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『宣言』の悲劇

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『宣言』 「宜言」は「白樺」大正四年七月号からーニ月号 第八、 九号 は休戟)まで、 四回にわたって分蔽発表された三五通の書簡とニ 通の可報からなる也前体小説である。作品に登場する生物学専攻 の二人の大学生A. Bと女性のYを巡る倫理的な、 運命的な愛情 と友惰との葛藤によって、 作品のストーリーが展開する。 かかる 愛情と友情との磁しい葛藤による破滅的な、 苦しい悲劇の一部始 終によって、 有烏武郎の精神抒造ない し愛の哲学が伺われるので ある 従来、 恋愛の三角関係を扱う文学作品は多い。例えば、 ゲーテ の密簡体小説「若きウェルテルの悩み」、 ペルギーの劇作家メー ルリンクの戯曲「アグラヴェヌとセリセット j‘ 漱石の「心」、 武者小路実篤の「友情」などが挙げられる。前述の 中で、「アグ

の悲劇

ラヴェヌとセリセット」以外の作品と「宜百」との関係比較に は、 小坂晋氏の既に優れたかつ詳細な 論説 あるゆえに ただ「宜言 j と「アグラ ヴェヌとセリセット j との恋愛観 の相述をめぐって、 まず比較してみ たい。 「ペルギーのシェクスピア」と称せられるメーテ ルリンクの戯 曲「アグラヴェヌとセ リセット」は、 メレアンドルと要のセリ セ7卜、 情婦のアグラヴェヌとの三角関係の恋愛を中心に展開す る悲劇である。 主人公のセリセッ トは 、恋敵アグラヴェヌと夫と の結婚のために、 献身的な、 自己犠牲者として形象される 彼女 は、 夫が公国で惜婦アグラヴェヌとの密会を覗い て酷いショック を受け、 深く苦悩する。. しかし、 夫が自己よりアグラヴェヌと強 く愛し合うことに気づき、 熟慮の末、 自己犠牲の意織が萌してく る。 一方、 アグラヴェヌの場合、 悲劇を起さずにセリセットと共存 する ために、 神秘的な愛の哲学をセリ七ットに表白する。 彼女の 愛の哲学によれば、 メレアンドルが自己を 愛し、 自己がセリ七ッ

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する を愛するゆえ、 セリセットは自然にメレアンドルに愛され、 人とも共存していく。 それゆえ、 アグラヴェヌは次の如く語る。 わたしは貨女を愛するのに、 どうしてあの人は貨女を愛さ ずにゐられませう?また、 若しあの人が愛さないな ら、 どう してわたし貸女を愛することができませ う・・:••あの人 はもう あの人のやうでなくなり、 たわたしにも似ないものになる でせう。 (第二碓第二場) かかる夢想的な論理に反し、 祖母のメリグラヌは愛の現実を見 つめ、 この 不可避の悲劇の成行きを単刀直入に七IJセットに指摘 かういふ悲しみを除くに は、 人間の力では二つと方法がな いのですよ。 お前達の うちの一人が死ぬか、 でなければ今一 人が出ていかなければならない。 (第二茄第三場) ところで、 こんな散しい愛の実体に直而 して、 アグラヴェヌも ついに理想の世界から現実の世界に戻り、 再ぴ反省する。 七リセット、 わたしは批女を愛してゐ、 メレアンドルをも 愛してゐるでせう。 メレアンドルはわたしを愛してゐ、 貨女をも愛してゐるでせう。貨女はわたし達をどっちも愛し ていらっしやいますね。 それでゐて、 わたし逹は幸福に廿なら していけないのです わ。 人間は かういふ風にしてお互に結ぴ つくやうな時期がまだ到来しないのですね……それで(略) わたしの出ていくのを快く許して頂き たい・・・・・・(略)犠牲を 受ける人は犠牲を捧げた人とおなじゃうに幸福ではない。 (第二都第三場) ここに、 アグラヴェヌの党醒が伺われる。彼女によると、 自己 がメレアンドルと結婚したら、 莫大な犠牲を探げるセリセットが 不幸に陥るのは勿論、 自分たちも幸福には到達するはずもない。 以上の如きアグラヴェヌの愛の哲学を察したセリセットは、 己の犠牲が夫とアグラヴェヌを幸福にす るため、 塔上からの跳ぴ 降り自殺を図り、 死ぬ 寸前でも「不注意のため椅りかかつてゐて 落ちたんです」と言って、 その自殺の意志を固く否認し、 動概の 真実を漏らさぬ。 結局、 盲目的な巡命的な暗い力に駆られる恋愛 ~1) が、 献身的な死によって、「明るい光明と自由への飛羅となった」 のである。 セリセットの自殺を、 情婦が既に悲劇に目党め、 メレ アンドル から立ち退こうとする前に設定することによって、 主人 公セリセットの恋愛に対す る献身的な精神は、 一段と浄化され、 クローズアップされることになる。 一方、「宜―

