The Mill on The Floss における Tom Tulliverと自己変革
15
0
0
全文
(2) 24. になっていたらしい。だが,そのような内心の恩いはお. 生計を切りつめて目に立っほどの不足をきたらすことな. くびにも出さぬように自制し,ひたすら職業的成功と一. く暮らしていく巧妙な方法である,と考える習慣」を保. 家の名誉回復のために献身していく。そうしたTomの. 持し, 「正味500ポンドの年収が入るようになった今で. 姿は,一面,けなげな哀れさを催させるものであろう。. も, 500ポンドの資本しかなかったときと同じように」. とはいえ,彼が職業的成功を昇っていくにつれて「家に. (112)つましく暮らしてゆくような人たちの一員である。. いるわずかの時間もますます無口になって」(258)いく. 語り手が指摘しているように, 「貯めることそれ自体が. 様子や先述のMaggieの勘当に示唆されているように,. 目的となった貯蓄の習慣」(111-12)が抜き難く身につい. 彼が一心に献身していく偏狭な自助の精神は,愛やその. ているMr. Gleggとは,多少の芸者を前提にしなけれ. 他の人間的感情を枯渇させ,深い自己の表現の余地を次. ば「経済的自立」というものがほとんど望めなかった. 第に浸食して人間関係の喪失をもたらし,9果ては20世. 「旧式な時代」に属する, 「前の世代の勤勉な商人」(112). 紀的荒地の住民たる心の貧しいうつろなる人間-M.. という人物類型を代表する人物なのである。これら. ヴェーバーのいう「精神のない専門人,心情のない享楽. 前代の商人たちは「ゆっくりと彼らの財産を作り上げた」. 人」たる庵o)tもb'」10 -を生み出していくことにな. 人たちであり, 「困窮のすぐ後から浪費がやってくるよ. 辛-t'ラクター・タイプ. る。あるいはGEと同時代の他の文人の表現を借りて言. うな,今日のてっとり早い金儲けの時代にはほとんど失. えば, M. Arnoldが「果てしない荒海に点在する」11. われてしまった『-種族』」(112)である。専ら地道な貯. 島々にたとえた,人間の孤独な生の有様を,また、. 金と倹約によりこつこつと財産を蓄えていこうとする. Disraeliのいう「お互いの間に交際もなく同情もない、. Glegg夫妻の「所有を望む」( "having," 471)精神は, 産業革命期以前の,すなわち,資本主義の歴史から言え. 二つの国民」12の溝を,それはますます深めるものでし かない。 このように,偏狭な自助の精神という世紀中葉のエト スに対するGEの批判を媒介する人物として, Tomは. ば重商主義の,伝統的な経済観念を表したものであり, 明らかにMr. Deaneのそれとは著しい対象をなしてい る。. 本質的にはAdamと同類の人物であるといえるが,一. 一方,現職のMr. Deaneは,物語の主要な時代背景. 方, Tomをして熟練した腕をもっ職人Adamと区別さ. となっている1829年から1844年という産業革命期とそ. れる独自の存在たらしめているものは,彼が経済に最大. の後の新しい時代を身をもって生きている商人である。. の価値と興味をいだき,経済市場を舞台に活躍する,い. 彼は貧しい一介の少年から自らの才覚と努力で急速に地. ホモ・工コノミクス. わゆる経済人であるという点に求めることができる。. 位と富を上昇させ,ゲスト商会という繁栄している有力. Millでは新旧の対照的な商人像が時代背景を踏まえて. な会社(船舶や工場を所有し,銀行業の会社をも合わせ. 明瞭に描き分けられ, A. Smithのいう「商業社会」13 に対するGEの認識の的確さが,とりわけ読者の注意を. 持つ,セント・オッグズにある会社)のパートナーにの し上がった,文字通りの独立独行の成功者であり,その. 引くものとなっている。以下,時勢と商人像の変化に注. 意味ではまさに, 〟lllが発表される前年に出版されて. 目しながら, Tomと時代のエトスの関係をさらに詳し. ベストセラーとなったSamuel SmilesのSelf-Help. く見ていきたい。. (1859)で述べられている自助の精神の体現者たちと同. (i) Mr蝣GleggとMr. Deane. 類の,一種の社会的英雄と言える人物である。 「大規模. 〟lllにおける商人像を退職した者,現職の者,新人. に商売を行い」, 「Tomの野心と一致する程度の進み方. の三世代に分けてみるとき,それぞれの世代を代表する. で立身出世した」(209)人物として,一家の破産後,. 人物として挙げられるのが, Mr. Glegg, Mr. Deane, Tomの三者である。ここでは,まず,前者の二人をと りあげることにする。14. Tomが求職の助言を求めるのが,このMr. Deaneであ. 余生を楽しむという目的で「羊毛繊維選別人としての 活動的な仕事から退いて」(110),今では妻のMrs.. るTomに対して, Mr. Deaneは自ら生き抜いてきた 時代の「変化」を次のように述べている: 「わしが若造だった頃から見ると,今の世の中は動き. Glegg -Dodson家の長女で「女性らしい慎慮と倹約 の見事な化身」(Ill)一一に言わせれば「ばかげた道楽」. が早い。そうじゃないか,おまえさん,四十年前わし. (110)である素人園芸を気晴らしにしている, 「善良な」. 上に立てるようになるまでは,人生の大部分を苦役に. 白髪の老紳士Mr. Gleggは「金を儲け,金を貯めるこ との好きなたち」で,近所の人たちから「しまつや」と. 費やす覚悟でいたものだ。機織り仕事はもっとゆっく. 呼ばれている「憎めないけちん坊」(Ill)である。投資. た,わしの一張羅の服など六年ももったものだ。なに. がおまえのように屈強な若者だった頃の人間は,人の. りしていたし,流行だってこんなに早くは変わらなかっ. するにしても利子は低いが確実に安全なコンソル公債で. もかも,おまえさん,桁違いになったのさ-費用. あり,また, 「気楽な隠居生活」の身分でも「生活とは. のことを言っているんだがね。これだけの違いができ.
