報 告 の 標 題 は、 学 部 学 生 時 代 か ら の 恩 師・ 清 宮 四 郎 先 生 が 八 〇 歳 の 前 後 に 二 つ の 学 会 で 話 さ れ た 講 演 の 題 目 に 倣 っ た も の で あ る。 不 の こ と は 先 生 の 霊、 そ し て 読 者 の 方 々 の お 許 し を 乞 う。 そ し て 宮 沢 俊 義 先 生 を 師 と お 呼 び す る に つ い て は、 本 来 の 門 弟 の 方 々 の ご 理 解 を 願 わ な け れ ば ならな い ︵1 ︶ 。 な お、 清 宮・ 宮 沢 両 先 生 を 含 め、 学 恩 を 蒙 っ た 先 学 諸 先 生 に つ い て、 以 下 で は 敬 称 を あ え て 省 く こ と に す る が、 学 説 史 上 の 人 物 を と り あ げ る 際の作法と報告者が考えるところに従ってのことである。
はじめに
清宮四郎 ﹃美濃部憲法と宮沢憲法﹄一九七七年東北大学法学会 ︵﹃法学﹄四一巻四号︶ 同 ﹃私の憲法学の二師・一友﹄一九八一年日本公法学会 ︵﹃公法研究﹄四四号︶ 本 題 に 入 る に 先 立 っ て、 他 専 門 分 野 の 会 員 の 方 々 を 念 頭 に 置 い て、以下でとりあげることとなる内外の憲法学者につき、また、戦 前の日本の憲法学界の状況のごく概要を、述べておこう。 主題の清宮四郎︵一八九八・五・二三出生︶と宮沢俊義︵一八九 九・三・六出生︶は、一九三〇年代に当時の憲法学の水準の先端を 切 り 開 く 仕 事 を 展 開 し、 戦 後 は 文 字 通 り 学 界 を 主 導 す る 存 在 と な り、本院会員としても長く在任した。二人は東京帝国大学法学部の 同期生であり、そして互いに終生の親しい友人であった。 清宮は、大学卒業を控えて先輩にすすめられ吉野作造の助手を志 願 す べ く 事 務 室 に 履 歴 書 を い っ た ん 提 出 し た が、 別 の 先 輩 に 美 濃清宮憲法と宮沢憲法
──
日本憲法学における私の二師
──
︵令和二年一月一四日 提出︶口
陽
一
会
員
清宮憲法と宮沢憲法 一 〇 三部、 鳩 山︵秀 夫︶ 、 穂 積︵重 遠︶ の 業 績 を し の ぐ 自 信 が あ る か と 言 われ、おどろいて書類を撤回し内務省に入った。富山県での行政官 僚としての一年間の経験は﹁仕事の上でも人間関係でも非常に恵ま れていた﹂が、 ﹁初心﹂忘れ難く、 ﹁退いて学ぶに如かず﹂と決心し て美濃部達吉︵一八七三 ─ 一九四八︶の指導を受け、京城帝国大学 法文学部教授を経て、一九四一年、東北帝国大学法文学部教授に転 じ、定年まで東北大学法学部で憲法講座を担当す る ︵ 2 ︶ 。宮沢は大学卒 業とともに国法学講座 ︵野村淳治担当︶ の助 手 ︵ 3 ︶ となり、 一九三四年、 美濃部の定年退官のあとを襲って憲法第一講座担当の教授となる。 清宮が﹁二師一友﹂と表現する﹁二師﹂とは美濃部、およびウィ ーン大学で講義・演習の講に連なったハンス・ケルゼン︵一八八 一 ─ 一九七三︶であり、 ﹁一友﹂とは他ならぬ宮沢であった。 実際、 清宮はケルゼンの代表的な大著 ﹃一般国家学﹄ ︵一九二五年︶ の 訳 業 に 精 魂 を 傾 け︵一 九 三 六 年 岩 波 書 店 刊︶ 、 戦 前 の 主 な 業 績 論 文の中で、ウィーンの師の所説の内側に入り込んでそれを食い破ろ うとする試みを続けた。そして実は宮沢にとっても、表立って論ず ることが多くはなかったにしても、ケルゼンは、自分自身にとって 最 も 重 要 な 学 問 方 法 の 上 で の 骨 格 で あ り 続 け た︵後 出 ︵ 11︶ 参 照︶ 。そのことは本報告でも肝要な論点となるはずである。 そ の ケ ル ゼ ン が 大 著 の 序 文 で﹁わ が 忘 れ が た い 恩 師 の standard work ﹂ と 呼 ん だ の が、 G・ イ ェ リ ネ ッ ク︵一 八 五 一 ︱ 一 九 一 一︶ による一九世紀ドイツ憲法学の﹁完全な集成﹂としての﹃一般国家 学﹄ ︵初 版 一 九 〇 〇 年︶ だ っ た。 清 宮 と 宮 沢 に と っ て の 美 濃 部 憲 法 学は、ケルゼンにとってのイェリネックがそうであったように、継 承しつつそれをぬけ出るべき対象なのであった。 さて、宮沢と清宮が濃密な研究活動を開始する一九二〇年代後半 から三〇年代にかけて、憲法学が当面していた時代状況が緊迫の度 を加えていたことについては、重ねて読者の注意を促す必要はない であろう。その中で、憲法学の学界状況は、どうだったか。 一九一二︵明治四五︶年、中等学校教員向けの文部省主催の講演 会 で の 美 濃 部 の 講 演 を も と に し た﹃憲 法 講 話﹄ ︵高 見 勝 利 解 題、 岩 波文庫︶の刊行が、いわゆる天皇機関説論争の発端となり、この論 争を経ることによって、立憲学派の憲法論が、学界、政界、そして 宮中に受け入れられてゆく︵大正デモクラシー︶ 。 天皇機関説は、統治権は 法人 0 0 としてとらえられる国家に属すると した上で ﹁国家の最高の地位に在って﹂ ﹁国家の総ての活動﹂ の ﹁原 動 力﹂ を 発 す る 機 関 0 0 と し て 天 皇 の 地 位 を 説 明 す る。 そ れ は、 ﹁通 俗 に 主 権 者 と 言 い 慣 は し て 居 る﹂ ︵美 濃 部︶ こ と が ら の、 国 家 法 人 = 君主機関論による法論理定式化であっ た ︵ 4 ︶ 。 日本学士院紀要 第七十五巻 第二号 一 〇 四
そのようにして、東の美濃部達吉、そして西の佐々木惣一︵一八 七八 ─ 一九六五︶という同世代の二人の憲法学者の主導によって、 日本の立憲主義憲法学が形成される。本論の主題となる清宮憲法学 と宮沢憲法学の出番は、そのようにして準備されていた。
Ⅰ
戦前:共通の思考枠組としての
Kelsen
1 純粋法学の「純粋」性とは ── ︽ Reine Rechtslehre ist keine Rechtslehre ︾ ? ︽ rechts leer e Rechts lehr e ︾ ? ここに挙げた二つの言いしは、押韻と言ってもよいほどの語呂 合 わ せ の 巧 み さ で 人 を 感 心 さ せ る が、 も と も と、 ﹁純 粋﹂ 法 学 が 法 の実質を抜き取られた形式論となっていることを論難する文脈で、 ﹁法 な き 法 学﹂ と 揶 揄 し よ う と す る 表 現 な の だ っ た。 し か し、 Re cht という言葉が﹁法﹂を指すと同時に﹁正しさ﹂を意味することを踏 ま え る な ら、 ケ ル ゼ ン 自 身 が、 ﹁い か に も そ の 通 り﹂ と 開 き 直 る は ずである。 ﹁法なき法学﹂ではなく、 ﹁正しさ﹂という価値から解放 された﹁法﹂の﹁科学﹂の提唱なのだから。 伝 統 的 な 法 学 は、 ﹁善 と 衡 平 の 術﹂ ︵ ars bo ni et aequi ︶ と い う 表 現 が 示 す よ う に、 ﹁正 し さ﹂ と い う 価 値 を 実 現 し よ う と す る 営 み で あ った。