止まっているものが動き始め,そこにあるはずのないも のが見えてくる.錯視という知覚現象は,自身が知覚して いるものは物理環境と異なるものであるということを,体 験として示してくれる.錯視は,一定のルールに基づき, 多くの人に対して同時に驚きを与えることができるため, 科学館*1や美術館*2だけでなく,感覚体験型の展示1), 出版物2),テレビ番組でも取り上げられ,近年,多くの人 に親しまれるようになった.錯視を見せることを目的とし たデザインも試みられ3),*3,その裾野は大きく広がってい る4),*4,.そして,錯視はその体験自体を楽しむというだけ でなく,何らかの目的を実現するための有効なツールでも ある.人間の知覚メカニズムを明らかにするという視点か ら考えると,錯視は知覚と物理環境の相異を明確な形で表 し,知覚メカニズムの構成要素,本質を浮き彫りにする重 要な実験刺激である.芸術の表現手法としても古くから利 用されてきた*5.また,社会生活の中では,情報提示装置 の提示原理のなかに組み込まれ,その提示能力を飛躍的に 向上させている.教育という視点からも,自身の感覚と環 境との関係性を学び,再発見するための教材として使用す ることができる.これまで,錯視の科学・芸術分野での利 用については,多くの事例があり,それらへの言及も多 い.そこで,本稿では,工学の視点から情報提示原理とし ての錯視,教育の視点から創作体験型学習の教材としての 錯視について,その利用例を紹介する. 1. 情報提示技術と錯視 視覚情報提示技術において,提示原理に人間の知覚特性 や錯視を利用することは,少ないエネルギーで提示能力を 拡大することにつながる.その代表的な技術として,二次 元静止画像のなかの空間歪みを視点情報と組み合わせて三 次元情報を提示する技術や,眼球運動や画像の運動情報を 利用して一次元光源で二次元情報を提示する技術が存在す る.錯視を利用し,その提示情報の次元を拡張すること は,錯視のメリットを利用した最たるものであり,情報提 示技術に大きな効率性をもたらしている.以下,それらの 次元拡張型視覚情報提示技術について述べる. 1. 1 射影復元による情報提示技術 二次元画像によって三次元情報を提示する一番単純な方 法は,網膜上に投影される二次元平面を復元し,そのまま 提示することである.「遠近法」と呼ばれる描画手法は, ある位置から見た三次元環境を前額平行面上の描画面に写 し取ったものである.ただし,この手法では視点の正面に 情報提示面が固定され,その位置を外れると知覚像は歪ん でしまう.一方で,遠近法を逆に使った,正面から見ると 歪んで見え,提示面の端から眺めたときだけ正しく見える 「アナモルフォーズ」(歪像画)と呼ばれる描画手法があ 99(35) 39 巻 2 号(2010)
最近の技術から
錯視が解き明かす視覚メカニズム
錯視を使った情報提示技術・創作体験型学習
渡 邊 淳 司
Information Presentation and Experience-Based Learning Using Visual Illusions
Junji WATANABERecently people become aware of visual illusions through mass communication media. In consideration of its spreading to the general public there is a need to show, not only the perceptional experience of the illusions, but also the possibilities of applying the illusions to the daily life. In this paper, I will intro-duce the effective ways of using visual illusions for information presentation and experienced-based learning.