u

』のBよりAへの手紙は、 この「アグラヴェヌと 七リ七ット j にも触れている。 偶然、 僕等はメターリンクの「アグ ラエーンとセリセッ ト」を会読をした(略)始めて読んだY子さんは煎いた。 裸かな遥命の真実が二人の前に投げ出さ れた。 真に美しい 従つて真に恐ろしいものを見せつけられたやうに、 二人はお どおどして上の空になっ てしまった。

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(BよりAへ、 一九一四、 二、 九) • そ のうえ、 それを読んだBの因習的な悲劇の概念に対する反省 と思索は、 自己の運命的な悲劇の予兆とみられる。 悪人栄えて苦人滅ぶと云ふ様な事実は、 悲劇の条件とはな らない。 それは体のい、茶番に過ぎない。 人閥の予知を幾菰 にも痰切る恐ろしいカーー'神的なのか悪腐的なの か自分は知 らない|ー`によって、 人 が真実に目覚めて行くに従 って段々 と苦しい遥命に這入り込んでしまふ場合にだけ、 本当の意味 の悲劇は成立つのだ。 この意味に於てエデパスはハムレット より遥かに仰大で真実だ。 (BよりAへ、 一九一四、 二、 九) 即ち、 Bから見れば、 真実による人間の迎命の悲劇こそ、 それ なり6価値がある。 それゆえ、 Bはギリシャのエデイプスのよう な知と真実を最後まで追求する人間に共惑する 。 エ ディプスは知 らずに父を殺して母親と結婚した が、 偽晰を潔しとせぬ彼は、 後 でこの恐ろしい真実を知るに及んで、 おのれの眼球をくり抜き、 娘のアンティゴに引かれて放浪し始める。 詮じ詰めて言えば、 真 実を追求するエディプスは、 苛酷な真実によって破滅に浮かれる。 ところで、 其実と現実との相互関係をめぐって、 カールヤス パースの「悲劇論」は、 以下のように鋭く論じている。 真実を持って生き ると いうこと は、 可能な のだろうか、 (略)生きる力は百目から生れる。神話を信ずるということ に(略)生きる根源がある。懐疑のない甘動 に、 視野を狭め る不真実な言動に生きる源泉がある。 人間の状況での哀実性 の問題は、 解き呆たすことのできない課題を謀するのみであ -2) る。(略)赤裸々な真実は、 人を 燕力ならしめる。 つまり、 この「悲劇論」の精神に基づくと、 不其実と無知に よって、 人間の生が支えられるものである。 それ故、 生きていく ために、 真実を追求する深い洞察力を持つ人間 は、 結局真実を突 き止めると同時に、 迅命的な悲劇に陥ってしまう。明 らかに、 真 実は苦々しい、 恐ろしいものでしかない。 「宣言 j の場合、「アグラヴェヌとセリセット」の会読によっ て、 BとY 子は、「真裸かな運命の真実が二人の前に投げ出され た」と戦慄しながら悟り、 恋し合うという恐ろしい真実によるニ 人の致命的な悲劇が既に始まったと感知する。 しかし、 既成倫理 に反する恋に溺れる Bとy子は、「アグラヴェヌとセリセット j の場合と違って、 献身的な自己犠牲の代わりに、 自我中心に個性 を背定し、 本能に忠実に愛を奪うのである。 「宜甘」の悲劇はY子を中心に展開す る。年若く恋に目笈めた Aは、 登別温泉でY子と超返して彼女を見染め、 片恋に溺れてし まう。 Bの紹介でA はY子に頻繁に手紙を出す。 これに迷うY子 は牧師に相談した結呆、「美し い六月の日」に教会内で二人 は