ケルゼン自身、第一次大戦後のオーストリア共和国で憲法裁 判所判事を務めたことからしても、そのような法実践そのものを否 定したのではなく、しかし﹁正しさ﹂に値するために下す価値判断 から﹁純粋﹂な規範科学を構想したのだっ た ︵ 5 ︶ 。 ケルゼンと言えば多くの読者の念頭に浮かぶ﹁法段階理論﹂は、 上位規範からの授権の連鎖として法体系を想定する。だからといっ てそれは、きれいなピラミッドを描いてみせる形式論理の遊びでは なかった。 上位のルール︵例えば法律という一般的規範︶の適用として下位 のルール︵例えば判決という個別的規範︶が作られる際、一般的規 範の適用にあたっては解釈という作用が伴う。そして解釈者︵上記 の例で言えば裁判官︶は、与えられたルールの中に、多かれ少なか れ彼自身の意味を読みこんだ上で、それを、ルールの客観的意味と し て 示 す だ ろ う。 ︽ traduttore traditore ︾︵翻 訳 者 は 裏 切 り 者︶ と い う 表現は、解釈者について、翻訳者についてより以上に当てはまる。 そこに出てくるのは、下位規範による上位規範の簒奪という問題に ほかならない。 それではピラミッドは崩れているのか。ケルゼンの用意した答え は、そうではなかった。ピラミッドは依然として立っているのであ 清宮憲法と宮沢憲法 一 〇 五り、実は上位規範自身が解釈者の行為を通すことによる自己実現を あらかじめ承知しているのだ、という説明であった。それならばひ とつの実定法秩序の内部での最高段階にある規範︵日本を含む多く の国では憲法典︶までってその上はどうみるか。そこにはもはや 条 定 さ れ た︵ ge sa tzt ︶ 規 範 は な く、 仮 説 と し て 前 提 さ れ た 0 0 0 0 0 根 本 規 範 ︵ vorausgesetzte Grundnorm ︶ しか 0 0 ない。 こうしてケルゼンは、およそ実定法秩序の﹁正しさ﹂を弁証する 試みを拒絶する。その思考は、規範的正義論一般からの﹁純﹂化と いう問題場面にも及ぶだろう。一九二九年という時点でデモクラシ ーの危機・苦悶に正面から向き合った彼は、ヨハネ福音書第一八章 のイエスとユダヤの民衆との対質場面を引 く ︵ 6 ︶ 。ローマの代官ピラト は罪びととして引きわたされたイエスと強盗バラバのどちらを赦免 するかを民衆の声にゆだね、民衆は﹁バラバを赦せ﹂と叫んだ。デ モクラシーの﹁本質と価値﹂を論じながらあえて、信念を示さぬ指 導者と﹁民主﹂のもたらす悲劇を描き出したケルゼンは、デモクラ シーは﹁神の子﹂と同じほどには慥かでない、と言わなければなら なかった。 危機が遂に瀬戸際までに及んだ一九三二年の﹃デモクラシーの擁 護﹄でなお彼は、デモクラシーを救うためにデモクラシーを捨てる こ と を す べ き か を 問 い、 ﹁船 が 沈 没 し て も、 な お そ の 旗 へ の 忠 誠 を 保 つ﹂ べ き と 答 え、 ﹁再 生 の 希 望 の み を 胸 に 抱 き つ つ、 海 底 に 沈 み ゆく﹂ことを選 ぶ ︵ 7 ︶ 。 2 ケルゼン受容による先行学説批判 清宮﹁違法の後法﹂ ︵美濃部還暦記念、一九三四︶ 宮沢﹁国民代表の概念﹂ ︵同右︶ 二つの論稿は、それぞれ、恩師を含む先行学説を批判の対象とし てとりあげる。 清宮論文の標題は、一般に前提として受け入れられてきた法原則 ︵﹁後の法は前の法を改廃する﹂ ︵ lex posterior derogat priori ︶︶ に対す る問題提起を意味した。衆議院議員選挙法の改正︵一九二五︹大正 一四︺年︶が行われ、前身の選挙法︵一九一九︹大正八︺年︶が選 挙 区 ご と の 議 員 定 数 を 定 め た 別 表 で﹁本 表 ハ 十 年 間 ハ 之 ヲ 更 正 セ ス﹂としていたにも拘らず、普通選挙制の採用と同時に別表全部を 改 正 し た。 論 文 は、 ﹁学 者 の 間 に も 実 際 家 の 中 に も、 こ れ に 対 し て 疑問を挟む者﹂が美濃部・宮沢を含めて﹁殆んど無かった﹂ことを 問題にして、次のように論ずる。 法律が自分自身の変更に関する一定の約束をする規定を置くこと は、 その法律が実は憲法と法律の間にある ﹁憲法補充的性質の法律﹂ 日本学士院紀要 第七十五巻 第二号 一 〇 六
であることを意味し、そう考えるならばそれを基準として﹁違法の 後法﹂という事態がありうることになる。そのことをいったん認め た上で、しかし、法の体系外で形成された規範を体系内に引き入れ 一体としての法秩序を認識することは、どうして可能になるか。こ こで清宮はケルゼンの法段階理論に示唆を受けながら、しかし﹁怪 奇な根本規範に逃避﹂することを拒否してウィーンの師の論理から 離れる。同じく根本規範という言葉を使いながらも、清宮のそれは ﹁仮説として前提された﹂ それではなく、 ﹁一国の憲法の一部、 いな、 最も重要な部分として実在する規範﹂ 、﹁条定された﹂ ﹁実在の規範﹂ であることが強調される。 宮沢﹁国民代表の概念﹂は、日本の憲法学説の流れの中でどうい う立ち位置にあったか。穂積八束以下の初期正統学説は、選挙人の 訓令に拘束されない代表者=議員と被代表者=国民全体との間に法 的関係がない、という意味で、法学上の概念としての国民代表概念 を拒否していた。それに対し、立憲主義憲法学は、貴族院を含めた 帝国議会について、 ﹁其議決ハ法律上ノ意思ノ発表ト看做サル﹂ ︵美 濃部︶ 、﹁帝国議会が国民を代表すと云ふは帝国議会なる機関の一体 の 機 関 意 志 が 国 民 全 般 の 意 思 と 認 め う る の 義 な り﹂ ︵佐 々 木︶ と 説 く よ う に な っ て い た。 そ れ に 対 し 宮 沢 は、 ﹁全 国 民 の 代 表﹂ と い う 観念によって身分代表︵命令委任の制度︶を拒否した近代憲法のも とで、 国民と代表機関の間には何らの法関係もなくなった、 と説く。 ﹁国 民 代 表 の 概 念 は そ う し た 実 定 法 的 な 関 係 の 不 存 在 を う﹁名﹂ であるにすぎぬ﹂ 。﹁現実との不一 致 ︵ 8 ︶ が暴露され、科学理論の仮 面 ︵ 9 ︶ が 剥 が れ る 時、 そ れ は イ デ オ ロ ギ ー た る こ と を や め て 理 想 に 転 化 す る﹂ 。 イ デ オ ロ ギ ー 性 の 批 判 は﹁真 理 に の み 仕 え る 科 学 の 当 然 の 任 務でなくてはならぬ﹂ 。 そのような論述の中で宮沢はK・マンハイムの﹃イデオロギーと ユ ー ト ピ ア﹄ を 記 し、 ﹁少 な か ら ず 影 響 さ れ て い る﹂ と 明 ら か に しているが、結語に近い箇所のでケルゼンの論説を引いているこ とに、ここで注意しておこう。 3 ケルゼンからの展開 清宮 ﹁仮 に 前 提 さ れ た 根 本 規 範﹂ か ら﹁条 定 さ れ た 根 本 規範﹂へ ── 実定法学の基礎づけ 宮沢 一九三四年憲法講義 ── ケルゼンによるイデオロギ ー批判の手法の適用 前節で既に見たように、清宮はケルゼンを受容すると同時に、そ の根本規範論をいわば換骨奪胎して、実定法学を定礎することに結 清宮憲法と宮沢憲法 一 〇 七
