一 はじめに
中國古典詩の
史は長く、詩が詠まれた場
たる。その場 も廣範圍にわ た、一篇の詩が の持つ風土が詩に反映されることもある。ま 有された詩 機となり、その土地に特定のイメージが共 名 となり、後の詩人がそれに
とはほとんど不可能である。 き、その土地の持つ風土・イメージを切り離して鑑賞するこ ということも行なわれてきた。我々がそういった詩を讀むと して詩を詠む、
木が比較
が反映し、詩の中に豐かさや明るさを感じることができる。 その一方、南方中國で詠まれた作品には、その風土・氣候 しさが感じられることがある。 少ない北方中國で詠まれた作品には潤いの乏 風土を否定 の「瘴」が用いられている。そしてこの「瘴」は南方中國の の字である。南方中國について詠まれた詩の中にしばしばこ をほめたものばかりではない。その例と言えるものが「瘴」 ところが、南方中國で詠まれた作品は、必ずしもその土地
と同時に、とりわけ中 に詠うときに用いられることが多い。
の詩人たちが江南の地で、心の たえて詠う詩との ることもまた事實である。南方中國をあしざまに詠う詩とた 安を覺えつつその土地の風土を詠んだ作品の數々が存在す
うに 存……。この一見矛盾する現象をどのよ
がかりにして、中國の詩人にとって江南以南の地がどのよう 用いられているのかを考察することにする。そしてそれを手 するために、まず、「瘴」がどのように中國古典詩のなかで 明すればいいのであろうか。本稿は、この疑問を解決
中國古典詩人における南方意識
「瘴」の字を手がかりに
許山秀樹
な意味を持っていたか、を考えていきたい。
二辭 書
における 「 瘴」字の意味
本章では、「瘴」の文字の
える。 立と初期の使用例について考
白川靜『字統』では、以下のように言う。
形聲聲符は章。南方の濕潤の地には、風土病マラリアの
が多く、瘴癘の地とされる。後
てみえるのは、そのころ南方との交 以後の文獻に至っ である。〔後 がはじまったから 書、馬
十の四なり」るもの、、また〔南蠻傳〕にも「死 傳〕に「軍吏、瘴疫を經て死す
を
すもの、十に必ず四、五なり」とみえ、その猖獗のを傳えている。
「後
交 以後の文獻に至ってみえるのは、そのころ南方との がはじまったからである」という點は
しばしば辭典 あるが、根據が示されていない。 (1) 目すべき指摘で に 明される「南方特有の風土病」「高
多濕の熱帶・亞熱帶地方にみられる惡氣」という意味をこの「瘴」の字だけが持っていたわけではない。たとえば、『
大字典』「障」⑬では、(卷六) 語 のように指摘する。
「瘴」。瘴氣、熱帶或亞熱帶山林中
濕熱空氣、《篇
・地理
・阜部》
:「障、亦作瘴。
」《後
書・楊
傳》
:「且南方 濕、障毒互生。」《文
・左思〈魏
賦〉》 :「宅土
、封疆障癘。」李善
引劉逵曰、「
蜀皆 ・
濕、其南皆有瘴氣。」
このように、「障」にも同樣の意味があったことがわかる。
文獻を檢索する限り、
代およびそれ以
のは、管見の範圍では、『後 「瘴」字を見出しがたい。「瘴」がまとまって文獻に現われる の文獻には ような意味で用いられた例も、後 書』である。「障」の字がこの 以 たい。 (2) の文獻には見出しが
三
以 の用例
本章では、
代以 れているかを檢證する。管見の範圍では、南 の詩の中で「瘴」がどのように用いら
・宋の鮑照の 中國詩文論叢第二十六集
80
詩が最も古い。
代
赤阪 熱行鮑照
西阻赤阪西阻に
