山東省の経済発展と沿岸都市の煙台・青島・威海 :
1860∼1937年を中心に
著者
欒 玉璽
雑誌名
経済学論究
巻
62
号
4
ページ
57-96
発行年
2009-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/1764
山東省の経済発展と沿岸都市の
煙台・青島・威海
∗
1860
∼
1937
年を中心に
The Economic Growth in Shandong is
due to the Development of the Coastal
Cities of Qingdao, Yantai, and Weihai
欒 玉 璽
After the Opium war in 1840, the advance of the great powers of Western Europe and the conclusion of each treaty of commerce opened ports like Yantai, Qingdao, and Weihai. These coastal cities lie on the Shandong peninsula and gradually became open to foreign trade. As a result, trading at Shandong made great progress. After 1897, the implementation of a modern transportation system developed and industrialized the Shandong distribution market. Qingdao became the center. It forced Qingdao to change from a traditional economic system to a modern market economy. This change process reflects not only the efforts of the bureaucrats, managers, and farmers, but also the effects of capital, management ideas, and the latest technologies that the modern capitalist countries, like Germany and Japan, had adopted as the reasons that Qingdao and Shandong modernized so quickly.
Yuxi Luan JEL:N95, O18 キーワード:山東省、沿岸都市、輸出入貿易、経済発展
はじめに
山東省は北緯34度22分∼38度15分、東経114度19分∼122度43分の 間にあり、半島と内陸が相半ばしている。山東半島は中国最大の半島で、渤海 * 本稿の作成にあたって、2 人の匿名のレフェリーの方々から有益なコメントを頂いた。記して感 謝申し上げたい。と黄海の間に本土から東に突出し、北は渤海海峡を隔てて遼東半島に向き合い、 東・南は黄海を隔てて日本・朝鮮半島を望むことができる。この半島の3,000 キロメートル以上の海岸線には天然の優良な港湾が数個あり、隋・唐時代から 登州港・莱州港の両港は遼東半島・朝鮮などの地域との通商貿易港であった。 遣隋使や初期の遣唐使も朝鮮半島西岸から黄海を横切って山東半島に上陸して 古都の長安へと向かった。明・清時代になると、山東沿岸の禁漁政策の実施に より、港湾の通商貿易が次第に衰退していった。1840年のアヘン戦争後、西 欧列強の進出と各種通商条約の締結によって、再び半島沿岸の煙台・青島・威 海・龍口なども次第に開港された。 煙台(芝罘)は1858年に締結された「天津条約」に基づき1862年3月に 開港された。この開港は、天津港とともに中国北部の通商貿易港となり、山東 省および中国北部の輸出入貿易の発展に大きな影響を与えた。しかし、煙台の 都市経営者に近代的な経営理念が不足していたため、煙台港の輸出入貿易およ び都市インフラ整備は相対的に遅れ、新興都市の青島に越えられた。青島(膠 澳)は、中国とドイツの間に締結された「膠州湾租借条約」に基づき1898年 に開港されて以降、ドイツ資本と日本資本の急速な進出によって、青島の都市 インフラおよび近代交通機関の整備とともに、青島を中心とする山東省商品流 通市場の形成と工業化の展開が本格的に進められた。 山東半島の端にある威海(威海衛)は1895年の日清戦争の戦場となったた め、威海港と威海城はともに大きな被害を蒙った。1898年7月にはイギリス に租借され、1930年までの32年間、イギリスによって支配された。その32 年間に威海の輸出入貿易と都市インフラの整備が進められたが、その経営政策 の不首尾と資本投入が制約されたため、著しい発展は見られなかった。 龍口港は1915年に清朝政府によって築かれた港であり、最初の数年間は速 やかに発展していったが、その後の港湾設備および経営管理制度の制約のた め次第に衰退し、わずか20数年間運営されただけで停滞した。登州・莱州の 両港も龍口港のように次第に停滞した。このように山東半島における煙台・青 島・威海の3港は山東省の輸出入貿易の担い手として大きな役割を果たした が、その経営主体がそれぞれ違っていたため、その特徴と発展状況もかなり異
なっていた。 本論文は地理的位置、自然条件、資源状況および周辺環境などがほぼ同様 である煙台・青島・威海の3都市のインフラ整備、都市経営管理政策、貿易・ 産業発展概況などを比較しながら、その近代経営管理理念・租借地経営政策の 相違を明らかにする。そして、これらの相違がもたらしたそれぞれの特徴・結 果、およびそれによる山東省全域の経済的・社会的発展に与えた影響をも検討 する。
1 煙台の開港とその貿易発展
1) 開港と対外貿易の発展 煙台は山東半島の東北部、北緯37.5度、東経121.4度の位置にあり、遼東 半島と相対して渤海湾の入口を抑え、中国北部の海上交通中枢の1つであっ た(図1 山東半島周辺各港位置図を参照)。煙台には明朝時代に渤海湾沿岸 の衛戍地として防倭所が設けられ、北端の岬の小丘に倭寇の襲来を告げる狼煙 台が設置されたことから、この名が付けられた。開港前にも煙台は中国南部の 上海港・広州港・厦門港および中国北部の天津港・営口港などとともに国内貿 易の港であったし、周辺の青島港、威海港、登州港、莱州港などとのジャンク 貿易の港でもあった。1858年の「天津条約」に基づいて、煙台海関が設置さ れて以降、外国人の居住、外国船舶の往来などが認められ、1862年、煙台は 正式に中国の通商貿易港として輸出入貿易に従事するようになった。 煙台開港後、多数の中国商社、商人が煙台に集中すると同時に、外国の海運 会社、商社、銀行も煙台に進出していった。1882年までに煙台で設立された 外国商社は、イギリス資本・アメリカ資本による9社で、おもに海運・貿易・ 保険・金融代理業務に従事していた。1889年ごろ、日本郵船・大阪商船の日 本─煙台航路の開設と同時に、日本商社も煙台に進出し、1891年までに日本 資本の2商社が設立された。このように1901年までに26の外国商社が設立 され、その内訳はイギリス7社、ドイツ4社、アメリカ3社、フランス2社、 日本10社であった1)。この時期、日本商社は、煙台との距離上の有利さや低 1) 航業連合協会芝罘支部(1939)『芝罘事情』航業連合協会芝罘支部、218 頁。図 1 山東半島の青島・煙台・威海港および周辺各港の位置図 出所:アジア歴史資料センター『日露戦争関連用語集 4 山東半島』国立公文書館。 運賃といった利点を活用して、煙台市場でイギリス・アメリカ商社と競合する ようになっていた。1902年には1年間に17の外国商社が煙台に進出し、その 中の16社が日本商社であった。同年末までに煙台における43の外国商社の うち日本商社が26社で、煙台の外国商社総数の6割を占めていた。 これらの商社の中では最も早く煙台に進出したのは、イギリス商人福開森 (H. H. Fergusson)の創立した福開森貿易商社(1861年)であり、その後イギ
