カントの"私は思惟する"について
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(2) 2θ イ. カン トの “ 私 は思惟す る"に つ いて. らゆ る私 の表 象 に伴 ひ得 なけれ ば思 惟 され 得 ない ものが 私 に表象 され るとは. ,. “ 私 は思 惟 す る"が 我 々の思 惟 に一 般 的 に妥 当す るあ る普遍 的な制約 で あ る こ とを 示 してお り,あ らゆ る私 の表象 に伴 ひ得 なければな らな い とは,た と えば幻 想 や夢 に まで “ 私 は思 惟 す る"が 関わ って い るよ うに見 え る。 しか し, カ ン トは「 “私 は思 惟 す る"は あ らゆ る私 の表 象 に伴 って い る」 と言 って はい な い し, “ 私 は思 惟 す る"が 伴 わ ない表象 の存在 を既 に知 って いた と考 え ら れ る。 なぜ な ら,カ ン トはその よ うな表象 の存在 を『 プ ロ レゴ メナ』 にお け る知覚 判 断 の考察 に際 して語 って い るか らであ る。 そ こで まず知覚判 断 と経 験判 断 につ いての カ ン トの考察 を手掛 りに して,あ らゆ る私 の表象 に伴 ひ得 なけれ ばな らぬ “ 私 は思惟 す る"と 言 う純 粋統覚 が 問題 に され る場面 とその 基 本 的 な性格 を明 らか に して見 よ う。 知覚判 断 とは我 々が た とえば眼 前 の石 ,太 陽 ,太 陽光線 ,石 の温 さ等 を知 覚 し,そ れ らの知覚 に基 づ いて「 太 陽が石 を 照 らす と石 が温 くな る」 と言 う 経験 的 な判 断を下 す場合 に成立す る もので あ る。我 々は この判 断 にお いて こ れ これの もの と して我 々に現われ る現象 に関わ ってお り, この現象を単 な る 知覚 に基 づ いて ,そ の知覚 と対象 との一 致 を問 う こ とな しにに知覚す るが ま まを知覚 と して 言表 す る。 それ 故 , この判 断 の判 断作用 は「 私 が単 に諸 知覚 を比 較 し, それ らを私 の状 態 において結合 す る」 (Bd.IV,S。 300)も の と 規定 されてお り,そ の判断作用 に基 づ く知覚 の比 較 ・結合 は単 に「 現在 の私 の 知覚 の状態 を表 わす に過 ぎない」 (Bd.IV,S.299)。 そ うす ると,こ の判 断 は「 私 の状 態 の規定 に したが った 内的知覚 に際 しての 自己意識」 (A107) た る「 内官あ るいは経 験的統覚」 (ibid.)に 基 づ くもの と言 え よ う。 知覚判 断 が単 に我 々に これ これ の もの と して 現われ る対 象一 現 われ (Ap‐. parenz)あ るいは仮象 (Schein)と しての対 象一 を 開示す る主観 的な妥 当性 しか 持 たない判 断 で あ るの に対 し,経 験判断 (経 験 )は 主観 のその時 々の状 態 に依存す ることな く対 象―経 験 の対象 と して の現象 (Phanomena)一 の性質. 3)「 プロレゴメナ」 とは,カ. ントの著作―PrOlegomena zu einer ieden ku五 ftigen. Metaphysik,die als Wissenschaft wird auftreten kё. nnenの 略称である。.
(3) │1 香 り. 豊. 2θ 5. を表 わす 客観 的な妥 当性 を持 った判 断 と考 え られ て い る。 この判 断 にお け る 判 断作用 は, 知覚判 断 にお け る判 断作用 と区別 されて,「 知覚 を意識 一 般 へ 結合 す る」 (Bd.IV,S,300)も の と規定 されてお り,知 覚 が それ へ と結合 さ れ る意 識 一 般 とは “ 私 は思 惟 す る"と 言 う純粋統覚 で あ る 。 そ うす ると. ,. “ 私 は思 惟 す る"は「諸表象を一 つ の意識 へ 結合 す る」 (Bd.IV,S。 304)経 験 判 断 にお け る思 惟 との関係 で 考 え られ てい る思 惟 の一般 的制約 と言 う こにな る。我 々が も し “ 私 は思惟 す る"を 実体化 し,あ る心 的存在 者 の思 惟 にお け 私 は思惟 す る"が 伴わ な い表 る普遍 的 な心理 的 ・ 事実的制約 と考 え ると, “ 私 は思 惟 す る"が あ らゆ る私 象 の存在 が知覚判 断 において 示 され る限 り, “ の表象 に事実的制約 と して 常 に伴 って いな けれ ばな らな い と言 う ことはで き な い。 “ 私 は思 惟 す る"は 何 かあ る心 的存者 の思 惟 の心理 学 的 0事 実的 な普 遍的制約 ではない し,ま してや幻想 や夢 に まで 関わ る思惟 の普 遍的 ・事実 的 制約 で はな い。 それ はあ くまで経験判 断 との関係 で考 え られ て い るの で あ る。 では “ 私 は思 惟 す る"と 経験 (経 験判 断)と の 関係 はいかな るもの と考 え ら れ て い るので あ ろ うか。 た とえば「 物体 は重 い」 と言 う経験判断 において物体 と言 う概念 と重 さと 言 う概念 を総合 的 に述語 付 け る場合 ,我 々は物体 と言 う概念 がそ こか ら引 き 出 された経験 へ と振 り返 り,そ の経験 の一 部 において拡 りや不可侵入性等 と 「物体 は重 い」と 共 に重 さが物体 と結合 されて い るのを見 い 出す ことによ って 言 う総合 的述語付 けをす るとカ ン トは語 って い る。 そ うす ると,我 々が経 験 を経験 的 に拡張す る場合 ,我 々は概念 がそ こか ら引き出 された経 験 へ と立 ち 返 れ ば よ い ことにな るが,経 験判 断 の総合性 がそれ に基 づ くよ うな この経験 は,経 験統 一 の規則 に従 った覚 知 の総合 によ って ,す べ ての経験 がそれ に属 す るよ うな可能 的経験 の脈絡 の 内 に知 覚 が組 み込 まれ,知 覚 が経 験統 一 の規 則 に従 って他 の あ らゆ る知覚 と連 関 してい る場 合 に成立す る。我 々は知覚 の 知覚判 断 と経験判 断 の 区別 につ いて は拙 稿 :「 知覚判 断」 と「経験判 断」・ 甲南女 子 大学 │「 研究紀要」 第13号 を参看 され たい。. A8--9;B12。.
