」を挟んで深川区と 本所区に面している。この地域を幾つかの流 れが,すなわち隅田川,神田川,運河といっ た流れが横切っており,運河は外濠と隅田川 をつなぐために掘られたものである。自然の ものであれ,人工のものであれ,すべての流 れが物流と交通にとって非常に役立ってい る。日本橋区の広さは東西1.2マイル,南北 1.3マイルであり,人口は125,292人であり, 東京で最も人口密度の高い地域である。/ 「日本橋」はこの区の中心であるばかりでな く東京の中心であり,実際的には国全体の中 心を形作っている。かつてと同じように,東 京から帝国の主要場所への距離を測る起点と なっている。この橋が初めて架けられたのは 300年以上前であるが,その時は,木造で長 さ56ヤードであった。四年の歳月と511,000 円を費やして1911年に架け替えられ,御影石 づくりで長さ54ヤード幅30ヤードになった ……/「東京のビリングズゲート」,つまり 「魚河岸」は,橋を北に向かって渡ってちょ うど右側に位置している。17世紀初めに設け られた市場で,毎朝活気ある光景を見せてい る。……/日本銀行の反対側には,古風な (old-fashiond)漆喰と木造のビルがあり,横
浜正金銀行の東京支店が入っている」41)。 「再び戻って日本橋から南に進めば,最初の 四つの街区のなかに最も繁栄した区域のひと つがある。最も繁栄しているはと言えないに しても,東京ではそうである。街路改善事業 によって,外観が変わり,今日では,西洋ス タイルのビルと古風な(old-fashiond)漆喰と 木造のビルが混在している。最も新しい第一 歩は,アスファルトと木のブロックを使って 道路が作り直されたことに見られる。この革 新は,橋の北と南の数街区での実験に応用さ れている」42)。
「京橋の目立った特徴は,銀座と呼ばれる中 心的な広い道を含むことであり,この通りに はレンガ造りのビルが建ち並んでいるが,そ れは火災の発生の頻度を減らすために,前天 皇の統治期に政府の命令によって強制的に建 設されたものである。また,この区の特徴 は,朝日,時事,国民,万報,やまと,中央, ‘JapanAdvertiser’,‘FarEast’など,東京に
おける指導的な新聞社のオフィスがほとんど すべてあること,霊岸島と新堀に「酒」の卸 店があること,八丁堀と中町に古着商がある こと,「築地」にかつて外国人居留地があっ たことである。/「銀座」は京橋と芝の境界 である新橋から延び,北は京橋まで続き,東 京の主要街路の一部を形成している。その長 さはおよそ半マイルである。両側にレンガ造 りのビルが並ぶモデル・ストリートとして再 構築され,通りは歩道と車道から成り,歩道 はレンガか敷石で舗装され縁には柳が植えら れている。しかし,モデル・ストリートとし ての銀座の名声は,日本橋と他の場所の主要 地区の再構築によって近年では低くなってい る」43)。 『公認東亜案内』が,地理的位置と歴史的な 経緯の説明を重視し,「評価」や「批評」をでき るだけ避けていることは明らかであるが,「魚 河岸」の活気についての記述と西洋スタイルで ない日本式の漆喰と木で建てられた大きな建物 を「古風な」(old-fashiond)と形容しているこ と,さらに「モデル・ストリートとしての銀 座」の地位が低下しているという指摘,こうし たところにかろうじて「評価」が表れている。 これに対して,『テリーの日本帝国案内』に おける銀座や日本橋の描写は,饒舌ではある が,文芸的で,極めて生き生きとしている。や や長くなるがその描写の一部を紹介したい44)。 テリーはまず,東京が安全で,乱暴な振る舞い もほとんど見られず,狭い都市で密集して生活 しているにもかかわらず,巨大な群集が礼儀正 しい間柄を保っていることは「西洋人にはいつ も驚き」45)であることを指摘したのち,運河の ネットワーク周辺の絵のような美しさを描きな がらも,悪臭と裸体についての寛容さを「文化 的な東京からは排除されるに値する中世的な習 慣」46)とする。 さらにテリーは銀座を南から北に歩く。銀座 のレンガ街の由来を説明した後,「古いもの」 と「新しいもの」が渦巻く銀座の喧噪を描く。 