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A La Recherche du Temps perduにおける日常性の変容 : そのサディスムまでの考察

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A La Recherche du Temps perduにおける日常性の

変容 : そのサディスムまでの考察

著者

青柳 りさ

雑誌名

年報・フランス研究

18

ページ

1-16

発行年

1983-12-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/9122

(2)

∠ 滋

θ

ttι

γ

ε

ttι

カ ル ″

s夕

ι

γι

にお け る日常性 の変容

一一 そのサデ ィス ムまでの考察 一一

1953年

,Lester Mansieldは

,Lι

CοπJσπιご′ル化κιZ Prοπs″1)ンこおいて す でに

,人

々が

PrOustの

作品を難解 でわか りに くいエ リー トのための もの と 勘違 い し

,小

説 としての面 白 さを見落 とす恐れが生 じつつあ る ことを指摘 し②, また,Jα

R″

んθだんθ は

,作

品の深遠 さ

,思

,知

的着想

,表

現 の豊富 さに よ って際立 ってい ることは勿論であ るが

,更

,人

を楽 しませて くれ る作品 とし て も読み ごたえのあ るものであ るめ,と 述べ てい る。 その原因に 日常性 の特異 な描写力があ る。例 えば

,Proustは

作品の中で,人 々が心 の内で感 じてい ること

,

日に出す まで もない

,む

しろ当た り前 の ことと して 口を喋 んでい ることを綿 々 と書 き綴 る。読者 には心 当た りがあ る。 この よ うな「 心 当た り」で以て

,読

者 は

PrOustの

増 幅 され た 日常性描写 に

,一

種 の 共 感 を持つ ことにな る。彼 の描 く人物 は確か に面 白いのであ る。 彼は

,あ

る使命を帯びた典型的人物 とい うものを描かず°,日 常あ りふれた 人間をあるがままに

,つ

くらず

,選

択せず

,決

定を下 さず

,彼

の 日に映 ったま

まに詳細に描 く。

Andr6 Mauroisは ,P16iade版

の序文の中で

,こ

れを「素 材選択への無関心 (son indi∬6rence au choix des mat6riaux)5)」 と呼び,

PrOustの

独創性 として把えている。 この ような一見無関心 とも受け取れ る 姿 勢 を生み出 し

,そ

の姿勢を著作 と深 く結びつけているものについて

,Maurois

さ 柳 圭目 卜     ,

(3)

И Jα Rθεttιγεttθ α%r′%夕s夕ιγα%における日常性の変容 は 次 の よ うに説 明す る。 彼 (PrOust)は い くつかの 特徴によって 著作に運命づけられている。 気質か らいっ て

,彼

は神経質で病的に敏感である。素晴 らしいがまた盲 目的愛情を抱 く母親に育ま れた彼は

,ほ

んの僅かな不調和の陰影に も苦 しみ

,反

感あるいは嘲笑のごくかすかな 波動を も苦痛を もって記録す る。 もっと硬い甲殻をきた他の人な ら誰 も

,い

つまで も 跡形を残すような ことのなかった場面が

,彼

の精神にとどまって

,ま

るで救いを求め る地獄にある魂のように彼につ きまとう。「作家は精いっばい運命の何 らかの不公平 の償いをつける」 プルース トは埋め合せや釈 明や 慰めの切迫 した要 求を感 じてい る(0。 彼 の この sensibilit6こ そが

,彼

を人 並 み とはか け 離れ た 力 で著 作 に結 び つ け る。 彼 の sensibilit6と い う フ ィル タ ーを通 す 時

,

日常 の光 景 が 文 学 的 素材 とな る。 この論 文 の 目的 は

,作

品 の 中 に と り込 まれ て い る微 細 な まで の 日常 生 活 が, いか に して

banalな

日常 性 か ら変 容 して い るか とい うこ とを

,彼

の sensibili‐

t6

とい う観 点 か ら分 析 す る こ とで あ り

,更

,ス

トイ シス ム

,そ

して 日常 的 現 実 とは結 び付 き難 く見 え るサ デ ィス ム とい うものが

,実

,彼

に お い て は, 日常 性 の延 長 上 に生 じるべ くして生 じた もので あ る こ とを 明 らか に して い くこ とで あ る。 江 (1)Mansfield,Lester.,二 ι Cο %づg%ι αθ几〃αγθιノPγο%sι,Paris,Nizet,1953。 (2) Ibid。, p・ 10. (3) Ibid。 , p. 11。

(4)Cfo Proust,M.,Cοπιγι Sαづπιι―βι%υθ,P16iade,Paris,Ganimard,1971。 Rοπαづ%

RοJ′απα, pp。 307-10.

(5)Proust,M。 ,И Jα Rθελι,′θttθ α%rι%夕s夕 θγαπ,3vol,P16iade,Paris,GalHmard,

1954,tome I,Pγzttzεθ par Ao Maurois,p.IX.

