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天台教学における円教
盲 目良
淑
日 官民 天台教学における教学上の中心課題は、﹁諸法実相﹂の得知ということである 。 この実 相の得知を可能にする不可 欠の直接的な宗教的事項として﹁正修﹂の修習が要請される。この行の体系は、円頓止 観 の 名で呼ばれているもので あ る 。 ﹃ 摩 詞 止 観 ﹄ に 説 示 さ れ る 、 ﹁ 正修﹂の行の体系の基本構造を示すと、 まずはじめ に 菩 提 を求めんとする堅固な意志︵ H 菩提心︶の発起という こ と である。菩提を求めんとする心が 確 立 し ていなければ 、仏 道の一歩 の前進も 、 のぞまれないから、まず菩提心の発起の 重要性が 力 説 さ れ て い る 。 そのあと予備 的 行︵二十五方便︶の 順 守 、 これらに都びかれた正修︵正修止観︶の突修の実践的事項が総合された体 系として示され て い る の で あ る 。 即 ち﹃降罰止観﹄では、三種止観を説いて ﹃ 次第禅門 ﹄ ﹃ 六 妙 法 門 ﹄ を 円 頓 一 突 止 観に融合 し 、進んで四諦 、四弘、六即 の止観を示し、四種三味の各々に止観を説き究極の諜題である ﹁ 諸法笑相 ﹂ の 究尽を推 し 進めてゆく時 、 観察の対象としての諸法を、智顕は十種に類別、整理して行の修習にはっきりとした方 向 を与えながら、一切行を 止 観 の 一 語 に 統 摂 さ せ て い る の で あ る 。 天 台 数 学 に お け る 円 教 」 ー ノ、ム ノ、 本論では、まず仏 一 代の教説を判じ 、 円 融 相 即 の 教 回 日 を 示 す 円 教の真当な意味を解明 し 、 次 に は 、 菩提心の 正 し い すがたを四諦、四弘誓一願、六即に即して論じ、円教の立場を 一 ポ す 無 作 の 四 諦 を 四 教 と 三 一 部 と の 立 場 か ら説明 し つ つ 、 天台教学の中心課題を知ることを目的とする。 一 、 門教の名称 化法四教の第四は円教である。﹃大部四教義﹄巻一に 、 ﹁四に円教の名を釈せば、円は不備を以て義と為す。此の教 は 不 思 議 の 因 縁 、 二 諦、中道の事理を具足して別ならざるを明し、ただ最上利根人を化するが故に円教と名くなり。し ︵ 1 ︶ と定義し、円教の名義を教円 、 理円、智円、断円、行円、位円 、 因 円 、 果円の八点を挙げて、詳細に説明している。 上述の教円とは、正しく中道を説か れ ていること、理円とは、中道即 一 切法の理が偏 し ていること 、 智円とは 、 一 ︵ 2 ︶ 切種智 の 円融が説かれて いること、断円 と は 、 断ずべき無明 もなしとする理 の 立 場 と し て 不断 の 断が説かれて い る こ ︵ 3 ﹀ と、行 円 と は 、一行一切行、位円と は 、 初 一 地 より諸 地の功 徳 の具足が説かれていること 、 因 円 と は 、 二諦を壁照し て自然に仏智に流入すること、果 円 とは、妙覚は不思議であ り 、 一 一 一 徳の果が不縦不横で あ ることであると 述 べ て い る ︵ 4 ︶ ﹃ 天 台 回 数 儀 ﹄ に 見 る と 、 円は円妙 、円満 、 円 足 、 円 頓 と 名 づ け て い る 。 ﹃ 天台四教儀集註﹄によると 、 円妙 は 二 一 諦円融のこと、円満は二一一相即して欠減なきとと、円足は事理両重の三千が一念に具足していること、円頓とは果徳 を 得 る と は 、 木 具 の 性 を全うすることであって、初発心に既に得、漸 次に修得するに非ざることであると説かれて い る 。 円 教 の 教
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﹃法華玄義﹄は妙法蓮華経という経題の深意を五重玄義をもって解釈する 書である。したがって中心課題は妙法にー
中