「南西部から北東部へと大都会を横切るもっ とも大きい商業的幹線として,銀座はその延 長部分とともに,日本のもっとも非排他的な 地域である。コスモポリタニズムである点で 他のどの街路をも上回りながら,またオール ド・ジャパンのもっとも分かりやすい縮図で もある。路面電車の二重の線路の律動が中央 部分を通り,その騒音に,多くの人力車,手 押し車,蒸気釜,自転車,自動車がつけ加わ り,公務の乗物の前では,叫びながら従者が 走り,忙しい庶民の群れを追い立てる。今は ちょうど移行期にあり,商店の大部分はこの 国のスタイルか外国のスタイルで,あらゆる もの,蒸気機関から海草まで,自動車から養 殖真珠まで等の売り物を陳列している。数は 少ないが立派な商店もあり,代表的な品々と 魅力的なウィンドウ・ディスプレイを備え, その中には日本の優れた芸術もある。正面の 板ガラスのいくつかは,飾り立てられたヤン キー的雑貨か安っぽいオロイド宝石,パリの
コルセットやニュー・イングランドの時計で 満たされ,それらは純朴な田舎者を遠慮なく 驚嘆させている」47)。 「万華鏡のような群集は夕暮れから夜遅くま で銀座に沿って絶えず揺れ動く。…陽気で, 色彩に富み,純真で,ほどよく,容易に楽し める群集は,かわいらしく頭を剃って明るく 着飾った子供たちを連れて,一杯に散らばっ ている。奇妙ではあるが,新しいものと古い ものとの魅力的な混じり合いである。多彩な 提灯,無数のはためく表意文字の幟,そして 商店の看板の群は,それらが広告している 品々と同じように芸術的に満足させるもの で,すべてが全般的な活気に貢献している。 多くの日本人はまだ,古い体制とともに歩 み,封建時代の習慣が急速に消え去っていく ことに実直に従っている」48)。 『公認東亜案内』が「古風な」と形容した建物 は,ここでは「古い日本」ないし本来のものと 見なされ,「新しい」ものは「西洋的」と同じこ とであり,「モデル・ストリートしての名声の 低下」は「移行期」の「コスモポリタニズム」 的現象として理解されている。しかし,雑多な 建物が作り出す街並みについては厳しく遠慮が ない。 「「銀座」とその延長部に面しているどこか不 細工な建物は,外国的なものとこの通りを長 い間特徴づけてきた低い小さな建物より良い ものを作り出そうとする真面目な奮闘を,純 粋に表現している。ここでは,外国のスタイ ルについての日本人の考え方が,奇怪な形で 表現されている。建物の外見は,密集して建 っている不安定な建物に見合ったものであ り,より地味な環境の控えめな小さい場所に 被さるように横柄に聳え立っている。ニュー ヨークのブロードウェイとほとんど同じよう な不規則性がある。威厳のない大きさ,すべ ての品位と単純さからかけ離れた個性,似つ かわしさと節度よりも利便性,これらが構造 的なこのごたまぜの目立った特徴である。 「銀座」は東京の「目抜き通り」と見なされて いるが,現在それがはっきりと見せているの は,日本人がかれら自身のユニークで先験的 な美術からの精神的な警告に背き,外のもの から軽率に借りてきて,外国人から見て彼ら がやましく思っているとは信じられないよう な違反を犯していることある」49)。 「倒れそうに肩を寄せ合って雨に打たれてい る封建時代の遺蹟」のような建物,「看板建築」 と称されることもある「ファサードが取り付け られて中世的な胴体を覆い隠している」50)建 物,正面をけばけばしい色のタイルで被った 家,これらが「意地悪く攻撃的な」個性を主張 し,全体の調和を壊している。しかし,こうし た街並みの不調和に対して,銀座に集まる人々 の衣装と振る舞いは「万華鏡のような全体」51) の単位であり,とても魅力的である。とくに夕 暮れからの銀座には,幕末・明治初期に日本を 訪れた西洋人がしばしば使った表現に倣えば, 「妖精の国」が出現する。 「夕暮れから,銀座は都市のなかでの最も絵 のように美しい地域に変貌する。ある祝祭の 期間(通常,各月の7日,18日,29日)は, 巡回している露天商人が歩道の外側の縁に沿 って店を構え,かれらが売っている古いブロ