び つ け た。 戦 後 そ の﹃憲 法 要 論﹄ ︵法 文 社、 初 版 一 九 五 二 年、 再 訂 版一九六一年︶ 、何より有斐閣法律学全集﹃憲法Ⅰ﹄ ︵一九五七年、 第三版一九七九年︶が、違憲審査制の運用による憲法判例の重要度 が格段に大きくなる時期まで、類書に比べ圧倒的に多くの読者に支 持されることになったのは、理由があった。 一方の宮沢が﹁国民代表の概念﹂で展開して見せたイデオロギー 批判の手法は、憲法講座担当者としての初講義︵一九三四年度冬学 期︶で発揮され、そのことは、用意された﹃憲法講義 案 ︶10 ︵ ﹄の文言か らも読みとることができる。加えて、開講の辞ではA・コントの学 問の三段階発展という見方をあてはめて、神学的段階として穂積八 束・上杉慎吉の初期正統学派、形而上学的段階として美濃部の立憲 主 義 憲 法 学 を 対 応 さ せ、 今 よ う や く 実 証 的 な 科 学 の 段 階 に 到 達 す る、と語ったという。そのことは、学生として開講の辞を聴いた丸 山眞男によっても証言されている。なお、宮沢の学風は﹁フランス 風﹂と言われることが多いが、丸山の炯眼はむしろケルゼン流のイ デオロギー批判の適用をそこに見てとってい る ︶11 ︵ 。 4 天皇機関説事件(一九三五年一月~)とそれ以後 宮沢 ﹁法 律 学 に お け る﹁学 説﹂ ── そ れ を﹁公 定﹂ す る ということの意味﹂ ︵﹃法学協会雑誌﹄五四巻一号、 一九三六年︶ ﹁満州事変﹂ ︵一九三一年︶から﹁五・一五事件﹂ ︵三二年︶ ﹁二・ 二 六 事 件﹂ ︵三 六 年︶ を 経 て 日 中 戦 争 の 全 面 化︵三 七 年︶ へ と 向 か う時代状況の中で、院外の動きを背景として、天皇機関説事件が日 本の政治を大きくゆさぶる。一九一二年の天皇機関説論争を経て大 正デモクラシーの政党政治にとり共通の土俵となっていたはずの美 濃部学説が、 一転して国禁の説とされることになるこの ﹁事件﹂ は、 もはや﹁論争﹂ぬきの学説排除に他ならなかった。一議員による貴 族院での学説非難︵一九三五年一月︶に始まり、二次にわたる国体 明徴政府声明︵三五年八月および一〇月︶と美濃部の貴族院議員辞 任︵出版法違反については起訴猶予︶でひと区切りとなったこの事 件は、それに続く一〇年間の、日本帝国解体の悲劇を象徴するもの となった。 学説が沈黙を強いられる中で、学説の﹁公定﹂という問題を入口 として抵抗の筆をとったのが、 ﹃法学協会雑誌﹄ ︵五四巻一号、一九 三六年︶に掲載された宮沢論文であった。同論文は、前述の﹁国民 代 表 の 概 念﹂ ︵一 九 三 四 年︶ で 立 論 の 骨 格 と な っ て い た 学 説 二 分 論 ── 解釈論的な﹁学説﹂と理論的な﹁学説﹂の区別 ── から改めて 日本学士院紀要 第七十五巻 第二号 一 〇 八
説きおこす。 宮沢にとって法の解釈は法の創造であった。解釈学説が立法者に よって採用されて法令となり、裁判官によってとり入れられて判決 として具体化されることを﹁公定﹂と呼ぶならば、それは法の世界 にとって日常的なことと言ってよかった。ケルゼンならばその場合 に authentische Auslegung という用語を使うが、 それは ﹁真﹂ かどう かではなく、権限ある者によって採用された﹁有権的﹂ないし﹁公 権的﹂解釈という意味でのことである。 しかし天皇機関説事件の際に問われていた核心は、美濃部学説を 権力が採用するのをやめるかどうかではなく、学説を禁止し、その 上説き手に刑事裁判を含む不利益を課すことの是非だったはずであ る。しかし一九三五年の日本であえてそこに踏み込む反論はもはや 不 可 能 と な っ て い た。 美 濃 部 そ の 人 が 治 安 維 持 法 に 関 し て、 ﹁立 憲 政 治﹂ の 立 場 か ら、 ﹁思 想 そ れ 自 体 を 禁 歇﹂ し﹁憲 法 の 精 神 に 悖 る こと最も甚し﹂ 、﹁世にも稀な悪法﹂と批判した一九二六年は、もは や遠くなっていたのである。 そのような時局環境の中に置かれた宮沢が﹁公定﹂の是非を論ず る主戦場として選んだのは、理論学説の土俵であった。そして、天 動 説 の﹁公 定﹂ と 進 化 論 の 禁 止 を 例 に 挙 げ て、 ﹁か よ う に ば か ば か しく見え、かつ人類の真の文化的立場を害することはなはだしいと 考えられることがなぜ従来実行されたのであるか。それはいうまで もなく、そうすることがその時の社会で支配的勢力を持つ人たちの 利益に適合したからである﹂と断言するとき、それは、宮沢自身の 一九三四年論文で指示されていた立論の骨組と、見事に連続してい た。そして、論文が学術雑誌とはいえ彼らが標的とするはずの東京 ︵帝国︶大学の出版物に公表されえたということ自体、 ﹁その時の社 会で支配的勢力を持つ人たち﹂が知的世界にどれだけ無関心・無知 であったかを物語るだろう。 ところで、ここで宮沢は美濃部学説を ── 少なくともその本質的 要素を ── 理論学説として論理づける必要があった。この点につい て高見勝利は宮沢研究の依據基準というべき浩瀚な研 究 ︶12 ︵ で、三六年 論 文 を、 ﹁天 皇 機 関 説 事 件 に 対 す る 抵 抗 と い う 歴 史 的 脈 略 の な か で 読み取るべき宮沢の提言﹂として受けとめる。私も同様に受けとり ながらも、 それ以上立ち入った点では、 同じでない理解をしている。 高 見 は、 鵜 飼 信 成 の 指 摘 に 従 っ て、 ﹁学 問 の 自 由 を 擁 護 す る た め に、 ﹃宮沢さんが純粋に科学的な概念が成立たないのを百も承知で、 科学的概念があるかのように主張し﹄たにすぎない、といえるので は な か ろ う か﹂ 、 と こ こ で の 論 点 の 記 述 を 結 ぶ。 し か し、 宮 沢 に と っ て 問 題 は、 ︵﹁純 粋 に 科 学 的﹂ か ど う か は 別 と し て︶ ﹁科 学 的 概 念 がある 0 0 0 かのように﹂語ることではなく、天皇機関説が﹁科学的概念 清宮憲法と宮沢憲法 一 〇 九
である 0 0 0 かのように﹂示さなければならなかったこと、ではなかった のか。 こ の こ と に つ い て は、 戦 後 あ ら た め て、 宮 沢 の 考 え 方 が、 ﹃天 皇 機関説事件﹄上・下巻︵有斐閣、一九七〇年︶の中で示されている ︵特に下巻一三五頁以下︶ 。 そ こ で 肝 要 な の は、 ①﹁機 関 説 プ ロ パ ー﹂ 、 す な わ ち、 国 家 を 法 人 と し て と ら え 君 主 を そ の 機 関 と し て 位 置 づ け る、 思 惟 の 補 助 手 段、認識のための道具としての学説と、②﹁立憲主義ないし自由主 義的傾向を主張する﹂解釈学説としての区別である。 あわせて宮沢は③﹁俗流機関説ないし天皇ロボット説﹂を挙げ、 事件の渦の内外で人びとの意識の中にあったのはそれだった、と言 う。正確に言うなら、②と③は論理構造を共有し、いわば入力され る内容の違いによって二種の発現形態にわかれる、ということであ ろ う。 ま っ と う に 現 れ れ ば 自 由 主 義 の 政 治 と な り、 ﹁俗 流﹂ 化 す れ ば 君 主 を 政 治 利 用 す る こ と に な る、 と い う ふ う に。 