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「楽しい体育」論をめぐる論述の吟味

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Academic year: 2021

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(1)Title. 「楽しい体育」論をめぐる論述の吟味. Author(s). 越川, 茂樹. Citation. 釧路論集 : 北海道教育大学釧路校研究紀要, 第45号: 107-113. Issue Date. 2013-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/7305. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 釧路論集 -北海道教育大学釧路校研究紀要-第45号(平成25年度) Kushiro Ronshu, - Journal of Hokkaido University of Education at Kushiro - No.45(2013):107-113. 「楽しい体育」論をめぐる論述の吟味 越 川 茂 樹 北海道教育大学釧路校保健体育研究室. Investigation of theses about the theory of “Tanoshii-Taiiku” Shigeki KOSHIKAWA Department of Health and Physical Education, Kushiro Campus, Hokkaido University of Education. 要 旨 本研究では,「運動の教育」としての体育の理念に基づく「楽しい体育」論をめぐりその検討を目的とした論述,なら びに「楽しい体育」論の基本的な考え方に関する論述について分析することを試みた.その結果,「楽しい体育」論をめ ぐりその検討を目的とした論述についてみると,それらは「楽しい体育」論における教育観や学習観,さらにはその根底 にある人間観に及ぶ原理的な考察には至っていないことが認められた.また,「楽しい体育」論の基本的な考え方に関す る論述についても楽しい体育論の自己理解と学習観のとらえ直しはみられるもの原理的な検討はいまだに十分にはなされ ていないことが明らかとなった.そして,今後の課題として, 「楽しい体育」論においては,その思想的基盤である「児 童中心のプラグマティズム」と「プレイ論」をめぐって原理的な考察を深めていくことがあげられた.. 1.はじめに. であるにもかかわらず,日本においてはこうした外国のカ. 体育の理念は,その時代の人間,身体ならびに教育の捉. リキュラム論や制度を分析した研究がほとんどである(高. え方と社会的な要請に影響を受けて重点を変え推移してき. 橋,2011,p.256).また,現在小学校,中学校,高等学校. た(森,2002,p.14;友添,2011,p.12) .その理念的な. を4学年ごとに区分けした体育学習の考え方が学習指導要. 枠組みは,近代の国民国家の成立とともに体操を主要な教. 領に示され実践の取り組みの充実が期待されている.さ. 材とし,体育が公教育として開始された19世紀後半の「身. らには,子どもの健康・体力問題に関する多角的な研究の. 体の教育」から,スポーツが体育の主要な教材として体操. 必要性やいわゆる小1プロブレムをめぐり幼児期と児童期. に取って代わり,体育が一般的な人間形成の目標達成の方. の子どもが通う保育所や幼稚園と小学校の接続のあり方. 法と考えられた「運動による教育」 ,さらに1970年代半ば. や子どもの支援について研究の活性化が期待されている.. 以降の産業社会から脱産業社会への移行とともに,スポー. 特に幼児の運動遊びと小学校における体育学習との連続的. ツが市民権を得るなかで運動それ自体の意味や価値が尊重. なカリキュラムの構想を中心とする体育科教育学における. され, それを享受することのできる人間の育成をめざす「運. 研究活動の充実が求められている注1).日本においてはこ. 動の教育」として理解されている(永島,2001,p.65;友. の部分の研究や実践の取り組みの活性化が期待される.例. 添,2011,p.13) .また,時代区分に違いはあるものの,. えば, 「運動の教育」としての体育のカリキュラムという. 先進諸国にはこうした体育の理念の歴史的変遷が共通にあ. 視点から幼小の連続したカリキュラム構成を考えていく上. ると一般的に認識されている.. で,構成の原理にかかわる体育の理念自体に潜む人間や教. 今日の日本の体育は 「運動の教育」 という理念に基づき,. 育の捉え方について論究することは必要であろう.. 種々の授業論・授業づくり論が形成され実践が展開される. 佐伯(1995)によれば, 「運動の教育」としての体育の. なかで,多くの学習指導に関する研究がなされている.と. 立場は,教育内容としての運動をどのように捉えるかに. ころが,「運動の教育」としての体育のカリキュラム研究. よって一様ではないとし,それは理念的に運動教育論,運. は,日本では学習指導要領によって教科の目標や内容の基. 動技能論,運動文化論,運動目的・内容論の四つに大別. 本方針が定められていることもあり,学術的な関心がそこ. される(佐伯,1995,p.118).それらは,「合理的で洗練. に向けられてきたとは言いがたい(高橋,2011,p.256).. された運動の能力を体育の主要な学力として重視する立. 一方,「運動の教育」としての体育の理念を基盤とした. 場」,「運動技能を体育における主要な学力として重視する. カリキュラム論が英語圏やドイツ語圏では提案されてい. 立場」, 「教育内容としての運動を技術・戦術,ルール, マナー. る.カリキュラム研究は,体育科教育学の主要な研究課題. から構成される文化としてとらえ,その継承と発展を担う. - 107 -.