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集中しでお h w パとえに ﹁ 妙 ﹂ の 一 字を康範な領域にわたって詳説し て い る の で ある。智韻は こ の 妙 に つ い て 迩 門 十 妙 、 本門 十 妙、観心十妙の三種の 十 妙の論述を中心としているが、知首顕が主張しよう と し た の は 、 法 華経の諸 法 実相 の理論的根拠を円融 三 諦における絶待妙とし て 説明していることであると考え ら れ る 。 ︵ 7 ︶ ﹃法 華 玄 義 ﹄ 一 一 上 に 妙 名 − 一 不 可 思議一不 τ因 ニ 於 鹿 一 而 名 為 + 妙 と述べている。即ち法華経は前三教前四時に待劃するに純国濁妙なると同時に、またこれ を開会して一極に帰 し、箆 の待すべきなく 、 一 切がみな妙ならざるはないという意味である。また ﹃ 法 華玄義﹄二 上 に 若 破 レ 食 顕 ν 妙 。 即 周 三 上 招待妙↓若開レ箆顕 ν 妙 即 用 − 正 絶 待 妙 一云 云 。 と のべている。すなわち智頭は麗に対する妙を相待妙と呼んで、この相待妙によって法 華経の経題たる 妙法が、他の 諸経典 よ りも優位にあることを示して い る。しかし智顕は 、 一 方 に お い て 妙 を絶待妙として考察 す る こ と を 要 請し て い る 。 絶対妙とは 、 単に食と優劣を比較するような妙ではなく、食を内に 包 ん で と れ を 生 かす妙 のことである。そ し て いわゆる開会の思想が絶待妙の根拠である 。 したがってそういう絶待妙 は 、開食 顕 妙ともいわれる如く、法 華 以 外の諸経に見られる種々なる方便説法は 、 単に魚として捨てられるのでなく、それが絶 待妙法 として生 か されるとい うものであって、その根拠を法華経の閉会の論理に見出したのであろう。 円教に於ては 、 煩悩もその体を究めて見れば 、 やはり真 如 中道であり 、 決し てその体を断ずるものではな い。抑菩 提といい 、 煩悩というも、その用を異にするだけである。すなわち迷った心が 悟 るのであり 、 迷心を 外 に し て別に悟 心があるのではない。ただその作用が異って来るのである 。し たがって煩悩 と菩提の関係は氷と水のような も の で あ っ て 、 それが氷になっている時が煩悩で、その氷が溶けて水になる時が菩提の悟 り で あ る 。 ︿ 9 ︶ ﹃ 摩詞止観﹄第 一 二 上 に は 天 台 数 学 に お け る 門 教 」a /'ノ、 四 今 言 ニ 絶 待 止 観 一者、絶 一− 横 竪 諸 待 ↓ 絶 − 一 諸 思 議 一 絶 − 詣 煩 悩 諸 業 諸 果 ↓ 絶 ニ 諸 教 観 詮 等 − 悉 皆 不 ν 生、故名為 ν 止。止亦 不 ν 可 ν 得 。 観 冥 − 一 如 境 引 境 既 疲 滅 清 浄 。 尚 無 = 清 浄 円 何 得 レ 有 レ 観 。 止 観 尚 無 。 何 得 手 付 ヱ 不 止 観 − 説 − 一 於 止 観 ↓ 待 ニ 於 止 観 − 説 ニ 不 止 観 ↓ 待 = 止 不 止 − 説 中 非 止 非 不 止 幻 故 知 止 不 止 、 皆 不 レ 可 ν 得 。 非 レ 止 非 = 不 止 日 亦 不 ν 可 ν 得。待針既絶、即非ニ 有 為 ↓ 不 レ 可 下 以 = 四 句 − 閉 山 μ 故 非 エ 言 説 道 ↓ 非 ニ 心 識 境 ↓ 既 無 = 名相↓結惑不レ生、則無ニ生死↓則不 ν 可 二 破 壊 ↓ 滅 レ 絶 絶 レ 滅 、 故 名 = 絶 待 止 吋 顛 倒 想 断 、 故 名 = 絶 待 観 ↓ 亦 是 絶 − − 有 為 −止 観 。 乃 至 絶 = 生 死 − 止 観 。 : ・ ︵ 云 云 ︶ 、 是 字 不 ν 可 ν 得 故 。 故 名 エ 絶 待 止 観 ↓ 亦 名 = 不 思 議 止 観 ↓ 亦 名 ニ 無 生 一 止 観↓亦名 二 大 事 止 観 ↓ 故 如 レ 此 大 事 不 レ 掛 = 小 事 ↓ 嘗 如 τ 虚 空 、 不 申 因 ニ 小 空 − 名 為 穆 大 也 。 