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平成24年度 武蔵野市非核都市宣言平和事業の記録

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平 和 に 関 す る 標 語

最 優 秀 賞 受 賞 作 品

和を

武蔵野

世界へ

武蔵野市立桜野小学校6

原田

慶紀

さん

成平年 応募当時

(5)

武蔵野市

、昭和

月2

日に市議会

非核都市宣言を行っ

ら、昨

の節目の

を迎えました

、その宣言

ら2

を記念し

、地域ン

和団体、大学生、公募

市民

構成する非核都市宣言

和事業実行委員会

設置され、

戦争パネル展や映

画上映会、憲法講演会、子

向けイベントの企画ン運営

様々

和啓発事業を

実施し

まいりました

また、

成2

、中島飛行機

空襲を受けた

月2

日を

武蔵野

和の日

する条例

制定され、市

さらに市民に戦争の悲惨さ、

和の尊さ

を伝えるた

、戦争体験の伝承を

し、

和への意識を高

いく事業を

行っ

ます

(6)

成平4

度 武蔵野市非核都市宣言

和事業の実施状況

憲 法 月 間 行 事 の 開 催 ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン

2 夏 季 事 業 和 を 武 蔵 野 ら 世 界 へ ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン

武 蔵 野 市 和 の 日 事 業 ピ ヴ ケ さ し の 平 0 1 平 ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン

武 蔵 野 野 ら 伝 え る 戦 争 体 験 記 録 集 の 第 集 の 発 行 ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン

和 案 内 説 明 板 戦 争 遺 跡 説 明 板 の 設 置 ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン6

6 実 行 委 員 会 の 開 催 状 況 ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン

和 啓 発 品 の 作 成 ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン

8 非 核 都 市 宣 言 年 0 周 記 念 事 業 ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン ン8

東京空襲パネル展ンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン

武蔵野市

和の日制定記念

講演会

父の戦争体験 ら伝えたいこ ~夢をあ ら い~ 渡辺 えり 氏ンンンンンンン

(7)

平4

武蔵野市非核都市宣言

和事業の実施状況

憲 法 月 間 行 事 の 開 催 作 品 募 集

内 容 書 道 ン イ ラ ケ ト

募 集 期 間 成平4 2 月15日 水 ~ 月15日 木 応 募 状 況 書 道 18年点 う 優 賞 2 点 、 入 選16点

イ ラ ケ ト 46点 う 優 賞 2 点 、 入 選 点 、 実 行 委 員 会 賞 点 表 彰 月平0日 日 の 記 念 講 演 会 に い 、 優 賞 受 賞 者 を 表 彰

展 示 応 募 全 作 品 を 月 日 火 ~ 14日 月 ま 市 役 所 階 ュ ニ ヴ 展 示 入 賞 作 品 に い 講 演 会 当 日 月平0日 に 、 公 会 堂 ュ ニ ヴ 展 示

優 賞 作 品 点

2 講 演 会 の 開 催

日 時 月平0日 日 午 後 時 ~ 時 場 所 武 蔵 野 公 会 堂

内 容 落 合 恵 子 氏 作 家 講 演 命 の 感 受 性 … 人 権 ン 平01平 参 加 者 平58

落 合 恵 子 氏 講 演

2 夏 季 事 業 和 を 武 蔵 野 ら 世 界 へ 写 真 パ ネ ル 展 の 開 催

写 真 パ ネ ル 展 市 役 所 ュ ニ ヴ 展 示

月年0日 月 ~ 8 月 日 金 武 蔵 野 の 空 襲 中 島 飛 行 機 8 月 6 日 月 ~ 10日 金 広 島 ン 長 崎 の 原 爆

武 蔵 野 ハ ヤ イ ケ 階 ウ ホ ラ モ ヴ 展 示

8 月1年日 月 ~ 平1日 火 原 爆 、 武 蔵 野 の 空 襲 に 関 す る 展 示

(8)

市 役 所 パ ネ ル 展 武 蔵 野 ハ ヤ イ ケ パ ネ ル 展

ウ ホ ラ モ ヴ ト ヴ ェ

○ 8 月15日 水 午 後 2 時年0分 ~ 時年0分 武 蔵 野 ハ ヤ イ ケ

中 島 飛 行 機 の 歴 史 曪 善 郎 氏 武 蔵 野 の 空 襲 戦 争 遺 跡 を 記 録 す る 会 来 場 者 平5 職 員 、 関 係 者 含

○ 8 月平1日 火 午 後 2 時年0分 ~ 2 時50分 武 蔵 野 ハ ヤ イ ケ 被 爆 体 験 談 梅 岡 氏 武 蔵 野 け や 会

来 場 者 68 職 員 、 関 係 者 含 市 民 ら 寄 せ ら れ た 戦 争 関 連 資 料 展 示

○ 月年0日 月 ~ 8 月16日 木 市 役 所 正 面 玄 関 ク ミ ヴ ゞ イ ン チ ヴ

曪 氏 ウ ホ ラ モ ヴ ト ヴ ェ 梅 岡 氏 ウ ホ ラ モ ヴ ト ヴ ェ

戦 争 関 連 資 料 展

2 子 向 け 和 イ ベ ン ト

8 月平1日 火 午 後 2 時 ~ 時 武 蔵 野 ハ ヤ イ ケ

朗 劇 嘉 代 子 桜 上 演 午 後 2 時 ら 2 時年0分 吉ウ ホ ラ モ ヴ

絵 本 の 聞 せ 紙 芝 居 の 上 演

(9)

絵 本 の 聞 せ せ い い ん よ い 国 午 後 時 ~ 時平0分 2 吉 し の へ や 力 和 交 流 派 遣 団 メ ン ト ヴ

紙 芝 居 ウ ギ ウ ギ 屋 の 中 島 飛 行 機 午 後 時年0分 ~ 時50分 2 吉 し の へ や 力 さ し の 紙 芝 居 一

絵 本 の 聞 せ 紙 芝 居 の 上 演

一 般 向 け 和 事 業

日 時 8 月平年日 木 午 後 6 時 ~ 8 時 場 所 武 蔵 野 商 工 会 議 所 吉市 民 会 議 内 容 森 氏 フ ゙ ー リ 講 演

福 島 の 現 状 世 界 の 核 汚 染 ~ 今 、 た に る こ ~ 来 場 者 ウ8 職 員 、 関 係 者 含

和 市 長 会 議 作 成 の 原 爆 に 関 す る パ ネ ル 展 を 同 時 開 催

森 氏 講 演

武 蔵 野 市 和 の 日 事 業 ピ ヴ ケ さ し の平01平

武 蔵 野 の 空 襲 中 島 飛 行 機 製 作 所 関 連 資 料 の パ ネ ル 展

10月年0日 火 ~ 11月 6 日 火 コ ピ ケ 祥 寺 吉連 絡 通 路 11月 8 日 木 ~ 15日 木 武 蔵 野 ハ ヤ イ ケ ウ ホ ラ モ ヴ 11月16日 金 ~ 平平日 木 市 役 所 ュ ニ ヴ