リス資本のハチソン商社(Huchison Cornabe Eckford & Co., Ltd. 1864年)、
仁徳商社(James Mcmullan & Co., Ltd. 1893年)、ドイツ資本の 斯商社
(O.H.Anz & Co., Ltd. 1886年)、ロシア資本の士美商社(L. H. Smith & Co.,
Ltd. 1908年)、アメリカ資本の美孚商社(Standard-Vacuum Oil Company)、
日本資本の高橋商事(1886年)、三井物産(1887年)、岩城商会(1897年)な
ども相次いで進出した。これらの商社は輸出入業務に従事するだけでなく、海 運・保険業務および現地工場も経営していた。福開森商社が煙台に進出した主
要目的は、イギリスと煙台との直行便の開設であり、1864年9月に石炭・綿
台に到着した。それが煙台最初の国際航路であった。三井物産はおもに石炭・ 朝鮮人参・一般商品の貿易と保険業務に従事し、中国東北地域の撫順炭鉱で採 掘した石炭と朝鮮人参を煙台で販売する唯一の商社であった2)。 また、これらの外国商社は本国銀行の代理経営業務にも従事していた。最初に 銀行業務の代理経営をしたのは、1876年に香港上海銀行(Hongkong Shanghai Banking Corporation、1863年設立)の業務を代理したイギリスのスワイヤ
商社、その後、チャータード銀行(the Chartered Bank of India, Australia,
and China、1853年設立)の業務を代理したイギリスのマセソン商社、独華 (亜)銀行(Dcutsch-Asiatische Bank、1889年設立)の業務を代理したドイ ツの 斯商社であった。そして、日本資本の横浜正金銀行(Yokohama Specie Bank、1880年設立)の煙台支店、ロシア資本の露清(亜)銀行(Russo-Chinese Bank、1896年設立)の煙台支店も開設された3)。 1909年に日本横浜正金銀行 の支店が煙台から青島に移転した後、露清(亜)銀行煙台支店は煙台における 最大規模の外国銀行となり、煙台港防波堤の建設に50万海関両もの借款を提 供した4)。 これらの外国商社、海運会社の進出と業務の拡大にともなって、煙台港の輸 出入貿易は順調に発展していった。1905年までの約40年間、山東省の唯一の 輸出入貿易港として、その輸出入貿易総額は1864年の5,804,142海関両(約 8,009,716円)から1905年の39,131,384海関両(54,001,309円)へと約6.7 倍に増加した5)。この増加率から見ると、それほど著しくないようではあるも のの、安定的に増加していったことが明らかである。その輸出入状況をまとめ たのが表1である。 煙台港の輸出入商品の構成状況を見ると、その輸入品は工業製品で、輸出 品は農産物か手工業品であったことがわかる。主要な輸入品は綿布(英国、米 国産)、綿糸(日本、インド産)、灯油(米国産)、砂糖、金属物、染料、アヘ 2) 中溝新一(1928)「煙台風物記」『満蒙』第 8 巻第 1 号、満蒙文化協会、113 頁。 3) 前掲東亜同文会調査部『山東及膠州湾』359 頁。 4) 外務省通商局(1921)『在芝罘日本領事館管内状況』外務省通商局、49 頁。 5) 前掲東亜同文会調査部『山東及膠州湾』311-318 頁。
表 1 1864∼1911 年の煙台港輸出入貿易総額(単位:海関両) 年 度 外国製品輸入 国内製品移入 煙台製品輸出 貿易総額 1864 年 1,580,065 1,465,530 2,758,547 5,804,142 1870 年 4,532,115 1,191,392 2,278,925 8,002,432 1875 年 3,525,094 1,993,461 2,268,213 7,786,768 1880 年 4,162,727 2,345,411 3,397,677 9,905,815 1885 年 4,427,505 2,079,871 4,076,110 10,583,486 1890 年 5,811,206 2,236,280 4,814,896 12,862,382 1895 年 7,316,536 2,777,528 7,400,977 17,495,041 1900 年 11,084,758 5,570,863 10,402,707 27,058,328 1901 年 19,256,466 6,533,043 11,871,001 37,660,510 1902 年 18,297,486 6,111,047 11,515,880 35,924,413 1903 年 17,411,980 7,256,535 13,515,397 38,183,912 1904 年 12,773,142 8,795,879 12,686,154 34,255,175 1905 年 17,156,771 10,022,488 11,952,125 39,131,384 1906 年 14,799,778 7,977,090 11,963,399 34,740,267 1907 年 10,630,697 7,296,744 10,719,072 28,646,513 1908 年 9,887,640 6,961,319 11,136,403 27,985,362 1909 年 9,845,495 10,333,059 18,243,071 38,421,625 1910 年 8,048,814 7,415,345 14,731,624 30,195,783 1911 年 8,175,488 8,478,538 13,916,518 30,570,544 出所:交通部煙台港務管理局『近代山東沿海通商口岸貿易統計資料』対外貿易教育出版社、1986 年、4-7 頁の表より作成。 ン、雑貨などであり、そのなかでも綿布、綿糸と灯油の増加が最も著しかっ た。綿布は煙台港の最も主要な輸入品であり、輸入品全体の約40%を占めてい た。1864年の約403万メートルから1900年の約4,729万メートルへと11.7 倍に増えた。綿糸の輸入は綿布より約10年遅れたが、その増加率は1872年の 119,750キロから1900年の6,620,020キロへと55.3倍の増加であった。灯油 はおもにアメリカから輸入され、その輸入量は1874年の約10万ガロンから 1894年の約183万ガロンへと18.3倍の増加であった。金属物の輸入も1870 ∼80年代の年間平均量は約1,209,600キロであった。 主要な輸出品は大豆粕、大豆油、麦わら真田(Straw Braids)、干し魚、生 糸、春雨などの農産物や手工業品であった。1880∼1990年代には大豆粕、大 豆油の輸出が煙台港輸出総額の約20%を占めていた。麦わら真田の輸出につい ては1880∼1894年の年間平均輸出量は2,540,160キロであり、とりわけ1887 年の輸出量は3,973,294キロとなり、その輸出額も2,145,000海関両に達し、
煙台港輸出額の32.8%を占めた。生糸と絹織物の輸出も大幅の増長が見られ、 その輸出量が1872年の148,418キロから1894年の786,240キロへと約5.3 倍に増えた6)。 これら輸出入商品の輸送状況を見ると、最初の10年間は外国船舶がその海 運業務を独占し、外国との輸出入貿易だけでなく、対中国国内貿易でも一隻の 中国籍の船舶もなかった。1873年以降、中国籍の船舶が煙台港の輸出入貿易 に参入したが、その規模はそれほど大きくなかった。19世紀末までの煙台港 の船舶出入の状況は表2で示したように、イギリスの勢力が最も大きく、その 次はドイツ・アメリカであった。70年代以降、アメリカの勢力が小さくなっ たが、それはアメリカ商社の船舶が中国に買収されたからであった。アメリ カと対照的に日本の勢力が急速に拡大し、煙台港における日本出入船舶数は 1890年の120隻から1905年の554隻へと約4.6倍に増加し、貨物のトン数 も87,220トンから425,729トンへと約4.8倍に増加した。 このように煙台港の輸出入貿易の発展にともなって、煙台にはイギリス・日 本・ドイツなどとの国際定期航路と上海・広州・厦門・天津・営口などとの中 国国内航路が増設され、煙台港で停留する船舶も増えるようになった。また、 1890年からの煙台輸出入貿易の最も大きな特徴は、日本が貿易主要国となっ たことである。1889年から日本は煙台港への直行便を開設したが、1894年ま でに煙台の輸出入貿易額の点で欧米諸国の貿易額は8割を占め、日本のそれは 1割を占めるだけであった7)。その後、日本対煙台の貿易規模が次第に拡大し、 多数の廉価な日本綿糸・綿布・マッチなどの製品が煙台市場に入った。そのた め、1903年に日本から煙台への輸出品総額は5,620,000海関両(約7,755,600 円)に達し、その年の煙台輸入品総額の58%を占めるようになった。この状況 は1918年まで保たれた8)。 さらに、煙台港の輸出入貿易概況を見ると、輸出より輸入のほうが多いとい う輸入超であった。例えば、1905年の輸出入総額のうち、輸入額は27,179,259 6) 孫祚民(1992)『山東通史』山東人民出版社、502-505 頁。 7) 日清貿易研究所(1891)『清国通商総覧』日清貿易研究所、236 頁。 8) 庄維民(2000)『近代山東市場経済的変遷』中華書局、36 頁。
