「僕」は風の歌を聴けたか : 『風の歌を聴け』から『1973年のピンボール』へ
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(2) はじめに. 次. 第二章 ﹁僕﹂が﹁スペースシップ﹂に見たものとは⋮⋮⋮⋮⋮::・::⋮⋮: ︵﹃風の歌を聴け﹄から﹃1973年のピンボール﹄ 第一節 ﹁三番目の女の子﹂は﹁直子﹂に 一、﹃風の歌を聴け﹄と﹃1973年のピンボール﹄のつながり 第こ節 ﹁僕﹂が﹁スペースシップ﹂に見たものとは ⋮⋮⋮⋮⋮:. へ︶. ・1⊥. 524949. 49. 四、﹁風﹂とは何か ・43 五、﹃風の歌を聴け﹄をめぐって ・45. 三、DJは応える ⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮⋮::−⋮:ー⋮⋮⋮⋮⋮:⋮ー⋮⋮⋮::−⋮:・ ・41. 二、﹁鼠﹂が聞いた﹁風﹂とハートフイールドの﹁風﹂ ⋮⋮⋮⋮ ⋮: ・36. 一、﹁金持ち﹂の﹁鼠﹂ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮:−⋮⋮⋮⋮⋮⋮:ー⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮ :−: −33. 第三節 ﹁風﹂ ⋮⋮⋮⋮⋮⋮−・⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮:﹃⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮⋮: ・33. 三、﹁小指のない女の子﹂の嘘 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮:ー⋮⋮⋮⋮⋮:⋮・⋮⋮⋮⋮⋮−・:・⋮⋮::・ ・27. 二、﹁三番目の女の子﹂の死−他者が持つ﹁残余﹂ ・19. 二、﹁精神科医﹂に対する﹁僕﹂の﹁OFF﹂ ⋮⋮⋮⋮⋮:・・ 11 第二節 決定的に損なわれるー﹁三番目の女の子﹂の死 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮:・⋮⋮⋮:・ ・14 一、﹁無口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂のその後ー二つの生き難さに挟まれて ⋮: ・14. 一、ONとOFFーディスク・ジヨッキーが示す﹁残余﹂ ⋮⋮⋮⋮::::・・⋮ ・7. 第一節DJと﹁精神科医﹂から垣間見える﹁残余﹂ −7. 第一章 ﹁残余﹂ー生きている限り囚われてしまうもの︵﹃風の歌を聴け﹄をめぐつて︶ ・6. 目.
(3) 一、一九七〇年のピンボール ⋮ 二、﹁スペースシップ﹂との再会 ⋮ 三、﹃1973年のピンボール﹄をめぐって. 605653. :: 66. 63. の著者による。. 引用文献の発行年はすべて西暦に統一した。 著者が引用文中に︵︶で文を挿入した場合、︵ー高見︶というように断った。断りがない場合の︵︶は引用文. 省略し た 。. 引用を示すにあたって、﹃風の歌を聴け﹄は﹃風1﹄、﹃1973年のピンボール﹄は﹃ピンボール﹄と書名を. ﹃風の歌を聴け﹄、﹃1973年のピンボール﹄の本文は講談社文庫︵﹃風の歌を聴け﹄1982年7月、﹃19 73年のピンボール﹄1983年9月︶を使用した。. さいごに ﹁僕﹂は風の歌を聴けたか. 三、. 二、. 凡例. 注 四、. 、.
(4) はじめに. 今日、村上の小説は多くの読者を獲得し、研究分野においても多方面からの読解が進められている。そこには. 村上の小説に意味を見出す論もあれば、もちろん批判する論もあるが、いろいろな意味で村上が注目するに値す. る現代作家であるという評価に揺らぎは見出されない。本稿では村上春樹のデビュi作である﹃風1﹄から、そ. れに続く長編﹃ピンボール﹄へのつながりを見る。その試みによって、村上がどのような問題を抱えて出発した 作家であるのかを明らかにすることが本稿の目的である。. 小説を批評的に論じるには、ある限定された視点や問題を設定して、それに沿って論じていくしか手がない.. 限定された視点を設定することによつて、小説から多くのものを取り落としてしまうだろうが、そのことを恐れ. ていては、小説が何を語ろうとしているのかを明らかにすることはできないだろう。そこで、﹁はじめに﹂では、 1 本稿の問題意識を明らかにするとともに、本稿が小説を論じる姿勢と﹃風1﹄﹃ピンボール﹄の二つの作品をつ. なげて論じることの意図を示しておきたい。. まず、﹃風1﹄と﹃ピンボール﹄の冒頭部分に着目するかたちで問題意識を示したいと思う。﹃風1﹄の冒頭に は、次のような記述がある。. 何かを書くという段になると、いつも絶望的な気分に襲われることになった。僕に書くことのできる領域は. あまりにも限られたものだったからだ。例えば象について何かが書けたとしても、象使いについては何も書 けないかもしれない。そういうことだ。︵中略︶. 弁解するつもりはない。少なくともここに語られていることは現在の僕におけるベストだ。付け加えるこ. とは何もない。それでも僕はこんな風にも考えている。うまくいけばずっと先に、何年か何十年か先に、救. 済された自分を発見することができるかもしれない、と。そしてその時、象は平原に還り僕はより美しい言.
(5) 葉で世界を語り始めるだろう。︵﹃風1﹄7∼8頁︶. これは、﹃風1﹄の主人公である﹁僕﹂が二十九歳の時点から、二十一歳の時点を振り返って描こうとするとき. の姿勢が表明されている部分の一部である。ここでは、﹁象﹂と﹁象使い﹂の寓話を用いて﹁救済された自分﹂を. 発見できるかもしれないという微かな希望を頼りに、二十一歳の時点を描こうとすることが述べられているが、 この箇所について田崎弘章氏は次のように論じている。. ﹁象使い﹂は﹁象﹂をコントロールし、﹁平原に還る﹂ことを束縛している存在である。ということは救済さ. れるべき﹁自分﹂と﹁象﹂をパラレルに見る時、﹁書けないかもしれない﹂とこのテキスト中に書かれること. の不可能性があらかじめ予言される﹁象使い﹂とは﹁自分﹂をコントロールし束縛する存在だと考えること ができる︵注−︶。. 一方、﹃ピンボール﹄では自己について次のように語られている。 2 ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。 分析にではなく、包括にある。. もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受け るだろう。︵﹃ピンボール﹄29頁︶. ﹃ピンボール﹄には1章の前に二つの前置きめいた断章があるが、この記述はその二つの断章の内の一つ﹁ピ. ンボールの誕生について﹂からの引用である。﹁ピンボール﹄は﹃ピンボール﹄において重要な位置づけを与えら れている。. 本稿の問題意識を示すために、少し論を先取りするかたちで、この﹁ピンボールの目的﹂と﹁象使い﹂の寓話. を比較する前に、﹃風1﹄と﹃ピンボール﹄を通して検討することの意図を簡単に示しておこう。まず、﹃風1﹄. と﹃ピンボール﹄の二作は主要な登場人物である﹁僕﹂と﹁鼠﹂が共通して登場する。﹃ピンボール﹄は﹃風ー﹄.
