人間性と個人性
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(2) . Aug .1950. GAKUGEI. VO I ,l .2 , No. のへの接 近を、 換言すればその中で美そのものふ腕時性 ●ない。 即ちエロスの を認識せしめるものでなけ ればなら. 続の関係ではなく絶対否定の関係に於いてあることを示 すのである。 そ してエロスはよ り低い段階 からかふる英. 死なるものを指示 して、 その何であるかを識らしめる). の似姿として 現れるに到るので ある。. 自体への飛躍をその情熱的な力に於いて可能にする。 か くして永遠なるもの 光のうちに、 時間は現実に永遠性←. 憧れは時間的なる もの▲中に於ける窮迫から超え出て、 :間を克服するものを求める。 辞霊的 なるものふ力は不 時 :間性の中で行われる限り、 叉パ トス 僻しながらそれが時 ,が時間的である限り、 かふる永遠なるものへの 接近は相 対的であるに過ぎない. プラトンは人間を homo sapiens と して ロ ゴス の力 を. その中に於いてはその最高の美. 尊重するにも拘 らず、 また同時にそれはパ トスによって 担われている欲求的存在であることを無脱しない, エロ. の瞬間さへ時間の共存なしにはあり得ない。 これが此の 美を不完全ならしめる所以であり、 「多くの」 美の領域 に於いて はそれは同時に醜い ものとして 示さ れるのであ. スの讃美はそれ自身肉体と魂との具体的 全体的な統一を 主張するものである。 そ してか ふる人間の全体的把握の. I 1 る (Vg .479A)。 . PO. 主張はまたポリス的存在と しての規定にも示される。 蓋 しギリ シャに於いては ポリスは個人の本来的な自由な創. 以上の如く してエロスが欲求する究極のものは、 それ への段階とは全く相対立するもの、 時間を超えた氷滋な るものである。 それは個体的な感性的な 美ではなく、. ● 造にかふると考へ られ 、 第七書翰に述べ られ て い る 様 と破滅 キ こ悲んでいるとさ れるからで に、 それは常に裏額 ある。 それ故饗宴篇に於いて はデイオテイマもポリスに 於ける 「不死の名声と栄誉」 とに対する ダイモーソ的な. 「美そのもの」 であり、 「明澄な純 粋 な 難 り な き」. i i l ine l ikt l (e t く r ・ on) (Sy s aron 1 np ,ame ,ka .211E) 静 的. な美である。 それはまた 「常に存在し、 生ぜず滅びず増 bd さず減らざる」 もの (e .211A)であり、「それ自体と. ) 欲求を讃美するので ある (209D 。 かふる人間の全体性 , スの一面 化を阻止すると へ の顧慮は、 一方に於いてパト. ’ th して自己と倶 にあり、 単姿的な永遠の存在」(aut ; a ol ’ h i haut 1 i d d 2 1B t 1a ) (eb , 1 ) oe t ・ t sae o ob ou monoe e 1 I. 共に、 他方精縛のまた女化の不自然なる作篇並に虚飾に ● 対して、 常に新たに激しい生命力を賦興ずるこ とを意味. といわれる。 それは時間を克服せるものであり、 それ故 時間的なるものからの連続に於いては成立し得ない。 か るものへの闘換は「突然」 exa i く,してか1る永遠な・ s phna 1 0C)●行われるといわれる。 即ちこの両者は連 (ebα 2. 大. 間. 性. . . するであろう。. 附記 ギリシャ語の訳或は久保、 阿部 両氏訳 「饗宴」 全集を参照 したJ 並に岡. 田正三氏訳プラ ト ン-. と. 個. 人. . 性. . 札幌分校哲学研究室 dua i i l l ty. … … 1 〔 l i Saburo ls ture and 工n( vi ・ zawa:】 uman Na. 目. 1……現代倫理学の問題. 次 m……個. 人 性. = ・ ’…・人間性の発見と個人性の自覚. 1 現代倫理馨の問題 倫理学の問題は其の研究の対象と して 二つの方面が考 えられる。 一は人間と人間との関, 係であり、 一は人間と 自然との関係 についてである。 然 し両者は純対的に区別. されるものでなく相互に聯関を持っているのである 即 -を通じて行わ ! ち人間と人間との行篇的聯関は人間の精命 れるのであるから、 全く人間と自然との関係を無硯する 事 が出来ない。 同様に古来か ら取扱われてい る人間と自. 然との関係を研究の対象とする倫理学も、 人間の協同体. ′ h U.