表 2 煙台港における各国海運能力 国 籍 隻1864 年トン 隻1870 年トン 隻1880 年トン 隻1890 年トン 隻1899 年トン 隻1905 年トン イギリス 330 111,458 502 201,939 490 306,687 1005 887,437 1238 1,203,731 713 1,689,250 ド イ ツ 264 69,368 183 48,345 192 92,730 159 101,493 406 310,406 238 418,800 アメリカ 39 13,773 267 147,594 10 4,328 4 2,818 6 6,554 20 24,350 日 本 ─ ─ ─ ─ ─ ─ 120 87,220 403 378,335 554 425,729 ロ シ ア 2 500 2 540 ─ ─ 8 3,476 319 143,990 2 3962 その他国 265 84,350 232 73,755 39 13,978 28 8,202 102 82,670 564 924,261 合 計 900 279,449 1186 472,173 731 417,723 1324 1,090,646 2474 2,125,686 2091 3,486,352 出所:交通部煙台港務管理局(1986)『近代山東沿海通商口岸貿易統計資料』対外貿易教育出版 社、87-90 頁の表 36 のデータ、外務省通商局(1907)『清国事情』第 1 輯、外務省通商 局、370-371 頁の統計より作成。なお、1900 年の義和団運動の発生によって、そのデー タが不完全であるため、1899 年のデータを使用した。 海関両(37,507,377円)で、輸出額は11,952,125海関両(16,493,932円)で あり、入超は15,227,134海関両(21,013,445円)であった。この43年間のう ち、最初の5年間は輸出入額のバランスが基本的にとれているものの、残り 38年間は輸入超であった。 なお、煙台港は、その港湾設備が未整備であったため、輸出入貿易港とし ての役割を求められながら、全体としては国内貿易港としてしか機能していな かった。煙台開港後の1866年に一つの税関埠頭が設けられたが、この埠頭も 全長わずか257メートルで、埠頭の北側の水深はわずか4.5メートルであっ たため、500トン級の船舶の繋船しか出来なかった。その後もいくつかの小埠 頭が築かれたものの、千トン級以上の船舶の繋船と寄港の問題は解決しなかっ た。そのため、外国から入港する千トン級船舶は煙台港から離れた水深地帯に 投錨し、艀荷役で荷物を小型船に一度下ろして、その小型船によって岸側に運 ばれていた。このように港湾設備が未整備であったため、外国からの多くの大 型船舶はむしろ上海港で荷物を下ろし、さらに小型船舶で煙台港に運ぶという 方法をとっていた。このように外国から煙台への直接の輸入商品は煙台港全体 輸入の3分の1を占めるにすぎず、残り3分の2は上海港・天津港・青島港 (1906年以後)などからの再移入であった。 煙台港輸出入貿易の発展にともなって、煙台の工業は振興し、それと同時
に人口の集中が生じた。煙台開港後の工業発展過程を見れば、工業生産はおも に大豆油製造・製糸・醸造業に集中していた。しかし、これら手工業を中心と する企業は小資本・小規模であり、その経営管理は低水準であり、経営不振あ るいは倒産企業が多く見られた。もちろん、ワイン製造を経営する張裕製酒公 司・永記製糸などのように成功する企業も見られた。このような企業・貿易の 発展とともに、煙台への人口集中も加速され、1891年以前の統計がないため に具体的データは不明であるが、1891年の32,500人から10年後の1901年 には57,120人へと約43%増加した。外国人の居住者では日本人が最も多く、 1895年以前の20人で、1906年には569人となった。これら日本人は、おも に飲食店・雑貨店・薬屋の経営および日中貿易に従事していた。その他の外国 人居住者は、イギリス141人、アメリカ124人、フランス60人、ドイツ25 人、ロシア20人、その他53人であった9)。 煙台の商・工業の発展および人口集中にともなって、煙台は渤海沿岸の集散 市場から港湾都市へと発展していった。しかし、煙台の都市経営者の近代都市 形成の知識や能力の不足によって、煙台の都市インフラ整備と建設に対して何 ら計画や施策は施されなかった。都市建設計画図さえもなく、建築物が自由に 建てられるだけであった。そのため、煙台税関の「関税十年報告1892-1901」 は、「煙台都市には外国人居住区以外に、舗装されている道路も下水道もなく、 晴の日にほこりが上がり、雨が降った後、ぬかっている道が利用できない状態 であった。そして、ゴミや糞便などを舗装していない道路の両側に積み重ね て、その衛生状況と伝染病など想像に難くなかった。さらに、社会治安を維持 する警察もなかった」10)と指摘している。このような都市環境では貿易業、工 業の発展が順調にいくはずはなかった。 2) 輸出入貿易の衰退とその要因 表1で示したように、1862年の開港から日清戦争の1895年までの貿易発展 は緩やかであったが、1895年から1905年までの約10年間に、その発展のス 9) 外務省通商局(1907)『清国事情』第 1 輯、外務省通商局、171 頁。 10) 南満鉄経済調査会(1935)『山東省経済調査資料』第 1 輯、南満鉄株式会社、8 頁。
ピードが上昇し、1905年には頂点に達した。ところが1906年以降、煙台港の 輸出入貿易は次第に衰退していった。それは煙台周辺の青島・大連両港の開港 の影響、煙台港湾施設および後背地の交通手段の未整備のためなどであった。 日清戦争前の中国北部では天津・営口・煙台の三港のみが開港されただけで、 煙台港は山東省唯一の輸出入貿易港であった。日清戦争後の1898∼1899年に 青島・大連・威海が開港されたものの、港湾施設の整備に4∼5年はかかった ため、1905年までは煙台港への影響はなく、煙台港の貿易も上昇傾向にあっ た。しかし、1905年以降、青島・大連の両近代港が整備され、内陸地域と結 ぶ鉄道が開通すると、煙台港の輸出入貿易に非常に大きな影響が生まれた。大 連が開港される前には、東北地域の石炭・大豆・大豆粕など大量の貨物がほぼ 煙台港へ集荷され、同港を通じて外国あるいは中国国内の他省・都市へ運ばれ ていた。しかし、大連開港後は、東北地域のすべての貨物が煙台港を経由する ことはほとんどなくなった。 また青島の開港によって、山東省における煙台港は輸出入貿易の独占的地 位を失った。というのは膠済鉄道の開通とともに、青島は山東省の最大集散市 場の済南と結ばれ、山東省の農産物・鉱産物・手工業製品などが青島に運ばれ るようになったからである。さらに、煙台が1862年に開港されて以降、その 港湾施設および内陸地域との交通状況が長期間にわたり改善されなかったこと も、その衰退の一因であったと思われる。 煙台と違って青島には、開港初頭から多額の資本が投入され、近代港湾施 設と鉄道敷設など交通機関の整備が重点的に行われたために、輸出入貿易とし ての発展にとっての堅固な基礎が築かれたからである11)。『在芝罘日本領事館 管内状況』は以下のようにこの点を分析している。「満州地域の大連・旅順な どの港湾の発展にともなって、日本・満州に対して、煙台港はその重要性を次 第に失っていった。また、1904年の膠済鉄道の開通およびその後の青島港の 運営によって、煙台の昔日の盛況は青島の繁栄と比べて、次第に衰退していっ た。それから商業の範囲が縮小され、煙台がただ山東省北部の港湾として存在 11) 欒玉璽(2008)「ドイツ・日本の青島進出とインフラ整備」『アジア研究』第 54 巻第 1 号、ア ジア政経学会、93 頁。