焦 湯泉發雲潭湯泉は雲潭に發し 鳥の堕つるがごとくして鳥堕魂來歸魂のみ來歸す 身熱く頭は且つ痛み身熱頭且痛 火山赫南威火山南威に赫なり たわり 石圻焦
は石圻に
日 る
有恆昏日
瘴氣晝熏體瘴氣は晝に體に熏じ 吹蠱病行暉吹蠱は行暉を病ましむ 含沙射流影沙を含んで流影を射 玄蜂盈十圍玄蜂は十圍に盈つ 丹蛇踰百尺丹蛇は百尺を踰え 雨露未嘗晞雨露は未だ嘗て晞かず は恆に昏き有り 露夜沾衣
露は夜に衣を沾す
猿莫下
毒 晨禽不敢飛晨禽も敢て飛ばず 猿も下りてする莫く 多死
に毒するすら
お多く死す 度瀘
腓瀘を度りては
ぞ 生 に腓むのみならんや ともや
蹈死地生
昌志登 は死地を蹈み 機昌志は
戈船榮 機に登る
戈船は榮
に
伏波賞亦 く
伏波も賞は亦た
なり 輕君 惜
輕きを君は
士重安可希士の重んぜらるるを安んぞ希う可けん (3) お惜しむ
「瘴氣は晝に體に熏じ、
に染みこみ、夜は毒 に「瘴」が用いられている。この二句は「晝には瘴氣が身體 露は夜に衣を沾す」という部分 身體に有 の露が衣を沾す」という意味であり、
は南方の 「赤阪」は燒きつけるほどに熱い坂のことをいう。「南威」 な氣として「瘴」が用いられている。
く嚴しい氣候をいう。この作品は、『文
十八「 』(卷二 熱行」
や『樂府詩集』)(卷六十五
「 に引く曹植) 熱行」を踏まえたものと思われる。佚文には「行
南、經 到日
交阯
。 熱但曝露、越夷水中
南方の 」とあるように、
同時期にもう一例、用例がある。 を詠ったものである。
邁 の字が用いられている。 「櫂歌行」に「瘴」
中國古典詩人における南方意識(許山)
81
櫂歌行
邁
十三爲
使十三にして
孤劍出皋 使と爲り
孤劍もて皋
燕水 岷山高以峻岷山高く以て峻なり 地關東北畢地關東北を畢す 西南窮天險西南天險を窮め に出ず 且
燕水
く且つ 邊馬何時 一去千里孤一たび去りて千里孤なり し
邊馬何れの時にか
遙 らん
嶂外遙かにむ
始めて知る始知身死處身の死する處 瘴氣鬱雲端瘴氣雲端に鬱なり 嶂の外 生從此殘
生此より殘す (4)
ここで
第二句の「皋 南方の嚴しい氣候を詠んだわけではない、という點である。 目しておきたいのは、この用例の場合、必ずしも
」は今の甘肅省
るわけではない。この詩 「岷山」は今の四川省西北部の山であり、いずれも南方にあ 州市の南にあり、第五句の 體を 覽しても、南方において
に
しむ部分を讀み取ることができない。「瘴」が詩の用 例の最初期において、必ずしも南方の
すわけではなかった、という事實は ・濕潤の風土を指 う。 意しておくべきであろ 以 の詩には、この二首以外に
隋・孫 のものがある。
壽「
賈誼長沙國、屈 戍江南寄京邑親友」
湘水濱。江南瘴癘地、從來多逐臣。……
隋・王冑「臥疾
越 客行萬餘里、眇然滄 淨名意詩并序」
上。五嶺常炎鬱、百越多山瘴。…… (5)
この二首についていうと、「瘴」の字に關してなされる一般
な解釋がここで合
方の地について や「五嶺常炎鬱、百越多山瘴」というように、長江以南の南 している。つまり、「江南瘴癘地」
べられている。
四
代の用例
a初
『
便宜上、初 詩』の用例を、卷數順に分けて考えることにする。
を卷一一五まで、
を卷二三五まで、中
を 中國詩文論叢第二十六集
82
卷五〇九まで、
を卷九〇〇までとする。必ずしも實態に によって見て取れると思われる。 した分け方であるとは言えないが、おおよその傾向はこれ
まず、初
が六首、沈 の用例は二十二例である。そのうち、宋之問 (6)
む 期が五首である。この時期に、「瘴」の字を含 名な作品がそろって出てきていることは興味深い。