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会った。 当時のY子は、「全身は震へ る事も出来ない程努張して 堅くなつてゐた。 たゞ血の気のない符だけが、 断末腐の人のやう に小刻みに戦いてゐた。」 すると、 その冷たさに囲まれたAは、 ・「物を被せられた火のやうに苦しんで燃え」 ている情熱を抑えて、 ただ「僕はあなたを侶じてゐていいん ですか」 とだけ、 「様 械的」 に甘った。それに対して、 Y子は「石倣のやうに下を向いたま、 立つて」 情のない、 裏とも いうぺき戸で、「大急ぎで」唯「ハ イ」と答えた。 そして、「恨むやうな服を上げて」 っと Aを見 つめて下を向いたのである。 この段陪におけるY子は、 まだ自我に目伐めておらず、 渾沌と した状態にあり、 自己の運命的な恋の処理を牧師に判断してもら う。 とにかく、 Aの主動的な出方に対し て、 Y子はただ受動的な 窮屈な立場に追い詰められて しまう。 かかる 恋愛による自己完成 に直面しているY子は、 対処の術に迷い、 自己自身を運命に任せ るような焦貨任な態度を取る。 したがって、 この時から、 既にY 子は自分自身ないし AとBに とっての悲劇の道を歩み始めたとg える。 Aの場合、 婚約という形式によって 、彼はY子との婚約を確侶 し、 Bとの友情をも其繁で確固不動なものと絶対的に信頼する。 そして、 Y子を意地悪な毅母から守り、 その成長に助力するため、 BをY子の家に同居させ る。 しかし、股しい現実はAの理想主義 的な思想を裏切って、「真裸かな爽実」に よって、 友情と愛情に 苦しい激 しい葛藤へと展開する。 これは全くAの世間の常訊に反 する処胚の失策であり、「BとY子 との恋愛の成就は、 いうなら3) ば、 Aの自業自得である」 と考えられる。 BとY子との相互理格は、 まず同居から始 まる。 AのY子にか けた「炎のやうな情炎」と「恋愛の狂暴」は、 Y子の共嗚を引き 起こさなかった。同居して五日目、 Y子の義母が涎参りに行って、 Bは凪邪で学校を休み、 Y子との心の接近が始まる。 BはY子の 過去の焦残な境遇と生い立ちを同情し、「彼女のこんな過去を発 き示されて、 今更服が党めたやうな心になった」(BよりAへ、 一九一四、 一、 一五)と感咲する。 この感情は、 Bの過去にもY 子の過去にも「殊に同情すぺき或る物がある」、 いはば同病相憐 れむという過去に由来する。 Bは 自己の過去の不幸をAにすら 語ったことがないが、 Y子のそれに呼ぴ位まされ くる。 BとY子 -4) との異常接近は、 二人の「過去の共有が合意の愛を自党させた」 ことに荘づくゆえんであると 思われる。 ところで、 Bによって自我に目党め始めたY子は、 次のごとく Bと阿屈して五日目に起こった心理と精神上の飛躍をAに告白す その時私は突然B様を恋するゃうに なった(略)。私はそ の時店にあやつられたやうに、 すらすらとB様に心の中をあ りつたけ申し しま ひました。(略) B様のお話が身にしめ ばしむ程、 私は紙をはがすゃうに快く、 自分の目醒めて行く