(3) . 第 2 巻, 第 1 号. 塾. 学. ・. 昭 和25年 8 月. した事に依る。 譲れる自由の観念は個人性に就いての無 理解に依る。 即ち全体性としての人間性と個人性との聯 関に於ける無自覚に依る。 人格の尊重は現代に於て特 に. 即ち蔵会に於ける人間の間柄について論及している。 研 究の対象の差は人間を中心として自然を対象とするか、 或は人間を対象とするかに依るのである。 故に倫理学は ●そのものより離脱す 何れの立場を取るにしても 「人間」. 強調される。 故に人格の要素である人間性と個人性の問. 題は現代倫理学の重要な問題という事が出来る。. る事は出来ない。 倫理学は 「人間」 より出発してあくま で人間の究明でなければならない。 従って現代倫理学も 亦 「人間に関する学」であり、「新時代に即する人間の究. 1 人間性の謎見と個人性の白鷺 68~1834 辞学者シュライエル々ツヘル (17 ) は主とし. 明」 でなければならない。 従来 「人間」 なる語は人間以 外の動物と区別する語と・Lて解せられた。 この場合人間. て宗教的立場より人間性を把捉し、 更に倫理学上重要な. 個人性の慣値を 狐調 した。 彼の著書 「独語鉄」 (Mono-. の特質を人格と名づけて、 自己意識や自己規定等を持つ. l 00) は倫理学を組織的に論じたものではない og en:18. 論ぜられて とされた。 この意味に於て人格の尊厳力幕 もの・ 来たのである。 近来之に対 して就会の協同生活に於ける 人間を観察して、 人間存在の二 重構造によって人間を 解. が、 彼は自らの体験に基いて ロマンテイ クの思想の下に 強烈な情熱を以て彼の思想を告白したものである。 寧ろ. 釈する立場がある。 従来の倫理学との根本的差異は 「人 間」 なる語についての意義の相違であって、 人間存在に. 彼の著作 「宗教論」 (1799」 よりも情熱的作品として 読. 者の心を惹きつける力 が大きい。 独語鉄は人間の問題と 個人性の問題について述べられてあって、 倫理学上貢献. 於ける人間は自然に対立するものでなく ・ 、 人間相互の行 篇的聯関に於ける人間である。 入 間性は人格の特質である。 然 し人格の意義の相違に よっ・ (人間性の意義も自ら異る。 ニコライ・ハルトマソ. する点が彫くない。 ヵ トは個人の特質を顧みる事なく、 道徳律の普遍妥. が人間性と人格とを区別 している如く、 私は次の式を以‐. て人格の概念を規定する。 人間性+個人性=人格. 当性を以てすべての人を律 しよう ・と試みたのであるが、. シュライエルマッヘルは其の道徳律のみを以て人間の行. 篇は規定され得るものではないとして、 個人の独自性に 着眼して個人の意義と債値を明かにしよ・ うと したのであ る。 故に彼を して個人性を強調させるに至った理由は却 って カントに負うものであると言う事 が出来る。 即ちカ. この場合人間性とはあらゆる人間が人間として自然的 に共通に具有する性質であると共に人間存在に於ける全 体性の意義を持つものであるコ 個人性とば就会に於ける. ントの義務のため義務を行わしめる善意志の無 上命法は. 万人に普遍的な法則として規定されたものである。 シュ ライエルマッヘルはこの道徳律について は異議を挿まな. 各個人の特異性を意味し、 かかる特異性は各人が先天的 に具有するものである。 カントが 「道徳の形而上学の基 礎附け」 に於て、 無上命法として掲げた 「汝の人格に於. かつたのであるが、 更に個人の独自性を重んじて、 カ ン. トの普遍的法則を実際の個々の場合に適用するに当り、 個人の特異な表 現と しての行篇を重税したのである。 個. ける及びあらゆる他の者の人格に於ける人格性(人間性) を常に同時に目的として取扱い、 決して単なる手段とし てのみ取扱わないように行鷺せよ」 は人格と人間性とを. 