理科教育のあり方についての一私見
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(2) . 北海道学芸大学紀要 (第一部増補). 第8巻 第1号. 2年 7 月 昭和3. 理科教育のあり方についての一私見 相. 馬. 純. 吉. 北海道学芸大学函館分校物理学研究室 i soMA: t Junki. An op i ni on on Science Education. SI 序論 理科教育と自然科学との関係について 理科教育 が、 戦後大改革を受けてか ら、 既に十年近く、 その成果も次第に表われてきている。 し かも、 この結果について種々の批判があり、 所謂新 教育が必ず しも成功しているとは言えない様で 1 ) それならば、 現在の理科 教育の何処に欠点が あり、 それに対 して如何に対 処すべきかを考 ある。 えてみたいと思う。 そこに入る前に、 理科教育と自然科学との関係について反省 してみ よう。 2 先ず、 理科 の目標と しては、 文部省の小学校学習指導要領には、 次のことが述べられている。) 1) 自然の環境についての興味を拡げる。 2) 科学的、 合理的なしかたで、 日常 生活の責任や仕事を 処理 することが 出来 る。 3) 生命を尊重し、 健康で安全な 生活を用う。 自然科学の近代 生活に対 する貢献や使命を理解する。 5) 自然の美しさ、 調和や恩恵を知 る。 6 ) 科学的方法を会 得 して、 それを自然の環境に起る問題を解決するのに役立たせる。 7 ) 基礎になる科学の理法を見出 し、 これをわきまえて、 新 しく当面したことを 理解したり、 新 4). しいものを作り出 したりするこ とが出来 る。 叉、 中学校の理科教育の 目標についても、 16 項目にわけられているが、 上述の小学校のものと 6 7 ) の項目からもわかる )、 ( )、 ( 大体 同じで、 唯もつと細く規定している。 上述の目標、 就中 (2 も、寧ろ、自然科学的方 知識そのものを授けるより ように、 現在の理科教育の目的は、 自然科学上の 法、 態度を獲得することを目的と していること がわかる。 これは、 一時代 前の理科教育が、 自然科 学上の知識を授けるのに 重点を置かれていた のに比較 して、 新教育の大きな違いであり、 特色であ る。. 一方、 自然科学はその発生以来僅か 400 年を経たのみであるが、 その成果は、 それ以前の数千 年、 数万年にわたる人類の進歩の全部にも優る発見と発明を生み出した。 このことは、 自然科学を 生み出した思想、 自然科学に於て用いられている方法が、 非常に有用で、 実り豊かなものであるこ とを示すものである。 今日、 自然科学の発達が 著 しく、 その輝かしい成果に 肢惑され 勝ちである が、 この自然科 学の成果のみに驚くことは、 金の卵を生む鶏よりも、 金の卵に驚き、 尊重すること に他な らない。 即ち、 より貴重なものは、 金の卵ではなくて、 それを生む鶏である。 実際、 科学的 方法こそ人類の最大の発見の一つであり、 科学的な思考は、 自然科学の領域のみならず、 他の領域 でも、人間の思考、方法に大きな影 響を与えた。殻従つて、 科 学的な思考は、 今日 の市民生活の基礎 謎 科学的方法、 態度とはどの様なものであるかは、 ここでは述べない。 ここで著者の意図する科学的 と い う j , l l Somervi e 言 葉 の 内 容 に つ い て は、 j . サ マ ー ビ ル 「科 学 と は 何 か」、 B. ラ ッ セ ル 「科 学 の 眼」、 ラ ッ セ ル. 「教育諭」 を参照されたい。 -126-.
(3) . 理科教育のあり方についての一私見. 3 ) このように、 自然科学は人類の最も大きな文化的所産であり、 市民生活に欠 とさえなっている。 く こ と の 出 来 な い も の で あ る。 そ して、 こ の 偉 大 な 遺 産 を 広 く・ 一般 に ゆ き わた らせ、 こ れ を 次 の. 世代に引継ぐことは現代に課せられた 大きな責務である。 そ して、 これを普通教育の教科に求める ならば、 理解こそ、 正しくこの目的のための教科である。 逆に、 理科教育こそ、 科学的思考、 方法 が人類の最大の発見の一つであることを明かにし、 各人が、 これを自由に使いこなせる様にするた めの 教育であろう。 この意味で、 文部省の指導要項に於て、 理科の目標として、 自然科学の近代社 会に対する貢献の理 解、 及び、 科学的方法の会得、 利用を挙げていることは正しい。 普通、 自然 科学の近代社会に対する貢献とは、 自然科学的な発見、 及びそれに基づく技術の進歩、 引いては物 質生活の向上、 即ち物質文明と してのみの 貢献を思い勝ちである。 勿論、 これも大きな貢献である が、 科学を生み出した 思想、 及び科学で精はれた思考が、 今日の 人間の考え方に及 ぼした影響をも 決して 忘れてはならない。 即ち、 古代、 中世を支配 して いた 宗教や権威からの束縛を 脱 して、 自由 に考え ることこそ、 科学を成立さ せる条 件の一つであり、 近代の思考の一つの特徴である。 科学の 発展の間に精はれてきた、 偏見や感情を 出来 るだけ避けて、 物事を客 観的に判断することこそ、 近 代の社会生活に必須の態度である。 この様に、 近代の考え方 が科学 の発展をうながし、 叉科 学の進 ー ) 歩が近代の思想に影響しているのであるd 一方、 科学的方法とは、 深遠な科学上の発 見をする時にのみ用いられるもので、 素人には理解出 来ないものと思われるかもしれない。 従つて、 科学的方法の会得、 ま してや、 その利用な どは、 普 通教育の段階では望む べくもないものと思われるかもしれない。 しかし、 そうではない。 元来、 科 学的方法は誰にでも親 しめるものである。 誰でも、 正確に判断し、 有効に行動 する場合、 多かれ少 ) この科学的方法をとらざるを得 ないのである。 即ち、 科 学的方法は、 その本質に於て、 なかれ5 、 常識的なものであり、 役に立つものである。 従って、 理科教育を通 じて科学的方法を児童に理解さ せ、 これを利用出来る程度に体得させることが必要であり、 同 時にこの方法は役に立つものである ということを納得させねばならな い。 人は有用と感じたことでな ければ、 仲々覚えようと しない も のであ る。 従って、 科学的方法の有用性に何等の注意を払わないで、 それを会得させよう、 利用 す る様にさせようとしたところで、 能率は上らない。 即ち、 何の為に科学的方 法を会得 して、 これを 用することを 学ばなければ な らないか、 その・ ことを よく児童、 生徒に 納得されなければならな 利, い。 この方法は成程便利なもの だ、 これは役立つ方法だという理解が大切なのである。 この様に考えれば、 理科教育の目的は、 自然科学についての理解と、 将来、 社会に 出た時に役に 立つ、 科学的方法の会得に 重点を置かれるべきことは 明かであろう。 ここで 役に立つ ということ は、 児童、 生徒が、 将来、 色々の問題に遭遇した時、 その問題の解決に役立つ といいう意味である。 勿論、 社会に 出てから、 直面する問題は全て、 科学的方法で、 簡単に解決出来るとは思 われない。 勿論、 解決出来な い問題の方 が圧倒的に多いで あろう。 叉、 一つの問題を解決することは、 そこに 叉新たな問題を発生せしめ るという無限の問題の連鎖というのが現実かもしれない。 しか し、 こう した 現 実 に あ た っ て、 人 は、 兎 に 角、 問 題 に 一 度 直 面 し、 こ れ を 解 決 しよ う と す る で あ ろ うo こ の. 時、 この問題の解決に役立つ方法を身につけているのと いないの とでは、 大きな相違が生ずるであ ; ) ろう{ 。 そ して、 科学的方法を以って しても解決出来ない問題が圧倒的に多いかもしれないが、 そ れでも少なからざる問題は、 科学的、 合理的態度をと ることによ り、 少くとも解決の方向が見 出さ れ、 絶望的な諦めの境遇から脱 し得ると思われる。 従って、 理科 を学 ぶのは、 将来社会に 出てから も問題に当面した時、 科学的、 合理的な見方、 方法をとることが、 最も有効であるという確信の下 に、 こう した態度、 方法で問題を解決しようとする意欲に燃える人間を形成するにあると言っても -127-.