(3) TheMill on the FlossにおけるTom Tulliverと自己変革. 25. たのは,この蒸気のせいなんだ,おかげで車輪という. ピロ-グは洪水から5年後, 1844年の有様を物語るも. 車輪は二倍の速力が出る。それにつれて幸運の女神の. のであるが, 1844年といえば,日々の労使の対立と. 車輪もまわったんだ。 --・ひとによって違うが,わし. 「社会的殺人」16をっづった,エンゲルスの『イギリス. はこの変化に文句はつけない。 --・誰やらも言ってい. 労働者階級の状態』(1845)がまさに執筆されている時期. たが,麦の穂が先にゃ一つきりしか出なかったところ. にあたるのである。もっとも大産業都市ではなく,一地. へ二つつくれるとなれば,こりゃ大したことさ。しか. 方の商業の町に過ぎないセント・オッグズとその界隈を. し,おまえさん,商品の交換を促進し,穀物を空腹な. 舞台とするMillでは産業地獄そのものが描き出される. 人たちの口にいれてやるということも,また大したこ. ことはない。 GEがこの作品で問題にしているのは,産. とだ。それがわしらのやっている仕事だ。この仕事に. 業地獄という表層にあらわれた社会的なものというより. 関係することは,一人前の男の職業としてこのうえな. も,むしろそのような産業地獄を生み出していくことに. く立派なものだ,とわしは思うている。」(372). なる深層の時代のエトスに関わるもの,すなわち, Mr. Deane的企業家の楽天主義がはらむ否定的側面である。. 引用文中, Mr. Deaneが述懐している「人の上に立て. そうした否定的側面は,いわば彼の愛弟子たる新人の商. るようになるまでは,人生の大部分を苦役に費やす覚悟. 人Tomにおいて,顕著な形をとって読者の前に提示さ. で」いなければならなかった「四十年前」の時代とは,. れることになる。その点を見て行く前に, Tomがその. まさしくMr. Gleggが属していた「前の世代の勤勉な. 血を色濃く受け継いでいるDodson家の気質を,まず,. 商人」の時代を表している。片や, 「蒸気力」がもたら. 押さえておかねばならない。. した機械の車輪と「幸運の女神の車輪」の回転の「二倍 の速度」に象徴される,動きが「ずっと早く」なった. かたぎ. (ii) Dodson気質と「資本主義の精神」 「大ブリテンのプロテスタント派」に属し, 「慣例と. 「今の世の中」とは,語り手が以前に「困窮のすぐ後か. 体裁の良いことなら何でも」(255)あがめたてまつる,. ら浪費がやってくるような,今日のてっとり早い金儲け. 「蟻にも似た」 Dodson家の「最も散文的な種類の人間. の時代」と称していた世界の有様をより具体的に説明す. 生活」と「息もっまるような偏狭さ」 (254)はこれまで. る言葉となっている。それゆえ, Mr. Deaneのいう. よく注目されて来たところである。その「まっとうさ」. 「今の世の中」とは,時代背景となっている1830年代だ. (256)をきわだった特質とするDodson気質のうち, 「勤. けでなく,語り手のいう「今日」すなわMillが執筆・ 発表されたヴィクトリア中期をも含む,産業革命後の世. 勉」や「倹約」(255)を尊び, 「完壁な高潔さと徹底的に 物事をなすこと,一般に認められた規律に忠実なこと」. 界が広く含意されたものと解してさしつかえないであろ. を名誉とみなし, 「正直で富裕であること,しかも単に. う。そして,このような時代の「変化」を歓迎し,. 富裕であるばかりでなく,世間で思われている以上に裕. かたぎ. 〟-トナ-シップ. 共同事業制に自ら献身して, 「商品の交換を促進し,穀. 福であること」(256)を一家の旗印に掲げるDodson的. 物を空腹な人たちの口にいれてやるということも,また. 倫理の側面には,明らかにプロテスタンティズムの「世. 大したことだ。それがわしらのやっている仕事だ」と誇. 俗内的禁欲」17と呼ばれるものが反映している。ただし,. らしげに私益と公益の一致を語る商人Mr. Deaneとは, 経済観念的に見れば, A. SmithやRicardoら政治経済. そこには「ほんのごくわずかの神学的要素」(255)しか 認められないとあるように,もはや本来のプロテスタン. 学者たちの理念-すなわち,無限責任による共同事業 制と商品の交換・労働の分業を擁護し,見えざる神の手. ティズムの信仰から離れて,むしろ世俗的富裕さの合理 的追求-目的合理性の意識を合意する慎慮をその特. の働きによって仕事による私利の追求が公益となると説. 質の一つにもつDodson家には, 「気前のよい,慎慮の. く自由放任主義の理念-の積極的な共有者であり,. 無さ」(256)をもつTulliver家と違って,破産者は一人. 実業家として見れば,共同事業制に基づく事業の所有者-. もいないと述べられている-に重点が移り,ヴェーバー. 経営者として進んで仕事に熟L、な関心をもち,産業革命. が「資本主義の精神」18と呼んだ精神態度に通じるもの. を推進・擁護していった19世紀前半の産業資本主義. が認められよう。この点に関しては,同じ兄妹でもタリ. (自由競争的資本主義)的企業家という人間類型を代表. グァ一家の「温かい愛情と激しやすい無分別」(256)の. する人物なのである。 だが,一種の社会的英雄として成功したMr. Deane. 血を色濃く引いたMaggieとは対照的に, Dodson家の 血を色濃く引いた実際家のTomを見れば一層はっきり. が楽天的にいだく私益と公益の一致という理念は,すで に1819年からはじまる一連の工場法あるいは1842年か. する。水車場(製粉場)を営む,典型的な産業的中産者 層の息子として育ち,破産した一家の経済的再建に成功. らはじまる一連の鉱山法の制定の必要性が逆説的に暴露 しているように, 「イギリス工場都市の産業地獄」15に. するTomの主要な特性は,すでに指摘したように,節 制と禁欲,慎慮と自制,意志と勤勉,独立独行の精神等々,. よって裏切られつつあったのが現状であるMillのエ. まさしくDodson的特質の要約と見なせるものであり,.
(4) 26. こうしたDodson的特質の体現者として彼は, 「実際的. と呼ばれる地位に昇りつめてはいたが,その時でも小規. な抜け目なさ」を発揮しながら,世俗的成功を目指して. 模経営を中心とした, 18世紀の伝統的な経済構造はな. ひたすら遠進していくのである。そしてこれらDodson. おも併存していたのである。19それゆえ、産業革命の終. 的Tom的特質は,単にSmiles的自助の精神の徳性で. 期直後にあたる1830年代に生きて活躍しているMr.. あるばかりでなく,ヴェ-バーが「資本主義の精神」の. DeaneやTomは,歴史的には徐々にその役割を終えつ つあるが全般的に見ればいまだ健在の「資本主義の精神」. 古典的な表現と評しているFranklin的徳性とも重なり 合う。というのも, Benjamin FranklinがSmilesの Self-Helpの中で挙げられている社会的英雄の一人であ. を担う商人たちなのである。 (iii) Tomと時勢の変化. 「資本主義の精神」は本質的に通底する要素を含んでい. ここで注目すべきは,青年期に産業革命期を過ごした Mr. Deaneよりも一世代若い,次世代の青年Tomの. るからである。このように,ヴェ-バーに先だっていち. 態度の中に,じつは「資本主義の精神」の消失後の状況. はやく19世紀中葉に, 「資本主義の精神」を内包するド. の一斑が窺えるということであろう.それは19世紀後. ることからも窺えるように, Smiles的自助の精神と. かたぎ. ドスン気質を「ボスウェも知らなかったプロテスタンティ. 半の法人資本主義(独占資本主義)において台頭してく. ズムの-変種」 (第4部第1章の章題)と名付けて叙述. る新しい富豪階級の出現と関連している。. したGEの桐眠さは注目に値しよう。. N. N. Feltesも指摘しているように, Millが執筆・. そもそもプロテスタンティズムの倫理から「世俗内的. 発表されたヴィクトリア中期は,経営史的に見れば,育. 禁欲」を受け継いで生まれた「資本主義の精神」は,隣 人愛の実践としての仕事自体-の専心及び利潤の獲得と. 限責任(liability)をめぐって議論が沸騰し,近代的株式 会社制度の法的整備が進められていく時期にあたる。す. いう二つの中心を含んでいるものであるが,前者の隣人. なわち,産業革命期以来,主流を占めて来た共同事業制. 愛の実践から後者の利潤への追求へとその垂心が移行し ている点に,プロテスタンティズムの倫理と「資本主義. から19世紀末に広く普及することになる株式有限制へ と,企業経営のパラダイムが変化していくその過渡期に. の精神」を分かつ示差的特性が認められる。 A. Smith やMr. Deaneがいだいていた私益と公益の一致という. あたるのである。その歴史的経過を,まず,簡単に押さ. 理念は,この「資本主義の精神」における二つの中心-. リスでは無限責任の私企業による経済を最も健全なもの. 