(3) 越 川 茂 樹 力を学力として重視する立場」 , ならびに「体育を運動(ス. また, 「そこには正解も誤解も存在せず,ただ次々と出現. ポーツ)生活に向けられた教育とし,生活における運動の. するデジタル情報としての結果をアナログ情報に転換する. 文化的価値に注目し,それを教育内容としてとらえ,生活. ための意味付与活動しかなく,この意味付与活動にこそ教. における享受の能力を学力として重視する立場」に基づく. 育の本質がある」 (杉本・田口,1986,p.79)と理解して. 論である(佐伯,1995,p.118) .. いる点にみられる.. こうした「運動の教育」としての体育の立場のなかの「運. このように杉本・田口(1986)は,教育における前提を. 動目的・内容論」に,民間教育研究団体である全国体育学. 支配から出会いへ,そして意味付与活動としての教育とい. 習研究会(以下,全体研と記す)の「楽しい体育」論があ. う教育のとらえ方に対する見解を示してはいるが,それに. る.この体育論については,1977年の学習指導要領以降に. ついてさらに考察を深めていくまでには至っていない.. 多大な影響を与え,現行の学習指導要領においても基本的. 多々納(1990)は,全体研の「楽しい体育」論の理念的. な考え方の拠り所の一つになっている.また,楽しい体育. 枠組みに焦点をあて問題点を指摘している.その理論的・. 論がプレイ論に基づいて体育の学習を考えている点で,遊. 認識論的批判とは,社会変化と体育のあり方の間に認めら. びを学習の基盤とする幼児教育との関連性が少なからずあ. れる適応主義,体育・プレイ・スポーツの概念上の混乱と. ると考えられる.それだけに, 「楽しい体育」論をめぐる. 楽しさの認識論的誤解,目的と手段の不当な二項対立論. 論述に着目すること,ならびにその考え方自体に検討を重. 理,運動の実在論的価値論の誤謬,運動の機能的特性と分. ねていくことは,「運動の教育」としての体育のカリキュ. 類がもたらす学習内容や活動の鋳型化・形式化の五つであ. ラムを検討する上でも意義があると考えられる.. る. . そこで,本研究では「運動の教育」としての体育の考え. こうした批判のなかで,多々納は,過去の体育のあり方. 方に基づく「楽しい体育」論をめぐりその検討を目的とし. を顧みるとき,学習者の自発性を重視するなど,プレイ論. た論述,ならびに「楽しい体育」論の基本的な考え方に. 的思考を導入することの重要性を認めつつ,体育とスポー. 関する論述について分析することを試みる.なお,取り. ツやプレイの際に対する十分な配慮をし,体育の基本条件. 上げる論述は,前者については,啓蒙を目的とした一般的. は何か,そのなかでプレイ性の何がどこまで許容される. な雑誌ではなく,論文として発行されている,杉本・田口. のか等について慎重な検討を要することを指摘している. (1986) ,多々納(1990) ,鈴木(1995) ,石田(2006),釜. (多々納,1990,p.85).多々納は手段的・体力づくりで. 崎(2008)の論文に限定し, 後者については, 全体研の「楽. はなく,プレイ論のみに立脚する体育論でもない,両者を. しい体育」論の実践者である森脇論文(2008)実践の理論. 統合し止揚した体育論を希求し,こうした体育論にこそプ. や実践の総体をまとめた書籍『 「楽しい体育」の豊かな可. レイ論や楽しい体育論の意図が現実味をもつと考える.そ. 能性を拓く』(2007)における佐伯,松田の論述を中心に. して, 「新たな体育論のパラダイムとして,体育場面にお. 取り上げる.. ける学習者やその主体性,発育発達や教師の役割などを決 定論的・優越要因論的に重視する考え方ではなく,教育目. 2.「楽しい体育」論をめぐる論文のレビュー. 標に向けて,諸要素が相互連関関係を構成しているとみな. 杉本・田口(1986)は, 「楽しい体育」論の論理的根拠. しながら,主体性の教育と有能性の教育を総則的に把握す. に対して批判的立場(radicalism)から問題点を指摘して. るモデルが重要である」 (多々納,1990,p.85)と指摘する.. いる.それは,社会変化に対する学校体育の「適応」とい. 