「言語の普遍性」のことなど
15
0
0
全文
(2) . 「言語の普遍性」 のことな ど. 小. 名. 裾. 郎. 1 1。 1anguage u寵iversa1. lan隊lage ( inをmi i iversa1と い う こ と が 言 わ れ て お り ふ つ う 「言 語 の 普 遍 性 (と か 普 t ) un orl s c ,. 遍的特性)」と訳されている。 注の1 )にあるように, この, すべての言語に共通の一般原則があると いう主張・立場は, チョムスキーをはじめとする変形文法理論家たちによって表明されて それで , , 言語の間には共通の特徴があるのか, あるとす ればその性格は どういうものなのか ということ が , 近年の言語学における hottopic と な っ て い る。 こ の 種 の 言 語 に 共 通 の 特 性 の こ と を 指 して「言 語 の 普遍性」 という言葉が使われるようになっている 。 2。 「言語能力」 こ の languageu i lの考えは, 察するところ 生成変形文法の理論的根底の一つである人間 n r sa ve , の 「言語能力」 という仮説に基づいている, というか, とにかくその仮説と密接に関係していると 思われる。 「言語能力」 の仮説というのは, 人間は生まれな がらにして言語の能力を持っている 人間は言 , 語能力というものを持って生まれてくる, という, いわば言語の生得説と でも言える提起である 。 それで, 何故, 生成変形文法 学者が, 言語とは人間にとって先天的賦与である 言語は人が生ま , yのか 彼らの挙げている仮説の根拠ないし理由と れる前にほぼ先天的に決定されている, と断ずる , いうものを見てみよう。 理由の1 言語の習得が人類に均質であること. 即ち, その人が極度の知的欠陥の持主であるとか 言語社 , 会から長期に隔離されるとかして, 生理的に心理的に明白な欠陥がある場合以外 人間の子どもは , みな同じようにことばを覚え, それは個人の経験差 o 訓練差によらない 。 理由の2 言語は人類という種に特有のもの で, 人間だけが話すことを学 ぶ 例えば チンパンジーはかな 。 , りの程度知的に発達しているが, それでも言語を習得 できない 言語と知能とは直接結びついてい 。 る も の では な い.. 理由の3 人間によって習得される言語は比較 的に完成したものであって 人の頭のよしあしによって習得 , され獲得される言語体系に差が生じるということはあり得ない 。 理由の4 言語の構造は複雑 であり, 例えば文法組織などかなり抽象度が高い その法則は言語学者さえ徹 。 25.
(3) . 小 名. 機. 郎. 底的には記述し得ないものである. そういう構造上の法則の具体的運用を, 子どもは無理なく習得 して の け る.. 以上の理由から, 人間には, 先天的に獲得されている言語の構造上の法則, 遺伝的に決定されて いる言語の体系, 即ち 「言語能力」 がある, それが上述のような人間の初期の言語行為を導くにち がい な い, と い う の で あ る.. 1と i 3. language u r sa n ve. 「言語能力」 との関係 「言語能力」 について 上の主張から, 変形文法家は次のように論を進める. 世界各地の子どもたちは, それぞれに違う自分たちの母国語を覚えるが, 各言語のそのいろいろ と異なる点というのは, あくま で, 言語というものの構造上の周辺的特徴であっ て, 子どもがほか ならぬ自国語, 即ち自分の母語を覚えるということは, その周辺的構造特徴を身につけることを意 味する. 一方, 周辺的特徴ではないところの構造の枠組はと言えば, これはどの子どもにも同じく遺伝さ れているものなのである. すべての言語の基底となるものを子どもたちは先天的に所有しているの である. いわば, それに周辺特徴をつけ加えればどの言語にでもなるところの, 元の, 言語の青写 真とでも言えるものをも って, 子どもは生まれてくるというのである. すべての言語に共通の構造上の特徴を 「言語の普遍的事実」 と呼ぶなら, この 「言語の普遍的事 実」 は, 先天的・遺伝的に決定される言語の構造上の特徴 -- 子どもがそれをも って生まれてくる ところの言語の青写真 -- と同一視してもよいのでは ないか, というのは, すべての言語がある特 徴を共有していれば, それは多分, この特徴が人間としての遺伝的形質の一部だからであると推論 できるから, というわけ である. ここま で進めば, もう先は分かる. 表面上のちがいにもかかわらず, すべての言語は大筋におい て似ており, 表面の言語的多様性にかくされて実は 基底の一様性が存在する. 即ち, すべての言語 は基本的には同じように 組みたてられているのだ, という結論は当然である. このように, 言語構造が先天的に決定されているという 「言語能力」 の仮説は, 論理の必然とし て 「言語の普遍性」 へと導かれてきたのである. 4. 生成変形文法の影響 変形文法の言語学に及ぼした影響は非常に大きくて, 学生と読むテクストのはしばしにこの文法 理論の影が射している. 「言語はこれらの基礎的人類文化の普遍物の一つである. すべての知られている人の集団は複雑 2 ) な言語を持っており, それらの言語はその全体構造で本質的な類似性を表わしている.」 「人類の文化上の類似の最も重要な証拠は, 言語がすべ て一定の基礎的構造特徴を表わしていて, 3 ) そのためすべての言語に科学的言語学の記述法を適用 できるということ である.」 lar i imi ials ‐ ここ で Gr eenbe rg(引用文の筆者) が言う「全体構造で(の)本質的な類似性」(essent lt i i ls ts iesi t ) と tain bas i t t ture ructura ra cs ) や 「一 定 の 基 礎 的 構 造 特 徴」 ( cer ruc nthe r overal. いうことが, 言語の構造特性のどの点までを指すのか分からないが, 大把みに言 って, こういうこ とは言える. どの言語もそれぞれ音 (言語音) の体系, 文法構造及び意味体系を持っている, 言語 というものはどの言語もそういう全体構造になっている, それは事実 である. ただこの 「本質的な 類似」 と 「基礎的構造特徴」 は, 多分それだけのことに止まらず, も っ と考えを先の方ま で押し進 め て こ こ では 言 わ れ て い る も の と 思う. 音体系, 文法構造, 意味体系という大枠だけなら何 も大げ 26.