題大
陽 嶺北驛宋之問 南飛雁陽
江靜初 何日復歸來何れの日か復た歸來せん 我が行我行殊未已殊に未だ已まず 傳聞至此回傳え聞く此に至って回ると 南飛の雁
江靜かにして初めて
明 林昏瘴不開林昏くして瘴開かず ち 處明
を
應見隴頭 む處
應に隴頭の
を見るべし
至端州驛、見杜五審言・沈三
期・閻五
題壁、 隱・王二無競 然
詠宋之問 逐臣北地承嚴譴逐臣北地に嚴譴を承け
到南中 相見
せられて南中に到れば
千山萬水分 豈意南中岐路多豈に意わんや南中岐路多く とす に相い見ん 縣千山萬水
雲搖雨散各 縣を分かたんとは 飛雲搖き雨散じて各の うご
飛し 闊天長 信稀
闊く天長くして
自ら憐れむ自憐能得幾人歸能く幾人か歸るを得ん 處處山川同瘴癘處處の山川同じく瘴癘 信稀なり
遙同杜員外審言
嶺沈
洛浦風光何 去國離家見白雲國を去り家を離れて白雲を見る 天長地闊嶺頭分天長く地闊くして嶺頭に分かたる 期 似洛浦の風光何の似たる
南 崇山瘴癘不堪聞崇山の瘴癘聞くに堪えず ぞ 漲 人何處南のかた漲
に 北 ぞ かんで人何れの處 衡陽雁幾群北のかた衡陽を
何時重 兩地江山萬餘里兩地の江山萬餘里 んで雁幾群ぞ 明君何れの時にか重ねて
明の君に
せん
中國古典詩人における南方意識(許山)
83
端州別高六
張
壤同羈竄
壤羈竄を同じくし 中喜共
中共に
南 勞罷んで勞罷或長歌或いは歌を長くす 愁多時舉酒愁多くして時に酒を舉げ ごすを喜ぶ 風 壯南
風 此別傷如何此の別れ傷ましきこと如何せん 焉に於いて於焉復分手復た手を分かつ 西江瘴癘多西江瘴癘多し 壯にして
ここで意しておきたいのは、宋之問・沈
期・張 ずれも北方出身の詩人で、政爭に敗れて南方に左 がい 例外 反映させたものである。その一方で、張九齡は廣東出身で、 驗を持つということである。右にあげた作品は、その經驗を された經
存在である。自分の
土、もしくはそれに
「瘴」の字を用いて表現していることも い風土を なお、これ以外にも、辛常伯、もしくは駱 る。 せて興味が惹かれ
なされる作品が一首ある。 (7) 王の作品と見 b
用例の多さはこの時期の大きな特 杜甫が占めている。殘存する詩數を考慮に入れても、杜甫の の用例は三十七例を數える。そのうちの二十二首を (8)
外の詩人は、劉長卿が五首 ( をなしている。それ以 (9)
、高 )
が三首、孟
杜甫の用例のうち、最も ある。 然が二首で
名なものは、
の「
あろう。 李白」で 逐客無 江南瘴癘地江南瘴癘の地 生別生別常惻惻常に惻惻たり 死別已呑聲死別已に聲を呑み 李白二首其の一杜甫
息逐客
故人入我 息無し
故人我が
明我長相憶我が長く相い憶うを明かにす に入り 非 生魂
らくは
路 生の魂に非ず
不可測路
くして測る可からず
期の用例の特
は、先にも
べたように、杜甫の使用 中國詩文論叢第二十六集
84
例がぬきんでて多い、という點である。そして、
これまでの用例を忠實に受け繼いでいる、という點も特 の詩は してあげられよう。初 と 江」「秋瘴」「瘴氣」などが 期までに見られた用例「瘴癘」「瘴 る。 期の用例の中に數多く見出せ が進みつつある。 「炎瘴」「瘴毒」「瘴雲」などがあり、「瘴」を含む用例の擴大 期になって新たに見出せる新しい用例としては、
c中
中
期の用例は一四一例である。中
白居易が三十一首 ( の使用が詩において擴大したことがわかる。一四一例のうち、 期にこの「瘴」の字
、元 )
が二十九首 (
が七首、張 、韓愈が九首、柳宗元 )