(6) の直接の続編として書かれている。この二作は、﹃羊をめぐる冒険﹄と並んで初期三部作と言われることが多く、. ﹃羊をめぐる冒険﹄にも﹁僕﹂と﹁鼠﹂は出てくるが、と﹃羊をめぐる冒険﹄の間には、注目すべき差が存在す. る。まず両作品は、どちらも断片によって構成されている。これに比べて﹃羊をめぐる冒険﹄はストーリi性が. 重視されている。また、三部作と言っても﹃風1﹄と﹃ピンボール﹄は連続して執筆されているが、﹃ピンボール﹄. と﹃羊をめぐる冒険﹄の間には、短編の﹁街と、その不確かな壁﹂が執筆されている。この短編は、後の﹃世界. の終りとハードボイルド・ワンダーランド﹄につながる短編であり、村上は﹃ピンボール﹄で一度﹁僕﹂と﹁鼠﹂. をめぐる問題から距離を取っているのである︵注2︶。さらに、﹃羊をめぐる冒険﹄では、両作品と共通して描かれ. た﹁直子﹂について語られなくなる。これらのことから考えれば、初期三部作から、﹃風ー﹄と﹃ピンボール﹄の 二作品を論じることは十分妥当であるし、意義もあると考えられる。. それでは、実際に﹁ピンボールの目的﹂と﹁象使い﹂の寓話を、田崎氏の﹁象﹂を﹁自分﹂の比喩と見、﹁象 3 使い﹂を﹁﹁自分﹂をコントロールし束縛する存在﹂であると見る視点を踏まえて比較してみよう。. ﹁ピンボールの目的﹂が言わんとしていることは明白である。﹁ピンボール﹂は先にも触れたように、﹃ピンボ. ール﹄の重要なモチーフになっており、簡単に言うと﹁僕﹂は﹁スペースシップ﹂という﹁ピンボール・マシー. ン﹂と関っていくことで、﹁僕﹂自身の傷を癒そうとするが、﹁ピンボールの目的﹂はその﹁自己療養﹂︵﹃風−﹄. 8︶におけるルールについて物語っている。そのルールとは、﹁僕﹂が心の傷を癒すには、他者を自己の思い通り. にしたいと欲するような﹁エゴの拡大﹂という仕方ではなく、他者との共存を欲するようなエゴの﹁縮小﹂とい. う仕方でなければならないということである。そしてそのことは、他者との関係の失敗を自我の﹁分析﹂という. 仕方によって自己の中だけで失敗の原因を処理してしまおうとするのではなく、その失敗全体をありのままに受 けいれる自我の﹁包括﹂という仕方で問題に取り組むべきだというものである。. そのように﹁ピンボールの目的﹂を読むとき、﹁象使い﹂の寓話はどのように読まれるのだろうか。﹁象﹂は﹁象.
(7) 使い﹂と比較すると、人為的なコントロールを受けない人間の自然な姿の比喩であると言うことができる。つま. り、﹁象﹂は自然に振舞うものであり、自我の﹁包括﹂、自我をその場の状況や他者に委ねることに通じるのだ。. ﹁象﹂は、﹁象使い﹂という﹁象﹂をコントロールする存在がいなければ、﹁平原に還る﹂ことができるのである。. それでは﹁象使い﹂とは何に該当するのだろうか。それは自己を自在に操ろうとする自我、つまり﹁自己表現﹂ し、自己を﹁拡大﹂し、﹁分析﹂する自意識である。. このように﹁象使い﹂の寓話と﹁ピンボールの目的﹂を比較してみると、﹃風1﹄と﹃ピンボール﹄の問題意識. が深く関連していることが読み取れる。これが﹃風1﹄から﹃ピンボール﹄へのつながりを読んでいこうとする. 理由である。そして、両作品の関連はさらに次のように読むことができる。﹃風1﹄では、﹁例えば象について何. かが書けたとしても、象使いについては何も書けないかもしれない﹂と語られる。それにもかかわらず、﹁僕﹂は. ﹁自己表現﹂し、自己を﹁拡大﹂﹁分析﹂してしまう﹁象使い﹂について﹁語ろうと思う﹂︵﹃風1﹄8頁︶。﹃風. 4 1﹄では、大まかに言えば、他者との関係の中で自己が﹁拡大﹂してしまう原因を捉えようという努力がなさ. れるのである。そして、﹃ピンボール﹄ではそのような自己が﹁拡大﹂されてしまった事態に対して、自己を﹁縮 小﹂しようという努力がなされるのだ。. ﹃風1﹄﹃ピンボール﹄とも、その冒頭部分に、自己のあり方についての問題を強く打ち出している。そして、. その﹁自己﹂のあり方の問題は、他者とどのように関わっていくべきなのかという問題と不可分である。ここで 村上の発言を引いてみよう。. ︵﹃ピンボール﹄は1高見︶全体的に言って﹃風1﹄と同じようにまだ習作の域を出ていない作品だとは思う. のだが、僕自身はこの小説に対して少なからざる思い入れがある。僕はこの作品で、初めて自分の思いをひ. とつの対象にしぼりこむことができた。それは幻のピンボール・マシーンである︵注3︶。. この発言を考慮するとき、﹃風1﹄の問題が、﹃ピンボール﹄の﹁ピンボール・マシーン﹂という﹁ひとつの対.
(8) 象﹂を得ることによって焦点化されたと読むことは十分可能であろう。そこで、﹃風i﹄と﹃ピンボール﹄をあわ. せて読み解くとき、︿﹁僕﹂が他者との関係性について根源的な場所で悩み、その問題についてある程度の答えを. 出すのではないか﹀という仮説を提起したい。この後、その﹁根源的な場所﹂とは何処なのか、﹁ある程度の答え﹂. とは何なのかというのが本稿の問題設定である。. 5.
(9) 第暉章 ﹃残余﹄ー生きている限り囚われてしまうもの︵﹃風の歌を聴け﹄をめぐって︶. この章では、﹃風i﹄の主人公である﹁僕﹂が他者と取り結ぶ関係性に注目して論を進めていくことになる。そ. のとき、﹁残余﹂とり2言葉を使って﹁僕﹂の他者との関係性に注目するが、この言葉については説明を要するだ ろう。. ﹁残余﹂とは、﹁残りもの、余り﹂というほどの意味である。何故﹁残りもの﹂という言葉で他者との関係性に. 注目するのかと言えば、﹁僕﹂が他者とのコミュニケーションで取りこぼされたものに囚われているからだ。この ことを﹃風1﹄の記述に当たって具体的に説明したい。. 僕にとって文章を書くというのはひどく苦痛な作業である。一ヵ月かけて一行も書けないこともあれば、. 三目三晩書き続けた挙句それがみんな見当違いといったこともある。 6 それにもかかわらず、文章を書くことは楽しい作業でもある。生きることの困難さに比べ、それに意味 をつけるのはあまりにも簡単だからだ。. 十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて︸週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。少し気. を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える⋮⋮そんな気が した。. それが落とし穴だと気づいたのは、不幸なことにずっと後だった。僕はノートのまん中に1本の線を引き、. 左側にその間に得たものを書き出し、右側に失ったものを書いた。失ったもの、踏みにじったもの、とっく. に見捨ててしまったもの、犠牲にしたもの、裏切ったもの⋮⋮僕はそれらを最後まで書き通すことはできな かった。. 僕たちが認識しようと努めるものと、実際に認識するものとの間には深い淵が横たわっている。どんなに.