2 市 民 ら 寄 せ ら れ た 戦 争 関 連 資 料 展 示

(10)

断 幕 の 掲 出

11月 日 木 ~ 年0日 金 駅 前 ュ ヴ タ モ ヴ び 市 役 所 前

市 内 各 コ プ セ ン に け る プ ニ プ ニ 空 襲 パ ネ ル 展

西 久 保 コ プ セ ン 、 中 央 コ プ セ ン 、 幡 コ プ セ ン 、 西 部 コ プ セ ン 、 桜 堤 コ プ セ ン 、 境 南 コ プ セ ン 、 関 前 コ プ セ ン 、 祥 寺 南 町 コ プ セ ン 、 本 宿 コ プ セ ン 以 上 コ プ セ ン

和 の 日 イ ベ ン ト ピ ヴ ケ さ し の 平01平 日 時 11月平4日 土 午 後 2 時 ~ 時 場 所 武 蔵 野 ケ イ ン エ ホ ヴ ル

参 加 者 約平00 ■ 内 容

ン 開 会 あ い さ 、 和 メ ッ セ ヴ グ 発 表 武 蔵 野 市 長 ン 報 告 武 蔵 野 市 青 少 和 交 流 派 遣 団 派 遣 報 告

ン 解 説 11月平4日 ら 始 ま っ た 武 蔵 野 の 空 襲 牛 田 守 彦 氏

ン 講 演 父 の 戦 争 体 験 ら 伝 え た い こ ~ 夢 を あ ら い ~ 女 優 渡 辺 え り 氏 ン 閉 会 あ い さ 非 核 都 市 宣 言 和 事 業 実 行 委 員 会 委 員 長

会 場 ュ ニ ヴ に 武 蔵 野 の 空 襲 に 関 す る 写 真 パ ネ ル 展 を 開 催

邑 上 市 長 和 メ ッ セ ヴ グ 発 表 青 少 和 交 流 派 遣 団 派 遣 報 告

(11)

6 そ の 他

ン 三 鷹 武 蔵 野 ォ ヴ ノ ル テ ヤ ニ に よ る パ ネ ル 展 、 和 の 日 イ ベ ン ト の 取 材

ン 武 蔵 野 市 青 少 和 交 流 派 遣 団 活 動 報 告 書 を 来 場 者 へ 配

青 少 和 交 流 派 遣 団 活 動 報 告 書

武 蔵 野 ら 伝 え る 戦 争 体 験 記 録 集 第 集 の 発 行 市 民 の 戦 争 体 験

第 一 部 武 蔵 野 の 空 襲 そ の 記 憶

戦 時 中 、 戦 後 の 思 い 出 橋 本 又 治 氏

中 島 飛 行 機 武 蔵 工 場 の 空 襲 体 験 内 竹 郎 氏 中 島 飛 行 機 ン 武 蔵 製 作 所 の 戦 争 体 験 記 志 賀 一 将 氏 中 島 飛 行 機 武 蔵 製 作 所 の 思 い 出 岩 崎 兼 男 氏 戦 時 中 の 思 い 出 臼 子 氏

学 徒 動 員 の 思 い 出 朊 木 よ 子 氏 、 白 節 子 氏 、 田 文 子 氏 、 竹 内 静 江 氏 、 野 ブ モ 子 氏 、 小 山 文 江 氏

戦 時 中 の 武 蔵 野 市 真 田 子 氏 慰 問 袋 闇 米 渡 し 子 氏

中 島 飛 行 機 武 蔵 野 給 友 会 清 水 正 之 氏 戦 中 ン 戦 後 の 食 糧 難 部 菊 圃 氏

戦 争 に 歩 ん 都 立 商 一 期 生 の 思 い 出 田 曪 禮 氏 第 部 市 民 の 心 に 残 る 戦 争 体 験

戦 中 ン 戦 後 の 思 い 出 生 方 ゆ 子 氏 技 術 部 兵 し 大 野 田 武 氏

の 戦 争 体 験 談 後 藤 ク ソ ム 氏

陸 軍 特 別 幹 部 候 補 生 を 志 願 し 見 憲 氏 父 ら 聞 い た こ 芝 綾 子 氏

ア メ モ カケ平9の 爆 弾 焼 夷 弾 の 頭 に 落 た 日 ~ 孫 た へ の 証 言 ~ 清 水 正 也 氏 黒 板 木 の 枝 に 竹 山 悠 紀 子 氏

戦 争 の い 和 世 の 中 へ 々 木 璵 里 子 氏 あ の 時 十 っ た 岡 君 代 氏

○平1原 爆 の 落 た 日 三 浦 澄 氏

○平平孫 た に 伝 え た い の 戦 争 体 験 ~ 台 湾 ら の 引 揚 ~ 清 本 和 子 氏 ○平年 の 子 時 代 、 日 本 う ヴ っ 戦 争 を し い た 石 渡 俊 子 氏 ○平4大 連 迎 え た 終 戦 棚 橋 武 雄 氏

○平5大 連 、 青 島 の 出 来 事 に い 内 山 満 榮 氏 ○平6軍 隊 の 経 験 斉 藤 與 太 郎 氏

(12)

○平8預 言 者 の 受 難 ネ ゟ ニ ッ ェ ケ - 広 島 - 梅 岡 氏 ○平9愛 す る 人 を 失 わ い た に 柴 田 ネ プ テ 氏 2 和 を 未 来 へ ~ 青 少 和 交 流 派 遣 団 ~

青 少 和 交 流 派 遣 団 に 参 加 し 感 想 塩 澤 理 紗 さ ん 、 林 彩 香 さ ん 、 木 詩 織 さ ん

体 験 記 の 応 募 状 況 等 〇 応 募 18件

〇 聞 取 り 件 成平年 度 件 、 成平4 度 2 件 岩 崎 兼 男 氏

日 時 月平ウ日 木 午 前10時 ~ 正 午 場 所 自 宅 三 鷹 市

内 容 中 島 飛 行 機 武 蔵 製 作 所 の 体 験 聞 取 り 実 行 委 員 、 職 員 2 真 田 子 氏

日 時 月19日 水 午 前11時 ~ 正 午 場 所 市 役 所

内 容 自 身 の 戦 争 体 験

聞 取 り 実 行 委 員 、 職 員 2

※ 武 蔵 野 け や 会 武 蔵 野 市 原 爆 被 害 者 の 会 発 行 の 武 蔵 野 ら 和 を 世 界 に け よ う よ り 2 件 抜 粋

印 刷 び 配 状 況 印 刷 部 数 1古000部

配 団 体 ン 関 係 者 (100部 )、 庁 内 平40部 、 和 の 日 イ ベ ン ト 会 場 平00部 各 市 政 セ ン タ ヴ 100部 、 残 部 市 民 活 動 推 進 課 窓 等 配

和 案 内 説 明 板 戦 争 遺 跡 説 明 板 の 設 置

中 島 飛 行 機 武 蔵 製 作 所 工 場 引 込 線 橋 台 跡

設 置 場 所 玉 上 水 ん ん 橋 付 近 歩 道 沿 い 関 前 一 丁 目

2 中 島 飛 行 機 武 蔵 製 作 所 運 動 場 跡

設 置 場 所 武 蔵 野 陸 上 競 技 場 ト ラ ッ ェ 入 り 脇 植 え 込 内 祥 寺 町 丁 目

(13)

