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「思考する私」の権威 : カントの自己意識論を手 がかりにして

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「思考する私」の権威 : カントの自己意識論を手 がかりにして

著者 近堂 秀

出版者 法政哲学会

雑誌名 法政哲学

巻 13

ページ 1‑11

発行年 2017‑03‑20

URL http://doi.org/10.15002/00013945

(2)

はじめに本稿は、イマヌエル・カントの自己意識論を手がかりにして、言語分析哲学における一人称の問題を考察するものである。もっとも、超越論哲学の議論を言語分析哲学の議論で手がかりにすることには多くの困難がある。そこで筆者は、次の手順で考察をすすめる。まず、一人称の「権威(

au th or ity

)」を主張するドナルド・デイヴィドソンの議論 (1)に従って、言語分析哲学では何が問題となっているかを明らかにする(=一)。続いて、デイヴィドソンの議論の展開が超越論的論証をめぐる論争の文脈にあることを明らかにする(=二)。最後に、カントの自己意識論を援用し て、デイヴィドソンの思想体系として一人称の権威を主張する議論と三角測量の議論を展開することを試みる(=三)。

一言語分析哲学における一人称の問題

デイヴィドソンは、ピーター・F・ストローソンやシドニー・シューメイカーの議論を取り上げながら、一人称の権威が認められなければならないと主張し、思想の体系性を思わせる形で議論を展開している (2)。筆者は、デイヴィドソンの議論に従って、言語分析哲学では一人称について何が問題となっているかを明らかにするところから考察を始める。デイヴィドソンは、一人称の権威として、信念、希望、

近堂 秀

カントの自己意識論を手がかりにして

「思考する私」の権威

(3)

欲求、意図などの命題的態度を現在の自分に帰属させる場合には、他人に帰属させる場合とは異なって誤りがないのはなぜかと問題を指摘する。これに対してデイヴィドソンは、自己帰属には「規準(

cr ite rio n

)」がないとするルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの指摘に遡り、自分への帰属と他人への帰属の非対称を否定するギルバート・ライルやアルフレッド・エイヤーの見解を退ける。そのうえでデイヴィドソンは、他人の心に関する懐疑論の矛盾を指摘するストローソンの議論と、一人称言明を訂正不可能とするシューメイカーの議論を検討する。ストローソンによれば (3)、懐疑論者は、どのようにして他人の心のなかで起こっていることを知りうるかという自分の疑問を理解しているならば、心が何かを知っている限りで、心が身体のなかにあって思考を持っていると知っている。さらに、懐疑論者は、思考を他人に帰属させる場合には観察された行動が基礎になるが、自分に帰属させる場合にはそのような基礎はないとも知っている。これに対してストローソンは次のように主張する。心的概念を所有するためには、心的述語の自己帰属者が同時に他者帰属者であり、すべての他人が自己帰属者である必要がある。また、心的概念を理解するためには、主語の観察による帰属とそれとは独立の帰属のいずれをも許容し、かつ多義性に陥らないような述語を認め なければならない。しかし、デイヴィドソンによれば、ストローソンはその理由を説明していない。他方、シューメイカーは次のように主張する (4)。心的出来事に関する言明は、ある人が誠実に述べているならば、それが偽であるとは考えられないという意味で「訂正不可能(

in co rr ig ib le

)」である。訂正不可能という条件は一人称の権威に置き換えられるとする。一人称の権威が認められるのは、話し手が特権的な種類の文を用いていると知っている場合か、あるいは解釈者が自分への帰属を真として解釈しなければならない場合に限られる。したがって、デイヴィドソンによれば、シューメイカーは論点先取を免れえない。しかし、明示的には困難な推論に解釈者は依拠しなければならないが、話し手は依拠しないという事実により、自分への帰属と他人への帰属は非対称となるとは考えられる。話し手は、自分の言葉が何を意味するかを語るためには、次のような種類の言明を与えられるのみである (5)。「ワーグナーは幸福な死をとげた」という私の発話が真であるのは、ワーグナーが幸福な死をとげたときかつまたそのときに限る。他方、解釈者は、これが自分にとっては話し手の発話の真理条件を述べる最良の方法だと考えるべきいかなる理由もない。このようにしてデイヴィドソンは、独自の見解として、一人称の権威が認められなければならないと主張する。

(4)