(10) 長いものさしをもってしてもその深さを測りきることはできない。僕がここに書きしめすことができるのは、. ただのリストだ。小説でも文学でもなければ、芸術でもない。まん中に線が1本だけ引かれた一冊のただの ノートだ。教訓なら少しはあるかも知れない︵﹃風1﹄n∼12頁︶。. ここでは、﹁僕﹂が﹁十代の頃﹂に﹁生きることの困難さに比べ、それに意味をつけるのはあまりにも簡単﹂で. あることに気づいたが、それは﹁落とし穴﹂であったことが描かれている。これは﹁僕﹂のコミュニケーション の不完全性についての記述なのである。. ﹁僕﹂は﹁ノート﹂に﹁得たもの﹂と﹁失ったもの﹂を書き出している︵注4︶。﹁僕﹂は﹁生きることの困難さ﹂. に気づかない振りをして﹁意味をつけ﹂、他者とコミュニケーションをとる中で、﹁得たもの﹂と﹁失ったもの﹂. があることに気づいている。そして、﹁得たもの﹂しか視界に入らないときには﹁世界は僕の意のまま﹂になると. 勘違いできたのである。この他者との関係性の中で取り落としてしまうもの、ここで言う﹁失ったもの﹂が﹁残 7 余﹂であると、ひとまず言っておこう。﹁残余﹂は﹃風1﹄を読み解く上で重要な鍵になる。まず第一節で、﹃風. 1﹄に登場するデイスク・ジョッキーと﹁精神科医﹂に注目するかたちで論を進めたい。両方の場面に現れる﹁O FF﹂という表現を通して、﹁残余﹂について見ていこう。. 第一節DJと﹁精神科医﹂から垣間見える﹁残余﹂ 一、ONとOFFーディスク・ジョッキーが示す﹃残余﹂. DJは﹃風1﹄のn、12、37章に出てくる登場人物である。DJは37章で重要な働きをするが、ここで問題 にしたいのはH、12章である。37章については後に触れることになる。. H章では、﹁ポップス・テレフオン・リクエスト﹂というラジオ番組について描かれる。小説中では、まず0.
(11) Nと書かれ、そこではDJが明るく音楽番組を放送する。次にOFFと書かれて、そこではラジオで音楽を流し. ている間のDJの休憩場面が描かれる。ONの場面では、DJは﹁やあ、みんな今晩は、元気かい? 僕は最高. に御機嫌に元気だよ。﹂とDJとしての役割をこなす。OFFの場面では、﹁⋮⋮ふう⋮⋮なんて暑さだい、まつ. たく⋮⋮﹂とため息を漏らすという具合である。n章のOFFのときにDJはコーラを飲む。そして、つづく12. 章ではそのコーラが原因でONのラジオ放送時もしゃっくりが止まらなくなるという事態が起こる。この記述に ついて、大山憲三郎氏は次のように語っている。. 当然のことながらOFF時のDJの存在は聴者から確認することができず、DJの存在はゼロということに. なるのだが、本当にDJの存在はゼロになってしまったのだろうか。確かにOFF時においてDJは自己存. 在を表現することはできないので、聴者側からすれば存在しない。しかし、聴者からは見えない領域に移行. しただけであって、DJは間違いなく存在しているのだ。ただ存在が他者に認識されていないだけ、すな 8 わち自己表現していないだけの話である。. ここで改めて確認しておきたいのはDJの二面性についてである。聴者がラジオ放送を受信することで成. 立したDJと聴者の一応のコミュニケーション、そこで認識するのはDJとしての存在である。そしてこの. 認識は、DJたりえる人物の一面にしか過ぎないということでもある。DJにとってはどちらが本物なのか。. 仮に両方とも本物の自己だとするならば、同一の他者に両方の自己を同時に伝達することは不可能なのであ る。結局のところ限定された形でしか自己は享受されないのである︵注5︶。. 大山氏は、DJが持つ﹁二面性﹂に注目する。DJは伝達するとき︵ON︶と伝達しないとき︵OFF︶を体. 現しているのである。そして、OFF時の伝達しないときにも、﹁聴者からは見えない領域に移行しただけであっ. て、DJは間違いなく存在しているのだ﹂と指摘している。ラジオのリスナーは、OFF時のDJがどのように. 存在しているのかを知ることができない。そのことを、大山氏は﹁同一の他者に両方の自己を同時に伝達するこ.
(12) とは不可能なのである。結局のところ限定された形でしか自己は享受されないのである。﹂と結論付ける。しかし、. OFF時のDJはリスナーと完全に遮断されているのだろうか。OFF時のDJは﹁聴者側からすれば存在しな. い﹂のだろうか。リスナーはDJの語りが消え、音楽しか聴くことができないとしても、やはりDJがラジオ局. で音楽が終わればまた語り始めるのを知っているのではないか。リスナーはOFF時にもDJが存在しているこ. とは知っている。しかし、どのように存在しているのか、つまりOFF時にDJが何を考えているのか、何を話. しているのかが分からないのである。だからリスナーは、DJが存在することは疑わないが、DJが何をしてい. るのかを取り落とさざるを得ない。しかし、ここで重要なのは、リスナーはOFF時にもDJが何をしているの. かを想像できるということである。この想像するということによって、DJがOFF時に何をしているのかが絶. 対に分からないことが浮かび上がる。ここに取り落とした分からないものである﹁残余﹂が生まれる。このよう. な事態は、他者と断絶されていることを鮮明に浮かび上がらせるのである。 9 12章に注目すれば、この事態についてさらに考えることができる。12章では、n章のOFF時に飲んだコー. ラが原因でしゃっくりが止まらなくなる。このしゃっくりによって、リスナーは、DJがOFF時に何かをした. ことによって﹁しゃっくり﹂が出るようになったことを想像できる。この﹁しゃっくり﹂というDJの変化によ. って、リスナーはDJがOFF時にも存在が消えているわけではないことを思い知らされるのである。. ところで、12章では、DJから﹁僕﹂に電話がかかってきて、その電話の会話のやり取りがラジオで放送され. ているのだが、そこで﹁僕﹂はDJとのやり取りの中のしゃっくりに苛立つ。そのことについて田中実氏は次の ように述べている。. ところで、僕︵小説中の﹁僕﹂のことー高見︶はこの小説で一度だけ腹を立てる。それはOFFの声である. デイスク・ジョッキーの﹁しゃっくり﹂に向かってである。このデイスク・ジョッキ⋮の身体表現は、ON. とOFFの二分法という制度︵約束︶を裏切り、﹁文明﹂の伝達の方法に対する身体的な拒絶反応を表出した.
