早稲田大学博士論文概要書
移転価格税制における独立企業原則と二重課税の 排除に関する研究
- 新興国の動向を踏まえて -
早稲田大学大学院法学研究科
久保田 幸
1
移転価格税制における独立企業原則と二重課税の排除に関する研究
-新興国の動向を踏まえて-
久保田 幸 1 論文の構成
○ はじめに(研究の背景・目的)
○ 第1章 日本の移転価格税制 第1節 移転価格税制の概要/第2節 移転価格事件の現状
/第3節 小括(研究の視点)
○ 第2章 独立企業原則の変遷 第1節 国際機関による独立企業原則の生成/第2節 米国 における独立企業原則の変遷/第3節 独立企業原則の国際的拡張/第4節 独立企業原 則の国際的発展
○ 第3章 インドの移転価格税制 第1節 移転価格税制の動向/第2節 販売無形資産/第 3節 ロケーションセービング/第4節 ロイヤルティ/第5節 無形資産の価値評価/第 6節 低機能・低リスク拠点/第7節 イントラグループサービス/第8節 小括
○ 第4章 ブラジルの移転価格税制と相互手続 第1節 移転価格税制の特徴/第2節 独立 企業原則との整合性/第3節 租税条約と BEPS プロジェクト/第4節 変わりつつある ブラジル
○ 第5章 移転価格税制に係る義務・拘束的仲裁手続 第1節 仲裁の必要性/第2節 国家 統治権への抵触/第3節 国家主権への抵触/第4節 経済的負担への懸念/第5節 小括
○ 第6章 近年の米国の移転価格事件 第1節 Veritas 事件/第2節 Amazon 事件/第3 節 Medtronic事件/第4節 Altera事件
○ おわりに(まとめ)
2 研究の背景・目的
各国が締結する租税条約には、特殊関連企業条項(OECDモデル租税条約9条1項)が含ま れており、当該条項は「独立企業原則」と称されている。各国は、独立企業原則を執行するた めに、国内法で移転価格税制を整備してきたところである。したがって、日本をはじめとする 各国の移転価格税制は、基本的に、独立企業原則に則したものとなっている。仮に、一方の国 が移転価格税制を適用する場合、国際的二重課税が生ずることになる。この場合、租税条約に 規定する相互協議条項(OECD モデル租税条約25 条)に基づいて、両締約国の権限ある当局 は、一方の国による移転価格税制の適用が独立企業原則に則したものであるかを協議し、国際 的二重課税が排除されることになる。
2
このように独立企業原則は、国内法においては国外への所得移転を防止する移転価格税制の 適用基準として、また、租税条約においては国家間の所得配分規範としての役割を果たしてい る。しかしながら、独立企業原則の限界や終焉については、これまで多くの学者や実務家によ って幾度となく唱えられてきたところである。
独立企業原則に内在する問題が最も顕著に表れるのが、無形資産取引への対応である。無形 資産は、ユニークさを特徴とすることに加えて、競争排除的な性質を有している。したがって、
非関連企業間における無形資産取引を把握すること自体に困難を伴う。仮に、比較対象取引が 把握できたとしても、無形資産の価値評価という困難な問題に直面することになる。無形資産 取引への対応は、従来から深刻な問題と認識されていたにも関わらず、十分に対処できていな い現状に鑑みると、当該取引に対する移転価格税制上の対抗措置について検討することは、喫 緊の課題といえる。
こうした伝統的な問題をさらに深刻化・複雑化させているのが、新興国(BRICS諸国を「新 興国」と称し、BRICS以外の国で、「先進国」と対立する概念として「途上国」を用いる。)の 台頭である。国際経済の進展に伴って急速な経済成長を遂げた新興国は、1990 年代後半から、
移転価格税制の新規プレイヤーとして参入することとなった。新興国は、投資受入国としての 立場に基づいて独立企業原則に固有の解釈を与え、また、独立企業原則の執行可能性について 多くの問題を提起し続けている。しかしながら、移転価格税制は、従来、先進国によって適用 されてきた税制であるため、その研究対象は専ら先進国であり、新興国を対象とする研究は、