人の独自性に倫理的贋値を置こうとするものである。 ス トr ‐カーが良心論に於て、 個人の客観的事実 としての罪. 区別している。 カントの力説する人格の@巌は人間性の 尊敬に外ならない。 即ち人間は人格主体であり自目的存. 悪体験を重んじて・ カ ントの超個人的な理性を以て良心 現象となす事に反対した如く、 シュライエルマッヘルは. 在なるが故に尊厳性を持つのである。 カントがあらゆる. 人間に妥当する人間性を尊重した事は倫理学上偉大な功. 個人を抽象した超個人的人間の道徳律を以てのみ人間の. 績であるが、 人格の一要素である個人性の面を看過 した. 行篇を規定しようとするカントの倫理学説に反対したの である。 独語鎌はかかる意図の下に作られた も の で あ. 事は彼の倫理学の欠点と言わなければならない。 人間性. る。 独語録の内容は五章に分れ第一章反省、 第二章探 求、 第三章世界観、 第四章展望、 第五章青年と老年であ. は人間に普通的なものであ ,ると同時に、 夫々の人格は個. 人性を持つのである。 即ち人間の共通性と多様性とが考. えられなければならない。 . る。 この中特に第一章反省、 第二章探求に於て人間性の 曾て個人の個値が軽硯された事は、1恰も概花が春霞に 発見と個人性の自覚について述べられている。 ュー ベル ヴークは彼の 「哲学史」 (1923 讐えられて、 全体としての概花の美が賞讃されたが、 一 ) に於て次の如く批評し 個の楼花の美が美とLて認められなかった事の如きであ. てし・る。. る。 人間は尋厳なる人間性と個人性を持つ慣値ある存在. 「シュライエルマッヘルの宗教哲学が人間的に自由な. である。 今日に於ける道義の顔廃は人間性の尊厳を忘却. 精称を呼吸したように、 倫理の領域に於ても亦 即ち独語 7.
(4) . r . Vo l ,2 . .1 , No. GE工 GAK GAKUGE. .. ・. Aug .1950. 気がつく時に この地上は自己の自由な活動の 舞 台 と な る。 そ して自由は 人間そのものの内的行篤から、 或は固. 鉄に於ては個人主義的立場を代表 したものである。 且つ. 或る程度に於いて浪漫主義者等の人生観の哲学的代表者. 有な 心から生れ出たものである。 「自由なる .汝は私には. となったのである。 各個人は夫々宇宙の表 現であり鏡で ある。.最高の道徳的課題はこの人格的個人性の発展と表. すべてのものの中で最も根源的なものであり第一のもの ・ ・ であり内的なも ,のである。」(18頁) 自由を直観するため. 現とである。 自己の本来ある所のものになる事が唯一つ の望みである。 行篇の同一性を主張するカントの無上命 法はシュライエルマッヘルにあっても亦官能的動物的生. に自 己の中 に自ら入ってゆく事によって、 自己の眼は時. の領域から脱出 して必然性の制約から自由となる事 が出 来る。 「自己の行篇は自己の中にある人間性を規定し、 その人間性を一つの形態と確固たる特徴の中に表現し、. 活の低級な塞無を超えた象徴すべき高いものと思われて いたが、 教養と道徳の特性に比較すれば低い立場と して のみ考えられるのである, 自己自身の或る種の自我は、. 自己を生成すると共に自由な精辞の協同体の一つの独特. ;の力、 青年と老年からさ 状の偶然的接合から独立に、.時. 9頁) 斯く な自由な行動を示そうとするものである」 (1 . 人間性を直観する事なしでは、 或はその人間性の領域に. マッヘ ルの倫理学の差異を独語鎌を介して述べたもので. つけれども永遠性の領域に於ては不死のものとなるので. 自己の最も内的な最も独自な行篤に於てあらゆる外的事 えも独立に自己の自由な精辞的自己規定を主張するもの. 於ける自己の場所と地位を規定する事な しでは、 自己の 唐的表現で ある事を望 、本質を理解する事は出来ない。 