止 観 亦 爾 、 不 下 因 = 愚 乱 一 名 為 申 止 観 却 無 レ 可 − 一 待 桝 割 引 濁 一 一 法 界 。 故 名 = 絶 待 止 観 一 也 。 と説かれている。円教の止観理念は絶待止観であって、不止不観と止観との対待のない止観である。止観の作意のな い現実生活そのままを抱括するのが絶待止観である。これは円教において現実諸法がそのまま実相であると説 くこと と 対応 す る もので 、円教の実相を観心に依って現 証す る実践止 観なのであ る 。 即ち円教では諸法即実相と説くから 、 諸法の現実の当相と当処が、そのまま実相の全体であり、能所、事理の対立を設けることなく、非止非観をそのまま 止観 とする の で あ る 。 しかし こ のように煩悩即菩提、または諸法の現実が、そのまま理想の実相であると知解するのみでは、円教では何 物を指して断惑というかという問題になる。 それは煩悩の体を断ずるこ と で はなく、煩悩の妄用を起きざらしめるをいうのであり、 こ れを不断の断と称して居 る の で あ る 。 天 台 大 師 に よ れ ば 、 一 色 一番といえども、中道にあらざるものはない。 一境をあげれば、そこには必ず円融三諦 ︵即空即仮即中﹀を具する。これが諸法実相である 。 したがって諸法の実相に徹するためには、一ニ観 が一心に 円融し なければならない。これが 円教の中核 の教義であるのである。 三、円頓止観︵無作の四諦︶ 円頓止観を説いているのが﹃摩罰止観﹄十巻である。﹃摩詞止観﹄は、はじめ序に止観の法門は、﹁大師の己心中所 行の法門を説きたまふ ﹂ こ と を 示し、つい で止観法門として円頓、漸次、不定の三種止観を南岳より伝えたことを述 べ て い る 。 ﹃ ・ 単 詞 止 観 ﹄ 一上に見ると、その円頓止観とは、 円頓者、初縁ニ実相 −造 レ 境 町 中 無 レ 不 − 一 真 実 ↓ 繋 − 一 縁 法 界 二 ニ 念 法 界 ↓ 一 色 一 番 無 ν 非 ニ 中 道 ↓ 己界及傍界衆生界亦然。陰入皆如、無二十台可予捨。無明塵労、即是菩提 、 無 二 集 可 予 断 。溢邪皆 中 正 、 無 ニ 道 可 F 修 。 生死即浬襲、無ニ滅可 F誼 。 無 レ 苦 無 ν集、故無 − 一 世 間 プ 無 レ 道 無 レ 滅 、 故 無 ニ 出 世間↓純一実相。実相外更無ニ別法↓ 法性寂然名レ止。寂而常照名 ν 観 。 雄 レ 言 ニ 初 後 ↓ 無 レ 三 無 レ 別 。 是 名 ニ 円 頓 止 観 ↓ とのべている。即ち円頓止観というのは、初心から直接、実相にかかわろうとする止観の行業のことをいうのであ る。観察の対境は、中道であって 、 まさに真実そのものである 。心を 法界に繋け、法界と一体となるのがその際の目 標である。そのことが実現され、真理と一体になって見ると、 いかなる存在も一つとして中道でないものがない、と い う こ と が明白となる。迷界を構成する基本要素である五除、十二入も、真如そのものである。したがって捨てねば ならない苦もないことになる。また、心を悩ます無知や塵の如く多い労いも、それが悟りの智恵となるものであるか ら、断ずべき煩悩というものもないことになる。ただ、あるのは実相だけである。煩悩が休んで静寂の状態にあるさ まを止といい、静寂のなかにあってすべてをありのままに照らし出すことを観というのである。 天 台 教 学 に お け る 同 教 六 五
六 六 いいかえれば、観は発心の実現を導く法であり、止は邪僻の心の止息をかなえる法にほかならないのである。 さて釈尊の最初の説法以来、全仏教で用いられる仏教の根本教説である四諦を、相官顕は﹃,麟詞止観﹄で菩提心を発 す原因として四諦、四弘相官願、六即のそれぞれに約して論述している。その中、天台独自の立場を示した同教の無作 の 四 諦 説 が 注 目 さ れ る 。
付