ほとんど存在しない。移転価格税制の領域における新興国の台頭を踏まえると、新興国の移転 価格税制(独立企業原則の解釈・適用)を研究することは、必要不可欠と考える。
また、OECD租税委員会は、2012年6月にBEPSプロジェクトを立ち上げ、2015年10月 には、「価値が生み出された国に課税権を付与すること(価値創造と課税の一致)」を基本理念 とする最終報告書を公表した。移転価格税制の実体的ルールは、行動8から 10 で扱われてい る。各国は、BEPS プロジェクトの成果物を国内法や租税条約に反映させている最中であり、
当該成果物を如何に最良の形で日本に持ち込むかが重要となってくる。さらに、BEPS プロジ ェクトは、包摂的枠組みによってOECD非加盟国を巻き込む取組みへと大きく広がった。その ため、独立企業原則の解釈・適用を巡っては、従来以上に国家間での対立が生じやすくなり、
二重課税が発生するリスクが高まっている。こうした状況に比例して、移転価格税制の適用に より生じる「二重課税の排除」に向けた取組みへの期待は、高まりをみせている。
以上の状況を踏まえて、本稿は、移転価格税制における独立企業原則の解釈・適用の問題、
さらに、移転価格税制の適用により生ずる国際的二重課税の問題について、新興国の動向を踏
3
まえたグローバルな視点から包括的に研究し、日本がこれらの問題を如何に捉え、対処してい くべきかを検討することを目的とする。
3 研究の概要
第1章 日本の移転価格税制
第1章では、本稿の問題意識を敷衍するために、日本の移転価格税制の現状を把握し、その課
題を明らかにした。
第1節では、日本の移転価格税制の基本事項、税務当局による移転価格課税の状況、及び相互
協議の状況等について分析した。第2節では、移転価格事件に係る訴訟の動向を把握した上で、
国側の敗訴事件を中心に考察を加えた。中でも、アドビシステムズ事件は、典型的なBEPS事案 といえるが、従来の判例評釈の大半は、当該事件をBEPS事案として位置付けて論じたものでは ない。本節では、BEPS プロジェクトの成果物(2017年OECD移転価格ガイドライン)を踏ま えて、当該事件を再考した。
第3節では、以上の分析・検討に基づいて、本稿の目的を果たすためには、次の三つの観点か
らの包括的な検討が不可欠であると整理した。
第一は、新興国における移転価格税制(独立企業原則の解釈・適用)に係る分析である。移転 価格の問題は、必然的に国際二重課税を伴うため、日本と相手国は表裏一体の関係にあり、相手 国における課税問題は、日本の課税問題そのものである。また、従来研究されてこなかった新興 国における移転価格税制を分析することは、独立企業原則の解釈・適用について、新興国の状況 を踏まえた上で再考することを可能にする。本稿は、新興国の中でも、インドとブラジルに焦点 を当てるが、これらの国を分析対象とする理由・意義については、各章で述べる。
第二は、移転価格税制の適用により生じる国際的二重課税の排除の問題であり、これも新興国 と密接に関わる論点である。当該国際的二重課税は、相互協議を通して排除される仕組みが租税 条約に規定されているが、特に新興国との相互協議においては、二重課税の排除についての限界 が見えつつある。相互協議の実効性を高めるためには、義務・拘束的仲裁手続の導入が有用であ るが、とりわけ新興国は、当該仲裁手続の導入に対して強硬に反対している。したがって、新興 国における当該仲裁手続の導入可能性について検討する意義は、大きいと考える。
第三は、米国における移転価格税制の最新の動向に係る検討である。日本では、平成31(2019) 年度税制改正によって、無形資産取引への対抗措置が講じられた。しかし、無形資産取引に係る 事例の集積がほとんどない日本にとって、当該改正が必要十分であるかの検証は容易でない。他 方、近年の米国では、無形資産取引に係る移転価格事件について、重要な判決が下されている。
