清末期の中央教育会と軍国民教育
著者
浅沼 千恵
雑誌名
教育思想
巻
44
ページ
71-85
発行年
2017-03-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00121498
清末期の中央教育会と軍国民教育
浅沼 千恵(東北大学大学院・院生) はじめに Ⅰ.清末期における中央教育会 1.清末期における教育会の出現 2.中央教育会の設立とその役割 Ⅱ.中央教育会における軍国民教育 1.軍国民主義と軍国民教育 2.中央教育会における軍国民教育案の審議 1)軍国民教育案の提出 2)軍国民教育案をめぐる論争 Ⅲ.中央教育会と軍国民教育案とその影響 おわりに はじめに 本発表の目的は、清末期における軍国民教育に焦点をあてて、その成立過 程を明らかにし、近代中国の教育史における影響について考察することであ る。 先行研究によれば、軍国民教育は、明治期の日本から移入した思想にもと づいて、二○世紀初頭に実施された一種の「愛国主義教育」であり1、救国の 方策として学校のみならず社会全体において実行すべきと提唱されていた。 軍国民教育の宗旨は、1906 年に清朝政府が公表した教育宗旨の「尚武」と関 連があると見られるが、軍事教練が中心とされており、実弾の練習なども含 まれている。この軍国民教育と政府との関係が明確なものとなるのは、1911 年における中央教育会を通じてであった。 清末期における軍国民教育についての先行研究は、その背景と形成過程を 紹介するのが主流である。しかしこれらの研究においては、軍国民主義と軍 1 李暁東「軍国民考」孫安石、大里浩秋編『近現代中国人日本留学生の諸相―「管理」 と「交流」を中心に―』(御茶の水書房、pp.82~89)桑兵『清末新知識界之社団与活 動』(生活・読書・新知三聯書店、1995 年、pp.238~247)国民教育との関連や、そもそも清朝政府および民間の教育関係者が「軍国民 教育」をどのように認識していたのかということについては明らかにしてい ない。また、中央教育会において、どのようなプロセスを経て軍国民教育が 採用されるに至ったのかについての考察も十分になされているとは言えない 2。 そこで、本発表では、教育史的な視点から清末期の中央教育会における軍 国民教育の成立過程について検討するものとする。まず、二十世紀初頭にお い て 軍 国 民 教 育 を 宣 伝 す る 代 表 的 な メ デ ィ ア で あ っ た 『 新 民 叢 報3』 (1902-1907)や、『蘇報』(1896-1903)、『湖北学生界』(1903.1-1903.9)など を用いて、軍国民教育思想の形成過程およびその内容、軍国民主義との関係 を明らかにする。次に、当時の代表的な新聞であった『申報4』(1872-1949) や、『大公報5』(1902~1949)、『教育雑誌』(1909-1948)などのメディアに掲 載されている関連記事を用い、中央教育会において、軍国民教育案が提出さ れた経緯と、これをめぐる学部と民間の教育関係者の対立、および最終的に 成立するまでの過程を明らかにする。最後に、近代中国の教育史における中 央教育会の意義と、中華民国時代における軍国民教育案の影響について考察 する。 Ⅰ.清末期における中央教育会 1.清末期における教育会の出現 近代中国における教育会は、20 世紀初頭に教育の有志者と革命家によって 創設されたものである。先行研究によれば、1902 年 5 月 4 日に上海で創設 された「中国教育会」が、近代中国において民間人によって設立された教育 2 関暁紅『晩清学部研究』(広東教育出版社、2000 年) 3 1902 年に横浜で梁啓超によって創刊された。『新民叢報』の内容は幅が広く、政治だ けではなく、経済や、軍事、法律などについても多く報道されていたので、留学生 および中国国内では大きな影響をもたらした。 4 『申報』は『申江新報』という名称で、1872 年 4 月 30 日に上海において発刊された ものである。1949 年に廃刊するまで 77 年にわたって、政府の通達をはじめとして、 政治ニュースから市民の生活まで、多様な内容を報道していた。王天根等『近代報 刊与辛亥革命的輿論動員』(黄山書社、2011 年、pp.215-246) 5 1902 年 6 月に天津で創刊された『大公報』は、数回の停刊を経て複数の地域で発行 されていた。本稿では天津版『大公報』を使用する。方漢奇『中国新聞事業通史 第 一巻』(中国人民大学出版社、1992 年、pp.758-759)