(4) . 「言語の普遍性」 のことなど. さに言いたてる必要はないし, また 「そのため…科学的言語学の記述法を適用 できる」 などと書か れて い る こ と か ら も, そ の こ と が 推 測 さ れ る と も かく 注 の 2 i imi lar )と 3 ), こ と に essent i i t als es . , b i i l と か ascstructura trats と い う こ と ば は,前 項 ま でに 述べ た 変 形 文 法 理 論 の 根 底 部 分 に つ な が っ. ているように思われる. 「有節言語のこ の特質 (言語構造に音韻レベルの あることを指す -- 小名) によってわれわれは 非常に限られた数の音韻単位を組み合わせて何千という有意の単位を工夫して, 人間言語の膨大な 4 ) 語桑に基礎を供す ることができる. もう一つの特質は文法的文の理論上の無限さの存在である 」 . 文法レベ ルの問題として, 「文法的文の理論上の無限さ」ということも, 明らかに生成変形文法の 基本原則の一つであって, これをグリーン バーグがここ で祖述したのである も っともこれは当面 。 私の取りあげることではないのだが. l k i さらに, 言語習得に関して, Wi nsのテクストに次の叙述がある。 「言語への妥当なexpos ur eがある限り, 上述の言語習得過 程を, 生理的心理的欠陥に苦しんでい ないならすべての子どもが辿るだろう. 学習の進み具合は同一ではないだろう が またひどく 異る , ものでもないだろう. 5歳までに言語の文法組織の実質 的な部分は, すべての子どもがものにして しまう. 子どもの生れつきの知力 のちがいを考えて見れば, 非常に目立つことは言語発達の相似 で ) あ っ て, そ の 違 い の ほう では な い 」5 .. こんなわけで, 乏しい例 ではあるが, 以上からも, 生成変形文法の理論が, 私の問題にしている 根底の仮説を含めて, 言語学に強い影響を与えていること, それらの考え方がもはや研究者の間で 常識と化してさえいる如く であることが, お分かりと思う 。. = ,. universallanguage l で 「言語の普遍性 ”こついて多少触れたが. , こんどは, それと関係がないのだが, 「普遍」 とい う字句だけのつながりで, 「普遍的言語」 について述べたい。 languageuniversal の 場 合. iversa lは 形 容 詞 の名 詞 化 で universa l s と 複 数 に も な り, そ , そ の un ,. ういうときは具体性にウエイトをおいて, 普遍的事実とか普遍物と訳すほうが適わしいと感じられ た りする. universallanl型age の 方 は, uni lは 純 然 た る 形 容詞 で 「普 遍 性」 「普 遍 物」と い っ versa ,. た観念とは関わらない. iversa さ ら に, 私 が頭 に お い て い る un llanguage は そ れ ば か り で な い 即 ち そ れは 「言 語 の 普 , 。. 遍性」という概念から出発して言語の普遍性を抽出して得られるような一個の想定上の抽象的言語 , ないしは, 言語の基底というか共通の 骨格というかとにかくそういうものとなる普遍文法のこと で はなくて, 言って見れば, 英語だとかドイツ語フランス語, あるいは中国語といった 個々の 現 , , 実に存在するまたは存在した, 具体的言語のこと である. そういう言語のうち多少とも普遍的性格 を帯びたもの, 広い視野に立って普遍的言語と見倣し得るもののことを考えて見たい 例えば 英 , . 語は昨今, 世界共通語としての性格をますます強めているが, そういう意味では立派に一個の un i ‐ versall anguage の 資 格 を 有 す る と 言 え る. in の 古 典 語 が . ま た ヨ ー ロ ッ パ では 過 去 に, Greek, Lat 。 そう いっ た こと に 関 連 して - - そ う. 学問文化の面では universallanguage の 性 格 を 持 っ て い た いう普遍的言ゴ 語のレベ ルで -- 以下少し述べて見たい.. 27.
(5) . 小 名. ・郎 機.. 2. チ ョ ー サ ー Geof f ) rey Chau 1340?-1400 r( ce . 中世イ ギリス最大の詩人であり, 近世英詩の創始者である チ ョ ー サ ー. チ ョ サ ー は そ う 詩 人 だ が, 彼 の 作 品 とく に‘Canterbury Tales’が nativespeech す な わち英語の一大規範を確立 し, その た め彼の使っ た East Midlanddialect の 権 威 が 高 ま っ て, こ の East Mi d l i l tが近代英語へと発達して行った andd a ec. . 当時イ ギリスには統一的言語がなく. l dia ect. i sh と あ っ て, そ の う ち の 中 部 が さ ら に 東 西 に 分 か れ て い た. が南方,北方,中部と Kent 地 方 の Kent t Midland dial land で 大 体 チ ョ ー サ ー は 作 品 を 書 い た. こ の Eas t Mid ect が 近 代 英 語 に そ の Eas. なって行っ たのであるから, 彼は 「英詩の父」 というに止まらず, ときに 「近代英語の父」 とさえ i t ve 呼ばれるが, 実は近代英語の確 立に至るまでの中期英語の時代を通じ, またまだその後も, na s ech としての英語の地位というものは非常に不安定であっ た. 英語史の一時期にはそういう事情 pe が介在していたのである. rmanConquest が あ っ て フ 周知の通り, 中期英語時代の英国は 二言語使用の状況下にあっ た.No ランス人が支配者として乗りこんでき たから, 当然フランス語が大手を振っ て罷り通っ た. こうい う状況にあって, はじめは 息を潜めていた英語が, それ自体の中に激しい変容を内包しつつも, 結 局は外来の No rman French を 押 し の け て 浮 上 で き た の は, も ち ろ ん 独 り チ ョ ー サ ー の 力 の み に よ ったのではなく, 他の種々の要因 -- 政治的, 言語的またチョ ーサー以外の文学文化の, 諸要因 i - - がか ら み あ っ て い た た め で あ ろ う. そ の よ う に 結 局 は nat ves ech が近代英語へと発達して, pe 現在の英語が確立してしまった今の時点から, 時を隔てて当時を振りかえれば, そういう長期的眺 望の視野に立てば, この中期英語時代における Norman French の 優 勢 さ, 従 っ て 英 語 の ほ う の 逼 塞という二言語の力関係, またそれを含む当時の言語事情というものも, どうも信じ難い, 少なく ともあまり切実でない英語史の中の単なる 一エピソー ドと思われてしまう. しかし, 実際に中期英語の時代に生を享けて, この言語社会に身をおいていたイ ギリス人の立場 ives に 立 っ た ら どう であ ろ う か. 