(13) この物語のルール違反であったからだ。いや、二十一歳の僕はこうした﹁文明﹂の構造に十分自覚的ではな. い。だから、僕が腹を立てるのはおかしいと考えることもできる。だが、現代の﹁文明﹂に生きざるを得な い僕はそのことを身体のどこかで意識している︵涯6︶。. 田中氏のように考えるとき、﹁僕﹂がDJの持っている二面性に対して強く惹かれるものがあるということにな. る。確かに﹁僕﹂が怒りを表明するのはこの場面だけであり、﹁僕﹂は怒るという仕方で、普通は知ることができ. ないOFF時のDJという﹁残余﹂が、﹁しゃっくり﹂という仕方でONに顔を出したことに強く惹かれているの. だ。しかし、﹁僕﹂が抱える﹁残余﹂の問題は、DJのそれよりも根が深い。何故ならDJは職業としてONとO. FFの問題を使い分けているのであり、ONの語りの部分が伝われば何の問題のないが、﹁僕﹂は生活していく上. で、スイッチ一つでONとOFFを使い分けられるわけではないからだ。. これまで、一つはOFF時のDJを想像することによって現れる﹁残余﹂について、もう一つは、﹁僕﹂がD 10 JのON時の﹁しゃっくり﹂に強く惹かれていることについて論じたが、このことから、﹁僕﹂は他者に強い興. 味を持っていることがうかがえる。何故なら、﹁残余﹂とは、知りえないものを想像するという仕方で知ろうとす. るとき、つまり、未知の他者を知ろうとして、他者と何らかの関係を取り結ぼうとするときに初めて立ち現れて. くるものだからである。もし他者に対してまったく興味がなければ、他者の未知の部分を想像することもないだ. ろう。﹁僕﹂は他者との断絶を、﹁残余﹂を想像することで乗り越えようとしているである。. このことを川本三郎氏の論を手がかりにして、別の面から考えることもできる。川本氏は﹁﹁僕﹂はすべての関. 係において間接的﹂で、﹁村上春樹の小説は根底のところで対象との間に醒めた距離﹂︵注7︶があると述べている。. ﹁僕﹂は確かに﹁全ての関係において間接的﹂であると言わざるを得ない。何故なら、ラジオ放送と電話によつ. て﹁僕﹂につながっているはずのON時のDJも﹁犬の漫才師﹂︵﹃風ー﹄59頁︶に過ぎないからだ。﹁僕﹂とD. Jは電話で話していても、完全につながっているわけではないし、スイッチがOFFになってDJの声が聞こえ.
(14) なくなっても、完全に遮断されているわけではない。どちらにしても割り切れず、わだかまりが残るということ. になる。つまり、﹁残余﹂とは、OFF時だけではなく、ON時においても、立ち現れてくるものなのだ。ここに. ﹁僕﹂の抱える﹁残余﹂の問題が端的に現れている。この問題を﹁精神科医﹂が登場する場面でさらに考えてみ たい。. 二、﹁糖神科医﹂に対する﹁僕﹄の﹁OFF﹂. 実は、﹁僕﹂は﹁残余﹂の問題にかなり幼い時期から悩まされている。そのことを示すのが、﹁ひどく無口な少. 年﹂だった﹁僕﹂を、心配した両親が﹁知り合いの精神科医﹂に連れて行くという7章のエピソードである。そ こで﹁精神科医﹂は次のように語る。. 文明とは伝達である、と彼は言った。もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。い 11 いかい、ゼロだ。もし君のお腹が空いていたとするね。君は﹁お腹が空いています。﹂と二言だけしゃべれ. ばいい。僕は君にクッキーをあげる。食べていいよ。︵僕はクッキーをひとつつまんだ。︶君が何も言わない. とクッキーは無い。︵医者は意地悪そうにクッキ⋮の皿をテーブルの下に隠した。︶ゼロだ。わかるね? 君. はしゃべりたくない。しかしお腹は空いた。そこで君は言葉を使わずにそれを表現したい。ゼスチュア・ゲ ームだ。やってごらん。. 僕はお腹を押さえて苦しそうな顔をした。医者は笑った。それじゃ消化不良だ。 消化不良⋮⋮。︵﹃風ー﹄29頁︶. この﹁精神科医﹂とのやり取りの後、﹁僕﹂は﹁医者の言ったことは正しい。文明とは伝達である。表現し、. 伝達すべきことが失くなった時、文明は終わる。パチン⋮⋮OFF。﹂︵﹃風1﹄31頁︶という感想を漏らす。そ. して﹁僕﹂は﹁もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じ﹂であるという﹁精神科医﹂の言葉を.
(15) 信じて、﹁14年間のブランクを埋め合わせるかのように﹂しやべりまくる。しかし、それも三ヶ月しか続かず、﹁僕﹂. は﹁結局のところ無口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂になっていた。ここで﹁僕﹂が結局﹁無口でもおし. やべりでもない平凡な少年﹂になったのは何故なのかを考えるとき、﹁残余﹂の問題がより深く現れてくる。﹁精. 神科医﹂は、﹁僕﹂が言葉を話せば、クッキーをやって、何も話さないときはクッキーをやらないという行動を取. る。この﹁精神科医﹂の行動は﹁残余﹂が立ち現れてくる余地を消してしまう。何故なら、﹁精神科医﹂が﹁クッ. キーは無い﹂と言ったとき、実はクッキーは無くなったわけではなく、隠されたテーブルの下にあるという事実. を覆い隠しているからである。しかし、﹁精神科医﹂の言うこともある意味では正しい。何故なら、﹁精神科医﹂. がテーブルの下にクッキーを隠すとき、﹁僕﹂が食べることのできる﹁クッキーは無い﹂からだ。つまり﹁僕﹂の. 空腹を満たすという意味で役に立つクッキーは無くなってしまったのである。. DJについての箇所で、他者について想像することで﹁残余﹂が立ち現れると述べたが、そのこととつなげ 12 て考えれば、﹁僕﹂は視界に直接入らず、空腹を満たす役に立たないクッキーを想像することによって、﹁精神. 科医﹂とのやり取りの中に﹁残余﹂を見出すということになる。ここで注意しなければならないことは、﹁僕﹂が. もはや﹁僕﹂にとって役に立たないはずのクッキーについて、想像し続けているという点である。﹁僕﹂は、クッ. キーが無くなったのは﹁精神科医﹂が﹁意地悪そうに﹂クッキーを隠してしまったからだということに気づいて いるのだ。. このように﹁僕﹂が消えたクッキーについて想像するということは、﹁僕﹂の同一性とは別の場所にあるもの、. つまり他者について、時には﹁僕﹂が生きていくためには不必要なほど過剰に、考えてしまう宿命を背負ってい るということである。. この﹁精神科医﹂とのやり取りの後、﹁僕﹂は﹁14年間のブランクを埋め合わせるかのように﹂しゃべりまく. るのだが、それは﹁僕﹂が﹁精神科医﹂の﹁もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ﹂とい.