多々納についても,プレイ性を体育における運動学習の. う社会還元説の陥穽,運動の欲求及び必要充足機能の考え. なかで重視することの必要性については認めている.ま. 方における論理的説得力の稀薄,運動の目的-手段図式の. た,新たな体育論のパラダイムとしての展望を上記のよう. 限界,運動の学習の自主性と自発性に関する評価の可能. に述べている.しかしながら, 「楽しい体育」論における. 性の呈示,「プレイ論」ならびに「フロー理論」の運動へ. 教育とは何か,ならびに学習とは何か,といった問いに基. の援用による論理的陥穽として整理されている.その上で. づいた考察をしているわけではない.また,プレイと学習. 杉本・田口(1986)は, 「楽しい」という言葉をめぐる問. の関係をめぐる原理的な考察・検討までには及んでいない.. 題を記号論において時系列的に解釈し, 「楽しい体育」論. 鈴木(1995)は, 「楽しい体育」論の学習指導の原理を. の新たなパースペクティヴを呈示しようと試みている.彼. 教授学的な視点から検討しようと試みている.そのなか. らは,「楽しい体育」論についてラディカルな視点から捉. で,計画の原理を検討するにあたり, 「体育授業において. えるものの,結果としてそれが従前の教育観のなかで捉え. 生涯スポーツを指向した能力の育成を図ろうとするとき,. られるものではなく,新たな教育の文脈で捉えなければな. プレイの保障による楽しさ体験に依存するだけでは不十分. らないことをほのめかしている.それは, 「教育が教材を. であることは言うまでもない」 (鈴木,1995,p.159)と. 媒介として教師と生徒の相互作用のうちにあるとするなら. 主張する.そして,それに続く,とりわけ鈴木の教育観や. ば,生徒を教師へと同化する支配の欲求をやめ,教師を生. 学習観に基づいて考察している部分を示すと次の通りであ. 徒へと異化する出会いの欲求へと転換されなければならな. る.. い」(真木, 1977)という認識から読み取ることができる.. - 108 -.

(4) 「楽しい体育」論をめぐる論述の吟味 細江によれば, これからの体育は 「目標探究型人間」 を希求するものであり,それゆえ「今持っている力で できることからはじめる」ことが重視されている.し かしながら,ことさら努力を要せず,すぐにできてし まったときの「浅い喜び」よりも,長時間かけて力を 尽くして技を身につけたときに得られる喜びや感動は はるかに大きいと考えられる.しかも, 「今もってい る」まさにその「力」のレベルに到達しているとは言 えない.したがって,教師が積極的に関わり,このよ うな「真の楽しさ」 「深い楽しさ」を見通した授業計 画を立てるべきであるが,その際ベースになるのは, 「これだけは是非ともわかってほしい,身につけてほ しい」 という知識・技術のミニマムエッセンシャルズ, すなわち, 共通教養の獲得である (鈴木, 1995, p.159).. 指摘する(石田,2006,pp.109-115). 石田は, 「楽しい体育」論が近代教育の問い直しをも射 程に入れた論であることは認めるものの,それが不十分で あることを指摘する.すなわち,原理的な問いかけとその 考察の不十分さを指摘している.教育や学習,その前提に ある人間観についての議論は開かれたままであることがほ のめかされる. 釜崎(2008)は,主として全体研の「楽しい体育」論の 根本的な思考枠組みについて検討し,その可能性と課題に 言及している.それによると, 「楽しい体育」論の可能性は, 「客観的な教科内容の習得の成否にしたがって,『できる/ できない』といった序列をつけ,客観的な善に至るための 努力を強いる学校的な学習観の転換を図ること」(釜崎,. こうした全体研のメンバーである細江の主張を取り上げ. 2008,p.56),すなわち,「近代的な学校の再定義をするこ. 考察している部分から,鈴木(1995)が知識や技術を身に. とにあったが, 「近代教育・学校をめぐる根本的な問題」. つけることを学習であるととらえていることがわかる.杉. を深めてこなかったがゆえに,近代公教育制度のなかで,. 本・田口(1986)や多々納(1990)は, 「楽しい体育」論. そこからの脱却を図ろうとしたが近代公教育制度に回収さ. が近代教育の問い直しであるという理解を示し,それを超. れてしまっていると考察している.. える理論,もしくは考え方の錬磨の必要性を指摘している. 