会の嚆矢とされる6。その創立主旨は、単に教育発展を推進することより、愛 国心と政治理念の注入を主要目的としている7。その後、1905 年 12 月に「江 蘇学務総会」が創立され、翌年の1906 年に「江蘇教育総会」と改名された。 この江蘇教育会は、はじめての省レベルの教育会であり、日本から帰国した 留学生が、創設者の多くを占めていた8。 以上のような愛国心を育成する教育会と異なり、地方では教育事務の全般 を管理する教育会も相次ぎ結成されていた。清朝政府は1906 年に学部を設立 してまもなく、「奏定各省教育会章程折9」を公表した。教育会の設立につい て、この章程の第一条では、「教育会の主旨は、教育行政を補助し、教育の普 及を図るものを推奨する。また、学務公所と勧学所との連絡を保つべき」と 規定されている。また、「奏定各省教育会章程折」を公表する目的は、以下の とおりである。(括弧は浅沼による) 中国は境域広遠、人民やたらと多く、地方官吏の統率と催促だけで教育普及を 図るのに至難である。そのため、(上下)役所と一般民衆の相互維持や、官員 と紳士との間の助け合いが必要となる。また、紳士階層の力を借りて役所の不 足を補えば、地方の学務は発達することができる。(中略)科挙が停止されて 以来、各省の紳士たちは教育に熱心で、研究会を開くものも少なくない。(し かし、それに関する)章程は統一なものではないので、障碍になるところも非 常に多く、権限と義務を明確に分けていないものもある。(下略) 以上の内容から、清朝政府は、交通不便や、教育経費の困窮などの不利条 件を克服し、各地の教育会の発展と管理を促進しようとしていることが分か る。 この「奏定各省教育会章程折」について、民間の教育関係者は、以下のよ うな見解を述べている10。 各地方では立憲の準備に関する明文を受け取ったが、どのように執行するかに 対し、まったく端緒を得ていない。教育行政機関を建設するには、各庁州県の 勧学所が欠かせない。しかし、(学校の)総董以下では、成員が多くて諸事情 を工面する経費が足りない、あるいは、成員は少ないが、両方を兼ねて仕事す るのが難しい。(そのため)教育会の補助が必要とされる。また、(教育会の働 6 張偉平『教育会社和中国教育近代化』(浙江大学出版社、2002 年、p.16) 7 張偉平『教育会社和中国教育近代化』(浙江大学出版社、2002 年、p.39) 8 張偉平『教育会社和中国教育近代化』(浙江大学出版社、2002 年、p.43) 9 1906 年 7 月 28 日、学部。朱有瓛『中国近代教育資料汇編 教育行政機構及教育団体』 (上海教育出版社、1993 年、pp.247~248) 10 陸爾逵「論教育会之性質」『教育雑誌』(第1 年第 9 期、商務印書館、1974 年、p.113)
きによって)地方の教育行政組織もしだいに完備される。 清末期の教育改革は、憲政を実施するためのものである11。清朝政府は、 1905 年から本格的に立憲への準備をするようになり、朝廷の重臣らを欧米お よび日本へ派遣して憲法の制定について勉強するようになった。 しかし、清朝政府が考えていた君主立憲が、君主の権力を制約して民権を 保証するという民間の考えとずれていた。また、清朝政府の立憲改革が、当 時の中国社会において日に日に激しくなっている上層知識人と資産家のナシ ョナリズムに対し、むしろ遅れたものとなっていた。清朝政府の立憲に不満 をもつ民間人たちは、1906 年から 1910 年末まで、何度も立憲への催促運動 を行った。そのため、清朝政府は、1910 年の秋に立憲の予備期間を当初の 15 年から3 年にすると表明し12、立憲準備の一環として1911 年に中央教育会を 開いた。 2.中央教育会の設立とその役割 中央教育会を設立する目的は、全国の教育状況を把握し、統一管理するこ とであり13、憲法の制定および立憲における諸々の教育問題を解決すること である14。教育改革以前、学校と科挙などが「礼部」に管理されていた。1904 年に「奏定学堂章程」の公表によって近代的学制が確立されたが、正式な教 育管理機構がなかったので、学部を設立するまで全国の教育を管理する役割 は京師大学堂が担った。1906 年に学部が設立されたが、1911 年に中央教育会 を設立する時点までは、実質上地方の教育を管理することができていなかっ た15。 11「憲政には人民の政治参加が必須条件となる。しかし、中国の人口のほとんどが文盲 であり、ごく一部の知識人は儒学の経典を知っているが、法政に関する知識が乏し い。それゆえに、憲政を実行するにはまず教育を発展させることからはじめるほか ない。清末期の憲政改革と立憲運動が、教育改革を推進し、近代中国の教育の基礎 を打ち立てた」張玉法『中国近現代史』(東華書局、民国67 年(1978)、p.160) 12 張玉法『中国近現代史』(東華書局、民国 67 年(1978)、pp.157~161) 13 これについて、『申報』1911 年 7 月 4 日の記事「学司遴选中央教育会议长」では、「学 部が北京で中央教育会を開こうとしている。主旨は各省の教育を整頓し、その改良 と進化を促進することであり、夏休み期間中に各省の提学司から教育を熟知する郷 紳を推薦し、会議に赴かせる」という内容を記している。 14 関暁紅『晩清学部研究』(広東教育出版社、2000 年、p.437) 15 例えば『教育雑誌』の 1911 年の記事では「陸海軍、財政、郵電などの部局では、直 接管理する学堂があるが、学部は、全国の学堂を管理するため、文部に改名したい」
