絵画における身体イメージについて : Anthropomorphism と Literalism の間で
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(2) 38. 小野. を 意識し、. 康男. 受け入れざるをえないのと 同じく、 作品の観者に 対して有無を 言わせぬ形で 自らを押. し付けること。 フリードは、 これについて、 サイズ、 シンメトリⅠ中空であ るという点で、. 日. 常の経験の中では 見知らぬ他人との 直面を強いられる 状況と近似したものと 考え、 ミニマリズム 芸術を擬人観. ( ㎝ thropomo. 印 hism). に立脚しているとする。 次に 、 Ⅱ一つの事物 ] 、 単一の『 特 ミニマリズムの 物体,性への志向があ る。 フリードは、. 殊な 物体』。」であ ることを目指すという、. 「芸術作品を 物体以上の何物でもないものとして. 見るという危険性,」と 指摘し、 ミニマリズムを. むしろ 即 物主義 (literaIism) と解釈するが、 これは、 ドニの言葉を 20 世紀的に解釈する 場合、 あ. る意味では、 常に陥る可能性をもった 陥穿 であ る。 最後に、 フリードが「諸芸術の 間に位置し. ているものが 演劇であ るりと言っているように、 演劇は音楽、 舞踊、 美術等、 諸芸術の連関の 上に成り立っている。 フリードの目には、 ミニマリズムは 絵画と彫刻の 間に位置するものと 映じ たようであ る。 これは、 近代において、 宗教が心理療法に 解消されたのとは 異なり、 芸術がいま だ 真剣な実践と. 考察の対象として 存続しえている 理由として、 他の活動に還元され. 自の領域に自己限定したことをあ. え な い 芸術独. げ、 そしてまた芸術の 中では、 他のジャンルに 還元されえない. 個々の芸術ジャンル 独自の領域に 自己限定したことをあ げるグリンバーバ 的な考え方にとっては 許しがたいものであ. った 7。 これこそが、 芸術の純粋,性を 構成し、 したがって芸術の 価値を保証. するのであ る。. ミニマリズムが 観者の経験に 作品の意味を の 根拠を見て、. 委ねるとすれば、 作品の内的関係に 作品の意味内容. 内的関係の形式的分析によって. 作品の意味が 開示されるとするフォーマリズム. 的. 作品理解とは 相容れない。 たとえば、 フリードは、 アンソニー・カロの 作品について、 作品の構 成 要素を相互に 剥き出しの形で 並置する (jUxぬIDOS 臣 On) ことに意味があ るのであ って、 その要. (ObjeCt) そのものに意味があ るのではないと 言っている。 すな. 素でできた物体. 品は観者に依存することなく、. ね. ち、 カロの 作. 作品の内的関係が 意味を産出するが、 ミニマリズムにあ っては、. 作品口の覚部にあ る、 作品と観者の 関係からしか 意味が生まれえないと 言っているのであ る。 フリードは、 とりわけ時間性に、 ミニマリズムの 作品と、 カロなど彼が 評価する作品の 違いを 見る。 経験的にはいかなる 作品であ ろうと、 見るためにはあ る程度の時間の 幅を必要とするが、 「人が事実として、 を 全くの. ノーランド やオリ ツキ一の絵画もしくはデイヴィッ. 無 時間のうちに. ド. ・スミス や ヵロの彫刻. 経験するからではなく、 どの瞬間にあ っても、 作品それ自体が 完全に明. 示 的であ るからであ る 8」と、 「瞬時性 (inStmmeoUSneSS) 9」を価値として 強調している。 一方、 ミニマリズム 芸術の特徴であ る構成単位 ( ユニット ) の反復は、 観者にとって 日常の持続的時間 七. のごときものであ り、 「いつ終わるとも 知れぬ不確定な 持続 (endlessorinde 丘niteduration) ,。 とレ ). うわけであ. る0. ここには、 「事実上」と「 権 下り上」と L73 古典的医方Ⅰとともに、. 」. レッシンバ. の 『ラオ コ オン』以来の 時間芸術と空間芸術の 峻別が見られる " 。. モダニズムの 絵画にとって、 しくは保留することによって、. 「形体. (shape). という メ. 自らの規約的な 本質. デイサムを通じて 自らの物体,性を 打破も 特に自らの絵画としての 本質. にすることが 差し迫って必要になった , 2」と、 グリンバーバ 的な「本質. (convenⅡon) 」と読み替えることで、 歴史 じを図っているとはいえ㌔ イ. 一. を明白. (essence) 」を「規約. 以上見てきたように、. フ.
(3) 絵画における 身体イメージについて. リードの立場は 決して新しいものではない。. その点では、 瞬時,性 という瞬間における 意味の充実. とソシュール 的差異概念とは 相容れない考え 方ではないかと は、. クラウス自身経験的時間概俳に. ムと. タ. クラウスと異なり、 明確に捉えているよ. われわれは、 「連続的で全体的な 現在性,。 」、 「永続するそれ 自体の創造,性げ」と. しての「瞬時小生」を、 ファンタス タス ム. 、 ロザリンド・クラウスの 批判. 捉えているが、 だからといって、 ファン. スムを単に批判すればいいというわけではないことを、 "。. 問う. 退行しているとはいえ、 的を射ている "0 一方、 松浦寿夫は. フリードにおける 差異の廃絶を 端的にファンタス うに思われる. 39. ムと. 捉えることができ ,るとしても、それをもっと 広範なファン. についての思考の 機会と考え、 近 ・現代芸術のファンタスム. 的小生格. と共振する批評家, 研. 究 者の言説として 評価したい。. フリードのこの 論文と、 それに続く彼の 美術史的研究において 興味深いのは、 ファンタス. ムを. 核心に置き続けていると 思われるところであ る。 そのことによって 、 彼は「もの」の 表現の不可 フリードは、 「芸術と物体性」の 発表から 20 年後の. 能 性と不可避性から 離れることができない。. 討論会「ミニマリズムとポップ 以降の美術論」において、 「ミニマリズムとは、. あ. る種の物体の. 観念、 つまり抽象化された 物体の観念を 実体化する試みであ る、 と私は見なしていました。 これ が. 囲口 物主義』という. 言葉を使って 私がいわんとしたことであ. り、 そうした作品が 効果を醸し出. すときの支配的な 流儀を 、 『、演劇的』であ ると称したわけです , ,」と述べている。 