隣人愛の実践と利潤の追求-の調和と言い換えるこ. とする世論が根強く株式会社は企業を毒し,投機. えておくならば、20 1720年の南海泡沫事件以来,イギ ジョイント・ストック・カンパニー. とができようが,資本主義の発達にともなって,この二. と詐欺的設立を助長するものと見られていた。それゆえ,. つは次第に分離し,利潤の獲得だけがますます追求され. 運河や損害保険など少数の公共的会社を除けば,株式会 社制は厳しく制限され,あまり普及しなかったのである。. て行く結果となり,すでに指摘したように,歴史的には 産業資本主義社会における様々な社会問題-工場都市. 産業革命の進展に伴い,有限責任-の要請が高まっていっ. の産業地獄や「二つの国民」に代表される経済的貧困と. たが,産業革命期もその後も,企業経営としては,資本. 人間関係の喪失の問題-を生み出していった。 Tom. 家が同時に経営者でもある共同事業制が主流であった。. の中に投影された世紀中葉の功利的個人主義と化した偏. 銀行の隆盛(1823-35;60行設立)と鉄道熟(1836-37の. 狭な自助の精神は,経済社会学的に見れば, 「資本主義. 第一次ブーム; 1844-46の第二次ブーム)がそのような. の精神」の歴史的進展の所産ということができよう。た. 状況に転機を与え,やがて1844年株式会社法が制定さ. だし,資本主義の発達を促し,ついに産業革命を引き起. れ,近代的株式会社制度の基礎が築かれることになる。. こす一因になった「資本主義の精神」はやがて産業革命. これによって,株式会社制と共同事業制が初めて明確に. 級,機械の基礎の上に立って資本主義経済の社会的機構. 区別され,法人化を希望する会社は一定要件を登録し,. が確立してしまうと消滅していく運命にある。いわゆる. 設立証書をこの法律にのっとって修正すればよいことに. 「自然史的過程」 -社会的分業の進展による労働の疎. なったのである。ただし,この時には会社債務に対する. 外(物象化) -が起こり, 「世俗内的禁欲」のエート スを核とする「資本主義の精神」そのものが,資本主義. 責任は依然として連帯無限責任であり,有限責任をめぐ. にとってもはや不必要なものとなっていくからである。. 法律の制定はゆっくりとしか進展しなかった。なぜなら 商業界は自由放任主義に基づく「買い主をして注意せし. だが,ここで産業革命(1760-1830)によってイギリス. る議論が沸騰することになる。だが,投資家を保証する. 社会が一挙に工業社会に姿を変えたわけではないという. めよ」の原則(売り主の明示もしくは黙示の担保がある. 事実を押さえておく必要がある。工場制の成立は繊維産. か,あるいは詐欺があるかの場合でなければ,買い主は. 業を中心に産業の一部門において見られただけで,イギ リス全体に機械化,技術革新が及んだわけではなかった。. 自らの危険において買うのであって,目的物のきず・欠. たしかに19世紀中糞,イギリス経済は「世界の工場」. 陥などを理由に救済を求めることができないとする,自 由放任経済思想下に確立した売買法上の原則)に深くコ.
(5) The Mill on the FlossにおけるTom Tulliverと自己変革. 27. ミットしていたからである。しかし, Sadleir事件. に移しながら, 「公債-株式所有貴族」によって支配さ. (1856)のような悲惨な倒産が起こってようやく,有限 責任制が次第に確立していくことになる。まず, 1855. れる金利生活経済-と転換していくのである。なるほど. 年に有限責任法が制定され, 44年の株式会社法に基づ. 会会議における「結局のところ,最良の助けは自助であ. いて登録した会社のうち,銀行と保険業を除くすべての. る」という表明,あるいは, 1901年に刊行がはじまる. 会社に有限責任の特典が与えられた。翌56年にはこの 有限責任法が一部改正された株式会社法が, 58年には. 雑誌『成功:インスピレーションと自助の月刊誌』の存. 銀行法が制定され,ついに1862年株式会社法を集大成. 続けていく倫理である.だが一方,こうした新しい富豪. Smiles的な勤勉に基づく自助の精神は, 1889年の聖公. 在に見られるように,ヴィクトリア後期もなお支持され. した株式会社統合法が成立し,全産業部門で株式有限制. 階級の出現に対応して, 『素早くお金を儲ける方法,あ. が実施可能となるのである。もっとも,これらの法的整. るいは財産を作る30のやり方』 (1868)を筆頭に,骨折. 備によって株式会社制の利用が容易化したからといって, イギリスはすぐさまいわゆる法人資本主義の段階へと移. り仕事をせずに富を得たいと望む人々に助言と奨励を与 える本やパンフレットが1860年代後半から増大しはじ. 行したわけではない。まず,鉄道,ガス,水道などの資. める。そして『いかにして5シリングから1000ポンド. 本を大量に調達しなければならない公益事業の分野で株. のお金を儲けたか』 (1890)といった本の氾濫にみられる. 式制が普及し,産業分野∵一般に普及するのは国内投資ブー ムが生じて企業合同が活発化する19世紀末まで待たね. ように,どうやら1890年代までにはノンフィクション の分野でこうした単なる食欲に訴える「即席成金の手引. ばならないのである。. き書」(get-rich-quick manuals)の巨大市場が形成され フイクション. いずれにせよ,成功の倫理という観点から言って注目. ていたらしい。小説の世界-とくに二流小説と呼ば. すべきは,こうした法的整備にともなって19世寿己中葉. れるもの-においても,事態は同様であった。 1850. 以降,次第に株式会社制が普及するに応じて,資本と経 営の分離が進行するとともに,富裕な上流階級ないし上. 年代から1880年代半ばまではSmiles的な勤勉・禁欲の. 層中流階級だけでなく小金を貯めた下層中流階級や労働 者階級さえもが投資階級化する契機をもつようになった. 倫理を表明したものが優勢を占めていたが, 1880年代 半ば以降,この新しい富豪階級に好意的な小説が優勢と. という点である。主として自己金融方式(年々の利潤を. なり,とりわけ1890年から1910年頃まで隆盛を誇るよ うになるのである。. 次々に生産に注ぎ込んで事業を拡大していく方式)にのっ とり,資本家が同時に経営者として積極的に事業に参与. こうしたヴィクトリア後期の時勢の変化を視野に入れ て, Tomの成功の仕方を再度眺めてみるとき,彼が弱. していく共同事業制は,勤勉・節約・独立独行といった. 冠20歳で予想外の短期間のうちに借金を全額返済でき. Smiles的Franklin的禁欲の美徳を尊ぶ自助の精神や. たのは, 「少しずつ貯えを増やしていく気長な方法にか. 「資本主義の精神」に合致したやり方であったが,今や,. えて,金を倍増させるかもしれない投機」(292)に頼っ. 資本と経営の分離によって,企業経営そのものにおいて も,そうした禁欲的美徳は後退をよぎなくされていく。. たからであったという事実が目を引く。思惑買いで失敗 したことのある父親の反対にも動じることなく, Tom. そして,このような国内証券投資だけでなく,通信手段. はBobがもってきた投機の話に積極的に加わっていく。. の発達による海外証券投資の飛躍的拡大をも背景にして, もはや額に汗して働くことなく,投資により有力者にの. けちなGlegg夫妻を説いて借金し,それを元手に投機 に乗り出したTomは,以後,情報収集などを怠らず合. し上がった新しい富豪階級-投機家や金融業者など-. 理的な態度をもって資本を回転させ,可能な限り継続的. が出現しはじめ,例えば、生まれではなく,お金という. にこの投機に集中して急速に財をなしていくのである。. 通行証によって以前は閉じられていた社会的国境を越境. Tomの投機に対する行動様式には,一昔前の債倖目当 ての冒険商人的な非合理性ではなく,目的合理性的思考. していく無謀な投機家たちを報告した『タイムズ』の記 事(1875年8月11日)に代表されるように, 1875年頃か らその賛否両論が頻発して人々の注目を引くようになっ. が認められよう。23しかも,ここに窺えるのはMr.. てくるのである。21しかも社会ダーウィニズムがその富. Deaneに見られたような所有者-経営者として無限責任 で「商品の交換」に意をくだく政治経済学的・産業資本. 豪階級に似非科学的根拠を与え,やがて20世紀初頭に. 主義的な態度ではなく,自分の資金にだけに責任を負う. は「持てる者に与え,持たざる者から奪うことの福音」. 有限責任の形で「資本の交換」に意をくだく法人資本主. と称されるものが提出されることになる。22また,伝統. 義的態度である。だが,興味深いことに, Tomの場合,. 的な地主階級も大不況(1873-96)の痛手を受けてその. 投機に成功したからといって,それだけに専心するわけ. 資産を徐々に土地から有価証券に移行させていくことに. ではない。あくまでMr. Deaneのような独立独行の成. なる。明らかに時勢が変化して, 19世紀最後の四半世. 功者になることを目標に,勤勉に会社勤めを果たしなが. 紀,イギリス経済はその活動の重点をサービス・金融業. ら,投機にも手を出すのである。結局, Tomには二種.