このように、中央教育会が教育の全国的な管理について大きな役割を担っ ていることがわかる。前述のように、清朝政府は立憲運動に迫られ、立憲の 期限を当初の15 年から 3 年に短縮した。これによって、さまざまな教育問題 を解決し、教育改革を完備させなければならない状況となった16。学部は、 中央教育会の設立目的について、このように述べている17。 我が国は領土の面積が広くて人民が多いので、各地の土地や、歴史、教育状況 などがかなり異なっている。加えて、教育事業も相当複雑であり、学術の理論 も精錬で深いものである。したがって、衆知を集めて有益な意見を広く吸収し なければならず、私心をはさまないで誠意を示すべきである。以上は、本部(学 部)がこの会議を開く根本目的である。(中略)今日の学界では理想派と実験 派が分けられている。理想派は急進を主旨とし、実験派は慎重を本意としてい る。本会議では、本部(学部)の諮詢に備え、諸君の精力と思慮の限りを尽く してほしい。それによって、国家の憲政(改革)に助力することができ、教育 普及のためにもなる。(中略)教育普及というのが、地方の学務を振興するこ とである。まず戸籍の調査と学区の区分から始まる。 また、地方の教育資金を集めるため、まず税金の定めからはじまり、強迫教育 をおこない、地方の自治から始まる。(中略)(この)中央教育会は、全国教育 の前途との関わりが甚だしい。 以上から、中央教育会における主要な議案として、学部は、教育資金を調 達するための戸籍調査、学区の設定、税金の徴収などを設定していたことが わかる。また、義務教育の実行も目標の一つであったことも明らかである。 中央教育会を設立するもう一つの目的は、地方の教育会18との対抗を図るこ とにあったとみられる19。 という記載がある。『教育雑誌』(第3 年、第 9 期、商務印書館、1974 年、p.65) 16 このころの教育改革は、経済発達している海沿い地域だけでなく、新疆やチベット でも広がっていた。「回族扰学闹事」『教育雑誌』(第3 年、第 7 期、商務印書館、1974 年、p.52) 17「中央教育会開会記盛」『申報』1911 年 7 月 22 日記事。 18 例えば、「江蘇教育総会致各省教育総会及学界書」では、「国税と地方税を改革し、 教育費の配分によって全国人民の進歩を充分に促進させるためには、速やかに国会 を開くべきだろう。この教育会の同人たちは、しばしば議論をし、教育界の仕事に 参与することによって憲政精神の根源の所在を知ることができると認識している18」 と述べている。また、同年の閠6 月 17 日、張元済は中国教育会を発起した。 19 陸爾逵「論教育会之性質」『教育雑誌』(第1 年、第 9 期(商務印書館、1974 年、p.113) 中央教育会が開かれる直前、1911 年 4 月 29 日に「江蘇教育総会」が各省の教育会に よって上海で設立された。また、同年の8 月 12 日に、張元済によって中国教育会が 設立された。
中央教育会は、日本の高等教育会20を参考にして作られた、政府の組織であ り、学部が方策を決める際の諮問機関である21。 Ⅱ.中央教育会における軍国民教育案 1.軍国民主義と軍国民教育 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて、中国の伝統社会は大きく変動した。 西洋思想の影響を受けた紳士階層と近代教育を受けた学生たちが、さまざま な救国方策を探った。軍国民主義」は、彼らが明治日本から借りてきた手本 の一つである22。 この軍国民主義は、1894 年に始まった日清戦争の敗北をきっかけに、中国 社会の上層知識人において急速に広がっていた。革命家である蔡鍔は 1902 年に『新民叢報』に掲載された「軍国民篇」では「今日において、軍国民主 義を四万万人23に普及させなければ、中国は滅亡することになる間違いない」 と論じた24。ほかの有力なメディアも軍国民主義と教育との関係について論 じていた。例として、『湖北学生界』の1903 年の記事が挙げられる。この記 事は、「軍国民主義は、わが国にとって最も急務である」と強調し、「軍国民 主義というものは、前述の通りであるが、軍国民思想の普及についてはわず かな言葉で説明するのは難しい」。また、軍国民主義の教育について「国民全 体に軍隊と国家との関係や、軍隊と経済との連合・従属関係、軍隊が教育に もたらす影響などを学ばせ、そのことによって(国家が)救われる25」と述 べている。 また、軍事教育家である蒋百里は、日本への留学中に、『新民叢報』で以下 20 中央教育会は、清末期の中央教育議事機関である。学部が日本の高等教育会章程の 一部を採用し、『中央教育会会議規則』を制定した。