(4) . 相. 馬. 純. 吉. よいであろう。 このことは文部省の指導要項から外れていない。 寧ろ、 最も忠実に従 つていると言 えよう。 こう見れば、 現在の文部省の指導要項にある 理科の目的は以前の理科 教育に比べて進歩的 である。 即ち、 以前の理科は既成の科学から必要と思われる知識を取り出 してきて、 これを教授す るといつたやり方である。 そこには、 この貴重な知識を見 出すために生き生きと活躍した科学的な 思考、 方法には殆ど注意が払われていない。 少くとも、 こう したことに児童、 生徒の注意を向けよ うとする努力は何もな されていなかった。 いわば、 金の卵を与えても金の卵を 生む鶏の存在につい ては、 何も知らされて,いなかったのである。 この点、 科学的、 合理的態度、 方法の会得と、 その応 用 へ 注意を向けた現在の 理科教育の方針は正 しい。 科学的方法の会得、 利用に目標を おくならば、 理科の学習は、 当然、 既成知識の修得というよりも、 何か或る問題を設定 して、 それを解決してゆ く過程を重んず るという、 問題解決学習でな ければな らない。 この意味で、 今日問題解決学習が重 んぜられ るのは当然であ る。 しかし、 このことは、 現 在行われている問題解決学習をそのまま認め ることではないし、 叉知識の修得を全然無視することにはならない。 これから、 この点について考 察 して 行 こ う。. S2 現 在の 問題解決学習の欠点 7 ) 同氏は、 現在の理科教育の現状を鋭く このことについては、 既に芳賀氏の優れた論 説がある。 分析し、 根本的な欠点を明確に指摘 している。 筆者は、 その多くの点 ,に 於て、 同氏に賛成 するもの である。 同氏によれば、 今日の理科教育は消化不良である。 そ して、 理科教育を消化不良にしてい る原因は、 徒らに彪大 なのみで、 論理性を欠いた教材にあるので あ る。 更に根本的には、 文部省の 」 という 思想に あ 学習指導要項にある 「自然科学をその体 系に従って 学習することにはならない。 ることを指摘 している。 そ して、 以上の欠点を改善する為には、 理科教育に系統性を確立し、 学習 内容を順序だて ることの必要をを力 説されている。 これには、 全く同感であって、 今日の理科教育 の根本的欠点とそれから脱け出す道を暗示している。 筆者は、 先に理科教育の目標として、 科学的方 法の会得及び利用に重点 ,を置き、 この目標に到達 賀氏の しかし 論説は、 現在の理科 するためには、 問題解決学習によるべきことを述べた。 、 前記芳 教育の欠点の多くは問題解決学習に由来していることを指摘 している。 この間の矛盾は、 如何に し て解決すべ きであろうか。 ここで、 注意したいのは、 芳賀氏の指摘 しているのは、 飽く迄も、王見在 行われてい る問題解決学習についてである。 これは、 文部省は指導要項に 「理科においては、 生徒 R )とするとあり、 叉、 「この様な学習形式 の生活における現実の問題を解決することを学習の中心」 9 )ともある。 (問題解決学習) に於ては、 自然科学をその体 系に従って学 習することにはならない」 即ち、 この様に規定された問題解決学習が欠点, を有することを、 同氏が指摘 しているのである。 問題解決学習をこのように規定 することは、 問題解決学習、 即 ち、 生活学習という思想に よ るも の で あ っ て、 こ の こ と は、 引 い て は、 自 然 科 学 の 体 系 を 軽 視 す る こ と に な り、 あ れ も こ れ も と い う. ことになって、 教材を遊大ならしめる原因となつているのである。 そ して、 この様に体系の欠除 し ていることから、 現場の教師は花大な教材を 如何に処理すべきか、 その指針を得ることが出来ず、 その 多くは暗中模索的な授業を行い、 僅かな経験豊かな者のみが、 勘に頼って授業を行っているの が現状である。 一体、 現在行われている所謂問題解決学習は、 果 して問題を解決している学習になっているであ ろうか。 そもそも、 問題とは、 或る事態に対応 して、 そこに不調和、 不● 合理、 或は意欲に満たない ものを感じた場合、 その不調和や不合理、 或は不満を、 調和のとれた状態、 叉は、 合理化された状 28- -1 ,.