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のが判りました 。(略)B様から来る不思議な力を、 命がけ で押し戻さうとして居りま したが(略)是から本当に苦しい 8が続きました。(Y子よりAへ)(Y子の手記) かくのごとく、 Y子とB との心 の異常接近 によって、で品旦 の悲劇の展開は加迷され、 急テンポで悲劇は第二段階にエスカ レートする。 Aから絶対的侶類を寄せられている BとY子は、 こ . の 段階においては、 それ ぞれ友梢と恋愛、 外界の規約と自己の覚 醒といったジレンマに挟まれ、 激しく苦悩する•Y子は 「 既定の 婚約」に束縛され、 Aの要と心に決めて、 Bとの恋を熊理矢理に 抑える。 遂に解決餃として、 Y子は A の妹のN子にBを結婚させ ようと企てる。

B

の場合、「病気と 戦つて居るので はない迅命と戦つて居る」 状態になり、 Y子との恋のめばえによる恐怖感におぴえ、 その煩 悩から解脱するた め、「再三転居の事」をAに相談し、 Aにそれ を拒まれる。 しかし、 BをY子の所に寄寓させた牧師 も、 BとY 子との心 の異常接近の恐ろしさに気づき、 突然、 Bに「転居を懲 旭した」のである . ところが、 A は友情至上であり、 終始肺病をわずらうBに経済 的援助をする。 父の会社が破産し、 Aは学校を中退して苦心惨像、 製粉所を経営する歎穀に滴ちた時期にも拘らず、 Bへの援助を打 ち切りはしない。 Bとの友情を絶対に信頻するAは、 牧師から自 分に「打ち明けられない理由 」でBに転居させるとい う容隊を 「無理解な独断 」 と躊躇なく決め込む。 BとY子をめぐって A のもとへ「下らない噂の伝はつてきたこともないではない」状態 にも拘らず、「そんな事をいふ 奴は、 馬庇か印沼者か、 どちらか だ」とAは、 その 吃を頭から否定する。 そ れで、「もっと立派な 友情」への但頼に駆られて、 相変わらずBに対してY子の家に 「ゐつゞけて貰ひたい」と全く自信過剰であり 、 有 島のいう知的 生活者であるAは、 ここで自ら運命的な悲劇を第三段階にまで進 行させてしまう。 ここから、 悲劇の迄勢はもう止められぬほど巡 行の一途をたどって行く。 A は個性格放より倫理を苓孤する人間 であり、 如何なる場合でも人間の生を支える既成倫理を人間に 取っての佼すぺからざる規約と見なしていて、 友情と恋愛の間に は、 当然越えてはならぬ境界線 が引かれると 確信する。 知的生活者なる A に反し、 Bは有島のい う 本 能的生活者であり、 倫理より も其実に殉ずるタイプである。 勿論、 恋への対処をめ ぐって、 Bもかなり苛まれる。 A の婚約者を愛することと、 内部 の真実が外部の友惜と伶理を狐切ること に、 Bは苦しみ、「椛ろ しい忌まはしい疑惑」に復われる。 しかし、 Y子は A より自己を 真実に恋する 心理を察すると、「この忌まはしい供りは跡形もな く晴れる」ように変わる。 Aとの「黄金の如き 」友情は、 Bにとって設しい伯理的制約を 構成する。 Bの内的要求から涌いてくる赤裸々な真実 は、 この外 界の制約と激しく衝突する。 Y子との恋が否めぬ事実となると、