『教育大辞典』(第 10 巻、上海 教育出版社、1990 年、p.88) 21 関暁紅『晩清学部研究』(広東教育出版社、2000 年、p.443) 22 桑兵『清末新知識界の社団と活動』(生活・読書・新知三聯書店、1993 年、p.239) 23 ここでの「四万万人」という表現は、中国人の全体を表している。 24 奮翮生(蔡鍔)「軍国民篇」、『新民叢報』(第 1 号、1902 年、pp.81-83)彼は、尾崎 行雄の著書『支那処分案』に書かれている支那民族は「尚文好利幾と戦の何者たる を知らさる」という論点を引用し、「国の魂を鋳造し、軍国民を養成する(陶鋳国魂 建造軍国民)」ことを提唱した。また、尾崎氏は、同書において「国家思想、忠義心、 愛国心、団結力は、皆な保国の要素なるに、支那人一人も之を備へす」と論じてい た。尾崎行雄『支那処分案』(博文館、1895 年、p.135、p.19) 25 「軍国民思想普及論」『湖北学生界』(1903 年第 3 期、p.45)
のような観点を表明した。「軍国民教育というものが、昔スパルタにおいて実 施されていた。今日では全世界がスパルタのようになった。わが国も(この ようなスパルタ式の)競争に巻き込まれている26」。また、彼は、これまでの 中国社会を支えていた伝統道徳である「礼」を否定し、かわりに軍国民教育 を利用して近代的な国家を創るべきであると主張していた。 国防の関連機構を軍事的見識で建設しなければならない、社会の精神や、風俗 などに軍人の精神を注入し、内と外において軍人の形と質を備え、これによっ て国家が安寧になる。また、軍人精神が内側に備えられ、(それによって)国 をたてることができ、民生も保障できる27。 ほかに、軍国民教育の中身について蒋百里は、「愛国心、公徳心、名誉心、 素質と忍耐力」の四点を論じており28、軍国民教育を実施する方法について は、「その一、学校にあり、その二、社会と家庭にある29」と強調した。 当時において、しばしば革命的な言論を掲載している『蘇報30』では、国 民のことを「主人公」と定義し、「主人公という資格は、軍国民の資格であり、 国家が危篤の際、兵役という義務を知らないものが真におろかものである31」 と論じている。 以上のように、軍国民教育は、軍国民主義を注入するための教育であり、 兵役推進のためのものであることがわかった。 また、この時期では、拒ロシア義勇隊と学生軍から軍国民教育会32という 26 蒋百里「軍国民之教育」、『新民叢報』(第 22 号、1902 年 11 月 15 日、p.34) 27 蒋百里「軍国民之教育」、『新民叢報』(第 22 号、1902 年 11 月 15 日、p.35)ここで の「民之所由生」は、儒学の経典『礼記』から引用したものである。原文は、「孔子 曰:丘聞之,民之所由生,禮為大。非禮無以節事天地之神也,非禮無以辨. 君臣上下 長幼之位也,非禮無以別男女父子兄弟之親、昏姻疏數之交也」という内容である。 28 蒋百里「軍国民之教育」、『新民叢報』(第 22 号、1902 年 11 月 15 日、pp.35~42) 29 蒋百里「軍国民之教育」、『新民叢報』(第 22 号、1902 年 11 月 15 日、p.42) 30『蘇報』は、1896 年に創刊し、のちの愛国学社の機関紙となり、革命宣伝としての 役割を果たし、1903 年 6 月に弾圧された(蘇報事件)。事件の主な関係者として、捜 査責任者の江蘇候補道・陸師学堂総弁兪明震、『蘇報』主筆章士釗、主要執筆者章太 炎・鄒容・ 蔡元培・呉稚暉などがあげられるが、いずれも、中国近代史上の錚々た る人物である。呂順長「清末中国人日本留学生兪大純の出自とその生涯 ─「留日反 日」論にも関連して─」『四天王寺大学紀要』(第 44 号、2008 年、pp.1-15) 31「无锡竢実学堂冲突之忠告」『苏报』1903 年 6 月 9 日記事。 32 1903 年に日本留学生によって設立された反政府革命団体。武装暴動と暗殺活動を主 な行動方式とする。呂順長「清末中国人日本留学生兪大純の出自とその生涯 ─「留 日反日」論にも関連して─」『四天王寺大学紀要』(第 44 号、2008 年、p.13)
組織が生み出された33。その会約では「軍事訓練を実施する。これは本会の 基礎活動である。訓練は射撃、体操、講習という三つの部分で構成される34」 という内容が書かれている。これは、のちの軍国民教育の中身となった。し かし、このような内容について、政府のみならず、一部の知識人も警戒して いる。中央教育会では、とりわけ実弾演習について激しい論争となった。 2.中央教育会における軍国民教育案の審議 1)軍国民教育案の提出 中央教育会の会長を務めている張謇は、中央教育会の開会詞において、「今 日において国家主義と軍国民教育を提唱するのが救国存亡の思想と教育の知 見であり、これに反対するものはいないだろう。(中略)軍国民教育をするの であれば、体操や、兵式体操、拳法槍法、遊泳競漕などが行われなければな らない35」と講じ、軍国民教育の重要性を強調した。 軍国民教育について、清朝政府は教育改革の初期段階では積極的に支持し ていた。