デイヴィドソンの議論については、次の二点を指摘しておきたい。第一に、デイヴィドソンは、自分の言葉が何を意味するか、話し手が知らないとするヒラリー・パトナムと心的内容の社会的要因への依存を強調するタイラー・バージの議論を検討しながら、一人称の権威を主張する議論を補強している (6)。「関節炎(

ar th rit is

)」に関する思考実験から、バージは次のように主張する (7)。ある人の言葉は自分が属する言語共同体のなかで自分の言葉が持っている意味を与えなければならず、それに基づいてその人の命題的態度も解釈されなければならない。しかし、社会的要因は、デイヴィドソンによれば、バージの考えとは異なる形で話し手が自分の言葉によって何を意味しうるかを操作する。すなわち、話し手は、理解されたければ自分の言葉が一定の仕方で解釈されることを意図しなければならず、したがって自分が意図した解釈へと至るために必要な手がかりを相手に提供することを意図しなければならない。また、「双子地球(

Tw inE ar th

)」に関する思考実験から、パトナムは次のように主張する (8)。ある思考は、頭の外にあるものとの関係によって同定されるならば、完全には頭のなかにない。ある思考が完全には頭のなかにないならば、心は、一人称の権威によって要求されるような仕方でそれを把握することはできない。しかし、意味が頭のなかにないとい う結論は、デイヴィドソンによれば、意味が部分的に頭の外にある対象への関係によって同定されるという事実だけからは帰結しない。というのも、通常の方法での心的状態の同定に関与している外的要因が見きわめられたとしても、心的なものと物的なものの同一説が排除されるわけではないからである。このようにしてデイヴィドソンは、パトナムとバージの見解を退け、一人称の権威を主張する議論を補強している。第二に、デイヴィドソンは、「概念枠(

co nc ep tu al sc he me

)」と内容とを区別する概念相対主義が客観的なものと主観的なものの二元論であることを指摘したうえで、新たな反主観主義の内に一人称の権威を主張する見解を位置づけている (9)。デイヴィドソンによれば、異なった枠組みないしは言語は経験に与えられたものを組織化する異なった仕方を構成すると主張する概念相対主義では、解釈されていない所与、カテゴリー化されていない経験内容が認められている。概念枠と内容との区別は近代哲学の問題を支配し規定し続けてきた客観的なものと主観的なものの二元論に遡り、私秘的な状態と対象をもった心という概念に由来する。これに対して新たな反主観主義では、意味の外的要因への依存が限定的なものと見なされ、心的出来事と物的出来事との同一性と一人称の権威が否定されると誤解さ

(5)

れている。しかし、

歴史的文脈によって部分的に同定されるが、

心の状態はそれが習得された社会的・

て心の状態は物理的状態ではないと示されるのではなく、

それによっ

一人称の権威が認められなくなるのでもない。同時に、

されるという考えは誤りであり、

解釈されていない経験とそれを組織化する概念枠が区別

する必要もない

「思考の対象」を措定

形で議論を展開していることも、ここに見て取れる。 と考えている。デイヴィドソンが思想の体系性を思わせる 的なものと物的なものの同一説が排除されるわけではない げる一方で、意味の外的要因への依存のもとであっても心 のは、~ときかつまたそのときに限るという形の言明を挙 る話し手の条件として、「~」という私の発話が真である い、デイヴィドソンは、自分の言葉が何を意味するかを語 称の権威が認められなければならないと主張する。そのさ 論を検討し、パトナムとバージの見解を退けながら、一人 デイヴィドソンは、ストローソンやシューメイカーの議 けている。 な反主観主義の内に一人称の権威を主張する見解を位置づ 。このようにしてデイヴィドソンは、新た 二超越論的論証と根元的解釈、三角測量

デイヴィドソンが思想の体系性を思わせる形で一人称の権威を主張する議論を展開しているのは、リチャード・ローティが超越論的論証の一つとした概念枠と内容との区別を破棄する議論の延長線上においてである。筆者は、デイヴィドソンの議論の展開が超越論的論証をめぐる論争の文脈にあることを明らかにする。一連の論争は、ストローソンが概念枠における個別的対象の同定という経験の前提条件を明らかにする論証を超越論的と表現した

のがきっかけとなって始まった。ストローソンは、アプリオリ性と主観性とを拒絶したうえで、経験の自己帰属の可能性に訴える超越論的論証として『純粋理性批判』における純粋悟性概念の超越論的演繹を解釈する 。リュディガー・ブプナーは、ウィトゲンシュタイン、W・v・О・クワイン、ストローソンを範例として、自己関係性に訴える形で超越論的論証を定式化する