(16) う主張を一応は受け入れたということだろう。しかし、それも三ケ月しか続かないのは、やはり、﹁僕﹂が最終的. には﹁表現できない﹂ものは﹁存在しない﹂という主張を結局受け入れられなかったということである。﹁僕﹂は、. 言葉の意味が他者に﹁伝達﹂されない限り﹁存在しない﹂という価値観に対して違和を感じていたのである。だ. から、7章における﹁僕﹂の変化は、﹁残余﹂に囚われて﹁ひどく無口な少年﹂だった﹁僕﹂が、一旦は﹁精神科. 医﹂の主張を受け入れて、﹁残余﹂に囚われるようなあり方を変えようとしたが、最終的にはそれを果たせず、﹁無. 口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂になった過程であると読むことができる。しかし、この﹁僕﹂の﹁ひど. く無口な少年﹂から、﹁無口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂への変化は、﹁僕﹂が完全に﹁精神科医﹂の主. 張を拒否したわけでもないことも同時に示している。それは、﹁僕﹂が﹁残余﹂に囚われ続けるのでも、存在に囚. われ続けるのでもないような場所に立つことになったということを意味しているのである。. このことを考慮するとき、﹁僕﹂の﹁パチン⋮⋮OFF。﹂という表現は﹁精神科医﹂とのコミュニケーショ ー3 ンを完全に絶ってしまったことを意味しない。よく考えてみれば、ラジオなどの機械は﹁パチン﹂とスイッチ. を切ったと同時に電源は落ちて﹁OFF﹂になるが、ここでは﹁OFF﹂になるまでの間に﹁⋮⋮﹂と空白が挿. 入されているからだ。そうだとすれば、ここでいう﹁OFF﹂は完全に関係を断ち切ってしまう機械的なOFF. ではない。DJの箇所でも見たように、この﹁OFF﹂は﹁残余﹂に囚われた﹁OFF﹂であって、別の言い方 をすれば、きわめて人間的な﹁OFF﹂なのである︵注8︶。. ここまで見てきたように、﹁僕﹂は﹁僕﹂以外のものに対する過剰な関心、﹁残余﹂に対する関心を捨て去った. わけではない。﹁僕﹂にとって、﹁残余﹂の問題は幼い頃から抱え込んできた根源的な問題なのである。﹁残余﹂と. 関ることは、他者とつながる契機になり得るが、﹁僕﹂の同一性を危機に陥れる危険も同時に孕んでいた。﹁僕﹂. は幼い頃からこのような生き難さの前に立たされていたのである。このことは他人と実際に関係を持とうとする. とき、他者と実際にコミュニケーションを取ろうとするときに先鋭化して現れる。次節では、まず﹁無口でもお.
(17) しゃべりでもない平凡な少年﹂のその後を追ってから、﹁僕﹂ が三番目に寝たガール・フレンドである﹁三番目の. 女の子﹂の死とどのように関っていくのかを見てみたい。. 第二節 決定的に損なわれるー﹁三番目の女の子﹄の死. 一、﹃無口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂のその後ー二つの生き難さに挟まれて. ﹁精神科医﹂とのやり取りの後の﹁僕﹂の経歴は、30章で次のように描かれている。. かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。. 高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、. 何年かにわたって僕は実行した。そしてある目、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできな 14 い人間になっていることを発見した。. それがクールさとどう関係しているのかは僕にはわからない。しかし年じゅう霜取りをしなければならな い古い冷蔵庫をクールと呼び得るなら、僕だってそうだ。︵﹃風1﹄㎜∼㎜頁︶. ﹁僕﹂は﹁精神科医﹂とのやり取りで﹁無口でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂になった後、﹁心に思ったこ. との半分しか口に出すまいと決心した﹂。﹁僕﹂は他者とコミュニケーションを全く取らない﹁無口﹂に戻ること. はないが、より﹁残余﹂に敏感になっていき、他者とのコミュニケーションによって生まれる﹁残余﹂になるべ. く関らないようにしていくのである。しかし、そのことによって、﹁僕﹂の中に﹁霜﹂が溜まっていく。. この﹁僕﹂の﹁心に思ったことの半分しか口に出すまい﹂という決心は、実は﹁精神科医﹂から学んだことだ. った。﹁精神科医﹂は﹁僕﹂に﹁もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ﹂ということを教え. たが、﹁僕﹂はそのことに納得ができなかった。しかし、﹁僕﹂はお腹が空いたときにはクッキーが欲しいという.
(18) 意志を示さなければならない。だから﹁僕﹂は﹁精神科医﹂の言うように﹁残余﹂から目を逸らすのではなく、. ﹁残余﹂を﹁残余﹂と認めたうえで、それとなるべく関らないような生き方を選んだのである。﹁僕﹂は﹁精神科 医﹂が意図したこととは別のことを、﹁精神科医﹂から学んだのだ。. このことをもう少し深く考えるためにデレク・ハートフィールドの言葉を引用しよう。ハートフイールドは、. ﹁僕﹂が﹁文章についての多くをデレク・ハートフイールドに学んだ﹂︵﹃風ー﹄9頁︶と語る架空の作家である. が、ハートフイールドの言葉や小説が﹃風1﹄で何度か引用、紹介されており、重要な役割を担っている。 ハートフィールドがよい文章についてこんな風に書いている。. ﹁文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分を取り巻く事物との距離を確認することである。必 要なのは感性ではなく、ものさしだ。﹂︵﹃風1﹄10頁︶. そして僕はこのハートフイールドの言葉に続けて次のように語る。 15 僕がものさしを片手に恐る恐るまわりを眺め始めたのは確かケネデイー大統領の死んだ年で、それから. もう15年になる。15年かけて僕は実にいろんなものを放り出してきた。まるでエンジンの故障した飛行機が. 重量を減らすために荷物を放り出し、座席を放り出し、そして最後にはあわれなスチュワーデスを放り出す. ように、15年の間僕はありとあらゆるものを放り出し、そのかわりに殆んど何も身につけなかった。. それが果たして正しかったのかどうか、僕には確信は持てない。楽になったことは確かだとしても、年老. いて死を迎えようとした時に一体僕に何が残っているのだろうと考えるとひどく怖い。僕を焼いた後には骨 ひとつ残りはすまい。︵﹃風1﹄10∼n頁︶. このハートフイールドの言葉につい.て小菅健一氏は次のように述べている。. 一時的な緊急避難としての措置であるのならばともかく、レディー・メイドの外在的で客観的な価値基準”. ︿ものさし﹀に安易に頼りきってしまった代償が一体どういったものになるかは、火を見るよりも明らかな.
(19) ことである。つまり、本来ならば、自己と他者との存在の差異化を決定づけることになり、生来、自己の内. 部に潜在していて、じっくりと時間をかけて主体性︵個性︶を形成していく重要な鍵を握っている︿感性﹀. を次第に捨象していくわけだから、︵中略︶最終的にどういった事態を迎えることになるのかというと、まさ. しく、死んだとしても、﹁僕を焼いた後には骨ひとつ残りはすまい﹂といった具合で、まったく何も残らない だろうという極論にまでなる︵後略︶︵注9︶. ﹁残余﹂を生む可能性のある自己を自らの内に封じ込めるという事態は、小菅氏が﹁レデイー・メイドの在外. 的で客観的な価値基準”︿ものさし﹀に安易に頼りきってしまった﹂と述べているような単純な事態ではない。. ﹁僕﹂は﹁主体性︵個性︶を形成していく重要な鍵を握っている︿感性﹀﹂を捨象したのではなく、感性的な自己、. つまり他者との間に﹁残余﹂を生む可能性のある自己を自らの内に封じ込めたのである。そのことによって﹁僕﹂. の中には﹁霜﹂が溜まる。そして、﹁僕﹂自身の中に﹁霜﹂を溜めてしまうことが、同時に﹁僕を焼いた後には 16 骨ひとつ残りはすまい﹂という事態を引き起こしてしまうことも知っているのである。このことは、いつしか. ﹁僕﹂が﹁自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になって﹂しまっていたこととも関係する。. ﹁僕﹂は﹁心に思うことの半分﹂を﹁口に出すまい﹂と決心し、それを実行してきた。この決心は、それを﹁口. に出すまい﹂というだけで、それを﹁僕﹂の中から消そうとしたわけではない。しかし、﹁心に思うことの半分﹂. は﹁ある目﹂、﹁僕﹂が気づかないうちに﹁語ることのできない﹂ものになってしまっていた。つまり、﹁心に思う. ことの半分﹂は、心の奥底に振じ込まれてしまったのである。他者との間に﹁残余﹂を生む可能性のある感性的. な自己を自らの内に封じ込めることを繰り返すうちに、﹁僕﹂の意図とは別に、結果的に﹁主体性︵個性︶を形成. していく重要な鍵を握っている︿感性﹀を次第に捨象していく﹂ことになってしまったのだ。. ﹁僕﹂は﹁心に思うことの半分しか口に出すまい﹂という決心によって、﹁いろんなものを放り出してきた﹂. と言う。それは﹁エンジンの故障した飛行機﹂の比喩が示すように、自己の中にあるものを﹁放り出してきた﹂.