(4)

∠ ノα Rθθんιγθttθ α%rι%クsクιγグ

%に

おける日常性の変容

l-1残

酷 な 光 景

日常 の光景は

,話

者 の sensibilit6と い うフィル ターを通 して描かれ てお り, そ の描写に一種 のパ ターンを認め る ことがで きる。 ところで

,作

品中

,

日常性 が最 も顕著に表れ てい るのは

,些

細 な意地悪や

,突

然表面化す る残酷 さの描写 の中にである。 従 って

,

この章では

,

人間の残酷 さを取 り扱 った 四つ の場面 (この場面では また

,エ

ゴイズム

,言

い訳

,時

としてユ ーモアが表れ る

)に

つ いて考察す る。

I.ヴ

ェルデ ュラン夫人が シェルバ トフ大公妃 の 死を知 る場面 (Ⅲ

,pp.238-40。 )。 場面 は ヴェルデ ュラン夫人が主催す る夜会であ る。夫人は

,彼

女 のサ ロンの 常連 であ り

,親

しい友人であ るシェルバ トフ大公妃の危篤

,次

いで死の知 らせ る受け とる。夫人は

,自

分 が悲 しみ な ど微塵 も感 じていない こと

,従

って会を 取 り消す理 由な どない ことを宣 言す る。 この夫人 の大胆 な発言に よって

,会

は 事 な く進行す る。 言葉 の過激 さ (人 の死に対す る無関心 の宣言

)に

もかかわ らず

,夫

人 の発言 は

,実

際 には何 も起 こさない。社交界 におけ る「 穏 やか さへの志 向」 とで もい うべ きものが

,そ

こに居 る人 々に咄嵯に働 いている。 しか し更に も う一言

,作

者 は付 け加 えないではい られ ない。即 ち

,常

連達 の心 に残 った こだわ り

,戸

惑 い

,割

り切れ ない思 いを

,作

者 は推察 し

,書

き留 め るのであ る。 類す るエ ピソー ドが

,ス

ワンの もとですでに発生 してい る。そ してス ワンを 語 る時

,話

者 の洞察は一層深 まってい る。

(5)

4

И ′α Rθθみθγελθα%rιz夕s夕θγα

%に

おける日常性の変容 Ⅱ

.ス

ワンが ゲル マ ン ト公爵 夫 人 に 自 らの死 を予 告 す る場 面 (Ⅱ,pp.578-97。)。 作 品前 半 部 の 自眉 と も 目され る この 場 面 で

,

読 者 は

,Lθ

s PZα ′sグrs α Jθ s Jo“

rsの

中 の 中編

,Lα

Дんrι dル Bα郷ごαssα″ SJJυαπご′ に 見 られ た の と同一 の テ ーマが幾重 に も繰 り返 され て い くこ とに気付 く。 それ は まず

,ゲ

ル マ ン ト 公 爵 が瀕 死 の い と この状 態 を無 視 す る こ とに始 ま り

,ゲ

ル マ ン ト公 爵 夫 人 とス ワン とに 引 き継 がれ る。社 交 の楽 しみ と瀕 死 の人 の思 い とが 天絆 にか け られ, 社 交 の楽 しみ の方 が重 きを なす の で あ る。 数 ケ月後 に 自 らの死 を予感 した ス ワンが

,敬

愛 す る グル マ ン ト公 爵 夫 人 を訪 問 し

,ふ

と自分 の近 い死 を漏 らす 。 公 爵夫 人 は今

,夜

会 に 出か け よ うと して い る。 「何をおっしゃるの」 と公爵夫人は馬車の方へ進む足をちょっと止め

,青

く憂鬱な, そ して不安に満 ちた美 しい 目を上げて叫んだ。外へ食事をしに行 くために馬車に乗 る ことと

,瀕

死の人に同情を示す こと,こ うも違 う二つの義務に生まれて初めて板挟み になった夫人は

,見

習 うべ き判例を示 して くれ る儀礼集の中に何一つ見つけることが で きず

,い

ずれを優先すべ きかに迷 って

,今

の場合

,少

ない努力ですむ第一の義務に 従 うために

,第

二の義務が課せ られていることを信 じないふ うを装わねばな らないと 考 え,この板挟みを解決す る最良の策は

,板

挟みの存在を否認す ることだと考えた。 「 ご冗談で しょう」 と夫人はスワンに言 った。 ス ワンの言葉 に一 瞬

,悲

しみ が 見 え る。「 冗 談 とす れ ば い い趣 味 の冗 談 です」 しか し彼 は即 座 に社 交 人 と して の 自分 を取 り戻 す 。 「(…

)で

もご遅刻になってはいけません。お出かけ下 さい」 と彼は言いた した。他 人にとっては,自分 自身の社交的義務の方が知人の死 よりも大切な ことを心得ていた し

,儀

礼上

,彼

は相手の身になって考えていたか らである。 しか し公爵夫人 も

,儀

礼 の上で,自分の出かけて行 く晩餐会が,スワンにとっては彼 自身の死ほど重大でない ことに漠然と気づいていた。そこで馬車の方へ歩みを続けなが ら

,夫

人は肩を落 とし て言 った。「晩餐会なんかいいのよ。 どうで もいい ことなんだか ら!」 ところが この 言葉を聞 くと

,公

爵は機嫌を損ねて叫んだ。 (Ⅱ ,pp。 595-96。) 夫 人 は公 爵 の言葉 に従 うこ とに な る。 一 見 した と ころ公 爵 が 全 て の決定 権 を握

(6)