(4) 2θ 6. カ ン トの “私 は思惟す る"に つ いて. 総合 を通 して現 実 的 な経 験 の対象 の意 識 ,す なわ ち客観的 な知覚 (現 実的 な 経験 )を 獲得 す るが,こ う した知覚 が可能 なため には覚 知 の総合 が経 験統 一 の規則 に従 って い なければな らず , この経験統 一 の規則 こそ “ 私 は思 惟 す る" と言 う純粋統覚 の総合 的統 一 作用 が外化す る場 合 に則 る一定 の形 式 であ る。 私は そ うして この意味で,カ ン トは知覚 (経 験 的認識 )が 可能 なため には “ 思 惟 す る"が あ らゆ る知覚 (私 の表象 )に 伴 ひ得 なけれ ばな らな い と考 えて い る。ただ し,質 料 と形 式 を合 わせ持 った経 験 の対象 は知覚 によ って のみ我 々に 与 え られ るのであ り,そ うした知覚 の根底 に あ ってそ の知覚 を可能 にす るよ うな経験統一 の規則 と “私 は思 惟 す る"と 言 う統覚 の総合 的統 一 作用 は,知 覚 の必 然的連 関た る経 験 一般 の形 式 を可能 にす るもの と して個 々の現実 的経 6). 私 験 (知 覚 )に 一 般 的 に関わ る経 験 の可能性 の制約 と して考 察 されて い る。 “ は思 惟す る"と 言 う純粋統覚 は こ うした 関わ りにおいて のみ,つ ま り「我 々 がそれを経 験 の可能性 のため 使用 せ ざるを得 な い と言 う ことによ って のみ我 々 自身 に知 られ る」 (B420)。 で は, このよ うな経験 の可能性 の制約 と言 う 私 は思 惟す る"と 言 う自己意識 にお け る主観 は,い かな 観点 か ら見 られ た “ る性格 を持 つ もの と して規定 され得 るので あろ うか。 カ ン トはそのよ うな主観 につ いて 次 の よ うに語 って い る。 す なわ ち,「 す べ て の種 々異 った経 験 的意識 が唯 一 の 自己意識 に結合 せ しめ られ なければな らな い と言 う総合 的命題 は,我 々の思惟一般 の端 的な第 一 に して総 合的 な原 則 で あ る。 しか し,私 と言 う単 な る表象 があ らゆ る他 の表 象 (そ れの集合 的 統 一 を私 と言 う表象が可能 な らしめ るので あ る)に 関 して先験 的意識 で あ る と言 う ことは看過 されて はな らな い。 そ もそ も この私 と言 う表 象が判 明 (経 験 的意識 )で あ るか不判 明 であ るか は此 で は間 う所 で な い。 いや,そ の経験 的意識 の現実性 さえ 何等問題 で はないので あ る」 (A l17 Anm。 )と 。経験 の 可能性 の制約 と しての主観 は, この叙述 か ら明 らかな よ うに,あ らゆ る知 覚 がそれへ と関係す る関係点 あ るいた諸 知覚 の統下点 であ り,こ の主 観 は,諸 知. 6)経 験の可能性と統覚のこの関係については拙稿 :「 先験的な問い」 と F批 判』・甲 南女子大学「人間科学年報」創刊号を参看されたい。.
(5) │1 香 り. 2θ /. 豊. 覚 のその主観 へ の 関係 を ア・ プ リオ ー リに可 能 にす る統覚 の総合 的統 一 作用 に基 づ いて のみ ア・プ リオ ー リに思惟 され ,一 定 の思 惟 に先 き立 つ もの と して. 表 象 され る。 このよ うな主観は,我 々によって,直 観的性格を欠 いた知的で ア・プ リオー リな私 と して表象 され るに過 ぎず,こ の主観 の純粋性 と論理性 を示すためカ ン トは “ 私"と 言 う表象 の経験的意識 の現実性 が此で一一 つ ま り経験 め可能性 の制約 として このよ うな主観 (私 )を 析 出す ると言 う場面 で ―一問題 にされないと語 るのである。『 純粋理性批』 ・第一版 ・純粋悟性概 私 は思惟す る"は 私",同 じく第二版 で語 られ る “ 念 の演繹論 で語 られる “. ,. 経験 の可能性 の制 約 と してのみ我 々に知 られ得 るものであ り,経 験 一般 の形 私は 式 的制約 と しての在 り方 を持 つ に過 ぎな い。 したが って ,カ ン トが 「 “ 思惟 す る"は あ らゆ る私 の表象 に伴 ひ得 なければな らな い」 と語 るのは,制 約す るもの (経 験 の可能性 の制 約 )と 制約 され るもの (経 験 )と の 関係 にお 私 は思惟 す いてで あ り,「 伴 ひ得 なけれ ばな らぬ」 とは,.“ 私 "あ るいは “ る"が 経験 一 般 の形式 と して経 験 に対 し先行性 と必然性 を持 つ と言 う ことを 意味 して い ると言 え よ う。 私 は思惟す る"と 言 我 々は これ まで経験 の可能性 の制約 と言 う観点 か ら “ 8). う純粋統覚 を考察 し,そ の統覚 にお け る主観 を諸 知覚 の 関係点 と規定 した。 そ う して その場合 ,統 覚 の総合 的統一作用 がそ のよ うな主観 の表象 を ア・プ リ オ ー リに可 能 にす るもの と して考 え られ て い ることを指摘 してお いた。 つ ま 私 は思惟 す る"は 同時 に諸表 り:諸 知覚 の 関係点 と しての主 観 を意 味す る “ 象 の総合 を含 んでお り,統 覚 の総合 的統 一 作用 と別 の事態 を意味す るもので はな いのであ る。 いや, 経験判 断 にお ける繋辞 “あ る (iSt)"が 目指す認識 の客観 的妥 当性 を可能 にす る統 覚 の統 2に お いて は,単 に諸 知覚 の 関係点 と. 7)こ の認識論的な主観にもぃては拙稿 :カ. ン トにおける「叡知的な私 の現実存在」 について・九州大学哲学会「哲学論文集」第九輯を参看 されたい。 8)こ の主観は「 単な る認識の形式 と してあ らゆ る限定作用の根底 に存す るところの 意識 の統一 に過 ぎない」 (B427)と も語 られている。つ まり諸知覚 の関係点 とし ての主観は「意識 の形式的統一」 (A105)を 意味す る。. 9)B133二 134;B138。 10) B141--142。. '. I. ■.