リテラリズム. とは、. 「物体」ではあ. るが、 観念としての「物体」であ. 呈示するものであ る。. あ. り、 それを即物的に、 文字通りの仕方で、. るいは、 「物体」を呈示することは、 このような振れを 必然的に含むと. 言ってよ い のかもしれない。 われわれは、 以後、 フリードの論文では 論旨を明確にするために. 「物体」と訳してきたものを、 より広範な文脈に 置くため、 「もの」と表記したい。 この点に関して、 フリードの論点の 背景を暴き出したのは、 ディデ に 思われる。. イ. = ユ ベルマンであ る. 23. ディディニ ユ ベルマンは、 ミニマリズムの 作品によって 距離を取らされたり、 詰め. 寄られたりして、 不安を掻き立てられるという、. フリードの決り. 文句的記述について、. 「この記. 述は、 自分が嫌悪する 対象によって 確信を揺るがされた 人間によって 書かれた文章であ ることは 明らかであ る。 こうした仕方で、 確信を揺るがせる 力をそれらの 対象がもつこと、 まさにそのこ とによって 、 彼はそれらの 対象を嫌悪するのだ㎎」と 指摘する。 ディデ フリードは. 、 彼の感じる「激しい 無気味. て、 ミニマリズムの 作品を誰よりも. よく. て、. 皮下的に「演劇的」の 名を与えた、. は、. 通常の文脈においても 理解可能であ. さ. イ. = ユ ベルマンに よ れば、. (unefamⅢ㎡ tete㎡ bIementmnquie ぬ nte) 呵によっ. 捉えていることになる。 彼はこの確信を 奪 う 体験に対し と. デ. イ. デ. イ. = ユ ベルマンは言う。 「演劇的」という 言葉. るので、 フリードのテクストを 解釈する視点からすれば. 誤りであ るかもしれないが、 フリードにおけるファンタス. ム の重要性を指摘した 点では、 核心を. 突いている。 デ. イ. ディニ ユ ベルマン自身は、 こうした無気味さに 対する評価の 記号をプラスマイナス 逆転さ. せる形で、 ミニマリズム 芸術の評価を 行っている。 彼は 、 「ミニマリズム 彫刻の『擬人観』は、 自己転倒、 あ るいは自己変容の 力を明らかにする。 それは、 最も人の心をかき 乱す作品のいくつ かに関して、 まさにマイケル・フリードが 認めたもの. 一 すな ね ち、. 関係的戦略、 心理学的演劇.
(4) 40. 刀. 、9チ. 月き ヨョ. 主義一を壊乱し、 はるかに微妙な 領域に近づくものと 考えることができる。 それは、 超心理学 的と言いたい 領域であ るが、 贈与と損失、 喪失と欲望、 欲望と服喪の 領域なのであ る,, 」と述べ ている。 彼は、 フリードの記述を 180 度転換させて、 そこに無限の 変換過程を見るのであ る " 。. しかし、 それが可能であ るのは、 同じ基盤を共有しているからだと 言わざるをえない。 その基盤 とは、 ディディニ ユ ベルマンの言う「超心理学的」領域と 関らざるをえない「もの」との 関係な のであ る。. さて、 われわれ自身、 抽象的な「もの」へと 向かわないようにするため、 い て注目されていた「擬人観」と「. 貝口. フリードの論文にお. 物主義」について、 両者の交錯が 際立ちはじめたと 思われ. るフランス 19 世紀美術の中で、 見ておくことにしたり。 グリンバーバ や フリードの議論が アメ リカ の抽象表現主義ないしそれ. 以降の美術を 対象とするものであ. ったとしても、 その議論を準備. したのは、 19世紀フランス 美術の世界化であ ったことは間違いないからであ る。 2 anthropomorphism の変容と投影の 問題、 そして皮内 一 自我 ミニマリズムの 作品は主として、 従来のジャンルから 言えば、 彫刻作品であ った。 同2 列 作品は 、. 多かれ少なかれ、 基本的には人間形態に 準拠してきた。 それは、 容姿や身振りや 姿勢といった 基 準 によってであ る。 一見人間形態と 関りなく見えるような 作品においても、 立つ、 座る、 寝そべ. る、 といった身体の 方向性は、 やはり人間形態への 準拠を示すものであ った。 一方、 フリードは、 ミニマリズムの 抽象的で幾何学的な 作品に対して、 ほぼ人間と同じサイズ、 シンメトリⅠ内面 の 存在を想起させる 中空性という. 点で、. 人間形態への 準拠を見たのであ. る%. 。. ここには、 重要な点で変化があ る。 同じ人間形態が 問題になるとはいえ、 一方は、 機能的に 了 解される人間の メーシス的表現であ るが、 他方は、 主体に 封 じて閉ざされ、 自己充足したもの として現れる 他者の、 まさに他者の 観念とⅡ 平 ぶべきものの、 リテラ ルな 表現なのであ る。 こうし ミ. た他者の観念は、 過去の彫刻においても、. 隠楡 的な仕方で含まれ、 作品に意味の 倍音を与えてき. たものであ ろう。 ここで問題となっているのは、 隠瞼 的な過程がリテラ. ル. なものとなることであ. る。 それは、 絵画においても、 進展してきたと 言える。 ここでは、 19世紀フランスの 徴候的な 作品と思えるものについて、 簡単に触れておきたい。 ギュ スター ヴ ・クールベ (1819-77)とポ 一ル・セザンヌ. (183缶 1906) を取り上げる。. クールべの作品において、 たとえば、 岸壁の間を落下する 滝を描いたくグール・ ア ンシ ・. ュ. ) (1864年 ). が人間の顔を 思わせる形態に. の形態に彩られていることはよく. 満ち満ちており、 一般に 、 彼の絵画が人間や 動物. 知られている. "。. こうした子どもっぽい 判じ絵的なものに 加え. て、 彼が得意とした 動物画の動物たちがきわめて 人間的な表情をしていることもまた 周知のこと と言ってよいだろう。 クールべの擬人観について、 フリードは、 絵画において 表象された形象が 擬人化されているだけではなく、 クールべを 彼 以前の世代から 分かっものとして、 絵画の身体,性 (co印 oreaIi ゆ ofp ㎡n 廿ng) 25 に注目し、 それに身体的リアリズム (co印 ore田 realism)の名を与え た 。 彼の絵画は 、 絵を描く画家自身の 身体を画面そのものに 投影する方向で 構造化されているの であ る,6。 自画像を描くためには 鏡が必要となるが、 クールべの作品では、 ( 革のべルトをつけ.