ンズ,木版画,雑多な骨董品,古本,多数の 甘いもの,食べ物,小間物は,ギラギラ輝く トーチや繊細に装飾された紙のランタンの照 明によって,全く魅惑的な展示になってい る。暗さが幸いして雑種的な建物のアウトラ インが穏やかになり,数千もの舞い飛ぶ蛍の ような光とともに,日本が再び妖精のような 魅力をもつ自己を主張している」52)。 京橋の骨董店が並ぶ裏通りとそこでの生活に は「本当のニッポンの趣」がまだ残っている。 「極東のなかでは最も大きなこの首都の密集 しているわき道に沿って,古い江戸がときお り自己主張し,色彩の調和と絵のような美し さをもった過ぎ去った日々の快活な生活が脈 打っている。これらの通りの幾つかは,本当 のニッポンの趣がまだ残され,それは順応性 のない西洋の一様性の心のこもっていない抱 擁によって損なわれていない。仏教と神道の 信条の丁重な教えに由来する信頼と精神的な 平穏と快活さに染め上げられて,隣接した街 路の性急で心を騒がせる激しさを忘れてしま ったかのように,ここの多くの住民は昔の生 活の主旋律を続け,古くかつ保ち続けてきた 伝統のシンボルに囲まれて,かれら本来の単 純さを保ってかれらの先祖の生活を生きてい る」53)。 これに対して,日本橋周辺は,商業活動の頂 点であり,街並みの不調和は銀座と同じだが, 街の活気と運河の賑やかさがそれを相殺してい る。「「日本橋」は日本中のあらゆる階級の人々 によって知られており,天皇自身の姿と同じよ うに帝国の姿そのものである。どの都市や町も 日本橋の少なくともコピーかミニチュアをもっ ている」54)。日本橋と江戸橋の間には,塩漬け された魚の倉庫が建ち並び,「高く評価されて いる太平洋鮭(Oncorhynchus)(このために北 日本は繁栄している)の最大の流通拠点」55)で ある。 「日本橋を越えれば街路はゆるやかに左に曲 がり,両側の新しい商業用の建物が立ち並ぶ 中を通り,近隣の充実した繁栄がより保たれ ている。多分,これらの建物のなかで最もモ ダンなものは,大きな「三越百貨店」であり, これは1914年に完成し,新しい東京が何であ るべきかを表現している。後の駿河町には巨 大なオフィスビルがあり,富と権力を持った 「三井物産会社」の東京本店が入っている。 この会社は,船,炭坑,造船所,不動産など 多数のものを扱っている。三越のすぐ後には 「横浜正金銀行」の東京支店があり,その向 かいには国立の日本銀行つまり「Bankof Japan」があり,そこに帝国の富が蓄えられ ている。実際に,この銀行と日本との関係 は,イングラント銀行とグレートブリテンと の関係と同じである。銀行に隣接する一帯の 裕福な所有者は,ここを西洋の路線に沿った モデル地区にしようとしており,東京のその 他の地区に何を為すべきかを示している」56)。 『公認東亜案内』は,「日本のベデカー」ある いは「ベデカーを凌駕する」と欧米の新聞雑誌 で評価された57)ほど,装幀,印刷,用紙,地 図,写真,挿画などの点で,出版物としての完 成度が高い。しかし,内容については,「餘り に叙事に忠実なりし結果がうるおいのないのが 物足らない」,「モツと多方面から材料を蒐め,
鉄道沿線以外の場所も広く網羅し,特に我が國 独特の事物に就いては専門家に依頼し趣味ある 且つ正確なる叙述を以てしたら一層立派なもの が出来ると思う」58)といった一般の感想もあっ たのである。 事実の記述に終始し「うるおい」や「趣味」 が欠けているという印象は,いわゆるお役所仕 事の限界というよりも,「見せたいもの」を「見 るに値するもの」と無媒介に同一視し,「公認」 という形でその正確性と客観性を担保するとい う,旅行ガイドブックの混乱した在り方に対す る鉄道院・省の回答の帰結なのである。「批評 性」は,漢文的美文的紀行文とともに,押し流 されてしまったのである。 まとめ 「鉄道」という移動手段が政治的,経済的な 変動要因であるにとどまらず,感性を含む文化 的な変動の要因でもあり,従って鉄道もまたひ とつの「メディア」であるという見方を,M.マ クルーハンはかつて提示したことがある。「鉄 道は移動とか輸送とか車輪とか線路とかを人間 の社会に導入したのではない。それ以前の人間 の機能のスケールを加速拡大し,その結果まっ たく新しい種類の都市や新しい種類の労働や余 暇を生み出したのである。