(6) カン トの “ 思惟す る"に つ いて 私 は′. 2θ 8. しての “ 私 は思 惟 す る"と 言 うよ りも,「 あ らゆ る結合 の 源泉」 (B154)と しての統覚 の総合 的統 一 作用 が考 え られ てお り,経 験 の 可能性 の制約 と して の “ 私 は思 惟す る"に お いては諸知覚 を意 識 の統 一 へ と もた らす統覚 の総合 的統 一 作用 と諸 知覚 の 関係点 と しての主観 (私 )が 共 に合 めて語 られ る。 も っと も,あ らゆ る私 の表象 に伴 ひ得 なければな らな い “私 は思 惟す る"に お いては差 し当 り諸知覚 の 関係点 と しての主 観 が考 え られ てい るが, これ は こ の “私 は思 惟 す る"が 統覚 の総合 的統一 作用 を前提 と して 含 んで い ることを 示 さんがため に語 られ るに過 ぎな い 。 ところで,カ ン トは 同 じく “ 私 は思 惟 す る"か ら合理 的心 理学 の唯 一 の正 当な立脚点 を与 え よ うと企 て る。 つ ま り,合 理 的心理学 の対象 で あ る思惟す る存在 体 と しての私 の認識 は可能 でない と して も,決 して経 験 的 でない私 の 私 は思 惟 す る"に 基 づ いて 確立 し,「 思 惟 す存在体 のいかな る作用 存在 を “ も内官 の現 象 も唯物論 的 に説 明 され得 な い」 (Bd.V,S。 460)と 言 うことを 示 そ うとす る。 しか し,こ の ことは諸知覚 の 関係点 と しての主 観 (意 識 の統 一 )と は異 な る私. 私 は思 惟す る"か ら主 張す る (res cogitans)の 存在 を “. ことにな りは しないであろ うか。我 々は次 に合 理 的心理学 との関係 で 語 られ る “ 私 は思惟 す る"に その考察 を移す ことに しよ う。. 経験 の可能性 の制約 と して 析 出 された主 観 はあ くまで論 理 的 0形 式 的主観 で あ り,そ の主 観を意味す る “ 私 "と 言 う知的表象 は「単純 なそれ だけで は ま った く内容空虚 な表 象 で あ る」 (A345-346,B404)。. しか しそれ に もか. かわ らず ,カ ン トは合 理心理学 を問題 にす る誤謬 推 理論 におい “ 私 は思 惟 す vgl.H.Heimsoeth(1);Studien zur Philosophie lmmanuel Kants I,Kants‐ tudien E=ganzungShefte 71(1971), S.237. ヽ4.Heidegger; Wegmarken (1967), S. 290。. Vgl.Ho Jansohn; Kants Lehre von der Subiektivitat(1969), S.42..
(7) 香 る"を. :「. │1 り. 経 験 的命 題」 (B420;B422. 2θ 9. 豊. Amm.;B438)と. 考 え ,そ う した経. 験 的命 題 にお いて 私 自身 の 「 内的経 験」 あ るい は 「 内的 知覚」 (A343,B40. 0-401)を 持 つ と語 る。. “ 私 は思 惟 す る"が 経 験 的命題 で あ る とは, この 命. 題 の根底 に感性 │と 属する経験的なものを置 くことであ り, “ 私は思惟す る" の純粋性 と論理性を否定す るかに見える。 しか も,そ の場合 に私 目身 の内的 経験 まで主 張 されるとするな らば,そ の命題 においては私 自身 の直観が予想 されてお り,内 的 に経験 され る私は直観を欠 いた単 に内容空虚な抽象的 0形 式的主観 と見倣 され得ない と言 うことにす らなる。では,経 験的命題 として ;' の “ 私 は思惟す る"は いかなる場面で語 られてお り,そ の命題 における“ 私 はいかなる性格を持 つのであろうか。. カ ン トは経験 的命題 と して の “ 私 は思 惟す る"に つ いて 次 のよ うに語 って い る。 す なわ ち,「 `1私 は思 惟す る"は 経験 的命題 で あ り, “ 私 は在 る (Ich existiere)" と言 う命題 をその 内 に含 んで い る。 …… この 命題 は限定 され な い経験 的 直観 す なわ ち知覚 を表 現 して い る。 (し たが って , この命題 は に 既 感覚 が ,う ま り感性 に属す る感覚が この存在 命題 の根底 に存 す ることを証 明 して い る)し か し, この命題 は経 験 に先 き立 つ もので あ る。 ……限定 され な い知覚 は この場合 ,単 に与 え られ しか も思惟一般 に対 してのみ与 え られたあ る実在 的な もの (etwas Reales)を 意味 してい るに過 ぎない。 したが って. ,. それ は現象 と してで はな く, 事実存在 す る もの (etwas,Was in der tat e対 stiert)と して “ 私 は思 惟す る"と 言 う命題 にお いて そのよ うな もの と し. て 示 され る もので あ る。 しか し注意 していただ きたぃ ことは,私 が “ 私 は思 惟 す る"を 経 験 的命題 で あ ると言 う場合 ,そ の こ とによ って この命題 にお け る “ 私 "が 経験 的表象 で あ ると言お うと して い るのでは ない と言 うことで あ る?む しろ この表象 は思惟一 般 に属 す る もので あ るか ら,純 粋 で 知的 な の も で あ る。 けれ ど も,思 惟 に素材 を与 え る何か経験 的 な表 象が なければ “ 私は. 1)こ の場合 の命題 とはま った く形 式 的 な もので あ り,文 字通 り,. “私 は思 惟 す る" が主 語 と述語 か ら構成 されて い ると 言 うこ とを 意味す るに 過 ぎな い Vgl.H. .。. HeimsOeth(2);Transzendentale Dialektik(1966),s.81..