・盧綸・李紳が六首となっている ()(
この時期にも、「瘴」の字が用いられた 。 )
つかある。 名な作品がいく
新樂府新豐折臂
( 戒邊功也白居易 五 點得驅將何處去點し得て驅り將て何れの處にか去く 略)
萬里雲南行五
萬里雲南に行く 聞
雲南有瀘水聞
椒 く雲南に瀘水有りと 時瘴
椒
つる時瘴
大軍徒 こる
水如湯大軍徒
未 するに水湯の如し
十人二三死未だ
(後略) ぎざるに十人に二三は死す
左
至 一封 關示姪孫湘韓愈 奏九重天一封
夕貶 に奏す九重の天 州路八千夕べに
欲爲 州に貶せらる路八千 除 事 の爲に
雲 肯將衰朽惜殘年肯て衰朽を將て殘年を惜しまんや 事を除かんと欲す 秦嶺家何在雲は秦嶺に
たわり家何くにか在る 擁 關馬不
は
關を擁して馬
知汝 まず
來應有意知る汝が
好收吾骨瘴江邊好く吾が骨を收めよ瘴江の邊 く來る應に意有るべし
夜坐元
雨滯更愁南瘴毒雨滯りて更に愁う南瘴の毒
明 喜北風涼
明かにして
古樓影 ねて喜ぶ北風の涼 空
!
古の樓影空
!に わり
中國古典詩人における南方意識(許山)
85
濕地蟲聲遶暗
濕地の蟲聲暗
(後略) を遶る
「瘴」字に關する、この時期の特
である。中 な點は、表現の擴大 以 では「瘴」が單獨で用いられるほか、比較 少數の用例を檢出するにとどまったが、中
以 これまでなかった用例が擴大してくる。 になると 中 「瘴癘」「瘴氣」「秋瘴」などが用例の多くを占めていたが、 ころまでは、
る。たとえば、「瘴雨」「瘴霧」「瘴」「瘴 期になるとこれまで目にしてこなかった用例を檢出でき
このころから「瘴」の字が詩語として 「瘴水」などを新たな用例としてあげることができる。 」「瘴色」「瘴痾」
く意識され、中
期の詩人たちによって樣々に組み合わされて詩の中に取り
まれていったのであろう。これは、詩人たちの南方生活が
えたことが
因の一つと考えられる。中
期になって、科
を
じて詩人たちが中央官界に入ることが
そういった新興士大夫階 えた。しかし、
の臺頭を
どの詩人が左 む勢力もいて、ほとん
を經驗する。結果
土や事物を直接經驗した。その經驗を中 に、詩人たちは南方の風 期以 は詩の中に取り の詩人たち
んでいったのであろう。 d
中
は 期までは「瘴」を含む詩を十首以上詠んだり、もしく 名な作品を殘した詩人はいたが、
期にはその傾向が くなる。
七首であり、 の用例中、最も作品が多いのは鄭谷と齊己の いで許渾・貫休の五首である。
の用例は九三例 (
であり、中 )
の一四一例に比べて、
對數において少ない。詩
體の相對
な 中 合から言えば、
詩がほぼ一五〇〇〇首、
詩が暫定
ぼ二〇〇〇〇首 ( な數字としてほ であるとすると、 )
の 詩の「瘴」を含む詩 合は中
期の 五〇%にすぎない。この點は、
人の南方意識を考える點で興味深い。 代の詩
將之瀘郡
遂州、
雲列宿離 謫仙謫仙何事謫詩仙何事ぞ詩仙を謫せると 誰解登高問上玄誰か解く高きに登りて上玄に問わん 二首(其一)鄭谷 裴晤員外謫居於此、話舊淒涼因寄
!省雲は列宿をりて
樹蔭澄江入野船樹は澄江を蔭いて野船に入る !省を離れ
"鳥 啼愁瘴雨
"鳥 に啼き瘴雨を愁い
#$早
%中蠻
#$
早に
%ち蠻
に中たる 中國詩文論叢第二十六集
86
不知幾首南行曲知らず幾首の南行曲留與巴兒萬古傳巴兒に留與して萬古に傳わらん 歐陽 歸
秦 中項斯
幾年
秦
幾年か
む 故衣
お 失意時相識意を失いて時に相い識り す故の衣 名後獨歸名を
して後獨り歸る 秋蠻樹
秋蠻樹