(5) . 理科教育のあり 方にりいての一私見. 態、 或は 満足な 状態に 置こうとする所に、 問題が つかまれ る 即ち 問題が問題 であ る た め に 。 、 は、 そこに常に心理的な緊張 がなければならす、 これを解 決しよう .とする積極的な欲求 がなければ ]の 若 し 問 題 解 決 学 習 が Cra な らな い。 ig が 「科学の学校」 でしば しば述べている様 に 、 、. 、 児童が 自ら、 実験を計画 し、 それを遂行 して行く時に、 その中途に於て 上述 の意味での解決を迫 られる 、 強い欲求を持った問題 が生ず るであろう。 そ して、 これを解決 しながら その計画を遂行 して行く 、 時には、 そこから、 科学的方法も、 体系によらず して 学び得 ることであろうし 叉 学んだこと 、 、 . も身につくであ ろう。 教師にと っても、 その計画をー ′ 合理的に実行し、 問題を 解決して 行くに必要 な、 高度の科学的素 養は 要求され るかも しれな いが 花大な 教材に悩むことは なかろうと 思われ 、 る。 これは確かに、 問題解決学習で・ ある。 しかし、 今 日我国で、 問題解決学習の名で行われている ものは、 上述のこととは程遠い状態にあ るのが現状であ る 即ち 解決 しようとする問題は単 元と 、 。 いう形でまと められ、 しかも、 この単元は 所謂 生活単元と称 し 児童 生徒の生活に関 係の深 、 、 、 、 いも の が 選 ば れ る。 こ こ で、 注 目 す べ・き こ と は 現 実 に は こ の 様 に 児 童 生 徒 自 身 の 発 見 し、 、 、 、 、. 解決を迫られたものを取上げ るのではなく、 出来上ったものが 単元と いう形で 提起さ れるもの 、 である。 ここには、 児童、 生徒を解 決へと駆り立て る心理的な緊張は見 ら れ な い 更に 要項 に 、 。 「問題を自分で解 決する過程を学習の中に 持ち込んで 全体の学習中 の 一つの大きな 仕事に しよ 、 う と す る。」n) と あ る が、 現 実 に は、 問 題・を 単 元 の 過 程 で 解 決 しよ う と す る 意 欲 よ り も こ の単元に 、. 沿って、 そこに出てい る教材を一つの既成知識と して受け取り その知識を学習 して行くというの 、 に近いのが現状である。 叉、 教師も、児童も、 問題を解決しようとする積極的意 欲もない 従って 。 、 本来ならば、 問題が解決される場合には、 必ずそこに現れ る筈の合理的な思考も現れずに 受身な 、 態度で、 単元に臨んで いる, 。 いわば、 単元に呑ま れて しまっているのである。 生徒同士 の討論と、 生徒側から活溌に疑問が提出される所に、 僅かに 積極的な態度 が見られるのみである しかも こ 。 、 の疑問も、 それ自身、 広い問題の端緒となり得 るにも拘らず 単元の展開に追われて 疑問の展開 、 、 に 主力を注ぐこと が 出来ず、 趣 く低度の解決に終るのが通例 であ る 一方 教師は単元の含まれて 。 、 いる範囲が広く、 教材も花犬であり、 その指導原理が明 示されてないのに困惑を感 じ 単元が 問題 、 解決の過程であることを忘 れている場 合が多い。 或は、 これに関心を持ちつつも一 如何にすれば 、 単元が問題解決の過程とすることが出来るか明確に理解し得ないで 焦燥と困惑を感 じている者も 、 多い。 事実、 筆者の 試みたアンケー トによれ ば、 教師が理科教育について感 じている困難は 予想 、 される様な 実験器材の 不足ではなく して、 教師自身 が 問題解決学習 を 如何に して処理すべきかに ついての知識及び自信の不足であった。 これは、 教師の 多くが、 旧い理科 ・ Y 即ち、 系統学習的な 理 科になじんでいて、新 しい理科 の 行き方に不慣れなせい もあるが 現在の問題解決学習自体に その 、 、 指導方針が 欠けてい る ことが、 大きな 理由であろう。 従つて 単元学習に 於ても 一人の児童 、 、 、 叉は、 生徒から自発的に出された疑 問が、 クラス全体によって 疑問と認められ1 これを解 決しよ 、 うとする雰囲気に なり、 これ についての討論が盛んな場合に於て 即ち 問題解決学習に最も適 し 、 、 た場にあっても、 教師の側に、 これを指導してゆく原理、 力量に欠けるため それが正しく問題解 、 決の方向へと発展せず、 既成の知識を与 えることによって、 その討論の解決 従って問題 が落着 し 、 たとしてしまう場合 が多い。 一方、 児童、 生徒の側か らも、 個人、 叉は、 或 るグループに単元中の一課題を 問題として与えら れた場 合にも、 それを自 らの問題として解 決しようとする努力を払わずに 安易に参考書 百科事 、 、 典等を書き写すことにより、 問題を解決した様に感じて いる場合が多い様である こう した行き方 。 は問題解決学習と は程遠いものであ る。 -129-.
(6) . 相. 馬. 純. i この様に、 問題解決学習、 即ち、 生活学習という思想は、 Cra g 流のやり方を取った時のみ成功 する可能性が あ る。 しか し、実際に、これを行うとすれば、 多くの時間と経 費、 更に優れた教師を必 ig の祖国アメリカに 於てさえ どの程度行われている か疑問に思 われ る。 ま して、 我 要 と し、 Cra 、 国の現状では実現困難であ る。 従って、 問題解決学習即ち生活学習という思想は、 現実的には単元 に よる学習という形をとらざるを得ず、 しかも単元の題材を児童、 生徒に密接に関連 した生活から 取るという、 所謂 生活単元学習という形にな らざるを得ない。 このことは、 必然的に、 自然科学の 体 系とは全く無関係な、 系統のない、 進 大な教 材を含むことになるのである。. 83 所謂系統学習について 我々は、 始めに、 今日の要項に 述 べ られている 理科教育の目標が 正 しいもので あることを知つ た。 即ち、「理科学習の本質は、 日常生活に於ける 自然についての経験を 組織的に発展させ ること に あ る。 身近な現象について、 正 しく見、 くわしく考え、 的確にその対象に対 処する能力を組織的 」 叉、 指導要項の随所に、 理科教育に 於て養われるべ き態度、 に 養う様に計られなくてはならない。 」「事実を 尊重し、実証する」「態度」 を養 」「道理に従う。 能力と して、「科学を日常生 活に応用 する。 成 し、「問題をつかむ」「原 理を応用 する」「分析的に判断する」「能力」 を養うべきことを挙げてい る。 この様に、 目標は正しいが、 現実の問題解決学習は、 その目標に到達するのに、 正しい方向を 向いているとは思われない。 理科教育の目標と しては、 児童、 生徒が科学的方法、思 考の有用性を理解し、その有用 性の故に、 それを会得しようと欲し、 現在は勿論、 将来にわたつても、 問題に遭遇した 時に、 盲目的な解決を 試みることなく、 科学的思考、 方法によつて、より能率的に問 題を解決出来る程度に、 科学的方法、 思 考 を 会 得 せ しめ る こ と に あ る。 理科▲の 目 標 の (2)、 (6)、 (7) で 述 べ て い る こ と は、 こ の こ と に. 他な らない。 換言 すれば、 理科とは、 問題解決に役 立つ自然科学的方法を会得するための学科であ る。 ここで問題解決とは 「生徒の日常 生活を向上させ るために、 個人的ないし社会 的にみて、 現実 に どのような問題の解決が必要であることを考察 する」 ことであり、 児童、 生徒にとつては心理的 緊張を含む問題である。 この目的のためには、 理科教育は問題解決学習でなければな らず、 叉生活と密接な関係を保つも のでなければな らない。 しかるに、 前に述 べた様に、 これ迄の問題解決学習及び生活単元は 理科教 育にとって根本的な欠陥を有する。 しか し、 問題は、 問題解決の為の 学習は即ち、 従来の問題解決 学習と考える所にある。 ここで、 問題解決の為の学 習とは、問題にあた って、それを盲目的でなく、 合理的に解決しようとする考え方、 或は行動を会 得せしめ、 更にその為に必要な知識を授けること に あ る の で あ る。. 問題解決学習 をこの様に見るな らば、 旧来の系統学習も、 或 る条件 を備えさえすれば、 問題解決 学習となり得るのである。 例えば、 旧制中学に於て、 実用的意味が殆 どない、 ュークリ ッ ド流の幾 何を課したという ことは、 この科 目の学習を通じて、 厳密な論理に習熟させ、 正確な推論をするこ とを 会得させようと したものであろう。 幾何という科目は 実生活とは、 一見無関係な 科′目ではあ るが、 これを学習 することによ つて、 実生活に於ても、 必 要な論理的思考に よつて理解 し、 正確な 推理を行う 態度、 能力を養うこ とを目的と したものであろう。 しかも、 その時代に於ては、 一応成 功していたのである。 (今日の中学校、 高等学校卒業生の論理的思考力が 不足している 原因の 一つ ) この様に、 身についた論理 的思考は、 は、 ュトク リ ッ ド流の幾何の軽視にあるのではなかろうか。 問題解決に も役立つであろう。 後に詳述する様に、 系統 学習も或る意味では問題解決に役立つ学習 30「 -1.