1906 年に公表された教育宗旨では、「尚武」という項目があり、「中 小学校の各種教科書には軍国民主義を入れるべき」と書かれている36。また、 この時期では、政府が「尚武」精神を貫徹させるため、学校運動会を推奨し、 全国範囲に推進しようとしていた37。しかし、学部からは「尚武」教育と「軍 国民教育」との関係についての説明がなく、軍国民教育を実施する正式な通 達もなかった。そのため、中央教育会において、学部は、軍国民教育案につ いて、以下のように説明している。 本部昨年十二月二十六日(上)奏文において、軍国民教育を重視する立場を表 明し、これについて皇帝のご応諾をえてすぐに、図書局38に「说帖」を書かせ た。(その内容は)小中学校の教科書では軍国民主義の道理を重視し、それを 分類して教科書を編纂すべき。(これによって)軍国民資格の養成を期する。 33 清朝政府の弾圧によってまもなく解散した。桑兵『清末新知識界の社団と活動』(生 活・読書・新知書店、 1993 年、p.239) 34「軍国民教育公約」『江蘇』1903 年 5 月 25 日記事。 35「中央教育会会長張謇開会詞」『申報』1911 年 7 月 22 日記事。 36 例として、朱寿朋『光緒朝東華録』、中華書局、1958 年。周予同『中国現代教育史』 上海書店、1989 年、p.24 などがあげられる。 37『大公報』1905 年 5 月 27 日記事「運動会縁起規則」。 38「図書局」の全称は「学部編訳図書局」で、1906 年に設立され、小中学校および師 範学校の教科書を編纂する機関である。『教育大辞典』(第 1 巻、上海教育出版社、 1990 年、p.290)
尚武精神の振起については、軍諮府と陸海軍部と相談したうえで文案にした。 しかしながら、軍国民教育を実行するのに教科書を根本とするが、民間からほ かの陶冶方法を集めるのも欠かせない。ここでは、学堂での軍国民教育を実施 する計画を以下のとおりに公表する。(一)体操、戦場に臨むのように規律訓 練をし、卒業後、軍隊に入る時軍人たちとの協調ができる。(二)学堂の規律、 生徒の段階から規律を守り、きっと命令を服従する軍人になるはず。(三)野 外練習および演習。尚武主義というものは、軍国民教育のことである。将来的 に戦術を学ぶことが容易になるには、生徒の精神を活発させ、その身体を強固 にさせるにほかならない39。(下略) 以上の内容から、学部が1910 年の時点から軍国民教育を支持し、具体的な 実施方法まで打ち出したことが明らかになった。また、学部は、軍国民教育 を教育宗旨のひとつである「尚武」と同じものであると考えていたこともわ かる。 2)軍国民教育案をめぐる論争 前節で述べたように、学部は軍国民教育を実施しようとしているが、それ に対する理解は、民間の推進派の理念と相違している。また、中央教育会の 開会演説では、今後の教育方針について、会長を務めている唐大臣と副会長 である張謇とで考えが異なっていた。唐大臣は、実業教育などを重視してい るが、張副会長は、これからの教育方針は、軍国民教育を重視すべきである と呼びかけた。そのため、学部が最初から「軍国民教育案」について論争に なると予測し、以下のような提言をした。「中央教育会は、危篤なる国勢のた めに設立し、学部大臣もこの情勢に応じてこの案を提出していたので、各会 員は偏見を持たずに気持ちを落ち着け冷静な態度をとるのが望ましい40」。 しかし、軍国民教育案をめぐり、学部と民間の教育関係者との間だけでは なく、民間の教育関係者の間にあっても激しい対立が存在した。 対立点は、多岐にわたっているが、「憲法」、「軍国民教育」、「軍国民主義」、 「軍事教育」それぞれの相互関係が、重要な論点となった。 この時期では、それまで社会の周縁に位置付けられていた軍人集団41は、 「体操科」が学校教育に取り入れられたことなどによって、社会への参画の 39「中央教育会第九次大会紀」『申報』1911 年 8 月 8 日記事。 40「中央教育会開会続志」『申報』1911 年 7 月 21 日記事。 41 孫燕京著「第三章 晩清社会風尚的社会群体差異」『晚清社会风尚研究』(中国人民 大学出版社、2002 年、p.270)元の引用は、熊志勇「近代軍人社群堀起与伝統〝四民″ 結構的整合―以晩清社会変遷為視点」『人文雑誌』(1997 年、第 1 期から)