6 実 行 委 員 会 の 開 催 状 況

日 時 主 内 容

第 回 成 平4 月 平6 日 (木 ) 実 行 委 員 会 の 運 営

第 2 回 月平平日 (火 ) 憲 法 月 間 記念 講 演 会 の反 省 、夏 季事 業 の 検 討

第 回 6 月 日 (火 ) 夏 季 事 業 の 検 討

バ 研 修 会 6 月平6日 (火 ) 都 立 第 福竜 丸 展 示 館、し ょ う けい 館 見 学

第 回 月1ウ日 (火 ) 夏 季 事 業 の 実 施

第 回 8 月平8日 (火 ) 戦 争 体 験 記 録 集 の 編 集

第 6 回 10月 日 (火 ) 和 の 日 イ ベ ン ト の 実 施

第 回 1平月 日 (火 ) 和 の 日 イ ベ ン ト の 反 省

第 8 回 成平5 月年0日 (水 )

成 平 5 度 憲 法 月 間 記 念 行 事 の 検 討 和 啓 発 品 の 検 討

第 回 月平5日 (月 ) 一 を 振 り 返 っ

ト ケ 研 修 第 福 竜 丸 展 示 館 前 に 夏 季 和 事 業 に

和 啓 発 品 の 作 成

非 核 都 市 宣 言年0周 を 記 念 し 、イ ラ ケ ト ヤ ヴ タ ヴ の 藤 原 理 和 氏 に 和 を ペ チ ヴ ネ に したタ ギ イ ン を 依 頼

(14)

8 非 核 都 市 宣 言年0周 記 念 事 業 武 蔵 野 市 青 少 和 交 流 派 遣 事 業 日 程 8 月 8 日 水 ~ 10日 金 派 遣 長 崎 市

派 遣 員 市 内 在 、 在 学 の 中 高 生1平 、 大 学 生 キ フ ヴ タ ヴ 、 職 員 2

内 容 長 崎 市 長 表 敬 訪 問 、 和 記 念 式 の 参 加 、 青 少 ピ ヴ ケ ネ ォ ヴ ラ ヘ の 参 加 事 前 学 習 武 蔵 野 の 空 襲 に い 牛 田 委 員 、 被 爆 体 験 講 話 島 田 喜 久 恵 氏 、 武 蔵 野 市 び 西 東 京 市 内 の 戦 争 遺 構 見 学 、 の 頭 自 然 文 化 園 彫 刻 館 見 学 、 派 遣 報 告 会

長 崎 市 長 表 敬 訪 問 長 崎 原 爆 資 料 館 前 に

東 京 空 襲 パ ネ ル 展

日 程 月 日 月 ~ 11日 月 場 所 市 役 所 ュ ニ ヴ

内 容 東 京 都 よ り 借 用 し た 東 京 空 襲 の パ ネ ル平9点 を 展 示

~ ト ピ ッ ク ス ~

シラカシ

伐採

中 島 飛 行 機 敷 地 内 現 在 都 営 緑 町 アパート敷 地 内 に あ 度 重 る空 襲 中 唯 一 生 抜 い た老 木 シラカシ

枯 し ったこ 成 4 月 6日 多 く 人に見 守

伐 採さ した 事 前に行わ た 別 会 多く

関 係 者 訪 シラカシ 別 を惜 し した

(15)

武蔵野市平和の日制定記念

講演会

『父の戦争体験から伝えたいこと∼夢をあきらめない∼』 女優 渡辺 えり 氏 日時:11 月 24 日(土)午後1時 30 分∼ 場所:武蔵野スイングホール

1 渡辺氏 プロフィール

昭和30年 生 まれ 、舞 台 芸術 学院 、 青俳 演出 部 を経 て、1978年 から 「 劇団 3○ ○ ( さ んじ

ゅ う ま る ) 」 を 結 成 。 98年 の 解 散 ま で 主 宰 ・ 劇 作 家 ・ 演 出 家 ・ 女 優 の 4 役 を つ と め る 。

「 ゲ ゲ ゲ の げ ∼ 逢 魔 が 時 に 揺 れ る ブ ラ ン コ ∼ 」 ( 82年 ) で 岸 田 國 士 戯 曲 賞 、 「 瞼 の 女 ま

だ 見 ぬ 海 か ら の 手 紙 」 ( 84年 ) で 紀 伊 国 屋 演 劇 賞 個 人 賞 を 受 賞 。 舞 台 に と ど ま ら ず 、 映 画

や テ レ ビ で も 個 性 を 発 揮 。 83年 NHK「 お し ん 」 で 国 民 的 人 気 を 獲 得 。 96年 「 s hal l weダ

ンス?」にて報知映画賞助演女優賞、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。

2 渡辺氏講演 『父の戦争体験から伝えたいこと∼夢をあきらめない∼』 皆さんこんにちは。本日は、よろしくお願いいたします。

武蔵野市では、11月24日を「平和の日」に制 定し、このようなイベントを開催しているとい うことで本当に頼もしく思っています。先ほど 学生の方が報告されていましたが、戦争のこと が風化して忘れ去られてしまうことが一番問題 だと思いますので、絶対に戦争をやめようとい う気持ちを新たに持つ機会として、武蔵野市が このような平和イベントを開催していただくこ

ましたが、どうしてそのようなことをしていたのか、私は素朴な疑問を感じていま し

とをありがたく思っています。

私の父は、武蔵野市にありました中島飛行機工場で旋盤工として主にゼロ戦のエンジンを 作ってい

た。

(16)

父が旋盤工としてゼロ戦のエンジンを作っていた話を最初聞いたときは、そのことが頭の中 でうまくつながりませんでした。父の話を聞いた後で調べてみますと、当時の日本は全国民 が戦争に向かって突き進んでいたようです。特別な人がやっていたわけではなく、普通の小 学生からおじいさん、おばあさんまで、みんな戦争に協力していました。それが事実だとい うことを初めて知りました。これまでは、自分たち庶民は戦争の被害者であり怖い目に遭っ て殺されたと思っていましたが、多くの国民が正義の戦争だと信じていたのです。この戦争 は、日本の平和のためには全国民が一丸となれば西洋を追い抜けると本当に信じてやってい ました。私の父はよく聖戦だったと言っていましたが、どう考えても正義の戦争というもの はないのです。人の命を奪うということは、正義とか正義じゃないとかではなく悪いことで す。しかし、その感覚が麻痺してしまい、洗脳され分からなくなってしまうというのが、戦

時はそのような状況でした。父は、自分の中では軍事工 場

が、父 は

争の恐ろしさだということを、父の話を聞き改めて感じました。

私の父は、山形市の村木沢というところの生まれですが、当時通っていた村木沢小学校で 担任の先生から呼び出しがあり、将来予科練に行くか、満州に行くか、軍事工場に行くか、 この3つの中から一つ選べと言われたようです。先生自身も正義の戦争だと思い込んでいた ので悪気があったとは思いません。自分の教え子を殺したい、戦地で死んだ方がいいと思う 先生はいなかったと思いますが、当