Key words: visual illusion, visual display, workshop
る.絵を端から見たときなど,明らかな奥行き手がかりが 存在しないときに,情報提示面として物理的には存在しな い前額平行面を仮定し,そこに網膜像を射影して知覚像を 構成するものである.これは,人間の視覚システムが,二 次元網膜像をよりもっともらしい三次元環境の射影として 考える特性を利用している.近年,このアナモルフォーズ と同様の仕組みを利用した広告が,J リーグのサッカー中 継で利用されている*6.この広告は「90° システム広告」と 呼ばれ,四辺形のシートに歪んだ広告画像を印刷して地面 に敷くものである.そのシートをテレビ画面を通して見る と,立体的に,あたかも 90 度に立って見える.その基本 原理は,図 1 にあるように,メインスタンドのテレビカメ ラ位置を視点とした一種のアナモルフォーズである.通 常,看板を立てることができないゴール両脇に敷かれてい ることが多く,非常に目立つ広告であるとともに,その シートの上を現実世界の選手やサッカーボールが通り抜け たときの知覚的驚きも新鮮である. 1. 2 時空間統合による情報提示技術 次に,異なる時間に提示された視覚情報が,脳内の情報 処理によって 1 つの知覚像として統合される特性を利用し た次元拡張型情報提示技術について述べる.その最も単純 な例は,図 2(a)にある,一次元光源を物理的に高速移動 させ,その位置で提示したい点滅パターンで光源を光らせ る技術である.ある一定時間内に提示された一次元情報群 が,ひとつの二次元イメージとして知覚されることを利用 しており,光源をモーターで移動させる方式や手で振る方 式など,いくつかの方式が実現されている. また,上記の技術とは逆に,図 2(b)のように,一次元 光源自体は固定し,その前で観察者がサッカードと呼ばれ る眼球運動を行い,その間に点滅パターンを高速で時間変 化させると,一次元の点滅パターンが網膜上で空間パター ンに展開されて,二次元イメージが知覚される5), *7.一般 にサッカード中の知覚は抑制され,知覚可能な解像度等が 下がることが示唆されているが,背景輝度が低く,光点刺 激のコントラストが確保できる場合は,文字など複雑な画 像も知覚可能である.この情報提示技術の特徴として, モーターなど駆動装置を必要とせず,一次元の光源のみで 二次元イメージが提示可能なため,光源のコストや消費エ ネルギーが抑えられる.さらに,十分暗い環境においてな らば,一瞬ではあるが,空中や水中等の投影面のない空間 に対しても情報提示が可能になる. 上記 2 種類の情報提示技術は,光源の運動もしくは眼球 運動によって,網膜上に二次元像を描くものであったが, 網膜上で光源を物理的に移動させなくとも,運動知覚が生 じるだけで,一次元光源群で二次元情報を提示することが 可能である*8.図 1(c)のように,一次元光源群をスリッ ト状に配置し,それらをあたかもその後ろで二次元イメー ジが移動するように点滅させると,観察者はスリット向こ うで運動する物体を想定し,それに沿って異なる時間に提 示された形態情報を統合して,光源の存在しない部分も含 めて二次元イメージを知覚する.この知覚は眼球を動かさ なくとも生じ,スリット向こうに推定される運動情報が形 態情報や色情報の統合に重要な役割を果たすことが示され ている6,7).この情報提示技術は,物体の運動が知覚され れば安定した情報提示が可能であり,光源の配置もスリッ ト状だけでなく,網目状*8や文字の形*9などさまざまなバ リエーションがある. 2. 創作体験型学習と錯視 最後に,創作体験型学習という視点から,ワークショッ プにおける錯視の利用について紹介する.ワークショップ (workshop)とは,参加者自らが自発的に作業をし,体験 のなかから何らかの原理や手法を発見し,学ぶ場である. 自ら主体的に,創作,観察,発見の過程にかかわることが 重要視される.これまでも,錯視を利用して人間の知覚に ついて学ぶワークショップは行われてきたが,その多くは 100(36) 光 学 図 2 時空間統合による次元拡張型情報提示技術.(a)光源移 動を利用,(b)眼球運動を利用,(c)運動知覚を利用. 図 1 射影復元を利用した情報提示技術.90° システム 広告の提示原理イメージ図.