釜崎(2008)は,このように「楽しい体育」論の可能性. が,鈴木については従来の教育や学習の捉え方, すなわち,. の具体化には,近代公教育制度としての学校に安住しよう. 知識や技術の習得を前提に検討を加えている.しかし,こ. とする根本的な思考枠組みから脱却する企ての必要性を指. のことは,楽しい体育論が教育や学習,ならびにその前提. 摘するが,それ以上の考察には及んでいない.つまり, 「楽. となる人間観ならびにプレイと学習の関係について原理的. しい体育」論における基本的な考え方にみられる教育観や. に問いに対して十分に検討していないことが鈴木の考察に. 学習観の転換は認めながらも実践レベルにおける近代公教. 反映しているとも考えられる.. 育制度への埋没状況について問題視するに留まっている.. 石田(2006)は,全体研の「楽しい体育」論とそれを基. 基本的な考え方についてもその教育観や学習観の転換の背. 調としつつ行政によって普及されることとなった「楽しい. 後にある人間観への問いかけまで及んでいない.つまり,. 体育」 ,いわゆるめあて学習との間の不透明な変容過程を. 原理的な問いと考察は開かれたままである.. 対象に,そこにみられる誤解の内実について概観する.. 日野(2008)は,「楽しい体育」論について,6人の論. そして,「楽しい体育」論の問題点について,子ども中心. 者を取り上げその論を特徴づける構成要素を抽出し,「楽. 主義の思想及び理論と実践の関係という点から考察して. しい体育」論は, 「全ての子どもが『プレイ』の空間にあ. いる.前者については, 「楽しい体育」論における子ども. る体育学習の中で,運動の機能的特性にふれ,深めながら,. 中心主義思想のルーツを新体育と分析し,新体育の基盤と. 自分の今持っている力で楽しみその体育学習が生涯スポー. なっている新教育に対する系統学習の立場からの4つの批. ツに繋がり,将来的にスポーツを『する,みる,支える』. 判,すなわち,「①現存の社会秩序の肯定とそれに適応す. 人間になることを目指す」 (日野,2008,p.46)学習であ. る人間の育成.②科学,学問の体系に基づく系統的な教科. ると整理する.そしてそのなかで, 「楽しい体育」論にお. 内容の習得の重要性を認めていない.③『はいまわる経験. ける「手段的な価値」の取り扱いについて有効な論拠が得. 主義』に堕することになり,基礎学力の低下を招く.④子. られていないとし,その点について詳細に考察し論拠を示. どもの興味や自発性などに重きを置くあまり,教師の指導. すことが「楽しい体育」論の課題であることを指摘する.. 性が後退する」 (山本,1987,p.204)という理論的な批判. しかしながら,運動の「手段的な価値」の取り扱いについ. と子ども中心主義の理論が普及されるときにはまる陥穽. て検討することが教育観や学習観の問い直しにもなること. として実践的においては新体育の放任の体育が,楽しい体. を自覚した上で検討を求めるという立場を取っているわけ. 育にも同じように生起したと考察している.後者について. ではないようである.また,日野(2008)は,佐伯のなか. は,とりわけ, 「楽しい体育」論は, 体育学習の転換として,. で体育学習の目的・目標が「体育的に育まれた人間を目指. ならびにその後のめあて学習との違いを明確にする理論の. すことから,人間的な成熟を目指すことへと移り変わって. 捉え直しとして「理論の実践化」という近代主義的,啓蒙. いること」 (日野,2008,p.45)をあげ,その思想が変化. 主義的な発想からの脱却を意図していたなかにも科学の知. したことに着目しているが,そこにどのような教育観や学. で形成された理論であるために実践者には難解で具体化と. 習観,さらには人間観がみられ,それがどのように変化し. しての実践が困難であったこと,ならびに現在の実践が否. たのかという点に関する考察には及んでいない.つまり,. 定されてしまうという印象を与える可能性があったことを. 「楽しい体育」論における教育観や学習観,さらにはその. - 109 -.