(7) . 理科教育のあり方についての一私見 に な つ て い る と 見 る こと が 出 来 る。 , こ こ で、 気 が 付 く こ と は- 実生活に役立つのは. 基礎的な知識と、 よく身についた態度と いつ 、 でも実行に移せ る能力とであ る。 学習要項に あ る 「生徒の日常生 活を向上させる」 と は 生徒が 、 、 日常生活に於て、 小は彼等自身の身の廻りの問題 から、 大は 国家 間の関係に至 る迄 何等かの問 、 、 題に対決した時、 これを解 決の方へ一歩でも進めることであ る 何も 日常生活の諸現象を一応 尤 。 、 もらしく説明すること ではない。・この様に考えれば、 日常生活を向上させる為の問題解決とは 生 、 徒の日常生活か ら取材した単元による学習であ ると考えるのは速断であ る ま してや 「科学の体 。 、 ・ 系に従って学習 することを意味しない 」 という思想は 誠に近視眼的な考え方であ る 。 、 。 第一節でも 述べた様に、 科学こそ、 人間の発見した 最も有力な方法であり 武器である 従っ 、 、 。 て、 実生活に役立 つための理科であるた めには、 その教科を通 じて 科学的方法の精髄を理 解し 、 、 会得させることが必要である。 従って、 理科 ′教育の方法としては、 この目的のために、 最も能率的 な方法をとり、 教材を選ばな ければならない 勿論 教材が児童 生徒の身近なも のであること が 、 。 、 望ましいが、 これらは二次的な要素である 最も重要なことは 最も典型的に 科学的方法 思考 。 、 、 、 の特徴を現わして いる教材によるべきであ る 即ち 科学的思考とは 畢寛一つの考え方 (Pa t e rn 、 。 、 、 t ofthinking) で あ る。 こ の p t t e a rn を理解し、 これを日常生活に利用出来る程度に会得せしめる こと が肝心なのであ る。 従って この pattern が最も理解され易い形 に表れている教材を用うべ 、 きである。 先に例として挙げた、 旧制中学に於けるュークリ ッ ド幾何を教材と して採用 しきたこと は、 こ の p t t a e rn を会得させよ うとした 教材であったに違いない 即ち この論理性 体 系性を 。 、 、. 最も典型的な形で 備えている学科を 生徒に課することにより 論理的 思考という一つの Pa t t e rn 、. ing を 教 え 込 も う と した も の で あ ろ う し か も こ の 時 代 で は 多く の 難 問 を 課 す る の ofthink が 。 、 、. 例であった。 そ して、 この幾何の難問に直面することにより 生徒 は 如何に して こ れをとくか 、 、 、 という点に、 心理的な 緊張を生じ、 真の意味での問題意識が生 じた そ して こうした難問を解く 。 、 ことにより、 生徒の分析 力や、 厳密な論理をたどる力が養成されて行ったの である こうして養成 。 き れた分析力、 論理追及力が将来役 に立っていることは明かである 即ち 実生活に最も迂遠な幾 。 、 何を学習する ことにより、 実生活に於ても必要な 問題の分析 力 思考の論理性を獲得することが 、 、 出来たのであ る。 この意味で、 幾何の学習は 問題を解決する学習にもなっていると見 られないこ 、 ともない。 今 一例を幾何に とった場合を述べたが 旧制中学に於ける幾何は 所謂系統学習の典型 、 であ る。 従って、 系統学習 は、 皆、 今述 べた意味に於て Pa t e rn ofthinking を獲得させようと 、 t するものであり、 それが成功 した場合には、 問題を解決するための学習となって いるのである そ 。 れならば、 理科教育の目的を達 成するためには 所謂系統学習によるべきかといえば それは 必ず 、 、 しも そ う で は な い。 と い う の は 系 統 学 習 に は 叉 大 き な 欠 点 が あ る か ら で あ る 、 、 。. 第一の欠点は、 系統学 習は、 どう しても学 問的体系の 中から 比較的 重要と考えられ るものを抜 、 き出して、 これを教材とした 学習になり勝ちである 事実 以前の理科 はこの様な学習であった 。 、 。 こうした学習は、 必然的に、 既成の知識を授けることに重点が行く しかも そこに 何の不思議な 。 、 こともなく、 何の驚異も感ぜ ず、 自明の知識 して授け られる いわば 知っていること だけしか教 。 、 えられず、 それ以外に如何に広大な未知 の分野があ るかについて は 殆ど関心を 払 わ な い 従っ 、 。 て、 と も すれ ば、 こ の 世 界 は す べ て わ か り・切 っ た も の で あ り・ あ らゆ る こ と が 説 明 が つ く と い う 、. 誤った印象を児童に与える危険があ る。 しかし、 本来 の科学的態度はこう したものと 全然反対のも のである。 すべての科学上の知識 は自然に対 する驚異から由来 している 叉 この自然は未だに謎 。 、 に満ち、 その解決は将来に ゆだねられて いる。 こう した自然に対 する畏敬 驚異こそ い つ迄も児′ 、 、 3 1 -1.