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Aとの友情は自然に虚偽なものに堕裕してしまう。 真実と虚偽の 友惜とは、 どちらが至上なものか、 それはBの性格、 そして恋愛 に対する彼の意志に基づいて決められる。更に、 恋愛に対する作 者の見方にも係 わってくる。有島の恋愛観は、 深く愛し合ってゐる二人の前に第三者があらはれて、 所腑 恋愛の三角関係が生じるなぞといふ事は滅多に 起こらない筈 で(略)第三者の魅力は絶大であって 、 夫 要の関係をも絶切 ・るほどの強さがある場合には、 これは施す術のない巡命的な せっ" 悲劇であって、 いよ いよ切迫詰ったカタストロオフには死ぬ か殺 すか殺されるかまでゆく場合も起りませ う。 その如何な る結末に達するであらうかは人おのおのの性格によることで あって、 一概には申せません。斯ういふ巡命的の悲劇に対し (S) ては 批評の余地がありません。 というものである。有島の哲学によると、 内的要求の愛がない 所にこそ、 第三者が現れる。 だから、 第三者は必ずしも非難され るぺき対象 とはならない 。「宜酋」の楊合、 Bとの接近によって、 y子が自我意設に目覚めてくる。 Y子の悩みは、 内的要求である 恋のないAと形式的な婚約関係を維持しながら、 Bに思いを寄せ る心理状態にあり、 自他を欺<偽菩者になったと悟りながら、 因 襲の追徳に践しく縛り付けられ、 自己を解放できぬところにある。 家庭内の束縛は、 まず「江戸ッ子気質 J なる祖父の次のような頑 固な伝統意設に現れる。 先方の家が百万長者にならうと、 一文なしにならうと、 約 束は約束だ。(略)先 方でやめると云ふ のならおとなし く引 込む外はないが、 呉れろと云ふのなら、 煮るなり焼くなり先 方の勝手にするがいいのだ。今になって縦令何と云はうと、 金輪際娘はA家のものに述ひない。 (BよりAへ、 一九一四、 二、 一四) 明らかに、 これは正真正銘の封建的家族制度化の倫理や男雌女 卑思想の現れであり、 Y子が人 間より物品として相手に左右され うる物品として扱われている。 かかる家庭内外の抑圧に直面して、 Y子は外 部環境に従うか自我を通すかの選択に迫られる。有島が かかる幾重の陳害を作中に設定するのは、 Y子の自我を最後に活 かそうとする力の強さをクローズアップさせる狙いがあると考え られる。 智的生活より本能的 生活を主張する有島は、 Bを自己の分身と して描き、 Y子にも自 分の意識を投入する。有島に操られるBが y子との真実の愛のために、 友情と既成倫理観を突き破る原動力 は、 次のような本能的生活から来る絶対自由観に由来する。 自由、 自由、 赤裸な心霊のをめき叫ぶ要求を充たすぺき真 の自由。僕等はその自由を求めようでない か。 その自由の前 には、 無条件の服従をな し得る勇気を焚はうではないか。 (BよりAへ、 一九ー四、 二、 九) 「心震の要求」であるY子との恋に対する「焦条件な服従」に