(8) 2ゴ. θ. カ ン トの “私 は思惟 す る"に つ いて. 思惟 す る"と 言 う作用 (Aktus)は 最早生 じないで しよ う。 だか ら経 験 的 な ものは単 に純粋 で知 的な能力 が適用 され るため の 制約 に過 ぎな い」. -423 Anm.)と 。 “ 私 は思 惟す る"が 経験 的命題 で あ るとは,. (B422. “私 は思 の す る"と 言 う統覚. の総合 的統 一 作用 (思 惟 の働 き)が 生ず るためには経験 的な ものがその作用 の質料 的契機 と して既 に与 えれて いな ければな らな い と言 う ことを意 味 して 私 は思惟 す る"と 言 う統 覚 の総合的統 一 作用 い る。 さきに述 べ たよ うに, “ は経 験 の可能性 の制 約 と して析 出され た もので あ った。 この思 惟 の働 きは. ,. 我 々に与 え られ た現象一「 経験 的直観 の限定 され な い対 象」 (A20,B34) と して の現象一 を「経 験 と して読む」 (A314,B371)こ とを可能 な らしゅ るもの であ る。我 々の有限 な思惟 において は思惟 その ものによ って同時 に直 観 が与 え られな :tの で ,現 象 を経 験 と して読 む ためには認識. のの素材 と して. の 的 の現象 が予め思惟 一 般 に対 して与 え られ て いな けれ ばな らず ,統 覚 総合 な関係 を持 ってい の 統 一 作用 は思惟 一 般 の素材 と して の経験 的な も と必然的 な のは こ る。 そ う して , この思惟 の働 きが具体 的 に生 じるため には経験的 も い の思 惟 の働 きにお いて既 に質料 的契機 と して前提 され て いな けれ ばな らな しか し, この思 惟 。 つ ま り,経 験 的 な ものが この命題 の「 根底 に存す る」。 る"と 言 う統覚 の働 きと経験 的 な ものの必然的関係 はあ くまで “私 は思惟 す と ころ に存す る の総 合 的統 一作用が経験 の可能性 の制約 をな して い ると言 う 私 は思惟す る"と 言 う思惟 の働 きが使用 され る ので あ り,経 験 的 な ものは “ の 的契機 に過 ぎな い ため の経験的 な制 約 ,つ ま りその働 きが生 じるため 質料 な の との 関係 は決 して のであ るか ら, この統覚 の総合 的統 一 作用 と経 験 的 も は思 惟 す る"か ら奪 うもので はな い。 経 験 の可能性 の制 約 と言 う身分 を “私 にお いて前提 され ていな “ 私 は思惟す るア は経験 の可能性 の制約 と して経験 に先 き立 つ」 のであ る。 そ けれ ばな らず ,経 験 の可能性 の制約 と して「 経験 ば, “私 は思惟す る" か ら見 る ぅ して この経 験 の可能性 の制 約 と言 う観点 │ら. 2)Vgl.Bl・ 3) B139。.
(9) │1 香 り. 2ゴ. 豊. ゴ. と言 う命 題 にお け る “ 私 "は 統覚 の総合 的統一作用 の意識 において可能 にな る純粋 で知 的 な表 象 で あ るか ら, “ 私 は思 惟す る"が 経験 的 な ものをその根 底 に持 つ が故 に経 験的命題 で あ ると主 張 され た と して も,そ の こ とによ って そ の命題 にお け る “ 私 "の 純粋性 と論理性 が否 定 され ることにはな らな い と 考 え られ得 る。 しか し,経 験 的命題 と しての “ 私 は思 惟 す る"に おけ る “ 私" は経験 の可能性 の制約 と しての主 観 ,つ ま り諸 知覚 の 関係点 と しての主観 を 意味す ると言 え るで あ ろ うか。 カ ン トが “ 私 は思 惟 す る"を 経験 的命題 と言 う場 合 , その命題 は,「 私 は 思 惟 しつつ在 る (Ich existiere denkend)」. (B428;B429)と 言 うことを. 意 味 してお り,「 時間 にお け る私 の表 象 に関 して 私 の現存在 の規定可能性 を 含 んで い る」 (B420)。 「 その命題 の根底 には経験 的直観 が存 し, したが って また思 惟 され た客観 が現 象 と して存 す る」 (B428)。. そ うす ると,こ の命題. において は「単 な る思 惟 の 自発性 の みな らず ,直 観 の受 容性 もまた存在 して い る」 (B429-430)の で あ るか ら,経 験 的命題 と しての “ 私 は思 惟す る"に おける “ 私 "は 思 惟す る私 で あ ると同時 に対象 で あ るよ うな私 を意 味す ると 言 え よ う。 ヵ ン トは このよ うな “ 私 "を 「 人 格 (Person)」. (Bd.XX,S.270). と呼 ぶが, この人 格 と しての私 は, 人 間が悟性能力 に基 づ いて 自我 (Ich). を表 象す ると言 う事実を以 って獣か ら区別 され る場合 に主 張 されてお り,経 験的命題 としての “私は思惟す る "に おいては , 自我表象の現実的意識が “ 私は在 る"と 言 う主張 と重ね合わ されて語 られているcそ うす ると,カ ン ト が「私 は 自分 自身 の知覚を表象す るこの. [“ 私は思惟する"と. 言 う]命 題に. お いて ある内的経験 を持 つ」 (A342,B400-401), しか し「 この内的知覚. 4)Bd.XX,S.270;Bd.VH,s.121。 5)引 用文 中 の 〔 〕 の 中は筆者 の 挿入 した もので あ る:以 下 ,筆 者 に よ る引用文 中 の 挿入句 は同様 に して 示す こ とにす る。. 6)こ の場合 の「 内的経験」 が決 して 自己 自身 の認識 を意 味 しな い ことは,拙 稿 ≦∫ 戦 峯 嘲 攣 V I」 文 中の「 内的知覚」 の意 味 に解 した。. マ. ニ 耀. 船 丁. 稔. │[襲 雪. ;カ 斉.