に行くと決めていたようです。

父はその後、14歳のときに武蔵野市の中島飛行機工場に来て、旋盤工としての教育を受け ながら、エンジンをつくる作業をしていたようです。今は大きな公園になっています

その工場で終戦の年まで働いていましたが、工場には空襲が何度もありました。

(17)

も嫌とは言えなかったと思います。残る人が決まった途端、みんなクモの子を散らすように あ

当時の様子を父に聞いたとき、 「

の頃から高村光太郎が自分を生かして く

人が増えてきました。残念ですが当時はそういう時代の流れになってしまったよ

たように、特攻隊の兵士たちも胸のポケットにその詩を縫い っという間にいなくなってしまったようです。

父たちは、広い工場を点検して回りながら、1階はとても危険だということに気づいてい たので、空襲があった時は下から屋上まで上がっていこうと決めていたそうです。ある日、 爆弾が工場に落ちた時、地面まで穴があくくらいの威力だったそうですが、そのとき沈む夕 日を見ながら、この太陽を見るのはこれが最後だろうと思ったそうです。みんな死ぬ覚悟を していますから、遺体が発見されたときにはきちんとした格好をしないといけないと思った らしく、寮に一度帰り一張羅を着てからまた工場に戻ってきたそうです。父は今の中学生く らいの年でしたが、そこまでいろいろと考えていたようです。

臓物が口から出るぐらい怖かった。」と言っていました。

このような状況の中、父が尊敬していた高村光太郎の「必死の時」という詩を声に出して 朗読すると不思議に気持ちが落ち着いたそうです。こ

れたと思うようになり、今でも心酔しています。

当時、高村光太郎は日本文化の第一人者ですが、戦争文化のリーダーをやっていたという 話を皆さんご存じですか。光太郎は12月8日の開戦の日に皇居まで行進し、皇居前で万歳三 唱をしているのです。当時の日本は経済制裁を受け、これでは日本が立ち行かなくなるとい うことで、アメリカへ攻撃を開始し戦争が始まりました。当時はアメリカが全世界の警察だ と思っていたので、アメリカを懲らしめなくてはと国民が考え、開戦へと向かっていったわ けです。このような状況でも絶対戦争は反対だと言っていた政治家や庶民ももちろんいまし た。初めのうちはその割合が半々ぐらいだったかもしれませんが、徐々に戦争をした方が良 いと考える

うです。

開戦のとき、日本の文化的なリーダーであった太宰治や高村光太郎も万歳三唱しながら、 正義の戦争だと思って加担してしまったわけです。光太郎は戦争を賛美する詩もたくさん書 いています。先ほども紹介した、「必死の時」という詩があります。我ら日本人という民族 は、必死になれば死ぬのも怖くないはずだという内容です。その詩を父が朗読すると本当に 怖くなくなったと言っていまし

つけていたということです。

(18)

読むことができますし、インターネットで見ることもできます。この詩は、高村光太郎自身 が空襲のときに隣のおばさんの自宅が爆撃されて、そのおばさんの太ももが電信柱にぶら下 がっているのを見て、自分もいつ爆撃されて死んでしまうのか、その恐怖に耐えるために書 いた詩だったようです。その詩を当時発売したら、青年たちが共感してその詩を持って戦争 に行ったり、高村光太郎のところにわざわざ挨拶に来たりしたそうです。私の父もこの青年 たちと同じように毎日が怖くて、いつ死ぬのかという思いで工場内にいたので、自分の気持 ちを支えてくれるものが欲しかったようです。その詩を朗読すると、死に対する恐怖心をこ

先の防空壕で亡くなったそうです。それ以降、佐 野

経験した人の子供だったということに初めて気がつき、鳥肌が立った記憶が 残

て、その人 らえることができたと父は話していました。

辺がかなり被害を受けたようですが、父のいた工場 には爆弾が落とされなかったため、奇跡的に父たち は助かり、工場にいた3人で万歳三唱をしたそうで す。ところが、父の親友の佐野さんという方がこの 空襲で亡くなりました。この方は、ある日、自分は どこの部署に行ったらいいのか父に相談をしに来た そうです。父親がある部署へ行った方がいいとアド バイスしたため、佐野さんは、そこの職場で避難し た

ある日の空襲で、中島飛行機工場の

さんが亡くなったのはずっと自分のせいではないかと今でも父親は悩んでいます。

この話は、私が30歳のころ山形に帰省したとき、父と晩酌をしながら聞きました。そのとき は、自分も戦争を

っています。

もし、父がいたときにB29の中島飛行機工場への攻撃が成功していたら、父は死んでいたわ けです。そうすると、父は山形に帰れないし、当然私も生まれていなかったわけです。父はそ の と き 19か 20歳 で し た が 、 父 く ら い の 若 い 人 た ち の 中 に は 、 日 本 の ど こ か で 、 ま た 戦 地 で B29 の攻撃で殺された人がたくさんいたと思います。この世に生まれたかった子供たち、あと妊婦 も殺されたと思いますし、赤ん坊も殺されたと思います。多くの人たちが亡くなっ

たちはもうこの世にはいないんだということに父の話を聞いて気がつきました。

(19)

生かされているのではないか、そのことを周りの人たちに伝えていかなければという気になり ました。直接的に戦争反対とか言うのではなくて、本当の戦争の悲惨さは、戦争になったら残 された人がこういうことになる、こういうふうに思うという部分、その傷口の部分を書いてい

争に行かせ死なせてしまっ

す。し

もつい最近まで同じ状況だったとい こうと私は決意しました。

父に取材をして、10年かけて書いた戯曲が「光る時間(とき)」です。この作品は2本立て で、武蔵野市でも何年か前に上演しましたが、この話は父の実話体験をもとに書いた作品です。 父は現在86歳になり、最近では昔のことをかなり忘れていますので、忘れないうちにと思い聞 き取りました。2本立てのもう一つに「月夜の道化師」という作品があります。この「月夜の 道化師」は、特攻隊で生き残った方の話ですが、これも天山隊という実際にあった特攻隊の遺 族の方から2年間にわたり聞き取り取材をしたものです。この時、私が感じたのは、取材をし た皆さんが昨日のことのように覚えているということです。秋田にお住いの80代のおじいさん は、自分の弟を特攻隊に行かせてしまったことを泣きながら話されていました。どうしてあの とき自分は弟を行かせてしまったのか。みんなで万歳と言いながら、さも良いことのように飛 び立たせてしまった。どうしてあのとき、「行くな!」と自分は言わなかったのか。80過ぎの おじいさんが泣きながら、すでに60年以上も前の出来事を昨日のことのように話されていまし た。戦争が終わり戦争という洗脳が解けたとき、どうして家族を戦