(5) 越 川 茂 樹 根底にある人間観に及ぶ原理的な考察には至っていない.. 定する「楽しい体育」の思想表明があるとする佐伯の主張. 岡野(2009)は, 1990年代前半から始まった「かかわり」. を示しながらその考え方を理解する.さらに, 「楽しい体. を基軸とした体育授業の研究動向を把握するために,青木. 育」論では,運動の魅力を享受するのは,運動が得意な児. の「関係論」 ,松田の「かかわり論」 ,細江の「関わり合い. 童だけ,あるいはある一定の力がないと楽しめないと考え. 学習」を取り上げ概観している.そこでは,この三者が全. ない.苦手な児童や低学年の児童も含め,すべての子ども. 体研における「楽しい体育」論者であり, 「楽しい体育」. に運動の魅力を保障するために,学習者の現在の力(今の. の脱構築を試みている識者であるという認識のもと, 「楽. 力)を認め,現在の力に合わせた「子どもからみた特性」. しい体育」論の脱構築の論としてそれぞれをレビューして. によって「やさしい運動」として計画することで,現在の. いる.岡野(2009)は,三者が「理論的・認識論的パラダ. 力(今の力)で楽しむことから学習をはじめるとする.つ. イムを射程に入れながら, また, 「プレイ(遊び) 」や「学習」. まり,「うまくなってから楽しむ」のではなく,「楽しみな. 概念自体の捉え直しに迫りながら」 (岡野,2009,p.203),. がらうまくなる」という学習過程を考えているとし,「運. 楽しい体育の脱構築をしているとする.それによると,従. 動の楽しさ体験によって,運動の意味と価値を学習し,そ. 来の体育の授業と「かかわり」を基軸として体育授業の変. の必要性と学び方(適切な行い方)を理解した児童が「生. 容は,存在論においては, 「定着の世界」から「生成の世. 涯スポーツ」の主人公になれると楽しい体育論を実践の立. 界」へ,認識論においては, 「実体論」から「関係論」,プ. 場踏まえて理解する(森脇,2008,p.91).. レイについての問い方は, 「人はなぜ遊ぶのか」から「遊. ここには,子どもを未熟な存在としてではなく,一人ひ. びとは何か」,学習については「所与の知識や技能の個人. とりの存在を肯定的にとらえその学習を考える視点や運動. 的獲得」から「他者やモノとのかかわりのある活動を通し. の意味や価値への学習といった考え方など,教育観やその. て意味を生成していく社会的行為」 と整理している (岡野,. 根底にある子ども観,そして学習とは何かの理解といった. 2009,pp.203-204) .. 検討事項が潜んでいると考えられる.しかしながら,それ. 岡野は,三者の杉本・田口(1986)や多々納(1990)な. らについて問いかけ追究していくまでには至っていない.. どの指摘を射程に入れた楽しい体育論の脱構築の試みがプ. 佐伯(2007)は,楽しい体育論は,人間と運動との関係. レイ(遊び)や学習の概念のとらえ直しにある点を端的に. を歴史社会文化的文脈のなかでとらえながら,運動の意. 整理している.しかし,プレイと学習がどのような結びつ. 味・価値の学習を体育の教科的独自性の中核にすえること. きを有し,体育学習として意味づけられるのか,またプレ. によって,身体の規律訓練を超えるための体育のパラダイ. イする子ども,学習者である子どもをどのように理解する. ムシフトを提唱したという(佐伯,2007,p.6).また, 「楽. のかといった子ども観(人間観)にかかわる点に関してま. しい体育論は,運動の意味・価値を外(上)から措定する. で考察は及んでいない.それは, 「かかわり」という点に. ことなく,それを学習主体(生活者)が,運動学習の共同. 着目してそれをてがかりにとしたプレイや学習の概念のと. 的実践を通じて生成するようにデザインする.つまり,楽. らえ直しに焦点化されているゆえ, 「楽しい体育」論の教. しい体育論は,「目的・目標→学習・指導内容→学習活動」. 育観やその前提となる人間観をめぐる原理的な問いかけと. を柱とするこれまでの体育の教科構造論パラダイムに内在. その考察全体を網羅することにまでは至り得ていない.. する規律訓練性を打破するために,目的・目標と学習内容 の実体化を退け,学習指導の構造に揺らぎを与え,所与の. 3.「楽しい体育」論の自己理解にみる課題. 構造をつねに脱構築し続ける可能性を担保しようとする」. 森脇(2008)は,小学校において四半世紀にわたり楽し. (佐伯,2007,p.9).. い体育論に依拠して実践を積み重ねている.彼は「楽しい. 佐伯は,このように「楽しい体育」論の脱規律訓練性を. 体育」論の考え方を,その理念,単元づくりの特徴,なら. 志向する立場こそを問題にしている.ここにそれまでの体. びに実践例を示すことにより整理し意義と課題を検討して. 育の考え方とは根本的に思想を異にする新たな体育論の構. いる.そのなかで, 「楽しい体育」論とは, 「生涯にわたり,. 想であることが認められる.「楽しい体育」論は,「体力づ. 運動(スポーツ)の魅力を享受できる主体者を育てること. くり体育のような外面的な規律訓練だけではなく,さらに. を目的として」 (森脇,2008,p.91)おり, 「運動の魅力を. 進んで,深層に潜む教育・体育の規律訓練性をも問題に」. 求めて人は自発的に運動する」ことを前提とするゆえ,自. (佐伯,2007,p.34)している.この点は,「運動学習の. ら主体的に運動「する」学習をめざしたと整理する(森脇,. 経験それ自体の意味と価値を尊重するから,教科や授業の. 2008,p.91).子どもが主体的に学習する姿は,終戦当時. 構造とそれを構成する構造的要素から学習を導くハードな. に竹之下休蔵注2)が「教師の命令」と「児童の服従」から. 授業づくりを否定する」という「楽しい体育」論の考え方. なる人間関係に支えられた教師中心の一斉指導に基づく体. に示されているとし,規律訓練性を共同同時学習における. 育から新しい体育を作り出そうと,授業研究に本格的に取. ミニマムな範囲と強さに縮減し続けるための平易な表現と. り組み始めた頃からの目標であり, 「楽しい体育」論では,. して「50%のスタンダード」注3) を掲げ,学習の脱規律訓. 学習の目的・目標の主観性,学習内容の非断定性と不確. 練化をプレイ論における文化生成的可能性によって超克し. 定性こそに,その長所があり,規律訓練型パラダイムを否. ようと考えている(佐伯,2007,p.35).この点について,. - 110 -.