(6) 28. Mr. Deaneに代表される産業資本主義的な独立独行の. であり, 「水車場」から「工場」 -という語義の変遷が そのまま時代の変遷を映し出すものとなっているのであ. 企業人と法人資本主義的投資家である。24すでに見てき. る。 MillではMr. Tulliverの財産が売り立てに出され. たように,歴史的にはヴィクトリア後期にいたると前者. た時, Mr. DeaneがTulliverの水車場(製粉所)は. は徐々にではあるが後者によってとってかわられていく。. 「とくに蒸気で動かすようにした場合,たいへん有利な. つまり, Mr.Deaneのようなタイプの企業人は,ちょ. 投資になるだろう」 (374)と考えていたと述べられてい. うどMr. GleggのようなタイプがMr. Deaneにとって. る。 「五代もの間」(374) Tulliver家によって所有されて. 類の経済人のタイプが混在・共存していると言えよう。. そうであったのと同様の, 「前の世代の勤勉な商人」と. きた昔ながらの水車場にも,蒸気力による機械化の波は. なっていくのである。そしてこのような変化を生じさせ. 着実に押し寄せつつある。 Mr. Deaneの会社が水車場. るもととなったのが, Millが執筆・発表されたヴィク. をMr.Wakemから買い戻し, Tomがそこの主人に納. トリア中期に進展する近代的な株式会社制度の法的整備. まったとき,蒸気力が導入されたかどうかははっきりと. ^EKlニ. だったのである。共同事業制から株式有限制へと企業経. 述べられてはいないので,どうやら,昔ながらの水車に. 営のパラダイムの変化に呼応して,それを担う経済人も. よる製粉所のままであったらしい。だが,早晩,こうし. 産業資本主義的な企業人から法人資本主義的投資家へと. た昔ながらの水車場は蒸気力に動かされる製粉所,つま. 変化していくことになる。そのような変化の過渡期にあ たるヴィクトリア中期において, GEは今後新たに優勢. り,蒸気製粉工場-と変わっていかなければ, 〟lllと 同時期の19世紀中葉に発表されて人気を博したドーデ. となる経済人の姿の片鱗を,現職の成功した商人Mr.. の『風車小屋便り』(1866-69)に登場するコルニー氏の. Deaneを目標として額に汗して働きながらも,投機で素. 風車小屋-風車も水車と同様、中世を支えた原動機. 早くお金を儲けていく若き世代の経済人Tomの中に描. であった-と同様,蒸気製粉工場により廃屋へと追. き出していると言えよう。 GEの時勢に向けられた眼差. いやられるか,せいぜい文化遺産として保存の対象にな. しの鋭さが窺えるところである。 Mr. Deaneの出世が. るしかない。. 体現していた「今日のてっとり早い金儲けの時代」. Millが執筆・発表されたヴィクトリア中期の人々に. (112)は,今後ますますそのてっとり早さの速度を早め,. とって,水車場とは,商人でいえば,まさに当代の視点 にたって語り手が「前の世代の」商人と明言している. 「幸運の女神の車輪」は一層速く回転することを余儀な くされていくことを, GEは見抜いていたのである。 商人としてのMr. DeaneやTomによって具現されて. Mr. Gleggのような,時代の変化の中で急速に消滅な いし消滅しつつある存在に他ならず,それゆえ,一昔前,. いる時勢の変化に注目するとき, 「フロス河畔の水車場」. すなわち産業革命以前の時代-のノスタルジーを強く喚. というこの作品のタイトルそのものが極めて示唆的であ. 起する存在だったのである。水車場から工場の時代へ,. ることに気づかされる。このタイトルは,それだけを取. あるいは, Mr. Gleggのような貯蓄型の旧式な商人から. り出せば, 「フロス河畔の工場」と訳すことも可能であ る。すなわち, "TheMillontheFloss"の"mill"は,. Mr. DeaneやTomによって代表される,商品や資本の 交換に意をくだく独立独行の商人の時代へと,時勢は流. タイトルを見ただけでは, 「水車場」なのか近代的意味. れていっている。作品のタイトルとなっているフロス河. での「工場」なのかはわからない。小説の内容を踏まえ. 畔の水車場が象徴するものは,多元決定的に多様な解釈. てはじめて水車場と理解できるのである。ここには,単. を許容するものと言えるが,時代の変化というコンテク. に"mill"という語の多義性以上のことが合意されてい. ストから言えば,ゲゼルシャフト的な産業・商業社会に. よう。そもそも``mill"が「工場」を意味するようにな. おいて急速に消滅しつつある古きものの象徴であると解. るのは,アークライトの水力紡績機に見られるように,. せよう。ヴィクトリア朝の中産階級的な楽天主義は,. 蒸気機関が発明される以前の初期産業革命の時代,最初. Mr. Deaneに見られるように,こうした時勢の変化を. の工場が水力を利用するため,急流のほとりに数多く建. 社会の進歩として歓迎していた。だが,保守的改革家と. 造されたことに由来する。やがて蒸気機関が発明されて. してGEは,社会がますます物質主義的,個人主義的に. 以後は水力に頼る必要がなくなり,工場は町の中に建て. なっていく時代の中で,人間にとって本質的に価値ある. られるようになる。こうして産業革命の進展とともに,. もの-すなわち,古きものの中に息づいていた良き. 中世の動力革命を担い,また,産業革命の初期を支えた. もの-が次第に失われつつあることを憂慮し,警告. 動力でもあった水車は,蒸気の登場によりその長い歴史 を急速に閉じ,過去の遺物と化していくのである。だが,. を発しているのである。そうしたGEの問題意識は,偏 狭な自助の精神に主導された経済人としてのTomが. 工場を意味する"mill"という言糞の方は,以後もずっ. 「家にいるわずかの時間もますます無口になって」陥っ. と慣用的に使われ続けることになる。25 "mill"におけ. ていく,孤独でうつろな様相に,端的に見てとれよう。. る「工場」という新語義採用は,まさに産業革命の所産. 前の世代を代表するGlegg夫妻の場合,肉親の粋を垂.