自 分 た ち の nat peech の将来に確たる信念が持てたであろうか. そ の確信を迷わず保持できただろうか. 少なくとも, 上流支配階級のことばであり, 国の公用語でも あったフランス語を無視して, この時代この社会を生きられただろうか. 世に出て何事かなすこと あらんとする中流以上の者なら, とてもそんな達観は得られなかったにちがいない. i t 事実, 当時何らかの著作を世に間うには, それを La nや French で物するのが一般であった. 文 i F h L 一の著作を果たして, その t さらにその上に英語という三段構えで同 ては 学者によっ enc an , r ことによっ て名声を博すということもあっ た. チョ ーサーの死後一世紀を経てもそういった事情は ′怒 ら な か っ た と い う . 現 に, 16 世 紀 の 人 で Roger Ascham (ロ ウ ジ ァ・ア ス カ ム, 1515-68) と い う, エ リ ザ ベ ス 一 世. i t の家庭教師も勤めたという学者が, 自分の a ve rche ryに関する 著作の献辞の中 で, その著書をna inorGreek t speech で書い た こ と,即 ち La. その ほう が 自分 の 職 業に ふさ わ しい の だ が - - で. ) 書 か な か っ た こ と の 弁 解 を し て い る と い う.6. それで, 私がここで言いたいのは, 中期英語の時代と引続く しばらく間の歴史的時期の観点から は, 英語よりフランス語, フランス語よりラテン語が, 学問文化の面 ではより普遍的で, より広く i inc lass 世 に 通 じる 言 語 であ っ た と い う こ と であ る. 当 時 は Greek,Lat cs へ の 傾 倒 が 著 し か っ た の llanglage に つ い て の そ う い う 見 で, そ れ が な お さ ら 当 然 に 思 わ れ た と は 言 え, と も か く universa. 方が一般的であっ たと言われる. ところが, まさにその中期英語時代のただ中14世紀を生きたチョ ーサーはどうだっ たか. チョ ー サーはその断片的伝記資料によれば, 商人の出で, 宮廷人, 軍人, 外交使節, 税関監査官, 工事監 28.
(6) . 「言語の普遍性」 のことなど. 督, 林務官など多くの職業経歴を持っていて, そのことからも分かるように, 当時の知識人として, l d tMi anddialect で s 仏語にもラテン 語にも十分通じていたと思われる. それなのに, その彼が Ea 作品 を書いた, universallanguage と 思 わ れ る も の を 敢 え て 斥 け て, 自 分 の 創 作 の 芸 術 価 値 を こ の i l d tに賭けたわけである.ここに英語という言語の視点から見たチョ ーサーの存在意義があると ec a l i tで作品活動 を行 t Midland d ec a 思われる。 彼は或るいは一人の叙事詩人としてごく自然に Eas なっ たのであ な生命力を吹きこむ結果に なったのかもしれないが, それが, 英語という言語に大変 る. 3。 ベイ コ ン. i sBacon(1561- いまチョ ーサーを引合いにして,彼と対照的な意 味で考えてみたい大家に Franc ) が い る. 1626. 新潮世界文学小辞典のベイ コンの項を見ると,「彼は…政治家と して活躍するとともに思想家とし ても近代的思想確立のため大いに努力 した. 当時まだ残存していた中世のスコラ哲学的思考を排撃 し, アリス トテレース的演経法をしりぞけて, 事実を基盤とする経験的な帰納 法を主張した. まず 出した 『学問の進歩』 を ) において説き, (中略)23年にはさきに, 16 05 そのことを 『学問の進歩』 ( さらに敷宿し, かつラテン語で書いた 『学問の進歩について』 を出した. …」 という個所がある。 ベイ コンがその 『随筆集』 によって 「イギリス文学の一つの特質であるいわゆるエ ッセイ文学の 系譜の創始者」 に英文学史上位置づけられていることは, 先刻承知のことだが, 私がいま取りあげ 605年に出した『学問の進歩』 るのはそのことでなく, 世界文学小辞典からの上記引用にある, 彼が1 を, 1 623年に 増補し, さらにこの著書の初版からすでに約二十年も経たこの時期に, あらためてラ テン語で書きなおして 『学問の進歩について』 として出したことである。 7 ) t Weekl ey の T脳 E”g偽れ Lα”g粥増e に も 出 て い て, 私 は 前 に こ の ウ ィ ー ク こ の こ と は Ernes. リーの言及を紹介しながら, ベイ コンの英語に対する不信頼, 不見識からして, シェイ クスピア = ベイコン説 (伝記不詳のシェイ クスピアは 実在の人物でなく, シェイクスピア作品の実作者は実は 名文家のベイコンであるとする説) には到底 組みし難いと書いたことがある。 自国語に全幅の信 頼 をおき, 自国語と自分の芸術生命との 心中も辞さないほどの気持がなければ, シェイ クスピア作品 におけるよう な芸術的達成はあり 得なかったろうと思ったからである. ベイ コンがす ぐれて啓発な思想家であり, また人生万般にわたる 畑眼の観察家で, かつ名にし負 う文章家であっ たことは誰も否定でき ない。 もっとも政治家と しては, かつての友人エセ ックス伯 の断罪裁判や, 収賄露見で失脚した晩年などはいた だけないが。 いまは, そのベイコンを同時代のシェイ クスピアとの関係 でなく, 彼と実に二世紀以上の時代差 のあるチョ ーサーとの対比で見ているのだが, 要するに私は次のように言いたい。 彼ベイ コンは『学 lな言語だから, 英語の著作ではそうは行く i r s a ve 問の進歩について』刊行の理由を, ラテン語はun こおいたの まいが, このラテン 語版なら 「書物というものが伝わる限り後世に残り得る」 という 点も である。 彼の自国語に対する無理解はもはや明白である. そして, 実にこのことが, 自国語に対す る信愛の点でベイコンと対極に立つ同時代の劇詩 人とまさに同 一系譜の源流に立っている14世紀 の先達大詩人の立場を, 時代が隔たっ ているだけそれだけより強く光り輝かせていると言える。 ベ イ コ ン の 無 思慮無理解は, 反転して, チョーサーの慈愛深い聡明への光度高い照明 となっているわ けである.. 29.