していたのである」12)。このように煙台港の輸出入貿易の不振によって、前述 の1902年当時あった43の外国商社も1911年までに29社へと減少し、その 他の14社はほとんど青島に移転した。 3) 煙台港の整備とその後の輸出入貿易 このような煙台貿易の停滞状況を改善するために、煙台の商人・資本家・商 務総会および官僚など各界は、都市インフラの整備・交通機関の増設など基礎 的な施設の建設にさまざまな努力をしていった。1907年9月に煙台の商人張 自璐が煙維鉄道(煙台─維坊、維坊でドイツ経営の膠済鉄道と連絡)の敷設を 提案したが、膠済鉄道を経営するドイツとの利害が衝突するとともに、資金不 足のために、敷設計画は中止された。その後、1909年に煙台商務総会は再び 煙維鉄道の敷設を計画し、敷設資金の調達が出来たものの、敷設実施の段階で 再び中止された。その主要な原因は、青島ドイツ総督府の干渉および山東省官 僚の利権の争奪のためであった。 ドイツ総督府の干渉については、ドイツが山東省全域の鉄道輸送業を独占 しようとして、煙維鉄道の合弁権を求めたが、結局、煙台商務総会に拒絶され た。その後に煙台商務総会が煙維鉄道の敷設を実施する段階になって、山東省 の官僚もその敷設権と管理権を獲得するために、鉄道の敷設に関しては必ず山 東省政府監督下で、山東省政府指定の商社が煙維鉄道会社および複数の支社を 組織し、株主の権限も制限するといった規程を明らかにした。つまり、煙台の 商人が資本を提供するものの、政府官僚がその敷設権と管理権を持つというこ とであった。そのため、煙台商務総会がこれら規程を拒絶し、政府責任者と交 渉したが、合意が得られず、結局、多数の商人・資本家は鉄道敷設への投資を 断念した13)。その後、山東省政府は煙維鉄道の敷設計画を立てたが、資本金不 足のため、最終的には煙維鉄道の敷設は実現しなかった。 この煙維鉄道敷設計画中止の過程を見ると、煙台・山東省の商人および政府 官僚は貿易の振興・経済の発展などを願い、そのための努力をしていたにもか 12) 前掲外務省通商局『在芝罘領事館管轄内状況』86 頁。 13) 王守中(2001)『近代山東都市変遷史』山東教育出版社、248-250 頁。
かわらず、相互信頼および協力不足によって、実現できなかった。それと同時 に、山東省の経済力とくに資本不足によって、多額の投資を必要とする鉄道敷 設などの事業は、地方政府と民間資本の協力がなかったため、実現するに至ら なかったと言える。このように煙維鉄道は1907年からその敷設計画が持ち上 がったものの、資本金の不足や利権争奪などが原因で、約40年後の1950年 まで実現されなかった。 煙台港の拡張工事はイギリス資本のハチソン商社煙台支社社長である愛克夫 (V. R. Eckford)の提案によって、オランダ築港専門家により設計され、1915年 から着手され、1920年に完成した。この工事はオランダ築港会社(Netherlands
Harbour Works Co., Ltd.)が270万海関両で落札した14)。完成された煙台
港は埠頭・防波堤などの港内施設や倉庫・貨物置場などの港湾陸上施設が整備 され、輸出入貿易および煙台の経済発展のための基礎的なものとなり、煙台の 市街・都市施設・舗装道路など都市インフラの整備も行なわれた。 これらの港湾設備や都市インフラの整備にともなって、煙台の輸出入貿易は 一時的には上昇したが、1920年代半ばから再び停滞した。1864年から1927 年の輸出入貿易の状況をグラフ1で示した。このグラフからわかるように、煙 台の輸出入貿易額は1920年前後に一時的に増加したものの、1907年以降ほぼ 増減のない状態である。これとは対照的に青島の輸出入貿易額は、1907年以 前は煙台港より下回り、1915年の日独戦争の影響のため一時的に下回った以 外、1908年以降ほぼ直線的に上昇している。 このように煙台港の輸出入貿易が引き続いて不振であった理由は、煙台港 が整備されたにもかかわらず、その煙台港の貨物を収集する後背地集散市場お よびこれら後背地集散市場との交通手段がなかったため、煙台港の貿易が拡大 しなかったばかりでなく、青島港の輸出入貿易の拡大と後背地集散市場の拡張 によって、煙台港の市場範囲がむしろ縮小していったからである。さらに煙台 港から約85キロメートル離れた東部の威海港、約100キロメートル離れた西 部の龍口港の開港によって、煙台港の市場はほぼ煙台自身およびその周辺に限 14) 中溝新一(1928)「煙台風物記」『満蒙』第 8 巻第 1 号、満蒙文化協会、108-109 頁。
られてしまった。このような市場状況に加えて、煙台には大型工業・鉱業もな く、その輸出入貿易は煙台自身の特産物と産業の発展に依存しなければならな かったのである。 グラフ 1 1865∼1935 年の煙台・青島・威海港の対外貿易額の比較 (単位:千万海関両) 㪇 㪉 㪋 㪍 㪏 㪈㪇 㪈㪉 㪈㪋 㪈㪍 㪋 㪍 㪏 㪈 㪌 㪎 㪏 㪈 㪌 㪏 㪏 㪈 㪌 㪐 㪏 㪈 㪈 㪇 㪐 㪈 㪊 㪇 㪐 㪈 㪌 㪇 㪐 㪈 㪎 㪇 㪐 㪈 㪐 㪇 㪐 㪈 㪈 㪈 㪐 㪈 㪊 㪈 㪐 㪈 㪌 㪈 㪐 㪈 㪎 㪈 㪐 㪈 㪐 㪈 㪐 㪈 㪈 㪉 㪐 㪈 㪊 㪉 㪐 㪈 㪌 㪉 㪐 㪈 㪎 㪉 㪐 㪈 ᾍบ 㕍ፉ 出所:交通部煙台港務管理局『近代山東沿海通商口岸貿易統計資料』(対外貿易教育出版社、1986 年、表 1-8 のデータ)、衆議院調査部『北支那産業概況資料』(1931 年、80-96 頁のデー タ)前掲『山東及膠州湾』313 頁のデータより作成。 このように19世紀後半には煙台は山東省の唯一の輸出入貿易港として、国 内外商社・資本・海運会社などが集中し、商人が集まり、輸出入商品の中心的 集散地となった。しかし、1898年以降になると、煙台周辺諸港の開港ととも に、山東省における煙台の輸出入貿易の独占的な地位が揺るぎ、煙台の商業・ 工業各界も努力したものの、1905年以前のような速やかな発展すら見られな くなった。このように煙台輸出入貿易の発展状況を青島のそれを比較すれば、 港湾貿易は近代市場経済の発展に影響を与えると同時に、その貿易自身の発展 にも近代交通機関や都市インフラの整備および工業・農業生産の改善が必要と なることが明らかとなった。続いて青島の都市インフラ・交通機関整備、輸出 入貿易状況を触れる。
2 青島の開港とその貿易発展
1) 青島の租借と都市インフラ整備 青島は煙台より約170キロメートル離れた山東半島の南西部にある膠州湾 の湾口の東側、その西・南・東の三面が海に囲まれた陸地の岬にある町であ る。膠州湾は山東半島で一番大きい海湾であり、湾内の海水域が広くて深く、 波も静かであり、冬は凍結せず、船舶の停泊に最も適した港湾となっている。 また、青島の後背地は、山東省全体、山西、河南、河北各省の一部など面積約 50万平方キロメートルであり、その人口は約3,000万人(1911年当時)であ り、落花生、綿花、大豆、生糸など農産物および石炭、鉄鉱石など鉱産物の中 国の主要な生産地であった。この膠州湾の優れた地理的位置・港湾条件および 経済・貿易上の重要性がアジアの植民地を獲得しようとした欧米列強に認識さ れ、1860年代から欧米諸国の船舶が頻繁に出入し始めた。1895年の日清戦争 以降、さらに、膠州湾・山東半島における利権は欧米列強が獲得しようとする 利権の主なものとなっていった。 1897年11月1日、山東省巨野県内でドイツ国籍の二人の宣教師が殺され た事件をきっかけに、ドイツ政府は清朝政府に向って強硬な交渉を開始し、結 局1898年3月6日に「膠州湾租借条約」を清朝政府との間で締結した。この 条約によって、ドイツは552平方キロメートルの膠州湾地域を99年間租借す ると同時に、山東省内の鉄道敷設権、鉄道沿線の鉱山採掘権および各種産業 の設立・経営などの優先権を獲得することになった。