(5) 絵画における 身体イメージについて. た 男一自画像》に. 41. 端的に見られるように、 絵画を描く画家自身の 身体と、 鏡に映ったその 鏡像 戦略が働いている "0. との間の差異を 抹消し、 画家自身の身体を 画面内に移行させようとする. た. だし、 クールべの絵画にあ っては、 鏡像としての 画家自身を回避し、 制作中の自分自身を 表象す るために、 後ろ向きの人物を 配したり、 自分自身の身体が 画面に投影されるリズムを 表象するた めに、 寄せては引く 、 水の流れや波を 多用したりしている。 つまり、 画面に人間を 想起させる形. 象を描く段階と、 画面そのものが 身体の投影になる 段階とを転換させる 蝶番的なものとして、 一ルべの作品を 見ることができるだろう。 代理的な形象. ク. (surrogate)が、 身体的リアリズムの. みならず、 通常の意味でのリアリズム、 すなわち写実を 保証しているのであ る。. も. セザンヌの作品もまた 人間形態に満ちていることは、 ン " ド @"" - " " ‥. 従来から指摘されてきた。 近年において ガイストの『セザンヌ 解釈 コが 、 秘密形態 (c卍 Dtomo 印 hs) という概念を 用いて. セザンヌの作品に 隠された「無意識的な」形象を 指摘し、 多くの論議を 呼んだことは 記憶に新し い,, 。 ジャン・アルイは 、 「ノスタルジ 一の乗り越え」という 1982 年の論文,。 の中で、 浮遊する,性. 器とでも言. う. べきものをセザンヌの 画面に指摘し、 ガイスト以上に 大胆な解釈を 展開していたし、. 《モダン・オランピア. ) (1870年代前半に数点あ. る). ) (1877年頃 ). や《永遠に女性的なるもの. を始めとする、 ロマン主義的と 呼ばれる初期の 作品において、 女性の姿態と 髪型はサント・ヴィ ク. トワール m を模倣するものであ った。 また、 静物画で多用されるテーブル・クロスにも、. 山の形態が見られることなど、. 身体と何らかの 関りをもつサント・ヴィクトワール らでも続けることができるだろう. 女 ,性. リストはいく. " 。 セザンヌにおいては 汎 人間形態とも 汎 自然形態とも 呼べる. ものが全般化された 生命形態となって 随所に見られるのは 確かであ る。 しかし、 逆に、 これらの 形象があ まりにも 露 わであ ることが、 解釈上の難点となってきたと T. . J .. クラークもまた、 セザンヌの「大水浴」のシリーズに、. の形象を見出すが、 「この患者のファンタス にあ る、 と言った方がいいだろう。. ム. 言える。 男根的母親. (pha Ⅲ cmother). は表面に近い。 むしろ、 ファンタス. ム が表面の上. これが肝心なのであ るⅡと言って、 注意を促している。 確. かに、 「大水浴」に 限らず、 男女が別々に 描かれた「水浴」のシリーズ、. さらには、 ポーズの 設 定 でこれらと密接な 関連をもっ「 聖 アントワーヌの 誘惑」のシリーズにおいて、 フロイトを経た 世代では到底描けな い ような形で も. (あ. るいは、 こちらの方があ りそうなことであ るが、. あ. まりに. 平然と描いてしまうかもしれない ) 、 心理学的解釈を 容認する女性の 類型的表現が 行われてき. ) (1895-1906年 ) においては、 まさに 露 わな男根的女性として 形象化されている。 これは、 われわれがリテラ ル なものに注目した 事情を明らかにする。 20 世 た。 バーンズ美術館の. ( 大水浴. 紀の美術は、 シュルレアリスムに 典型的に見られるように、 隠されるものが 隠されていないとい う. 共通した特徴をもっている。. ュ ルレアリスムであ. もの、. あ. ら. フロイトと同時代 りな関心の共有と 言い、 、ン 自. るならフロイトの 影響と言って、 これを無視するのはたやすいが、. 隠される. るいは、 隠されるはずであ ったものが表面に 現れるとき、 表面 = 画面はいかなる 作業の. 場 となるのか、. J=F.. セザンヌであ るな. と 問いを立て直した. 方が生産的であ ろう。. リオタールは、 セザンヌの空間について、 「人は語るために 描くのではなく、 黙するた. めに描くのだ。 晩年の. (. サント・ヴィクトワール m 》は何かを語っているわけではないし、. 何か.
(6) 42. 小野. を 意味しているわけでもない。. 康男. 批判的なリビドー 的身体として、 そこにあ るだけであ る。 それら. の絵は、 絶対的に沈黙し、 まさに不可解であ る。 というのも、 それらは何も 隠していないからだ。 つまり、 自分自身の覚には、 自らの組織原理や 行動原理をもたず (模倣すべきモデルもなく、 遵 守すべき規則体系もない ) 、 奥の意味も、 意味形成性も、 裏 の意味ももたないからだ 円と述べ る. 。 フリードの議論を 見てきたわれわれにとっては、. 常套句の羅列にすぎないかもしれない。. し. かし、 遠くにあ るサント・ヴィクトワール 山を見る者に 近づけ、 また、 見る者の近くにあ るもの を 彼方へと遠ざけるセザンヌの. 絵画が 、 見る者と描かれたものを 包み込む一つの 外 板 のような 効. 果 をもっのは確かであ ろう㏄。 これは、 クール べ におけるような、 画家身体の画面内の 形象への. 投影ではなく、 画家身体の画面上への、 あ るいは、 画面そのものへの 投影と考えられる。 形象 レ ベルの擬人化がリテラ (. ル なものとなり、 その代わりに、 画面全体が擬人化されることになる " 。. ミニマリズムは、 この作品の擬人化そのものがリテラ. ル になることで 一つのサイクルを 終えた. 段階と言えよう。 ) われわれは、 作品の意味を 説明しょうとするものではないが、 この過程にっ い て、 理解を深めることは 可能ではないかと 考える。. われわれは、 これまで投影 二 投射 (p ojection) という言葉を、 特別注目することなく、 「. の 意味で使ってきた。 投影 = 投射という考えは、 すなね. 通常. しばしばデッサンの 起源として語られる 挿話、. ち、 恋人とのしばしの 別れに際し、 若い女,性がランプの光によって映し 出された恋人の 影. をなぞるという 挿話,,でも、 その可能性を 支えているし、 アルベルティやブルネレスキの. 絵画 装. 直 においても、 その前提となるだろう㏄。 19 世紀、 20 世紀の絵画において 言われる平面性の 間 題 もまた、 投影の問題と 深い結び付きをもつ。 繰り返し述べてきたように、 投影された形象の りテ ラル化によって、 投影面に投影される 形象ではなく、 投影面そのものが 問題となることが、 その 特徴であ る。 さて、 投影の問題が 身体の問題と 結び付いて現れてきた 経過を見てきたが、 ここで、 身体が い かなる形で投影の 平面二表面と 関るのかを見るために、 いったん絵画の 領野を離れ、 心理学的な 投影の規定を. 検討してみたい。 まず、 精神分析の辞書的な 定義から見ておこう。 「精神分析独特. の意味では、 主体が、 自分の中にあ ることに気づかなかったり 拒否したりする 資質、 感情、 欲望、 そして『対象』すらを、 自分から排出して 他の人や物に 位置づける作用を. いう. 。 これは太古的な. 起源を有する 防衛であ り、 それはとくにパラノイアの 場合に働くが、 迷信のような『正常な. 考 様式の場合にも 見られる " 。 義であ るが、. 」. ( 『精神分析用語辞典』の「投射、. ]. 思. 投影」の 頃 ) また、 同様の定. 「主体が、 思考、 情動、 欲望などを、 それとして同定することなく、. 外界に位置づ. ける操作。 したがって主体はそれらが、 外部に、 客観的に世界の 一つの様相として 存在している と 信じている. "。. 」. ( 『精神分析辞典』の「投影」の. 頃 ) こうした定義は、 われわれの常識的な 言. 葉の用法に近いが、 映像の投影、 たとえば映画において 前提となるスクリーンの 存在がなおざり にされる傾向があ る。. フロイトは『自我とエス』の. 中で、 一見奇妙な定式化を 行い、 この投影面について 考察した。. 「自我は何にもまして 身体的自我であ り、 単に表面の存在であ 投影であ る " 。 」また、 1927 年以降の英語版では、. るだけではなく、 それ自身表面の. フロイトの認可のもとに、. 以下の注が付加さ.