度合を高め、社会において未曾有の尊重を得るようになった42。中央教育会 の第三次大会において、当時の海軍部軍学司の長官である曹汝英は、軍服で 登壇し、軍国民教育について絶対賛成と表明した。日本の陸軍士官学校を卒 業した陸光熙は「師範学校の学生が軍事大意を知らなければ小学生の軍国民 精神を養うことができない。したがって、中学校から軍事知識を得るべきで あるので、「軍事大意」という科目をくわえるべき43」と提案し、師範学校の 卒業生が軍隊で三か月間服役すること、退役の軍人に善行証書を与えて小学 校の体操教員に任ずる、中等教育においては実弾演習44をすべきなどと主張 した。 この点について、学部の代表である王季烈は「中国では昔から武を蔑視す る伝統があるので、師範学校だけでは難しく、一般教育に加えるべきではな いか」と問いながら、「日本では、軍国民教育は児童から実施しており、軍事 教育は中学校からのものである」と述べた。また、同大会では、王季烈によ るこのような発言もあった。 今日では、中国の強盛を求めるのであれば、軍国民教育をしなければならない。 軍国民教育は、軍事教育と異なるものである。軍事教育は戦争を目的とし、軍 隊(の建設)を偏重する。軍国民教育は人々に外敵に対して一致して敵愾心を 持つこと、また、(我が民族の)種を保全することとなる。それゆえに、(私は) 軍国民教育は海陸両部の責任ではなく学部の責任であると(認識している)45。 以上から、学部は軍国民教育を支持する立場であることが分かる。しかし、 学部は、「軍国民教育」と「軍事教育」とは異なるものであることを指摘した ので、軍事教育を提唱する会員との相違も見られる。 また、賛成派の言論においては、ナショナリズムの高揚が特徴的である。 例えば、ある会員が「日露戦争における日本の勝利の原因は、完全に教育と 教員の功績である」と論じた時、数多くの会員がそれに賛同して喝采してい た。さらに、彼らは「国民は兵役の義務があると憲法大綱に書かれている」 と述べ、「軍国民教育は、現時点の中国において実施しなければならない教育 であるので、反対するものは中国人ではない」と強調した。 42『剣橋中国晩清史(下)』(中国社会科学出版社、1985 年、pp.604~605) 43「中央教育会第四回予備会詳紀」『申報』1911 年 7 月 29 日記事。 44 学部はこれについて「もっぱら実弾演習をするのは、国民軍を育成することであっ て、軍国民教育ではない」と述べた。「中央教育会第三次大会紀」『申報』1911 年、7 月28 日 45「中央教育会第三次大会紀」『申報』1911 年 7 月 28 日記事。
また、「軍国民教育を取り消すのは、上意に違反することとなり、孔子の教 えにも背くことである46」と反対派を非難した。 これに対し、儒学者が多く占めている反対派は、「軍国民主義」と「軍事教 育」だけではなく、「軍国民教育案」にも反対していた。「軍事教育」につい て、彼らは「ドイツと日本の中等教育(師範学校を含む)では、この学科(軍 事大意)がないので、わが国では新設してはならない」と反論した。また、 「このままで(軍国民教育を実施するだけで)国民教育を講じないと、おそ らく百年後わが国は教育がない国となる」と論じ、「この案はただの特殊教育 としては可能であるが、一般教育としては断じて不可である47」という意見 を表明した。 また、賛成派の「軍国民教育を取り消すのは、上意に違反することとなり、 孔子の教えにも背くことである」に対し、以下のように反論した。 例えば、「衛霊公問陳」(『論語』)、「我能為君約与国」(『孟子』)「及善戦者服上 刑」(『孟子』)「春秋無義戦」(『孟子』)などの教えがあるので48、この軍国民教 育と全く反対するものである。もし、軍国民教育を重視するであれば、まず、 (儒学)経典を廃棄することである。したがって、(軍国民教育を実施するの 46 原文は、「欲取消軍國民教育主義是反對上諭,否則既命人民以當兵而不教以兵事之技 能,即孔子所謂以不教民戰划謂棄之也有是理乎。況教育宗旨隨世界大勢而定,現今 各國對我國情形如何,我人當自知。我會員中反對軍國民教育者必愚昧不知世界大勢 者也。否則必受外人之運動者也。不然何喪心病狂乃爾(下略)」である。「中央教育 会第九回大会紀」『申報』1911 年 8 月 8 日記事。 47「中央教育会第九回大会紀」『申報』1911 年 8 月 8 日記事。 48 原文は「顧廷臣起言条中経学一項不甚妥当、例如衛霊公問陳一章、我能為君約与国 云々、及善戦者服上刑、春秋無義戦等語、皆与軍国民教育相反。若以軍国民主義為 重、則必先廃去此等経文。直是反対尊孔。」である。はじめの「衛霊公問陳」は『論 語』の「衛霊公篇第十五」の内容である。原文は「孔子対曰:「俎豆之事、則嘗聞之 矣;軍旅之事、未之学也」である。この会話において孔子は、国を治めるには、武 力を行使することより、礼儀を大事にしたほうが重要であるという意味を強調して いた。潘重規『論語今注』(里仁書局、2000 年、p.331)次の「我能為君約与国」は、 『孟子』十二巻、「告子章句下」の文章で、その意味は、「私は主君のおんために同 盟国をつくり」である。貝塚茂樹『孟子』(中央公論新社、2006 年、pp.222-223)「及 善戦者服上刑」は、同じく『孟子』第七巻「離婁章句」、その意味は、「故に善く戦 う者は上刑を服し」永井輝『よくわかる孟子―やさしい現代語訳―』(明窓出版社、 平成十七年出版、pp.54-55)最後の「春秋無義戦」も同じく『孟子』第十四巻「尽心 章句下」の教えで、「『春秋』においては義となるような戦争などというものは書か れていない」という意味である。貝塚茂樹『孟子』(中央公論新社、2006 年、pp.232-233)