(7) . 小 名. 機. 郎. 4. 文語体, 口語体 ベイ コンにおけるような, 自国語の将来に対する不明 ということはさておき ベイコンの精神状 , 況に通じる, より普遍的なものに魅かれる人間の心意は, 洋の東西を問わず存在す るよう である . 例えば, 江戸中期の儒者荻生祖棟が, 自ら物祖棟と称した のも, 大雑把な把え方での漢文化という ものに対する憧れというか崇拝というか, そんな精神から出たことと言えるのではないか そして , . i lな言語というのは漢文 (=古典中国語) であり, また漢文化・中国文化が先 この際のよりun r ve sa 進普遍の文化だっ たわけである. 明治以降, 西欧の文明に接したわれわれ日本人は, こと文体に関しては, 言文一致ということか ら, ‐口語文を発達させてきた. それま では, 文語体の文が一般に行なわ れていて, 文語の文体とい うものは確立していた. 文語体というのは, これはもう言うま でもないが, 漢文を訓読する式の文 体である.返点・送仮名 をつけて漢文を訓読する,あの漢文読み下しのような文体 -- 少なくとも , それが骨格となっ て発達完成した文体である. ところで, 口語文のほうはどうだろうか 文体とし . ) て確立しているか. それは文体としては出来上っていない, と丸谷才一などは言っているが 8 . 日本人は明治以降, 西欧文化に基く 多くの概念を消化吸収し, 既成の型にはまった漢文調の文体 では, この新しく身に つけた諸概念に依拠する文意, 表現意図をこなしきれないことを痛感するに 至った. そのため, 新しくより自在な言いまわしの可能な言文一致の方向に進んで 今日ま での百 , 年余りを経たのである. だから, その口語の文体がいまだに確立・確定したものとなっていないか どうかはともかく, 最少限, 文語体の元である漢文をより un i lな言語として拝脆する, 昔日の ve r sa 精神状態からは, すでに免れていると言える. いま心配なのはむしろ, 逆方向の精神拝脆である . 即ち, 漢文化に替わって, より普遍的でより進んだものとしての 西欧文化に魂をう ばわれることが そう である. この振り子運動にも似た精神の状況が, 明治以来いっこうに衰えていないのは気にか かるところだが, われわれが日本語の新しい口語の文体を獲得して行くためにも 昨今はあれこれ , の取捨選択のむずかしい局面にさしかかっているように 思われる .. 1 11. 日 本 語 の こ と 1. 次に日本語の問題に目を転 じてみたい. これは身近のこと で, ここま ですでにそうなのに, ます ます平凡な内容になるが, この点お許しを請う. た だ, 何 の た め に そ ん な 題 材 を 取 り あ げ る の か と 言 う と 気 持 の な か に languageun iversalに 対 ,. する疑念がある. 「言語の普遍性」だって?. そんなこと言えるのか, そうは問屋 で卸すまい, とい 思いがあ う る. そして気がつけば何故か これはと 思う 日 本 語 の 問 題 が, ど れ もlan≦副age universal に 逆うものばかりで, 或いは無意識にそういうものを捜しているのかもしれないが, 以下それらを 並べ て, 全 体 と し て は lanき鑓ageuniversalに 疑 問 を 提 す る と い う 形 に し た い と 思う .. 2. 助詞 「は」 川本茂雄『ことばとこころ』 (岩波新書版) を見れば, 川本が熱心にまた巧みに生成変形文法の祖 述に努め, ことに日本語にこの文法理論を当てはめて, この理論の普遍妥当性を説こうとしている . 同書に収められている 「言語と精神」 の中でも, 川 本は上記の意図から, 西条八十の 「かなりや」 の歌詞第一節と第四節を例にとっ て論をすすめている.. 30.
(8) . 「言語の普遍性」 のことなど かなりや. 唄を忘れた金糸雀は, 榎 の山に棄てましょか い え, い え, そ れは な り ま せ ぬ. 唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に, 銀の擢 月夜の海に浮べれば 忘れた唄をおもいだす ここに二度出てくる 「唄を忘れたカナ リヤは」 の 「は」 について, 川本は, 前の一節目の 「は」 は 「カナリヤを 後の山に棄てましょうか」 という意味の 「を」 であり, 後の四節目の 「は」 は 「カ ナリヤが忘れた唄をおもいだす」 で 「が」 の意味である, 従って, 助詞の 「は] は一義的でなく, ・ るが) という意 「は」 が使われるのはそれはそ れで理由はあ これは語と語の論理関係を暖昧にする ( 味の こ と を 述べ て い る。. そく. これは, 語と語の論理関係を即語の格関係と押さえての説明 である。 「が」 か 「を」 とすれば格関 係即ち語と語の論理関係がはっきりするのに, 「は」ではそれが明示されない, ぼやけてしまうと し て い る。. 私にはこれはどうも皮相の見方に思われる. 「が」 か 「を」としなければ論理関係をぼかすことに なるだろうか. 「は」 が 「が」 と 「を」 の両義を持つか ら, 「は」 が使われると, そのどちらの意味 かはっ きりしないだろうか. 「は」 がそのとき どきで対象 を主体としていて把握している 「は」 なの か, 客体として把握している 「は」 なのか分からぬと でも言うのだろうか. とんでもない! どの 場合でもそれは明 らかである. われわれ日本人にとっ ては, それは全くはっきりしていて決して迷 うことはない, 意識するしないにかかわらず。 語と語の論理関係が「が」「を」といった格助詞 でなけ ればはっきりしないという言い 分は, まず 文の論理構造の土台を格概念だけに狭める考 え方だし, 次に一歩譲って論理関係を明示すべく「が」 「を」 を 「は」 に代えたと しても, 「が」 自体が主格と目 的格の両義を持っていて, 一義的でなくあ いまいな点では 「は」 と同じということになり, 「が」 も語と語の論理関係を暖昧化するなら 「は」 と代えた意味がなくなる。 しかし, 実際は 「が」 が主格の 「が」 か目的格の 「が」 か暖昧だという ことはあまり起きない。 とくに意識しなくともわれわれにそれはは っ きりしている. この点 「は」 の場合とま ったく同様 である. ただ 「は」 についてさ らに言えることは, 日本人は 「は」 を格概念 では受けとめていない (だから所謂格助詞に 入らない) ということ, いわば 「は」 には格 プラスア プラス ルフ ァ の意味合いがあり, しかもその十アルファ のほう が 「は」 にとっては重要だということであ る。. そこ で, 川本が見落しているらしい大事なことがある. 第四節1行目の「唄を忘れたカヤリヤは」 千目に続くのだと の 「は」 は 「が」 であって 「唄を忘れたカナリヤが忘 れた唄をおもいだす」 と44 言っている個所である. だが, この歌詞第四節の1行 目と4行目の間には言うまでもなく 「象牙の 船に, 銀の権」「月夜の海に浮べれば」という 2 行 目, 3 行目 が 入 っ て い て, 明 ら か に こ こ も き っ ち りと1行目に結 びついている。 即ちそれは, (唄を忘れたカナリヤは) 「象牙の船に(乗せ) , 銀の擢 (で漕いで)」 「月夜の海に浮べ (てや) れば」 という 文意である. とすれば, 1, 2, 3行目まで だけなら, 「唄を忘れたカナリヤは」 の 「は」 は 「を」 を含意することになる. 「カナリヤ を船に乗 せ, 月夜の海に 浮べる」 であるから. かくて第四節1キテ目の 「カナリヤは」 の 「は」 はこれ一つ で 31.