したがって、米国の移転価格税制の最新の動向を分析することは、日本の現行法制度の検証にと
4
って重要な示唆を与えるのみならず、日本の移転価格税制が将来に向かって進むべき途を考察す るためにも有益といえる。
第2章 独立企業原則の変遷
第2章では、移転価格税制を支える独立企業原則の歴史的変遷(国際連盟時代から 2017 年 OECD移転価格ガイドラインまで)を分析した。
第1節では、国際連盟時代の報告書、及びこれを引き継いだOECDによる初期のモデル租税条 約を分析対象とした。本節の主眼は、独立企業原則と「価値創造と課税の一致」が如何なる関係 にあるのかを追究することにある。というのも、「価値創造と課税の一致」という基本理念に対し ては、「政治的に生み出された新たな概念であるため、受け入れ難い」といった批判が少なくない ためである。本節における調査・分析の結果、当該基本理念は、1921年、4人のエコノミストが 作成した報告書において、「経済的帰属(economic allegiance)」が課税根拠として採用されたこ とに由来することが明らかになった。その後も各種の国連報告書、モデル条約草案を経て、今日 まで脈々と引き継がれている。移転価格税制は、技術的には課税権を「居住地国」に割り当てる ものであるが、独立企業原則は、「所得の源泉地国課税の正当化」という重要な使命の下で、「価 値創造と課税の一致」という理念とともに発展してきたものと整理した。
第2節では、米国の内国歳入法典482条の前身である1928年歳入法45条から1994年最終規 則までを分析対象として、米国における独立企業原則の解釈・適用の変遷を検討した。独立企業 原則が初めて明確に打ち出された 1968 年財務省規則は、比較対象取引との比較に大きく依存し ていたため、移転価格事件での内国歳入庁(IRS)の敗訴が続いた。こうした状況を打開するため の議会、財務省及びIRSによる努力は、1986年税制改革、1988年移転価格白書、及びその後の 財務省規則に表れている。無形資産取引を利用した租税回避事案に、他国に先んじて直面した米 国は、独立企業原則を柔軟に解釈することで、新たなアプローチ(利益をベースとする方法、最 適方法ルール、所得相応性基準)を考案した。これらは、移転価格上の法的問題を解決するため に、経済学の理論を持ち込んだものであり、後の移転価格税制の発展に大きな影響を与えるもの であったと評価できる。
第3節では、OECDをはじめとする国際社会に、米国が考案した独立企業原則の解釈が浸透す る過程、すなわち、2010年OECD 移転価格ガイドラインまでを分析対象とした。米国が考案し た利益ベースの方法、及びOECDが固執した価格ベースの方法は、いずれも比較可能性を基準と するが、比較可能性の精度が劣る利益ベースの方法を受け入れることで、厳格な比較対象取引が 存在しない事案への対処に踏み出したのが、1995年OECD移転価格ガイドラインであった。ま た、2010年OECD移転価格ガイドラインでは、OECDが堅持してきた基本三法優先の原則を捨
5
て、最適方法ルールを導入するに至った。最適方法ルール導入の背景にあったのは、米国が他国 より先に直面した課題に、国際経済の発展に伴って他の先進国も直面し始めたという状況である。
第4節では、BEPSプロジェクトの成果物(2017年OECD移転価格ガイドライン)を概観す ることで、独立企業原則の解釈・適用が如何なる方向に向かっているかを検討した。BEPS プロ ジェクトにおいて最も議論を巻き起こしたのは、HTVI(Hard to Value Intangible)アプローチ の導入である。これは、米国が1986年税制改正で導入した所得相応性基準と本質を同じくし、皮 肉にも「独立企業原則に反する」として、長年にわたり OECD が非難し続けてきたものである。