爲學心 嶺夜瘴禽飛嶺夜瘴禽飛ぶ く 滿學を爲すも心滿ち
知君更掩 く
知る君更に
を掩すを
などが知られるが、用例の減少とともに
これはどうしてであろうか。 名な作品も少ない。
るはずである。筆 を經驗した詩人は多いので、用例の減少は何らかの理由があ 期においても南方での生活 は
①中 いる。つまり、 の點を理由としてあげうると考えて 期において詩人の南方經驗が擴大したので、
は南方の風土・事物はすでに珍しいものではなくなってい 期で り、「南州水土 ②南方で實際に生活することにより、南方の風土の實態を知 た、
、加有瘴氣、
死 十必四五」(『後
書』南蠻傳)などという現實とは乖離した意味で「瘴」を使いづらくなった、という點である。中
死を含意する意味の用例 ( 期にまでしばしば見られた、「瘴」が
が )
とはその傍證となろう ( 期ではあまり見られないこ
。 )
なお、「瘴」の持つ詩
イメージにおいて、この
特に變 期に
が現われている。これについては、
章で べたい。
五結 び
「瘴」の使用例をみていくと、いくつかの興味深い點が指摘される。たとえば、「瘴」と季
の問題である。
あるから、「 さと關わる語で 際には「 瘴」の用例があってもおかしくはないが、實 瘴」は『
方で、秋と「瘴」の關わりが 詩』には檢出できなかった。その一
い。「秋瘴」の用例は『
詩』に六例ある。北方では秋になると
さも和らぐが、南方
中國古典詩人における南方意識(許山)
87
では殘
特に耐え が嚴しいので、北方の人にとっては「秋瘴」こそが 外の季 い氣候と感じられたのであろうか。なお、それ以
『るだけである。また、 と組み合わせたものは「春瘴」が一例あ(白居易)
詩』には「
瘴」はない。
ばしば使われている。しかし、それだけではない。 「瘴」られるように、は嶺南、四川や江南の地においてもし に指摘すべき點は、「瘴」と土地の關係である。よく知
ように、北方の地についても使われる。(第三章にげた南 の詩の 宋の櫂歌行( ・ 邁
)も同じ)
出塞作武元衡夙駕逾人境夙に駕して人境を逾え長驅出塞垣長驅して塞垣を出ず邊風引去騎邊風去騎を引き胡沙拂征轅胡沙征轅を拂う奏笳山
白笳を奏でて山
雖云風景 結陣瘴雲昏陣を結びて瘴雲昏し 白く
風景
と 亦喜地理 なると云うと雖ども 樓煩亦た喜ぶ地理樓煩に
ずるを 白
矢飛先火
白
矢飛ぶこと火
に先んじ 金甲
奪 暾 金甲 くこと 暾を奪う 須灑 龍沙淨
ず須らく龍沙を灑
歸 して淨め
明光一報恩歸りて明光に
して一に恩に報ゆべし
「出塞作」の詩題によっても、これが南方での作品ではないことが分かる。また、「樓煩」は古代北方の部族名であり、「龍沙」は廣く塞外
北邊塞の地を指す。作
の武元衡は中
期の詩人である。中
期においても、南
方の地の風土においても、「瘴」を用いていたことが確 宋と同じく、北
「高 きる。以上のように、「瘴」は必ずしも「南方特有の風土病」 で いのである。 多濕の熱帶・亞熱帶地方にみられる惡氣」とは限らな に 意すべき點は、「瘴」に
が本來持っていた、「高 められた意味である。「瘴」
なく、そのような風土を持った南 る惡氣」という嚴しい氣候そのものに焦點を當てた意味では 多濕の熱帶・亞熱帶地方にみられ
方
の
土
地
に 「瘴」という意味を
象への關心が めた用例がえてくる。「瘴」が本來持っていた自然現
!れ、土地に重點があり、そういう風土の南方 中國詩文論叢第二十六集
88
という意味で使われるのである。たとえば、先に
「 げた項斯
歐陽 歸 中」を再度見てみよう。