が)孔子に反対することとなる49。 この議論の背景には、学部の初等教育において『孝経』などの経典を廃止 する提案があった。この提案によって、伝統教育を重視する会員の猛反発を 招いた。近代中国において代表的な学者であり、日本の教育事情も精通して いる羅振玉50は、次のように述べている。「余は、国民教育の完備を論じると き、軍国民教育もすでに含まれている。この案(軍国民教育案)は、軍国民 主義(を主旨とする案)とみられるので、軍国民教育の条件としては不可と なる51」。また、彼は「教育の役割は世界の共通人格を養成すべきであり、現 時点の情勢では(このような)特別な教育を施すことは不適切である」と述 べ、軍国民教育案の実施を反対していた52。 賛成と反対のほか、軍国民教育案に対して比較的に折衷的な意見も見られ る。例えば、大物教育学者である黄炎培らは「他国の制度をそのままの形で 取り入れるのはいかがなものか」と指摘し、「軍国民教育は軍事教育との区別 があるものの、関連するところも多いので、陸海軍部の大臣と相談すべきで ある53」と論じていた。ほかに、「生徒たちは、気質を養成してから武を学ぶ。 内側の平和が外敵を防御することより大事である54」という見解もあった。 これらの論争に対して学部は修正案を提出した。その内容は、「軍国民教育 案」を「国民教育」に改正し、「軍国民教育」ではなく、かわりに「尚武」を 使用する、また、中等教育に新設する学科「軍事大意」の削除などであった。 しかし、これらの提案を賛成する会員が少なかったので、取り消す結果とな った。 以上の内容から、軍国民教育案は中央教育会において非常に重視されてお り、賛成派により、「救国」の方策として取り上げられていたことがわかった。 49「中央教育会雑聞」『申報』1911 年 7 月 28 日記事。 50 羅振玉(1866-1940)、中国最初の教育専門誌『教育世界』を主宰して、日本の文物 制度、西洋の新知識の紹介に尽力した。1906 年、学部(文部科学省に相当)視学官、 1909 年、京師大学堂農科監督となる。蔭山雅博「教育専門誌『教育世界』の基礎的 研究(1)」『専修大学人文科学研究所月報』(第 227 号、2007 年、pp.11-29) 51 本稿の「第Ⅱ章・第 1 節」で論じたように、軍国民主義を提唱する蒋百里ら、「軍国 民主義」を実行する教育が「軍国民教育」であると考え、救国の方策としている。 また、彼らは、「伝統道徳である「礼」を否定し、代わりに軍国民教育を使って近代 的な国家を創るべきであると主張していた。 52 「中央教育会第九回大会紀」『申報』1911 年 8 月 8 日記事。 53 「中央教育会第五次予備会詳紀」『申報』1911 年 7 月 29 日記事。 54 「中央教育会第十次大会」『申報』1911 年 8 月 9 日記事。
しかし、学部が望んでいる軍国民教育は、尚武精神を向上させるものである。 これは、軍国民教育の実施によって国民形成を促進させ、欧米列強と対抗す ることができるという民間の教育関係者の考えと異なっていた。また、軍国 民教育をめぐる儒学的な道徳観との衝突も目立っていた。このように、賛成 派と反対派、および折衷派の論戦によって、従来の近代中国の教育と国民形 成との関係の一部をうかがうこともできた。 Ⅲ.中央教育会と軍国民教育案とその影響 中央教育会は1911 年 7 月 15 日から 8 月 14 日の閉会まで合計十六回会議を 開いた。この間に成立させた議案が十二件ある。その内訳は、「学生卒業奨励 停止案」「軍国民教育諮問案」「国庫補助小学校経費案」「義務教育章程案」「考 試章程変通案」「教育費諮問案」「初級師範改帰省辖案」「各省学務公所討論会 を開く案」「統一国語方法案」「振興実業教育案」「国庫補助小学校教員養成経 費案」「初等教育方法変更案(一)小学校では図工を必修にする、(二)初等 小学校では読経・講経の廃止(三)初等小学校男女共学可」である。最も論 争となった軍国民教育案がのちの中華民国時期において重要な教育方針とな り、1920 年代まで近代中国の教育に大きな影響を及ぼした。 以上の議案では、「軍国民教育諮問案」のほかに、義務教育の強行や、教育 経費を確保するため戸籍の調査と学区の設定、国語の統一などがあり、近代 国家の基盤である実業の振興も重要視されていた。また、初等教育では、儒 学経典の廃止と、男女共学の許可も大きな進歩であると評価できる55。この ように、中央教育会の議案から、清朝政府が、近代的教育制度を完備させよ うと努力していたことも明らかになった。 しかし、前述のように、軍国民教育案がすでに皇帝の応諾をえており、教 育の場で実施しようと明白に説明したにもかかわらず、民間では学部に対す る不信感がつのる一方であった。例えば、『教育雑誌』では「軍国民教育案は 1910 年に陸海軍部から奏準されたが、学部はこの案の実行が難しいと考え、 中央教育会において審議させ、最終的に否決させる予定であった56」という 記事が掲載されている。 また、中央教育会について、副会長である張謇は、「学部の諸公は、世界の 大勢を知らぬ、国民教育にも既定方針がないものである。この会議では博識 55 中央教育会において女子教育に関する議論は 4 回も行われた。 56『教育雑誌』第3 年第 8 期、p.70