第5節では、以上の検討を踏まえ、独立企業原則の解釈・適用は、先進国が中心となって、「価 値創造と課税の一致」という理念の下で、経済状況の変化に合わせて柔軟かつ弾力的に構築され てきたものであることを指摘した。
第3章 インドの移転価格税制
第3章では、G20国の一員として国際社会での発言力が急速に増しているインドの移転価格税 制(独立企業原則の解釈・適用)について調査・分析をした。1991年の経済開放以来、13億の人 口を基盤とする巨大市場、安価な人件費等によって、インドへの直接投資は増加し続けている。
他方、「世界の移転価格事件の7割がインドで起きている」と言われるほど、移転価格の問題は深 刻化している。したがって、新興国の中でもインドを分析対象とする意義は、格別に大きいと考 える。
第1節では、インドの移転価格税制、課税状況、裁判例(分析対象3,250件)の動向など、次 節以降において個別論点を検討するに当たって必要な事項を概説した。2001年に導入されたイン ドの移転価格税制は、独立企業原則に軸足を置くものである。税務当局による移転価格調査の件 数は、近年では年間2,000件を超えている。移転価格税制に係る訴訟件数に着目すると、2011年 から急激に増加し、2014年以降は年間約500件の判決が下されている。納税者の勝訴率(一部勝 訴を含む)は、2010 年当時は4割程度であったが、2014年以降は約7割という高水準で推移し ている。他方、訴訟が決着するまでに約10年を要するという状況にある。
第2節では、販売無形資産(広告宣伝費)を巡る問題を扱った。2013年1月、デリー租税裁判 所の特別法廷は、「広告宣伝費の多寡のみ」に着目して移転価格調整額を算定した更正処分を支持 する判決を下した。当該判決の影響は甚大で、その後のほぼ全ての事件において、当該特別法廷 の判決に忠実に従う判決が下された。この流れを一転させたのが 2015 年3月のデリー高裁判決 である。デリー高裁は、広告宣伝活動のみを単独の取引として扱うのではなく、他の関連する取 引と一括して、取引単位営業利益法に基づき検証した結果について、独立企業間価格と認められ るのであれば、移転価格調整の必要はない旨判示した。複数の取引の関連性を考慮して、あくま
6
で機能・リスク分析に基づき、法規に定められた方法で独立企業間価格を算定するという移転価 格税制の根本が確認された事件といえる。
第3節では、ロケーションセービングの帰属を巡る問題を扱った。裁判所は当初、ロケーショ
ンセービングはインドに帰属させるべきという税務当局の主張を支持する立場を採っていた。し かし、2015年9月、ムンバイ租税裁判所は、インドは、G20国の一員として、BEPSプロジェク トの議論に従うべき旨を判示し、BEPS プロジェクトで支持されていた判断枠組みに則した判決 を下した。OECDとG20国とが一丸となって取り組んできたBEPSプロジェクトにおける合意 と、税務当局が一方的に見解を示した国連移転価格マニュアル10章とが対峙する中で、インドは いずれに依拠するべきかが明確にされた。
第4節では、ロイヤルティを巡る問題を扱った。ロイヤルティを巡っては、ロイヤルティの支
払を認めない税務当局と、これを認める裁判所との対立構造が続いている。また、インドにおけ るロイヤルティの問題は政府規制(事前承認、送金規制)と密接に関連する論点である。他の政 府機関によって承認されたロイヤルティ料率を、独立企業間料率として認めるか否かは、裁判例 で一致をみない状況が続いたが、最近では、認める方向にあることが明らかになった。
第5節では、無形資産の一括譲渡を巡る問題を扱った。インドの移転価格税制はDCF法を規定 していないにもかかわらず、2011 年9月以降、DCF 法の適用を認める判決が散見される。イン ドの移転価格税制に係る歴史は長くないが、2015 年に BEPS 最終報告書が公表される以前から DCF法の適用を認めるといった先進的な側面があることは、特筆すべきである。また、判決文の 随所で米国の移転価格事件が引用されており、米国の移転価格税制がインドの移転価格税制に与 える影響の大きさがうかがえる。