たのか、戦争が終わってからも長い間、感じていたと思います。

また、92歳の特攻隊経験者の方は、所属していた部隊でも数少ない生き残りで、もうすぐ自 分が飛び立つという少し前で終戦を迎えたそうです。話を伺いに行ったとき、「今まで誰にも 言わなかったが、今日初めて言うことがある。」と話されました。戦友が出撃するとき、「〇 〇君!エンジンが故障したとウソをついて戻ってこい!」と、その戦友に言ったそうで かし、戦友は正直者で出撃したまま戻ってこなかったと泣きながら話していました。

皆さん信じられないという人がいますが、日本でもこのような時代が実際にありました。上 からの命令には絶対従わなくてはいけない。従わなければ重罪になると思っている時代です。 このような事実があったことを、今の若い人たちにも知ってほしいと思います。今、私もこう いう話を自由にしていますが、当時は、話す内容も制限があるし自由に話すと逮捕されてしま います。戦争になるとこのような状況になるわけです。今、北朝鮮や中国でも国を批判するよ うなことを言うとすぐ牢屋に閉じ込められます。ノーベル賞の受賞作家も閉じ込められます。 私たちはその様な現実を目の当たりにしていますが、日本

(20)

実際、日本は中国や朝鮮を侵略しました。満州のように勝手に開拓したり植民地にしたりし

くてはいけないというのが、私たち演劇人や芸術家、漫才師などの役割だと

間の喜びのために、いろんな作品を書いたりお芝居をして人々を笑わせたり

になると、みんなそれに従い死んでしまうという時代が二度と来ないでほしい と思います。

ていたのは事実です。そのことをきちんと若い人たちに学んでほしいと思います。

私も戯曲を書くようになってから歴史について随分勉強しました。湾岸戦争やイラク攻撃が あっても、その戦争を止められないという自分自身のどうしようもない落ち込みがあり、とに かく落ち込んでいる間にいろいろ調べてみようと思いました。その理由ですが、演劇というの は 人 間 が い な い と 成 り 立 ち ま せ ん 。 私 が 役 者 に な っ て 芝 居 を や り た い と 思 っ た き っ か け は 、 人々の笑う顔が見たかったからです。人が笑ったり泣いたり感動したり、小さいころからそう いった人のリアクションを見ると嬉しくなるのです。しかし、人の笑顔を見たくて始めた仕事 なのに、戦争や震災などで人が死んでしまったら何にもやる意味がないのです。人の命が大切 で、それを守らな

思っています。

ピカソもそうですが、画家や音楽家、漫才師で戦争が良いと思った人は誰もいません。アメ リカのコメディアンなどもみんな戦争に反対しています。ピカソのゲルニカも、一目するとフ ランコ将軍が村を全部焼き払って住人を殺した絵とは分かりませんでしたが、よく見ると本当 に 悲 し い 絵 で す 。 230人 も の 殺 さ れ た 遺 体 が 描 か れ て い ま す 。 そ の 絵 を ピ カ ソ が 書 い た わ け で すが、それはピカソが人間を愛しているからこそ書かざるを得なかったと思います。私たち芸 に携わる者は、人

したいのです。

白虎隊の隊員が自決されたのを皆さんご存知かと思います。昨年、白虎隊の最後の生き残り の方が、九十何歳で亡くなりました。ところが、その方は、亡くなる日まで自分が白虎隊だと いうことを言わなかったそうです。本人は、周りから卑怯者と思われるからと考えているわけ です。全員自決したのに、自分だけ生き残っているというのがとても辛く、誰にもそのことを 言えなかったそうです。今なら自決しない方が良いと思うし自決する必要もない、または自決 しないでほしいと思うでしょう。ところが、その当時は自決しないとダメだったということで す。沖縄でも憲兵みたいな人が住民に毒薬を渡して、妊婦や子供が毒を飲んで亡くなりました。

(21)

先日、アレン・ネルソンさんという元アメリ カ兵の体験談を読みました。アレンさんはベト ナムからの帰還兵ですが2年ほど前に亡くなら れました。この方は戦争がどんなに悲惨なもの かということを、日本全国で講演してください ました。以前、沖縄で米兵が小学校6年生の子 どもを暴行した事件がありニュースでも取り上 げられました。しかし、アレンさんはこの事件がおこるまで沖縄にアメリカの基地があるとい うことを知らなかったそうです。もう戦争が終わってから長い年月が経っていることもあり、 そのように思ったのでしょうか。しかし、アレンさんはこの事件をきっかけに、何とかしなく てはいけないと思い、戦争の恐ろしさを日本に行って伝えようと思ったそうです。アレンさん は黒人の方ですが、戦時中のアメリカでも徴兵制度があり若い多くの方が戦地に行きましたが、 特に有色人種の方がより危険な戦場に行かされたそうです。当時はお金がなく、生活のために 志願して兵隊に行った人が多かったそうです。日本でも私が若いころは、下着や洋服も全部支 給されるから自衛隊に入るという人が多くいました。私のクラスの旧友もそのような理由で自 衛隊に行った人がいましたが、アレンさんも同じような理由から志願して戦争に行ったようで す。

私の父と同じように最初は誰でも戦争は正しいと考えていると思います。父も正義のための 戦争ということでそれが正しいと思っていました。しかし、目の前で人が死ぬのを見て、初め てこれが正しいことなのかと思ったそうですが、アレンさんも同じように思ったようです。

戦争では一番最初に殺した人の顔だけは覚えているそうです。最初に殺した人は40代で金歯 をしていたベトナム人だったそうですが、殺した瞬間その金歯が落ちたそうです。アレンさん の話ですと、そのあとは何人も敵を殺していくうちに感覚がだんだん麻痺して自分でも分から なくなるそうです。また、戦地では、人の焼ける臭いが充満しているそうで、その臭いに耐え るのがかなり辛かったようです。しかし、恐ろしいことに何年もたつとその臭いの中で普通に ご飯が食べられるようになるそうです。最初に人を殺したときは気が狂いそうになっても、ど ん ど ん 殺 し て い く う ち に 麻 痺 し て し ま う 。 村 人 を 230人 全 員 殺 し た と き に は 、 死 体 が う ず 高 く 積まれていて、その中で生きていた赤ちゃんが死んだお母さんのおっぱいをずっと吸っていた そうです。戦争になると弱い者や逃げ遅れる人から殺されるそうです。

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体や内臓なども散乱している中で、それをまとめながら何百人もの死体を数えるのが本当につ らかったそうです。この話を直接聞いたときは、さすがに「ぞーっ」としました。でもこの貴 重な体験談を誰かに伝えなければならないとも思っていました。

当時のアメリカ兵は、毎日の訓練の中でベトナム人は人間ではないという教育をされたそう です。そのように考えないと殺せないからだそうです。沖縄へ行ったときも、沖縄の人は人間 に見えなかったそうです。ベトナムや沖縄の方々のようなアジア人に対しては、強姦しようが 何しようが、いいという教育を受けていたと、アレンさんは語っていました。