人 間性を自らの中に知る である。 彼の独語鎌も亦かかる馨る 事によって人々は時間の領域に於ては死すべき運命を持 んだものである。} (122頁」 是 は カ ン ト と シ ュ ラ イ エ ル. ある。 即ちカントに於て軽硯された個人性の方面を・シュ ライエルマッヘルが附加し発展せしめたのであると批評. ある。 自由な精譜の活動 に依る直観は永遠なるものであ る。 かかる崇高な要請を輿えるものこそ員の 反 省 で あ. したので ある。. る。. という意味で ある. なる計算と異るものであって、 贋の内省によって人間性 を発見し、 有限なる過去の出来事や経験に捉われること. ・. 斯くの如く独語鉄第一章に於ける 「反省」 の意義は単. 「反省」 と‘ は自己を内省する 独語鏡に於け る第一章の、. シュライエルマッヘルに依れば、 静 かに自己の内容を省察する事によって人間性が発見され 得る。 自己省察とは世間の多くの人達が考えるが如き単 に過去に於ける快楽や悲哀についての計算的なものを 意. なく其等を超えて無限辞不死の領域に自己が属する事を 知 らなければならないとした。 宗教的立場から人間性を. 発見したのである。 個人性の問題はこの草の終り近い所 に述 べられて いる。 「橋辞的協同の各手段を考究せよ、. 味するものではなく、 青々の本質として最も高きもの最 も内なるものに省察の目を向ける事であ’ る。 外界は永遠. 汝の特有なものを表現せよ、 汝を版り巻くすべてのもの - =を示せ」 (23頁) 是は同章19頁に於ける 「独 に汝の橋示 特な自由な行動」 を更に強調 したものと見る べ き・で あ. の中に、 或は愛化して ゆく現象の中に人間性を崇高な像 として吾々に反映する, 然るに多くの人々は過去の或る 時代を区切って彼等の努力の跡を喜び、 或は悲 しみ、 叉. 或る者は過去の学び得た自己の知識を誇り喜ぶ, 彼等は. る。. .. 第二章の 「探求」 に於ては更に人間性の意義と彼の倫. かかる事をな して 自己の反省と考えて満足しているが、. かくの如き反省は何れも基虚なものであって、 特殊の中 に含む全体的なもの、 普遍的なものを見逃 しているので ある。 「一つの線 を切る一点は線全体の一部分でない. 理思想の特 色である個人性について 述べている。 即ち各 人は自ら● の本質を探求する事が大切であるにも拘ら 『、. この幾何学的 直線と同様 に人生を区切る瞬間も亦時間. 持つ内面性を推量L轟くす事は出来ない。 員に自己自身. 却って他人を知る事が容易であると思う人が多い, 併 し 他人について 知り得る事は外面的に表示された行篇にら. 其の点は本源 的に直接に線全体に属している と い う よ り、 寧ろ無限的なものと聯関しているi (lo頁). いてのみ理解する事が出来るのであって、 決して他人の. 的生の一部分でなく、 永遠 的なるものの象徴である。 一 点なる瞬間に於てこ そ自己と無限なるものとの関係が示 されるのである. に探求の眼ける時:その判断は間違いない。 かかる意味の. 探求は世間一般の人のなし得る事でもなく叉彼等の望ん. でいる 事でもない. 従って彼等は自己の行篇は何を目ざ. 世人は瞬間を時間の一部分として のみ. し、 如何なる緒辞が彼等に行篇するように駆り立ててい るかを漠然としか推量する事が出来ない 彼等は他人の. 見て永遠なるものの要素としての内的な而かも自由な 生 を直観して 居らないのである。. \ ●. 外的行篇を見て内的なものを判断したという誤謬に陥っ 員の自己反省は精譜の内的本質を捉える事である。 事 物の永遠的なもの が自己の中に有している事を反省する ′ てし・る。 故に彼等の心は常に動揺して、 自らが人間性の のが贋の反省である。 人間性が身体を支配して いる事に 領域にいる事を知らないのである。 自らの中に人間性を 8.