(6) 「楽しい体育」論をめぐる論述の吟味 佐伯(2007)は,現象学的プレイ論に拠り,遊びにおいて. て,プレイの視点から体育をとらえる営みの一つではある. 主体は,その文化に拠りながら,同時に当該文化をプレイ. がそれは未完成なままであるとし,楽しい体育論はプレ. 経験のために創造的に再構成することになると理解し,ゆ. イ論に基づいて構想されたからこそプレイ論によってさ. えに楽しい体育はスポーツ文化を実体化せず,スポーツ文. らに乗り越えられるであろうとし,体育とプレイの新たな. 化と学習主体の意味ある関係の生成を求めて,常にその構. 関係が原理的に模索されることが望まれるという(松田,. 造性を脱構築することを仕掛けるとすると述べる(佐伯,. 2007,p.76) .このようにプレイと学習をめぐる原理的に. 2007,p.36).そして,こうしたスポーツ文化の脱規律訓. 問い直すことが課題とみなされている.. 練化の学習の考え方が,暮らしにおける運動をめぐる諸問. 長見(2009)は,日本体育学会第60回大会の体育哲学専. 題の具体的・実践的解決に志向するスポーツの享受能力の. 門分科会のシンポジウムにて, 「楽しい体育論の視界:プ. 開発とともにそのスポーツの文化的享受能力の開発を,適. レイとしての運動を学習する意味と可能性」と題して登壇. 応主義的解決能力に矮小化することなく,身体的幸福の享. した.そのなかで,視点1として「生涯にわたって運動に. 受と身体的自由の探求に向かうこととする(佐伯,2007,. かかわることができる子どもたちを育てたかった」という. p.36) . . 観点から,杉本・田口(1986)や多々納(1990)に象徴さ. ここに佐伯の「楽しい体育」論の可能性をも含んだ自己. れる「楽しい体育」論が社会適応主義であるとの批判にた. 理解が確認できる.しかしながら,ここではプレイの,に. いして,生涯スポーツの理念に基づく学習の捉え方の検討. おける,による学びをどのように理解するのか,つまり,. をする佐伯の考え方を受け, 「社会適応主義を乗り越えた,. プレイと学習の関係性をどのように体育論のなかで原理的. 人間的な成熟へと向かう充実した運動生活を生涯にわたっ. に基礎づけるのか,また,教育をどのようにとらえ,それ. て開発していく子どもたちを育てること」 (長見,2009,. に基づく人間をどのように理解するのかをめぐって原理的. p.62)という教育観を示す.また,視点2として「子ども. に考察する取り組みはいまだに十分になされてはいない.. たちの学習活動をより生き生きとしてものにしたかった」. それは佐伯のこうした主張が「楽しい体育論の豊かな可能. という観点から,教育人間学者である矢野(1998)の人間. 性を予測し,展望することができる」 (佐伯,2007,p.36). の変容に関する「発達の論理」と「生成の論理」という二. という言で締めくくられていることからもうかがうことが. つのモデルによるとらえ方に依拠し,楽しい体育論は,人. できる.. 間の変容(学習)を,生成の論理からとらえる視点を有し,. 松田 (2007) は, 「楽しい体育」 論の特徴として 「プレイ論」. 運動をプレイとしてとらえることにより,生き生きとした. に基づいて学校体育を構想したことであるとし,プレイと. 生成の運動体験を保障し,伸びやかな生成の力を拓くこと. は何かという視点から, 「楽しい体育」論を相対化しこれ. を保障していると学習観を整理する(長見,2009,p.63) .. からの体育について言及する.そのなかで「楽しい体育」. このように長見は,楽しい体育論の教育観と学習観につ. 論を「体育の教育目標や教育内容を,ホイジンガやカイヨ. いて整理はしているが,それがシンポジウムにおける語り. ワの影響を受けて『自発的に楽しむ』というプレイの考え. であり,またその報告文にとどまっているゆえ,概略が表. 方から編み直しをしようとするもの」 (松田,2007,p.74). 明されているに留まりその原理的な考察を十分にしている. と整理する.そして,その考え方の礎を築いた楽しい体育. とは言いがたい.. 論を「教育内容としての運動をプレイの視点からとらえ直 すことで, 『機能的特性』と呼ばれる学習内容論や『めあ. 4.まとめ. て1・めあて2』として示される学習過程論などの構成主義. 本研究では, 「運動の教育」としての体育の理念に基づ. 