第8節では、低機能・低リスク拠点に係る検討(第6節)、及びイントラグループサービスに係 る検討(第7節)も含めたところで、小括した。本章で明らかとなったのは、税務当局が、独立企 業原則に固有の解釈を与えて課税処分を行い、その後、裁判所が、OECD移転価格ガイドライン に則して当該課税処分を是正するという構図であり、さらに、こうした構図が延々と繰り返され ていることである。裁判所が違法とした独立企業原則の解釈・適用について、税務当局自ら是正 する兆しはない。ただし、独立企業原則の解釈・適用に関する合意は、これまで先進国が中心と なって形成されてきたという歴史がある(第2章参照)。このような状況及び背景を踏まえて、日 本は今後、「価値創造と課税の一致」という基本理念に基づき、新興国における独立企業原則の解 釈・適用の現状を考慮しつつ、新たな合意形成に向けた努力を惜しんではならないと考える。な お、インドの司法府の健全性は、十分評価に値するが、長期に及ぶ訴訟対応は、企業の体力を圧 迫しかねない。近年では、相互協議に救済を求める納税者が増加しているが、必ずしも相互協議
7
が順調に進んでいるわけではないことを踏まえ、義務・拘束的仲裁手続の導入について、検討す る段階にあることを指摘した。
第4章 ブラジルの移転価格税制と相互協議
第4章は、ブラジルの移転価格税制について、相互協議手続まで視野に入れたところで検討し
た。BEPS プロジェクトによって、その特異性が一層顕著になったと批判されているのがブラジ ルの移転価格税制である。また、ブラジルの相互協議が機能していないことを踏まえると、ブラ ジルの移転価格税制を分析するに当たっては、相互協議手続までを含めて検討する意義が極めて 大きいと考える。
第1節では、ブラジルの租税法体系、移転価格税制の仕組み等を概観した上で、当該税制と独
立企業原則との整合性について検討した。1996年に導入された移転価格税制は、固定利益率を適 用する方法が採用されており、機能・リスク分析を基礎とする独立企業原則とは一線を画するも のである。ブラジル当局は、固定利益率を適用することの効率性、簡便性、予測可能性といった 側面を強調することで、その正当化を試みているが、固定利益率と独立企業原則との整合性につ いては、説得的な論証がなされていない状況にある。
第2節では、行政不服審判所によって下された裁決事例を分析し、ブラジルの移転価格税制が
ブラジル国内で如何に理解・整理されているかを検討した。まず、OECD移転価格ガイドライン については、自国が OECD 加盟国ではないことを理由に、OECD 移転価格ガイドラインの適用 を排除する立場を維持している。続いて、ブラジルの移転価格税制とOECDモデル租税条約9条
(特殊関連企業条項)との関係については、国内法と租税条約が抵触する場合は租税条約が優先 するとした上で、ブラジルの移転価格税制は、ブラジルの租税システムに適合するように9条に 修正を加えたにすぎず、両者の間に乖離はないとの結論を下している。さらに、ブラジルが締結 した租税条約に9条2項(対応的調整)がないことを根拠として、「租税条約自体が二重課税の発 生を容認している」との見解を示している。このように、ブラジルは、移転価格税制の国際的側 面を完全に排除することによって、現行制度を維持していることが明らかとなった。
第3節では、ブラジルの租税条約史を分析することで、如何なる意図で9条1項及び25条を採 用してきたかを検討した。ブラジルが締結した条約の大半に9条1項及び 25 条が含まれている が、その半数以上は軍事独裁政権下時代に先進国との間で締結されたものである。軍事独裁政権 への国民の支持を得る鍵は外資導入による国力増強にあり、当時のブラジル政府にとっては、