И ′α Rιελιγθttθ ′%rι%夕s夕 ιγα

%に

おける日常性の変容

5

ってい るかに見 える。 ところが読者は公爵 を見ていない。 視線 は公爵夫人 に注がれ てい る。 ス ワンの死の予告を耳 に した夫人は「 青 く 憂鬱 な

,そ

して不安 に満 ちた美 しい 目を上げて」叫ぶ。 ここに読者は

,公

爵夫 人 の美 しさと

,

その 自分 の美 しさを 十分 に 意識 してい るであろ う夫人の存在 を

,あ

るいはその美 しさを見逃 さない作者 の視線 を感 じとる。親 しい友人 の間 近 な死を耳に しなが ら

,女

は 自分 の美 しさに磨 きをかけている。更に

,晩

餐会 な どど うで もいい ことだ と言いなが ら

,馬

車 の方 へ足 を進 め る公爵夫人が描か れ てい る。 最 も残酷 なのは公爵 のはず であ る。 しか し読者 は公爵夫人 に 目を向け

,思

い や りを期待 し

,そ

うでない夫人を残酷だ と感 じる。描かれてい るのは

,

もはや 公爵 のエ ゴイズムではな く

,美

しい公爵夫人 のエ ゴイズムであ り

,そ

の よ うな 夫人 の立場 を容認 しているス ワンの姿であ る。痛みを感 じなが らもそれ を潜在 的状態 の ままに して しま う二人の人物 であ る。 Lθs PJαグsグ

rs

θι ルs JOπ

rsに

おいて見 られた エ ゴイズムの テーマは,Jα Rιεんθπんιにおいて大 き く膨 らみ

,ま

た変質 している。 エ ゴイズムは公爵 と公 爵夫人 に認め られ るが

,作

者 はむ しろ ここで

,公

爵夫人 とス ワンの心 に潜在す る痛みを凝視 してい るのであ る。 こ うして「 ゲルマ ン ト公爵夫人 と赤 い靴」 の エ ピソー ドが続 いて語 られ ることになる。晩餐会を とるか

,ス

ワンを とるか。 そ して靴 を とるか

,ス

ワンを とるか。対照 は更に際立 ち

,社

交人が描かれ る。 晩餐会 の時間を気に して慌 ただ し くス ワンに別れを告げた夫人は

,黒

い靴 を 履 いてい る。赤 い ドレスには赤 い靴 の方が「粋」であ る とい う理 由か ら

,公

爵 は夫人 に靴 を履 き替 えに戻 らせ る。夫人はス ワンの手前 を気 に しなが らも

,自

らの利 己主義 を容れて公爵 の言葉 に従 う。 ここで もやは り

,そ

の残酷 さに気付 か ない振 りをす る夫人 と

,そ

の残酷 さを容認す るス ワンとが描かれている。 潜在す る痛みは

,

しか し決 して消 え去 って しま うことはない。 《

Sodome et

(7)

6

И ′α Rιθλθ/θttθ α%Tθ π夕s夕ιγα

%に

おける日常性の変容

Gomorrhe》 の章 を隔 て

,《

La Prisonniёre》 の中で

,再

び この靴が話題 に上

る。 す でにス ワンは死んでい る。話者 は ゲルマ ン ト公爵夫人 に嘗 ての晩餐会 の赤 い ドレスを誉め る。「 あなたは真 っ赤 な ドレスに赤 い靴 を履 いてい らっ しゃい ま した (Ⅲ ,p。 37。 )」 しか し夫人は「金色の靴」だ と言い張 る。 そ う思 い込ん で い る。夫人の心か らあの「赤 い靴」は消え去 り

,話

者 の心 には根 を張 る よ う に残 ってい る。 あ るいは夫人は

,思

い出 した くない一つの事件を 自らの記憶か ら消 し去 った のか もしれ ない。が

,い

ずれ にせ よ夫人は忘れ去 り

,話

者 は忘れ られず

,再

び そ の こだわ りを書 き留め る (Ⅲ

,p.38.)の

であ る。 Ⅲ。 コンブ レで

,大

叔母 が祖父 に禁物 の リキ ュールを飲 ませ て祖母 をか らか う 場面。 かわいそうに祖母は部屋に入ってきて

,夫

にコニャックを飲まぬよう懇願する。祖父 は苦 りきるが思い切って く゛つと飲み干す。祖母は悲 しそうに

,落

胆 して

,し

かしほほ 笑みなが ら再び出て行 く。(00・

)こ

ういうことは 当時の私にひどい嫌悪感を与え, 大 叔母をぶちのめしてや りたかった。 しかし

,「

バチル ド

!

とめにいらっしゃい。旦 那様がコニャックを召し上が りますよ!」 を耳にすると

,卑

怯の点ではすでに大人で あった私は

,我

々の全てがひとたび大人になったが最後

,眼

前に悲痛なもの

,不

正な ものを見せつけられる時によくやるあの手 を使った。つまり見ようとしなかったの だ。私は家のてっぺんに上 り

,屋

根裏の勉強部屋の脇の小部屋で涙に咽んだ。 (I, pp。 11-12.) 日常 の些細 な意地悪が,こ話者 にはひ ど く残酷 な ものに思 え

,

とい ってそれ に 抗 す る こともで きず

,話

者は 目をそ らし

,逃

げ 出 し

,涙

に咽び

,そ

して この出 来事 を

,自

分 の卑怯 さを も含めて書 き留めてい る。 ところで このエ ピソー ドの 後 半部 では

,中

心 は もはや大叔母で も祖母 で もな く

,話

者 の卑怯 さと話者 の悲 しみ とい う極めて 個人的 な 問題 にす り替わ ってい る ことに も 留意 してお きた

(8)

И ″α Rθθttθγθttθ α%rι%夕s夕ιγα

%に

おける日常性の変容 ヽヽ。 Ⅳ

.コ

ンブ レで

,

フ ラン ソ ワーズが 若鶏 の首 を絞 め る場 面 (残酷であると同時に ユーモラスで もあるllly。 (…

)私

が下にお りた時

,彼

女 (フランソワーズ

)は

,鶏

舎に面 した下台所で若鶏を 絞めている最中で

,耳

の付根か ら首をおとそ うと懸命にやっているのだが

,当

然鶏は 死物狂いでばたばたや るところへ

,「

こん畜生

!