(8) . 相. 馬. 純. 古. 董、 生徒の内に失われないで、 保 持されるべきである。 こう した驚異 を積極的に探究 しようとする 意欲と、 そ れを実行する科学 的方法こそ、 理科教育に よって、 養成されなければならない。 この点 について は、 系統学習はとも すれば、 児童、 生徒の持ってい る、 素朴な、 しかも、 貴重な、 自然に 対 する関心、 興味を失わせ、 消極的な態度 を作り勝ちである。 第二の欠点と しては、 系統学習に於 ては、 体 系と知識を授けるのに重点が置かれ、 これを生み 出 tern of thinking) が 蔭 に か く れ て しま う こ と で あ る。 云 わ ば、 金 した、 生 々 と した 思 考 方 法 (Pat. の卵のみを呈示して、 金の卵を生む鶏の存在に ついては、 何も知 らさないのと同 じ様であるo そも そも、 金の卵であること知 らせ様とも しないのが例であ る。 つまり、 前例に引用 した幾何について 言えば、 幾何を学ぶことが、 どの様に実際生活に役立 つかということには、 何も触れないのが従来 の系統学習であった。 若 し、 実生活に どの様に役立 つかということを少しでも考えたな らば、 どう しても体系そのものよりも、 これを生み出 した考え方に何等の注意が向けられない筈である。 ここ に小さな形ではあるが、 「学問のための学問」 という思想の片鱗を見出 し得る。 更に 叉もう一 つの欠点 ,と して、 系統学習を採用 することは、 児童、 生徒の理科に対する興味を失 より、 わせ勝ちである。 この点 、に ついては、 前述の様に、 理科を学習 する意味 を納得させることに 或 る程度防止 出来 るで あろう。 しか し、 本質的に、 学問的、論理的、体系を背景とする系統学習と・ 1 2 こう した 児童の自然認識 の程度や、 児童、 生徒の思考の構造と一致させることは 非常に難 しい ) 。 して し する興味は激減 それに対 親 しみを感ぜず その教科に 致 し 敏感に児童 生徒に反映 不一 は、 、 、 、 考を誘発 :内面的な学習欲も生ぜず、 せいぜいの所、 受身な学習となり、 積極的な思 まう。 従 って、 することは望む べくもない。 しかし、 小学校高学年、 中学校と もなれば、 上述の欠点は、 教材の扱 い方によって、 かなり除くことが出来るであろう。 そこでは、 この節の始めに 述 べた様に、 問題を 解決するための学習となり得る。 しかし、 これとても、 うまく行った 場合の話であ り、 しかも、 う まとうのである。 まく 系統学習を行った場合でも. 、 やはり一つの欠 点はどう しても、 つき その欠点は、 系統学習は優れたもののみが才能 を延 ばし、 一般のものは落 伍してしまうことで あ る。 系統学習では、 実生活に 対 する有用性には何等の注意も払わなか った し、 金の卵を生む鶏の存 f P 在を教えなかった。 しかし、 優秀な者は、 その体系の内 から、 それを生み 出 した考え方 ( attrn o そ h i i t ng) の存 在に 気付き、 更にその学科での難 問を解決することにより、 多くの訓練を経て、 nk の. Pat trn o fthinking を 自 得 す る の で あ る。 こ う して 得 ら れた 考 え 方 を、 知 ら ず 知 ら ず に、 他 の. 問題の解決にも利用 しているのであ る。 即ち、 優秀な者のみが、 金の卵を生む 鶏の存在を察し、 こ れを我がものと し、 それに金の卵を生ませているので ある。 しかし、 一般の児童、 生徒はそうでは ない。 一般の生徒は、 その学科の日常生活に迂遠なために、 先ず、 その学科に 興味を失い、 その知 識 を獲得 しようとせず、 その知識、 体系、 方法を理解 しようと しない。 金の卵を生む 鶏どころか、 それが、 金の卵で あ ること さえ 理解 しないで、 その学科 を 終えるので あ る。 事実、 旧制 中学に 於 て、 最も典型的な、 系統学習的形式を備えていた幾何学の多くの生徒の最 も苦手な学科であった。 即 ち、 系統学習は、 必然的に、 知識を限られた八の手に 残すものであり、 広く万人の共有と しよう とする傾向に逆行するという 大きな欠点を有するので あ る。. S4 問題解決の為の学習 (理科教育の目的 を達するための学習) この様に、 問題解決のた めの学習と しては、 生活単元に よる学習、 系統学習、 夫々、 大きな欠点 を有することが わかった。 それならば、 どの様な学 習方法によるべきで あろうか。 考え方 (Pattrn. ing) に 重 点 を 置 き、 こ れ が は っ き り 出 る 様 な 学 習 方 法 を と る べ き で あ る。 更 に 具 体 的 に of think -132-.
(9) . 理科教育のあり方についての一私見. は、 一つの科学的知識を授 ける場合、 常に、 どの様な道筋で その知識 が得 られ 科学的に正 しい 、 、 知識と認められた か、 その過程に重点を置いた学習方法をとるべ きである それは こうした過程 。 、 に科学的思考の特徴がはっきりと表れるからである 叉心理学的にも 問題を解決する場合の思考 。 、 ; の特徴は、 その思考 過程に表れることが知 られている 1 : ) 。 従って、 上述の過程を重ん ずる学習は一 心理的にも、問題を解決する学習であ る為の要件を備えているものと思われる 即ち この過程が 、 。 、 4 問題解決の為の一般 的f )を具えてい るか杏かの 心理学的な判定を容易にする 事実科学上の 生質1 、 。 大 発 見 の 過 程 は、 生 産 的思 考 (Product ive Thinking) の 典 型 で あ り 1 ) その 故に科 学 的思 考 は役 、5. に立つのである。 ここで、 知識に至る迄の過程を重んずる学習ということを述べたが・ これならば 今迄に既にや 、 っていることだと思われるかもしれない。 しかし、 上で意味 していることは、 少し意味が違うので あって、 以下に少し詳 しく 説明しよう。 これ迄の理科の学習に於ても、 或 る科 学的な知識 が教え ら れる時は、 その基礎とな る事実、 実験が同時に教えられてきた。 これは確かに、 或 る意味では 知 、 識と、 その基礎とを結びつけて教える学習、 即ち、 過程にも言及した学習・で あ ろ う しかし こ Q 、 の場合数え方は、 多く、 形式的 であって、 いわば、 そ の事実と知識の間に は、 踏みな らさ れた道が 一本しかついていない様な教え方であ る。 即ち、 その事実、 その実験からは その知識しか出てこ 、 ない様な教え方なのである。 しかし、 これは極めて危険な やり方である 一つには 児童 生徒は 。 、 、 実際に際して、 教師 が着目して欲しい所に常に注意 して いるとは限らないのである 寧ろ そうで 。 、 ない場合が多いとさ え思われる。 しかも、 彼等が教師と違う点に注意をし、 興味を引か れるのは 、 ) 即 ち 成人の自然認識と 児 童 生徒の自然に対 す 彼等なりの理由 が あってのことなのである。m 、 、 、 る関心とは同 一でない。 こうした場合、 成人の教師にとっては、 実験に副つて説明し 叉は 或 る 、 、 事実がその実験によつて証明 されたと感ずる時にも、 児童、 生徒は必ずしもそうは感じない ことが あ る。 実験は実験で、 教師と違う点 で感心し、 説 明は説明として聞く という場合がある 従って 。 、 ある実験をした場 合、 この実験からはこの結論しか出ないと考 えることは甚だ危険であ る 更に児 。 童、 生徒の自然に対する関心ということか ら離れても、 一般に一つ の事実には 色々の解釈 が可能 、 であり、 常に誰でも、 自明的に、 正しい結論に導かれるとは限らない。 こうした色々の解釈 可能 、 性の内で、 その考え方の性質、 或は他の事実 との関係等を併せ考えて、 正しい一つの結論 が導かれ るの で あ る。 こ の 色 々 の 解 釈 のF、 どう してもこう考え ざるを得ないと考え る その過程が肝心な 、 のである。 つまり、 色々の考え方、 解釈の内、 色々の実験、 観測、 思考の論理 性等の立場か ら検討 されて生き残った、 その考え方、 その どうして、 その考え方 が生き残つたか、 その過程が大切なの である。 こうして、 鍛えられて、 生き残った考え方であればこそ、 これを理解 し、 会得することが 将来、 問題に際会した時に、 その問題の解決に役立つのであ る。 これを、 或る事実か らすぐそ の知 識が出てくるかの様に教える。 参考書 流の行き方は、 安易な 弱い思考を作るのみで、 将来の問題の 解決には役立たないであろう。 叉、 こうした鍛 え られた考え方 は、 心理学的に も問題解決過程の - つの典型なのであつて、 従って、 この考え方は単に自然科学のみならず、 一般の問題の解決にも有 用なのである。 これに反 して、 或 る事実 からすぐその知識 が出てくるかの様に 教える、 参考書流の 行き方 は、 安 易な弱い思考を作るのみで、 将来 の問題の解決には役立た ないのであ る ここに 過 。 、 程を重んずる学習の意義があ る。 上 述 の 「過 程」 と い う 考 え を も っ と は っ き り さ せ るた めに、 こ こ で 一 つ の 例 を 挙 げ よ う 地 球 が 。. 目 ,転しながら、太陽の廻りを公転してい ることは、周知の事実である。 しかし、これは、広い意味で の仮 説である。 というの は我々の五感では地球の自転、 公転を直接感ずることが出来な い 感覚し 。 一133-.