秋蠻樹
秋蠻
樹
嶺夜瘴禽飛嶺夜瘴 く
禽飛ぶ
この詩の「瘴」は「蠻」と對をしており、「高
熱帶・亞熱帶地方にみられる惡氣」という意味は後 多濕の う 移っていると見てよいだろう。「瘴禽」は「南國の鳥」とい の風土を意識しつつも中心義としては土地そのものに重點が し、そ
このような用例は、中 度の意味であろう。
以 中 になって見られるものである。
では、張
「
蠻客」詩の「柳
瘴 雲濕、桂叢蠻
や殷堯 鳥聲」
「九日」詩の「瘴
雨蠻
景、
蕪野 袁不 古今愁」、 「 人至嶺南」詩の「瘴
色、巴 れに當たるだろう。賈島「 路傍溪聲」がそ
子陂上韓吏部」詩の「涕流聞度
瘴
病 ,
喜 秦
」は「瘴」と「秦」が對をしている。
にもその用例を
げることができる。先に
「 谷の詩は、「蠻」と「瘴」が對になっている。また、許渾 げた項斯や鄭 從兄別駕歸蜀」詩の「家留秦
官謫瘴塞曲、
溪
」や曹松 「
陳樵校書歸泉州」詩の「關遙秦
家雁斷、
瘴
「秦」と「瘴」が對になっているほか、貫休「 は雲低」
劉逖赴
詩の「路入 辟」
山熟、江瘴
雨肥」は「瘴」が「
た例である。いずれの例も、「高 」と對になっ また、中 意味で使われていると思われる。 義を踏まえつつ、そういった風土を持った南方の土地という にみられる惡氣」という氣候・風土そのものよりも、その字 多濕の熱帶・亞熱帶地方
期以 、「瘴 」という語が現われる。『
詞典』で「指南 !語大
方
(傍點は引用
")
域」とし、
の
#綬「行路
「雙輪 $」詩の 上銅梁
%、一 春瘴
波」を引く (
「瘴」字に含まれていた「惡氣」「風土病」などの字義の希 。ここからも、 &)
' (を見ることができよう。
さらに、鄭谷「茘枝樹」では、以下のように言う。
二京曾見畫圖中二京にて曾て見る畫圖の中數本
)菲色不同數本
一枝 孤櫂今來巴徼外孤櫂もて今來たる巴徼の外 )菲として色同からず 雨思無窮一枝
夜 雨思い無窮
*+ 含香瘴夜
*+
くして香瘴を含み
中國古典詩人における南方意識(許山)
89
杜宇 低 暝風杜宇
低くして暝風
腸斷渝瀘霜霰 こる
腸斷す渝瀘霜霰
不 くして
似 陵紅
をして
陵の紅に似しめざるを
ここにいう「瘴」も「風土病」や「惡氣」といった傳統
な字義も
ここでは「瘴」を南方の空氣という れて、「香瘴」を好ましいものとしてっており、
中國古典詩人が いる。 度の意味で用いられて いていた南方に對する意識の變
上のように「瘴」の字から推測できるように思われる。 を、以
(1)第3章に
げるように、初期の用例に、南
・宋の
邁
「櫂歌行」がある。ここでは、北方の風土を
「身體に障(さわ)る氣候」という一般 「障氣」と表記されることもあり、「瘴氣」をそれならば、 あったとは斷定できないだろう。初期の用例では、たとえば が用いられており、「瘴」字に南方限定の意味がこの時期に く場面で「瘴」
後の轉義である可能性を否定できない。なお、加 えることもできる。南方のことを專ら指すようになったのは な意味としてとら
常賢『
字の
源』(角川書店、一九七〇年)、
堂明保『
字語源辭 典』(學燈
(2)この「障」の字がどのような 、一九六五年)には、「瘴」を取り上げない。
は有 える上で、本稿でう意味での「障」の使用例を考えること を經て生まれたのかを考 なことである。後
以
(3)「瘴」の字、李善本『文 出できなかったが、詳細な檢討を今後に期したい。 の文獻には管見の範圍では檢 』などでは「