宮 沢 は、 ﹁軍 人 の信念に反するとして俗流機関説を排撃した軍人が実は先頭にたっ てこの俗流機関説を実行していた﹂という皮肉な事実に読者の注意 を 促 し て い る。 ﹃本 庄 日 記﹄ が 機 関 説 事 件 の 動 き の さ な か︵一 九 三 五 年 三 月︶ に 天 皇 が 洩 ら し た 言 葉 と し て、 ﹁第 四 条︹天 皇 ハ 國 ノ 元 首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ︺即ち機関 説なり、それを不可というは憲法改正せざるべからざることになる べし﹂ 、﹁朕の意志に悖ることを勝手にするのは機関説扱い﹂ではな いか、と書きのこしている。天皇の言葉とされる前半部分では①② の意味、後半は③の意味での﹁機関説﹂が問題にされている、と見 てよかろう。 そうであるならば、ここでは①②の区別をもっぱら問題にすれば よいであろう。そして、学説二分論の基礎にある考え方を基本に置 く学問観からすると、その問題は、法学上の思考にとって回避でき ない論点をさし示すことになる。戦後憲法学の出発点に立った時点 で宮沢自身が提唱した﹁八月革命﹂説に即して、あらためて整理し てみよう。 一 九 四 五 年 八 月、 大 日 本 帝 国 政 府 が ポ ツ ダ ム 宣 言 を 受 諾 し、 ﹁日 本国民の自由に表明される意思﹂によって﹁最終的な政治形体﹂が 決せられるべきこと︵宣言第一二項および問い合わせに対する回答 文書︶を承認したことによって、帝国憲法の根本建前からの転換、 すなわち天皇主権から国民主権への転換が生じた。 ── ﹁主権﹂と いう言葉の用法を明確にした上でこう説くことは、ポツダム宣言受 諾 の 前 後 の 法 状 態 の 変 動 に つ い て 述 べ ら れ た 理 論 学 説 で あ り、 ﹁八 月革命説プロパー﹂と言ってよいだろう。 もとより理論学説として異論の対象とならねばならないことは当 日本学士院紀要 第七十五巻 第二号 一 一 〇
然 で あ る。 か つ て 宮 沢 は 三 四 年 論 文 で、 ﹁国 民 代 表﹂ 論 が 理 論 学 説 の装いを持ちながら理論学説として成立しない、という批判の筆を 執った。 同じ論法での批判が、 宮沢の八月革命説に向けられたのは、 不思議でな い ︶13 ︵ 。現に、八月革命説を理論学説という次元で承認する 見方は、学界での大方の支持を得ているわけではない。しかしここ で の 脈 略 で 理 論 学 説 と し て の﹁八 月 革 命 説 プ ロ パ ー﹂ は、 ﹁思 惟 の 補 助 手 段、 認 識 の た め の 道 具﹂ ︵前 出︶ と し て の そ れ で あ る か ら、 その採否は、道具を使って得られる命題の有効性についての争いに 委ねられる性質のものであろう。 そ の 意 味 で、 ﹁八 月 革 命 説 プ ロ パ ー﹂ は 理 論 学 説 と し て の 身 ステイタス 分 の 認定を受ける資格があることになる。そうなるとここでも、法概念 ないしそれを用いた命題が、理論学説の場面と同時に解釈学説の場 面でもはたらきを演ずる、という意味での両面機能を持 つ ︶14 ︵ 、という 状況があらわれる。 そして実際、 宮沢は、 解釈学説の説き手として、 戦後憲法学と憲法運用の中で枢要な役割を引き受けることになる。
Ⅱ
戦後:解釈学説を主導
1 基本の立場 清宮 ﹁あまりかたよらない見地﹂ ﹁なるべく広い視野から﹂ ︵﹃憲法要論﹄一九五二、全訂版一九六一︶ 宮沢 ﹁良識﹂ ︵﹃日本国憲法﹄一九五七︶ ﹁説得力﹂ ︵﹁学説 というもの﹂一九六四︶ 戦前の清宮・宮沢の研究は、学問のありようについてのそれぞれ に 強 い 問 題 意 識 に 貫 か れ て い た。 清 宮 に 即 し て 言 え ば、 ﹁従 来 の 法 学者の多数が、実定法の解釈にのみ主力を注ぎ、悪くいえば、易き について、条文の解釈にのみ逃避するの怠慢﹂ゆえに、また﹁問題 の 至 難﹂ さ の ゆ え に、 ﹁国 法 秩 序 の 論 理 構 造 の 究 明 に 深 く 立 ち 入﹂ ることがなかったという認識であっ た ︶15 ︵ 。宮沢については、より端的 に、 ﹁法 の 解 釈﹂ と 理 論 的 認 識 =﹁法 の 科 学﹂ を 対 置 す る 方 法 論 上 の前提があっ た ︶16 ︵ 。二人に共通するそのような構えは、法学の主流が 一貫して法の解釈を主な仕事としてきたからこそ、それに対する問 題 提 起 の 意 味 を 託 し た 選 択 な の で あ っ た。 伝 統 的 に 法 学 の 任 務 は ﹁法 の 賢 慮﹂ ︵ juris prudentia ︶ の 実 現 に 仕 え る こ と で あ り、 思 考 そ れ 自 体 を つ き つ め よ う と す る﹁法 の 科 学﹂ ︵ juris scientia ︶ で は な か っ たのである。 他ならぬその二人が日本国憲法の下で解釈学説の主流を形成すべ き責任を課されたとき、戦前の仕事をふまえればこそ学界を主導す る﹁説得力﹂を発揮することができたのは、必然であった。憲法解 清宮憲法と宮沢憲法 一 一 一釈が裁判の場で争われることを可能にする違憲法令審査制が機能し はじ め ︶17 ︵ 、一九六〇年代に入って学説が本格的にそれに対応すること になり、 伊藤正己 ︵﹃言論・出版の自由﹄ ︵一九五九年︶ 、 部信喜 ﹁私 人 間 に お け る 基 本 的 人 権 の 保 障﹂ ︵一 九 六 八 年︶ な ど を 先 導 と す る 憲 法 訴 訟 論 が 展 開 す る が、 そ の 間 に も、 清 宮﹃憲 法 Ⅰ﹄ ︵前 出︶ や 宮 沢 の 逐 条 解 釈 書﹃日 本 国 憲 法﹄ ︵初 版 一 九 五 五 年、 部 補 訂 全 訂 版一九七八年︶は、基本書として標準的な意味を持ち続けてきた。 一九三四年論文の宮沢にとって、国民代表という観念の扮装を剥 ぎとることの重要さが主題であった。戦後憲法解釈学説を主導する 立場に立った宮沢は解釈学説の役割を論じて、 ﹁どういう場合でも、 理論性を放棄することは、絶対に許されない。そうして理論性をど こまでも肌身につけていてこそ、法のたたかいを 腕力 0 0 のたたかいか ら 理論 0 0 のたたかいに発展させ、それによって、そのたたかいを平和 の う ち に た た か わ せ る こ と が で き る の で あ る﹂ ︵傍 点 宮 沢︶ と 結 ぶ ︵﹁学説というもの﹂ 一九六四年︶ 。 この文脈で ﹁理論﹂ とは、 ﹁良識﹂ と﹁説得力﹂を備えた解釈学説としての論理のことを指しており、 あえて言えばそのような﹁扮装﹂の相互規制力が﹁腕力﹂ ── 平時 には数の力であり、危機にはまさに coup de force と呼ばれるものと なろう ── の発動を抑止することが期待されてきた。 学説の闘技場に参加する当事者の間で暗黙に前提されるべき約束 ごと ︵ゲームのルール︶ が成立し続けるための担保は、 ﹁何でもあり﹂ を許容しない法律家共同体の一員としての責任意識と名誉感覚しか あ り え な い で あ ろ う。 清 宮 が﹁あ ま り か た よ ら な い 見 地﹂ ﹁な る べ く広い視野﹂という表現で語ろうとしたことも、そのことに帰着す るだろう。 2 天皇条項解釈が対照的だったことの意味 宮沢 国事行為=﹁虚器﹂ ﹁ロボット﹂ ── ?↓七条解散 清宮 国 事 行 為 +﹁人 間 象 徴﹂ ﹁象 徴 と し て の 行 為﹂ ↓ 公 的行為の拡大 憲 法 第 四 条 一 項 は、 ﹁天 皇 は、 こ の 憲 法 の 定 め る 国 事 に 関 す る 行 為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない﹂と定め、第六条と第 七条をあわせて一二の行為を列挙する︵加えて、第四条二項で国事 行 為 を 委 任 す る 行 為 が あ る︶ 。 そ れ ら の 行 為 に つ い て 宮 沢 の 憲 法 釈書は、 ﹁虚器﹂ ﹁ロボット﹂さらには﹁めくら判﹂という言葉を使 っており、そこまで念を押されてみれば、趣旨は単純明快のように 見える。 ところが宮沢は、憲法第七条三号が天皇の国事行為として﹁衆議 院を解散すること﹂を挙げていることを理由として、第六九条所定 日本学士院紀要 第七十五巻 第二号 一 一 二