(7) 43. 絵画における 身体イメージについて. れている。 「換言すれば、 自我は究極的には 身体的な感覚、 主として身体の 表面に由来する 感覚 から生まれてくる。 自我は、 身体の表面の 心的投影として、 そして以上で 見てきたように、 心的 装置の表面を 代表するものとして 考えることができる. 以前に、 それらを受け 入れる、. あ. " 。 」あ れこれの表象や 情動が投影される. るまとまりが 投影によって 形成されなければならない。. えを発展させたのが、 ディディエ・アンジュ. この 考. 一であ る。 アンジューは、 「精神現象が 生物的身体. と社会的身体の 双方に依託されていると 仮定する一方、 そうした依託関係は 相互的であ るとも 仮 定 したい。, 」と述べ、 心的過程が身体に 依託するものであ ることを強調している。 ここで、 依託. (etayage). とⅡ平 ばれているものは、. と 対象を依存するというフロイトの. 性欲動が身体の 生命維持活動に 関わる身体器官に 充足の手段 考え方を用いたものであ る。 彼は 、 先にあ げたフロイトの. 我に関する記述から、 自我が皮膚に 依託しつつ発展するという 考えを「皮膚 言令. 一. 自. 自我 (Moi-peau). 」. として展開する。 さて、 アンジューは、 皮膚 一 自我について、 「発達の初期段階にあ る子供が、 身体表面の経験. に 基づいて、 自分自身を心的な 内容を含む『自我』として. 表現するのに 用いる形象であ る。,」と. 規定し 、 続いて、 その機能をおおまかに 三点あ げている。 「皮膚の第一の 機能は、 哺乳や世話、 話しかけなどのもたらすすばらしい. 充足感を内部に 収めておくための 袋 としてのものであ る。 第. 二の機能は、 外部と内部の 境界を設定し、 外部を外側に 保っておくための 境界面としてのもので あ. る。 これは物であ れ人であ れ他者に由来する 攻撃や渇望の 侵入をふせ. 三の機能における 皮膚とは、. ロと. ぐ 障壁となる。. 同程度に、 他人とのコミュニケーションや. そして 第. 意味あ る関係を樹立. するための基本的な 手段であ り場所であ る。 さらに皮膚とは 他者によって 残された痕跡を 刻んで おく表面でもあ. る. " 。 」内容物を包み 込む外板. (enveloppe)、 内外を分かつ 防壁、 情報のインター. フェイ ス であ ると同時に情報をフィルタ 一によって漉し 取り、 定着する記載の 表面、 と言えよう。 こうした記述に 続けて、 アンジューは、 共通皮膚のファンタス ム (lafantasme. commune) ム. という概念を 提出している。 アンジュー は 、 幼児期に遡行して 見られるファンタス. として、 「四肢を切断された 身体 (co印 sdemembre) 」のファンタス. た 身体. d,une peau. ム ではなく、. 「皮を剥がれ. (co印 secorche)」のファンタス ム が基本的だとしている。 これは、 「同じ皮膚が 同時に幼. 児と母親との 両者に属している。 これは二者の 共生的な絆を 形象化した皮膚であ る」、 「幼児の分 離 と自立という 過程が、 この共通の皮膚の 断裂を引き起こす」と 言われるように、 皮膚 一 自我の 形成によって 消去. ( 内面化 ). されねばならないが、 しかし、 その前提として 必須のものであ. 6 %0 自他の未分化、 母子の融合というように、 子どもの初期状態が 語られるが、 この共通皮膚とい う概念は、 これをあ る程度具体的に 描写するものであ ると思われる。 共通皮膚から 自らを分離し. ない限り、. 「私」はあ. りえない。 しかし、 共通皮膚が存在しなければ、. そもそも感情や 感覚を記. 載するための 身体の可能性が 存在しないことになる。 存在感の基盤であ る共通皮膚を 自分の皮膚 として形成することが 成長であ ろう。 そのことによって、 苦痛や快感を 位置づけうる 自分の身体 が獲得される。 しかし、 断裂の痛みは、 皮膚 一 自我に孔をうがち 続けるかもしれない。 この痛み を. 回避するために、. あ. るいは、 自分自身ではもちこたえられない. からもこの共通皮膚のファンタス. ム は存続することになる。. 動揺を鎮めるために、 成長して.