(5) . 第2総 第1号. 学. 観察 し、 そ じ〔一度人間性を発見したならば常に眼を離 さない事が人間性の聖なる領域から迷い出る事のない確 . . 実な手段である。 こ の明瞭な意識を持たない人はたゞ周 囲の協同体に支配され引きずられてゆき地上の世界にい. るのである。 然るに人間性について の意識に目覚めた人 達こそ聖なる境- こ入る事が出来るのである。 人間性は内 的に全く同一な事である が、 各人は単なる同形なるもの. としてのみ存在すべきものでない。 「人間性とはすべて のものが内的に同一な事である。」.(30頁) シュライエルマッヘルは第一章「反省」に於て 人間性の. 意義については明確に述べてないが・ 此の所に於て人間 性の内的同一と、 個人は不同形の存在である事を明かに しようとしている。 此の意味は次のように解せられる。 存在について考察するに、 A なるものとBなるものと が存在するとすれば、 存在という事は Aなるもの及び B. なるものに於ては共通な事実である。 AB 両者に同一な 事は共に存在するという事である。 然るに Aと Bとの存. 在に差異のあるのは Aの存在の仕方と Bの存在の仕方が. 違う事であり、 叉.Aの存在の場所と Bの存在の場所とが 異るためである。 A B 両者の存在の 「仕方」 と存在の. 「場所」 の相違である。 「正義」 についても同様な事が 言われ得る。 正義なる事は其の木質に於て同 一 で あ る が、 害々が各人の正義を観察し比較する時に、 各人の正. 義に差異が認められる。 是は正義の外部に表われた形態 に於て差異が生ずるからである。 各人の地位、 職業、 才 能等の差異によって各人の行篇の形態が異る, 而して同. じ地位、 職業にある人達でも場所を異にする事によって 自ら差異を生ずる。 此等の相違によって内的同一なもの も互に区別される。 斯くの如く地位や場所によって現お. れた外的行篇は多様な形式を取る。 而して其の多様な形 態の中に、 人間性は様々な形となって表われる。 即ち一 個人は只特殊に作り上げられたのではなく、 各人共通の 人間性を具有しながら各自の独自な立場によってなされ. る各人の行動に於てその人間性が多様な形をとって現わ れるのである。 以上の如く人を人たらしめる人格性たる 人間性は各人に内的に同様なものであるが、 人格は各個. 人によって夫々独自なものであるという意味に解せられ るコ 更にこの章の 「探求」 は人間性の意義から個人性の 自覚とその強調へと述べら才tこゆく。 即ちシュライエル. マッヘルに依れば、 人が官能的動物の如き品位の無い孤立の状態に自己 が. あるという事を恥じて自他不二なる人間性を 意識しても 義務の前に自己が投げ出された時に、 直ちに理性が働き. かけた自然を直観し理解する事は出来ない。 何となれば. 大抵の人々は定らざる中間に漂いながら、 人間性の自然. 昭 和25年 8 月. のまま即ち個人化しない要素を現実 に現わ して いるので あるからである。 人間の要素をそのままに現実 化してい るのは丁度固有の形態にま で結晶しない石 の粗なる塊の ・ 如きものである。 ここに於てシキライエルマツヘルはこの粗なる人間性 を如何に表現すべきかについて彼独特の主張をなさしめ るに至ったのである。 彼の謂う個人性の意義は次の言に 依って明かにされる。. 「かくして今や私の最も高い直観なるもの が私に現わ れて来た。 各人は人間性の要素を独自なる混合を以て、 其の ,人間性を独自な仕方 で表現すべきであって、 其に依 って人間性が各人の仕方で自らを啓示し、 人間性の内部. から発生出来るあらゆるものを無限の中に実現し得ると いう事が私に明瞭に成って束たのである0」(30頁) 是はシュライエルマッヘルの個人性に関する核心的思 想の叙述である。 