(10) カン トの. 2r2. `:私. は思惟す る''に ついて. は “私 は思惟 す る"と 言 う単 な る統覚 以上 の もので はな い」 (A343,B401) と語 るも こ うした観点 か ら主張 され た もの と考 え られ る。 私 は思惟す る"が ,認 識 にお け る表象 と対象 で は,経 験 的命題 と して の “ 一一 この との一 致 を可能 にす るよ うな形式 的制約 で あ る純粋 統覚 の権利 問題 の可 能性 の制 約 で 場合 ,純 粋統覚 は制約す るもの とされ るもの との 関係 経験 の事 づ と して 析 出 され る一一 に関わ るので はな く, 自己意識 に基 く自我表象 "に お いて は, この “私"と 実的 所有 一一 経験 の可 能性 の制約 と して の “私 7) ている の とされ い も に されな に 問題 的 は原理 の の 現実性 言 う表象 経験 的意識 い 内的 知覚 と言 一一 に関わ ると して , この単 な る統覚以上 の ものを意味 しな ン トにお いて 内的 う表現 はいか に解 さるべ きもので あ ろ うか。 なぜ な ら,カ つ ま り悟性 的 な も 知覚 は原則 と して 内官 つ ま り感性 的 な ものに関わ り,思 惟 のに関わ る純粋 統覚 か ら一応 区別 され て い るか らで あ る。 にお い ・ の 我 々は カ ン トが 『 純粋 理性批判』・第 二 版 純粋悟 性概念 演繹論 との対 比 で て 純粋 統覚 か ら “私 は在 る"を 主張す る場 合 を予 め考察 し,そ れ ると ころを明 ら 単 な る統覚以上 の もので はな い 内的 知覚 と言 う表現 が意味す か に してみ よ う。. の 的根源 的統 一 にお い 「 表象 一 般 の 多様 の先験 的総合 ,す なわ ち統覚 総合 て私 は私 自身 を 意識 す るが, 私 が 自分 に 現象す る仕方 (Wie iCh mir er―. scheine)で もな く,私 がそれ 自身 にお いて あ る在 り方 (Wie iCh an mir selbst bin)で もな く,た だ私 は在 ると言 う こと (da3 iCh bin)の みを意 で はな い」 識す る。 この表象 は思惟 の働 きであ って直観 の働 き. (B157)と. ,. カ ン トは “私 は思惟 す る"か ら私 の存在 を語 って い る。 この叙 述 か ら明 らか. 7)Al17 Anm. 1)カ ン トは 私 の 存 在 に 関 し る場 合 もあ る。. exiStieren" と言 う言葉 を使 用す “Dasein" あ るい は “.
(11) 香 川. 2ゴ. 豊. 3. な よ うに,こ の場合 の “ 私 は思 惟す る"に お いて はす べ て の結合 の源 泉 と し ての統覚 が考 え られ てお り, この統 覚1の 総合 的統 一 作用 (思 惟 の働 き)の 私 "は 「 それの 意識 に基 づ いて私 の 存在 が主張 され る。 そ うして , その “ 自発性 を私が意 識 して い るに 過 ぎな いよ うな私 の 内な る限定す るもの (das. Be,timmende in mir)」 (B158,Anm.),. あ るいは,「 も っぱ ら自己の結合. 能力 を意 識 して い る叡知体 (Intelligenz),(B158)と 規定 され る。 そ うす ると “ 私 は在 る"に お ける “ 私 "は 叡知体 と しての “私"で あ り,そ の “私 " は統 覚 の総合 的統 一 作用 の意識 に基 づ いて ,そ の思 惟 の働 きに 内在 す る もの と して 「 私 の 内な る限定す るもの」 と語 られ るよ うな私 で あ る。我 々は統覚 の作用 の意識 ,換 言すれば 自発性 の意識 を持 つ に過 ぎず ,そ の 作用 の意識 と 切 り離 されたかたちで “ 私 "を 意識す るの で はな い。 しか も,決 して対象化 され な いで一一 つ ま り現象 あ るいは本質体 と して の私 の在 り方 問題 に されて い な い一― 叡 知体 と して の私 が存在 す る こと. (Wie)は. (Da3)が 直接統. 覚 の総合 的統一作用 の意識か ら語 られ る 。 カ ン トが こ う した「 私 の現存在. (DaSein)の 知的意識」 (BXL Anm.)を 「 [私 の]現 存在 の感情」 (Bd.IV, S。. 334,Anm.)と 語 るの も, この意 識 の直接性 と非対象性 を示す ため に他 な 2). らな い。 ところで,叡 知体 と しての私 は「思惟 す る主観 の 自 己活動性 (SellSttatig‐. keit)の 単 な る知的表 象」 (B278)で あ り,「 統覚 の主 体 」. (Bd・. XX,SO. 270)と して いわ ば「 実体 的 な もののよ うな もの」 (ibid.)で あ るか ら,決 し て認識 の対象 とな らぬ 「限定す る 自己 (思 惟 の働 き)」. (A402)を 意 味す る. が,あ らゆ る結合 の源泉 と して の “ 私 は思 惟 す る"が 経験 の可能性 の制約 と してのみ明 らか に さ得 ると して も, この叡 知体 と しての私 の存在 も経験 の可 能性 の制 約 の析 出 と言 う場面 で考 えなければな らな い もので あ ろ うか。 私 カ ン トは叡知体 と しての私 の存在 を 次 の よ うに主張す る。す なわ ち,「 “ は思 惟す る"は 私 の現存在 を限 定す る働 きを表現 して い る 。 したが って. ,. 現存在 は この表現 によ って既 に与 え られ て い るが, しか しこの現存在 を いか. 2)Vgl.Ho Heimsolth(1):a.a.o。 ,S.244..