(10) . 相. 馬. 純. 古. 得 るのは昼夜の別と四季である。 こうした感覚され得る、 生の事実 から、 どの様に して、 地球が自 転、 公転している ことが わかるか、 この過程が 上で述べた 「過程」 という ことなのであ る。 例え ば、 昼夜の別という感覚された事実からは、 地球が静止 して太陽が東から西へ動くと考えても、 そ れ自 身一向差支えない。 事実、 人類の長い歴史では、 こう考えてきた期間の方が長かった し、 或る 意味では、 こう考える方が自然である。 この考えが発展して、 天動説となれば、 一つの理論体系で あり、 それはそれなりで、 合理的でさえある。 この様に一つの生の事実から、 色々の解釈、 この場 合は、 地動説と天動説、 が生じ得る。 この 二つの説の内、 何故一方が正 しいと考えられるか、 何故 地球が廻るのが正しい知識であり、 真実 だと考える様になったのか、 この過程が肝心なのであ る。 この考えの過程に科 学的な思考が顔・を出すのである。 この過程は、 叉、 考え様によっては、 謬説と の戦いの過程である。 この過程に於て、 正しい知識は、 誤った失幅識と対決し、 これを打ち破 り、 こ うして鍛え られるのである。 この過程は叉、 世の不 合理、 迷信との戦いに似 てい ることは、 一度、 科学史の歴史をひもといた者には明 かであろう。 何故、 地球が動くと考えねばならないかという、 その理由は他の成書に譲るが、 簡単に述 べ れば、 こう考えた方が、 諸現象がより簡単に 説明出来る 1 7 )を 有 す る か ら で あ る。 即 ち、 太 陽 が 動 く と す れ dence し、 叉、 Connant の い う converging evi. ば、 昼夜の別 しか理解出来ないが、 地球が動くと考えれば、 昼夜の別は勿論、 他の現象が 矛盾なく 説明出来るからである。 これが、 諸現象が、 簡単に統 一的に説明出来 るということである。 逆に、 太陽が動くという考えを支持する事実は ・ 、 昼夜の別等、 二、 三の現象しかないが、 地球が動くと考 える方は、 一見無関係とも見える無数の現象から裏付けされるので あ る。 この こ と が、 converglng evidence を有するということである。 上述の判 定の 基準は、 科学的な 考え方の一つの特徴である が、 これは叉、 科学上のみならず、 一般に暖味な事柄の内から、 真実をかぎわける時の目安と して も役立っものであろう。 事実、 一人の人の口から聞く より、 多数の人から同じ話を聞いた方が、 そ i ng evidence の最も素朴な 表れである の 話 を 真 実 と 考 え る の が 常 識 で あ ろ う。 こ れ は、 converg と言えよう。 この様に考えれば、 科学的思 考 は、 常識 的な考え方の洗練 されたものであるとい うこ とが納 得さ れるであろう。 上述の地動説は、 ほんの一例であるが、 こう した科学的思 考が最も典型的に、 生き生きと した形 をとるのは、 科学史上での 大発見を した人が・ 、 如何に して、 その大発見に 導かれたかというその過 程である。 例えば、 ガリ レオが斜面の実 験から慣性の法則 を発見する道筋、 ラボ ァ ジェが燃焼の法 則を発見した過程、 或は メ ンデルが エン ドウの実 験から 遺伝の法則を 発見する過程 等がそれであ る。 そ して、 こ れこそ本当の意味での問 題の解決であ る。 それ故、 この解決過程は生産 的思考に外 imer はその著書で生産的思考の例と して、 ガリ レオの発見に到 な らな い の で あ る。 事 実、 Werthe る過 程を挙げているのも 理由のない ことではない。 そ して、 そ の問題の解決、 或いは、 科学上の大 i h i tern oft nk ng) は科学上の発 見には多 かれ少な かれ、 とら 発 見 に 際 し て と ら れ た 考 え 方、 (Pat れているのである。 t t rn ofthinking) が 科 学 の 発 展 を 貫 い て e 科学史的に見るな らば、 上述の港十等的な考え方、 (Pa いる流れで あ る。 従って、 この様な科学的な思 考に重点を 置くという学習は、 系統学習の様に体 系 的に教材を整 理するもの ではないが、 花大な教材を整 理する 一つの指針にもなるであろう。 学習、 それ自身、 が一つ Pattern で質ぬかれた 流れを持つことになるであ ろう。 いわば、 自然な発展の 跡をた どるという形に 於て、 教材が整 理されるであろう。 これは叉、 系統学習が論 理的な学問体系 l s )の い う 有 機 的 証 明 に 基 づ く 体 を背景とする学習であるとするならば、 前述の学習は K, Duncker i t ) な原理による体系が背景に なっている学習と言え よう。 それ c s 系、 換言すれば、 発 見的 (heure 4- -13.