ドイツは膠州湾およびそ の後背地の開発と経済力の拡大のために、青島を東洋における商業的な発展 の拠点とするいわゆる「百年計画」を策定し、都市の建設、鉱山の開発、交通 機関の整備を通じて、商品流通手段の強化と輸出入貿易の発展に力を注いだ。 このように、1898∼1913年の16年間におけるドイツの青島への投資総額は 197,381,861マルクで、そのうちドイツ国庫からの投資額は162,480,904マル ク、その他の34,900,957マルクは租借地内からの収入であった。また、1914 年の投資額も加えると、約2億マルクもの巨額が投入されたことになる。な お、鉄道の敷設と鉱山の開発などは民間投資であったため、この投資総額には含まれていない15)。 これらの投資は、軍事費の約27%を除いて、おもに青島の都市基盤、各種 公共施設の整備、各種研究機関、学校、病院の設立などに投入された。青島ド イツ総督府は「青島都市建設計画」により、1899年から元青島村・大鮑島村 などの67の自然村およびその土地建物を買収し、そこにドイツの諸官庁、商 会、守備軍本部、銀行、警察署などを建て、膠州湾における政治的中心地とし た。その北部にある大鮑島地区はドイツや欧米など外国資本の商社や商店およ び中国人の大商社などが並んでおり、ドイツ風、中国風の建物が混在する青島 市の商業区域であった。 市街中心地から離れた台東鎮地区には中国人の中小の会社や商社および家 内手工業者などが多数在住し、おもに中国風の建物が並び、青島市街地および 大鮑島地域の建設のため、元の青島村・大鮑島村住民の多くがここに移住させ られた。さらに、近代青島港の完成と国内・国際航路の開通にともなって、市 街地北側の大港に接する区域(港区)はすぐさま発展し、次第に青島の貿易と 商売の中心地となっていった。それと同時に、生活基盤である水源地や給排水 施設の建設、道路や青島港などの交通輸送機関、郵便や電話などの通信施設、 病院や衛生防疫などの医療機関、小・中・大学教育や観測所、博物館などの文 化教育機関も整備された。 このように1914年の日独戦争勃発までの約17年間大規模な都市整備活動 を通じて、樹木もなく舗装道路もない貧困な漁村にすぎなかった青島は、ヨー ロッパ風の町・庭園と街路樹の並ぶ歩道のある各種生活施設が完備された近代 港湾都市となっていった16)。したがって、近代青島都市形成の歴史から見れ ば、ドイツの青島占領期間は大規模な都市構築の開始期であり、青島を発展さ せた重要な転換期ともいえる。 1914年8月以降、日本はドイツに代わって青島に入り、日独戦争によって破 壊された都市施設の復旧および都市規模の拡大のために、多額の資本を投入し た。1914∼21年の8年間にわたる青島日本守備軍民政部の総収入額は約1億 15) 謝開勲(1920)『二十二年来之膠州湾』上海中華書局、116-119 頁。 16) 前掲欒玉璽「ドイツ・日本の青島進出とインフラ整備」82-84 頁。
1,330万円、実際の投資額は約1億3,430万円、不足額の約2,100万円は日本 政府より支出された17)。これら投資によって、 1922年当時の青島市街面積は 1913年当時の3倍の広さに拡大し、都市施設・交通機関がさらに整備された。 とりわけ、近代工場の設立および工場区域の増設がこの時期の特徴であった。 1923から1937年までの約15年間、中国国内で連続的な戦争と戦乱の影響 で、社会秩序や都市行政管理は安定していなかった。そのため、この期間には 新たな都市開発と拡張は見られず、ほぼ停滞した状況であったとは言え、比較 的分散していた都市の空地に商業町、スポーツ・文化施設、生活サービス施設 および住宅区などが新築されることを通じて、中心市街地は青島港の周辺地域 と相互に結び付けられるようになった。 このように、1897年から1937年までの約40年間は、青島都市の植民地都 市から近代資本主義都市への形成期間であった。この青島都市の形成と発展が 同時期に形成された中国の多くの他都市とまったく異なったのは、青島都市の 最初の設計者と建設者が近代資本主義国のドイツだからである。ドイツ人は 青島地域の地理的位置と自然環境に基づき、その都市設計と建設をして、ヨー ロッパ都市の色彩と風格に満ちた青島都市を構築した。その合理的構造配置、 自然との結び付き、山を海と接続させる手法などは今日の専門家にも高く評価 されているだけでなく、大連・威海など青島と同様、被植民地経験がある都市 より青島の都市構造のほうがより優れていると評価された。 2) 交通機関の整備と海運会社・商社・金融機関の進出 以上のように、ドイツは青島都市を建設するとともに、輸出入貿易を発展す るための青島港の築港・膠済鉄道の敷設などをも行っていた。青島港は1899 年3月に着工され、1906年に完成され、その築港費は5,200万マルクに達し た。港内には海軍専用埠頭、石油専用埠頭、商用埠頭など4つの埠頭と青島 造船所が築造され、埠頭用倉庫・鉄道引込み線もそれぞれ敷設され、鉄道との 直結的な輸送が可能となった。こうした整備の結果、青島港はその築港技術・ 港内設備・輸送能力などの点で中国およびアジアにおける近代港としてよく知 17) 大滝八郎(1986)「1912-1921 年的関税報告」『帝国主義与膠海関』档案出版社、156 頁。
られるようになり、当時の最大級の海洋汽船にとっても安全・便利な停泊港と なっていた。 膠済(青島─済南)鉄道は、1899年9月に敷設が開始され、1904年6月に 膠済鉄道の本線と支線の455キロメートル全線が開通した。一般時速は50キ ロメートル、最高時速は60キロメートル、沿線59駅の主要駅には倉庫と停 車場も整備され、総工事費は5,290万マルクであった18)。膠済鉄道の全線開 通後、その旅客輸送は1905年の803,527人から1935年の3,025,709人へと 約3.8倍に増え、貨物輸送は1905年の310,482トンから1935年の3,253,973 トンへと約10.5倍に増加した。このように膠済鉄道の開通は、その沿線の済 南・維県・泰安・曲阜など山東省の諸都市と諸市場および周辺省を青島と結び 付け、農産物の商品化および農業生産力の向上、農民収入の増加に大きな影響 を与えた。 青島港と膠済鉄道が整備されるにつれて、多数の外国海運会社・商社・金 融機関が次々と青島に進出し、青島を起点とする国際通商路が整備されていっ た。1901年3月、ドイツのハンブルグ・アメリカ汽船会社により青島港の最 初の国際定期航路が開設されて以降、イギリス・ドイツ・アメリカなどの海運 会社は、国際定期航路のヨーロッパ航路・アメリカ航路・日本航路および中国 近海航路の定期・不定期航路のすべてを経営していた。また、世界三大石油会 社のスタンダード石油会社、アジアティック石油会社、ラングカート石油会社 が青島代理店を設置するにともなって、青島港はその優れた港湾と、それと直 接連絡していた鉄道の便利さによって、中国北部に石油を供給する主要港と なった。1907年以降、日本の三井をはじめ湯浅・大倉・江商などの商社が青島 事務所を設立し、さらにその貿易業務の拡大につれて、日本郵船、大阪商船、 日清汽船などの青島出張所も設立された。1908年に青島─神戸の定期航路が 正式に開設されるとともに、ヨーロッパ航路、ニューヨーク航路、中国近海航 路ともに開設された19)。 外国商社の進出状況についてみると、1913年までにドイツ商社27社が設立 18) 前掲東亜同文会調査部『山東及膠州湾』188 頁。 19) 前掲孫祚民『山東通史』552 頁。
され、その他の有名な欧米商社ジャーディン・マセソン社(Jardine-Matheson
& Co., Ltd.)、スワイヤ社(Butterfield & Swire)などの青島支社や支店も設
立された。日本商社の青島進出はこれらの欧米商社より遅れた。最初に青島で 開業した商社は三井物産で、その後に湯浅、日信、大倉、岩城も次々と青島支 社を設立し、1911年までに青島で開業した日本商社は7社となった20)。第 1 次世界大戦期間には、ドイツ商社の減少と日本商社の増加が見られ、1916年に は欧米商社の総数が13社、日本商社が36社となった。その10年後の1926 年には資本金5万元以上の日本商社が96社となり、欧米商社の総数も64社 に達した。 1935年当時の統計によると、青島に進出している欧米商社は全部で121社で