このことは,鉄道の 通ずるようになったのが熱帯地方であれ北方地 方であれ,また,鉄道というメディアの荷物 (すなわち,内容)と無関係に,生じた」59)。 このような「メディア理論」的な発想の系譜 とは直接結びつかないにしても,シヴェルブシ ュもまた,鉄道という交通手段が,社会文化現 象の変動の直接的な要因となったことを,特に 旅行観,風景観の変化において明らかにしてい る。シヴェルブシュは,鉄道という新しい交通 体系に不適応を示す伝統的な知覚と同時に,そ れを「全幅に受け入れる知覚」60)が発達するこ とに着目して,新しい態度を「パノラマ的」61) 知覚とする。前景の消失,立体感覚の消失,そ の結果,「鉄道の速度は,以前は旅人がその一 部であった空間から,旅人を分つのである。旅 人が抜けてしまった空間は,旅人の目にはタブ ローになる(または,速度により視界が絶えず 変わるので,絵巻物またはシーンの連続とな る)。ラスキン流の伝統的な目とは異なり,パ ノラマ的にものを見る目は,知覚される対象と もはや同一空間に属していない」62)。 「パノラマ的知覚」は「知覚される対象とも はや同一空間に属していない」とすれば,それ は(ジブェルブシュの言うように)孤独な読書 空間の成立という帰結63)ととともに,地理的・ 鳥瞰的視角の一般化という帰結をももたらすは ずである。「知覚される対象ともはや同一空間 に属していない」一般の旅行者にとって,この 同一性を知的に回復する媒介となるのが,「ガ イド」であり,「ガイドブック」なのではないだ ろうか。 旅行が一般に,帰属する場所からの一時的分 離と別の場所との一時的結合という二つの側面 を持つとすれば,鉄道は一時的に訪問すること が可能な場所を一挙に拡大したが,それは個々 の場所を鳥瞰する視角を拓くことになったので あり,同時に,道路や鉄道の沿線を軸に空間を 再編することが可能になる。このような社会的 前提のもとで,さらに特定の国や地域の概観と ルート設定を軸とするマレーやベデカーの編集 形式が可能となる。この社会的前提の上で,文 化的行為としての旅行の内容が多彩に展開され るのだとしたら,批評や評価に踏み込まない自
己制限は,一種のリベラルな指向だとも言え る。しかし,ガイドブックそのものの中で批評 と評価が示されないならば,それは事前に非公 開に行われるしかない。こうして日本でのガイ ドブックにおける実用性,機能性の追求は, 「見るに値するもの」への問いを避けることを 意味し,これによって公認ガイドブックと紀行 文との裂け目は拡大せざるをえなかった。 凡例 引用文中の[…]は引用者による省略を, [ / ]は改行を示している。また旧字旧仮名遣い文 の引用に当たって,適宜新字新仮名遣いに改めた場 合がある。 註
1) Ian Ousby,The Englishman’s England: Taste,TravelandtheRiseofTourism,Pimlico, 2002,p.13. 2) 「ガイドブック」そのものを文化の観点から 否定的にとらえる論者は多数いるが,旅行の発 展を「旅行の衰退と観光の発展」とみる D.ブー アスティンにとってもガイドブックは疑似イベ ントとしての観光のひとつの象徴に他ならな い。「近代の観光案内書は,観光客の期待を増 大させてきた。それはウィルヘルム皇帝からチ チェカステナンゴの村人に至るまで,その土地 の人々に観光客がいつ,何を期待しているかの 詳細な項目別リストを提供してきた。それは観 光客が見物する芝居のための最新の脚本である ともいえる。その先駆者はいうまでもなく,ラ イプチッヒのカール・ベデカー(一八〇一─五 九)である。彼の名前は,彼の作った本の代名 詞となった。イギリスのトマス・クックがガイ ド付きの団体観光旅行を完成させていた頃,ベ デカーは活字によるバッケジ・ツアを提供し始 めた。ベデカーは一八二九年,最初ドイツ語で 書かれたコブレンツの案内書を出版した。一八 四六年には最初の外国語版がフランス語で出版 され,一八六一年には英語版が現われた。第二 次世界大戦が始まるまでに,ベデカー社は百以 上の異なる案内書を二百万部以上も売り上げ た。