こん畜生!」 とい う思わず出る彼 女の叫び声が加わ る始末で

,鶏

は私達の召使いの聖なる優 しさや熱情をい ささかぼや けさせて しまった。 (…

)鶏

が死ぬ と, フランソワーズは血 を集めるのだが,その血 が恨みがましく流れ るので

,ま

た して も怒 りにか られて

,敵

の屍を見つめなが ら, こ れを最後 ともう一度「 こん畜生!」 と言 うのだ。私はがたがた震 えなが ら階上に戻 っ た。す く゛に もフランス ソワーズに暇を出 してほ しかった。だが

,一

体誰が私に

,あ

の 熱 々の湯たんぽを

,あ

の香ば しいコーヒーを

,そ

れにああした若鶏の料理までをつ く って くれ るだろ う。実のところ, こうした卑怯な計算は

,私

と同様

,誰

もが しな くて はな らなか ったのだ。 (1,pp0 121-22.) 女 中が鶏 を殺 して料 理 す る とい う日常 の光 景 が 生 き生 き と描 かれ

,PrOustの

表 現 の正 確 さ

,

素 朴 な写 実 が

,

フ ラ ン ソ ワーズの 残 酷 さを 際立 たせ て い る。 《Sale bete!》 とぃ ぅひ ど く卑 俗 な言葉 が

,場

面 に個 性 を与 え

,ユ

ーモ アを与 え て い る。 更 に「 だ が

,一

体 誰 が私 に

,あ

の熱 々の湯 た んぼ を

,あ

の香 ば しい コ ー ヒーを … … あ あ した若 鶏 の料 理 まで をつ くって くれ るだ ろ う (…

)こ

う した卑 怯 な計 算 は

,私

と同様

,誰

もが しな くて は な らなか った のだ」 とい う, 余 りに も言 い訳 と しか 言 い よ うの な い言 い訳 もユ ーモ ラスで あ る。

Michel Raimondは

,こ

の場 面 を採 り上 げ

,時

間 が経 ち

,推

敲 が繰 り返 され る こ とに よって

,場

面 の残 酷 さは遠 い もの とな り

,薄

,そ

してむ しろ ユ ーモ ラス な場 面 とな った の では ないか

",と

述 べ て い る。 「 が たが た震 え なが ら階 上 に戻 った」 話 者 に

,そ

の時

,言

い訳 は あ って もユ ー モ アが あ った はず が ない。 この ユ ーモ アの要 素 は

,あ

りとす れ ば

,作

者 が後

(9)

8

И Jα Rθεttθγεttι ′π rθπ夕sクιγαπにおける日常性の変容 か ら加 えた ものであ る。 しか し

,

この よ うなユーモアが加わ った (この よ うな ユ ーモアを加えた

)こ

とは

,一

体何 を意味 してい るのかP ル αη ttη ιιαJJの冒頭部分 に

,Cと

い う作家が

,鵞

鳥 を海 に追 い散 らし

,湯

れ させて楽 しんでい る光景があ る③。 これは「 フランソワーズ と鶏」 のエ ピソ ー ドの原型 ともいえる。作家

Cの

不可解 な行動 と残酷 さは

,フ

ランソワーズ と い う人物を採 ることに よって 日常化 され

,彼

の不気味 な楽 しみは

,彼

女 の粗野 な言葉 と興奮 とに よってユーモアで包 まれ ることになる。更 に ここに

,何

も成 し得 ない話者の言い訳が長 々 と書 き加 え られ てい くのであ る。 続 いて,ια

R“

んθκんθ では

,

フランソワーズが下女中を追い出 して しま う エ ピソー ドが語 られ る0。 フランソワーズは, 同僚を主家に居つきにくくしようという不断の意志にそうため に

,い

かにも熟練 した無慈悲な策略を弄 したもので

,あ

の年の夏

,私

達がほとんど毎 日のようにアスパラガスを食べたのも

,ず

っと後になって私達は知ったのだが, この アスパラガスの匂いが

,そ

の皮をむくことを仰せつかった下女中に

,ひ

どい喘息の発 作を起 こさせるからなのであって,この女中はとうとうそのために

,暇

をとって出て 行かなくてはならなかったのである。

(I,P.124。

) や は り「知 らなか った」か ら仕方がなか った とい う事実を話者は書 き留め るの であ る。 彼 の「 書 き留め る」 とい う行為 に よってな され てい ることで

,こ

こで も う一 度確認 してお きたい ことは, 1。 あ りふれた 日常 の光景 の中か ら残酷 さが浮 き 彫 りに され てい る こと。2。 事件 の描写 と同 じ

,あ

るいはそれ以上 の比重 を も って「 知 らない振 りを した」 こと

,「

知 らなか った」 ことの言 い訳が書 き留め られ てい る こと, 3。 各 々の事件が決 して大事 に至 らない ことが記 され てい る こと

,で

あ る。

(10)