軍人は人を殺す集団なので、毎日人を殺すための特訓をしています。相手を狙う時に頭とか 心臓などいろいろありますが、どこを狙う訓練をすると思いますかと聞かれたとき、私が「頭 ですか」と答えると、腹を狙うそうです。ちょうどおへその下あたりです。理由は、狙うとこ ろが大きいので失敗する確率が少ないからだそうです。ところが、頭や心臓に当たれば一発で 相手は死にますが、腹にあたっても人間は8時間くらいは死なないそうです。だから、この8 時間くらい苦しんでいる声が戦場にはずっと響いているそうです。そのような過酷な戦場に自 分がいるということを想像してくださいとアレンさんは語っていました。

日本人も同じようなことを第二次世界大戦のときに経験したと思いますが、誰もそのことを 教えてくれませんでした。話してはいけないと思っていたのでしょう。満州では2万人くらい の人が気が狂ってしまい病院に収容されたようです。人を殺すと普通の人は気がおかしくなっ てしまうそうです。

アレンさんもベトナムからアメリカに帰ってきたとき、あれだけ会いたかったお母さんから 出て行けと言われ、しばらくはホームレス状態だったそうです。何年間も戦地に行っていたせ いで、人柄がすっかり変わってしまったとアレンさんは語っていました。また、戦地での体験 がトラウマになり、時々発狂したりパニック症候群みたいになってしまったそうです。

そのようなアレンさんのところへ、小学校の先生をしている同級生が訪ねてきて、子どもた ちに戦争体験を話してくれないかと依頼されたそうです。授業に出て子どもたちに戦争の話を するようになったアレンさんは、最初は、戦争がいかに格好いいかという話をしたようですが、 あるとき小学生から「アレンさん、あなたは人を殺しましたか」と質問されたそうです。その 途端、もう涙が止まらなくなって、その質問した子どもを抱きしめたそうです。それ以降本当 のことを話すようになったそうです。

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「ネルソンさん、あなたは人を殺しましたか?」というタイトルの本が出版されています。 私もその本を読んで感じましたが、死んだ日本兵もこういう話を本当はしたかっただろうなと 思いました。しかし、誰も語らず亡くなってしまったかと思うと涙がとまりませんでした。

しかし、アレンさんがあれだけ熱心にご自身の体験談を語っても、残念なことに同じような 戦争がまた繰り返される。それがなぜだか、私には分かりません。

戦時中の資料を調べたとき、当時の回覧板の実物を見ましたが、内容は犬や猫を軍に供出し ろというものです。特攻隊や軍隊に行く人の毛皮にするため、自宅で飼っているポチとかシロ を 出 せ と い う 内 容 で す 。 こ の 回 覧 板 を 保 管 し て い た 人 の 話 で す と 、 こ の よ う な 書 類 は 戦 後 GHQ に見つかるとまずいのでほとんどの書類は焼いてしまった中、わずかに残ったものだそうです。 我が家にも犬2匹、猫2匹がいますが、もし自分のペットが毛皮にされてしまうと思ったとき、 どうしてこんな残酷なことができるのかと思いました。あとで調べてみると、ペットとして飼 っている犬や猫は小さ過ぎて実際は、毛皮には使えなかったそうです。しかし、上部からの命 令があったので殺さざるを得なくて、裏山に犬や猫の死体を積んでおいたそうです。上からの 命令で「こうやれ」と言われると、どんなに悲惨なことでも従わざるを得ないのです。 動物を殺す担当者は、その人も嫌だっただろうけど日本刀で殺してから皮をぎゅーとむくそう です。そういうことをやってしまうのが人間です。それを近所のおじさんやおばあさんなど普 通の人がやってしまうわけです。自分もその場にいたら恐らく同じことをしていたと思います。

冒頭でも話しましたが、私の父は高村光太郎のおかげで自分は生きていると思い、光太郎の ことを親のように慕って今日まで生きてきました。私の父は、5歳のときに父を結核で亡くし、 母親が女手一つで育ててくれたということで、父親像というのを高村光太郎に見ていたのかも しれません。

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高村光太郎の影響を非常に受けたという話を父から聞いたので、私が高村光太郎の話を書く と父に約束しました。父が10年ほど前に花巻市で開催された「高村祭」で講演依頼を受けたと き、私も一緒に行きました。「光る時間」は、すでに書き上げた後でしたが、そのときに初め て高村光太郎が晩年を過ごした高村山荘に行きました。光太郎は高村光雲の息子でとてもお金 持ちでしたが、その山荘を見て驚きました。花巻というのは冬になると零下20度にもなるとこ ろですが、そこに三畳の掘っ立て小屋を作り、しかも暖房も電気もない、土間だけがあるとこ ろに50代後半から7年あまりもいました。とても信じられませんでした。

光太郎は自分が戦争を賛美した詩の影響を受けて死んでしまった人たちがたくさんいたため、 反省の意味を込めてこの山荘に幽閉したと私は思いました。光太郎の詩のモデルになったとい う80歳くらいの女性の方からお話を聞きましたが、雪が降ると高村光太郎は白い布を顔にかぶ せて寝ていたといいます。死んでしまったのかと思ってのぞくと、家の隙間から雪が吹き込ん でくるので顔が冷たいから布をかけていたと言ったそうです。戦後、高村光太郎は、世間から 攻撃されて大変だったようです。

光太郎は岩手県出身で妻の智恵子は福島県出身です。智恵子は、光太郎との結婚を周囲から 反対され続けましたが、その反対を押し切って結婚しました。その後、高村光太郎が三陸海岸 を3カ月かけて取材旅行をしている間に病気になってしまい、その後も病状は悪化し結局亡く なってしまいました。亡くなった後も、高村光太郎は、必ず2人分の料理を作っていましたが、 山荘にいたときもお膳を必ず2つ作って食べていました。また、裏山に登っては「智恵子!」 と毎日叫んでいたそうです。光太郎は最後まで智恵子を愛していたのでしょう。その後も亡く なるまで再婚しませんでした。

東京生まれでお金持ちの高村光太郎が、なぜ花巻に行ったのか。その理由ですが、宮澤賢治 の「雨ニモマケズ」の詩を紹介したのが高村光太郎です。高村光太郎は、当時文化人の第一人 者だったので、高村光太郎が紹介する作品という理由で人気が広がったのが宮澤賢治だったの です。空襲が激しくなってきたとき、宮澤賢治のお父さんが、東京は危ないのでぜひ花巻に疎 開してくださいと言われたため、花巻にあった宮澤賢治の自宅に泊まったそうです。

(25)

品をしまっておいたほうがいいと助言しました。

花巻にある宮澤賢治の博物館に行くと、生原稿も見れますし、宮澤賢治が演奏していたチェ ロやバイオリン、妹さんのトシが演奏していたチェロも全部残っています。レコードで一番好 きだったベートーベンの「田園」なども全部残っています。戦争で全部焼けてしまったという 人がほとんどなのに、宮澤賢治の作品や愛用していたものはすべて残っている。高村光太郎が もしいなかったら、宮澤賢治の作品を今私たちが読むことはできませんでした。