英語,フランス語,ドイツ語で書かれたこ れらの案内書は,中流階級が勃興しつつあった 国々で読まれた。中流階級は,つつましい予算 と限られた教育にもかかわらず,「大旅行」を しようと一生懸命努力していたのである。」 (D.J.ブーアスティン『幻影の時代─マスコミ が製造する事実』(星野郁美,後藤和彦訳)東京 創元社現代社会科学叢書1974年,114ページ。) 3) 1920年(大正9年)に鉄道院は鉄道省に昇格 する。 4) 中川浩一氏は「和文の旅行案内書としては他 に類をみない,詳細かつ綿密な作品」と評価し ている。中川浩一『旅の文化誌─ガイドブック と時刻表と旅行者たち』伝統と現代社,1979 年,199-200ページ。 5) 『公認汽車汽船旅行案内』大正4年2月号, 広告16ページ。 6) 青木槐三,山中忠雄編著『国鉄興隆時代』日 本交通協会,1957年,123ページ。 7) 「木下の改善案は,上記三社を合同せしめて 一社となし,理想的な旅行案内を編集させ,こ れを公認として刊行させるというプランで,即 ち,三社は合同によって経営力を強化し,資本 を集めて旅行案内の実質的改善(用紙,印刷, 製本等)を計ること,これに対し国鉄は,私鉄 関係者とも計って,内容の整備,検閲に一層の 便宜を与えるということであった」。青木槐三, 山中忠雄編著『国鉄興隆時代』日本交通協会, 1957年,123ページ。時刻表の歴史については, 高田隆雄監修,松尾定行・三宅俊彦『時刻表百 年史』新潮文庫,1986年などを参照。 8) 『読売新聞』1919年(大正8年)7月4日,朝 刊5面。 9) 「千余部もあって当にならぬ旅行案内を改良 ツーリスト・ビユーローで展覧会 此夏は各学 校や外人の旅行が多い」,『時事新報』1919年 (大正8年)6月1日付,この展覧会について の他の情報は,『日本交通公社五十年史』財団 法人日本交通公社,昭和37年。100ページ。『ツ ーリスト』1919年(大正8年)7月,38号,85 ページ,「案内記展覧会の廊下にて」。
10) 紀行文がガイドブックの役割を果たしていた 実態については,次のような報告もある。「今 から思うと明治から大正へかけての旅行者は案 内書の上に於いては,何と間に合わせものを使 って旅行していた事だろう。彼等にはその事自 身のために生まれた案内書がなかった。彼等は 多くの場合音羽,花袋,桂月,麗水等々諸家の 紀行文を案内にして旅行していた。恐らく彼等 は,それに依って甲地から乙地への里程,丙地 の旅館等がはっきりと呑込めはしなかったであ ろうと思う」。雲牀荘「待ちに待った —『日本 案内記』(東北篇)出づ」『旅』1929年(昭和4 年)7月号,111ページ。 11) 松川二郎「間違だらけの旅行案内(上)(下)」 『読売新聞』1925年(大正14年)8月8日,8月 10日付。 12) 上田文齋『内国旅行 日本名所図絵 東京名所 独案内』高山堂,1890年(明治23年),82-83ペ ージ。 13) 『大正十三年版 鐵道旅行案内』鐵道旅行案 内編纂所發行,2-3ページ。 14) 『鐵道旅行案内』鉄道省,大正十三年八月,23 ページ。 15) 1919年(大正8年)鉄道院編纂『神まうで』, 1920年(大正9年)鉄道院編纂『温泉案内』, 1922年(大正11年)『お寺まゐり』,1924年(大 正13年)『日本北アルプス登山案内』,1924年 (大正13年)『スキーとスケート』など。 16) 『日本交通公社五十年史』財団法人日本交通 公社,昭和37年。 17) 『日本交通公社五十年史』財団法人日本交通 公社,昭和37年,80ページ。「第3節 日本案内 記の編纂」。また『日本国有鉄道百年史 第八 巻』(345-346ページ)では次のようにまとめら れている。「日本案内記等の刊行 大正15年, 観光宣伝の一つとして鉄道省では『日本案内 記』の編纂を計画し,運輸局旅客課でその案を 練り翌昭和2年4月から編纂に着手した。この 『日本案内記』は,日本全国の名勝・史跡・産 業・経済・人情・風俗・地質その他各般の事項 を旅行案内書式に収録しようとするもので,内 容の正確・完備を期するため文学博士黒板勝 美・理李博士山崎直方その他専門家に調査およ び編纂を委嘱した。