あった。そのうちドイツ系商社はカルロヴィッツ社(Carlowitz & Co., Ltd.)、
メルヒャース社(Melchers & Co., Ltd.)など31社であり、そのなかで資本
金が5万元以上のものは25社であった。これら商社はおもに化学製品、機械、 建築材料などの貿易に従事していた。 イギリス系商社はジャーディン・マセソン社、スワイヤ社など26社であり、 そのなかで資本金が5万元以上のものは14社であった。これらの商社は青島 港で海運業務に従事すると同時に、青島支店においても綿糸布、鉄鋼、化学肥 料、船舶など多様な取引経営を行っていた。
アメリカ系商社は美孚商社、亜當母斯公司(Adams & Sons F.)など25社
であり、そのなかで資本金が5万元以上のものは15社で、おもに石油、ガソ
リン、木材、煙草などの取引業務を行っていた。
ロシア系商社は大華汽車公司(Qingdao Moters)、外国書房(Foreign Book
Store)など31社であり、そのなかで資本金が5万元以上のものは5社であっ た。これらロシア系商社の貿易活動はそれほど活発ではなく、むしろ小売業中 心で経営していた。そのほかに、イタリア3社、オランダ2社、オーストリ ア2社、デンマーク1社が活動していたが、これら8社には資本金5万元以 上のものはなかった21)。 20) 田原天南(1914)『膠州湾』満州日々新聞社(大連)、531-542 頁。 21) 青島日本商工会議所(1940)「山東市場における外人商社の地位に就いて」『経済時報』第 17 号、75-89 頁。
このように、日本の商社との競争力を持っていたのはドイツ・イギリス・ア メリカであり、特にアメリカの勢力が次第に強くなっていった。 青島における日本の商社・商店は中小商社から三井・三菱などの大手商社ま で全部で945社に達した。三井、三菱、江商、伊藤忠などの大手商社は日本と 中国との貿易業務に従事するだけでなく、中国と欧米諸国間の貿易業務に従事 するとともに、倉庫・埠頭および生産工場をも経営していた。1930年に青島 で登録した日本資本の商・工業資本総額は14,049万円であった22)。これら欧 米、日本商社の取引額を推定によると、日本が圧倒的に多く、約6,000万円で あり、続いてイギリス1,200万円、アメリカ700万円、ドイツ600万円、ロ シア90万円、その他40∼50万円であった23)。青島港の関税収入においても 日本がその総額の50∼60%を占め、青島輸出入貿易の担い手は圧倒的に日本 の商社であった。 外国資本の海運会社・商社が青島に進出するとともに、金融機関の進出とそ の活動も活発化された。青島における最初の銀行は1898年に開設された独華 (亜)銀行青島支店であった。その後イギリス資本の香港上海銀行は1911年、 チャータード銀行は1925年、ロシア資本の露清(亜)銀行は1912年、日本 資本の横浜正金銀行は1912年、朝鮮銀行は1917年、正隆銀行は1920年、済 南銀行は1923年、アメリカ資本のN. Y.ナショナル・シティ銀行(National
City Bank of New York、1812年設立)は1933年、中国資本の中国銀行は
1911年、山東銀行は1914年、交通銀行は1923年にそれぞれ青島支店を設立 した24)。 このような都市インフラの整備、輸出入貿易の発展およびそれと関連する経 済活動において、青島は各国金融機関からの多大な協力が得られると同時に、 経済活動の進展と範囲の拡大にともなって、さらなる金融機関の整備や発展も 促進されたといえる。とりわけ、この過程で日本大手商社による貿易振興およ び近代工業への投資により、日本資本の銀行は青島金融市場において長期間に わたり重要な地位を保った。 22) 山東毎日新聞社(1934)『山東における邦人の経済発展並に日華親和策』174-193 頁。 23) 趙棋(1928)『膠澳志』膠澳商埠局出版、823 頁。 24) 南満鉄経済調査会(1935)『山東商業経済の発展とその破局的機構』60-61 頁。立脇和夫(2002) 『在日外国銀行百年史 1900-2000 年』日本経済評論社、3-16 頁。
3) 輸出入貿易の発展状況 このような交通機関の整備と海運会社・商社・銀行の青島進出によって、青 島の輸出入貿易は著しく発展していった。1899年から1927年までの30年間、 青島港の輸出入貿易の発展過程はグラフ1で示されるように、1913年まではほ ぼ直線的に上昇し、その年の貿易額は59,168,880海関両(81,563,054円)に 達した。1914年の第1次世界大戦勃発のため、その貿易額は大幅に減少した が、1917年には大戦前の水準に回復し、その後も順調に発展し1927年の貿易 額は149,499,859海関両(206,309,800円)に達した25)。 青島港の輸出入商品の変遷状況を見ると、第1次世界大戦前の主要な輸入 品は綿布(特にアメリカ綿布)・綿糸・石油・マッチ・砂糖・鉄道材料などで あり、主要な輸出品は落花生・畜産物・麦わら真田・豆油などの農産物や手工 業品であった。第1次世界大戦後、綿糸布は依然として主要な輸入品であっ たものの、20年代初期には日本紡績企業の青島進出によって漸減するように なっていった。このように長期間にわたって主要輸入品であった綿糸布の輸入 は急速に減少し、代わって紡績機械の輸入が増加したのは日本紡績企業が進出 したことによるものであった。また一般機械・電気材料など生産材の輸入と葉 煙草・マッチ製品・卵加工品・小麦粉などの輸出が青島の煙草製造工業・化学 工業・食品加工業の勃興につれて増大していった26)。 このように青島港の主要な輸出商品は、農・畜産物を主とする状況に変化は ないものの、綿糸布・巻煙草・マッチなどの工業製品輸出の急増は青島近代工 業が速やかに発展していった結果であるといえる。主要な輸入商品については 質的変化があり、綿製品を中心とする消費財の輸入から生産財輸入へと転換す る傾向が見られた27)。このように日本資本による青島を中心とする近代工業 への投資と商品生産の促進は国内市場および国際市場という二重の工業需要に 基づいて、工業生産関係の再編が行われたということである。 25) 交通部煙台港務管理局(1986)『近代山東沿海通商口岸貿易統計資料』対外貿易教育出版社、10-11 頁。 26) 青島日本商工会議所(1939)「青島港貿易商品の変遷」『経済時報』第 15 号、14 頁。 27) 前掲青島日本商工会議所「青島港貿易商品の変遷」11 頁。
また、対主要国の青島港貿易概況から見れば、その貿易額は1908年前にド イツが第1位、その次に日本・フランス・イギリス・アメリカの順であった。 その後、三井・湯浅・日信・江商など日本商社が青島に進出し、地理的条件の 便利さと廉価な綿糸・綿布・マッチなどの商品販売を通じて、青島市場にお いてドイツと競争していった。1909年になって、対日本・ドイツの青島港貿 易額はそれぞれ4,143,000海関両、4,036,000海関両となり、日本が初めてド イツを越えた。1913年になると、対日本・ドイツの青島港貿易額はそれぞれ 10,422,000海関両、5,174,000海関両で、日本がドイツの倍になった。その後 1921年には対日本の青島港貿易額は青島港対外輸出入貿易額の71%を占め、 ほぼ独占的となった。それ以降、対欧米諸国の青島港貿易が次第に回復し、そ の中でもとくに対アメリカの貿易は著しく増加し、1922年には対アメリカの 貿易額は青島港輸出入貿易額の10%を占め、日本についで第2位の地位を占 めた28)。その後1937年まで日本は青島港輸出入貿易額で第1位の地位を維持 していた。このように日本が1909年から引き続き優位な地位を維持していた のは、1914∼1922年までの8年間の日本経営のもつ優越性、日本商社の規模・ 経営業務の多様性、地理的条件の便利さなどのためである。 近代交通機関である膠済鉄道の開通は、山東省全域の農産物や手工業製品 の流れとその量にも影響を与えた。以前、煙台港から輸出された農産物や手工 業製品などすべての商品は、運賃と距離の点で青島の方が有利となるため、青 島港から輸出されるようになった。とりわけ、運河を経て江蘇省の鎮江から輸 出されていた山東省南西部の農産物は、鉄道を経由し、天津や青島へ運ばれて 輸出されるようになった。このように馬車輸送などの伝統的な流通手段は次第 に新たな商品流通手段としての鉄道にとって代わられた。そして、鉄道貨物輸 送量の増加によって、鉄道沿線の駅および周辺地域は貨物集散地となり、新市 場・商店・倉庫・石炭販売場なども開設され、その営業範囲が次第に拡大され るとともに、新たな商業町と集散市場が形成された。 このように膠済鉄道と青島港の整備によって、沿線の各都市・各市場は伝統 28) 山東毎日新聞社(1934)『山東における邦人の経済発展並に日華親和策』18-19 頁。