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よって、 社会の拘束と人倫的規約が摂力化されてし まう。 詮じ詰 .めていえば、 Bのかく のごとき行為は、 有島の本能生活及び道徳 との相互関係論に根ざしていると見なされる。 若し本能生活が体験せられたなら、 それを体験した人は必 ず人間の 意志の絶対自由を経験したに述ひない。本能の生活 は一元的であって、 それを牽制すべき何等の対象もな い。 そ れはそれ自身の必然な意志によって、 必然な道を踏み進んで いく。 (略)根祗的 な人間の生活は自由なる意志によって浮 かれ得るのだ。同時に本能の生活には追徳はない。従って努 力はない。 この生活は必至的に自由な生活であ る。 必至には 二つの道はない。 二つの道のない所には笹悪の選択はない。 (o) 故にそれは道徳を超越する。 酋うまでもなく、 道徳より意志の欲求を認める有島の前述の理 綸の忠実な実践者として B が描かれる。内的要求によるY子との 恋愛を偽らずに成就するため、 BA に苦々しい、 痛烈な宣言を する。 黄金の如き君の友情、 君の実質上の補助、 君の信頼、 君の 苦境、 N子さんの好意、 是等の凡てを僕は敢て犠牲にする。 それは僕がY子を愛し蓉べるかの左券である (BよりAへ、 一九一四、 二、 ニー) Y子の場合、 B と出合うまでは、 迎命の奴隷のような混沌たる 存在として描かれる。 これは 彼女の暗罰な生い立ちから来る陰影 に係わっている。 Y子はAと B に下劣卑賎、 悪むぺき女と見なさ れる「今の母の子でもなければ、 あの父の子でもない。」彼女の 実母は「良人に捨てら れた女性」であり、「大阪を出た東京通ひ の小さな汽船」の三等室の片限に「中有をさまよふ魂映のやうに 上の空になって」東京に放浪してくる。 この時、 Y子は既に母の 胎の中に「流離の悲しみを極印された小さなーつの魂」として卒 まれる。「大都会の動乱と混雑とのどん底に沈められ」て、「未熟 な技芸を充りものにする婦人労働者」として零洛したは 母、 娘を 自分の様な悲しい巡命から守るため、「物件の如く」伯母に渡す。 つまり、 Y子は子供の時から母の愛を失い、 自己の存在すぺき社 会から疎外される。 それ故、 何時も不安な心理につきまとわれ、 男に対して恐怖感を抱く。 これらは、 Y子のAに対する告白に言 われる。 私は小さい時から、 自分を可哀相な子だと思ふ群を抜く事・ が出来ないで居ましたが、 一五、 六になると、 未来に対して 始終おどおどする氾欝な心になってしまひま した。殊に男の 方に向つては、 理屈も何もなく恐ろ しくの み思ひました。 (略)何時か男の人が現れ出て、 私をこの上もつと深い不幸 につき洛すに述ひないと、 ちゃんと心の中で極めて居りまし た。 祖父ですら、 男である為めに恐ろしさの余り、 訳もなく その酋禁に逆った事がよく御座います。神様の事を伺ひまし た時でも、 私は心の中で、 神様を男のやうに思ひまして、 唯

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恐れに恐れました。 (Y子の手記) y子のかくのごとき男性への恐怖は、 実父という「男」に対す る憎悪に由来する。Y子の最大の恐怖は放浪者の運命をたどった 実母の二の舞を演じるのではないかということである。 この時、 Y子の心境は「故郷(生活社会)を失いつつもいまだそれに代る -9} 新しい故郷をわが手に獲得しておらず」、 坊復者としての賀苦に 苛まれ ている。智的生活 者、 Aとの沼返は、 結局、 内的要求の愛 に昇華することなく、 ただ心からAを「葬い消い強い男」として 葬敬するに止まっている。 ところで、 y子は社会的地位のない女性であるけれども、 社会 から浴ちこぼれな いようにも がいている。 Bと の同居による空間 的、 時間的なへだたりの短縮にともなって、 二人の心の交感が著 しく進み、 Y子は真の自己自身を発見し、 男に対する恐怖感が消 失し、 命を燃やす新しい希望のため、 勇気が湧き上がってくる。 それゆえ、 Y子は自分の直面している重大な其実とAに対する偽 善を懃識する。 恋愛における偽善については、 厨川白村は封建的倫理を批判す る「近代の恋愛観」(改造社「厨川白村全集」第五巻、 昭和四年、 ,第三五ページ)の中で、 次のように痛烈な論説を述ぺている。 自己以外の何者かのために、 即ち因提のために、 利益のた めに、 或は家名のために、 自己みづからを菜て、 心身を探ぐ る者があるならば、 それは明らかに偽菩である。若し偽善で なければ、 売淫であり、 奴隷であり、 畜生道である。断じて 人間的ではなく、 文化的ではない。(陥)新時代の新道徳か ら考へて、 恋愛なき結婚を、 人間としての大いなる罪悪なり と見る思想上の根拠は、 此の点にあるのだ。 結局、 y子はかくの如き偽善をこれ以上統けられぬと心に決め て、 倫理に殉ずるより自我を通そうとして、 Aに「私のいつわら ざる性格は枇方を腺敬しB様を恋させます。」と赤裸々な冥実の 告白をし、 婚約解梢を宣告する。 ところが、 Aに至っては、 全く有島の哲学によって造形された 智的生活の主人公といえる。Aは家の破産と父 の死と いう二煎の 打撃に襲われ、 今までの自由な精神と物質生活から容赦なく厳し い本質的な生活社会に引き戻される。学校を中退し、 仙台に立ち 退<Aにとって、 Y子との相互理解は 空間的な条件に制限される。 そのうえ、 一家の生活のため、 Aは製粉会社の経営に心を砕く。 AはBよりの手紙でy子の事情が分かるが、 Y子にとってAへの 理解は困難である。かかる現実はY子とAとの関係を更に疎返に し、 AのY子への不満を非らす。Aに対する克明な人物評がBよ りAへの手紙によって窺われる。 君位公明な男はない。然し君位に拘泥する男もない。君は 公明に拘泥する。君は自分の男である事に拘泥する。君は宮 者の独子たる生ひ立ちに拘泥する。君はにはか貧乏に拘泥す る。君はY子さんの母に拘泥する。更に悪い耶は、 その拘泥