OECDモデル租税条約に則した条約を先進国と締結すること自体に意味があったため、9条1項 及び25条に係る目的の理解が完全に欠如していた。これが顕著となるのは、2005年、ドイツと の租税条約に係る改定交渉の失敗であった。こうした歴史的背景を踏まえつつ、ブラジルが、
8
BEPS プロジェクトにおける独立企業原則の解釈・適用に係る合意形成の過程で付した「留保」
が抱える問題を指摘した。
第4節では、ブラジルの移転価格税制及び相互協議にみられる新たな動向について論じた。
2016年11月、ブラジル当局は、相互協議手続に係る通達を発遣した。当該通達は、他国と比較 しても特異ではない内容となっており、ブラジルが締結している全ての租税条約に適用されるこ とになる。当該通達発遣の原動力となったのはBEPSプロジェクト行動14(相互協議の促進)で あった。OECDへの加盟申請をしたブラジルにとって、行動 14に適切に対応することは、喫緊 の課題であったといえる。他方、仮に相互協議の途が開かれたとしても、独立企業原則に係る解 釈・適用が他国と大きく乖離している以上、相互協議による二重課税の排除は見込めない。日本 がブラジルとの相互協議に適切に対応すべきことは勿論のこと、ここにも、義務・拘束的仲裁手 続の導入可能性を検討する必要が認められることを指摘した。
第5章 移転価格税制に係る義務・拘束的仲裁手続
第5章では、移転価格税制に係る義務・拘束的仲裁手続の新興国における導入について、検討
した。当該仲裁手続に最も強硬に反対しているのはインドであるため、一義的にはインドを素材 として検討をした。ただし、インドが表明する当該仲裁手続への懸念は、他の新興国にも共通す る部分が多いことを踏まえ、当該仲裁手続に反対する他の新興国も視野に入れつつ論じた。
第1節では、移転価格税制に係る義務・拘束的仲裁手続の意義・必要性を述べた上で、1950年 代に欧州諸国で展開された議論から、2008年OECDモデル租税条約に当該仲裁手続が導入され るまでの歴史を確認した。その上で、当該仲裁手続に反対するインド政府の主張を整理すること で、新興国が当該仲裁手続を導入するに当たり障壁となっている三つの論点を明らかにした。
第2節では、当該仲裁手続と国家統治権との関係(第一の論点)について、インド憲法に照ら
して検討した。インド憲法は、租税法律主義(課税要件法定主義)及び、裁判を受ける権利を保 障する。仲裁人が独立企業原則の解釈・適用を判断するに当たって適用する法原則、及び当該仲 裁制度の構造等について分析した結果、当該仲裁手続が国家の統治権に抵触する可能性は低いこ とを明らかにした。
第3節では、当該仲裁手続と国家主権(国家の対外的独立性)との関係(第二の論点)につい
て検討した。まず、世界に先駆けて当該仲裁手続を租税条約に導入した米国の議論を分析した。
その結果、米国政府は、既存の...
相互協議が国家主権の侵害に当たらないことに着目し、仲裁手続 を相互協議と不可分一体のものと整理して、最終的にはビジネス界からの強い後押しを得ること で、当該仲裁手続導入の反対論を押し切ったことが明らかになった。
9
こうした米国の強硬な姿勢、及び諸外国における先行研究を手掛かりとして、新興国への義務・
拘束的仲裁手続の導入について検討した結果、仲裁手続が要請する厳格な守秘性によって、新興 国では仲裁に対する信頼が構築されていない現状が明らかとなった。こうした状況の下、最初か ら完全な義務・拘束的仲裁手続の導入を求めることは、国家主権の問題を惹起しかねないため、
「任意的仲裁手続の導入」或いは、「仲裁決定に対する『拒否権』の付与」など、段階的な対応を とるべき旨を提言した。併せて、新興国が「拒否権」を濫用できない、或いは、自ら「拒否権」を 放棄する状況となるよう、日本をはじめとする先進国は、仲裁手続に係る透明性を高めることが 不可欠であることを指摘した。
第4節では、当該仲裁手続に係る経済的負担への懸念(第三の論点)について、商事仲裁の事
例を素材として検討した。その結果、当該仲裁手続に係る経済的負担が大きいことは否めないが、