即ち人間性の内部から発 する所のすべ てのものを無限の中 に、 時間と峯間の中に実 現しようと. するためには、 人々は人間性の要素を独特に混ぜ合わ し て、 その人間性を自己独特な様式で表現すべ き で あ っ 、. て、 この特異性を持つ様式が外部的行動となって表われ. て来るのである。 実に之は個人化せる様 式の重要な事を ′ 力説しているのである。 「独自な表現」 之が彼の大いな る願望であり、 カントの道徳律による行篇との著しい違 いである。 各人の独自な仕方によって万人異る人格が作 られてゆくのである。 而も其は人間性なる同一性を根抵. に持ちながら築かれてゆく 。 故に同一なる人間性の異な , る姿への発展とも言う事が出来る。 或は叉個人化 せる人 間性が人格の本質であるとも言われ得よう。 シュライエルマッヘルは独自なる自己の様式がある事 を自覚し・ 〔初めて、 更に÷つ高い段階なる目的に達 し得. たのである。 未だ独自な様式で人間性を表現すべき事を 弁え知らぬ彼の周囲の人達と自ら区別してい た の で あ. る。 即ち彼を取りまく周囲の人達は彼 より未だ段階の低 いものと見ている。 彼は此の考によって一層高められ、 彼の特殊なる形態と教養を架しむべき特に個別に選ばれ. た譜の作品であると自ら感じたのである。 更に彼は探求. を進めて各自の特異な表現の重要性から人間の多様性と いう事 に考察が続けられて行った。 諺会を構成する人々. には何か標準となるべき型は無いかと彼は人間の型を観. 察Lた。 彼に依れば、 地上に於ける人々のなす仕事に於て、 八の性質には二. つの型が存する。 其の-を 「生産的型」 となし他を 「受 容的型」 となした。 前者は人間性を豊かな作品として作 り上げて、 自ら発表 せんとするものをす べての人が認識 せねばならぬ様に外的に表現する型であり、 後者は人間.
(6) . iB工 GAKUGB. l Vo .2 .1 , No. 方で表現するという倫理的命令はシュライエルマッヘル の倫理思想の特色であり、 カントと異る意義を持つもの. 性自らの中に於て、 多様の行鴬を通 して一つの決定的な 姿になそうとする型である。 人間はこの両者を等量に配. である。 シュライエルマッヘ ルに依れば、 個物は普遍の 表現であり、 象徴であり叉反映である。 人間は人間性を 有する存在であり、 個人の特異性という点から特殊なの. 分されて 所有している ものでなく一方を多く持つもので 々はこの二つの型が存在する事 ある。 教養を持たない人, に気つかずに自らを制限 しているな らばその生活は常に 動揺を免かれない。 而 して此の中何れかの型に入る事を 知り得た人は其 の一方面 だけに深く進み、 他の一面には. である。 人格への道は只個人を通してのみ開 か れ て 居 り、 自己を知り人間性を知る事によってのみ宇宙への道 るのである。 各個人は一般の個別化さ れたも が発見され・. 僅かな聯関 があるに過ぎない。 生の終局に於て両者は漸 時に 接近し、 遂に完全性が輿えられるのである。 併 し是. のである 叉一般は個人の 生活以外に其の成立を見る事 は出来ない。 一般は個人の生活の中に実現されるのであ. には人々は滅多に到達出来ない課題である。 然らばシュライキルマッヘルは如何なる型の人である . こ ょると、整備家の如き生産 かについては、彼自らの告白キ 的な型でなく、 自己の教養の内容を深めゆく受容的な型 の人であると言っ 〔いる。 故に彼は自己の内面性を深く 見究めょぅと欲 したので・ 個人的教養の篤に自由な閑静. る。 個人と家族蔵会園家人類世界との生々とした交流作 用に於て始めて 個人の存在の意義があり、 個人性の値値. がある。 斯くの如くシュライエルマ ッヘルは個人と蔵会の対立 の中に調和を求めようとするのが彼の終局の倫懲思想で. 即ち個 人は其の内面性に於て無限なものを所有 していると共に、 全体は叉個人の多様なる表現によって ・れるので あると彼は考えたのである 完結さ 。 