И Jα Rιθttθγεttια%rθ%夕s夕θγα

%に

おける日常性の変容

1-2

書 き留 め る とい うこ とに つ い て

Jean一Pierre Richardは

,

書 き留 め る とい う行為 に 《vengeur》 としての役 割 をみ ている0。

Michel Raimondも

これ を受けて 《Triangle capital:bour‐

reau,宙 ctime,vengeur》 を採用 し

,Ⅲ

の シー ン (大叔母が祖父 に コニャ ック を飲 ませて祖母 をか らか う場面)を

bourreau一

一 祖母をか らか う大叔母

,宙

c‐ time―一 一祖母

, vengeur―

一 後 にな ってそれ を書 き留め る話者

,

とす る図式 化 をPrοπs″,rοπαηεグθr,1984。 の中で引用 してい る0。 これは

Mauroisが

Jα Rιεんικんθの序文 で述べた「 作家 は 精 い っばい運命 の何 らかの 不公平 の償 いをつけ る」 とい う言葉 とも通 じるものであ る。 ところで,復 讐 の要素は大 いにあ る。しか し,復 讐 のテーマはむ しろ前作 ルαπ 助 η″θπグιにおいて 大 きな 位 置を 占めてい る。《Lα yJθ ποηあJπθル ル απO》 の章 の

3分

2は

,社

交界 において ジャンの受けた侮辱 と名誉 回復 (復讐

)を

テ ーマ としてい る。 これに 対 し,Jα Rιεんθπん′で復讐 の 要素が最 も顕著 に表 れ てい るのは

,

ヴェルデ ュラン家 の晩餐会で

,モ

ンルに裏切 られ

,

ヴェル デ ュ ラン夫人 に侮辱 され

,意

気消沈 し途方 に暮れてい るシャル リュス氏に

,ナ

ポ リ 女王 が腕 を さ し出 し

,彼

女が毅然 として ヴェルデ ュラン夫人をはねつけ る場面 (Ⅲ,pp。 319-22.)であ る。 しか しこの場面 は ドラマテ ィックで あ る とはいえ るが

,復

讐 は何 ら解 決策 とは な っていない。 ここでは もはや復讐 は 目的 とは言 い難 く

,む

しろ この復讐 に よって引 き起 こされ る ドラマテ ィックな効果 の方が 目をひ く。

1-1で

採 り上げた 四つ の場面 も

,

残酷 さを描 きなが ら

,

あ るいは 話者 の sensibilit6によって残酷 さを浮 き彫 りに してい きなが らも

,他

人事 として描か れ る

,言

い訳 を伴 う

,と

い う形 で

,同

時 に別 の要素 (抑制 とい う効果

0)が

(11)

10

И Jα Rιελθγθλθα%rι π夕s夕θ/α

%に

おける日常性の変容 い てい る。sensibilit6に よる 自己防御がその根底 にあ ることは確かであ る。 し か しこの防御 の姿勢ゆえに加わ ったユーモア

,緊

張感へ と作者一読者の視点は 移 ってい るのであ る。社交界 におけ る「穏やか さへ の志 向」 は

,ス

ワンにおい て「 ス トイシスム」 として現れ

,

これは緊張 した美 しさを感 じさせ る。そ して また「穏やかな (《C'est doux。》

)と

い えるものでなければ決 して書かない (Ⅱ, p。 557.)」 とい うベル ゴッ トの芸術への姿勢 とも連動 し

,一

種張 りつめた美 の 世 界 を構築 してい るのであ る。 注

(1)Raimond,Michel., P″ ο%sι, γο%α%εづιγ,Paris, Co D.U et SEDES,1984.pp.

152-54。

(2)Raimond,M。 ,二αCグ %α%ιιεttθzハイαγεθJ P/οπs′,Conf6rnce,1982。

(3)Proust,M。,ノ θα%Sα%′θ%ダ,P16iade,Paris,Ganirnard,1971.pe 187。

(4)《trag6dies d'arriere―cuisine》 と呼 ばれ るシー ンの1つで あ る。

(5)jι

πα

θ

s夕

γ

θ

%SJグ

ι

π

πθ

s I,Gallimard,1973。

(6)Raimond,M。 ,Ope cit。,p。 151。

(7)Proust,M。 ,Op.cit.,《 La Vie mondaine de Jean》 pp。 660-707。 の章 のpp.

679-707。 (8)或は「 客観性」

2-1

装 わ れ た 無 関 心 これ まで採 り上げた場面では

,必

ず しも直接 に「無関心」 に当た る語は用 い られ ていないが

,作

品中,indi∬

6rence系

統 の単語が使われ てい る箇所 は 338 箇所1),そ の内「装われた無関心0」 とい う意味 で この単語が用 い られてい るの は57箇 所 に上 る。 この 「 装われ た無関心」 に よって成 され ることは 「 自己防 御」であ る。登場 人物達 に無意識的 に働 く防衛 の メカニス ムについては

,Ren6

Girardが

M“

sοηg′ raπαπιz9“θι″7ノγタノrοπαηθs9″′,19610。 において分

(12)

∠Jα Rιθんθγελιグ%rι%クs夕ιγα

%に

おける日常性の変容

11

析 してい る。

Girardは

更 に

,

話者 に よって この無意識的 な防衛 の メカニス ム が時折意識 され てい る こと

,作

家 が この防衛 の メカニス ムにつ いて書 き留 めて い る ことを指摘 してい る。 ところで

,意

識的 に無関心 になる

,無

関心 を装 うとは

,対

象 と自分 とを引 き 離 す ことであ る。 引 き離 され た距離

,間

接性が

,自

己を守 る手段 となる。無意 識 的 に働 いていた この防衛 の メカニス ムを話者 は 自らの生 き方 に意識的 に利用 してい る。 では何か ら自己を守 ってい るのか P一一 自分 の外 の世界か らであ る。何故外 の 世界か ら身を守 らねばな らないのかP一一 彼が外 の世界 と接す る時