(9) . 小 名. 機. 郎. 「が」 であると同時に 「を」 でもあるということになる これは 「は」 が場合により 「が」 か 「を」 . , であるというのとは少しち がう. 実に一つの 「は」 がそれだけ で 「が」 でも 「を」 でもあるという ケースなのだ. 川本の主張するよう に, 文の論理構造をは っきりさせるための操作 であっ ても ここは 「が」 に , も 「を」 にも代えられないし, 代えるべきでない 強いて代えるとす れば 「を」 のほうがまだ我慢 . できる (そのときは4行目の主 語省略と考えて) けれど, 「が」 ならば1行目と2行3行目と関係が 断たれること を覚悟しなければならない 4行目との関係だけを呪んで1行目を 「が」 とし 2 . , , 3行目との関係を無視す れば, 結果はいささか偏頗な日本文の出 来上りという ことになろう . 要す るに, この四節1行目の 「は」 は 「が」 とか 「を」に分析不可能な「は」 である 「が」と「を」 . の両義を併せ持つが, どちらにも分けられないで, 丸ごと 「は」 のまま で機能しているのであ る . 「は」 というのは, もともとそういう特色 を持つ助詞なの ではないか どうもそう考えざるを得な . し) ・. 従って, 日本語における語と語の関係というものは 格概念によ る関係とは別個の関係把 握の仕 , 方に拠っているのではないか, 「は」 の働き方などを見れば 何かそんなふう に思えてくる , . 3. 日本コ 語の文型における主部 前項で西条八十 「かなりや」 の歌詞を取りあげた が, 川 本は 第一節の 「は」 を 「を」 に書きな , おすときに, ……要するに第一節のほうは, 「(わたしたちが) 唄を忘れたカナリヤを山にすてましょうか」 ) と, こ う い う 意 味 であ る. 云々9. と, 「わたしたち が」をカ ッ コに入れてではあるが補 っている 即ち この文に意味上含まれてい , . る主語を加えたわけ である. これから思うのは, 日本文の主部 (主語 でなく) とは一体何だろう ということ である 日本文 , . の主部とは何かをあらためて考えて見る必要がありはしないか, 私はそう思う 例えば いま問題 , . にしている 「唄を忘れたカナリヤは, 後の山に棄てましょ か」 という文の主部はどこか ? 西欧語の常識である, 主部とは当然主語を含み, 主語を中心とする句か ら成るものという考え , ま た, S ÷ → NP十 VP に お け る 主 部 と して の NounPhrase 述 部 と し て の VerbPhrase と い う 前 ,. 提からすれば, 「かなりや」 第一節のはじめ の2行は主部を欠いた文 である それは 「わたしたち , . が」というような NP を補う作業によって, はじめて主部を持つことになるのであって 「唄を忘れ , たカナリヤは 云々」 だ け では, そ れ は S - → NP十VP の VP だ け に し か 相 当 し な い .. ここに盲点が潜んでいるように思う それでは川本が後から 私に言わせれば 窓意的に補 っ た . , , 「わたしたち が」 がほんとうにこの文の主部 であっ て それは省略さ れていただけなのか? 西欧 , 語の流儀 で行けばまさにそう である. しかし, それで納得でき るか 私は できない 何故なら こ . , . こに 「わた したちが」 など全く 不要であるから 全く不要のものが主部たり得るのか あえて無用 . . の長物を主部に据えるのか. それは私にナンセンスとしか思えない ではこの文で主部はどうなる . の だろ う.. 頭を冷や すために, 別の例を考えてみよう . 日本語には, 「名詞+ガ十形容詞 (または形容動詞)」 という文型がよく 出る . ①バラの花が美しい. ②バラの花がほしい. ③小鳥が可愛 い. 32.
(10) . 「言語の普遍性」 のことなど. ④犬がこわい. 「バラの花」は①では主語だが, ②では主語でない。 また③で「小鳥」は主語だけれど, ④の「犬」 は主語でない. これはもちろん格助詞 「ガ」 の両義性のため で, いまさら言うまでもないことであ る. こ う い う 場 合, 「名 詞」の バ ラ の 花, 小 鳥, 犬 と, 述 語 であ る, 美 し い, ほ し い, 可 愛 い, こ わ い,. という四つの 「形容詞」 をどう関係づけたらよいのか。 はっきりしているのは, これを総括的に, 西欧諸言語におけるような主語・述語の関係とは言えない, ということである. 「ガ」 によって 「名詞」 と 「形容詞 (もしくは形容動詞)」 が結ばれていても, 「名詞」 が 「形容 詞 (形容動詞)」 の主語であるとは限らない。 それは述語である 「形容詞 (形容動詞)」 の主体であ る場合もあるし, 客体である場合もある。 この関係は所謂 主述の関係では決してない. 言えること は 「名詞」 があらわしているものやことと 「形容詞 (形容動詞)」 があらわす属性・状態とが 「ガ」 で繋がることによって, 両者の一定の密接関係が表示されているということである。 日本語の 「名 詞+ガ十形容詞 (形容動詞)」という文型は, そういう両者の関係それも密接な関係を示す文型であ る。 とすれば, 「名詞」 が主語であろうとなかろうと, この文型の 「名詞+ガ」 の部分を 「主部」 と 押さえて一向に差し支えないものと思われるのである. この考えを西条 八十の 「かなりや」 に推し進めれば, 第一節の 「唄を忘れたカナリヤは」 が当然 主部であるということに落ち着く だろうし, これがまたわれわれ日本人に最も自 然な記述に思われ る。. 日本語は明らかに印欧系の言語とちがった 「主部」 の切り取り方をする, 日本人は文の 「主部」 ということで, それが主語であるかどうかにはあまり拘らない, 少なく .