(12) カン トの “ 思惟す る"に つ いて 私 は′. 2ゴ イ. に限定す べ きか ,す なわ ち現存在 に属 す る多様 を私 の 内 にお いて いか に定立 す べ きかの仕方 は この表現 によ っては まだ与 え られ ていない。 これが与 え ら れ るため には ア・ プ リオ ー リに与 え られた形 式 ,す なわ ち感性 的 で あ り且 つ 限定可能 な ものの受 容性 に属す るところの時間を根底 に持 つ 自己直観 が必要 で あ る」 (B157. Anm.)と 。 “私 は思惟す る"が 私 の現存在 を限定す る働 き. を表現す ると言 う ことは,「 自己意識 (統 覚 )は それ によ って一 般 に 自己を 客観 た らしめ るところの働 き」. (Bd.XX,S.413)で. あ ると言 う ことを意 味. してお り, 自己の客観化 のため には「感性 的 な私 が知覚 を意識 の 内へ 取 り入 れ るため に知的 な私 によ って 限定 され る」. (Bd.XX,S.270)こ. とが必要 で. あ ると考 え られ てい る。 この 知的 な私 によ る感性 的 な私 の限定 とは,悟 性 に よ る 内官 の限定 つ ま り内的触発 と して語 られ る。 す なわ ち,「 我 々にお いて は感性 的直観 の あ る形 式 が ア・ プ リオ ー リに根底 に存 して い るので, 自発性 と しての悟性 は与 え られた表 象 の多様 を通 して 内官 を統覚 の総合 的統 一 にか な って限 定す ることがで きる」 (B150),「 悟性 に従 って構想力 の先験的総合 の 名 の もとに, 自己が その能力をな してい るところの受 動的主観 に及 ぼす作 用 は,我 々が正 当 に も内官 がそれ によ って 触発 され ると言 うよ うな作用 で あ る」 (B153-154)と 。 “ 私 は在 る"と 言 う ことは 自己の客観化作用 に基 づ いて主 張 され るのであ るが, この 自己客観 化作用 は知的 な私 によ る感性 的 な私 の限定 ,あ るい は. ,. 悟性 によ る内官 の 限定 と言 う仕方 で,つ ま り,悟 性 が先験 的構想力を媒介 と し て 覚知 の総合 が それ に従 う時間を限定 し,悟 性 の 知的結合 に対応す る内的直 観 た らしめ ると言 う内的触発 と して語 られ る。 しか しその 際 ,そ の限定作用 が我 々 自身 によ る内官 の触発 と して語 られ得 るのは,そ の 限定 をお こな う悟. 3)外 的触発 とは異 って ,内 的触発 において は,認 識 の素材 を与え る と言 うよ りはむ しろ時 間 の 形式 の もとにその 素材 を結 合 す ることが も っぱ ら考え られて い る。 一 cf.H.Jo Paton;Kant's Metaphysics of Experience(1965),Vol.H,p.400.. 4)B156-157 Anm.. 5)B156 Anmo. l.
(13) 香. 215. ノ ││. 性能力が その総合的影響 を及 ぼす 内官 と共 に 同一主観 に属す る と とに基 づ い て い る:そ うす ると, “ 私 は在 る"と 言 う ことの主張 は単 に心理学 の対象 と. してめある心的な作用との連関においてではないが, しかしやはり決して対 象化されなぃ存在者の思惟作用との連関で語られていると言うことができよ うし,触 発す る我 々 自身 はそれをあえて認識 す るため に対象化 しよ うとすれ ば先 験 的主観 =Xと して しか表象 され得 な いがF)悟性 二 内官 一限定 と言 う関 係 で 考 えれば,決 して対象化 されな い存在者 (我 々 自身 )の その よ うな関係 にお け る展 開 と言 え よ う。叡知体 と しての私 の存在 の主張 は, こ う した存在 者 が 自己を客観 化す る場 合 に,限 定す るもの と限定 され るもの す なわ ち 自発 性 と受 容性 ,僣 性 と内官 と言 う関係 に基 づ いて 自己を二重 に表象 す る. ことに. よって可能になる。そうして,こ うした解釈は,カ ントが『 実用的見地にお ける人間学』において「人間の自我は勿論形式 (表 象の仕方)に 関しては二 重 で あ るが, しか し実質 (内 容 )に 関 して は二 重 ではな い」 (Bd.VH,S.134. Anm。 )と 語 って い ることによ って も間接的 に支持 され る∵ つ ま り, “私 は 私 は在 る"を 語 る場合 ,そ の統 覚 の 作用 は経 験 思惟 す る"と 言 う統覚 か ら “ むし との関係 でそのの経験 の可能性 の制約 と して語 られ て い ると言 うよ りも ろ我 々の有限 な思惟 の本質構造 と して示 され るの であ り,対 象的 な思惟. の制. 6) B154. のは 的触発において も, 内的触発 において も,触 発す るも し得 ない 対象 としてはすべての認識において常に先験的対象 =″ として しか表象 的触 は ,外 的触発 しては ,内 に関 し ょらをもあでぁるが (Vgl.A359), しか 経験. 7)Vgl.A346,B404-外. る結合 との 発 のように単 に認識 の素材 を与え るということではな く,時 間 におけ 的客観 関係 において語 られ るのであるか ら,こ の経験 に対す る機能の面か ら先験 と先験的主観 は区別 され得 る。一Vgl.Ho JansOhn;ao a.0。 ,S.185。 8)こ の人間学 の叙述 は『 純粋理性批判』の成果 を実 用的見地 か らこの学 の対象 とし ての人間に適用 したものであ り, この叙述 を以 って『 純粋理性批判』 の思想を直 理性批 接語 るもの と見 ることは 難 しい。 しか し, この叙述 は間接的には F純 粋 判」 の 自我思想 に照明をあてて くれ る。.