(7) TheMill on theFlossにおけるTom Tulliuerと自己変革. 29. んL:,身内の者としてTomにしかるべく通産を与える. る.だが, Tomのこの献身は一見,家族のための自己. ことを当然のことと見なし,また, 「しまつや」の彼ら. 犠牲的行為であるように見えるけれども,心底は利己的. がTomの投機に融資するのも肉親の情が大きく関与し. なものである。なぜなら,一家の破産によってもたらさ. ていたからであった。しかし,時代をリードしている現. れた自己の不名誉とその挽回こそがその主要な動機となっ. 職の世代にあたるMr. Deaneになると,親戚の一員と. ているからである。また, Stephen-Maggie事件で過失. して,破産したTomの身の上にいたく同情はしても,. を犯したと考えられたMaggieに対して,日頃は何かと. Tomをゲスト商会で雇用するにあたっては肉親の辞を. 口やかましい伯母のGlegg夫人がそれなりに思いやり. 考慮することはない。 Mr. Deaneは人の成功と失敗を. のある態度を示してMrs. Tulliverを驚惜させるのとは. すべてその人自身の「功績」と「過失」(373)に帰して. 対照的に, Tomが妹のMaggieを勘当してしまうのも,. はばからず,彼がパートナーの地位にあるゲスト商会は. 「正しいことと間違ったことの区別を知っているのは僕. 「情に基づいて商売を行うことはしない」(227),慎重な. だ,ということを世間に知らせるんだ」 (457)と述べて. 会社なのである。26こうした実際的な合理主義と経済的. いる彼の言葉から明白なように,やはり「[自分の]美徳. 個人主義の進展は,資本主義の発展にとって不可避のも. だけ」 (326)が問題とされているのである。まさにこう. のであるとしても,血縁の秤の軽視に提喰的に示唆され. した利己的な,仕事への献身と出世欲を内から支えてい. ているように,社会全体における人間関係の喪失を助長. るものこそ,すでに見たように,ヴィクトリア中期の主. する。 「鉄の湯沸かしみたいに黙りこくって-・-たいそ. 要なェトスとしてGEが断罪していた偏狭な自助の精神. う不機嫌そうに一人で腰を下ろし,額に八の字を寄せて,. なのである。. じっと炉の火をみつめて」(367)いるTomの姿は,昼. 皮相な正義感を振りかざして,人を厳正に裁いていた. 間の外的に活動的な経済人の陰画として,内的に孤独で. 少年期のTomを称して,語り手はいみじくも「ラダマ. メランコリ-のうつろな人間の姿-いわゆる20世紀. ンサスのような人物」(46)と述べていた。父なき後,今. 的荒地の世界の住人たる「無のもの」を予徹するもの-I. や青年となったTomが近代のラグマンサス(剛直な裁. を浮き彫りにするものであろう。近代的な-経済人とし. 判官)として君臨するフロス河畔の水車場に,もはや中. てのTomが陥っていく精神的孤独と孤立を通して,偏. 世的なアジ-ルの機能はのぞむべくもないStephen-. 狭な自助の精神というエトスに捉えられた19世轟己中葉. Maggie事件で惟怖し,保護を求めて帰って来た妹の. のヴィクトリア朝人が陥ってゆくことになる心の貧困化. MaggieをTomは無情にも水車場から閉め出し,勘当. と人間関係の喪失化の問題が,批判的に描き出されてい. してしまうのである。 Tomが苦心の末に取り戻したこ. るのである。. の水車場は,その意味では彼の世俗的成功を象徴するも. ところで, Millにおける洪水-死の場面は,この作. のと見なすことができるが,彼のいだく成功の倫理を反. 品の批評史上,とかく議論の的となってきた箇所である. 映して,そこにはもはや,かつての温かい家庭が存在す. が,その芸術的評価は別にして,この最終場面で劇的に. る余地はない。母親も勘当された娘のMaggieに付き添っ. なされるTomの改心すなわち一種の自己変革に, Tom. て出て行ったために, Tomだけが使用人とともにそこ. が陥っていく不毛な孤立した世界に対する処方室として. で暮らすことになるのである。一方, Tomと同類のセ. GEの掲げるヴィジョンが読みとれるようである。次章. ント・オッグズの町民たちは「腹黒い図々しい娘」(463). では,その対照的な性格と生き方ゆえに, Tomのいわ. とMaggieを見なし,そんな彼女を勘当したTomに味. ば影的存在ともいえる妹Maggieの人間的成熟とからま. 方して,彼を「真に立派な若者」と称えることになる。. せながら, Tomの自己変革に託されたGEのヴィジョ. 真相を伝えるStephenの手紙の内容が伝えられようとも,. ンを考察していくこととする。その際,これまでの経済. あるいは, Maggieに味方してDr. Kennがいかに尽力. 的な分析に代わって,むしろ心理的な分析が前景化され. しようとも,偏狭なセント・オッグズの町民たちはどう. ることになるであろう。. してもMaggieを許そうとはしない。セント・オッグズ の町名が憐れみにうたれて聖母の要求を満たした聖オッ. n Tomの自己変革 (i)近代のラダマンサス 「子供時代の黄金の門」を出て以後, Tomは自分の 感情を殺して一家の名誉を挽回すべく,ひたすら経済的. グのいにしえの伝説に由来することを思うとき, Maggieに対するその町民たちのこうした頑な偏狭さは, 読者をして,その町名にアイロニカルな響きを感取させ ずにはおかないであろう。. 成功と社会的出世を求めて,昼は実務に,夜は実務の知. 結局, 「終始一貫した克己とたゆみない勤労の幾年」. 請(簿記や計算等)の修得に-そして後には,それ らに加えて投機に-献身する。その一途さはけなげ. (455)の末にTomが手に入れたのは,家族の住まない 水車場と偏狭な世間のとるに足らない称賛である。たし. で,まだ弱冠16歳に過ぎないことを思えば哀れでもあ. かにTomに託された「亡き父の臨終の願望」(455)の.