とも私には, そう解釈され る.. 4。 動詞活用の様相 ion と 言 う が, 日 本 語 jugat 次 に 動 詞 の 活 用 の こ と を 考 え て み た い. 英 語 で動 詞 の 活 用 の こ と を con. の動詞活用の性格についてのイ メージを際立たせるために, まず対腕的な英語を含む印欧系言語の ion に つ いて 押 さ え た い と 思う jugat con 。. 印欧系言語の動詞の活用は, 一定の文法範噂がその枠組になっている。 何事によらずものの 叙述に, 直接法, 仮定法(もしくは接続法) , 命令法といった, どのような心 的態度でそれを叙するかによって別れる叙法 (または単に法ともいう) というものがある. 現実と して捉えた事実を表わすのが直接法であり, あり得る行為を仮定しているのが接続法であり, また 命令法は相手 (または自分を含む相手即ち自分たち) に対する命令を示す. その法の枠の中で, 動詞は主語の人称・単複 (すなわち数) に従い, また時制に応じて活用する. だから動詞には直接 法の活用もあれば, 仮定法=接続法の活用も, また命令法の活用もある. この際 「活用」 とは言うまでもなく, 語尾の屈折やその他の語形変化による動詞の自 己変容のこ とであり, 従って, それぞれの 叙法の仕方をもって, 主語の人称・数及び時制に合わせて, 動詞が 自己の姿を変えて行く, その動詞の動き・働きが, 活用ということの実態なのである。 このように, ヨーロ ッパ諸言語では, 一般に, 動詞が組みこまれる叙法の如何を問わず, その活 用には常に主語と時制がついてまわる。 習慣的に主語が省かれ, 時制も関わらない命令法の場合で も, その動詞はきちんと, 省かれた主語の人称と数に応じた活用形をとるのである. 主語, 時制, そして叙法に応じて変わる動詞の個々の姿, 即ち活用形を, もとの形である不 定詞 i i inf ini i f t t ) と称するが, この定動詞とその主 ( ) に対照させて, ふつう定 (形) 動詞 ( n rb eve ve 33.
(11) . 小. 名. 梶. 郎. 語とは, 上述の理由によ って, 文法的に切り離すことの できない共同一体の関係にあると言える. 英語は近来, 叙法としての仮定法=接続法の力が弱ま ってしまい (但し一部には逆に接続法復権 の現象もあるが) , それに伴って叙法の概念そのものが揺らいできたため, 昨今では, 直接法の, 接 続法の, とあまりうるさくその区別を言い立てない傾向にある. 代りに, 法助動詞というものを重 宝し, それによっ て仮定・接続法的ニ ュアンスをも表出するよう であるが, 何れにせよ, 英語の場 合, 動詞活用の要素・要件として叙法の枠はあまり意識されなくなっ たとしても, 主語の人称・単 複と時制には依然一貫して変わらない支配力が存する. 一方, 日本語の動詞の活用は どうか, こちらはともかく印欧系言語のそれとは全く性格がちがう. 日本語はす でに申した如く, 文の主部を必ずしも主語と結びつけては捉えない, ということは主 語そのものに拘わらない, 主語をそれほど問題にしない, そういうことばである. それからまた, 時制の概念も, 明治以来百年の余を経た昨今では, ないわけでないけれど, これは多分日本語固有 の文法範噂 ではなかったろうから, いまあるにはあるが決して強固なものではない. さらに叙法の 概念も欠如 している. あれやこれやとそんな訳で, 日本語の動詞の活用を, 主語と時制 が支配しているということは全 くなく, また叙法の意識もこれとかかわることはない. 日本語の動詞の活用とは, これは形容詞・形容動詞の活用も同様だろうが, その活用語詞がほか の語に (もしくは文のほかの部分へ) つながって行くそのつながり方の, 単なる音形の変化のよう である. しかも, その音形変化の個々 を未然形, 連用形, 終止形等々と呼びならわすが, それらの 呼称はあくま で次へつながるため変化していく音形を指しているだけ であっ て, そのこと自体 -- 音形変化自体 -- にはまだ意味がなく, 意味は文の次の語, 次の個所につながってから, その次と の結合 (次に語がない場合は不結合) によっ て, はじめて生じる. 未然なら未然, 連用なら連用の 意がその時はじめて生じる. 終止形だって次との不結合で, その音形で文の中に独立して座わるこ とで, 終止の意味をもつ. ion が 常 に 主 語, テ ン ス, そ れ こ の よ う に, 日 本 語 の 動 詞 の 活 用 は, 印 欧 系 言 語 の 動 詞 の con jugat in i teve と法に支配されるf rb として表われるのと, 恐ろしく 内容を異にする. いま言った通り日本. 語の動詞は決して主語にも時制にも捕われずに, ただあくまで表面の音の 「形」 の上だけの変化で 活用の働きを果たしていると言えそう である.. I VI. 伝達における日本語の発想 大野晋 『日本語について』 (角川文庫版) に次の個所がある. 日 本 語 は い わ ゆ る ヨ ー ロ ッ パ 語 の よ う に, 主 語, 述 語 を と と の え て 「私 が い っ た, 彼 が い っ. た」 , というような必ずだれがする, 彼がするというように, 個人個 人の動作であることを明確 にすることを主にして表現することをしない.(日本語の動詞にはそういった人称語尾なんてい うものは一つもないんですから) ……動作の主人公は誰だなんていうことは, 日本語では重ん じないん です. 何かことが起こると, それは天然現象としてあらわれたかのごとくに受け取っ て, 誰の動作だということは重く扱わないんです. そう じゃ なくて, 表現をするときには, 相 手が話題をす でに知 っ ているかどうか, 自分が言い出していることは, 未知の情報なのかどう か. … … (略) 34.