(11) . 理科教育のあり方についての一私見. 故に、rこうした学習 では心理的な考慮が大きな比重を占 めることになろう 。 従って、 理科教 育が自然科学を通 して、 日常生活を向上させ 問題の解決に役立つものであるな 、 らば、 (理科の目標 ( 2 6 7 )、 ( )、 ( )、) 上述の様に、 科学上の発見、 知識に至る 過程に 重点を置き、 そこに働いている科学的な思考を明瞭に し これを会得 利用 する様な学習でなけ ればならない 、 、 。 この為に は、 こうした科学的思考が最も典型的に現れていて しかも理解され易い教材を選ぶべ き 、 である。 この際、 対象とする児童、 生徒の自然認識の段階及び論理性をも考慮し それに適したも 、 のを選ぶべきこと は勿論である。 そ して、 自然認識 の段階に於ても 個体発生は系統発生を繰返す 、 という原則が成立つな らば、 科学史上から得 られた教材も有用 であり 叉自然でもあろうと思われ 、 る。 叉、 心理学での生産的思考とその理論を考慮 することも 必要であろう 叉 Po l ya の考え等も 。 この学習を具体的に如何に行うかについて 大い に参考になるであろう 、 。 こ れ 迄、 理 科 の 学 習 に 於 て、 考 え 方、 (Pat tern oft h i i ) の理解と習得とに重点を置くべき nk ng こ と を強 調 して きた。 こ の こ と は 知 識 の 教 授 を 軽 視 す る こ と に な る か と い え ば そ う で は な い 、 、 。. 科学的な考え方は、 知識の量や程度とは一応 無関係なのであって 児童であっても 彼等が独自の 、 、 発見をする時には、 やはり科学的思考、 乃至はその原型を た どって いるのであ る 1の叉 科学を業 、 、 とするも のであっても・ 事の解決にあたって、 いつも科学的思考をしていると は限らない 従って 。 科学的な思考のみに重点を置け ば、 自ら科学知識が豊富になるというも のではない 故に 理科 の 、 。 学習として は、 科学知識の教授にも 十分意を用 いなければならない 問題を 解決するに あたって 。 は、同じ方法を用 いても、同じ解決に到達するとは限らない その人の知識 の量の多寡 その知識の 。 , 、 正確か否か、 によって正しい解 決に到達することもあるし そうでない場合もあ る 一般的に言っ 、 。 て、 正しい方法を採用 している場合は、 より豊富な より正確な知識を有するものが より速か 、 、 に、 より高い見地か ら解決に到達することは明かであろう。 従って 理科が問題解決のための学習 、 であるならば、 やはり知識の教授をも決して軽視してはいけない 前にも述 べた様に 一つの知識 。 、 を授ける時には、 常にそ の知識に 導 いた思考の方法 過程に注意を払 いながら 学習すべき であ 、 、 る 。この様にそこに至る道筋が明かにさ れた知識こそ 正しく理解された知識であり 当然その知 、 、 識の適用 限界も明かになるであろう 叉道 筋の明かにされた知識は そうでない場合よりも 遥か 。 、 、 に容易に、 記憶され、 利用され得ることは心理学的にも百 2 0 ) そして 一度 完全に 窪められている。 、 、 理解さ れた知識 は、 より高 い知識へ導く思考過程に於て、 自由に使われるべきである 知識は 常 。 、 により高いも のを生み 、出 すために使われる時にのみ、 有用である。 換言すれば、 知識をどのように 利用し、 どのように して そ こからより高いものを 生み出して行くか- その方法 が上述の科学的な 考 え 方、 (Pat tern ofthink ing)、 で あ り、生 産 的 思 考 な の で あ る こ の 様 に pat tern ofthinki ng 、 。. の学習と知識の習得とは、 相反 するものでなく、 為互に相補い、 相助け るものというべ き で あ ろ う。 唯、 知識のみでは、 さ程、 有効ではないが 考え方が身についていれば 必要な知識をその時 、 、 々に応 じて得ることは、 現代に於ては、 不自由ではない その故に 考え方の習得に重点を置くの 。 、 が当然 であろう。 こ こ で、 こ の 考 え 方、 (Pat inki tern of th ng) を 会 得.さ せ よ う と す る 学 習 は 小 学 校 中 学 校 の 、 、. 理科では無理ではなかろうかとし ・う問題が残る。 この点については、 筆者は専門外 であるので 児 、 童心理学者及 び現場教育者各位の御意見に期待 したい この点 Peage t の 児童の自然認識に関す 。 、 る説は、 或る意味では、 悲観的である。 しかし 最近の研究によれば 児童もかなり客観的な自然 、 、 認識を持ち、 叉かなり論理的な思考に耐えるとの見解もある様である 2 1 ) 。 唯、 常識的にもわ かる様 に、 こうした思考を重んず る学習は当然、 小学校上級か ら中学校にかけて 行われるべ き で・あ る 、 -135-.
(12) . 相. 馬.. 純. 吉. imer の 正方形 2 ) は 興 味 が あ る。 そ の 実 験 の 一 つ に、 Werthe う。 こ の 点 に つ い て は、 森 氏 の 実 験2 ・. の一辺と内接円の半径との関係を、 どの様に して求めるかを児童に課した。 その結果、 その求め方 は8歳を境として、 大きく変ることを見出した。 即ち、8歳以上では、 円の定義を抽象的に変形 し、 応用して、 柔軟な思 考により解決する児童の数は 急激に増す。 この年齢以上を客観的、・論理的段階 tern ofthinking を重んずる学習に十分耐え と 呼 ん で い る が、 こ の 年 齢 に 達 す る と、 こ こ で、 Pat. 得ると思われる。 この同氏の実 験 は、 先の常識的な予想を百窪めるものであろう。 fthinking を 重 ん ず る 学 習 を 行 う た め に は、 児 童 自 ら が、 仮 設 を 立 て て、 そ れ に 叉、 Pattern o. を有することが最低の条件の一つである。 しかし 基づいて考察化し、 説明 しようとする能力、 態度. 3 )による、 月の形 の変化に対す これは予想外に早くから見出される様で ある。 岐阜県三尾氏の報告2 i i c sm 的な説明はあるが、 ちやんと仮 説をたてて、 それに基 づいて、 筋道の る 子 供 の 説 明 は、 Mag 極めて近い態度である0 叉科 立った説明になつている。 ,この子供達の考え方は、 科学的な考え方に 学の 発達の初期に於 て は、 その科学知識は非常に幼稚 であり、 今日の小 学生にさえ及ばないであろ 知識から幾多の優れた科 ● う 。 しかし、 科学的思考は当 時でも、 生 き生きとして活動 し、 この幼稚な P hinki t ft t ng を重んずる学 e r n a o 学知識を 生み出して 行った のである。 こう考えれば、 前述の 習は、 小学校上 級 以上を対象とすべきであろうが、 小学校初 級でもやり方次第では不 可能でもなか ろうと思われる。 少くとも、 中学校をも 含めた、 初等普通教育 の過程に於ては、 十分実 行可能であ とは ろ う と 思 わ れ る。 こ の 点、 科 学史の初期に於 ける、 科 ,学的思考が どうであった かを考慮するこ ,大いに参考になるであろう。 t t e rn ofthinking に重点を置いた学習で あるべきだとす 理科の学習が、 これ迄述 べた様に、 Pa れば、 現実には、 理科の学習が如何にあるべ きかが、 次の問題になるであろう。 前にも 述 べ た 様 に、 文部省の学習指 導要項の理科の目標は、 それ自身としては、 間違っていない。 寧ろ、 非常に進 歩的でさえある。 しかし; この目標を達成する手段と して、 生活単元学習の形をと り、 意識的に自 然科学の体 系を離れた所に、 今日の理科教育の混乱が生 じた のである。 従って、 この混乱 から立直 る為には、 生活単元を捨 て 理科の取扱いを再編成することが、 最も根本 的であろう。 しかし、 こ のことは、 根本的であるだけに、 この変り目の混乱は非常に大 きく、 新学制が漸く軌道に乗ってき た今日、 この様な変革を行うこと は非常 な冒険といえよう。 元来、 考え方を重んずる学習では 教 材が系統学習的なものであるうと、 生活単元的なものであるうと、 それは二次的なこと である。 そ t t e rn ofthinking) に 適 した も の を 選 ん で、 そ れ を 題 材 と して 学 の教材の中から 最も考え方 (Pa 習すべきであろう。 この際、 何が最も問題解決に役立つ考え方であり、 叉何が最もその Pattern of ing の学習に適 しているかの選択には、 自然科学的な立場と、 心理学的立場と 双方より判定 think すべきであろう。 こ の点について、 具体的なことは、 稿を改めるこ とに するが、 ここで要 求してい t ‐ r る知識に至る迄の過程とか、 考え方とかは、 決して高度のものを意味 しているのではなく、 We he imer の平行四辺形の問題 の導出程度のことを念頭に 置いているの ,である。 叉、 この際対象とな る児童、 生徒の自然認識 の程度、 思考の特徴 等を 考慮すべ き ことは 勿論である。 こ の様 に 考えれ ば、 この学習は、ョ見在の教科書を用いても、 行うことが出来るのである。 j見住の理科の教科書を用いても、 この考え方に 重点を置いた学習を行 うことが出 来るために、 必 要な条件が一つある。 それは、 こ の理科を担当する教師 自身が、 この Pattern ofthinking、 即 ち 科学的な考え方、 方法をはっきりと理解し、 体得していることである。 そ して、 社会的意義と、 そ の有用性とについ て確信を持ち、 その意義と有用性の敵に、 児童、 生徒にこれを会得せ しめようと する熱意を 持っていることである。 更に叉、 教師自身が少くとも、 自ら考える人 であり、 積極的に 36- -1.