四種の四諦 四諦とは、苦・集・滅 ・ 道の四諦をいうのであるが、智甑は、﹃浬服用経﹄、﹃勝霊経﹄の所説を参考にして、それを さらに詳しく解し、生滅の四諦 ・ 無生滅の四諦・無量の四諦 ・ 無作の四諦として整理している。 まず四諦についていえば、 ’ 煩悩が原因となって苦に満ちたこの現実の迷いの世界が生起することを教えるのが苦と 集という真理であり、正しい実践が原因となって苦の滅が成就することを教えるのが、道と滅という真理なのであ る 。 まずはじめに生滅の四諦を推究して菩提心を発する場合 ﹃ 摩詞止観﹄一上に 生滅者、苦集是世因果。道滅是出世因果。苦則三相遷移。集則四心流動。道則樹治易奪。滅則滅レ有還レ無。E
住 世 出 世 一 皆 是 饗 異 。 故 名 − 丞 滅 四 諦 一 也 。 とのべている。即ち生滅の四諦の場合 、苦 は実際に生じてあるものであり 、 滅する対象である。また苦の原因である 煩悩は四心即ち貧 ・ 眠・慢・療として現実に展開するものであり、苦の滅をもたらす実践の道は苦の対治を現実に行 う道である。そして解脱の境地は現にある普を対治して実現される境地である。このように生滅の四諦の立場は、苦 もその原因屯また対治の道もともに生滅し、それから解脱も煩悩を減して無に還る境地である。︵三蔵教 ・ 実 有 ︶ つぎに無生の四諦については、﹃摩詞止観﹄一上に 無生者 、 苦 無 ニ 逼 迫 ﹁ 一 切 皆 空 。 量 有 − 一 空 能 遺 F 空 。 即 レ 色 是 空 。 受 想 行 識 亦 復 如 レ 是 。 故 無 二 逼 迫 相 − 也 。 集 無 ニ 和 合 湘﹁清一因果鴨空 J l 量 靖 下 因 空 興 ﹂ 一 果 空 − 合 よ 。 歴 二 切 貧 眠 療 ﹁ 亦 復 如 レ 是 。 道 不 − 三 相 一 無 − 註 治 所 治 ↓ 空 尚 無 レ 一 。 云何有 レ 二 耶 。 法 本 不 レ 然 、 今 則 不 滅 。 不 レ 然 不 レ 滅 、 故 名 ニ 無 生 四 諦 一 也 。 という。即ち無生の四諦を推究して成立する発心について、これは空の立場の四諦の解釈である。一切法が空であっ て 見 れ ば 、苦もなく、その原因である煩悩もなく、したがって煩悩の対治の道も必要でなく、すべてが空であること を得知すれば、おのずと悟りの境界に転入することができると解するのが無生の四諦である。︵通教 ・ 空 ︶ 三には無量の四諦であるが、これは苦 ・ 集 ・ 道 ・ 滅の四諦のいちいちにおいて無量の相をもって立ちあらわれるそ れぞれの個性的な諸側面をみてとって立言された四諦の解釈である。即ちわれわれの生きる世界は、十界にわたって おり、五陰の種々の組み合わせによって、無量の様相を呈しているように、無量の世界には、種種の苦がそなわって お り 、 また苦の原因である食欲 ・ 眠毒 ・ 愚巌にはじまり 、 身 ・ 口 ・ 意 三 業の煩悩も無量である。したがって煩悩の対 治の道にも無量の方法があり、そして煩悩を滅却して浬換に入るにしても種々の段階差違がある。けだし四諦の無量 相を説くというのは、生滅・無生の四諦では、苦集はただ分段身の因果であり 、 滅道も分段身の因果の対治を意味す るにすぎない。しかるに無量の四諦の苦集は、分段と変易二種の因果止を包含するのであり、滅も分段 ・ 変易の因果を 尽滅すること、道も分段 ・ 変易の全体の対治を意味することで、 四諦の法の内容に局限がないという点から無量の四 諦と名づけられたのであろう。︵別教・仮﹀ 最後の無作の四諦は、化法四教の円教の中道の立場である。即ち一切法はどのようなものも実相でないものはない と見るのが無作の四諦の基本的態度なのである。 一 上 に 、 ﹃ 摩 詞 止 観 ﹄ 天 台 教 学 に お け る 円 教 六 七無作回読者、皆是実相不可思議。非三但第一義諦無ニ復若干一宏 三 ニ悉檀及一切法日無=復若干↓此義可 レ知、不 −一 復 委 記 ↓ とのべている。即ち苦の原因である煩悩は、本来断 じ られねばならないものでは な く、現 実 を離れて修すべ き 道諦も 表わすべき浬祭もなしと説いて、行人に対して断 ・ 離の作為を要求せず、すべては中道であり、無作であることを説 示するから不可思議なりと表現している 。 ﹃ 法 華 玄 義 ﹄ 二 下 に よ る と 、 無作者、迷 レ中軽故従 ν理得 レ名。以レ迷レ理故菩提是煩悩名ニ集諦↓浬梁是生死名=苦諦↓以 ニ能解 一故煩悩即菩提名 二 道 諦 ↓ 生 死 即 浬 鍍 名 − − 滅 諦 ↓ 即 レ事 而 中 。 無 ν 思 無 レ 念 − 無 二 誰 造 作 − 故 名 = 無 一 問 という 。 ﹁無作とは中に迷うこ と 軽 き が 故 に理に従って名を得﹂というのは、純粋 理 法 の立場に拠って書くことである。空有のニ辺 を隔別の原理として説かず 、 空に即し有に即 するものと説くからである。無作の四諦の立 場はあくまで円融原理を徹底し、四諦を生死 即浬撲の立場で説くのであり、二律背反する 諸法の相即、開会を立場とする。︵円教 ・ 中 生滅の四諦 無生の四諦 無 量 の四諦 無 作 の 四 諦 仮 空 実 名 |有 別 適 蔵 教 教 教 ﹁ ー 菩 提 是 煩 悩 迷理
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−−︷|浬祭是生死 能解li
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− − ﹁煩悩即菩提 ﹁生死即菩提 ー 集諦﹂ | 苦諦上 下円教 |道諦上 ー 減諦L
︵ 会 本 二 下 二 五 | 三 四 ︶,
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j¥ 道 ︶ 智顕にあっては 、 四種の四諦の教えはただ たんに菩提心の中味を示すだけではなく、実 相を ど のようなものとして解するのかという実相観の内容をも表示するものとして 了 解されている点である。 四 極 の 四 諦を図表として整理して見ると前の通りである。∞
四弘番願
四諦の理は、人間の生存が苦であるという真理︵苦諦﹀および苦の原因が煩悩にあるという真理︵集諦︶を教示す る 。 と こ ろ で こ の苦もその原因である煩悩もともに人 間 の六根に根ざすものである。したがって四諦に従って 、 発心 す る と なると 、 六根のすべてにかかわるという形をとることになる。一方四弘誓願は願 い であるから意業のみに関係 すると い う形態をとってくる。四弘普願に尊かれて成立する理想の菩提心とは 、 内面的にみてどのような心をいうの か、その菩提心の究極の形態を検討して見る。 ﹃摩罰止観﹄一下に 次根盛相対、一念心起、即空即侵即中者。若根若塵並是法界。並是皐寛空。並走如来蔵。並是中道。云何即空。 並 従 レ 縁 生 。 縁 生 即 無 レ 主 、 無 レ 主 即 空 。 云 何 即 懐 。 鉱 山 レ 主 而 生 即 是 使 。 云 何 即 中 。 不 レ 出 ニ 法 性 ﹁ 並 駒 田 即 中 。 蛍 レ 知 一念即空即限即中。並皐克空。並如来蔵。並実相。非乙ニ而三、三而不レ三。非ν合非レ散、而合而散。非 エ非 合 引 非 = 非 散 ↓ 不 レ 可 二 異 日 而 一 而 異 。 響 如 − 一 明 鏡 ↓ 明 倫 − − 即 空 。 像 喰 = 即 親 日 鏡 喰 ニ 即 中 ↓ 不 レ 合 不 レ 散 、 ム ロ 散 宛 然 。 不 二 一二三日二三無 ν 妨。 という。即ち四弘誓願に即して成り立つ菩提心の究極のものは、諸法のあり方を三諦にもと , ついて説かれている。心 をもちあわしているものではないのである。 すなわ ち 一 切諸法は縁起の関係の上に成り立っているものであり、決して変わることのないいわば本質のようなもの つ で も 、 一 切法のこうしたあり方を表わすのが空である 。 しかし﹁主なし ﹂ と い 一 切法はそのままで法性であ 天 台 数 学 に お け る 門 教 一切法は無そのものではなく、現実に形をもって存在しているから仮である。 ノ、 九七