な会員を派遣したが、教育原理については茫然としており、理解できていな いものが多い。また、地方からやってきた教育学者たちは、ひたすら言葉の 意味を強調し、論戦を勝つため常に数時間を費やして最後罵戦となり、劇場 のようになった。余は、これに対し愕然として悶絶するほかない57」と痛烈 に批判した。 だが、当時の中国では、交通が整備されていなかったので、議会の召集さ え困難である状況のなか、全国範囲で官僚や、教育関係者などを集めて会議 をするのは極めて異例なことである58。以上のような批判にあったものの、 中央教育会は、学部が設立されて以来、はじめての清朝政府と民間の教育有 志者との会議であり59、中央教育会の開会によって近代教育改革が完備され たことは重要である60。また、中央教育会で可決された各教育案は、中華民 国時期において再び審議され、各教育案が徐々に実施されていった。以上か ら、清末期の中央教育会は、近代教育史において重要な役割を果たしたこと が明らかになった。 おわりに 本研究では、清末期における軍国民教育に焦点をあてて、『申報』(1872-1949) や、『教育雑誌』(1909-1948)、『新民叢報』(1902-1907)などのメディアによ りながら、軍国民教育案としてその成立過程を明らかにし、その教育史上に おける意義を検討した。また、中央教育会が近代中国の教育改革においても つ意義についても考察した。 軍国民教育案が中央教育会において決議に至り、のちの中華民国政府にも 継承され、1912 年 9 月 2 日の教育訓令として公布された61。また、同年の1912 年12 月 8 日公布した「元年訓令第十二号62」では、軍国民教育は道徳教育の 補佐であると記している。 57「張会長出京之憤言」『申報』1911 年 8 月 10 日記事。 58 「支那の如く邦域広大なるにまだ鉄道の便少き国に於ては果して如何なる方法を以 て迅速に議員を召集せんとするか甚だ疑なき能はず」「伊藤公の清国憲政論」『国家 学会雑誌』(第23 巻第 9 号、p.167) 59「中央教育会之職能溝通与管理」(第3 年、第 8 期、商務印書館、1974 年、p.70) 60 陳啓天『近代中国教育史』(台湾中華書局、1969 年、p.114) 61 1912 年 9 月 2 日「教育部部令」中国第二歴史档案館編「教育部公布教育宗旨令」『中 華民国史档案資料匯編・第三輯・教育』(江蘇古籍出版社、1911 年、p.22) 62 中国第二歴史档案館編「教育部公布教育宗旨令」『中華民国史档案資料匯編・第三輯・ 教育』(江蘇古籍出版社、1911 年、p.848)
近代中国における軍国民教育は、革命派によって十九世紀初頭の明治日本 から輸入され、一部の教育の場では愛国主義教育および救国の方策とされて いた。また、これらの革命派は君主立憲に反対し63、民権立憲を実現させる ために学校教育に軍国民教育を実施すべきと主張していた64。それに対し、 革命を警戒していた清朝政府と君主立憲を支持する知識人たちが、軍国民教 育案の討論において様々な改善意見を打ち出し、一部の会員のなかでは完全 に廃止させようとする動きもあった。このような混乱によって、軍国民教育 案が中央教育会では8 回の会議にもわたって議論されていた。結局、軍国民 教育案が成立したが、張謇を代表とする君主立憲派と学部との分裂も著しく 現れた。その後、辛亥革命が勃発し、かつての君主立憲を支持する会員の大 多数が革命派へ転向した65。 清朝滅亡後、民国政府の教育部が、中央教育会に参加した会員たちを再び 招集して、中華民国政府の中央教育会として会議を開いた。従来の議案が再 度審議され、近代国家にふさわしい教育内容がくわえられた。この時期では、 軍国民教育がどのように実施されていたのか、また、中央教育会がどのよう に変化していたのかについて、今後の課題として考察していきたい。 63 「今日の中国では、共和体制は僭越であり、君主立憲しかできないという説がある が、これはまったく間違っている説である」『孫中山選集』上巻(人民出版社、1981 年、p.65) 64 革命派との異なる点は、教育の発展を手段として、社会の改良と君主立憲を実現さ せることを目的としているところにある。高放『清末立憲史』(中国出版集団華文出 版社、2012 年、p.150) 65 中央教育会の会長である張謇を代表とする君主立憲派は、資産階層として自身の利 益を考慮して実業の発展を期待していた。だが、清朝政府は、満州族の利益が保証 できないことを恐れているので、結局、君主立憲派の協力も失った。高放『清末立 憲史』(中国出版集団華文出版社、2012 年、p.160)