この計画は最初全国を6部 に区分し,全6巻3か年継続事業とし着手した が,その後種々の事情によって計画が変更され 全8巻となった。すなわち,昭和4年に東北編 を出版したのを最初に同5年関東編,同6年中 部編,同7年近畿編(上),同8年近畿編(下), 同9年中国・四国編,同10年九州編,同11年北 海道編をもって全8巻を完成した。なお,この 案内記は完成までに10年に近い歳月を費やした 関係で,最終巻刊行当時は最初のころに刊行し た東北編や関東編などはすでに現況と著しい相 達部分が生じていた。そこで第8巻完成と同時 にこれらの改版を発行することとし,昭和12年 に東北編を最初として逐次改版し刊行した。な お,この『日本案内記』は全部博文館から翻刻 発売された。」 18) 鐵道省『日本案内記』1930年(昭和5年)3 月8日版(復刻版,中外書房発行,昭和五十年) 95ページ。 19) 『日本国有鉄道百年史 第八巻』345ページ。 20) 木下淑夫「『汽車の窓から』に序す」,谷口梨 花『汽車の窓から』博文館,1918年(大正七 年),1ページ。 21) 森寅重,長井愛爾編著『興味を本位とした新 鐵道旅行案内 本州西部九州の巻』評論之評論 社,1926年(大正15年),1-2ページ。 22) 財団法人日本交通公社社史編纂室編『日本交 通公社七十年史』株式会社日本交通公社発行, 昭和五十七年,9ページ。「喜賓会」全般につ いては次の論文を参照。白幡洋三郎「異人と外 客 外客誘致団体「喜賓会」の活動について」, 吉田光邦編『一九世紀日本の情報と社会変動』 京都大学人文科学研究所,1985年。 23) 山中忠雄編『回顧録』ジャパン・ツーリス ト・ビューロー(日本旅行協会),1937年(昭和 十二年),244ページ。 24) 抄訳は,『チェンバレンの明治旅行案内 横 浜・東京編』(楠家重敏訳)新人物往来社,1988 年。 25) 「1893年5月16日付ラフカディオ・ハーン宛 手紙」,Morelettersfrom BasilHallChamberlain
toLafcadioHearnandlettersfrom M.Toyama, Y.Tsubouchiandothers,compiledbyKazuo Koizumi,Tokyo:Hokuseido,1937,p.67. 26) 太田雄三『B・H・チェンバレン 日欧間の往 復運動に生きた世界人』リブロポート,1990 年,203-204ページ参照。 27) 原タイトルが英語であり,『鉄道院版英文東 亜交通案内書』『東アジア旅行案内』等の訳も あるが,本稿では,“Official”という語を重視 しかつ当時の語感を尊重して『公認東亜案内』 と訳すことにする。 28) 経歴については,WhowasWhoinAmerica 1932-33,p.2259.参照。 29) 山中忠雄編『回顧録』ジャパン・ツーリス ト・ビューロー(日本旅行協会),1937年(昭和 12年),80ページ。 30) 鶴見祐輔著,一海知義校訂『正伝 後藤新平』 第5巻「第二次桂内閣時代 1908~16年」(藤原 書店,2005年),237ページ,「伯の鉄道院総裁と なるや,ただちにこの『英文東亜案内』編纂の 事業に着手した。それは普通の案内記と異なる 遠大なる計画であった。ドイツの『ベデカー案 内記』に範を取ったけれども,その構想はベデ カーより遥かに雄大であった。ベデカーが,実 際旅行の便覧たる目的に終始して執筆せられた るに反し,該案内記は美術,哲学,文芸,茶の 湯,庭園,演劇,能狂言のごときにいたるまで, 日本の特色を各方面から委曲に説明して,文化 的色彩を濃厚に盛り上げたものであった。」 31) 青木槐三,山中忠雄編著『国鉄興隆時代』日 本交通協会,1957年,298ページ。「この東亜案 内は,来遊の外客のために,ひとり日本のみな らず,鮮満,南洋と,ひろく東亜圏内の観光を も堪能せしめようとする木下の意図から発意さ れたもので,この編集事業は,明治四十年秋か ら始められ,実地調査のため,同年九月に,工 藤謙が鮮満及び支那へ,三上真吾が南支及び南 洋方面へ,大正三年虎居徳三が南支へ,大正四 年鶴見祐輔が南洋へ特派された」。 