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り、実相なのである。具体的な現実の諸存在を離れて考えられるべきではな い 。一切法のこうした有り方を中という の で あ る 。 ﹁ 三 に あ ら ず し て し か も 一 一 一 一 一 一 にしてしかも三にあらず、云云﹂という表現は、円教の中核の教義として、 即空 ・ 即仮 ・ 即 中 の 三 観が一心に円融しなければならない。 一 色一境といえども中道にあらざるものはない。 一 境を あげれば、そこには、必らず三諦を具する。これが三諦円融の諸法実相なのである。この円融三諦は、 ・ 諸法が即空 ・ 即仮 ・ 即中であり、単有でも但空でも但中でもないことを教え、とくに諸法を離れて実相を求むべきことではないと いうことである。円融三諦は、一境三諦とも、不次第三諦とも、不縦不積三諦とも、不思議三諦とも呼ばれるが、そ れが円教妙智の対境であるから、これを観ずる働きとしては一心三観である。 要するに四弘誓願に即して成立する菩提 心 の理想の形態は、無作を知る発心の内容として諸法のあり方を即空即仮 即中として捉える心をばあるべき菩提心の形態とし、菩提心の究極のすがたであると説かれているのである。即ち円 教では、円融 三 諦を第 一 原理とし、その教相門の全面に円融思想が徹底的に展開されている。観心門は 、 一 心 三 観 の 立 場 で 一 位即 一 切位を説くから 、 因 果 不 二 で あ り 、 三 惑同体であり、煩悩即菩提であるから不断而断と示されている の で あ る 。 し か し こ れは理法の立場にお い て い い得ることで、同教が実践修行を無用なりと説くことではない。煩悩即窓 口 提を ただ知解するのみでなく 、 実際に証悟体現しなければ、円教の目的に到達L
た と はいい得ない。そこで断ずべき煩悩 も、求むべき菩提もないが、それが実証できるまで、無作の原理に基づく、円教の実践観法が説かれている円頓止観 の実修を段階的に説明しているのである。 六即同
六即説は同教の階位を教示する教えとして示されている。即ち無作の修行の位次階程を端的に表現する六即の階位 と関連づけて菩提 心 の 問 題をみて ゆ こ う と す る の で あ る 。 六即とは 、 理即、名字 即 、 観行 則 、 相似即、分謹即、究寛即である。 ︵ げ ﹀ 初めの理即とは 、 ﹃ 摩 詞 止 観 ﹄ 巻 一 下 に よ る と 、 ﹁ 一念の心すなわち 如 来蔵の理なり。如の放に即空、蔵の故に即 仮 、 理 の 故 に 即 中 な り 。 三 智 一 心 のなかに具して、不可思議なり、云云 ﹂ と説 い ている。﹁如来蔵﹂とは、衆生に智 慧がそなわっていることを教えている こ とばで、衆生は真理のただなかにありながら、そのことに気づいていないあ り方を表わすことである。即ち民如が衆生にそなわっているという こ とを衆生自身は気づいていなくとも、その衆生 には菩提心を発する可能性 が そなわっている こ とを示そうとしていることであろう。三智即ち 一 切 相 官 、 道種智 、 一 切 種智は三諦にかかわり、三諦は捉えられる所観の境である。一方三智は境を捉える能観の法であって、理即の位と い うのは、未だ門教に説く真理 中 道の教理を聞かざる位である。 つぎに名字即 と は 、 ﹁ い ま だ三諦を 聞かざるをもってまったく仏法 を 識ら ず 、牛 羊 の限方隅を解せざるがご と し 、 あ る い は 智 識 に 従 い 、 あるいは経 巻に従って 上 に 説 く と こ ろ の 一 実の菩 提を聞き、名字 のなかにおい て 、 解 了 し て 、 ︿ 川 崎 ︶ 一 切の法みなこ れ 仏法なり と知る 。これ を名 字 即 の 菩 提 と な す 。 し と 、 即ち 仏 法 を 知るこ と ができなかったものが 、 善知識により、経典や論書に導かれて 、 一 切はみな仏法であるというを 、 こ と ば の 上 で真如中道の教理を間見する位 で あ る 。 