(13) . 理科教育のあり方についての一私見. 考えようとする意欲の持主であることが必要である。 これが、 この学習についての必要な、 最低の 条件である。 この点については、 現状は必ずしも楽観的であり得ない。 一方、 将来の教師を養 成す る教員養成大学に於ける、教科や、 その内容は、 この方向に向いていると は言えない様 である。 叉、 これ迄の理科教育の参考書の多くは、 理科教育についての技術的な点には詳しいが、 何を教 えるべ きか、 その本質について、 明確な記述をしたものが乏しい様である。 即 ち、 理科教育を通じて授け るべき、 理想像が 述べ られていない様である。 一体、 技術とは、 それを:生み出した 思想と 相まっ て、 その真価を 発揮するものである。 何を教え るべきか、 何を会得させるべきかについての明確な 認識と、 それに対 する熱意とがなくては、 教育技術もその真価を発揮し得ない。 S5 結. 語. 今日の理科教育 が混乱し、 学力の低 下をきたしているのは、 その目標の故でなく、 生活単元とい う形をとっているためである。 理科の目標として掲げているものは正しい。 しかし、 この目標達成 の為に、 所謂、 問題解決学習即生活単元学習と考 え、 意識的に自然科学の体系から離れた 所に 教 、 材が花大となり、 混乱が生 じ、 教師の当惑が生 じ、 児童、 生徒の学力低 下を生じた。 この理科の目 標に到達するには、 「問題を解決するための学習」 でなければならず、 この様な学習とは 科学的 、 ing) に 重 点 を 置 い た 学 習 で な け れ ば な ら な い こ の 為 に は そ の 知 識 tern ofthink な考 え 方 (Pat 。 、. に至る迄の過程を重ん じ、 これを明かに する学習でなければならない。 換 言すれば、 生産的に考え るには、 どの様に考えるのがよいか、 これを理科の学習を通 じて、 会得することが出来る様 な学習 でなければならないことを述 べた。 そ してこの様な学習 は、 系統学習に 見られる様な 体系化され 、 た形ではないが、 さりとて、 現在の生活単元学習 に見られる様な支離滅裂な、 体 系のない学 習でも ない。 それは、 自然科学の発展にも似た、 一つの流れに沿って整理された学習となるであろう 或 。 i c) な 原 理 を 指 導 原 理 と す る 学 習 と い っ て も よ い か も し れ な い 従 っ て こ は 叉、 発 見 的 (heurest 。 、. の学習では、 心理学的な考察--学習の方法と児童、 生徒の自然認 識の二つの点につ いて--が重 んぜられなけばならない。 そして、 この学習を実施するには、 教師自身 が、 自然科学的思考を体得 し、 教えつつも、 常に自ら積極的に考えようとする意欲と態慶とが 必要である。 筆者は、 元来、 一介の自然科学者に過ぎず、 教育学、 心理学的知識に乏しい。 従って、 至 る所に 思わざる誤りや独断もあろぅかと思われる。 大方の御叱正 を期待する所以である。 文 1 ) 2 ) 3 ) 4 ) 5 ) 6 ) 7 ) 8 ) 9 ) 1 0 ) 1 2 ) 1 3 ) 1 4 ) 5 1 ) 1 6 ). 献. 例えば、 日本教職員組合編 「日本の教育」 第四集、 第五巣、 第二部、「科学的、 精神をっちかふ為の教育」 文部省小学機学習指導要領一般篇 ク レイ グ著、 海後他共訳 「科学の学校」 第一部第一章、 科学と普通教育 B.ラッセル 「科学の眼」「科学は社会を震憾した」 或いは、J ,D, バーナル 「歴史に於ける科学」 例えば、 ポリャ著、 柿内賢信訳 「如何に して問題をとくか」 例えば、 S 思考と行動における言語」 ,1 , ハャカヮ、 大久保忠利訳 「 , 芳賀 穣 理科教育の問題点 「自然」1956 、3月号 上掲指導要領理科篇、 中学篇、 P ,16 上掲書、 同頁 教師養成研究会編 「澱科の教育」 第五章、 理科の学習指導 湯本信夫著 「理科の心理と指導」受1 .2 中野徐 二三、 小口忠彦共編 「問題解決の心理」 問題解決と理解 K, ドウンカー著、 小見山栄一訳 「問題解決の思考」 M, ウェルトハイマー著、 矢田部達郎訳 「生産的思考」 例えば、 田中 実、 「科学史と科学教育」 、 小倉金之助記念出版会編 「科学史と科学教育」 37皿 -1.
(14) . 相 1 7 ) 1 8 ) 19 ) 20 ) 21 ) 22 ) 23 ). 馬. 純. 古. J .B, コナント著、 佐々木申二、 伏見康治共訳 「常識から科学へ」 K, ドゥ ンカ ー、 上 掲 書、 P.90 J , サ マ ヴィ ル、 「科 学 と は 何 か」 P,30. 中野、 小口共編 上掲書、 問題解決と人間形成 中野、 小ロメ 、縞上掲書、 児童期の思考 1 森 徳治、 科学的思考の発達 「教育心理学講座 1 、 理科学習の心理」 小林 袋著 「理科教室ノート」 八、 た しかな観察より引用. 8- -13.
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