臣本『文 本は「障」に作り、『樂府詩集』は「瘴」に作る。また、六 」に、四部叢刊
(4)「瘴」の字、四部備 』では、「五臣作「瘴」」という。
本『樂府詩集』・『古樂
作る。ただし、中 』、「障」に 叢書)は「瘴」に作る。『先秦 書局本『樂府詩集』(中國古典文學基本
魏晉南北
「作り、 詩』は「障」に
(5)なお、この二首は「瘴」の字に 本『詩紀』作「瘴」」という。
この點から、南 同が檢出できなかった。
特有の風土病」「高 らず、「瘴」で書かれたり「障」で書かれたりしたが、「南方 ・宋の頃には「瘴」の字がまだ定してお
(6)『 はほとんど定していた、と考えられよう。 氣」という意味では「瘴」の字を當てることが隋代のころに !多濕の熱帶・亞熱帶地方にみられる惡
"
#詩』(卷八〇六)の
$山の用例を、初
(7)『 #に入れた。
"
#詩重出
%收考』(
#詩
&究集 '、陜西人民
育出版
、 (培基
)、一九九六、四六頁)は、「按
當爲辛常伯作、附于駱集中、 #人唱和之例、此詩 作とする。ただし、『 *訛爲駱作」といい、辛常伯の
#詩大辭典』(
+,初 -)、江蘇古
.出 中國詩文論叢第二十六集
90
版 、一九九〇、二三三頁)では、「作辛常伯
」(陳 執筆)とする。なお、辛常伯の事跡は不詳だが、『 君
出 詩重
收考』では、「此辛(心)常伯、疑爲太常伯或少常伯之 、乃官職名。」といい、「辛常伯」という名
(8) している。 に疑問を提出 詩の用例數に、『
の斷句「 詩』(卷七三二)に收める高力士 燻眼
、瘴染面朱
杜甫に二十二例もの用例があることは、二人の詩風の相 (9)同時期の詩人李白に一例も見いだせないことを考えると、 」を算入した。
ついて考える際に興味深い に る。たとえば『 點を提供しているように思われ 溪漁隱叢話』(
集卷二四)
事象の悲哀・ 話』で「杜甫一生愁」と言うように、自分のまわりの事物・ 引『桐江詩 李白は、「李白の自己肯定 惱を一身に受け止めているようである。一方、
質 な放縱性・樂天性が、いかに本 想―』 なものであったか」(松浦友久『李白傳記論―客寓の詩 を否定 文出版、一九九四、三二二頁)とあるように、物事 に捉えることが相對
に少なく、むしろ樂
兩 えることが多かった。二人のそういった詩風の差を考えると、 に捉 の「瘴」の使用度の
對する李白と杜甫の意識の差 いについては首肯できる。風土に
( については、別稿で論じたい。
10)ただし、劉長卿「貶南巴至
陽題李嘉
江亭」の「地
君棄」の句が『 明 詩』で「一作瘴
ものを含んでいる。 餘生怯」とされている 年の校本『劉長卿
年箋
』(儲仲君、 中
書局、一九九六)、『劉長卿集
年校
』(楊世明校
人民文學出版 、 、一九九九)は、いずれも「地
( とる。 明君棄」を
11)白居易詩の「得
因 之到官後書、備知州之事、悵然有感、
!四韻」の二箇
( ては二例とした。 に「瘴」が用いられている。これについ
12)「思歸樂」「
二箇 "病十首」「酬樂天東南行詩一百韻」は各詩、
( それぞれ二例とした。 において「瘴」が用いられている。これについても、
13)李紳の「趨翰
#$誣搆四十六韻」、「逾嶺
%止
&陬抵高
は、各詩二箇 '」
( ぞれ二例とした。 に「瘴」を用いている。これについてもそれ 14)賈島「寄韓湘」の「
(嶺行多少
, )州漲滿川」詩で、『
( 數えた。 詩』が「漲」の字に「一作瘴」としたものも、一例として 15)『
詩』(卷五二五)に收められた「杜牧「蠻中醉」」は、
六 *『 詩重出
收考』(三二二頁)に從い、張