の場合︵内閣不信任決議の可決又は信任決議の否決︶以外に明文上 の 権 限 の な い 解 散 権 を 内 閣 に み と め て い る︵い わ ゆ る 七 条 解 散︶ 。 しかし、天皇がおこなう国事行為︵それは形式的、儀礼的な意味を 持つ行為に限られる︶に対する内閣の﹁助言と承認﹂の中に解散の 実 質 決 定 と い う 国 政 上 の 重 大 な 権 能 を 読 み と る こ と に は、 ﹁虚 器﹂ である筈の天皇の地位からは引き出せないものを引き出そうとする 無理があろう。天皇の行為が﹁めくら判﹂であることはわかり切っ て い る の だ か ら、 解 散 が 実 質 上 内 閣 の 決 定 で あ る こ と は 周 知 で あ り、決定が批判されるべきならば内閣を追及すればよい、と考える のが﹁良識﹂だ、という論理でもあろうか。それよりも、解散を通 して﹁民意﹂をたしかめることへの積極的評価が﹁良識﹂を意味す る、という見方は不可能ではない。たしかに、一九六〇年日米安全 保 障 条 約 改 定 の 際 の 強 行 採 決 に 抗 議 す る 大 規 模 な 国 民 運 動 は、 ﹁国 会[正しくは衆議院と言うべきだが]解散﹂を叫んでいた。その反 面、二〇一七年に、野党からの臨時国会開催の要求︵六月二二日︶ をにぎり潰していた内閣が、国会を召集︵九月二八日︶してその冒 頭に衆議院を解散した。 ここでは、 解散権の濫用への警戒こそが ﹁良 識﹂の求めるところだった例であろう。 清宮の場合、内閣の﹁助言と承認﹂に担わせる役割はより一般的 に、そして大きくなる。国事行為の外側にあえて﹁象徴としての行 為﹂という公的行為の領域を拡げることによって、内閣の助言と承 認を通して天皇の行為をコントロールしようとするからである。と ころが﹁象徴としての行為﹂という定式化が一般化し、助言と承認 をする内閣が自制を失うと、天皇の﹁ロボット﹂機能は無定型に拡 大する。二〇一三年四月二八日、平和条約発効六一年を期した 政府 0 0 主 催 の 式 典 は、 ︵与 党 系 の︶ 沖 縄 県 知 事 が あ え て 欠 席 す る 政 治 環 境 の中で開催され、出席を余儀なくされた明仁天皇の抵抗が伝えられ るほどであった。 しかし、清宮自身が﹁象徴としての行為﹂という定式化を使った とき、 ﹁憲法第四条の趣旨からみて、 ﹁国政に関する﹂行為であって はならない。 これは注意すべきである 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ﹂︵﹃憲法要論﹄ 。 傍点は引用者︶ と わ ざ わ ざ 念 を 押 し て い た。 し か も、 ﹁象 徴 と し て の 行 為﹂ と い う 類 型 が 清 宮 に と っ て 必 要 だ っ た の は、 ﹁こ の 憲 法 の 定 め る 国 事 に 関 す る 行 為 の み 0 0 を 行﹂ な う と い う 憲 法 自 身 の 定 式 化 を 厳 格 に 受 け と り、例えば国会開会式での﹁おことば﹂について、国会の召集が形 式上天皇の国事行為とされていることと関連づける説明をあえてし ないがゆえのことなのであった。 清宮憲法と宮沢憲法 一 一 三
おわりに
Ⅱ 2 へ の 補 遺 ﹁日 本 国 の 象 徴﹂ と﹁日 本 国 民 統 合 の 象 徴﹂の関係 ﹁天 皇 は、 日 本 国 の 象 徴 で あ り 日 本 国 民 統 合 の 象 徴 で あ っ て、 こ の 地 位 は、 主 権 の 存 す る 日 本 国 民 の 総 意 に 基 く﹂ 。 憲 法 第 一 条 の 文 言 は、 ﹁国 の 象 徴﹂ と﹁国 民 統 合 の 象 徴﹂ が ま っ た く の 同 義 語 で は ない、という読みとり方を示唆しているのではない か ︶18 ︵ 。 ── ﹁日 本 国 の 象 徴﹂ と し て の 天 皇 は、 憲 法 を 頂 点 と す る 法 令 の 定 め るところに従って決定される国家意思を表象する。その場面は、憲 法規定の上で限定列挙された国事行為、および、それとの関連で考 えられうる最小限の範囲の事実行為︵第七条九号、一〇号との関連 で考えられる外国元首の接見や外国訪問など︶に限られる。 例 え ば﹁法 律 を 公 布 す る こ と﹂ ︵第 七 条 一 号︶ に 関 し て 言 え ば、 その法律は、多かれ少なかれ国民の間に存在している意見の相違な いし対立を反映しながらも所定の手続で ── 通常は多数決ルールに 従って ── 制定される。 法律という形で表明される国家意思は、 ﹁主 権の存する国民﹂の間に当然の正常なあり方として存在している対 立 を、 反 映 し て い る だ ろ う。 だ か ら こ そ、 ﹁国 の 象 徴﹂ と し て の 天 皇 は、 ﹁虚 器﹂ ﹁ロ ボ ッ ト﹂ で な く て は な ら ず、 ﹁め く ら 判﹂ を 押 さ な け れ ば な ら な い。 七 条 解 散 を み と め る 点 で の 不 整 合 を 別 に す れ ば、宮沢の論理は、基本枠組について一貫していた。 ﹁日 本 国 民 統 合 の 象 徴﹂ と し て の 天 皇 に つ い て は、 ど う 考 え た ら よ い か。 も と よ り、 国 民 統 合 は、 ﹁国 民﹂ を 構 成 す る 諸 個 人 の 一 人 ひとりで編み上げてゆく他ない性質のものである。ゆるやかに形成 されつつある経過的状態の統合を表象し可視化する存在として、天 皇は﹁国民統合の象徴﹂であるべきであろう。 清宮の言う﹁象徴としての行為﹂は、国事行為の列挙を越えて無 限定に拡大可能な領域で、内閣の﹁助言と承認﹂による天皇の﹁ロ ボット化﹂を招くおそれを始めから含んでいた。他方でしかし、そ の清宮が﹁人間象徴﹂ ── それは﹁ロボット﹂の対極にある ── と い う 表 現 で 天 皇 の 地 位 を 説 明 し て い た こ と を、 ﹁国 の 象 徴﹂ で は な く﹁国民統合の象徴﹂の問題としてとらえ直すなら、ひとつの可能 性が開くのではないか。 ﹁人間﹂である限り、 ﹁単に静的な存在﹂ではなく、一個の人格と し て、 ﹁自 由 と 責 任 の 主 体﹂ で な け れ ば な ら な い ︶19 ︵ 。 そ し て、 そ こ で ﹁人 間 象 徴﹂ を 補 佐 し 支 え る の は、 内 閣 の 助 言 と 承 認 で は な く、 政 治から相対的に自立した助言機関︵現存の制度でそのようなものと し て 機 能 し て き た の は 宮 内 庁︶ の 役 割 で な け れ ば な ら な い で あ ろ 日本学士院紀要 第七十五巻 第二号 一 一 四う。実際、ここでは、国民主権↓内閣↓宮内庁の線による﹁民主的 コントロール﹂とは逆の発想が求められる。そしてそれは、権力へ の制限を核心とする立憲主義の今日的観点からすれば、多元的な制 度諸機構の相対的自立が致命的に重要な要素となることの、ひとつ の表現に他ならな い ︶21 ︶︵20 ︵ 。 イ ギ リ ス は 長 い 時 間 を か け て、 ﹁ Ki ng in Pa rlia m ent の 法 的 主 権﹂ と﹁選挙民の政治的主権﹂という原則を形成してきた。それは、国 王大権からその実質を議会と政府が引き算してくる過程であり、女 王が議会で政府の施政方針を読み上げる慣行は、そのひとつの現わ れと言える。そうであったればこそ、EU離脱が混迷の経過を踏ん で決定される中で国民統合が︵とりわけイングランドとスコットラ ンドの間で︶不能な状態に陥っても、女王が役割を果たす出番が来 ることはなかった︵
the disunited Kingdo
m ︶22 ︵ ︶。 日本国憲法で天皇の国政上の実質は始めからゼロであり、国会会 期の冒頭に行われる﹁おことば﹂も、初期の試行錯誤を経て、特定 の政策に言及することは避けられてきた。天皇が国民統合の象徴で あ り う る た め の 可 能 性 は、 そ れ だ け 広 く 開 か れ て き た。 ﹁日 本 国 の 象徴﹂として天皇が行なう公的行為に助言と承認を行なう内閣の自 制 が 伴 っ て い れ ば こ そ、 ﹁国 民 統 合 の 象 徴﹂ と し て の 天 皇 が 存 在 す ることの意味が確保されるだろう。そのことが、戦後日本の少なく とも主要な政治当事者層には共通に認識されていたのではないだろ う か ︶23 ︵ 。 そのような認識とは全く対照的に、憲政史上最長の在任記録を達 成 し た 首 相 が、 ﹁一 強﹂ と い わ れ る 政 治 環 境 の 下 で、 国 民 世 論 の 分 裂 を 映 し 出 し 沖 縄 県 知 事 が 欠 席 す る こ と に な る︵国 事 行 為 な ら ざ る︶政府主催行事︵前出、二〇一三年四月二八日︶に、天皇・皇后 ︵当 時︶ の 出 席 を あ え て 実 現 さ せ た。 事 前 説 明 に 来 た 政 府 の 担 当 者 に、 明仁天皇は ﹁その当時、 沖縄の主権はまだ回復されていません﹂ との言葉を伝えたとい う ︶24 ︵ 。明仁天皇はそうすることによって、国民 統合の象徴としてかねてから沖縄に寄せて来た特別の深い関心を、 あらためて示したのである。 日本国憲法のもとで即位した最初の天皇であった明仁天皇は、在 位三〇年の期間を一貫して、美智子皇后とともに、国民統合の象徴 のあり方のひとつの範型を創って来た。 以上は、三〇年間の国民的体験をふまえての私の現在の考えであ る。もとより、国民統合の象徴として﹁自由と責任の主体﹂である べきことは、天皇とその地位そのものを容易ならぬ潜在的な緊張状 態に置かずにいない。 ── ︽ noblesse oblige. ︾ 清宮憲法と宮沢憲法 一 一 五
註 ︵ 1︶ 宮沢俊義先生は恩師の告別追悼の会 ︵一九四八年五月二九日︶ で ﹁美 濃部先生の業績﹂と題し、 ﹁先生の後進学徒に対する指導方法は、あら ゆ る 方 法 の う ち の 最 善 の も の、 し か も、 最 も 単 純 で あ り、 最 も む ず か しいもの﹂ 、すなわち、 ﹁先生ご自身が⋮⋮たゆまず斯道に精進され、 次々 に貴重な労作を公にされたこと﹂だったこと、を述べ、 ﹁後進学徒の指 導 方 法 と し て は、 こ れ 以 上 の も の は な い は ず で あ り ま す ﹂ と 語 っ て い る︵宮沢﹃日本憲政史の研究﹄有斐閣、一九六八年︶ 。宮沢門下生の方 によれば、 ﹁それ以上のものはない指導方法﹂は先生ご自身によってそ の ま ま 引 き 継 が れ た と の こ と で あ り、 清 宮 四 郎 先 生 も ま た、 全 く 同 じ よ う に 門 下 生 に 接 さ れ た。 表 現 は 少 々 以 上 に 不 謹 慎 で あ る が﹁ 美 濃 部 シ ュ ー レ 以 来 の 指 導 教 授 不 指 導 の 原 則 ﹂ と い う 表 現 を 私 自 身 使 っ た こ と も あ る。 そ う で あ れ ば こ そ、 制 度 上 の 指 導 関 係 の 有 無 と は 別 に、 師 と お 呼 び す る こ と は 許 さ れ る で あ ろ う。 も と よ り、 そ の こ と に 伴 う 責 任の意識とともに。 ︵ 2︶ 清 宮 四 郎﹁ 憲 法 学 周 辺 五 〇 年 ﹂﹃ 法 学 セ ミ ナ ー﹄ 一 九 七 九 年 五 月 号 ∼九月号、特に五月号、六月号。 ︵ 3︶ そ の こ と に つ い て は、 一 九 一 二 年 の 天 皇 機 関 説 論 争︵ 本 文 後 出 の 簡 単 な 説 明 を 参 照 ︶ の 直 接 の 当 事 者 で あ っ た 上 杉 慎 吉 と 美 濃 部 の 間 の 対 立 関 係 が 厳 し か っ た と い う 背 景 が 指 摘 さ れ て き た。 学 問 内 在 的 観 点 か らは、 ﹁国法学﹂講座に期待される、憲法学の基礎理論と比較憲法研究 に 力 を 注 ぐ 期 間 を 得 た こ と が、 お そ ら く、 宮 沢 の 学 風 の 骨 組 を 形 成 し たであろうことが重要だった。なお、 ﹁国法学﹂と﹁憲法学﹂という講 座 が 並 び 置 か れ た こ と の 憲 法 史・ 憲 法 学 説 史 上 の 意 味 に つ い て の 私 の 認識は、私の﹃比較憲法﹄ ︵青林書院、全訂第三版一九九二年︶一一 ─ 一五頁。 ︵ 4︶﹃ 憲 法 講 話 ﹄ の 初 刷 で は、 機 関 と い う 観 念 を 説 明 し て、 ﹁ 上 は 君 主 よ り 下 は 交 番 の 巡 査 に 至 る 道 ﹂ 無 数 の 国 家 機 関 が あ る 中 で﹁ 国 家 の 最 高 の 地 位 ﹂ に あ る 機 関、 と い う 言 い 方 を し て い た が、 こ の 譬 え は 第 二 刷 からは削られている。 ︵ 5︶ こ こ で は 立 ち 入 ら な い が、 規 範 科 学 の﹁ 純 粋 ﹂ 性 は、 因 果 律 の 追 求 に よ っ て 自 然 現 象 あ る い は 社 会 現 象 を 説 明 し よ う と す る 自 然 科 学︵ あ る い は そ れ を 範 型 と し て 考 え ら れ て い た 社 会 学 ︶ に 対 す る 関 係 で も 強 調 さ れ る。 そ し て こ こ で も、 ケ ル ゼ ン 自 身、 後 者 の 分 野 で の 作 品 群 を 遺 し て い る。 