(8) 44. Ⅱ. 、 9チ. 月き. m. ヨ. ㎝皮膚 一 自我』Ⅰ 995 年の第二版で 序文を書いている、 エヴリーヌ・セショ 一によれば、 アン ンュ一 の 仕事は 、 ラカンによって 批判され、 自我心理学によって 戯画化された「自我」と「身体」 を 復権. させようとするものであ. った。 その背景には、 70 年代において、 精神分析に携わる 人々. が、 自己愛の病理、 境界症例と呼ばれるものに. 関心を深めていったことがあ. そのものの境界、 内外の境界が 問題視されることになるのであ. る。 そこでは、 自我. る。, 。 ). こうした皮膚 一 自我のレベルでの 不安が、 20 世紀の芸術表現において、 重要な面をもっと 思. われる。 長い迂回になったかもしれない。 われわれは、 先にクール べと セザンヌに見た 19 世紀 における絵画空間の 変容の中に、. あ. れこれの形象の 投影から、 投影のための 場そのものの 練り上. げが見られると 考えた。 これは、 アンジュ一における 皮膚 一 自我、 さらには共通皮膚のファンタ ス ムと 類上ヒ的に考えることができるのではないか。 少なくとも、 西洋の絵画が 何らかの意味で. アリズムを志向し、 そのリアリズムは 投影 ニ 投射を忌避するものではなく、. リ. むしろその徹底操作. (perlaboration)であ ると考えることができるのではないか。 しかし、 アンジュ一の 論は、 視覚 との関係で言えば、. あ. まりにも比倫的なものにとどまるだろう。. 覚、 味覚、 筋肉、 苦痛等、 比倫的な外板. は ついてさまざまな. アンジューは、 音響、 温度、 嗅. 症例をあ げているが、 視覚の覚板. に. ついては、 サミニアリ や ジェラール・ボネを 参照するよう 指摘するにとどまる。 6。 もっとも、 ア @ノンユー .。 も. 「夢のフィルム」に. 言及することで、 基本的な方向は 提出している。 夢の重要な機能. は、 皮膚 一 自我の修復であ るとするのであ る。 これは、 とりわけ、 外傷を受けた 者の夢に顕著で あ. る。 夢は願望充足であ る以前に、 日中の刺激、 睡眠中の刺激、 欲動等々の形象を 感光. し 上演す. る 場として、 まず、 孔を修復されたフィルムニスクリーンとなることが必要なのであ る. 3. バ チル なもの. サ ミニアリは、. 『バナ. ル なもの』という 著作において、 現代芸術について 興味深い指摘を 行っ. ている。 バナ ル なものとは、 平凡で、 あ りふれて、 月並みなものという、 それ自体月並みな 概念. であ る。 現代の日常,性 そのものと言ってよいかもしれない。 「そもそもバ チル なものが生まれる にあ たっては、 無気味なものにおいて 親しいものと 見知らぬものを、 その違いにもかかわらず、 内密に結び付けていた 関係が 、 親しいものを 利するために、 突然断ち切られる。 なるほど気づか れぬ仕方でではあ るが、 連続的な財下の 運動によって 、 親しいものは、 それが自己自身に 同一で あ. ると同時に見知らぬものから. 区別されるものとして 明確化されるに 従って、 バナ ル なものにな. っていく。 したがって、 バナ ル なものとは、 親しさの. 力. によって、 見知らぬものと 無縁になった. 親しいものであ る。 そして、 バナ ル なものの中に、 判決が記入される。 すな ね ち、 バナ ル なもの は バブルなもの、. 見知らぬものは 見知らぬものという、 二つの同語反復が 表す二分法が 完成され. るのであ る。 " 」無気味なものは、 内部の過程が 外部に投影され、 それが外部そのものの 知覚. と. なることで生じる 情動であ る。 そこでは、 主体の投影から 切り離された 世界の知覚と、 想像的な 投影が共存し、 なおかっ、 両者の限界が 流動的になる。 これに対して、 バナ ル なものにおいては、 投影の能力そのものが 失われている。 サミニアリに も 言えるものであ. ょ れば、. 現代の社会に 適応した人々の 病理と. る。 現実の世界と 想像の世界が 峻別され、 現実はすでに 完成したものとして、. 少なくとも予見可能なものとして、 文字通りに受け 取られ、 機械的に再生産される。 もちろん、 われわれの周囲を 見渡せば分かる よう に、 さまざまに彩られた. 想像的なもの、. 比 倫 的なものが 存.
(9) 絵画における 身体イメージについて. 45. 在しないわけではない。 逆に、 あ まりにもあ ふれ返っている。 しかし、 想像的なもの、 比瞼 的な ものが必ずしも 投影と結び付いてはいないのであ なかった 20 世紀の芸術家はいただろうか。. る。 平凡な分析であ るが、 こうした印象を 述べ. われわれは、 ミニマリズムに 対するフリードの 反論. に戻る。 ミニマリズムの 作品はバ チル なものと同じ 位置にあ ると言えるだろう。 そこに人間の 投 影 があ ることがあ まりにもリテラ ル なので、 投影が有効に 機能していないのであ る。 だが、 もう. 一度問う必要があ るだろう。 確かに、 グ lJ ンバーバ や フリードが強調する 作品の質はもはや 維持 されないかもしれないが、 バナ ル なものに関る 芸術の作業は 何をなし. ぅ. るのか、 と。. サ ミニアリは、 ダダイスムと 結び付く 20 世紀芸術の二つの 流れ、 すな ね ち、 アンドレ・ブル トンのシュルレアリスム 、 及び、 シー モン・ル一セル、 マルセル・デュシャン、 アンディ・ウォ 一 ホルらを 村 上 ヒ. して、 次のように述べている。 「バナ ル なものの美学の 可能,性について、二つの. 理論的立場からの 解答が考えられる。 これらは、 多かれ少なかれダダイスム 的 ら 生まれ、. あ. ( 響きと怒り. ). か. 無関心 = 無 差異を存在の 啓示と考える 立場であ る。 第一の立場は、 ブルトンの立場で. って、 超現実を無限に 探求する中で、 バナ ル なものを潜在内容の 顕在内容への 変形として捉え. るものであ る。 分析の領 艶 はかくして拡張される。 しかし、 決して乗り越えられるわけではない。 第二の立場は 、 ル ー セルが開始し、 デュジャン、 ウォーホルが 引き継いだものであ って、 リテラ. ル なものの中にバブルなものの 本質そのものを 見る。 創造行為はじょじょに 全面的な機械化へと. 向かってゆく。 その一方で、 ユーモアと反復が 主体の存在を 感じさせる。 投影は 、 相も変らぬ現 実のあ ちこちに侵入してくるだけでは 満足しない。 この上なくつつましい 手段を用いて、 投影は 別の現実を作り 出す。 それは、 別の対象、 別の空間、 別の時間なのであ. る. " 。 」「バナ ル なものの. 美学、 それは絶対的な 主体性の美学であ り、 主体なき主体性の 美学であ る。 それはまた、 客体な き 客体性の美学でもあ. る M。. 」. 、ンュ ルレアリスムは、 バナ ル なもの、 たとえば、 偶然出会ったオブジェへの 偏愛を美術の 中に. 導き人れた。 これは、. 「解剖台の上におけるミシンとこうもり 傘の出会い」といった、 恐竜的な. 言葉の結び付きからなる 隠楡が 、 安易な 隠楡 詩法によって 磨耗した結果、 新たな偶然性を 求める ことから取り 入れられた。 サミニアリが「潜在内容から 顕在内容への 変形」と言っているように、 夢 、 失錯行為、 機知、 症状といった、 フロイトが研究した 一連の事象と では、 一見無意味に 見える顕在内容が、 圧縮、 移動といった. 上ヒ. (無意識の ). 較 可能であ ろう。 そこ 作業を通して、 主体の. 欲望の一貫性を 保証する潜在内容へと 結び付いている " 。 この事情が、 シュルレアリスムを 20 世. 紀の芸術運動の 内に数え入れることへの 抵抗の原因であ った。 一方、 同じ事情から、 シュルレア リスムは、 20 世紀後半の広吉・ 宣伝の主要な 様式になることができた。. しかし、 その場合、 顕. 在内容と潜在内容を 結び付ける欲望はいかなる 主体によっても 引き受けられていない。 あ るいは むしろ、 遍在する希薄な 主体によって 引き受けられてしまった 、 レ. と 言った方がよいかもしれな. Ⅰ。. 後者の流れは、 シュルレアリスム 的試みが結局無効とならざるをえないのを と 言ってよいだろう。. ( ただし、. 受けて、 生まれる. クロノロジー 的な意味ではない。 ) バナか なものの本質は、 リテ. ラル なものであ って、 その背後に何も 隠してはいない。 2(H世紀芸術に関する 感受,性は、背後に.