(14) 2ゴ δ. 約 と言 うよ りは,そ のよ うな思惟 の思惟 と言 う場面 で統覚 の総合的統一作用 9). が問題にされている。カン トはこう言う場面で統覚の総合的統一作用の意識 私は在 る"と 言 うことを語るのであるが , その場合の “ 私 は在 か ら直接 “ る"は 「ある存在するものと言 う思想 (Gedanke vOn etwas Existieren‐ dem)」. (B277)で あり,あ くまで思惟一般との関係で語 られている。「限. 定する自己 (思 惟の働き )」. (A402)は 決 して内官の対象 にな らないもの. であり,「 限定可能な自己 (思 惟す る主観)」. (ibid。. )か ら区別される。 限定. する自己は対象的な思惟の思惟 と言 う場面で 自発性. (思 惟の働き)の 意識に. 基づいて叡知的な私 として表象 されるもので あ り “ 私は在 る"は あ くまで思 惟 の働 きの意識か ら直接結果す る非対象的な私 の現存在 の知的意識に過 ぎな い。そ うす ると, “ 私 は在 る"は “ 私は思惟 しつつ在 る"を 意味 しないと言 え よ う。 なぜな ら,「 “ 私 は思惟す"る と言 う命題は,そ れが “ 私は思惟 し つつ在 る"と 同義 である限 り,単 なる論理 的な機能 ではな く,存 在 に関 して 主観. (こ. れはこの場合同時 に客観 であ る)を 限定す るものであ り,内 官 な し. には生 じない。 ……・この命題 においては私 自身 の思惟 は同一主観の経験的直 観 に対 して適用 されている」. (B429-430)か らである。つ まり,経 験的命 私は思惟する"に おいては同時 に客観 であるような主観 (限 定 題 としての “ 可能な自己)が 問題 にされてお り,今 現 に働 いてい る現実的 な思惟 の場面で 自己意識が語 られている。すなわち, “ 私 の表象"の 現実的意識 (私 の表象 “ 私 は在 る"と 言 う表現は, カ ン トにおいては,:神 的悟性 との対比 で人間悟性の 有 曝性を語 る場合に使用 されている (Vgl.B138-139)。 っ まり,我 々の有限な 思性においては統覚の作用の意識か ら “私は在 る"と 言 うことを主 張 し得て も それはまだ私の 認識ではないと 言われ る 場合 に 使用 されてお り (Vgl.B157,. 158),経 験 にお ける主観一客観一関係を可能 にす る制約 として語 られてはいない。 この場合の “ 現存在 "は ,関 係的定立 に対す る絶対定立あ るいは経験 の野 にお け る可能性に対す る現実性― これ らにつ しヽ ては 拙稿 :カ ン トに於 ける 「関係的定 立」 としての可能性 と現存在・九州大学哲学会「哲学論文集」第八輯を参看 され たい一を意味す るものではない。それは対象的な思惟 に関わるのではな く,む し ろ意識―存在 (Bewu3t‐ Sein)と しての我 々の在 り方 に関わる。 │.
(15) 香 川. 豊. 2ゴ. /. の確実性)か ら直接その表象と表象を所有する私自身の存在が主張されるよ うな場面で,経 験的命題としての “ 私は息惟する"が “ 私は在 る"を 含むと 言われるのである。 “ 私は思惟する"を 現に伴 っている内的知覚において我 々は “ 私の表象"と 言う現実的意識を持つが, この現実的意識の内には “ 私 ヽ は所有する (Ich habe)"の 意識,つ まり時間の内におし てあらゆる私の表 象に伴 ぅているような自己自身の意識ニー 自我表象の事実的所有が二―含ま れ て い る。 単 な る統 覚 以上 の も の を意 味 しな い 内的 知覚 とは , この “私 の 表. 象"の 現実的意識 に必然的に含 まれている “ 私は所有す る"め 意識を指 して お り, この “ 私は所有する"の 現実的意識 は 自己 自身 につ いて単 なる自己意 識 が示す以上のものを主張 しないが, しか し, この内部知覚 においては同時 に内的直観を以 って限定 され得 る内官の対象 (思 惟す る主観)が 開示 され る。 “ 私は所有す る"の 意識がはじめて我 々の 自己観察を可能にす るのである。 カ ン トが,「 私が私 自身を意識す ると言 うことは既に二重の私,つ まり主観 としての私 と客観 としての私を含んだ思想である。私は思惟す ると言 う私が. 私自身に対して(直 観の)対 象であり,私 を私自身から区別することができる と言 う こ とがいか に して可 能 で あ るかは疑 う ことので きない事 実 (Faktum) で あ るが,そ れを説 明す る こ とは絶対 に不可能 で あ る」 (Bd.XX,S.270) と語 る場合 の事 実 とは まさに この こ と一―. :■. 私 は所有 す る"の 現実的意 識 に. お いて思 惟 す る主 観 が 同時 に 内官 の対象 とな ると言 う こ と一― を指 してい る。 この事実 は “ 私 の表象 "の 現実的意識 において看取 され るのであ る。 経 験的 命題 と して の “私 は思 惟 す る"に お いて経 験 的 な ものがその統覚 の作用 の質 料 的契機 と して要 求 され ると言われ たのは,純 粋 で 知的 な能力が使用 され る 具体 的 な思 惟 の場面 で その “ 私 は思 惟す る"が 問題 に され る こ とを 示 して い. 11)A370。. 12). │. 「私 は思:惟 しつつ在 る (sum cOgitais)」. としての │「 私 は思惟す る (ё ogito)」 が 「現実性を直接表現 しているJ(A355)と 言われ るのは, それが 自我表象の事 実的所有 の場面で語 られているか らである。 カン トはデカル トの ,,COgito,ergo Sum“ を この場面に限定 して考えている (Vgl.A355;A370)。.