自 然 現 象 の 応 報 律 に よ る 規 範 的 解 釈︵ 雷 鳴 は 神 の 怒 り、 な ど ︶ か ら 因 果 法 則 の 発 見 に よ る 説 明 へ と 移 行 す る 過 程 に つ い て の 分 析 に 見 ら れ る よ う に︵ 長 尾 龍 一 訳﹃ ハ ン ス・ ケ ル ゼ ン 著 作 集 Ⅵ・ 神 話 と宗教﹄慈学社出版、二〇一一年所収のいくつかの作品︶ 。 ︵ 6︶ 長 尾 龍 一・ 植 田 俊 太 郎 訳﹃ 民 主 主 義 の 本 質 と 価 値・ 他 一 ﹄︵ 岩 波 文庫、二〇一五年︶三一頁以下。 ︵ 7︶︵ 6 ︶前出一七一頁。 ︵ 8︶﹁ 現 実 と の 不 一 致 ﹂ と い う 言 い 方 は、 そ れ だ け で は 誤 解 を 招 く 表 現 だった。次節でとりあげる一九三六年論文では、 ﹁ 常識的・模写説風な 0 0 0 0 0 0 0 0 い い 方 を す れ ば 0 0 0 0 0 0 0 、 社 会 の 現 実 に 存 在 す る 法 を そ の ま ま 認 識 の 鏡 に 写 す こと﹂ ︵傍点引用者︶と念を押している。 ︵ 9︶﹁ 仮 面 ﹂ と 同 じ 意 味 で﹁ 扮 装 ﹂ と い う 表 現 も 使 わ れ て い る。 ケ ル ゼ ン の ス メ ン ト へ の 反 論 に 言 及 し て﹁ 民 主 政 の た め に 戦 う よ う な 扮 装 ﹂ というふうに。 ︵ 10︶ か つ て こ の 講 義 案 に 最 初 に 接 す る こ と が で き た の は、 コ ピ ー を 提 供 して下さった高見勝利教授の厚意による。 ︵ 11︶﹃ 宮 沢 憲 法 学 の 全 体 像 ﹄︵ ﹃ ジ ュ リ ス ト ﹄ 臨 時 増 刊 一 九 七 七 年 三 月 二 六日号︶九四頁の丸山発言。 ︵ 12︶ 高 見 勝 利﹃ 宮 沢 俊 義 の 憲 法 学 史 的 研 究 ﹄︵ 有 斐 閣、 二 〇 〇 〇 年 ︶ 二 八 ─ 三九頁。 ︵ 13︶ ポ ツ ダ ム 宣 言 受 諾 の 前 後 に 法 状 態 の 断 絶 は な く、 政 治 の 矩 = ノ モ ス の 優 位 と い う 点 で の 継 続 を 説 く 主 張、 同 宣 言 受 諾 の 効 果 は 物 権 的 で は 日本学士院紀要 第七十五巻 第二号 一 一 六
な く 債 権 的 に 生 じ た の だ、 と 説 明 す る 見 解、 占 領 に 服 す る 状 態 = 国 家 の 主 権 を 失 っ た 状 態 で そ の﹁ 国 家 ﹂ に お け る 主 権 を 論 ず る こ と は 不 可 能 と い う 指 摘、 な ど が 現 に 出 さ れ て き た。 最 後 の 論 点 に つ い て だ け 触 れ て お け ば、 宮 沢 は 国 際 法 と 国 内 法 の 関 係 に つ い て、 特 に 条 約 と 憲 法 の 間 で 条 約 優 位 説 を 採 っ て い る︵ 宮 沢 に よ る 逐 条 解 釈 書﹃ 全 訂 日 本 国 憲法﹄前出、憲法九八条の項︶ 。 ︵ 14︶﹁ 学 説 の 両 面 機 能 性 ﹂ と い う 表 現 に よ っ て 私 が 問 題 に し た こ と が ら に つ い て、 私 の﹃ 近 代 憲 法 学 に と っ て の 論 理 と 価 値 ── 戦 後 憲 法 学 を 考える﹄ ︵日本評論社、一九九四年︶一一 ─ 一五頁。上記頁の部分を含 め 同 書 第 一 章 第 一 節 Ⅱ お よ び 第 二 節 Ⅰ は、 日 本 法 哲 学 会 一 九 八 一 年 大 会 の 統 一 テ ー マ﹁ 法・ 法 学 と イ デ オ ロ ギ ー﹂ に 関 し、 公 法 学 の 側 か ら 報告を求められてそれに応じたものである。 ︵ 15︶ 清 宮﹁ ブ ル ク ハ ル ト の 組 織 法・ 行 態 法 論 ﹂︵ 一 九 四 二 年、 ﹃ 国 家 作 用 の論理﹄所収︶二八三頁。 ︵ 16︶宮沢・前出一九三四年論文および三六年論文。 ︵ 17︶ も っ と も、 当 時 の 状 況 は、 の ち に み ず か ら 最 高 裁 判 所 判 事︵ 一 九 八 〇 ─ 九 〇 年 在 任 ︶ と な る 伊 藤 正 己 が、 一 九 六 〇 年 の あ る 最 高 裁 判 決 に 対し、 ﹁法律学の精緻さを欠く俗論に近い﹂ものであり、 ﹁重大な論点﹂ の﹁ 非 情 と い え る ほ ど 簡 単 な 扱 い ﹂ は﹁ 下 級 審 に 対 す る 非 礼 ﹂ と 評 さ な け れ ば な ら な い ほ ど の も の で あ っ た︵ ﹃ ジ ュ リ ス ト ﹄ 二 〇 八 号 ︶。 問 題 と さ れ た 判 決 は、 先 行 す る 新 潟 県 公 安 条 例 事 件 判 例 の 判 決 理 由 の 論 理 に 沿 っ て 東 京 都 公 安 条 例 事 件 に つ き 苦 心 の 判 決 を 書 い た 下 級 審 判 決 を破棄した最高裁大法廷判決︵一九六〇年七月二日︶である。 ︵ 18︶ 宮 沢 の 憲 法 釈 書・ 前 掲﹃ 全 訂 日 本 国 憲 法 ﹄ 五 一 ─ 五 二 頁 は、 貴 族 院での憲法草案審議の際の長谷川如是閑議員の、 ﹁日本国の象徴という の は、 ポ リ テ ィ カ ル・ ス テ イ ト と し て の 日 本 国 の 象 徴 の こ と で あ り、 日 本 国 民 統 合 の 象 徴 と い う の は、 コ ミ ュ ニ テ ィ と し て の 日 本 人 の 象 徴 ということである﹂という趣旨の発言を紹介した上で、 ﹁両者をそうき っぱり区別するだけの根拠を見出すことはむずかしい﹂と言う。私は、 ﹁コミュニティ﹂という言葉について留保しながらも、長谷川の言おう としたことを自分なりに理解したい。 ︵ 19︶ 三 谷 太 一 郎﹁ イ ン タ ビ ュ ー 天 皇 と 憲 法 ﹂﹃ 毎 日 新 聞 ﹄ 二 〇 一 九 年 五月一日。 ︵ 20︶ 口 陽 一 = 中 島 徹 = 長 谷 部 恭 男 編﹃ 憲 法 の 尊 厳 ── 奥 平 憲 法 学 の 継 承と展開﹄ ︵日本評論社、二〇一七年︶に寄せた私の﹁はしがき ── 奥 平康弘さんとの想像上の会話三つ﹂一頁、三︱四頁。 ﹁政治からの宮内 庁 の 相 対 的 自 立 ﹂ と い う 論 点 で の 賛 意 が、 加 藤 陽 子﹁ 2017 こ の 三冊 上﹂ ﹃毎日新聞﹄二〇一七年一二月一〇日号で示されている。 ︵ 21︶ そ の よ う な 私 の 問 題 意 識 と 重 な る 見 地 に 立 っ て 周 到 な 論 理 を 示 し た ものとして、蟻川恒正﹃憲法解釈権力﹄ ︵岩波書店、二〇二〇年︶の最 終章﹁天皇の憲法解釈﹂を参照。 ︵ 22︶ 但 し、 E U 離 脱 問 題 大 詰 め の 局 面 で、 予 期 さ れ な か っ た 場 面 が 展 開 し た。 