的な新しい学習理論を展開させた」 (松田,2007,p.75). く「楽しい体育」論をめぐりその検討を目的とした論述,. 考え方であるとまとめる.しかしながら,西村(1989)の. ならびに「楽しい体育」論の基本的な考え方に関する論述. 現象学的プレイ論から,松田は次のような指摘をする.. について分析ことを試みた. 体育においては,「運動の教育」としての体育が第3の波. 楽しい体育論において,プレイの自発性や主体性を 「個」を起点として考えているので,教師と子どもの 関係を「分離すべきもの」 「強制性を排除すべきもの」 として固定的にとらえがちである.また,プレイは 「個」のなかに引き起こることであって,クラス全体 がひとつのプレイの中にあるといった見方を軽視しが ちになる.さらには,プレイ論を「余暇社会論」との 関係の中で読み解いたために, 「スポーツ」が中心と なり「スポーツではない運動を中心としたプレイ」の もつ教育的意義を評価しきれていない,などの弱点も 多く見られる(松田,2007,p.74) .. として社会における人間と運動との関係から現れ,その具 体化に向けた取り組みは四半世紀を有に超える.それは, 近代教育におけるその考え方を乗り越える挑戦でもあっ た.佐伯(2007)が, 「現代体育の思想的課題は,ディコ トノミーの克服,つまり心身二元論と『近代』の写しとし ての教育的構造化の克服によって,その営みを脱規律訓練 化しうる自立・自律的思惟を深めること」 (佐伯,2007, p.9) であるとしていることからもその点は見て取ることができ る.そして, 「楽しい体育はその先駆的挑戦であると理解. . するとともにこうした思想的根拠についての批判は今のと. こうした理解のなかで,松田は「楽しい体育」論につい. ころ皆無である」(佐伯,2007,p.9)とはいえ,その体育. - 111 -.

(7) 越 川 茂 樹 で,プレイ論を導入し新しい体育の方向性を示した. における教育観とその根底にある人間観への問い直しは不. 人物である.. 十分であることが本研究において示された. すなわち,「楽しい体育」論をめぐりその検討を目的と. 注3)体育の授業の目的の情緒性と内容の不明確性という. した論述について, 「楽しい体育」論における教育観や学. 教科構造の柔軟化,ならびに学習過程と学習活動の. 習観,さらにはその根底にある人間観に及ぶ原理的な考察. 脱構造化の志向を示す表現であり,それらを「50%. には至っていないことが確認された.また,杉本・田口. の計画性と50%の創造性」,あるいは「50%の組織. (1986)や多々納(1990)の指摘に触発された「楽しい体. 性と50%の生成性」という割合によって示している. 育」論を主張する全体研内部の自己理解と学習観のとらえ. (佐伯,2006,p.34).. 直しはみられるものの,原理的な検討はいまだに学術的に. 注4)竹内(2012)は,やまとことばである,あわいを分. 十分になされてはいないことが認められた.. 析し,それを二つのものの関係や距離を示す「あい. 佐伯がいう体育における近代の超克を脱規律訓練という. だ」という類義語とは異なり, 「静的な「あいだ」. 身体性をめぐる問題の克服の徹底化をめざしているところ. にはない,二つのものが両方から出会いながら,重. に, 「運動の教育」としての体育が有するそれ以前の体育. なったり交わったり,あるいは背いたり逆らったり. の教育観とその前提とする人間観(身体観)の転換を認め. するという,より動的な状態や関係を表す言葉であ. ることはできるが,まさにそれに関するさらに深い思考が. る」(竹内,2012,p.133)と理解する.. 求められている.松田が楽しい体育論はプレイ論に基づい て構想されたからこそプレイ論によってさらに乗り越えら. 文献. れるであろうとし,体育とプレイの新たな関係が原理的に. 日野晃希(2008)学校体育思想としての「楽しい体育」論. 模索されることが望まれるとして議論の可能性を指摘して. における分析の試み.体育哲学研究,39:39-47.. いる.プレイと学習をめぐってもやはり原理的な考察は議. 石田智巳,坂本桂,原道範(2006)体育科教育における楽. 論の余地が残されている.そこには, プレイと学習 (学び). しさに関する研究Ⅰ-「楽しい体育」の失敗から引き. のダイナミックな関係性, 「楽しい体育」論に即していう. 取るべき課題?.和歌山大学教育学部紀要 教育科学,. ならば,「あいだ」ではなく「あわい」注4)をめぐる原理的. 