次の観行即とは、﹁もしただ名を聞いてロに説くは、虫が木を食ってたま た ま字を成すことを得れども、 こ の虫は これ字なるか字にあらざるかを知らざるが如し。:::: j i − − − 心観明了にして理と恵相応し、行うところは言うとこ ︵ 同 日 ︶ ろのごとく、言うところは行うところのごとくすべし。︵中略︶﹂智恵がいっそう深まり、真実がよりはっきりと捉え られるようになる段階をいう。即ち観行即とは所謂理慧相応の位であって、雪国教を離れても行者の観智が所観の真如 中道の理と常に相応して草木違せ.さる位である。菩提心を観行即と結びつけ て 説く狙いは、菩提を求める心がただ頭だ 天 台 数 学 に お け る 円 教 で 七七 けのものにとどまらず、人間の存 在 の全体に根差すものであることを示 し て い る 。 つぎの相似即は 、 観智が 一 段と進んで、性徳を顕わして真如中道の理を誼倍する位である。相似ということは、あ るべきすがたに相当程度近づ い た状態を意味している。菩提心を相似即と関係づけて解する狙いは、菩提心が菩提を 求める心の深化の過程を教えている。 六即の第五の分其即とは 、分分に無明の煩悩を断 じて、其如中道の妙理を澄倍する位である。あたかも月の光が満 月 一 歩手前の月のように円か に卸き、闘がほとんど尽きなんとするが如く、ここでは無明がかすかに 残る程度で 、瓦 突がほぼ十全に捉えられる。悟りのすぐまえの段階である。この段階では、諮問縫を求める心がさらに一層奥の深いも のであることを示し て い る の で あ る 。 最後の究克即の菩提とは、﹁智光固満して復増す可からざるを菩提の果と名く、大浬探断にして更に断ずべき無き を果泉と名く。等覚は通せず 、 唯仏のみ能く通ず。茶を過ぎて道の説くべき無し。故に究寛の菩提と名句どという ように、根本無関を断じ遺して 、 究寛の真如 中 道の妙理に契合する段階である。 こ の位は、菩提を求める 心 が 悟りにつながるものであることを示してい るのであ る。しかし ﹃摩詞止観﹄巻一下による問 、 約 二 六 即 一 顕 ν 是者 、 為 − 一 初 心 是 日 為 = 後 心 是 ↓ 答 、 如 エ 論 焦 娃 ↓ 非 レ 初 不 レ 離 レ 初 。 非 レ 後 不 レ離レ後。若智信具足。間三念即是↓信故不レ詩、智放不レ憾。初後皆 是 。 j i − − − 初 後 倶 非 。 為 エ 此 事 − 故 、 須 レ 知 − 一 六 即 ↓ 云 云 という 。 天台円教では、六位の不同はあるが法界の全体は唯一絶待の真如界であって、仏陀も 三 千実相、吾人も三 ている事においては斉しいのであると示しているのである。 千実相であり、これは同一真如であることに変りはない。その放に六位の一々の蛍体即仏即ち三千実相の体を全うし
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断無明設中 道の位 党R
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む す び し か し て 菩提心 とは、仏道を 一 貫 して支 える悟りを求める心のことで、貧人にとっ て の 宝蔵のようなものであり、はじめは ほ とんど意識されることではない と 考えられ るが、しかし菩提を求める心は、万人に具 わっているのであり、その存在が悟りを求 める心によって、以後次第に深められて い く も の で あ る 。 六即を図 示すれば上の如くである。 調 約 二 四 弘 、 四 諦 、六即 ↓ 以筒 ニ偏円発心之相↓四弘是能発之替、四諦是所依之境。六即是所歴之位。醤若無境 、 名 為 ニ 狂 願 ↓ 境 不 ν弁 ν 位。 凡 聖不 ν 分。 円の心を発することは、すなわち、四弘、四諦 、 六即を以って示されている。四弘は能発の替、四諦は依拠する 境、六即は経歴する位である。 四諦の境によって四弘の習を発 こ すということは、衆生は無辺であるが替ってすくわんと願うことは、苦諦の境に よっていることを示しているのである。