シュライエルマッヘルの個人性に関 して次の四人の学. あった. な断で思索せんと したのである。 併 し彼は 生産的型でな いと自ら告白して いるが彼の整備的作品である「独語鏡」 は多くの読者の心の糧 となったのであるつ 更に 「探求」 に於て彼は人間と人間との関 係 に つ い. 者は下のよう に選べている) (1) VV Joewr: .I. て、 他人の糟 満と聯関ある協同体の中へ入らねばならぬ 事を自覚 して、 孤独より脱 して友愛の必要な 事 を 説 い た。 シュライエルマッヘルの老は人 間を一人の人間と考 えたのではなく、 協同体に於ける人間を観察したので あ る。 彼の倫理学の特色は特殊と一般、 個と仝との関係或 は調和 が研究の対象とさ れている, 故に個人性に於ける. 「シコ ーライエルマッヘルの個人性の考えは道徳律に適 様性に反対した ものである。 特異性は難眼な. う行篇の. る多様性から作 られる。 ここから個 人性なる観念の形而 上学的背景が開かれるので ある。 其は各人が其の人間性. の要素を独自に混合して、 その人間性を独自な仕方で表 現すべき道徳的現象界の財の表示である。 更にシェライ. 個人も就会より孤立せる人の意味でない。 m 個. 人. Aug .ヱ950. 法人間を カント的型に して しま っ て エルマッヘルの関心{ 、E D鴻 世界観を萎縮 せしめないという事である」,(Loe. 性. iue l i i l e r r ns e er ・ mac e s, l Grundl en ] der Ethik Schl rob ) 0 8 4 0 7 1 l 9 1 S 1 i k 1 ) K E l i t t ・ s u a Be ze・ ・ng z n . t , .. ーは個人性の強 レ倫理学の特色の・ シュライエルマッヘノ 調である。 彼は共同の文化生活のすべて の要素を個人の. 完成という統一された目的のた めに個人の完全な 教養の. (2) Jodol:. 中 に充実 せしめようとしたのである, 贋の道徳 的生活は 共同的生活関係が一つの個 への形 態に集中される創作で. 「確かに道徳的なるものは主観の気儲や固執でなくし. て、 普遍的個値を表現する事であると同様に具体的道徳 的任務は普遍的型ではなく、 個人の眠態や素質を考慮す. なければな らないとした。 各人は 夫々個人的使命を持っ ′ てい るのである。・道徳の任務は実に個人の十分なる完成 にある というのが彼の個人に対する見解である。 ヴィ ソ. る事であり、 機械的でなく雪術的に解放され得るという , 一般的なるものと個々のものとは対立するも 事である .的なものへ高められる のでなく、 個々のものが普遍妥当. デルバゾトが 「個人の道徳的発展は共同の文化生活の魔 い墓礎にのみ考えられる べきであり 、 全体の形 態を作り ・. ー l i t l s ・ c e der c 事 によ っ て 互 に 関 係 して い る」 (Jodol: Ge. 出すすべて の要素をr つの個人的加工の中に成立するも のである。」 (ヴイ ソデル バソト:哲学史 19ー1 314頁), ,のはメュライェルマッヘルの 「独 語鏡」 に と述べて ある 於ける次の個所を言ったものである。 「人は各人の人 間. l l Et i 【:1923 ・ .S.130) (3) VVundt:. う主体を不定であるとか普遍的で至 「道徳的命令 が従● る所に同様なものであるとしないで、 主体は個人の,一定. 牲の要素を独自に混合してその人間性を独自な形式に於 ′ ,した素質や力を持ち、 自ら特殊な道徳的職務に従う具体 的個人的人格である。 カントに於けるが如き単なる個人 て表現すべきである」 (独語鍬30頁) 人間性を独自な仕 lo.