(20) ということである。このことは、自己の成り立ちに言及している。つまり、自己は他者との間に境界線を創るこ. とによって、初めて自己となりえるのであり、他者と関り合おうとしなければ、自己も希薄になっていくという. 事態の寓話なのである。このことは別の箇所のハートフィールドの言葉を使えば、﹁僕﹂の中が﹁空っぽ﹂になつ てしまうことである。ハートフィールドの言葉を引用してみよう。. 私はこの部屋にある最も神聖な書物、すなわちアルファベット順電話帳に誓って真実のみを述べる。人生. は空っぽである、と。しかし、もちろん救いはある。というのも、そもそもの始まりにおいては、それはま. るつきりの空っぽではなかったからだ。私たちは実に苦労に苦労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減ら し、空っぽにしてしまったのだ。︵﹃風ー﹄㎜頁︶. このハートフィールドの言葉は、﹁僕﹂の生き方の変化を端的に表している。﹁僕﹂は幼い頃、﹁残余﹂に関るこ. とで、他者とつながる契機になり得る可能性と﹁僕﹂の同一性を危機に陥れる危険性とに同時に直面するとい 17 う生き難さの前に立たされていた。この生き難さは他者とつながる契機になりえることであるので﹁まるっき. りの空っぽではなかった﹂のである。しかし、﹁僕﹂は積極的に﹁残余﹂を受け入れる生き方を止めてしまう。7. 章で﹁40度の熱を出して学校を休ん﹂︵﹃風ー﹄31頁︶でしまったと語られることは、﹁残余﹂を分からないまま. に受け入れたことで﹁僕﹂の同一性が危機に曝されたことの比喩になっているのである。だから﹁僕﹂は﹁無口. でもおしゃべりでもない平凡な少年﹂になった後、﹁心に思ったことの半分しか口に出すまいと決心した﹂。その. ことで、﹁残余﹂とのかかわりを最小限に食い止めようとしたのである。しかし、﹁残余﹂とのかかわりを最小限. にすることは、他者とつながりえる契機も同時に奪ってしまう。そしてこのことは、他者との関係性において初. めて成り立つ自己を希薄にしてしまうことになるのである。よって、﹁僕﹂が﹁高校生の終わり頃﹂に直面してい. る問題は、どちらが良い生き方なのかというようなものではない。﹁僕﹂は﹁残余﹂を受け入れることで、他者と. つながりえる可能性と自己の同一性を保てなくなる危険性の両方を受け入れるのか、それとも﹁残余﹂を最小限.
(21) に食い止めることでその可能性と危険性を両方とも回避するのかという二つの生き難さの間で揺れている。﹁僕﹂. は言わば、どちらの生き難さを選ぶのかという問題に直面しているのである。. そして﹁僕﹂はとりあえず﹁心に思うことの半分しか口に出すまいと決心﹂した。このことは、他者とつなが. りえる可能性と自己の同一性を保てなくなる危険性の両方を回避したということである。しかし、そこで新たな. 問題が浮上する。﹁僕﹂は他者の過剰な介入を避け、自己の同一性を保つ生き方を選んだが、そのことによって、 ﹁僕﹂は他者との関係性を通じて、自己を確認できなくなってしまったのだ。. ただ、そのことは﹁僕﹂は﹁残余﹂に関る意味を見失ったということではない。何故なら、﹁僕﹂は﹁残余﹂. を想像することを﹁まるっきりの空っぽではなかった﹂と語り、﹁残余﹂を想像しなくなることを﹁実に苦労に苦. 労を重ね、一生懸命努力してそれをすり減らし、空っぽにしてしまった﹂と語ったハートフィールドの言葉に対. して﹁ほんの少しだけ言葉短かに本音を披渥している﹂︵﹃風ー﹄旧頁︶と付け加えているからだ。また、﹁僕﹂ 18 が﹁残余﹂を想像し、それと関ることを止めたのは、他者とつながりえる可能性を放棄したかったからではな. い。それと共に抱え込んでしまう自己の同一性を保てなくなる危険性が大きすぎたからなのである。﹁僕﹂は﹁高. 校生の終わり頃﹂にこのように考え、﹁残余﹂を想像することが他者とつながりえる契機となり得ることを知りつ. つ、﹁残余﹂と関ることを最小限に押さえ込む。そして、そのことによって﹁僕﹂は自己の同一性を守る道を選ぶ。. しかし、それでも﹁僕﹂は﹁霜﹂を抱え込むのである。﹁僕﹂が﹁残余﹂を想像することで抱えた同一性の危機は、. ﹁40度の熱﹂と語られていた。それでは、﹁霜﹂とは何なのか。そのことを考えるには、﹁三番目の女の子﹂を見 てみなければならない。.
(22) 二、﹃三番目の女の子﹂の死−他者が持つ﹃残余﹂. ﹁三番目の女の子﹂は19章で初めて登場する。そこでは、ごく手短に﹁僕﹂が三人目に寝たことと、﹁春休み. にテニス・コートの脇にあるみすぼらしい雑木林の中で首を吊って死んだ﹂ことが語られるだけである。この﹁三 番目の女の子﹂について最も問題とされるのが23章である。23章を引用してみよう。. 僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを﹁あなたのレーゾン・デートゥル﹂と呼んだ。. ☆ レ ゾンリデサトゥル. 僕は以前、人間の存在理由をテーマにした短い小説を書こうとしたことがある。結局小説は完成しなかっ たけれど、その間じゅう僕は人間のレーゾン・デートゥルについて考え続け、おかげで奇妙な性癖にとりつ. かれることになった。全ての物事を数値に置き換えずにはいられないという癖である。約8ヶ月間、僕はそ. の衝動に追いまわされた。僕は電車に乗るとまず最初に乗客の数をかぞえ、暇さえあれば脈を測った。当 19 時の記録によれば、1969年の8月15目から翌年の4月3目までの間に、僕は358回の講義に出席し、 54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる。. その時期、僕はそんな風に全てを数値に置き換えることによって他人に何かを伝えられるかもしれないと. 真剣に考えていた。そして他人に伝える何かがある限り僕は確実に存在しているはずだと。しかし当然のこ. とながら、僕の吸った煙草の本数や上がった階段の数や僕のペニスのサイズに対して誰ひとりとして興味な. ど持ちはしない。そして僕は自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぽっちになった。. ☆. そんなわけで、彼女の死を知らされた時、僕は6922本めの煙草を吸っていた。︵﹃風1﹄93∼94頁︶. ここでは、﹁三番目の女の子﹂の死が﹁6922本めの煙草﹂と共に語られている。このことを前田愛氏は﹁ひ. とりの人間の死の意味が、6922本めの煙草に象徴される無意味と結びつけられるアイロニー﹂︵注m︶である.