E U と の 合 意 な き 離 脱 を 辞 さ な い と い う ボ リ ス・ ジ ョ ン ソ ン が 政 権 に つ き、 国 会 を 五 週 間 停 会 に す る︵ 二 〇 一 九 年 九 月 九 日 か ら 一 〇 月 一 四 日 ま で ︶ と い う 彼 の 措 置 が 法 廷 で 争 わ れ、 最 高 裁 判 所 に よ り、 女 王 に 対 す る 首 相 の 助 言 を 違 法 無 効 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 と す る 全 員 一 致 の 判 断 が 下 さ れ、 翌 日、 下 院 の 議 事 が 再 開 さ れ た の で あ る。 そ の 経 緯 に 先 立 っ て、 元 最 高裁判所判事のジョナサン・サンプシオンが﹃タイムズ﹄ ︵七月一八 日 付 ︶ 紙 上 に、 女 王 が 首 相 の 違 法 な 助 言 を 受 け 入 れ ざ る を え な い 立 場 に 追 い 込 ま れ る 事 態 を 防 ぐ た め に 補 佐 す る 機 関 を 設 け よ う、 と い う 提 唱 を し て い た。 そ れ は、 国 王 が 改 め て United Kingdom の 象 徴 と し て の 地位に立ち戻るための枠組を用意しようという提言を意味した。 ︵ 23︶ 一 九 六 〇 年 に 世 論 を 二 分 し た 日 米 安 全 保 障 条 約 改 定 の た め の 国 会 審 議 で 採 決 を 強 行 し た 政 権 が、 ア イ ゼ ン ハ ワ ー︵ 当 時 ︶ 大 統 領 の 訪 日 招 請 の 実 行 を、 実 現 間 際 に 断 念 し た。 そ れ は、 政 府 が 外 交 儀 礼 と し て 必 須と考えていた天皇の羽田空港での出迎えを回避することを意味した。 清宮憲法と宮沢憲法 一 一 七
少なくとも私はそう解釈する。 ︵ 24︶ 前 出 ︵ 21︶ の 蟻 川 が 引 用 す る﹃ 毎 日 新 聞 ﹄ 二 〇 一 六 年 一 二 月 二 四 日付。 追記 ﹁ お わ り に ─ ─ Ⅱ 2 へ の 補 遺 ﹂ は、 報 告 当 日 配 布 し た A 4 二 ペ ー ジ の 報 告 予 定 項 目 表 に 明 示 し て い た が、 私 の 時 間 配 分 の 不 手 際 で 全 く 言 及できなかった。 日本学士院紀要 第七十五巻 第二号 一 一 八
Remarque suppléméntaire
Tentative d’une lecture attentive du syntaxe de l’article premier de la Constitutiion
pour distinguer les deux statuts de l’Empereur : le symbole de l’Etat japonais
coincé dans «le fauteil vide» d’une part, et le symbole de l’intégrité du peuple
japonais reflétant l’image du «symbole-homme» d’autre part
清宮憲法と宮沢憲法
一
一
Héritage intellectuel de mes deux maîtres constitutionnalistes:
KIYOMIYA Shiro et MIYAZAWA Toshiyoshi
Yoichi H
IGUCHI, M. J. A.Propos introductif
KIYOMIYA (1898-1989) et MIYAZAWA (1899-1976), les deux disciples
représentatifs de MINOBE Tatsukichi (1873-1948), fondateur de la doctrine de
constitutionnalisme au Japon
I. Dans le année 1920-30 : théories critiques chez Kiyomiya et Miyazawa
inspirées, l’un et l’autre, par la théorie pure du droit de Hans Kelsen
1. Ce que signifie la théorie pure du droit : «Reine Rechtslehre ist keine
Rechtslehre» ? S’agit-il d’une «rechtsleere Rechtslehre» ?
2. Analyse d’interrogation par Kiyomiya ainsi que par Miyazawa à l’encontre
des doctrines qui leur précédaient : les deux articles, parus dans les Mélanges
offerts en l’honneur de Minobe (1934), l’un par Kiyomiya sur la possibilité
logique de «lex posterior non derogat priori» et l’autre par Miyazawa sur le
caractère fictif et idéologique de la notion de «représentation nationale».
3. Suite et développement : die «Grundnorm» non plus comme
«voraus-gesetzte», mais en tant que droit positif pour Kiyomiya, et le cours inaugural
de Miyazawa comme successeur de la chaire de Minobe où il s’identifie, en
invoquant Auguste Comte, à la troisième et dernière phase du développement
du savoir.
4. Affaire de la doctrine de l’Empreur organe de l’Etat et prise de position de
Miyazawa pour la défense de la liberté académique, tout en distinguant la
doctrine préscriptive d’avec la théorie descriptive.
II. Sous la Constitution de 1946 : Miyazawa et Kiyomiya, les deux érudits
formateurs de la doctrine courante
1. Les mots – clé : «bon sens» pour Miyazawa et « du point de vu moins
tranchant » pour Kiyomiya
2. Le contraste à propos de la formula du statut de l ’Empereur : «fauteuil vide»
ou «robot» pour Miyazawa et «symbole-homme» pour Kiyomiya
日本学士院紀要 第七十五巻 第二号 一 二 〇