宮澤賢治は、盛岡の農業高校で保坂さんという方と大親友になりましたが、二人は「自分た ちは百姓のために死のう!」という東北への熱い思いを胸に抱いていました。当時東北地方は、 大飢饉の影響で約30万人が亡くなったといいます。当時の農民は本当に貧しい生活を強いられ ており、寝る時もわらをかぶって寝ていたそうです。地主には収穫した60%の米を小作料とし て納めなくてはなりませんでした。地主はとてもお金持ちですが、お百姓さんたちは布団を作 ることもできなかったそうです。当時選挙権があるのも貴族と地主だけで小作人には与えられ ませんでした。

当時、宮澤賢治は地主の息子でした。目の前で餓死して死んでいく人をずっと見ていました ので何とかしなくてはと思い、保坂さんと一緒に「百姓のために死のう」と誓い合い二人で地 道な活動を少しずつ広げていきました。宮澤賢治が亡くなった日も、お百姓さんが肥料の相談 に来たそうです。宮澤賢治は正座をして、いろいろな助言をした1時間後に亡くなったそうで す。当時37歳でした。賢治はお百姓さんを生かすための活動が自分の仕事だと思っていたので しょう。

宮澤賢治は震災の年に生まれて、震災の年に亡くなった人です。賢治が生まれた明治29年に は3万人の方々が津波で犠牲になりました。また、亡くなった年の昭和8年にも同じ3万人の 方々が犠牲になっています。私はその被害のあった岩手県久慈市に撮影で行ってきました。東 日本大震災でもこの場所は被害を受けました。撮影場所から少し離れた野田村にある仮設住宅 に伺ったとき、皆さんこの先どうなるか分からないと不安そうにしている方がたくさんいまし た。また、島越という場所では、建物のほとんどが津波で流されてしまい、助かった人が点在 していますが、そこには支援物資がほとんど届かないそうです。地元の方に島越に行ってほし いと言われたので、次の休みのときに現地に行ってみると、助かった方は高齢者が多く、実際、 食べる物も不足していて、未だにこのような状況なのかと愕然としました。あまりに被害が広 範囲に及んでいるため支援が行き届いていないようです。

(26)

私が何か話をしてもみなさん笑顔がありませんでした。今までは陽気な性格だったが、目の前 で自分の娘さんや旦那さんが流されたのをみて、もう笑えないと語っていました。

ある人は、不安と恐怖でもう生きていても仕方ないと思い、夜になると自殺を考えてしまう そうです。旦那さんや息子さん、娘さんもみんな目の前で死んでしまったのに、何で自分だけ が生き残ってしまったのか。その方は、毎日死にたくなると言うので、死にたくなったらここ に電話してくださいと私の名刺を渡してきました。2週間前にその方から手紙が届き、「仮設 住 宅 の 方 た ち が 、 交 代 で 毎 日 励 ま し て く れ る の で 、 今 で は 自 殺 し た い と 思 わ な く な り ま し た。」という内容の手紙が届きました。

私は休みを見つけては被災地を訪問しています。同じ東北の山形出身ですし、人の笑顔が見 たくて芝居をしているのに悲しんでいる方がすごく多いです。

被災地の人たちは、自分たちのことを忘れてほしくないと言います。でも行けば忘れていな いということが分かるはずです。時間と余裕があって、行ける人が交代で行けばいいし、被災 地の方たちを励まし元気づけられたらと思っています。

今年の8月に私の親友だった同級生が亡くなりました。思い出すだけで悲しくて生きていけ ないぐらい落ち込みました。一人の親友が亡くなっても、自分自身がこんなに落ち込むわけで す。今回の津波や原発事故、戦争などで何人の方が亡くなったのでしょうか。武蔵野の爆撃で も何人の方が亡くなったのでしょうか。私は亡くなった方の家族や戦争で苦労された方々の気 持ちを癒やしたり励ましたりということが、残された私たちの役目だという思いを最近強く感 じます。

今の若い人たちはインターネットやゲームの時代だから、ゲームの世界と同じように死んで しまってもまた生き返ると思っている人もいるかもしれませんが、死んでしまうと生き返られ ません。戦争になってしまうと人が死ぬのが当たり前でしかもそのことに慣れてしまう。腐っ た遺体の前でも平気で弁当が食べられてしまう。そういう時代に私は戻したくないのです。私 たち一人ひとりの力は弱いですが、一緒になれば大きくなると思います。そのことをあきらめ ずに言い続けていくことが大切ではないでしょうか。あきらめないで言い続ければ、戦争とい うのはおかしかったという笑い話になるときが来ると思います。

(27)

Ⅲ 成 平4 度武蔵野市非核都市宣言 和事業実行委員会に参加した 実行委員 らのメッセヴグ

武蔵野市コプュニテ゛研究連絡会 小餅 友子

夏に 中高生の 和交流派遣団の長崎訪問に合わせ、 長崎に行っ ました 派遣団 行動を共に

たこ 、素晴しい経験 りました 中高生 長崎の地を見 これま の事を学び、そこに集まっ

た各地の仲間 和に い 真剣に語りあい、これ らの事を考え いる姿を見 、感動しました 小さ

い時 ら 和に い 学ん いる長崎の人た を拝見し、や り子供の時 らの学習 大事 、改

実感しました 実体験のある方々の 話 ん ん伺え く るこ 含 、この 和事業の大切さを、

改 考えました

武蔵野老人ェラノ連合会 高橋 進午

成 24 度中に開催されました数多くの各イベントに充分 手伝い 出来 に終わったよう 気

いたします

特に印象に残っ いる 言え 、写真パネル展の開催 す 文字 表せ い の 目 感 、貴

資料 そのすさま さを え戦争 このよう の あるこ を、この武蔵野 体験した姿を、これ

らの若い世代に伝え 行く良い教材 云えましょう

又、朗 劇 嘉代子桜 の上演 機会ある に引 れ いっ 欲しい 思っ います

忘れ け いる戦争のこ 、 し 折に触れ 和事業の大切さを思い こし、微力 ら応援した

い 思っ ります

武蔵野の空襲 戦争遺跡を記録する会 牛田 守彦

本 度 武蔵野市の非核 和事業に携わるこ 栄に思います 特に、本 度 非核都市宣

言30周 いう記念の あり、中高生の被爆地への派遣事業や、11月24日の 武蔵野市 和の日

に 、渡辺えりさんの講演を実現するこ 、 充実した取り組 に りました 和 、単

に戦争の い状態 ありません 一人 り 輝 を 社会の実現こそ 和 の 思います

和 世界を武蔵野 ら このメッセヴグ さらに多くの市民の合言葉 っ 広 るこ を期待します

世界連邦運動 会武蔵野支部 中里 崇亮( 成平4 度 和事業実行委員会委員長)

回を る度に実行委員会活動 充実 られた 思います 本 度 、多くの戦争の体験者 の出会

い ありました 子供の の戦争の記憶をより正確によ えらせるこ 出来ました

の手元にある戦争の遺物 見学者 増え、多くの人に戦争の悲劇を伝えるこ ました

憲法改正の議論 行われ ります 、人権、権利の 話 耳にします 、国民の義務に い 少

いよう す 憲法月間行事 に い 議論 すす られ い 思います 若い人々に っ 、日本

の将来に っ 大切 こ 思います

度 戦争の悲劇を繰り返さ いた に、微力 ら努力を 、世界の 和に貢献し い たい 思

います

武蔵野けや 会 柴田 ネプテ

日本の国 世界 唯一の被爆国 す

その思いを決し 忘れるこ く風化させ い 次世代に い 行く事 大切 す

非核都市宣言の旗揚 をし 31 目、実行委員会 この春 6 目を迎え増々充実し大変うれしく思い

(28)