(23) と指摘している。確かにここにはある種のアイロニーを感じるが、それはただの皮肉ではない。﹁僕﹂は﹁全てを. 数値に置き換えること﹂に﹁他人に何かを伝えられるかもしれない﹂というある種の希望を見ていた。というこ. とは、﹁僕﹂が﹁三番目の女の子﹂の死と結びつけようとしたものは﹁無意味﹂ではなかったのである。. この﹁奇妙な性癖﹂はハートフイールドの﹁小説というものは情報である以上グラフや年表で表現できるもの. でなければならない﹂︵﹃風ー﹄㎜頁︶という持論を意識させる。﹁奇妙な性癖﹂が﹁僕﹂が﹁小説を書こうとし. た﹂時期に現れていることも考慮すれば、それはデレク・ハートフイールドの言葉で言う﹁ものさし﹂であると 考えられるのである。. だから、﹁僕﹂はこの﹁ものさし﹂によって、﹁三番目の女の子﹂の死までも測ろうとしたのではない。あえて. ﹁僕﹂がそのように測ろうとしたのは、﹁残余﹂を極力押さえ込むためだった。﹁僕﹂は他者と関らなければなら. ないことは知っている。しかし、﹁残余﹂は押さえ込まなければならない。その両方を満たすと思われた苦肉の 20 策が﹁全てを数値に置き換えること﹂だったのである︵注n︶。だが、その試みはうまくいかなかった。﹁僕﹂は. ﹁ものさし﹂で測りえる﹁僕の吸った煙草の本数や上がった階段の数や僕のペニスのサイズ﹂に対して﹁誰ひと. りとして興味など持ちはしない﹂ことを知り、﹁自分のレーゾン・デートゥルを見失い、ひとりぽっちになっ﹂て. しまったのである。ここで注意しなければならないのは、﹁僕﹂の存在理由は﹁三番目の女の子﹂が﹁僕﹂のペニ. スを﹁あなたのレーゾン・デートゥル﹂と呼んだことによって、保たれていたということだ。それは、﹁僕﹂は、. ﹁三番目の女の子﹂という他者に存在理由を与えられていたのであって、﹁僕﹂の存在理由は﹁僕﹂自身には創り. 出せなかったということなのである︵注皿︶。しかし、﹁三番目の女の子﹂という他者は﹁僕﹂に存在理由だけを与 えてくれるわけではない。そのことは34章に示されている。引用してみよう。 僕は時折嘘をつく。. 最後に嘘をついたのは去年のことだ。.
(24) ︵中略︶. 去年の秋、僕と僕のガール・フレンドは裸でベッドの中にもぐりこんでいた。︵中略︶. 僕たちは毛布にくるまったままサンドウイッチを趨りながらテレビで古い映画を見た。 ﹁戦場にかける橋﹂だった。. 最後に橋が爆破されたところで彼女はしばらく捻った。. ﹁何故あんなに一生懸命になって橋を作るの?﹂彼女は荘然と立ちすくむアレックス・ギネスを指して僕に そう訊ねた。. ﹁誇りを持ち続けるためさ。﹂. ﹁ム⋮⋮。﹂彼女は口にパンを頬ばったまま人間の誇りについてしばらく考え込んだ。いつものことだが、 21 彼女の頭の中でいったい何が起こっているのか、僕には想像もつかなかった。 ﹁ねえ、私を愛してる?﹂ ﹁もちろん。﹂. ﹁結婚したい?﹂. ﹁今、すぐに?﹂. ﹁いつか⋮⋮もっと先によ。﹂ ﹁もちろん結婚したい。﹂. ﹁でも私が訊ねるまでそんなことτ言だって言わなかったわ。﹂ ﹁言い忘れてたんだ。﹂. ﹁⋮⋮子供は何人欲しい?﹂.
(25) ﹁3人。﹂. ﹁男? 女?﹂. ﹁女が2人に男が1人。﹂. 彼女はコーヒーで口の中のパンを呑み下してからじっと僕の顔を見た。. ﹁嘘つきー﹂. と彼女は言った。. しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。︵﹃風1﹄瑠∼鵬頁。強調は原文による︶. ここで描かれている﹁僕のガール・フレンド﹂とは﹁三番目の女の子﹂のことである。34章での﹁僕﹂と﹁三 22 番目の女の子﹂のやり取りの中で、﹁僕﹂は﹁いつものことだが、彼女の頭の中でいったい何が起こっているの. か、僕には想像もつかな﹂い。﹁僕﹂は﹁いつも﹂﹁三番目の女の子﹂について想像しようとしているが、﹁想像も. つかな﹂いのである。このことは﹁三番目の女の子﹂が﹁僕﹂の想像を超える存在であり、﹁僕﹂は﹁三番目の女. の子﹂を﹁いつも﹂取り落としてしまうことを意味している。﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂の他者性に起因する﹁残. 余﹂を想像することすらできないのである。このことは端的に言って、﹁僕﹂の同一性の危機である。何故なら、. ﹁僕﹂に存在理由を与えてくれる﹁三番目の女の子﹂の﹁頭の中でいったい何が起こっているのか﹂分からない. ということは、延いては﹁僕﹂の存在理由が分からないということだからである。しかし、﹁僕﹂は﹁頭の中﹂を. 想像することすらできない﹁三番目の女の子﹂とのやり取りを続ける。﹁僕﹂はそのことによって、想像すること すらできない﹁三番目の女の子﹂を知ろうとしているのである。. ここで問題となるのは﹁三番目の女の子﹂が何故﹁僕﹂に﹁嘘つき!﹂と言ったのかである。﹁僕﹂はこの﹁嘘.