品(「蠻州」)と見なして除外した。また、『 +作 五五五四と卷に項斯と馬戴の作品として、ほぼ同じ詩が 詩』卷五五
されている。これについては一首とみなした。なお、 *載 六
*『 詩重出
收考』(四二七頁)は「此篇作
究竟屬誰
( ,斷定」とする。
16)このデータについては、『
代の詩篇』(
代 究のしおり、
中國古典詩人における南方意識(許山)
91
岡武夫ほか
推測を立てた。つまり、 、同朋舍出版、一九七七)によって大まかな
期を『
した場合、その最後の詩の番號が『 詩』卷二三五までと 四番と付けられている。また、中 代の詩篇』で一一九九 期が『
いる。さらに、『 までとした場合、その最後の詩に二七一二九番が付けられて 詩』卷五〇九 である。したがって、中 詩』最後の作品の番號が四九四〇三番 卷五一〇以 期の詩數はおよそ一五〇〇〇首、
の詩數はおよそ二二〇〇〇首と
し、この二二〇〇〇首という數字がそのまま 斷した。ただ 確に反映したものではないことは言うまでもない。『 の詩數を正 の卷七六七の孫元晏以 詩』
の詩人は『
詩』
順に竝んでいないこと、聯句・無名氏や名 未詳であったために「以下無考」とされており必ずしも年代 纂時は傳記が ・ ・仙
して、卷七六七以 鬼怪などは更にその後に配列されていること、などを理由と ・ の作品は本來、そのままでは
入することはできない。しかしながら、卷七六七以 期に算 の用例二十四例を檢討してみると、齊己や貫休など十七例が の「瘴」 以 の作品である。(初
期のものが一例、中
のが五例である。)ここから考えると、『 期のも 詩』卷七六七以 の作品には數多くの
期の作品が含まれていると
れよう。『 斷さ
ら、その作品までの作品數は一五〇〇〇首となる。よって 卷である卷七六六最後の作品の番號は四二四五二番であるか 詩』において、詩人を年代順に竝べた最後の 『
詩』の含まれる
〇〇〇首の 詩の數は、一五〇〇〇首から二二
( であると思われる。 であり、その中でもやや二二〇〇〇首寄りの數
17)たとえば、初
・宋之問「至端州驛見杜五審言沈三
五 期閻
隱王二無競題壁
然 詠」、 中 ・杜甫「又上後園山脚」、
・韓愈「左
至
( 關示姪孫湘」などがそれに當たる。
18)一例を
げれば、「瘴癘」(「感受瘴氣而生
惡性瘧疾等病」(『 疾病。亦泛指
語大詞典』
語大詞典出版
一年、卷八)、「高 、一九九 多濕の熱帶・亞熱帶地
に蔓
(松浦友久 する惡氣」
『續校
詩解釋辭典[附]
代詩』大修
書店、二〇〇一年、二三一頁、植木久行執筆))の語はすでに隋代に見え、古くから詩語となっているが、
代では初
に十例、
に十一例を數えるものの、中
は五例、
用例 三例となっている。殘存する詩數から考えると、「瘴癘」の は な風土という意味が中有 は、「瘴」が字義としてもつ、惡性の疾病、もしくは身體に 度はかなり低くなっていると言えるだろう。このこと
期以 に
( 標の一つと言えるだろう。 !れていったとする指 19)
語大詞典出版
有瘴氣之地」という項も立て、中 、一九九一年、卷八。ただし、「指南方
司馬侍 ・盧綸の「夜中得循州趙
"書因寄回使」詩を
げる。 中國詩文論叢第二十六集 92
[補記]本稿は、日本學
振興會科學
究費「詩跡(歌枕)
中國文學史論再 究による ―詩跡の
念・機能・形
に關する
究―」(基盤B、植木久行代表、課題番號17320053、二〇〇五~二〇〇七)による
究 果の一部である。
中國古典詩人における南方意識(許山)
93