そこには人材育成の問題が内在していることが明らかとなった。この点については、移転価格税 制に係る仲裁手続の性質上、国際機関が中心となって改善すべき課題であることを指摘した。ま た、独立企業原則と仲裁手続との関係を中長期的視点で捉え直した上で、仲裁手続における究極 的な勝者は、経済力がある国ではなく、独立企業原則の解釈に係る合意形成に大きな影響を与え る国であることを説いた。そして、今日の新興国は、先進国と対等の立場で議論できる立ち位置 にあることに言及した。
第6章 近年の米国の移転価格事件
第6章では、近年の米国における移転価格事件を素材として、無形資産取引への対応に係る最
新の動向を検討するとともに、独立企業原則の本質について、一定の結論を導いた。
第1節及び第2節では、無形資産の価値評価が争点となった二つの事件を取り上げた。いずれ
の事件においてもIRSは、譲渡した無形資産について、DCF法を適用して独立企業間価格を算定 したが、裁判所は、IRS による課税手法を「売却類似理論」と批判して退けた。裁判所が特に問 題としたのは、「のれん」、「継続企業価値」、「有能な労働力へのアクセス」といった、移転価格税 制上の無形資産の定義に規定されていない要素が、無形資産の評価額に含まれていたことである。
2017年、米国議会は、30年ぶりに内国歳入法典482条(932条)を改正し、これらの要素が無 形資産に含まれることを明示した。
他方、日本で新たに規定された無形資産の定義は、「商業活動で使用するに当たり所有又は支配 することができるもの」と規定している。米国での議論を踏まえると、特に、のれんや事業継続 価値といった要素は、移転価格税制上の無形資産に該当するかについて疑義を生じかねない。新 たに規定された DCF 法に実効性を持たせるためには、少なくとも無形資産の定義に係る指針を 示す必要があることを指摘した。
10
第3節では、無形資産のライセンス取引が問題となった事件を扱った。裁判所は、IRS が主張 したバリューチェーン分析について、それは財務省規則に規定されていないアプローチであると して退けた。しかしながら、BEPSプロジェクトにおいては、「価値創造と課税の一致」という基 本理念が掲げられている。経済分析を回避しようとする裁判所のスタンスに問題提起を行うとと もに、今後の機能・リスク分析に当たっては、バリューチェーン分析が有用な手法となることを 説いた。
第4節では、費用分担契約における株式報酬費用の扱いが争点となった事件を検討した。独立
企業原則が、関連者間取引を利用した国外への所得移転を防止するための「手段」にすぎないこ とは、従来から多くの学者によって指摘されてきた。この点、本件控訴審判決は、「独立企業原則 は、比較対象取引を探求し続けることを要請するものではない」旨を初めて確認したものであり、
独立企業原則が結果重視の原則であることを再確認した点は、高く評価できる。
最後に、独立企業原則とは、その「目的」(租税条約上は国家間の所得配分規範、国内法上は所 得の国外移転の防止)を達成するための「手段」にすぎず、その解釈・適用は、国際的合意を基礎 として、経済状況の変化に応じて進化し続けるものと結論付けた。
終章(おわりに)
終章では、前章までの分析・検討内容を総括した。本稿は、移転価格税制における独立企業原 則の解釈・適用の問題、さらに、そこから生ずる国際的二重課税の問題について、新興国の動向 を踏まえた研究を行い、日本がこれらの問題に如何に対応すべきかを検討することを目的とした ものであり、本稿の目的は十分に達成できたと思われる。
しかしながら、現在、G20の強い支持の下で、デジタル経済に対する課税に係る議論が激しく 展開されており、2020年末までに最終報告書のとりまとめが予定されている。こうした状況もあ り、本稿は、デジタル経済に対する課税を研究の対象外としたが、これは本稿のテーマと密接に 関連する極めて重要な論点であるため、今後の研究課題として位置付けた。
以上