ます この一 大変勉強をさせ ました 中島飛行機の事等何 知ら っ っ 実状を知りた

い 思います この会に巡り会え 色々 知りました 遺跡の説明板設置 出来 良 った す 戦後生

れ 8割強のこの 、67 前の出来事 只昔話 し 上の空 聞くこ く ん 腹の底に入れ しい

度 戦争をし い為 地球の こ 摩擦や争い 戦争 ニュヴケ 報 られ人類 傷 家を

焼 れ流血し います 何処 遠い ころの出来事 片付け いるん い しょう 将来のある若

い人 に夢や希望 叶えられます事を願っ 非核 の意味を っ っ 深く理解し しい 一人一

人 核 いら い を言う気持を大切に 和に け 皆 行動する為に 非核都市宣言 をした 思い

ます

行政 市民 一 に り の活動 その一 り役立 事を願っ や ません

この会 大 く を っ のび 行 い 迄 ます事を 祈り致します

射線に負け に生 行 ます

成蹊大学生 藤 文子

和事業実行委員 し 約一 間活動させ いた いたこ 、 に っ 非常に貴 体験 りま

した

中 、長崎 和派遣団のキフヴタヴ し 実際に長崎ま 行 、武蔵野市の中高生 関わりを持 た

こ 本当に感謝し います 参加し くれた武蔵野市の中高生 自ら学ぼう する意識 高く、11 月 平4

日の武蔵野市 和の日ピヴケネォヴラヘ 立派 報告発表をし くれました

し し、このよう 和イベントに 中高生、大学生の参加者 少 い いう現状 あります

これ ら生まれ くる子供た に 戦争の悲惨さや 和への願いを語り い いくた に 、今のう

に若い世代 しっ り した歴史認識を持っ くこ 要 思うの 、 うしたら若い世代の方に

関心を持っ らえるの 、 っ 考え ました

ま 答え 見 りません 、8月に小さい子供向けの 和に関する絵本の 聞 せや朗 劇を行い、

こうした小さ イベント 子 た の心に何 残せれ いい 思いました

自身、小学生の の担任の 生 戦争や原爆に関する 話をよくをし くれたこ 今に っ

いる 思います

次の世代に想いを いくた に近道 く、一 一 の活動を大事にし 、少し 誰 の心に

何 を残し い たい 思いました

また、実行委員会を通し 、 和への想い 強くそのた に地道 努力を怠ら い 配の方 話

たこ ったに い貴 経験 した

これ ら 自身の勉強に励 、 和に い 考え けたい 思います

公募委員 菊地 圭永子

P訳グ 連絡 議会選出委員を経 、今 度 実行委員 し の活動 期目 りました 子育 世代の

代表 し 、活動し まいりました 月の 業式、 業生の答辞を来賓席に 聞い いました

た の未来 決し 明るい の ありません

次世代を背負っ いく子 た の言葉に、申し い気持 いっ い した それ 未来に向け

頑張っ いくの 答辞 締 くくられ いました

今一度、大人 し の責任を顧 、非核 ? 和 ?子 た に何を繋 いけるの …今後

(29)

23

公募委員 中島 文

和を武蔵野 ら世界へ

公募委員 し 間務 させ いた ました この 間 ン 発生し、 和 ?非核

?を改 考えさせられる 間 した 非核を伴わ い 和 ありえません この 間の活動 、

市民 武蔵野市の非核 和事業の新た 萌芽 し 育っ いくこ を祈っ います

昨 落合恵子さん、森 さん、渡辺えりさん ら、 ン 後の憲法、 和、戦争 何 を示唆

する講演をいた ました 非核の核 核兵器に限ら 、原発の核 含 ます 一向に収束し い原発事

故 に生 るをえ い 々に けられた大 課題 す また上滑り 憲法論議、戦争に前の

りに る政治社会の雰 気を感 る今日、この事業の 意義を し し 感 ます 愚直 あっ

繰り返し、 和 非核へのメッセヴグを市 市民タッエ 発信させ い けれ ら い 戦争体験

の伝承 単に悲劇の伝承 けに終わるこ く、今日の 和非核への行動 し 、特に若者に如何に え

いく 大 課題 実感しました

最後に市の 和のクンピル あった生 た戦争遺跡クラカクの木を亡くす いう誠に残念 こ に っ

しまいました 残った っこ 、武蔵野市非核都市宣言 和事業に んら の た 生 され いく

こ を願っ います

公募委員 山本 輝子

長崎市青少 和交流派遣事業 本当に良い企画 思いました 今後 け 戴 たい 思い

ます 実地に見る事 忘れ得 い記憶 るこ しょう 戦争 う言う の 分 った事

しょう 広島 ったら っ よ った 思います

2 紙芝居 ウギウギ屋 の中島飛行機 を子 に見せ しょう い 思います さん 見ら

れる ら良いの しれません

武蔵野市の被爆経験 ある中島飛行機の事 初 の人に 空襲 ん の を知るこ 出

来る 思います

和事業全般に亘る感想

戦争の被害経験を知る事 、戦争 いや いう思いを切実に感 る上 必要 す し しアグア諸国

への加害事実 知らせ けれ りません うしたら中国や韓国の人々 仲良くやっ いけるの 考え

(30)

武蔵野市非核都市宣言

戦争の惨禍を防

し、恒久

和を実現するこ

、全人類

切実に念願する

ころ

ある

核兵器保暼国間

核軍拡競争

激化し

いる今日、

りわけ核戦争を回避し、原水

爆の恐れの

い世界を確立するこ

、緊急

課題

ある

武蔵野市

和を希求する世界連邦に関する宣言都市

、人間

人間を滅ぼ

す危険を防

、人類永遠の

和を樹立するた

、非核三原則の完全実施を願い、最大

限の努力を傾注する

ある

ここに、われわれ

和のた

に貢献する決意を表明する

に、武蔵野市

非核都市

るこ

を宣言する

昭和

月2

武蔵野市議会

世界連邦に関する宣言

武蔵野市

世界の恒久

人類永遠の繁栄を保障する世界連邦の建設に同意し、

武力国家の対立を解消し

英知

友愛に基

く世界の新しい秩序の実現を希求する

人類最初の原爆被災国

また戦争

棄を憲法に明記した国

提唱し得る最

適の立場にあるこ

を確信し、この宣言を行

い、他の宣言都市

相携え

、世論を

喚起し、これを国政に反映せし

、速や

に国家宣言を行う

に、進ん

現行の

国連憲章の改正により世界連邦の実現を期する

ある

右宣言する

昭和

6月28日

(31)

成2 度

武蔵野市非核都市宣言 和事業の記録

発行 成2 月

(32)

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