(12) . 「言語の普遍性」 のことなど. ……その点を非常に重く 見ているわけです。 これはやはり日本人のものの考え方として, だ れがした, 彼がしたということを重く見ず, 相手が知っているかいないかという, 相手とのや 0 ) りとりを非常に重んじて言語を発達させて きていることを示すと思います。1 この大野の指摘 --「相手が話題をすでに知 っているかどうか,自分が言い出していることは,未 知の情報なのか どうか.」また「相手が知 っているかいないかという, 相手とのやりとりを非常に重 んじて言語を発達させてきている」 --, これを見ると, 先程来私が問題にしてきた日本語につい ての二, 三の点のより根源的な理由が分かる気がする. 日本語の場合は, 印欧系言語のように, あらかじめ文法範噂を設定して, そこに一定のルールを 立て, それにもとづいてことばを運用しようとする, 少なくともそういうルールの大枠の中 でそこ からはみ出すまいとする(それが如何にも論理的言語使用に見えるの であるが) , そのようなやり方 おもむ とは大分趣がちがう. 語と語の関係の格概念に縛られない捉え方, 文の重点 (というのは関心の赴 くその対象だが) をまず主語か否かにこだわらず主部として取りだす 習慣, また, 動詞の活用 で動 作主や時制 の関係を無視した上で音 「形」 の変化だけを活用と押さえ, 文法上の意味はそれを実際 に動作・状態を示す部分につなげてから付する等, これらの方法はまことに, 相手とのやりとりの 中で融通無碍に相手の状態に応じ分けるのに適しているし, またそうすることによっ て発達してき た伝達方式なのであろう。 これらは, 日本人が歴史的に辿ってきた特殊な生活環境の中で発達させてきた, 独特の発想法に うなず よるものだと思えば, なるほどと首肯ける. よく言われることだが, われわれ日本人の会話のやりとりには文の主語のことが念頭にない. 英 米人に日本語を教える際まっさきに注意することは, まず主語を抜け, 英文が先に浮んだらそこか ら主語を抜いて日本語にせよ, ということだと言う。 あくまで主語にこだわり, 主語なしでは夜も 日も明けない国から眺めれば, これは決定的な言語習慣のちがい であろう。 弁天小僧の台詞 「知らざあ言ってきかせ ぁ しよう」 じゃないが, 動作主としての相手も自分もみ な腹の中に収めて表に出さず, ただ必要部分だけをことばにする, あとのことはくだく だ言わない. これで十分すぎるほど意は伝わるの である. このほうがむしろ効果的な方法とさえ言えよう. そし てこれは, 何も主語のことだけに限らない. 日本語による伝達全般に貫ぬかれている発想であり方 式なのである。 関連してよく引かれる例に, 「ぼくはうなぎだ, 私は天婦羅」がある. これも料理の注文というシ ’ チュエィ ションでは少しも不自然でなく, まさにそのものずばり である. ただし am aneel . (ぼ ‘ i l r l ノ (ぼくはうなぎの蒲焼である) などと言ったら, 外人は目 くはうなぎだ) とか m a bro ed e e を白黒させるだろう. この直訳英文 (従ってこの場 では誤訳) では情況がまったく伝わらないので ある. 相手に未知の情報だけを提供し, お互いが諒解していることはあらためて口にしないという 言語経済 (?) のこれは恰好の例 であろう. もっとも言語経済の観点からの省略法は何も日本語の 専売特許ではないが, やはり 「ぼくはうなぎだ」 などは日本語国有の発想にもとづく独特の語法 で あり, 伝達方式の例と言えるのではないか. 2。 残る問題 前項で, 伝達における日本語の発想の独自性, 固有性に触れた。 ただ私は, これを, 絶対的なも のと考えていない. この独自性, 固有性が絶対変わらないとは思っていない. われわれを取り巻く 現実はわれわれに印欧系言語の文法的要素をも駆使することを強いている. そこに当然, 日本語固 35.
(13) . 小. 名. 梶. 郎. 有の要素と外部から入ってくる要素との衝突ないし併存, 結果として両者の妥協, 折衷が起こる だ ろうし, 現に起こっ ている. われわれが新しく 美しい日本語, 口語体の日本語を確立するためには, また確立の努力を続けるためには, まず日本語が本来有している性格, 日本人の言語運用における 独自な方法をしかと頭に留めておく必要がある. その上で, 一方で自国語を支える独自の言語法則 を探りつつ, 現実処理としては, 無批判に外来の要素, 外来の観念を鵜呑みにしないで, 他から何 をとり己れの何を残すべきかを, われわれ自身が決めて行かねばならない. 自分自身の頭 でそれを や って行かねばならない. 岩洲 悦太郎 『日本語を考える』 (講談社学術文庫版) に, 新約聖書マタイによる福音書第七章七, 八節の口語訳についての言及がある. 「求めよ, そうすれば, 与えられるであろう. 捜せ, そうすれ ば, 見 い だ す であ ろ う. 云々」 の と こ ろ であ る.. 原文は未来表現だそうだが, 日本語には特に未来を表わす言い方がない. そこで「であろう」 を使っ たのであろうが,「であろう」は, 普通, 推量表現として使われる言い方である. 従って, 「与えられるであろう」 というような言い方は, 多分とか恐らくとかいう意味を表わすもの で あって, 必ずという意味ではない. そこが予言としてはふさわしくないと言われる所なのだろ ) うユー. 日本語では, 現在も未来も, 普通の終止形で表わせる. だから, 予言などの場合は, むしろ 求めよ, そうすれば, 与えられる.. 2 ) であ っ た 方 が い い と 言 え る か も 知 れ な い.1. 口語文がどうも文語文のようにピリ ッと締まらないのは, 大方が日ごろ感じておられるところと 思う. 岩潮 の指摘個所とはちがうが, やはりマタイ伝福音書の第六章二十六節の 「空の鳥を見るが よ い. まく こ と も, 刈 る こ と も せ ず, 云々」の と こ ろ に つ い て, 丸 谷 才 - が こ れ を 文 語 訳 と 比 べ て,. 文語のほうが優れている理由を述べ ている. ……理由は…じつに簡単である. …(略)…つまり文語体は文体として確立してゐたのである. ところが, 口語体は文体として確立してゐない. それはよりかかるべき既成の型を作り出して ゐない. それ故に, 牧師たちが集って聖書を改訳すれば, あのやうな悲惨なことになってしま 3 ) ふ の であ る.1. 以上の引用 で, 口語の文体が多分現在まだ生成の過程にあるのだろうということ, この口語文体 生成の過程 で, 日本語固有の性格をどう生かして行く べきかという, 難かしい問題がわれわれの前 に課題として横たわっていること, これらを主観的には提起したか った. 「だろう」 は本来推量の助動詞 である, とか, 動詞の終止形は現在にも未来にも使い得る, とか りの引用の中でも示唆されているよ いった (もちろんこれに限らないが) 日本語固有の性格は, 岩撲 うに, どうも文体の緊張・緊迫と深く関わっているように思われる. だから, もちろんことばの統 ive な 要 素 即 ち 固 有 ive な 語 法 の 巧 み な 活 用 も 当 然 含 ま れ てく る が, そ の た め に nat 御 に は non-nat. 性を解体してしま っては, 元も子もなくなると思う. 3. 結 び 1 と1 工で, 私はそれぞれ, langlageuniversa1 と universallanglage を取りあげた. 両者は別個 36.