,あ

らゆ る ものが

cruelに

感 じられ るか らであ る。何故彼 においてそれ程

cruelに

感 じられ るのかP一一 彼があ らゆ るものに苦 しい程 に sensibleに反応す るか ら, :彼が余 りに sensibleだ か らであ る。彼の sensibilit6と はそれでは何かP一

それ は幼児の もつ無防備性であ る ともいえ よ う。J6rOme―

Antoine Ronyは

,

二′s Pαssグοη

sOの

中で

,こ

の状態 を「世界 と人間の分離す る状態が まだ起 こっ

て いない幼児期0」 と呼ぶ。

この幼児の魂 は「装われた無関心」に よって本能的に身を守 る。ではProust

に とって「無関心」 とはいかなるものであ ったのか。初期短編 L'ルグ亀膨rιη′

0

の 存在は

,こ

の indi∬

6renceと

い うものが

,Proustの

中で早 い時期 か ら重要 な位置 を 占めていた ことを示 してい る。

作 品では

,美

しい女主人公 と

,彼

女が恋す る

,彼

女 に対 して全 く無関心 な,

そ して彼女に とって把 え難 い魅 力を もった男 とが描かれ る。男は旅立 ち

,彼

女 は 手紙 を書 き

,二

年経 ち

,彼

女 は結婚 し

,幸

福 にな り

,忘

れ て しま う。人 と人 とを分かつ絶対的 な無関心がむ き出 しの ままに描かれ ている。

この「無関心」 について

,PrOustは

Du C6t6 de chez Swann》

の中で 次 の よ うに語 ってい る。

(13)

12

И Jα Rιελι/εttθα%rι 解夕s夕θγ′

%に

おける日常性の変容 (…

)人

々の招 く不幸に対す るあの無関心

,そ

れはたとえどんな名前をつけようとも, 残酷 とい うものの恐 ろしくも常住の姿なのだ。

(I,P.165。

) 人 の心 の内にあ る他者の心 に対す る最終的 な無関心

,話

者 には これが耐 え難 い。 しか し

,ゲ

ル マ ン ト公爵の如 き絶対的無関心は痛みな ど感 じない。話者は この無関心 を逆手 に取 り

,

この無関心で身を守ろ うとす る。 登場人物達は「愛 してい る」と言 う代わ りに「 無関心 を装 う」。これは相手の` 気 を惹 く態度であ る と同時 に「 守 りの姿勢」 で もあ る。装 うことに よって 自ら を守 ってい る。 また

,PrOustの

描 く愛 の最 も完壁 な姿が 「 アルベルチ ー ヌの 眠 り(Ⅲ,pp.69-75。)」,即 ち

,

アルベルチ ー ヌが人 でな くな ってい る状態 (「事 実彼女は 草花だ った (Ⅲ,p.70.)」 であ る こと

,つ

ま り

,愛

において究極的 に 求めてい る ものが

,安

堵 0鎮静であ る ことが「 守 りの姿勢」 を証 明 してい る。 更 に 「 ジルベル トの 時の よ うに

,

私 の愛 してい るのは彼女

,

アルベルチ ー ヌ だ

,

と うっか り口を滑 らす よ うな不用心 (も しそれが不用心だ とした ら

)を

私 は避けた (Ⅱ

,p.1123.)Jと

言 ってはい るが

,話

者が アルベルチ ー ヌに愛を告 白す る場面 な ど 実際は どこに も 描かれ ていない し

,

アルベルチ ー ヌに 向か っ て

,「

僕 が君 を 愛 していた頃… (Ⅲ,p。 343.)」 とい う言葉 はあ るが

,や

は り 話者が アルベルチ ー ヌに愛を告 白す る場面 もどこに もないのであ る。話者は, サ ン・ ル ー とラシェル との関係や

,ス

ワンとオデ ッ トとの関係か ら「 ひ とたび 自分が愛す る よ うになる と愛 され な くなる (Ⅱ,p.1123.)」 ことを学ぶわけだ が

,

この二 つの関係において も

,愛

の告自の場面 を認め ることはで きず

,唯

, 後 にな って予測 され るだけであ る。愛す る人に向か って「 愛 してい る」 と言 う 場 面 は

,

この厖大 な作品中

,実

に一箇所 も描かれ ていない ことをあえて指摘 し て もよいであろ う。 作品に ドラマテ ィックな場面が少 ない ことは前章 の考察か らも明 らかであ る が

,残

酷 さ とや り切れ ない思 いを微細 な までに書 き綴 らせた彼の sensibilit6

(14)