菩提は無数であるが、誓って断ぜんと願う こ とは、集諦の境によるのであ 天 台 教 学 に お け る 門 教 る。法門は無尽であるが誓って知らんと願うことは、道諦の境によるのである。仏道は無上であるが替って成ぜんと 七七 四 願うことは、滅諦の境に よ る の で あ る 。 このように円の心を発しても、この円の心は初心を是とするのか、後心を是とするのかそして初心と後心は同じな のか、異なるのかの問題が出て来るのである。 そこで六即が示されている。即であるから初も後もみな通低しており、六であるから初も後も濫れない。初後の理 は同じであるから即、事は邸内役るから六である と説明している 。一念は即空即仮即中であると聞いて、これを信じて るから諮らず、知唱があるから悩れず 、 初も後もみな足りるのであるが、信がないと型境を向く推して己の相官分ではな いと思い、相官がないと地上の慢 心を起こして、己は仏と均しいと思い、初も後もともに欠けたものとなる 。したがっ て六即は信と智を増す説なのである。 以上のように、菩提心を発こす心が六却の椛造において、初心から後心へと 一 貫して、はたらくものとして位置づ けられている点は住怠すべきであろう。 注 ︿ 1 ﹀﹃回数義﹄巻第 一 、 大 正 四 六 、 七 − 一 一一 中 ︵ 2 ﹀ 一 切 智 、 道 種 智 、 一 切 種 智 の 三 相 官 の 相 即 一 切 ︿ 3 ︶一行一切行とは ﹁大 衆 円 因 浬 終 回 来 。 則 因 果 而 具 足 無 紋 。 ﹂ 大 正 四 六 、 七 二 二 中 に よ る 。 ︿ 4 ﹀ ﹃ 天 台 四 教 義 ﹄ 、 大 正 四 六 、 七 七 八 下 ︿ 5 ︶ ﹃ 天 台 回 数 儀 袋 注 ﹄ 十 巻 、 諸 宗 部 ︵ 締 陽 十 ︶ 、 稲 葉 円 成 著 ﹃ 天 台 回 数 儀 新 釈 ﹄ 、 二 五 七 。 ︿ 6 ﹀ ︷ 子 井 伯 車 問 監 修 ﹃ 仏 教 辞 典 ﹄ 、 六 三 一 、 一 経 の 中 に 他 の 諸 経 を 包 括 せ し め 、 而 も 他 経 を 認 め ず し て 、 相 待 妙 の 対 。 ︵ 7 ︶大正三三、六九七、上 ︿ 8 ︶大正三三、六九七、中 下 一 経 の 円 妙 な る を い う 。 ハ 9 ﹀大正四六 、 一 一 二 上 ︵ 刊 ︶ 大 正 四 六 、 一 下 ︵ 日 ﹀ 大 正 四 六 、 五 中 ︵ ロ ︶ 同 上 、 五 中 ︿ W M ﹀ 向 上 、 五 下 ︵ U ︶大正三三、七
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一 中 ︿ 河 川 ﹀ 大 正 四 六 、 八 下 ︵ 時 ﹀ 同 上 、 八 下 、 九 上 ハ げ ﹀ 同 上 、 一O
中 ︿ 渇 ﹀ ﹁ 隊 問 止 観 ﹄ 巻 第 一 下 、 大 正 四 六 、 一O
中 ︵ 印 ﹀ 同 上 ハ 却 ︶ 向 上 、 大 正 四 六 、 一O
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同 上 、 一O
中 ︿ 詑 ﹀ 湛 然 述 ﹃ 止 観 大 怒 ﹄ 、 大 正 四 六 、 四 五 九 中 参考文献 て ﹃ 法 華 玄 毅 釈 鍛 傍 註 ﹄ ニ 、 ﹃ 降 柄 止 観 ﹄ = 一 、 ﹃ 法 華 玄 毅 ﹄ 四 、 稲 田 発 顕 著 ﹃ 十 大 台 学 概 論 ﹄ 五 、 安 藤 俊 雄 者 ﹃ 天 台 学 ﹄ 六 、 玉 城 市 蹴 四 郎 著 ﹃ 心 把 捉 の 展 開 ﹄ 七 、 関 口 哀 大 著 ﹃ 天 台 止 観 の 研 究 ﹄ 八 、 池 田 魯 参 箸 ﹃ 臨 仲 間 止 観 研 究 序 説 ﹄ 天 台 数 学 に お け る 円 教 七 五七 ノ、 九 、 稲 葉 円 成 著 ﹃ 天 台 四 教 義 新 釈 ﹄ 十、﹃仏典講座﹄お大蔵出版 十て﹃仏典講座﹄初大蔵出版 十 二 、 ﹃ 国 訳 一 切 経 ﹄ 経 疏 部 一 十 二 、 ﹃ 園 訳 一 切 経 ﹄ 路 宗 部 三