(10) 46. 小野. 康男. 見出されるとき、 傷つけられる。 意味の複数性、 異質性、 あ るいは文脈に 関する さまざまな論争を 思い起こせば、 そこでは単なる 論理以上の動機が 働いていることが 感じられる だろう。 サブカルチャ 一において も デイビッド・リンチの 映画のように、 比倫的で意味の 厚み をもっているように 思われるものが 画面いっぱいに 撒き散らされながらも、 意味の結び付きが 希. 何らかの意図が. 薄 なものが人々に 支持される " 。. アンディ・ウォーホルの 作品においては、 ジャクリーヌ・ケネディ、 エリザベス・テイラー、 マリリン・モンロー、 エルヴィ ス ・プレスリーといった 1960 年代アメリカを 代表する 顔 たちが、. 際限なくシルク・スクリーンで 反復される作品が 知られている。 これらは、 交通事故を扱った 「,惨事」のシリーズ 同様、 何らかの熱狂を 引き出すのではなく、 無関心,性を生み出す。 サミニア. リは、 「ウォーホルにおいてバ チル なものは、 感性の形式としての 無関心,性を意味している。 そ こにおいて、 対象の現前十主体の 不在、 あ るいは、 対象の不在中主体の 現前が明らかになる 53 」. と. 述べている。. 際限なく反復される 顔 たちは、 それを現前と. 捉えれば、 主体ウォーホルの. 不在を. 意味しているし、 反復によって 無化されていると 捉えれば、 主体ウォーホルの 圧倒的な現前を 意 抹 している。 主体の現前十客体の 不在、 主体の不在中客体の 現前。 いずれかなのであ る。 とりあ えずこの現象的な. 指標は、 現代芸術の散乱を 整理する手掛かりにはなる。 さらに、. 奥深いところ. で 両者は合体している。. サミ ら、. = アリ は、 対象の無化の. ウォーホル美学における 欲動は単に純粋なだけではない。. ロ度に近接している。 の. 中で、 剥き出しの純粋な 欲動が認められると 言う。 「しかしなが. あ. るが、 それら る。 引無は ついて 鏡舌 に語る、 あ るい. この空虚な備 給 が無限のイメージに 投影されているわけであ. イメージは結局のところ 同じ一つのイメージなのであ. は、. それは常に最小であ り、 興奮のゼ. まりにも語りすぎるウォーホルの. 語録を参照するまでもな. い だろう。. この事態について、. 世界は、 不在であ ると同時に現前している 顔 たちの世界であ る。 それらの顔は、 お互いに取り 替え可能であ り、 同じ記号を与えられている。 なぜなら、 それらの 顔は単なる代替物としてしか 存在しないからであ る。 いかに創造行為が 機械化されよちとも、 無 駄であ る。 創造行為が常に 、 形 なきものに形を 与え、 自分自身であ ると同時に最初の 対象であ る あ る一つの顔を、 喪失を越えて、 見出そうとする 度覚れた労苦であ る事,清に変わりはないのであ サミ. = アリ は 、 「ウォーホルの. る。。」と述べている。. ウォーホルにおいて、 顔の問題が出現している。. 「自分自身であ ると同時に最初の 対象」とい. う表現は、 文字通り受け 取る必要があ る。 それが、 顔についての 議論の双提となるからであ D. .W. ウィニコットは、. 『遊ぶことと 現実上に収められた「小児発達における. 母親と家族の 鏡. としての役割」という. 論文において、 「個人の情緒発達において、. と 述べ、. 行った。 母親の胸に抱かれた 子どもは、 母親の胸ではなく、. 重要な指摘を. 差しを向けているという. 観察から、 ウィニコットは、 「赤ん坊は、. 鏡の先駆は母親の 顔であ. 関係があ る. る. 円. 母親の顔に眼. 母親の顔にまなざしを 向けて. いる時、 一体何を見ているのか。 赤ん坊が見ているのは、 通常自分自身であ ると思 う 。 別の. 方をすれば、. る。. いい. 向けている時、 母親の様子は、 母親がそこに 見るものと (ぬ emotheHslookingatthebabymd whatshe @ookslike isrelated towhatshe sees 母親が赤ん坊にまなざしを.