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がいつでも公明な心を以てなされる事だ。 だから、 君は自分 の訣点を美徳とすら思ひ込むのだ。今の君はY子さんさへ抱 めばい、のだ。洒むか摺まぬかゞ問姐だ。 その外に何の拘泥 すぺき問題があるか。 君の神経は、 もっと 鋭微に物の携敏を範つて進まねばなら ぬ。一人の女の心より知らないと云ふ事実が、 それ をしない で居る申訳とはならない。 君はも っと度々束京に来るぺきで あった。而してY子さんと反比例して、 多くの消息をY子さ んに送るぺきであった。僕 は今まで幾度それを 君に態旭した らう。然 し君はそれを用ひなかった。 (B よりAへ、 一九一四、 二、 一四) 確かに、 B に評価された通り、 Aは社会の規範に拘泥する「馬 鹿正直な」自己完結的性格の持ち主である。彼は事菜の面では、 家の没裕による貧窮生活にも拘らず、「科学者 とな る立場はどん な事があっても捨てよう とは思はない」(-九一四、 一、 五)の である。 父に死なれ、 家長の役目を果たすAは、「母を妥ひ、 妹 を教百し、 小さいにしても、 痰と一柑にーつの鎖土を建て上げる 生活の附け加へられ た事」を限りない賀任感を もって思う 。友情 におい ても、 その衷切り者となりたくはない。 たとえ瞬間的な疑 惑が閃いても、 ただちに抑え、 打ち梢す。 そういう心理は次のよ うに描かれ ている。 恋人の本能によって、 侠の心の中に、 思ひもかけぬ猜疑が 閃く事が二三度あった。然し僕はまだそれを奇麗に心の中か ら一掃する男らしさを失っては居ない。 (Aより B へ、 一九一四、 二、 一一) とにかく、 Aは事業、 家庭、 友梢、 恋愛など各分野にわたって、 世間から倫理的な人間と認められたいのであ る。 したがって、 純 梢善良なAは、 自己閉銭的で、 偏屈な、 自我を抑える一而を余倣 なく持っている。 Aの 自閉的な傾向と本質的に生活者である点は、 「宜言 j の悲削を隙し出す重要な条件となる。 人間は進化を求めて止ま ず、•生の要求は単なる動物のような性 欲や食欲ばかりでなく、 非常に複雑な、 微 妙 な、 多而的な籾神現 , 象とな って展閲する。 かかる精神現象の根源を遡ってみると、 外 でもなくすぺての拘束を突き破る、 自由への渇望である。 この目 的のため、 楊合によってはたとえ 生命の代価を払っても惜しまぬ のである。 「宜g」においては、 B とY子との恋愛はまさにこの事例に当 たる。 二人の未来はすでに破滅の予兆が見え、 死の運命も待ち梢 えている。 有島は二人を洪の安子と同様な肺結核患者と設定する。 当時、 肺結核は死の象徴であり、 死の代名詞とも言える。 B とY 子は自分たちの暗い未来や死を予感している。 B がAに対する最 後の絶体絶命的な宜言によっ て、 二人の死への出発と真実に殉ず