(14) . F言語の普遍性」 のことなど. ’と い う 語 を 共 通 項 に して 強 い て 両 者 を 並 置 した の で あ る l iversa の 事 柄 だ が, ‘un . , llan≦犯age と い う こ と な ら, こ れ は 大 変 具 体 性 を 帯 び て い て, 一 般 的 に そ れ に して も, uni versa l ‐ 大 い に 論 議 の 対 象 と し得 る。 す でに 述 べ た 通 り, universallanguage に 対 す る 要 求, universalcu. t u reに対する崇拝はむかしからあったし, いまもある. 文人としてフランシスoベイコンや荻生祖 棟を過去の例証として挙 げたが, 現在は国際語, 所謂 共通語に対する世界的要求がある。 昨今の世 界的規模 での経済的文化的相互関係からして, この要求がますます強まり, 拡がって行くのは推察 ll iversa anguageへの要求は現今, その動機が往時よりはるかに社会化 に 難 く な い。 こ の よう に un. した形で存在するのである. だが, だからと言って世界の言語が単一化の方向に向かうということ ive な speech は 誇 り を も っ て 保 持 さ れ て 行 く で では 決 して なく て, 同 時 に 一 方 に お い て 各 国 の nat. あろう. l の ほ う は どう か。 前 項 の 終 り で ち ょ っ と 触 れ た が, も し 日 本 語 に お い iversa で は, language un. て予想されるように(但しこれはあくま で私の予想であるが) , 文体の簡潔緊迫とその言語の固有性 l へ の ア ン チ・テ ー ゼ versa と が 根 源 的 なと こ ろ で結 ば れ て い る な ら, そ の こ と 自 体 がlanguageuni. たり得る可能性を持つと思うが, 今のと ころこれはまだ仮定に立つ予測にす ぎない. Z O” わ LZ ”g“戯れ の終章11章から次の個所を そ れよ り, Greenberg の テ ク ス ト A New 廓 諺加Z 紹介して, 論文の結びとしたい. 「…チョ ムスキーと変形文法学派の人たちは, 人間が言語を構成するために持っているにちがい ない生得の賦与の複雑さと豊かさを強調してきた。 しかし, 変形文法派の中でさえ, この賦与資質 が特に言語的なもので,普遍的文法特性全体のための遺伝的計画表のようなものをもつものなのか, それとも, それが非言語行動にも言語行動にも現われるより一般的な遺伝能力を含むものかという 1 4 ) こ と が, 議 論 の 中 心 点 と な っ て い る.」. 「…先天的にそなわっているものは, 文法の特定形体というよりむしろ高度に一般的性質の 心理 的そして (音声学の場合は) 生理的な選択物のセッ トである。 これらがそれから特定の 言語で結局 どういう形をとるかは与えられた歴史的, 社会的かつ文化的要因による。 l i anguageun r sの研究は人間の本質の理解に 基本的 sa こ の 問 題 の 最 終 の 真 実 が どう であ れ, …l ve 1 5 ) やり方 で貢献する刺激的で重要な成果を生んでいる。」 ’ i 1 lt ina ter hateverthef ruthinthi s mat グリ ー ン バ ー グは‘Wr ,… と 一 応lan≦型age un versa と い. う立論そのものを崩さないで章を結んでいる。 しかし, 私は思う。 先天的にそなわっているものが, 言語の能力よりももっと一般的, もっと広 範な心理的生理的性質の能力であるとすれば, 考えられることは, 人間が生れながらに有する能力 l l l l t へ, i nte iversalへ 結 びつ く 能 力 では なく て, inte ect uni versalへ 結 びつ く 能 ec は language un. 力 ではないのか. 生命を持つ人間が現実に保持している能力の共通の性格は言語一般であるより知. l ‐ ectuniver 力 一般 であろう. 人の先天的賦与も languageuniversal の た め の も の では なく て,intel l の た め の も の であ る。 こ れ が 私 の 結 び であ る. sa. 37.
(15) . 小 名. 機. 郎. )王. すねあれZ ib ido 1) SeeJoseph H,Greenberg,A MB Z U 腐り ) o 崩れg”冠化s(Tokyo:Se .162 . ,p 2) lbid . .101 . ,p 3) lbid . .102 . ,p d 4) lbi . .103 . ,p lkins 1m 物ば i bido 5) D. A. Wi ) れg(Tokyo:Se ,SBのれα‐乙αれg粥増e LBの勿勿g αれd 7 .50 . ,p 彰Z す 6) See T.R.Lounsbuw,A 圧奪わ“cd o f 劫e Eれg脳た Lαれg加増e(osaka Kyoiku Tosho Co. i れ8q ) .51- ,pp 2 . 1綾 Eれg総ゐ L卿g加増e(Tokyo:Se t Weekl i bi do 7) See Ernes ey ) ,7 .45 . ,P 8) 後述I V2. 残る問題 参照 9) 川本茂雄, 『ことばとこころ』 (岩波新書版) .72 . ,p 1 0 ) 大野晋, 『日本語について』(角J - 1 2」3 -文庫版) .1 . , pp 11 ) 岩測悦太郎, 『日本語を考える』(講談社学術文庫版) 2 3 .1 . ,p 12 ) 同書, pp .123-4 .. ) 丸谷才-, 『日本語のために』 (新潮社) 1 1 3 .7 . ,p i t 14 ) Greenbe rg . .176 . .c ,p ,op 1 7 7 15 ) lbid . . . ,p. (本学教授 函館分校). 38.
(16)
関連したドキュメント
しかし何かを不思議だと思うことは勉強をする最も良い動機だと思うので,興味を 持たれた方は以下の文献リストなどを参考に各自理解を深められたい.少しだけ案
ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配
と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その
このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた
しかし私の理解と違うのは、寿岳章子が京都の「よろこび」を残さず読者に見せてくれる
脱型時期などの違いが強度発現に大きな差を及ぼすと
わかりやすい解説により、今言われているデジタル化の変革と
これからはしっかりかもうと 思います。かむことは、そこ まで大事じゃないと思って いたけど、毒消し効果があ