(11) 絵画における 身体イメージについて. 47. therne)" 」と述べている。 子どもが母親の 顔を見るとき、 そこには子どもに 対する優しさや. 心配. や怒りの表情が 映っているだろう。 それは子どもの 状態そのものであ るかもしれない。 少なくと も. 、 それがウィニコットの 言う「ほぼよい. (9oodenough) 」母親の顔であ るならば。. 心理学者のルネ・ ザゾ は、 鏡像であ れ、 写真であ れ、 視覚的イメージの 中に自分自身を 認める ことが、 一定の時期になれば 自然にできると 信じることを、 「自己鏡像錯覚 (illusion autosp 色 。Ⅲ aire)」、 「自己観察錯覚 (il Ⅲ sionauto-scop 出 ue) 」、 あ るいはもっと 簡潔に「鏡像錯覚. (illusionsp 。Ⅲ aire)」と呼んでいる る. ぬ. 。 確かに顔は人体にあ って最も同定が 容易であ ると同時に. 困難な部分であ る。 顔は自分を除いてあ らゆる者から 見える。 われわれは自分の 顔に触ることが できる。 しかし、 自分の顔を直接自分で 見ることだけはできないのであ る。 とはいえ、 われわれ はいっの頃 からか、 鏡の中の、 写真の中のあ の顔を自分の 顔と同定して 不思議に思わないのであ る。 サ. ミニアリは、 当初子どもが 顔を顔として 捉えることができない 段階は、 両眼による視覚が 可. 能になるとともに、 すぐさま乗り 越えられるとし、 その次の段階として、 母親が子どもに 顔を与 える段階が続くと 言う。 「鏡の経験以双、 早い時期に打ち 立てられる生き 生きとした交流によっ て、 母親が子どもに、 子どもが見ている 顔 そのものをもつという 幻想、 母親の顔であ りながら. 自. 分の顔でもあ るような顔をもっという 幻想を与える。 その限りで、 母親はこの乗り 越えの役割を 引き受けるのであ り. る. " 。 」子どもは母親の 顔を自分の顔としてもち、. 、 またしたがって 自分の顔であ るという一次同一化. すべての顔は 母親の顔であ. (ide㎡市caはonpnm ㎡re) の段階を経ると、. サミニアリは 考えるのであ る。 このことから、 サミニアリは 、 ルネ・ A.. スピッツの ハケ月 不安、. すなわち人見知りの 始まりについて、 母親から置き 去りにされる 分離不安というスピッツの. 解. 釈㏄とは異なった 見解を示す。 子どもは、 見知らぬ人の 存在に対して、 母親がいないとき 以上に 、 母親が見知らぬ 人と一緒にいるときの 方が強く不安を 感じるのであ る。 子どもは、 神経組織の成 熟によって、 母親の顔と見知らぬ 人の顔の差異をすでに 捉えるに至っている。 それはまた、 一次. 同一化の終わりをしるしづけ、. 母親の顔をした 自分自身の顔を 喪失する危機でもあ る。. 先の アンジュ一の 考えと合わせて 考えるならば、 唯一の顔から 自分自身の顔への 移行は、 共通 皮膚の段階から 皮膚 一 自我の段階への 移行の視覚ヴァージョンだということになるであ. ろう。 ウ. ォーホルの場合は、 あ まりにも不在であ ったり、 あ まりにも現前していたりした 母親によって 、. こうした展開が 妨げられたのかもしれない。 サミニアリが、 通常、 compulsionde. もに、 反復強迫 (Widerholungszwang) (automaはsmederepe. は億on) 」と「自動症の. ㎏p ま田 on とと. の仏語訳として 用いられる「反復の 自動 症. 反復 (repe伍 ondeautomatiSme). 」の違いを述べるの. は的を射ているだろう " 。 反復強迫では、 かつて意味に 接近しえなかった 何かが意味への 結び付. けを求めて、 反復を起動する。 しかし、 自動症の反復において、 結び合わされなかったものは、 結合と解離のリズム 的形式そのものであ る。 求められているのは、 ここでは、 母親そのものが 失 われた対象として 求められているというよりも、 その顔を投影することのできるスクリーンのあ りかの確認が 求められている。 共通皮膚から 皮. 一 自我が形成されるにおいても、 唯一の顔から. 自分の顔が獲得されるにおいても、 いったん一次同一化的形象が 消去されねばならない。 そして.
(12) 48. 小野. 康男. 消去されたものが 心的内容として 内面化されるためには、 それを映し出すスクリーンのごときも. のが必要となる。 アンディ・ウォーホルの 作品は、 無傷にとどまる 唯一の顔にとどまろうとする、 それ自体袋小路的な 実践であ ろう " 。 ギイ・ラヴァレは、 このスクリーンを 半透明のものと 考え、. 投影の病理として、 スクリーンがあ まりにも不透明になって 、 幕の下に現実が 隠され、 誰も何も 見えなくなる、 投影活動の禁止と、 スクリーンがあ まりにも透明となって、 その空虚の中に 、 地 (根拠 ). のない形象が 満たされる、 投影活動の過剰を 指摘している " 。. 現代の芸術の 状況はこの二極の. 間で、 中間を埋めることなく、. 反転を繰り返していると 思われ. る 。 現代は 、 確かに「芸術が 偉大であ った時代引ではない。 以上、 アンジュー やサ ミニアリに. 依拠しつつ考察してきたものは、 や. ポリゴンで皮膚の. ヘッドホンを 手離すことなく 音響の外板 に 包まれ、 ベジェ曲線. 表面を編んでいく。,現代の人々の 日常に関るものであ ろう。 しかし、. 芸術 活. 動が、 自ら限界にまで 赴く活動となることによって、 われわれの思考を 促し、 ささやかなレベル で日々営まれている 活動に意味を 与える支えとなることができることには. 変わりないだろう。. れ . 圧肝. 9 臨 性 。 Ⅰ 在 乱る椴 干,し依ひ 空間 現 S 評 8 批 て 9 on Ⅰ 1 9 麒 n とい て レ頒潟 雑訴 対 9 5 , Ⅰ O C Ⅰ n レ ゆ % ひ r s O v 氏周 で e せ ン 0 19 の 二 仙 人 せ ひ ム ラ e t . イ 4 z 酎午ズ ぃ C 卸 g け G べ ク 絵的 Ⅰと thP e の㎎ ム . Ⅱ. ネ t ラ. ﹂. r ド. を n.