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る自由意志の脱動が、 はっきりと伝わってくる。 万人は三人を見て声を上げ て笑ふ。不節度、 熊恥、 怪謀、 軽桃、 没道義 。 裸なる真実、 いつはらざる誠実を三人は知った。不倶餃天 の敵であり、 同時に情を等しうする殉教者たる三人は、 芯た ず躇はず各自の道を行かねばならぬ。 君の敗北の上に祝福あれ。 y子の甦生の上に同情あれ。 .僕 の勝利の上に悲涙あれ。 (略)然し、 僕等の嘉弱な健康は、 恐らくは僕等を永く戦場 に立たしめぬであらう(略)宣言は尽きた 。 剣を乗るべき時 が来た。 (B よりAへ、 一九一四、 二、 ニ―) ここには、 死に直面していながら、「来るぺき凡ての戟を碓々 しく戦ひ、 回辺する事なしに」辿み、 自己の道を切り拓 <B の姿 が見え、 二人の愛惰を貫徹していく内部生命の発動を感じ取るこ とができる。 「宜言 j は『或る女 j と同様に、 人要恋慕の不倫の恋の系府に くり組まれる作品と言える。業子も Y 子の血筋を引いていると見 . ら れる。両作品に溢れる強烈な自我愛 は、 有島の背侶と密接不可 • 分な係わりを持っている。 キ リスト教信仰を拾てた有島は、 長い間悩んだ末、 次第に外的 表面的自我から内的根源的自我へ転換し、「倫理観においてキリ

-')

スト教的な愛他の梢神から愛己の精神へ」と転換する。即ち、 こ の棄教を契機に、 有烏は一途に根源的自我を取り戻し、 自己愛を 主張し、 人間社会における見かけの「愛他」の実質が、 すぺて自 己愛の変形に外ならぬと力説する 。 か かる自 己愛の実践者として、 有島は先ず B とY子を戦場に追い詰め、 更に自己の波多野秋子と の情死によって自分の思想を完結す る。 有品の哲学によってみれ ば、 これこそ、 自我の意志に忠実であり、 残酷なまでに愛を奪っ て、 誠実に生 きたのである。 これはメーテルリンクの「アグラ ヴェヌとセリセット」の愛他的、 献身的な愛と相容れぬ鮮やかな 対象をなす。 =宜哲 j を有島の愛の哲学理論の小説化というならば、 後の波 多野秋子との情死 は、 偽菩を拒否し、 破滅に結ぴつく真実を求め る自由意志に殉ずる苛酷かつ痛烈な行為と首え、 思想と実行の一 致を馴い、 実践道徳を貫徹しようとする有島の悲劇であった。 注 (1)「近代劇大系」近代劇大系刊行 会、 大正一四年”七牲

m

七ベージ。 (2) カールヤスパース若『悲劇論 j 姐本文夫訳、 理想社昭和三八年七 月、 卯七六ページ。 (3)山田昭夫「布烏武郎姿勢と軌跡』右文柑院、 昭和五四年第二二0 ベージ。 (4) (3)と同じ、 第二二三ページ。

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IEI 」、 (5 ) 品武 穿 (6 ) 「作 (7 ) 「「 l 吟巴 • O と同じ、 第五五ペーシ 「布 l (8 ) (7 ) みなく愛は奪ふ」瀬沼茂樹等編 (9)安川定男「惜し 0 て赤 (附 稿 って (中

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