(16) 2ゴ 8. カ ン トの “私 は思惟す る"に つ いて. る。 そ うして ,統 覚 の作用 が現実 に表象 に伴 って い る この場面 にお いて ,我 々は, “私 は所有 す る"の 現実的想識 一一 これ は時間 にお いて す べ て の表象 を常住不変 な 自己に関係付 け る ことを意 識す る,つ ま り現 に思惟 して い る思 惟 の働 きを意識す る ことに基 づ いて い る一一 を通 して思惟す る主観を同時. に. 内官 の対 象 と して持 つ 。 しか し,そ の対象 は まだ一 定 の直観 で はな く,限 定 され な い知覚 を通 して事 実在 るもの と して示 され るに過 ぎな い “あ る実在 的 な もの"で あ る。 カ ン トが,「 統覚 はあ る実在 的 な もので あ り,統 覚 の単純 々が “ 私 性 はそ の可 能性 の 内 に既 に存 して い る」 (B419)と 語 るの も,我 は所有 す る"の 意識 を通 して 自我表 象 を事実的 に所有す るか らであ る。 しか し , この 自我規 象 の事実的所有 は , 我 々が 内官 の対象 で あ る思惟す る主観 (魂 )の 性質 に関 して「主観 の判 明な意識 に達 す と同時 にその現象 が唯物論. にのみ主 張 的 に説 明 され得 な い と言 う確信 に達す る」 (BdoIV,S。 351)た め ので は され るもので あ って,決 して経験 の可能性 の制 約 と して要求 され るも. "は 思惟す る主観 で あ ると同 な い。 また この場合 に存在 す ると言わ れ る “私 して の主 観 や 時 に内官 の対象 であ るよ うな私 で あ るか ら,諸 知覚 の 関係点 と 叡 知的 な私 とは異 な る私 を意味す ると言 え よ う。. 結. 五. “私 は思惟す る"は カ ン トにお いて第 一 に経験 の可能性 の制 約 として語 ら る。 この場 れ てお り, この よ うな制 約 と してのみ我 々に知 られ得 るもので あ. の 私 は思惟す る"に おいては,あ らゆ る結合 の源泉 として の統覚 総合 合の “ へ め 的統一作用 とその作用 において諸知覚 がそれ と関係付 け られ る主観が貪 私は思惟す る"と は「私が,諸 表象 の感性的 て考 え られている。つ まり, “ に与え られた多様性 を,諸 々の純粋悟性概念す なわち諸 カデ ゴ リーの限 付 雹 こ け られた多様 の 内へ と自らを分節す る統覚 の統一の予視 か ら結合す る と」 を意味す る。そ うして この場合,諸 知覚 の関係点 としての主観 (単 なる認識.
(17) 香 川. 豊. 2ゴ. 9. の形 式 と して の私 )の 経験的意識 の現実性 は原 理的 に問題 に され な い。 しか し第 二 に,こ の “ 私 は在 る"と 言 う ことが語 ら 私 は思 惟す る"か ら “ れ る場合 , “ 私 は思 惟 す る"は 第 一 の場面 のよ うに経験 との関係 でその可能 性 の制約 として析 出 され ると言 うよ りはむ しろ,対 象的 な思惟 の思 惟 (直 接 対象 へ と向け られ た思 惟 で はな く, 自 らへ 屈折 し反 され た思 惟 )の 場面 で考 察 され る。 この場合 ,統 覚 の総合的統 一 作用 は我 々の有 限 な思惟 の本質的構 造 と して示 され ,そ の作用 の意識 (思 惟 の 自発性 あるいは結合能 力 の意 識 ) か ら直接非対象的 にその思 惟 に 内在 す るところの限 定す る 自己 (叡 知体 と し て の私 )の 存在 が語 られ る。 この場合 の 限定す る 自己 とは決 して対象化 され 2). い我 々 自身 の在 り方一― これ は対象 の対象性 を可能 にす る主観 の主 観性 の な、 解 明を通 して 明 らか に され る一一 と して示 され るもので,単 な る知覚 の 関係 点 と しての主 観 で はない。 また こ うした考察場面 の違 いか ら, “ 私 は在 る" と言 う こ とは経験 の可能性 の制 約 と して 析 出 した もので な い と言 うことがで きる。 “ 私 は在 る"は 我 々の思 惟 の有 限性 との関係 での み語 られ て い る。 第 二 に,経 験的命 題 と しての “ 私 は思 惟 す る"か ら “ 私 は在 る"が 語 られ る場 合 ,つ ま り “ 私 は思 惟 す る"が “ 私 は思 惟 しつつ在 る"を 意 味す る場合 には,“ 私 は思 惟 す る"は 現 に働 きつつ あ る思 惟 (現 に “ 私 は思 惟 す る"が 伴 って い る思 惟 )の 場 面 で 問題 に されてお り,そ の 際実際 に意 識 され る “ 私の 表象 "の 意識 に含 まれ る “ 私 は所有 す る"の 意識 (自 我 表象 の事実的所有 )か ら “ 私 は在 る"と 言 う こ とが語 られ る。 この場合 の “私 "は ,思 惟す る主観 で あ ると同時 に客観 で あ るよ うな私 で あ り,決 して 客観 にはな らな い限定す る 自己で も,単 な る諸 知覚 の 関係点 と しての主 観 で もな い。 この “私 "は 何 か個体性 を持 つ よ うな私 で あ り, この 自己意識 の現実性 は魂 を唯物論 の危機 か ら守 ると言 う こ とのため にのみ主 張 され る。 この叡知体 としての 自己の在 り方は実践的な領域における我 々の叡知体 としての り方 と連関 してお り,思 惟 にお ける我 々の叡知的な在 り方 の背後 には同時 に 自 由の主体が考え られ るが, このよ うな連関につ いては別 の機会 に論 じたい。. 1在. Vgl. A362..
(18) カントの “ 私 は思惟す る"に ついて. 22θ. `. (付. 記). この論稿 は昭和52年 9月 の九 州大学哲学会秋 季大会 において 発表 した原稿 に加筆修 正 して成 った もので あ る。.
(19)
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