煙台、青島、威海の3都市の近代工業・手工業・商業の数およびその資本額 などの状況は表3のようになっている。当時の統計データは一部不備があるに もかかわらず、この表からわかるように、商業・工業の規模はまったく同等の レベルではなく、青島の商業・商店の年間営業額は煙台、威海両都市の合計の 約30倍、手工業の資本額はその合計の約1.7倍、近代工業の資本額はその合 計の約60倍であった。
この商工業の資本額については、『中国実業志・山東省』の序章で、「中国 の商工業界の経営者全員は資本と技術の不足で苦しめられている」と述べてい る。これも山東省の近代工業と都市発展に影響を与えた主要な問題であった。
1930年代初期には外国資本の工場を除いて、山東省の民族資本による工場総数 は10,624か所、その資本総額は43,152,563元で、その平均額はわずか4,062 元であった。山東省の民族工業の資本額は青島における鐘淵・大日本など日本 紡績工場の資本総額のわずか約4分の1にすぎなかった39)。
38) 前掲何炳賢『中国実業志・山東省』135-137、778頁。
39) 前掲王守中『近代山東都市変遷史』669頁。
輸出入貿易においても、外国資本の商社がほぼ独占し、民族資本の商社はそ の数が多いものの、その資本と規模が小さいため、倒産もよく見られるなど、
外国資本商社との競争力はまったくなかった。この意味からドイツ・日本の資 本が青島や山東省へ進出することは、その地域の商業・工業および都市整備に 大きな役割を果たしたといえる。
また、商・工業の設立とその発展にともなって、都市の人口増加も青島が最も 速く、1897年の約63,000人から1933年の436,772人へと約6.9倍に増加し、
煙台については1891年の32,000人から1933年の139,512人へと約4.4倍に 増加し、威海については1898年の123,700人から1932年の195,630人へと 約1.6倍に増加したにすぎなかった40)。なお、各都市の外国人の増減状況は、
青島が1906年の1,462人から1933年の約13,000人へと増加、煙台が1906 年の992人から1933年の約1,200人へと増加、それに対して威海は1906年 の173人から1933年の約100人へと減少した41)。
表3 1933年当時の青島・煙台・威海の工業と商業の比較(単位:千元)
都市 商業・商店 手工業 近代工業
商店数 資本額 年間営業額 工場数 資本額 年間生産額 工場数 資本額 年間生産額 青島 7,143 106,197 2,329,695 1,069 2,407 ─ 101 226,530 69,493 煙台 524 1,995 76,068 342 1,386 5,623 13 3,857 ─
威海 358 ─ 2,492 65 61 ─ 4 53 ─
合計 8,025 108,192 2,408,255 1,476 3,854 5,623 118 230,440 69,493
出所:何炳賢(1934)『中国実業志・山東省』実業部国際貿易局、丙−丁頁の統計より作成。な お、近代工業とは電力・蒸気を動力として用いられた工業である。そして、青島の近代工 業の年間生産額には建築材料の9工場のデータが含まれていない。
以上のように、煙台、青島、威海の3都市の発展状況を見ると、都市整備・
人口増加・商工業発展などすべての面で青島が最も高水準にあった。青島の発 展過程を総合的に分析すると、青島都市経営者(都市行政管理機関)の経営・
管理理念は、青島の都市整備を加速しただけでなく、青島の商・工業および社 会・経済の発展をも促進していった。青島都市経営者は、近代都市開発政策に
40) 前掲何炳賢『中国実業志・山東省』12-13頁。
41) 前掲外務通商局『清国事情』171頁、何炳賢『中国実業志・山東省』12-13頁。なお、1906年 のデータには青島・威海に駐在するドイツ・イギリスの軍人数を含まなかった。
基づき、都市各部門間の相互協力を唱導し、都市基盤を整備するとともに、通 信や金融などの公共施設、鉄道・港湾などの交通機関、商社・海運会社などの 流通環境などを整備し、それにともない輸出入貿易と経済発展を順調に推進す ることが可能となったといえる。
青島と比べて、煙台は30数年以上の輸出入貿易の経験を持っていたにもか かわらず、都市基盤の未整備や経営者の近代経営・管理理念の不足などの原因 によって、その輸出入貿易も経済発展もほぼ停滞したままであった。このよう に都市の形成と発展は、都市経営者の経営管理理念と政策方向と直接結び付い ていることはもちろん、商工業、運輸、通信、金融など各産業および社会的・
経済的基盤とも緊密に結びついており、そのどれが欠けても不可能であった。
また、輸出入貿易の発展時期と環境と差異によって、煙台と青島の輸出入 貿易の特徴も異なった。煙台の開港と初期貿易は、欧米資本主義諸国からの中 国への商品輸出の段階にとどまっていたが、青島の開港は欧米資本主義諸国か ら中国への資本輸出の段階まで行われた。青島港の建設・膠済鉄道の敷設・外 国資本企業の創設などは、この資本輸出の具体的な現われであったといえる。
このため、青島輸出入貿易の規模が煙台を遥かに越えただけでなく、貿易商品 の構成も煙台と同じではなかった。輸入商品には外国の工業製品と日用品のほ か、機械設備・工業原料などが含まれ、その輸入比率は次第に増加し、1920年 代には紡績機械および原料綿などの輸入が大幅に増加していった。それと同時 に、輸出商品には工業製品の綿糸布・巻タバコなどが含まれ、その比率も急速 に増加した。
このように青島の輸出入貿易は、青島近代工業の発展や農産物の商品化と緊 密に結び付いていた。商品流通の範囲から見ても、煙台のそれはわずか山東省 東部および東北部に集中していたにすぎなかったが、青島のそれは山東省全域 および周辺諸省にも広がっていた。このように青島商品流通市場の範囲が次第 に拡大していったからこそ、青島は山東省および中国北部の対外輸出入貿易の 中心港となったのである。なお、青島と同じ年に租借された威海では、租借者 自身の軍事目的や商業利益を獲得するために実施された租借政策によって、威 海の都市拡大と経済の速やかな発展にいたることがほとんど見られなかった。