(7) . 第2 穆 第1号. て解釈され、 他人の独自性は愛によって理解されるもの ; e とした。 而かも個 の金に対する調和が重んぜられた。を. ではない, シュライエルマッヘルの老は職業の倫理的意 lung d ck e・Entwi r 味 に 関聯 して い る。 e 」 (Wundt: Di ・ l i i hauungen;ー912 l l t t s l tan en We s c s c .207) .S. 昭和25年8月. 聾. 学. って彼の個人性 なる観念や人間性或は調和等はライ ブ≠. ,. ・ ツ の 単 子 論 を 初 め ス ピノ ザ、 ヵ ソ ト、 フ ィ ヒ テ、 シ キ リ. (4) H6掻ding:. ソグ等の哲学の影響の下に意図されたものであるン 刺国 人の-般的なるものの表現はヘー ゲル哲学とも関聯して. 「シュライエルマッヘル の個入性の強調はカントやフ ィヒテに同意しない。 個人が何等かの道徳的腰値を有す る事の出来る唯一 方法は、 彼が個人の仕方で普遍的な. レマッヘルの倫理学説中人間性 いる) 以上はシュライエノ と個人性の問題について考察したのである。. ものを表現する事である. 個人性の撒著な特色を欠く個 人間性及び個人性の問題は 戦こ十九世紀の哲学の問題 人の行篇の場合には、 其の個人は十分に能動的であると 、 . de i tory of mo s はいわれない」 GI縦d ng:A brief hi rn , であるばかりでなく、 今後の哲学に於〔攻究されなけれ ● ・てい ● ぱならない。 個人性の問題は自由の 意味と結 びつV 9 I ー ,2 o 。p S , y:ー9 ,p phi ,13) しょぅ を明かに な活動の意 る 私は個人の創造的自由 義 o シユ ラィ エ しマッヘルは独自な表現形式を以て人格の シュライエルマッヘルの個人の観念に と して其の基盤を 重要な作用とな し、 カ ントの普遍的形式的道徳律に更に 求めたのである。 個人の特異性を附加した, 従って人格は個人によって 特 ‐ 今日大学教育に於て全人教育 が実施せられて、 一般数 殊なものである, 個人の慣値を強調 した事はカントの倫 轟と .専門教育とに分れている。 前者モリ、間性の 問題でぁ 理学読ょりも優れたものであるといぅ事が出来る。 人間 り・ 後渚は個人性の問題であると考えられるのである。 性の発見、 個人性の自覚はシュライェルマッ ル倫理学 〔備考〕 文献 「独語鰍」 の卓越した学説である。 併し是等は単に倫理学的立場か l i i l i Mo edr , n che r M0n。ーogen l l chsch e r ogen-Fr e a p らのみ考究されたものでなく、 彼の紳学的見解に基くも l i e t den Vor t chi e nebs arbe en. ▽on二 F.M.Q , von . H Mulert 1914 のである。 彼の人間性に関する直性は宗教的体験に基い . . .. 文 ・塾 .. の・. 科. 学. 序. 章 (二). -日本文芸史学への試論- 内. 野. 吾. 函館分校図文学研究室 Goro Uchi efacet no: Pr ・ ・ St t ー era o nloder e udy of Li ur .(2) A New out . . t t くont S ー oo 8e Li e r ure Qry of Japane at l estudy 。f 日i .. 目 ま. え. が. 次 4. ” 術前 .会学 5 ソ聯萎. き. ヱ . 褒 術 と 科 学 きの科学的研究 . 女診 3 . ドイ ツ 女 製 学. 6. 圏文学 への反省. 日本文薮学批判 む. ・す. ぴ. い。 園文学界には戦争前から歴史就会学派というものが ある。 特に終戦後はソ聯の馨術冠会学、.女聾就会学の立. 4 , ソ聯墜術織曾畢 ソ聯女婆学の実体については、 私たちはソ聯の他の文 化と同様にあ, まり知るべきたよりをもつ・ (いない。 しか しそれは日本の女聾洋 にとって .無 縁の存在でない事は勿 r現在の日本にはいろいろな形でこ1からの刺戟が瀬 論、. 場からの批評や立言が文壇 でも大きな勢力 となりつ1あ. る。 特に日本女馨学をめぐって戦後この派と前項 ドイツ 女馨学振との間に論戦がたふかわされ・ 〔いる, そ こ で. 今\ ちらちらと垣間見た丈の資料にすがって▼ 不完全な 11.
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