(8) 30. うち,水車場を取り戻すこと,および,できる限り母の. 原理(男性性)とエロスの原理(女性性)と称される,. 面倒を見ることという二つの願いを彼はほぼ見事に果た. 多分に対立的な二つの要素のそれぞれを,極めてリアリ. したが,父親が彼の妹のMossに「親切にした」 (337). スティックな形で,優勢的に体現する人物として描き出. ように妹のMaggieに親切にしてやるという願いは聞き. されていると見ることができるであろう。. 入れられなかったことになる。亡き父Tulliverが心底. (iii) Maggieの成熟. 望んでいたのは,水車場を取り戻して,以前のように家. すでに幼い頃に「現実と書物と空想からなる三重の世. 族の者たちがそこで幸せに暮らしてゆくことであったに. 界」(258)の中で「内なる衝動と外なる事実との抗争矛. ハウス. 違いない。単なる(家)という器に,生命を吹き込み,. 盾」(257)を経験してきていたMaggieは,やがて. ホーム. (家庭)という温かい,血のかよったものにするのは,. Stephen-Maggie事件という最大の試練をへて, Tomと. そこに住む人々の心の粋である。水車場という家を取り. 比べていちはやく,自己の内面をより深く正視し,自己. 戻しても,肉親の粋を無情にも断ちきったTomには,. の未熟な情熱や欲望を自ら律することのできる,より高. その家を家庭に変えていくことはできない。それが可能. 次の存在へと精神的・道徳的に成熟をとげていくことに. となるには,近代的経済人・近代のラグマンサスとして. なる。 Stephen-Maggie事件でMaggieが直面する苦悩. の彼が精神的に生まれ変わらなければならないであろう。. は,本質的には,愛と義務の葛藤というよりはむしろ,. (ii) 「二人兄妹(弟)」のモティーフ. それまでのMaggieの苦悩が皆そうであったように,様々. ここで,この作品に民間説話ではおなじみの,伝統的. な愛の間の葛藤としてとらえられるべきものである。. な「二人兄妹(弟)」のモティーフが用いられているこ. 「愛されたいという欲求」と同時に「打てば響くような. とに注目したい。 〟lllにおける民間説話的要素として. 愛情」の持ち主であるMaggieは、その豊かな愛情ゆえ. は, Maggieの物語における「醜いアヒルの子」のモティー. に種々の愛の問で苦しむことになる。 「想像力と同情」. フが従来指摘されてきたところである。だが, Tomと. が欠けているTomがあずかり知らぬ種類の苦悩である。. Maggieを主人公とする物語としてMillをとらえた場. 茜が谷でのPhilipとの逢瀬は,心やさしい愛すべき. 合, TomとMaggieがGEの兄のIsaacとGE自身を幾. Philip,そして隠れて彼と会っていることを知ったら悲. 分モデルとしているという伝記的要素とは別に,これら. しむであろう, Maggieの愛する父親,この両者の間の. 二人の主人公の設定に, 「二人兄妹(弟)」という文芸上. 板挟みにMaggieを陥れる。 Stephen-Maggie事件では. のコンヴェンションが踏襲されている点を見逃すべきで. 「若い情熱の琴線をはじめてかきならした」(442)異性と. はないであろう。このモティーフでは通常,二人の兄妹. してのStephenに対する思いと,幼年時代以来の愛着と. (弟)が人間精神の何らかの相反する二つの側面をそれ. 深く結びついたLucyやPhilipに対する思いの間で. ぞれ表している。そして二人が何らかの形で別れた後,. Maggieの「心と魂」(449)は二分され,苦悩するので. また一緒になって,もう二度と離れることのないものと. ある。ボートに乗って潮に流される以前Maggieは. して終わる結末に,人間精神の相反する二面性の統合に. Stephenに対して,すでに次のように告白していた:. よる人間的成熟が象徴的に示されることになる。28 この「二人兄妹(弟)」のモティーフという観点から. 「愛することは自然です。けれども,同情も,誠実も,. 言えば, TomとMaggieが抱き合ったまま死を迎える. 思い出も,また,たしかに自然です。そして,そうい. 洪水-死の場面は象徴的意義が込められたものとしてそ. うものは今もなおわたしのうちに生きていて,もし,. れなりに擁護できることになろう。それはさておき,. わたしがそれに逆らうならば,わたしを罰するでしょ. Millにおいて,兄のTomの方は知的には幼くとも彼を. う。わたしは他の人にくわえた苦しみに絶えずつきま. 「一人前の男らしい」(258)ものにした「慎慮と自制」並. とわれるでしょう。私たちの愛は汚されるでしょう。. びに「弓釦\意志」に富んではいるけれども, 「自分の動. 無理におっしゃらないでください。助けてください-. 機をこと細かに探って見るような性質ではなく」(323),. 助けてください,だって,わたしはあなたを愛してい. 「想像力も同情もない」(370)心の持ち主,片や,妹の. るんですもの。」(424). Maggieの方は,兄とは対照的に, 「想像力に富んだ情 熱的な性質」 (257)で「愛されたいという欲求」(32)と. そしてポート上での, Stephenの再度の求愛に際して. 同時に「打てば響くような愛情」(ready affection, 371). も, Maggieは彼に対して次のように述べ,それを拒絶. を持ってはいるが,とかく感情を爆発させて「極端から. するのである:. 極端へと」(326)走る傾向があり, 「慎膚と自制だけは全 然欠けて」(258)いる。このように, TomとMaggieの. 「思い出があります。愛情があります。完全なる善へ. 「二人兄妹」は,人間精神という心理学的な観点からい. のあこがれがあります。それはこんなにも強くわたし. えば,現実原理と快楽原理,あるいは,ひろくロゴスの. を捉えています。それは決していっまでもわたしを離.
(9) TheMill on the FlossにおけるTom Tulliverと自己変革. 31. してはおかないでしょう。それは戻って来てはわたし. 層的な愛のジレンマの根底にあるのは,利己主義と利他. を苦しめることでしょう--・」(449). 主義の二項対立的葛藤などではなく,利己的ならざる自 己愛とその自己愛の延長・拡大されたものとの間のジレ. 「今日までわたしは苦しみ,誰にも憐れんでもらえま. ンマである。なぜなら, LucyやPhilip, Stephenの苦. せんでした。そして今度はわたしがほかの人たちを苦. 悩を思いやるMaggieの心情は,自己の苦悩を通して拡. しめています。それは決してわたしを離れないでしょ. 大された他者の苦悩への同情であり,自己愛の延長・拡. う。あなたの愛をかえって苦しいものに思わせるでしょ. 大されたものとしての利他愛だからである。ここに見ら. う。」(451). れる自己愛から自己愛の延長・拡大されたものとしての 利他愛へという,成熟してゆくMaggieがたどる愛の発. 「わたしが-いいえ,わたしたち二人があの人たち. 達の軌跡は,現代の社会心理学者フロムなどの説くとこ. に対してすまないと感じることが,あなたのお身のた. ろのものとも軌を一にしているが,30むしろより興味深. めになるとは考えられません。ただ,わたしたちにで. いのは,すでにルソーが思春期の同情JL、・人類愛教育と. きるのは,この日先のことに我値をとおすか,それと. して述べていたものと照応L GEとルソーの親近性. も,私たちの内心の神の声に従うために・--それを諦. が如実に見てとれるということであろう。さらに茜が谷. めるか,そのどちらかを選ぶことです。」(450). でのPhilipとの逢瀬はTomによって中止させられたも ので, Maggieが自らの意志で決断したものではなかっ. MaggieがStephenを諦めようとするのは,たとえ心. た。しかし,このStephen-Maggie事件では, Maggie. 惹かれるStephenと結婚しても,愛するLucyやPhilip. は自分自身を見据えて,自発的・主体的に自己の行為を. を苦しめたという思いがその結婚に影を落とし,その結. 決定する者ともなりおおせているのである。. 婚は自分自身にとってもStephenにとっても幸福なもの. さて, Stephenと決別した後,帰宅したMaggieを待. とはならない,という彼女自身の「内心の神の声」に従っ. ち受けていたのは,すでに触れたように,兄やセント・. たからである。自分自身の幸福がその判断の基準の一つ. オッグズの町人たちの無理解と偏狭な道徳観である。. になっているのであり,決してMaggieが自己否定・自. Maggieがセント・オッグズの社会と対決しなければな. 己犠牲的に愛を断念した結果ではない。この点は従来,. らなくなった時, Maggieの愛のジレンマは「情熱と義. ともすれば誤解されてきたところであり, Maggieの愛 の本質に関わるものとして押さえておく必要があろう。. 務」(468)の問の葛藤という要素を濃くしていく。