∠Jα Rιθλθγεttια%rθ%夕s夕 θγα

%に

おける日常性の変容

13

,恋

愛 において もまた

,徹

底的 に「 守 りの姿勢」を貫 き

,終

,愛

の不毛 な 世界 を確立 してい る。 しか し

,実

生活においては負の要素 としかな らない もの が

,見

事 に作 品の特長 とな り得 るのであ る0。 作 品中

,最

も美 しい場面 の一つ , 最 も美 しい描写で愛す る人を描 いている場面 として

,や

は り「 アルベルチ ー ヌ の眠 り」 の場面が思い起 こされ るのであ る。 ここで求め られているものが

,先

述 の如 く

,安

堵0鎮静であ る ことも

,描

写 の美 しさを損 うものではない。それ で もやは り

,一

つ の完成 した美 を感 じさせているのであ る。

2-2サ

デ ィ ス ム

PrOustは

痛みを無関心 とい う手段 で潜在的状態 に してい く術を心得ていた。 これを第二章 で「 ス トイシスム」 と呼んだわけだが

,

しか し一方で

,

この痛み は 彼 の内で「 サ デ ィスム」 として昇華 され ている。彼 の極度 の sensibiHt6は, 恋 愛 に見出す ことので きなか った快楽を「 サデ ィス ム」 の中に見出 している。 ヴェルデ ュラン夫人 のサ ロンで

,サ

ニエ ッ トの排斥にオデ ッ トが瞳を輝かせ たのは

,排

斥 の推進者 フォル シュヴィルに強 い同意を示 しているか らだけでは ない

,オ

デ ッ トは確かに状況の残酷 さを楽 しんでいる (1,pp.266-67.)。 同僚 を追 い出 して しま うフランソワーズ もサ デ ィステ ィックであ る。祖母の悲 しみ を 楽 しむ大叔母 の描写 に も

,新

人女優 を失脚 させ るラシェル らの描写 (Ⅱ,pp. 173-74.)に もサ デ ィスムが感 じられ る。人の痛みが楽 しめ るのは

,人

の痛みが わ か るか らであ る。 恋愛 において

,こ

のサデ ィスムは端的に現れ る。話者 とアルベルチー ヌ

,ス

ワンとオデ ッ ト

,サ

ン0ルー とラシェル。女達は

,自

分 を愛す る男達 の苦 しみ を 見透か してい る。 自分 を愛 してい る人 の心 の中に

,自

分故 の苦 しみが生 じる の を平気な顔 で楽 しんでいる。相手の苦 しみに彼女達が無関心であ ったな ら,

(15)

14

И Jα Rθθttθγθttθα%rθ π夕s夕θγ″

%に

おける日常性の変容 おそ らく彼女達は相手を 嫉妬や焦燥 や 不安 で苦 しめた りは しなか ったであろ う。

Proustは

,こ

の よ うな愛の形を得意 として描 くのであ る。 話者は

,娘

のためにのみ生 き

,娘

につ いての悲 しみの余 りに死んだ ともいえ る父親 の写真 に

,友

達 を して唾 させ

,そ

の写真の前で同性愛に耽 る ヴァン トゥ イユ嬢 について「 もしヴァン トゥイユ氏があの場 に居合わせた として も

,お

そ ら くは娘 の善 良な心 に信を置かな くな るよ うな ことはなか ったであろ うし

,そ

の ことについては

,全

く誤 りとい うわけではなか ったであろ う (I,p.163。)」 と考 える。何故な ら

,話

者 に とってサ デ ィス トとは

,悪

人 とは全 くかけ離れた 存在 であ り

,

ヴァン トゥイユ氏は

,お

そ らく自分 の娘への愛情か ら

,直

感的 に その ことを知 っていただろ うと考 えるか らであ る。 (…

)ヴ

ァン トゥイユ嬢の心の中では

,悪

も少なくとも初めの間は

,混

じり気のない ものではなかった。彼女のようなサディス トは

,正

に悪の芸術家であって, これは根 っからの悪人にはとて もなれないものである。それというのも

,悪

人には

,悪

は自分 の外にあるものではあり得ないだろうし, ごく自然なものとして, 自分と切 り離 して 考えることもできないようなものだからだ。それに

,美

徳とか

,故

人の思い出とか, 子供としての愛情とか

,そ

ういったものを敬 う気持ちなど

,そ

のような悪人は少 しも 持ち合わせていないのだから

,そ

ういつたものを冒漬するという漬聖の悦楽を味わう ことす らできないのである。ところが, ヴァン トゥイユ嬢のようなサディス トは

,純

粋に感傷的な人間で

,生

まれつき美徳の持ち主だから

,官

能の悦楽です ら

,彼

女には 何か しら悪いもの,よこしまな人間にしか味わえないものと思えるのだ。従って

,彼

女がそのような悦楽に一時的に身を委ねる時にも

,よ

こしまな人間の内部に自分 も入 り込み

,ま

たその相手をも入り込ませようとするのであり, しか もそれは

,一

時で も 自分の優 しいJヽいの魂から逃れ出て

,悦

楽の非情の世界に紛れ込むという錯覚を自分 のものにしたいためなのである。

(1,pp.163-64.)

ヴァン トゥイユ嬢によってサディスムを語ったこの場面の原型を Lθs P′αみ sJrs′ιZ`s Joπ

rsの

中の コン トLα COηルssグοη″πηθルππ

`ノ

JJθ の中に

,ま

, Proustが Henri Van Blarenbergheの

母親殺 しに 関 して Lθ Fづgαrο

(16)

И ノα Rιθttιγεttθα%rθ%夕s夕 ιγα

%に

おける日常性の変容

15

の中で

PrOustは

,快

楽 に身を委ね る娘 とそれを 目に した驚 きの余 り息をひ き とって しま う母親 を描 き

,Sθ

ttπι″s FJιグαπ″ ノπη Pαrrたiigθ③ では母親殺 しの息子 を弁護 してい る。 この罪 の娘 と母親殺 しの息子

,

ヴァン トゥイユ嬢, マルセル・ プル ース トは同一線上に並ぶ。同性愛で

,無

為 の生活 を送 り

,母

親 を悲 しませ

,悲

しみの ままに母親 を死なせて しまった息子 の罪 の意識 と弁解, それが L′s PJαグsグ応 θι Jθs Jo%rsの中で凝視 され

,記

事 において正 当化 され, ιあRισんθκんι に至 って「 サデ ィスム」 として昇華 され てい くのであ る。 sadisme,sadiqueと い う語は,ια R′ル πレ 全体 を通 じて 意外に 少 な く, ヴァン トゥイユ嬢 (モンジ ュヴァンでの象徴劇