32) 1941年(昭和16年)に“Japan:TheOfficial Guide”として改訂される。 33) 『公認東亜案内』第一巻序文。 34) 『公認東亜案内』第一巻序文。 35) 鉄道省とは別にジャパン・ツーリスト・ビュ ーローが作成した英文の日本ガイドブックや英 文京都ガイドブックにおいても,マレーやベデ カーがつねに参照されていた。「案内記の作成 に就ては生野氏はすぐれた意見を持つてゐた。 自分もビューロー入所早々京都案内の作成を命 ぜられたが,実地踏査の前に生野氏かち京都に 関する文献にひと通り眼を通すこと,就中,モ ーレーとテリーの案内記に注意すること,距 離,見物所要時間,料金等を的確にすること, 出先では市役所やホテルに於て最新の各種統計 や外人に特に輿昧ある資料を得ること,出發前 大体の組骨をつくり,それを携行して実地踏査 せよと親切に教へられた。」山中忠雄編『回顧 録』ジャパン・ツーリスト・ビューロー(日本 旅行協会),1937年(昭和12年),81ページ。 36) 『公認東亜案内』第二巻序文。
37) Thomas Philip Terry,Terry’s Japanese EmpireincludingKorea andFormosa with chaptersonManchuria,TheTrans-Siberian Railway,andTheChiefOceanRoutestoJapan,
HoughtonMifflinCo.,1914,Foreword. 38) 中川浩一氏はこのような弱点から,テリーの ガイドブックを「失敗作」と断じている。『旅 の文化誌─ガイドブックと時刻表と旅行者た ち』伝統と現代社,1979年,231ページ参照。 39) テリーのガイドブックの利用について次のよ うな記述もある。「汽船のデツキ・チエーヤで は眠れるかというと,太平洋じゃそんなにきっ ぱりと眠るわけには行かないようだ。あの深い 海水は快適な響きを立てて滑って行き,船客は 船客でメロン,ハム,卵,トースト,コーヒー ─それからテリーの有名な日本案内記を消化 しようとして身体を楽にしている。…椅子へ帰 ってまたぞろテリーを繙くことにする。「仏教 は俗人に理解されるような文学を有していな い」なんてところから始めて,ものの二十頁も 読む。ところが船客たちがひっきりなしに甲板 を歩いているので,うるさくてしようがない。 …」(イー・シー・メイ「船中暦日なし」,ジャ パン・ツーリスト・ビューロー編『外人の見た
日本の横顔』ジャパン・ツーリスト・ビューロ ー,1935年(昭和10年),420-421ページ。) 40) 実際に夫婦で吉原観光にでかけたアメリカ人 観光客もいた。ハリー・カー「日本を語る」, ジャパン・ツーリスト・ビューロー編『外人の 見た日本の横顔』ジャパン・ツーリスト・ビュ ーロー,1935年(昭和10年),747-784ページ。 41) 『公認』第三巻,62-63ページ。 42) 『公認』第三巻,63ページ。 43) 『公認』第三巻,65ページ。 44) Terry134-147. 45) Terry134. 46) Terry134. 47) Terry141. 48) Terry142. 49) Terry143. 50) Terry143. 51) Terry144. 52) Terry144. 53) Terry144-145. 54) Terry147. 55) Terry147. 56) Terry147. 57) 「鉄道院版英文東亜交通案内書に就いて」『ツ ーリスト』1916年9月21日号,41ページ。 58) 「案内記展覧会の廊下にて」『ツーリスト』 1919年(大正8年)7月,38号,85ページ。 59) M.マクルーハン『メディア論─人間拡張の 諸相─』(栗原裕・河本仲聖訳)みすず書房, 1987年,8ページ。 60) ヴォルフガング・シヴェルブシュ『鉄道旅行 の歴史─十九世紀における空間と時間の工業化 ─』(加藤二郎訳)法政大学出版局,1982年, 76-77ページ。 61) シヴェルブシュ 79ページ。 62) シヴェルブシュ 80ページ。 63) 永嶺重敏『“読書国民”の誕生─明治30年代 の活字メディアと読書文化』日本エディタース クール出版部,2004年。