どう. Maggieは人一倍,愛と同情心に富むゆえに,人一倍,. の前ではDr. Kennの尽力も無力と化してしまうセント・. 他者の苦悩に対しても敏感である。そのような自分自身. オッグズの偏狭な社会との絶望的な対決に直面して,. の性質から判断して,その結婚が引き起こすことになる. Maggieの心にはStephenへの愛そのものだけでなく,. LucyやPhilipの苦悩の思いが自分に終生っきまとって. むしろ,その愛に付随していたものの魅力が一層痛感さ. 離れず,結局,その結婚は自分自身にとってもStephen. れはじめ, Maggieの当初の決意-「内心の声」に従っ. にとっても不幸なものにならざるを得ないとMaggie自. たものとして,その当初の決意を遵守することは,今や. 身見抜いているからこそ,断念するのである。しかし,. Maggieにとって一つの聖なる義務と化している-杏. この利己的ならざる自己愛にMaggieが殉ずることは,. 繰り返し揺るがすようになるからである。その魅力とは,. 彼女を強く愛しているStephenを苦しめることになる。. 彼との結婚が提供する,もはや世間から後ろ指をさされ. Stephenを愛しながらもその愛を断念する苦しみを自ら. ることもない,美と愛に満ちた,賀沢で安楽な生活であ. してもMaggieのことを理解しようとせず,その頑迷さ. 味わっているMaggieには,彼女の拒絶がもたらす,愛. る。それは, Maggieがこれまでどんなにあこがれても. するStephenの苦悩がわが身を切るように察知され,そ. 手に入れられなかった生活であり, 「大いなる誘惑」 (第. の彼に対する同情ゆえにMaggieは一層,心を痛めるの. 5巻の表題)として繰り返しMaggieに襲いかかってく. である。29異性として意識されたStephenに対する思い. るのであるStephenからの説得の手紙を前にして. も,幼い頃の思い出と固くよりあわされたLucyや. Maggieが最後の葛藤を克服した時, Maggieは「彼女. Philipに対する思いも,それぞれ多様な愛の一面を表す. ほどの過ちを犯したことのないひとには,とうてい窺い. ものとして,それ自体は何ら非難されるものを含んでは. 得ない,人間の愛情と忍苦の神秘」(486)に参与したも. いない。だが, Maggieの置かれていた状況はこれらの. のとして,その魂は「見えざる憐れみの神」(485)とと. 愛の両立を許さず,どちらかの愛をとれば,もう一方の. もにある存在にまで高められていく。この場面における. 愛する者を傷つけることになる。そしてその愛する他者. Maggieの「悲しみに打ちひしがれた顔」(485)に,ヴィ. の苦悩を思って,愛情の人であるMaggieはさらに一層,. クトリア朝的予型論として, 「大いなる誘惑」に打ち勝っ. 自分自身苦しむことになるのである。このようにこの垂. た(悲しみの人(キリスト))のイメージを読みとるこ. ォifr.-.
(10) 32. とは許される解釈であろうMaggieはいわば女性のキ. るのは,結末の洪水-死の場面まで得たねばならない。. リストとして, GEのいだく人間主義的な「倫理的宗. Tomはそもそも父親と並んでMaggieにとっては人生 の「二つの偶像」(261)をなす存在であった。 Tomは幼. 教」32の具体的相関物となっているのである。この Maggieによる最後の葛藤の克服は,まさしくAdam Bedeにおいて同様にキリストのイメージを帯びること. 年の頃には「情にもろいところ」(33)もあって,屋根裏. になるAdamが体験する「火の洗礼」33に相当するもの. 食べたりしたこともあったが,ゲスト商会に働きに出る. に他ならないと言えよう。このようにして, Stephen-. ようになって以後,すでにわれわれが見てきたように,. Maggie事件で「償い難い過ち」(444)を犯したMaggie. 近代的経済人として, Maggieが体現している豊かな感. は,その大いなる苦しみと悲しみの下,彼女の内なる愛. 情面を殺してひたすら個人主義的・合理主義的に仕事に. 情深い自己愛を延長・拡大させてキリストに表象される. 遇進していく。商売上,外国にも足をのばして外的な活. 大いなる人間愛にまで高め,精神的により高次な存在へ. 動の場を広げていくTomであるが,彼が仕事に遇進す. と成長を遂げていくのである。. ればするほど,彼の内的な感情生活はますます枯渇して. たとえ,いかにセント・オッグズの町が無理解に Maggieを拒絶しようとも, Maggieが達成した人間愛 は愛の連鎖というものを作り出していかずにはいない。 Stephen-Maggie事件を通してMaggieが達成した愛は, この事件に強く関わる人々-LucyとPhilip-の心に 波紋を投げかけ,最終的には彼らの心を浄化して. 部屋で泣いているMaggieを慰めてお菓子を分け合って. いく。. 一方は虚弱で精神的な繊細さをもち,他方は頑健で粗 野な,いわゆるヴィクトリア朝的な男らしさをもっもの として,肉体的にも精神的にも対照的なPhilipとTom に, Stephen-Maggie事件は対照的な結果をもたらすこ とになる。すでに見たように, Philipが他者に対して開. Maggieと同様の精神的成長を促していくPhilipが. かれた「拡大された生活」に目覚めていったのに対し,. Maggieにあてた誠実な心のこもった手紙が示している. TomはMaggieを勘当することによって,進んで肉親. ように,その事件が引き起こした激しい苦悶の中から,. の粋を断ち,自閉的に一層その孤独と孤立を深めていく. Maggieの愛の本質を理解していったPhilipのMaggie. ことになるのである。厳格なラグマンサスとして独我論. に対する愛は, 「利己的な欲求」(473)を脱して「完全な. 的に人を断罪していくTomは,いわば罪と罰の旧約的. る熱烈な愛」 -と高められ, 「他者の生涯をわがもの」. 世界の住人であると言えよう。そして洪水の場面,使用 人の姿も見えない,文字通りの一人ばっちで,洪水に囲. とする「拡大された生活」がもたらす「新たな力」(474) を得ていくことになる。いみじくもこのMaggieあての. まれた水車場の屋根裏部屋に閉じこめられて窮している. 手紙の中でPhilip自身が用いている「拡大された生活」. Tomの姿は,彼が体現する偏狭な自助の精神がもたら. 及び「新たな力」という言葉には,精神的成長を遂げて. す,人間関係の喪失した,精神的にうつろで孤独な人間. いったAdamがDinahに愛を告白する場面で,彼女へ. の行き着く先を象徴するものとなっている。35心理学的. の愛が彼にもたらしたものとしてAdamが述べていた. に指摘されているように, 「われわれを圧倒するような. 言葉(「拡大された存在」及び「新たな力」34)のこだま. 経験だけが,われわれの心に,その経験と呼応する,対. が聞き取れよう。 Philipのなした精神的成長がAdam これらの言葉が雄弁に証しているのである0 -方, Ste-. 処しがたい内的な感情をまきおこす。」36 StephenMaggie事件はMaggieやPhilipにとってまさにそのよ うな「火の洗礼」的経験であったと言えるが, Tomに. phenを諦めたMaggieの心中を察し,一番苦しんでい. とってはこの洪水の場面がそれにあたるのである。. るのがMaggie自身であることを理解していったLucy. 大洪水の中,いわばく黒髪の聖母) 37として自らの 危険を顧みず,単独ボートを操りながら, Tomを助け. やMaggieのものと本質的には同一のものであることを,. は,心の打撃にやつれた身体を押して,ある夕方, Maggieを慰めに訪れてくる。今はまだStephenを許せ る気持ちにはなっていないLucyであるが,エピローグ. にやってきたMaggieの, 「ほとんど奇跡的な,神に守 護された」愛の行為は, 「圧倒的な力をもって」(490). の伝えるところでは, TomとMaggieの死後,何年も. Tomに迫り, 「大層鋭く,明噺だとうぬぼれていた彼の. たってStephenとLucyは結婚することになる。. 洞察力を超えた,人生の深遠さ」(490)を啓示する。こ. Stephen-Maggie事件というつらい事件と「心ひろきM. こでいう「人生の深遠さ」とは, Tomが「子供時代の. aggie」(475)の存在がLucyとStephenに及ぼした感化. 黄金の門」を出て以来,その極めて個人主義的で合理的. の帰結が,この二人の最終的な結婚,つまり,二人が長. な人生の中で切り捨てて生きて来なかった「想像力や同 情」, 「豊かな愛情」といった,人間的で時に不合理なJL、. い年月をかけて和解し,再び新たな愛をはぐくんでいっ たこと,の中に示唆されていると言えよう。 (iv) Tomの成熟. 情-彼の妹のMaggieによって優勢的に体現されて いた,いわゆるエロスの原理-にかかわるものであ. 問題はTomである。彼の場合,愛の連鎖が達成され. る。己の存在の卑小さを痛感させる大洪水の中,.