(26) つき!﹂という発言に対して、﹁しかし彼女は間違っている。僕はひとつしか嘘をつかなかった。﹂と思うのだが、. このひとつの嘘とは、﹁三番目の女の子﹂の﹁でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。﹂に対. する﹁僕﹂の﹁言い忘れてたんだ。﹂という発言であろう︵注B︶。その根拠は、﹁僕﹂がいつのまにか﹁自分が思. つていることの半分しか語ることのできない人間になってい﹂たことに求められる。﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂. と﹁もちろん結婚したい﹂と思っていても、そのことを語ることができなかったのである。しかし、﹁僕﹂はその. ことを隠して﹁言い忘れてたんだ﹂と言う。すなわち嘘をついたのである。﹁僕﹂は﹁三番目の女の子﹂と﹁結婚. したい﹂とは思っていたが、﹁思っていることの半分﹂しか語ることができないために、その気持ちを﹁三番目の. 女の子﹂に伝えることができなかった。﹁三番目の女の子﹂は、そのことを﹁僕﹂が﹁結婚したい﹂とは思ってい. ないにもかかわらず、訊ねられたので﹁結婚したい﹂と嘘を答えただけなのだというふうに勘違いしてしまった. のである。だから、﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂の発言の全てを﹁嘘つき!﹂と言ったのだ。何故﹁僕﹂はこの 23 ような嘘をついたのだろうか。それは、﹁僕﹂が﹁残余﹂を抱え込むのを避けたからだ。ここでは、他者の﹁残 余﹂についての問題が浮上しているのである。. これまで、DJと﹁精神科医﹂を通じて﹁残余﹂の問題を見てきた。そこで、﹁残余﹂は﹁僕﹂が想像すること. によって初めて立ち現れてくるものであると述べたが、目の前の﹁三番目の女の子﹂という他者は、﹁僕﹂が﹁残. 余﹂を想像しなくても、﹁残余﹂を持っている。﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂にとって理解不可能なものを、コミ. ユニケーションを取る中で﹁僕﹂に対して示し続ける。そして、﹁僕﹂は想像することによっても、その﹁残余﹂. に近づくことができない。﹁僕﹂が﹁三番目の女の子﹂の﹁頭の中﹂をいくら想像しても、それは﹁三番目の女の. 子﹂の発言によって揺らいでしまう。他者とコミュニケーションを取るということは、目まぐるしく﹁残余﹂が. 揺れ動いているという事態なのである。そして、﹁僕﹂はコミュニケーションを取っているという正にそのことに. よって、絶えず揺れ動く﹁残余﹂に触れることができる。﹁僕﹂はコミュニケーションを取ることによって、﹁三.
(27) 番目の女の子﹂の﹁頭の中﹂を推測できるかもしれないのである。. しかし、﹁僕﹂には結局﹁三番目の女の子﹂が何を考えていたのかは分からない。この﹁僕﹂と﹁三番目の女. の子﹂とのやり取りについて鈴木氏は﹁注意すべきは、﹁彼女﹂は﹁僕﹂の意志を﹁訊ね﹂ただけであって、自分. 自身の意志については﹁一言だって言わなかった﹂ことである﹂︵注艮︶と指摘している。この指摘は重要である。. ﹁三番目の女の子﹂が﹁結婚したい?﹂と訊ねた意図が、結局﹁僕﹂には分からなかったのだ。そのことは、﹁僕﹂. が﹁三番目の女の子﹂の﹁死﹂に直面しても変わらない。26章では﹁何故彼女が死んだのかは誰にもわからない。. 彼女自身にもわかっていたのかどうかさえ怪しいものだ、と僕は思う﹂︵﹃風ー﹄99頁︶と語られている。. ここで﹁嘘つき!﹂のやり取りをさらに詳しく考えてみたい。そうすることで、﹁残余﹂が揺れ動いていること. を確認しよう。﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂の﹁残余﹂︵ここでは﹁三番目の女の子﹂が知ることができない﹁僕﹂. の気持ち︶を知ろうとして、﹁ねえ、私を愛してる?﹂と﹁僕﹂に訊ねる。﹁僕﹂は﹁もちろん﹂と答える。こ 24 のとき、﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂の知りえない心を知ったはずだった。しかし、﹁もちろん﹂という﹁僕﹂. の答えを知った瞬間、﹁三番目の女の子﹂の中で、︿何故﹁僕﹂は﹁愛してる﹂ということを﹁私が訊ねるまで﹂、. ﹁二言だって言わなかった﹂のだろう﹀というような新たな﹁残余﹂が生まれてしまったのである。だから﹁三. 番目の女の子﹂は新たに生まれてしまった﹁残余﹂をどうにかしようとして、﹁僕﹂に﹁でも私が訊ねるまでそん. なこと一言だって言わなかったわ。﹂と半ば訊ねるように言う。しかし、﹁僕﹂の答えは﹁三番目の女の子﹂にと. って﹁残余﹂が埋まったと感じられるような答えではなかった。このような過程を経て、﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂. に﹁嘘つき!﹂と言わなければならなかったのである。. ただ、この新たに生まれてしまった﹁残余﹂は、﹁三番目の女の子﹂の﹁頭の中﹂で﹁僕﹂が﹁三番目の女の. 子﹂に見せる﹁残余﹂が、過剰に膨らんでしまったものであるということができる。﹁他者﹂が持つ﹁残余﹂は揺. れ動いて、完全に消え去るということはありえないので、﹁三番目の女の子﹂は﹁僕﹂が考えているだろうことや、.
(28) ﹁僕﹂の会話の意図を想像し続ける。だから、コ一一番目の女の子﹂は﹁僕﹂の﹁もちろん﹂という答えに対して不. 安を覚えたのである。そして、生まれてしまった﹁残余﹂をどうにかしようとして﹁僕﹂に訊ねたのである。し. かし、﹁僕﹂の答えは﹁残余﹂をさらに揺り動かしただけだったのだ。この事態は、﹁残余﹂を想像することが、. 他者につながりえる可能性と、自己の意識が過剰になってしまう危険性を孕んでいるということである。つまり、. ﹁残余﹂を想像することで他者に行き着けなかった場合、その想像は受け手がなく、その受け手が無いという事. 態が、さらに﹁残余﹂を生み出すのである。このように他者が持つ﹁残余﹂に関ろうとすることは、﹁残余﹂が﹁残. 余﹂を生み出すという事態を引き起こす。その事態に、自己の想像力のみで関ろうとすれば、自己が自己の許容. 量を超えて拡大してしまうのである。この﹁三番目の女の子﹂が示す、自己の拡大という問題は、自己のエゴイ. スティックな拡大、つまり他者を自己の支配下に置こうとするために起こったものではない。自己が他者につな. がろうとするとき、つまり他者と分かり合いたいと願ったり、他者を愛したりしたいと思って﹁残余﹂に関ろ 25 うとするときに現れる問題なのである。そしてこの問題は、本稿の﹁はじめに﹂で触れたように、﹃風ー﹄、﹃ピ. ンボール﹄を通じて問われている問題なのである。このように、﹁三番目の女の子﹂もまた、﹁僕﹂とのやり取り. を通して﹁残余﹂を抱えてしまったのだ。﹁僕﹂が何故嘘をついたのかを﹁三番目の女の子﹂は知ることができな. いのである。そして、﹁三番目の女の子﹂はその知ることができない﹁残余﹂に耐え切れないために死んでしまっ たのである︵注田︶。. ここでもう一度、23章に戻ってみよう。23章について加藤弘一氏は次のように語っている。. ママ ﹁僕﹂は彼女︵﹁三番目の女の子﹂のこと1高見︶の自殺によって、他者の世界に対する異和感を意識しだす が、同時に、他者の世界はもはや他者の世界といってすますわけにはいかなくなってしまったのである。彼. 女の自殺に心理的に加担することによって、他者の一人である彼女にぬぐいがたい働きをしてしまったから. だ。もはや﹁僕﹂は無垢ではない。﹁僕﹂は苦しさやつらさ弱さに充ちた他者の世界に対する無関与を申し立.
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