(13) 49. 絵画における 身体イメージについて. l3Th eerrydeDuve,C. 3,1996,EdiⅡonsDis〃oir , pp70-72 , 。 「ディスカッション : ミニマリズムとポップ 以降の美術論」 (杉 m 悦子訳 ) 、 咄評 空間コ前掲 号 、 177-178頁の ロザ ンリンド・クラウスの 発言と 191 頁のマ イ ケル・フリードに よ る「後記」 テ. Ⅰ. れを移サ G. りク. な色 れサれ ん,S. が は Ⅰ れみピ. ど. Ⅰ. 笘升ケセえ. を参照のこと。 ," 松浦寿夫、 「盲目論」、 小林康夫・松浦寿輝 編 『イメージ』所収、 2000 年、 東京大学出版会、. 21 色217 頁。 217 頁の注には、 「ここで批判される 演劇性とは他ならぬ 分離記号の作用形態以覚. の何ものでもなく、 それはつねにすでに 近代絵画の生産の 構造に作用し、 浸食しているとは 考 えられないだろうか。 むしろ、 このような徴候の 駆逐という フア ンタス ト. の組成を支えているかのようですらあ. ム がフリードのテクス. る」とあ る。. ,。 フリード双掲論文、 93 頁。 " 同所。. ls r デイスカッション : ミニマリズムとポップ 以降の美術論」、 『批評空間』双掲 号 、 173 頁。. lgGeorge Didl-HubeⅡn 皿 , C q ぴり を. 移0が. S. ひ. 0 ノ 0 打 S,c り. q 打 色移0 ぴ $ 彫まり竹ぱ 9, Ⅰ 992,1%s Edl 社ons. de Minuit,. p.88. ,。 同所。. デ. イ. ディニ ユ ベルマンが俳頭に 置いているフロイトの「無気味. さ. (das. Unhe ㎞lichkeM 」の仏言き訴 、 は 、 通常、 mnqu 掩億ntee 比angeteが使われるが、 両者は同義となる。 " 司書、 96 頁。 ,,この論法がデイ ディニ ユ ベルマンの定型であ り、 おそらくブランショの『文学空間ロ. 以来フラ. ンス思想に付きまとう、 イマージュ解釈に 関わるということだけ、 差し当たり指摘しておく。 ,, Colp ㎞双掲 書 67-73 頁を参照のこと。. 24 Ⅵ chaelF hed,Cou 「. 乃 etSRgof恭肋,. 1990 , The Univers吋 ofC Ⅲ cago Press,23も254 頁において、. リードはクールベ 研究家として 名高いエレーヌ・トゥーサンなどの ,,周書、 50 頁。 ," フリードのクールベ 論については、 ED論、 「運動の場」、 ォ. Ⅱ CONICS. フ. 研究を紹介している。 映像学 42L 、 1990 年、 日本. 映像学会、 11 ユ3 頁を参照されたい。. ,,絵画における 鏡像の問題については、 ". ミシェル・ テヴォ Ⅰ『不実なる 鏡. 』. ( 岡田混同・青山勝. 訳 ) 、 1999 年、 人文書院も参照されたい。 シドニー・ ガイスト、 『セザンヌ解釈Ⅱ ( 浅野春男 訳 ) 、 1996 年、 スカイドア。 ぬlgle,lnC. 2gJeanAnouye,,.l%depassementdelanos pp. 07-Ⅰ 32. Ⅰ. Reuni. まズこ、. 色名 己 れれ せ. 0 がⅠ0 タ佛れ加はピれ / しば, 982,Cntenon,. Je 皿 Arrouye, ム l mom a 窯 ⅠⅠeetlanue,',in Sa れ. 毛. ァ竹. tせ rⅠり c 亡り. Ⅰ. 竹Ⅰ. Ce名Ⅰ免れ. 召. Ⅰ. 990,1990.. Ⅰ. 990, 1990 ,. n‥es[usees]ationaux,}p , 215-223. 30 たとえ @ま、. ond Jem,. れ. L,. くく. ob feト ン Saint 色V ctolre , in Sa. Reunion desmuseesnationaux,pp.20. Ⅱ. り. Ⅰ. 伊毎加. -ⅡⅠ ctnⅠが ぽ. Ce 之Ⅰチケチ. 色り. 沖t2Ⅰ 3. み を. Ⅰ. Ⅰ. 蛭. 31T.J.Claark,"Freud,sC さ zanne,,, nI@移 Ⅱisi z T0oぴ c ん :MMoo け は 笏侭佛 Ⅰ. Ⅰ. せ. の移. d 九九 %sc が用材f%,Terry Sm. テ出 (ed.),. 997. Ⅱユ@leUniversiゆ ofChicago Press,p.37.. 32Je ㎝ -Frm oisLyot 肛 d,D0Sdゆ o5 fz 俺タか むⅠ 0 れ竹小, 1980 , ChhsⅡ㎝ BourgolsEditeur,p.83. " 小林康夫、 『青の美術史』、 1999 年、 ポーラ文化研究所、 107-120頁を参照されたい。 岱. 丸. Ⅰ. クールベ、 セザンヌに加えて、 マネに言及することで、 他のヨーロッパ 諸国と比べて 例外的な. 進展を見せ、 しかしながら、 のちの時代において 範例的となった、 フランス美術の 特性につい.
(14) 0 レ 確度り 伽披 8面 ル実て 3 5 d Ⅰヰム n U 純 す 平 Ⅲ 茗 付し 身一 伐敗 る ぬは、 ● 1 自 白 み 退 い S ょ、関 て な 彼 ﹃ の ︶ ヒ ヒ Ⅰ ︶ ヰ へ T Ⅰ し 元 。 す で 貰 次 る ⅠⅤ れ ン 一 二 な の 安 観 、 12 も り て ネ 論 る る と じ。 土、 7 惑 う 7 Ⅰ 9 て こ し お と めて 値て し 体 った っ 価 白 主 か 冊 目 生口 、ょ に な れ 動 と と き ノこ 情を と。 へ こ で エ 間 の の ィ乱し ︵ Ⅰ 子 典 ﹄ テ M と 空 そ と 9 元 。 こ Ⅰ ア 次 う る p にあさ ︵ d 二 る れ ル 叩 る 8 戸 青 れ い 、土 た社 m オまめ 杣 G Ⅰ ⅠⅠ され舵 2アよ n a と に Os ﹂ 丸 機り ま |、九 力金。 廿 ス ユ ン ポ かっこ荷役ねの ユ ン て形のた サ㏄験きう頁 お丈 ㌍㏄ のⅡ乾何 甘托 ㏄仰穏め印駐 37. 康男 小野 50.
(15) 5Ⅰ. 絵画における 身体イメージについて. 頁 8 6 書 掲. こ応 頁 、 反 ん@ るリ @ @ イ ー Ⅰ 壮 Ⅰ 156 Ⅰ ネ 、土 ユ ラ D碍 版 p、 頁 出 9 術 山 Ⅰ 山 立 ⅡⅠ 局 年 一 79ヴ Ⅰ 9 ノ Ⅰ Ⅰ n 訳 ネ @ Ⅰ@Uま、 雄 雄牛 sど ︵ @ Ⅰ @︶O 実 と こ ぶ. ㏄笘防㏄抑㌍的㏄. の リ付与群 るド ㎝け ン キノ Ⅰ 上・アをや 二 完 ネ S 付 ア 。 だ 、 ヒ つ 、の ュ覚ン、視り改ソ よル る あ で 名 題 , の 9レ. こ と る す.
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