的・閉鎖的な商品流通の方法から始めて脱皮し、商品の流通規模の拡大と流通 距離の短縮にともなって、農産物の商品化、流通速度の向上、農業生産関係の 再編、社会進歩の促進などがもたらされた。それと同時に、山東省や中国の農 業経済は世界市場および各国の消費市場とより強く結び付けるようになった。 さらに、この商品流通市場システムの完備にともなって、沿海と内陸・都市と 農村とが一体化され、経済的・社会的な構造は大きく変貌した。 また、各種工業製品の輸入によって、新たな市場需要と消費人口の増大も 促された。日常生活に必要となる綿布・マッチ・石鹸・灯油・砂糖・雑貨など の外国工業製品は青島市の消費者の生活に浸透していくとともに、内陸部の都 市から農村・農家へと次第に広がっていった。これら輸入工業製品の需要の増 加も国内近代工業創設の誘因となった。次第に変化する消費者の需要と新たな 消費市場の形成に適応するためには、外国や国内通商港から輸入するだけで なく、中国国内で新消費品を生産する近代工業の設立も見られた。綿紡績、製 油、製粉、マッチなどの生産は、原材料の農産品に対する長期間かつ多量の需 要をもたらしただけでなく、その製品も世界の商品流通市場に組み入れられ、 新たな商品流通資源となった。 第1次世界大戦前には、山東省産綿花は上海・日本へ輸出されたが、その後 青島や済南の近代綿紡績業の創設によって、山東省内の綿花消費量は1930年 4,718万キロ、1931年6,048万キロ、1934年6,895万キロとなり、1935年の 綿花消費量は青島だけで7,227万キロに達した。また、青島の近代工業製品の 生産額は1931年に1億元であったが、その内の15%にあたる1,500万元の商 品が青島で消費され、85%にあたる8,500万元の商品は鉄道と青島港を経由し て山東省内や中国全土へ送られ、その中の一部分は輸出された。このように輸 出入貿易は青島および山東省の近代手工業や各種産業の創設と発展を促すと同 時に、流通商品の構成に変化をもたらした。 このように19世紀末から20世紀初期にかけて山東省の伝統的な商品流通 体制は解体され、青島と内陸部の主要都市を中心とする近代商品流通市場が初 めて形成された。輸出入貿易の拡大と近代産業発展は、近代的交通機関を通 じて、商品生産地域およびその周辺市場に限らず、商品集散機能を持つ近代都
市、沿海貿易都市、世界市場にまで広がり、商品流通の数量と規模をも急速に 拡大していった。以上のように、青島開港後の経営管理主体の変遷にともなう 政策の変化、世界大戦、世界経済恐慌などがあったものの、ドイツ・日本の資 本投下による都市インフラの整備、近代交通機関の完備およびその近代経営管 理理念によって、青島は約6万人の膠州湾に臨む農漁村から約49万人(1935 年当時)を擁する近代都市へと変貌していったとともに、山東省および中国全 土の経済的・社会的な発展にも大きな影響を与えたといえる。続いて威海の開 港とその発展状況に触れる。
3 威海の租借と開港
1) 威海の租借 威海(威海衛)は北緯37.4度、東経122度10分の山東半島の東端、煙台よ り東へ約85キロメートル、青島より東北へ約180キロメートル、大連より南 へ173キロメートル離れた位置にある。威海城は北・西・南の三面を山に囲ま れ、東の一面は海に臨み、中国北部の良港の一つであり、煙台・青島についで 開港された山東省第3の通商貿易港であった(図2 威海の地理位置図参照)。 威海(衛)はその名称から想像できるように、古くから海軍の拠点があっ た場所であり、1398年に倭寇の襲来に備えて要塞を築いたのがその始まりで あった。1888年に清朝政府が北洋艦隊基地と指定し、その後、海軍の駐屯、貿 易商人の進出、商品交易の増加によって、山東半島東端の港湾都市へと発展し ていった。1895年の日清戦争では戦場となったため、威海城も大きな被害を 受けた。3年後の1898年7月にはイギリスにより租借され、32年後の1930 年10月、中国に返還された。 日清戦争後、欧米列強は中国における自国の勢力の拡大をめぐって腹をさぐ りあった。1897年11月、ドイツは膠州湾を占領し、同年の12月15日には ロシア軍艦は旅順への入港を強行した。翌年の1898年3月27日にはロシア と中国との間で「旅順・大連租借条約」が締結され、その租借期間は25年間 となった。この状況に注目していたイギリスは、中国におけるロシア勢力の中図 2 威海市の地理位置図 国南部への拡張を抑え、本国の商業利益を維持するために、「勢力の均衡」を 理由に山東半島の東端にある威海をイギリス東洋艦隊の根拠地として租借する ことを画策した。 威海は渤海海峡をはさんで遼東半島とは目と鼻の先であり、威海のほうが外 洋側にあるので、旅順の軍港に出入するロシア艦隊を監視することができる位 置にある。しかし、イギリスによる威海の租借計画は、ドイツと日本、そして 清朝政府の反発が予想された。同じ山東半島の膠州湾に租借地を持つドイツは イギリスの進出を警戒し、日本は日清戦争で獲得した賠償金の支払いなどが実 行されるまでの担保として威海を占領しようとしていたし、北洋艦隊を再建し ようとしていた清朝政府も威海がイギリスに奪われれば北洋艦隊の拠点が喪失 する恐れがあったためであった。
このためイギリスは、ドイツに対して山東半島で利権を確保する意図はな いことを説明し、具体的には「威海衛に鉄道を建設しない」ことを約束した。 日本にはイギリスの威海衛の獲得によってロシアの南下防止に対する日本の負 担が軽減される点を説明して、それぞれ説得に成功した。そして清朝政府には 「威海衛の租借期限はロシアの旅順・大連租借と同じく25年間とし、ロシアが 旅順・大連を返還すれば、イギリスも威海衛を返還し、清朝の北洋艦隊の威海 衛使用を引き続き認める」ことを条件として、威海の租借を認めさせるよう説 得した。 このようにして1898年5月24日、清朝政府から賠償金を獲得した日本軍 が威海衛から撤退すると、翌日イギリスが代わって占領した。日本軍が使用し ていた兵舎などはイギリス軍へ無償で譲渡されたため、喜んだイギリスは日本 に感謝状を贈った。その後1898年7月1日、清朝政府との間で「威海衛租借 条約」の締結を強制し、その租借期間は「旅順・大連租借条約」と同じく25 年間であった。 威海を租借したイギリスは、青島を租借したドイツおよび大連を租借したロ シアと対抗するために、威海に大規模な軍港を構築する計画を立てたものの、 その後の詳細な調査の結果、威海では大規模な軍港構築は不適切であることが 明らかになった。そのため、その計画を変更し、小規模の海軍基地となった。 その管轄権も海軍省より植民省に変更された。 その理由について当時の海軍省・植民省の両大臣は以下のように説明して いる。「此地に防御工事を施さんとすれば、実に莫大の経費を投じざるを得ず、 されども此地は小武器の練習および大砲試射所としては海軍のために極めて有 用の地たり、又絶好の健康地なれば、香港・上海・其他支那沿岸各地の転地療 養地たるに適すべく、又陸海軍の療養地として用いるべし」29)。そこで、租借 地内の劉公島には1,000人のインド兵を駐屯させ、イギリス東洋艦隊の基地と して使用し始めたものの、基地としての軍事施設の構築はほとんど見られず、 もっぱら夏の避暑療養地として利用された。劉公島には海軍病院が作られ、内 29) 前掲東亜同文会調査部『山東及膠州湾』390 頁。