(11) The Mill oli theFlossにおけるTom Tulliuerと自己変革. 33. Maggieと一対一で対時した時,はじめてTomは. にはじめて,親愛を表す人称代名詞"thee"で呼びかけ. Maggie的な愛の真実を認識するのである。今Maggie. るのである,40 Adamによって涙ながらにはじめて発せ. は「惟悼した顔」に「熱烈な生命をたたえた眼」(490). られる"thee"と,漸悦の念をたたえたTomによって. をしてTomと向かい合っている。心の窓たる彼女の眼. 涙ながらに愛情深く発せられる``Magsie!"は,それぞ. に宿る「熱烈な生命」とは,まさに熱烈な愛の発露の謂. れの主人公の人間的成長の内実を縮約的に示す,決定的. に他ならない。そしてこのようなMaggieを前にして, 「ある種の畏拓と漸悦の念で青ざめた顔をした」 Tomは,. な一語と見なせるものなのである。. その灰色の眼をうるませながら, "Magsie!"という. の悲劇は彼の改心すなわち自己変革が遅すぎたことにあ. 「昔ながらの子供らしい言葉」(490)で呼びかけるのであ. る。啓示を受けたTomの改心により, Maggieが何よ. る。 Tomにとって水車場が「[幼年時代の]もの恩いや. りも望んでいた兄Tomとの和解がようやく成し遂げら. 愛」(35)に連なる場所であるとすれば, "Magsie!"は. れたにも関わらず,それもつかの問,二人は固く抱き合っ. i. °. 同様に幼年時代のもの恩いや愛に連なる言葉である。. 結局,シェイクスピアのリア王の悲劇と同様, Tom. たまま, 「仲良く小さな手を振り合って,雛菊の花咲く. ° °. Tomのこの愛情深い呼びかけの言葉は,単に彼のこれ. 野をさまよった日々を,崇高な一瞬に再びよみがえらせ. までの無情さが氷解し,仲違いをしてもすぐに仲直りを. て」(491)死んでしまうことになるのである。だが, 「二. した,あの幼年時代の愛情が復活したことを示唆してい. 人兄妹」のモティーフという観点から見た場合, Tom. るのではない。 「ある種の恐怖と漸悦の念」をたたえて. とMaggieが再び一緒になってもう二度と離れない-. この言葉を発するTomの姿に窺えるように,この言葉. 「彼ら死して離れざりき」(492)という,この劇的. には,それまで自己の生き方を深く顧みることなどした. な結末に,心理学的にとらえられた人間の成熟の本質が. ことのなかったTomが, Maggieの真の愛情を理解で. 象徴的に描き出されていると解しうる。人間がより高次. きずにつらくあたってきた,これまでの自分の人生の誤. の存在へと精神的に成長していくためには, Tomと. りにはじめて気づき,己を恥じ入って謙虚に, Maggie に対して許しを請う気持ちが込められていよう。彼の灰. Maggieがそれぞれ貝現していた人間精神の二面性合理的で無情な理性の人たるTomが表すロゴスの原理. 色の眼の上にかかっている「かすみ」(490)すなわち涙. (男性性)と感情的で温かい愛情の人たるMaggieが表. とは,まさに浄化の涙にはかならない。かくしてTom. すェロスの原理(女性性) -が,内的に止揚・統合さ. の自己認識が今ようやく達成されたのである。. れていかなければならない。この内的統合を表象してい. この新たな啓示を受けた場面で, Maggieが体現し,. るのが, Tom個人に関して言えば,彼によって発せら. 彼がこれまで生きて来なかった人生の半面の価値を認識. れる上述の"Magsie!'という愛情深い言葉であり,. するようになったTomとは,社会学的な人間類型の観. TomとMaggieの兄妹に関して言えば,この最終場面. 点からいえば,本論の第一章で分析したような偏狭な自. での,二人の永遠の抱擁という,象徴的に視覚化された. 助の精神にとらわれていた近代的「経済人」の状態から,. 図像なのである。その意味では,子供時代の至福の一時. 異質の他者や価値を受け入れることのできる,いわゆる. をよみがえらせながら, TomとMaggieの兄妹によっ. 筏り花メ天j 38へと内的変身を遂げていった人物と言え. てなされる,この永遠の抱癖-奇しくもシャガール. るであろう。また,個人主義思想ないし時代のエトスと. の,夢見るような男女の抱擁のモティーフへの連想を誘. いう観点から見た場合,これまで旧約的世界の抑圧的人. う図像-は, GEが"Women in France:Madam de. 間関係の中で独我論的にMaggieや他者を支配し裁いて. sable" (1854)というエッセイの中で「心の結婚」41. ひととき. きたTomがゲゼルシャフト的なく我-それ)の関係に. と呼んでいる,人類の幸福を生み出す女性精神と男性精. 基づくモノローグ的世界にいたのだとすれば,この"M. 神の融合,の具体的相関物として, GEが後のV.. agsie!'の発語によってゲマインシャフト的な(我一. Woolfと共有する「理想的な状態としての両性具有の. 汝)の関係に基づくダイアローグ的世界に参入し,それ. ヴィジョン」42を見事に表象するものと言えよう。さら. までの彼が体現していた自己中心的な功利的個人主義が,. にまた,ここで注意すべきは, Tomの発する,昔なが. 人間関係を重んじる,愛他的な一種の「柔らかい個人主. らの子供らしい"Magsie!"及び死の直前,二人がよみ. 義」39へと修正されていったことを意味していよう。こ. がえらせた「雛菊の花咲く野をさまよった日々」が,壁. の場面での,この'Magsie!"という感動的な呼びかけ. なる幸福な子供時代の再現・繰り返しではない,という. は, Adamの中でAdamがHettyに対して唯一"thee". ことである。すでに触れたように,新たなる啓示を受け. と呼びかける印象深い場面を想起させずにはおかない。. て生まれ変わったTomゆえに,それらは差異を含んだ. それまで一貫してHettyに対して"youと呼びかけて. 繰り返し-いわゆるニーチェ的反復43 -となってい. いたAdamであったが, 「火の洗礼」を経た彼が,. る。つまり,洪水という非日常的な自然の災害に直面し. Hettyの処刑のE]の朝,やつれた彼女を見て,涙ながら. て一時的になされた仮の和解-子供時代に繰り返し.
関連したドキュメント
インドの宗教に関して、合理主義的・人間中心主義的宗教理解がどちらかと言えば中
これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と
ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配
であり、最終的にどのような被害に繋がるか(どのようなウイルスに追加で感染させられる
職員参加の下、提供するサービスについて 自己評価は各自で取り組んだあと 定期的かつ継続的に自己点検(自己評価)
ぼすことになった︒ これらいわゆる新自由主義理論は︑
倫理委員会の各々は,強い道徳的おののきにもかかわらず,生と死につ
社会的に排除されがちな人であっても共に働くことのできる事業体である WISE