上記の 3 つの過程のうち,自ら創作する過程を経ることが 難しかった.参加者が自らの創作物から発見をすること は,学びの根拠を自身で創作することであり,発見による 学びがより身近なものになると考えられる. ここでは,錯視を使って創作する過程を含み,その後に 知覚法則について考え,学ぶ場をもつワークショップを紹 介する8).このワークショップでは,錯視パターンを印刷 したシールを用意し,それを図 3 のようにブロックに貼り 付け,そのブロックで何らかの立体物を創作する.創作過 程においては,自身の手でパターンを組み合わせた瞬間に 錯視効果が生じ,錯視による模様と物理的に存在する物体 の凹凸が入り混じり,予想もしなかった模様が浮かび上が る.立体物を創作した後には,シールによる立体物の質感 の変化や,自身の創作物と他者の創作物を比較,観察し, 何らかの見えの法則性を発見する試みを行う.このワーク ショップは,二次元的な印刷媒体の錯視ではなく,現実世 界の風景の中にある錯視を自分の手で作り上げ,観察する ものであり,知覚に対する体験的な理解へ繋がるものと考 えられる.なお,このワークショップはこれまでに,2009 年 3 月 29 日(日本科学未来館),2009 年 7 月 22 日(種子島) の 2 回が開催されている. 本稿では,錯視の情報提示技術,創作体験型学習への応 用について述べた.錯視は社会や個人個人の生活を豊かに するツールとして利用されている.そして,今後は,社会 生活のなかでの新たな発見が錯視研究へフィードバックさ れていくような循環を作ることが重要となるであろう. 最後に,本稿を執筆するにあたり,挿絵を作成していた だいた草地映介氏,記述内容について示唆に富んだアドバ イスをいただいた丸谷和史氏(NTT コミュニケーション 科学基礎研究所),ワークショップの写真を快く提供いた だいた大谷智子氏(東京大学)に,この場をお借りして深 く御礼申し上げる. 文 献 1) 安藤英由樹 // 渡邊淳司:“メディアラボ第 5 期展示「感覚回路 採集図鑑」(2009 年 10 月 6 日∼2010 年 3 月 1 日開催)”,Me +Sci 2009 年 9 月号(日本科学未来館,2009). 2) 竹内龍人:“特集 だまされる脳”,子供の科学,2009 年 4 月 号 (誠文堂新光社,2009). 3) 北岡明佳:人はなぜ錯視にだまされるのか?─トリック・ア イズ メカニズム─ (カンゼン,2008). 4) 堺 浩之,臼井支朗:“視覚研究のデジタル・アーカイブ: Visiome Platform”,Vision, 18 (2009) 29―32; http://visiome. neuroinf.jp/
5) J. Watanabe, A. Noritake, T. Maeda, S. Tachi and S. Nishida: “Perisaccadic perception of continuous flickers,” Vis. Res., 45 (2005) 413―430.
6) S. Nishida: “Motion-based analysis of spatial patterns by the hu-man visual system,” Cur. Biol., 14 (2004) 830―839.
7) S. Nishida, J. Watanabe, I. Kuriki and T. Tokimoto: “Human brain integrates colour signals along motion trajectory,” Cur. Biol., 17 (2007) 366―372. 8) 大谷智子:“∞のこどもたちオープンラボ in 種子島”,映像情 報メディア学会誌,63 (2009) 1390―1393. 参考 URL (いずれも 2009 年 9 月 10 日現在) *1 静岡科学館る・く・る http://www.rukuru.jp/ *2 高尾山トリックアート美術館 http://www.trickart.jp/ *3 北岡明佳の錯視のページ http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka *4 Illusion Forum http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/ *5 Victor Vasarely http://www.vasarely.com/ *6 J リーグ公式サイト http://www.j-league.or.jp/ (90° システ ム広告のニュースリリースを参照) *7 渡邊淳司 http://www.junji.org/saccade/ *8 アビックス(株) http://www.avix.co.jp/ *9 (株)コマデン http://www.komaden.co.jp/ *10 Bill Bell http://www.subliminaryartworks.com/ (2009 年 10 月 28 日受理) 101(37) 39 巻 2 号(2010) 図 3 ワークショップで使用された錯視ブロック.左 から陰影による凸凹錯視,主観的輪郭,カフェウォー ル錯視のブロック.