陸部の温泉場30)にも療養施設が建てられた。このようにイギリスが威海租借 地で行った開発・都市施設の構築はきわめて小規模なものであった。 その後、日露戦争の結果、1905年には遼東半島がロシアから日本の手に移っ たため、イギリスは威海を続けて租借する根拠もなくなった。イギリスも威海 行政署の財政も大幅な赤字で、軍港としても商港としても利用できない威海を 中国へ返還しようと考えていた。ところが、威海を中国へ返還すれば、中国側 の租借地返還要求を煽ってしまう可能性が高いため、イギリスはそのまま維持 していく態度をとった。 1922年のワシントン会議では、アメリカが提唱した中国の領土保全や門戸 開放・中国進出の機会平等という提案にそって、イギリスは「各国は租借地を 1つずつ中国へ返そう」と提案した。つまりイギリスは香港を確保し威海衛を 返還し、日本は遼東半島を確保し膠州湾を返還し、フランスは広州湾を返還す るよう提案し、日本とフランスの同意を得た。イギリスにとっては威海がお荷 物なうえに、租借期限の1923年も迫っており、手放すべき威海をエサに、他 国の租借地を手放させようとする戦略であった。中国政府との間で威海返還を 交渉する際、イギリスはさまざまな条件を付けたため難航した。 1928年、新たに実権を握った南京国民政府は「租借地返還」の実績を国民 へアピールするためにイギリスの要求に対して大幅に譲歩した。租借期限から 7年遅れの1930年に威海返還は実現したが、「劉公島をイギリス艦隊に10年 間提供、墓地や倶楽部・ゴルフ場などの用地を30年間無償貸与、威海衛でイ ギリスが実行した各種規程の維持、ポート・エドワード埠頭区の開放、外国人 の土地所有などの既得権維持」などの条件が付けられた。すなわち、イギリス は劉公島の軍事利用は続ける一方で、赤字経営であった威海衛の行政運営は中 国側に返還し、既得権はそのまま確保したことになり、名を捨てて実を取った こととなった。 返還後の威海は、中央政府直轄の特別行政区として「威海衛行政区」となっ た。中国政府が威海衛を特別扱いしたのは、イギリスとの返還交渉で決まった 各種特例制度の実施と、将来的に軍港として整備する構想があったからである。 30) これら「温泉場」は日本人が経営していた。1912 年に日本の芝罘領事館が行った調査によると、 威海衛在住の日本人就業者は 17 人で、主に温泉・雑貨・貸座敷・風俗業を経営していた。
2) 租借地内貿易政策の実施とその発展 威海租借地の面積は288平方キロメートルで、そこには315の村落、約 123,700人が居住し、町と呼べる場所は城壁に囲まれた威海衛城だけであった。 租借初期、イギリス植民省は威海に臨時行政署を設置し、威海に駐在していた 海軍司令官が行政署長官を兼任したが、1900年には威海イギリス行政署が正 式に設置され、行政署事務大臣が威海租借地内の行政・立法・司法などの行政 事務を担当していた31)。 日清戦争直後、威海では人口が減少し、商店や貿易なども停滞していった。 イギリスに租借された初期の1898∼1900年には租借地内の年間各種税金の収 入はわずか4,000元余りであったため、イギリス政府が多額の資本を援助し た。この租借地内の財政状況やその対外輸出入貿易の点で威海は、煙台港・青 島港と比べると不利な立場にあったことを考慮し、威海イギリス行政署は、威 海衛城の北側に埠頭区「ポート・エドワード(愛徳華埠頭区)」という新しい 町を築く計画を立てた。この計画により、1901年から「ポート・エドワード 埠頭区」を開設し、輸出入貨物の関税全額を免除し、埠頭使用料のみ徴収する という自由貿易港(フリー・ポート)制度を実行した。そのため、威海港の輸 出入貨物は増加し、貿易に従事する商社・商人が次第に威海に進出するように なった。それと同時に、威海イギリス行政署もこれを契機に、埠頭区内のイン フラ整備、貨物置場新設などを行い、貿易商社の貨物貯蔵と輸送の便利さを提 供するとともに、威海港の振興を図った。 このような政策を実施した結果、威海港の輸出入貨物は1902年の15万ト ン、1909年の48万トン、1927年の103万トン、1929年の130万トンへと増 加し、1902年から1929年までに約8.7倍増加した。その貿易総額も1919年 の811万元から1928年の1,914万元へと増加していった。そして、輸出入貿 易の発展にともなって、租借地内の収入も毎年増加し、1921年以降は財政上 の余剰が生まれ、1925年の財政余剰額が20万元であったのに対して、1928 年には34万元に達した。 31) 呉藹宸(1929)『華北国際五大問題』商務印書館、10 頁。
一方、この期間に威海の在来商社が復興し、民族資本による商店が新設され、
外国資本の商社の進出も見られるなど、威海における各種商社は400社以上
に達した。最初の外国商社は1898年にイギリス人の 肯・克拉克(Duncan
Clark)が創立した康来商社(D.Clack & Co., Ltd.)で、雑貨貿易と代理業務に
従事していた。その2年後の1900年にイギリス人の欧内斯特・克拉克(Emest
Clark)が設立した泰茂商社(Lawers & Clack Co., Ltd.)も開業し、スワイ
ヤ商社の船舶部の定期客・貨物の輸送業務を代行すると同時に、香港上海銀行 とチャータード銀行の金融・保険業務も代行していた32)。その後、世界的に 有名な大手商社であるイギリス資本のスワイヤ商社威海出張所、ハチソン商社 威海出張所、三井物産威海出張所などが相次いで設立された。これらの商社は おもに落花生・石炭・綿糸布などの輸出入貿易に従事していた。 威海の国際航路はイギリスのマセソン商社が威海─イギリスの定期航路を 週1回運営したほか、威海を経由する欧米航路、日本航路もあった。国内航路 も、イギリスのスワイヤ商社、ハチソン商社の船舶部の香港─上海─煙台─天 津航路などの定期航路が10航路あった33)。輸出入貿易の発展と商社・海運会 社の威海進出によって、ポート・エドワード埠頭区の地価は1901年当時1ヘ クタール300元であったものが、1921年12,000元、1928年19,500元へと騰 貴した34)。このように威海ポート・エドワード埠頭区の規模は次第に拡大し、 1930年に威海が中国に返還された際には、面積約126ヘクタール、人口約2 万人の港町となっていた。 1930年10月に返還された威海租借地は中国政府によって特別行政区と定 められ、イギリス租借時代に定められた自由貿易政策が取り消され、塩・煙 草・酒などの徴税機関が新設され、すべての輸出入貨物への徴税も開始された。 これによって、輸出入貿易は一時的に衰退し、商社・商店の倒産も見られた。 1933年当時、各種の商社・商店があわせて358社、おもに落花生・海産品の 輸出および雑貨業を経営していた。その後、地方税の減免および道路輸送条 32) 黄光域(1995)『外国在華工商企業辞典』四川人民出版社、633 頁。 33) 何炳賢(1934)『中国実業志・山東省』実業部国際貿易局、66 頁。 34) 前掲呉藹宸『華北国際五大問題』25 頁。
件の改善によって、その輸出入貿易は次第に回復し、商社・商店の新設も見ら れ、1936年当時、各種の商社・商店は685社に達した。おもに輸出入貿易・ 海運・保険業務に従事している外国商社はその資本の優位さゆえに、輸出入貿 易と各集散市場において支配的な地位を獲得した35)。このように最初の 5年 間で返還前の水準に回復し、1936年にその出入港船舶数は7,368隻という最 高水準に達し、輸出入貨物も277万トンに達し、山東省4港の同時期の輸出 入貨物総トン数の18%を占めた36)。 その輸出入商品を見ると、輸入品は19世紀末にはおもに木材・とうもろこ し・煙草などであったが、20世紀の初めからは綿糸・綿布・砂糖・マッチ・石 油へと転換した。輸出品については長期間にわたって落花生・塩・蚕繭がその 主要なものであった。 このように威海が1898年にイギリスに租借されてから1937年までの約40 年間に、威海港の対外輸出入貿易の発展速度はそれほど速くなく、その市場規 模や繁栄程度もその周辺の青島港・煙台港と比べてはるかに及ばなかった。そ の原因はイギリスの植民地政策や威海の貿易環境であった。イギリスに租借さ れた期間、イギリス当局は威海を軍用基地として使用していたため、ドイツの 青島港への投資規模には遠く及ばなかった。さらに都市インフラ・貿易港・交 通機関などの施設も長期間にわたり改善できなかったため、その商品流通が制 約された。また、威海は山東半島の東端にあり、南部の青島港、西部の煙台港、 北部の大連港の間にはさまれていたため、商品集散の範囲の拡大も制限された。