56:107-116.. な考察が求められている.すなわち,それは,プレイは学 びとのあわいに,そして,学びはプレイとのあわいにおい て,といったダイナミックな相互のかかわりのなかで問い. 釜崎太(2008) 「楽しい体育」論の可能性と課題.弘前大 学教育学部研究紀要,12:43-59. 越川茂樹(2012)ドイツの就学前教育における運動教育: Thüringen州の場合.岡山体育学研究,19:39-49.. 直し考えていくことである. さらに付け加えるならば, 「楽しい体育」論は,特定の. 真木悠介(2003)気流の鳴る音.ちくま学芸文庫:東京.. 思想や認識論から導かれたものではないゆえ,その思想的. 松田恵示(2007)「楽しい体育」とプレイ論 -「遊び」の. 基盤は必ずしも明確ではなく,全体研の,社会変化を見通. 視点がなぜ必要なのか-.全国体育学習研究会編: 「楽し. す特有の授業実践の積み重ねのなかで共有され,育まれて. い体育」の豊かな可能性を拓く,全国体育学習研究会:. きた教育・体育に関する柔軟な考え方から生まれてきた(佐. 東京,pp.64-76.. 伯,2007,p.31)とされるが,その思想的基盤である「児. 森知高(2002)体育科とはどのような教科なのか.高橋健. 童中心のプラグマティズム」と「プレイ論」をめぐって原. 夫他編:体育科教育学入門,大修館書店:東京,pp.12-. 理的な考察を深めていくことが求められる.なぜなら,新 たな体育の考え方にはその前提となる教育観,学習観なら びにその前提となる人間観こそを問い明らかにしていくこ とが体育論の輪郭を鮮明にし,具体的な実践とのあわいの なかで具体化され深化していくと考えられるからである.. 19. 森脇逸朗(2008) 「楽しい体育」論の意義と課題.教育目標・ 評価学会紀要,18:87-96. 長見真(2009)楽しい体育論の視界:プレイとしての運動 を学習する意味と可能性.体育哲学研究,40:61-64. 永島惇正(2001)体育の学習と指導(自発的な学習と指導) 宇土正彦他編: [新訂]体育科教育法講義,大修館書店:. 注 注1)越川(2012)は,日本の就学前教育の運動をめぐる. 東京,pp.60-68.. 学習に関する問題として,遊びを通して保証しよう. 西村清和(1989)遊びの現象学.勁草書房:東京.. とする幼保と教科学習において保証しようとする小. 佐伯年詩雄(2007) 「楽しい体育論」批判の思想的根拠を. 学校をいかに結びつけるかという問題があるとす. 問う.全国体育学習研究会編:「楽しい体育」の豊かな. る.そして,こうした問題を考える上での一資料と. 可能性を拓く,全国体育学習研究会:東京,pp.6-9.. してドイツにおける就学前教育と初等教育が統合さ. 佐伯年詩雄(2007)脱規律訓練をのぞむ未完のプロジェク. れた教育計画における運動教育の考え方について事. ト.全国体育学習研究会編:「楽しい体育」の豊かな可能. 例報告をしている.. 性を拓く,全国体育学習研究会:東京,pp.25-36.. 注2)全体研の生みの親であり,体育のあり方を考える上. 杉本厚夫・田口節芳(1986)「楽しい体育」論再考.近畿. - 112 -.

(8) 「楽しい体育」論をめぐる論述の吟味 大学工学部紀要,13:61-81. 鈴木理(1995)「楽しい体育」論における学習指導の論理 と問題.工学院大学研究論叢,33:155-167. 高橋健夫(2011)体育科教育学の発展過程.日本体育科 教育学会編:体育科教育学の現在,創文企画:東京, pp.255-269. 竹内整一(2012)やまとことばで哲学する「おのずから」 と「みずから」のあわいで.春秋社:東京. 多々野秀雄(1990)所謂「楽しい体育」論の批判的検討. 九州大学健康科学センター『健康科学』 ,12:73-86. 友添秀則(2011)学校体育カリキュラムにおける体育領域 の位置と役割.日本体育科教育学会編:体育科教育学の 現在,創文企画:東京,pp.11-26. 山本順彦(1987)問題解決学習.吉本均編:現代授業研究 大事典,明治図書:東京,pp.204-205. 矢野智司(1998)生成と発達の場としての学校.佐伯胖他 編:学校蔵の模索,岩波書店:東京.. - 113 -.

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参照

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