),ラ

シ ェル (新人女優 を失脚 させ るエ ピソー ド),シャル リュス氏 (彼の言動

,ジ

ュピア ンの男娼宿

)に

用 い られ てい るだけであ る0。 そ して

,《

Du C6t6 de chez Swann》

におけ る ヴ ァン トゥイユ嬢 の同性愛の光景は ≪

Le Temps retrouv6》

で シャル リュス氏 に引 き継がれ

,繰

り返 され

,重

な らてい る ともいえる。そ こには利害 を離れた 悦 楽 の世界がつ くり出 され てお り

,純

粋 で半 ば狂気 に近 い。 この最終 章 で

,話

者 は シャル リュス氏 を通 しては っき りとサ デ ィス トを弁護 してい る。 それにサディス トの心の中には

,彼

がどんなに善良な人間であろうとも

,い

やむしろ 彼が善良であればある程

,悪

への渇望というものがあって, これは彼とは別の目的を もって行動するよこしまな人間達 (たとえ何かはっきりとした理由があってそうであ るとして も)に は満たそうなどとは思いをもよらないものなのである)(Ⅲ ,p.827。) 話者 の手にかか る時

,サ

デ ィス トは悲痛 なまでの善人 にな って しま う。その 時

,彼

の 目は驚 く程確かであ る。 Batailleは 「悪への渇望 もまた善の尺度 なのであるl①」 と言 う。 ゲル マ ン ト 公爵 の如 き絶対的無関心は痛みを伴わ ない。そ して この痛み な くしては「 サデ ィス ム」 もあ り得 ないのであ る。 作者 は

,作

品前半部ではス ワンを通 して

,後

半部 では シャル リュス氏 を通 し

(17)

16

И Jα Rιθttιγεttθα%rι%夕s夕θγα

%に

おける日常性の変容 て

,こ

の痛みを 描 き続 けてい る。 ス ワンの「 ス トイ シス ム」(痛み を潜在的状 態 に してい く態度

)は ,作

品の中で完成 をみ てい る。一方

,

シャル リュス氏の

° 「 サ デ ィス ム」(痛み を楽 しむ態度

)の

描写 には

,何

か未完成 な ものが感 じられ る。作者は シャル リュス氏 を描 ききっていない よ うであ る。その描 ききれ てい な い部分

,描

ききれ ない ところに

,作

者 の シャル リュス氏へ の思 い入れが感 じ られ

,心

惹かれ る。 発端 は

,

あ りふれた 日常 のひ ど く 個人的 な こだわ りであ る。 しか し

,

彼 の sensibilit6ゆ えにその こだわ りを脱 し得 ない。彼 は見た くない ものを逆 に凝視 してい る。彼の明晰 さは

,自

己の防御 の姿勢 を も見抜 いてい る。その防御 の姿 勢 が

,作

品全体 を覆 う無関心 (間接性

)を

生み 出 してい る ともい える。 ス ワン

,シ

ャル リュス とい った作家 の分身達 は

,実

生活 では マイナスの要 因 と しか な らないはず の もの (作家 が生 きたか もしれ ない生 のマ イナス面

)を

, 作 品の中で プラスに転 じて

,確

か に存在 しているのであ る。 注

(1)Brunet, Etienne。, 二θ 7ο θαb%′αづγθαθ J7αγει′Pγο%sι, 3 vol, Genёve―Paris.

Slatkine Champion, 1983, tome II.

(2) la feinte indif6rence, feindre une indif6rence, 1'air d'indif6rence, etc.

(3)Girard,R。,♂Иθ%sο%gθ γο%α%ιづg%ι′′7ιγづιιγο%απθSg%θ,1961,Grasset,Parise

(4)Rony,J一A.,二ιs Pαssグθ%s,Presse Universitaire de France,1980. (5) Ibid., P。 93.

(6)Proust,M。,二'I%αl〃′γι%ι,Paris,Gallimard,1978。

(7)彼は作 品 に お いて

,社

会 的成 功 者 で あ る弟 を抹 殺 し

,(既

にJθα%Sαπιθ力Jにお い

て)Fα Rθεttιγελθ に お け る父 親 の存 在 も非常 に影 が薄 い。

(8)『親 殺 しの 孝 心 』 岩 崎 力訳 (Painter,George―D。,ναγθθJ Pγο%sι,α BづOgγα夕乃ノ,

Chatto&Windus,London,Vol.I,1959参

照)

(9)Opo cit。 ,二θ7θθαb%JαづγθαθハイαγθιJ Pγο%s′,tome.III.

l10 Bataille,Georges。 ,二αニタ′ιγαι%γθ θι Jι “ rα′,Paris,Gallimard,1957,p.162。 (『文学 と悪』山本功訳) 尚

,本

文引用については, 筑摩書房版, 新潮社版,『 失われた時を求めて』を参考に し た (強調は筆者による)。

一一大学院博士課程後期課程一―

参照

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