。これに対してローティは、概念枠と内容との区別を破棄するデイヴィドソンの議論を引き合いに出し、超越論的論証を自己論駁的な寄生論証と見なす

証による懐疑論論駁が成功していないとして、ストローソ 。バリー・ストラウドは、超越論的論

(6)

ンとシューメイカーの議論を退ける

終わった。トーマス・グルントマンによれば 証をめぐる論争は、超越論哲学の終焉を印象づける結果に 。こうして超越論的論

のような論理形式をとる。 の疑いの不整合を示す点に構造上の特徴がある議論で、次 在論の条件のもとで外界における何らかの事実に訴えてそ 証は、デカルト主義的な外界に関する懐疑論に対して、実 、超越論的論

(タイプAの)経験がある。

である き合いに出すのは、概念枠と内容との区別を破棄する議論 ローティがデイヴィドソンによる超越論的論証として引 ず先に正当化しなければならない。 かじめ取り込んでいなければならないが、このことこそま ある表象の理論が「心と世界とを橋渡しする原理」をあら ところで共通する。ただし、超越論的論証は、その前提に その表象の必然的な条件に関する理論によって正当化する の議論は、超越論的論証として、表象される対象の条件を ゆえ、Bである。カント、ストローソン、デイヴィドソン

(タイプAの)経験が先行するならば、Bである。それ

。デイヴィドソンは、概念枠と内容との区別を破棄すると同時に、アルフレッド・タルスキが定式化した同値式を自然言語へと適用する真理条件的意味理論

が確立すると主張する。タルスキは、「真」という語句の用法と定義が適合していると見なされうる条件を次のように定式化し た。(T)Xが真であるのは、pのときかつまたそのときに限るという形の同値式のすべてが肯定されうるような仕方で、「真」という語句は用いられるべきである。(T)の形の同値式のすべてが肯定されうるような仕方で「真」という語句が用いられるべきであり、かつ(T)の形の同値式のすべてが真理の定義から帰結されるならば、真理の定義は適合していると見なされうる。これを条件とすることによってタルスキは、形式言語における真理の対応説の困難を回避しようとした。デイヴィドソンは、さらに指示詞や指標詞を含む自然言語へと、タルスキの定式化における(T)の形の同値式を適用することを試みる。例えば「雪が白い」という命題が真であるのは、事実として雪が白いときかつまたそのときに限るとすることは、自然言語に対して文の意味を与える真理条件となる。要するにデイヴィドソンは、概念枠と内容とを区別しなければ、「真」という語句を定義項として文の意味を事実との「一致(

ag re e- me nt

)」に求めることができると主張するのである。当初、デイヴィドソンは、(T)の形の同値式を自然言語へと適用するために、他人の言語や思想の解釈にさいして「寛大さ(

ch ar ity

)」が要請されると考えていた

。他人が何を信じているかが分からなければ、他人が語っていることの意味が何かを知っていない。しかし、他人が語って

(7)

いることの意味が何かを知っていなければ、他人が何を信じているかが分からない。この循環に対して、「根元的解釈(

ra dic ali nt er pr eta tio n

)」として解釈者が寛大さの原理をもって介入する。寛大さの原理のもとでは、一致を最大にしなければ他人が何について語っているかが分からないのと同様に、他人に帰属させる「自己整合性(

se lf- co ns ist en cy

)」を最大にしなければ他人が理解できないとされる。ところが、デイヴィドソンは、一致や整合性を求める考えからは後退する一方で

の議論に従って裏づけるようにな)」

n tio la gu an tri

(測量 「三角の還元不可能な関係を)」

ge ed owl kn

(「知識類の 他人の心についての知、自分の心についての知という三種 的世界についての知、外、

いる したうえでデイヴィドソンは、三角測量の議論を展開して 知識はそれぞれ相互に還元不可能である。このように主張 れかに還元することが試みられてきた。しかし、三種類の 優先関係が哲学における認識論的問題として扱われ、いず のなかで起こっていることを知ることは、これまで概念の や大きさ、因果的性質について多くを知ること、他人の心 がどのようなものかを知ること、世界のなかの対象の位置 。自分が何を考え、欲し、意図しているか、自分の感覚

ければならない。た音を発した子どもが褒美をもらえる。この過程が繰り返 者の違いから、自己知における一人称の権威が認められな。テーブルが現前している場面で、「テーブル」に似 い。同時に、真理を条件として意味を求める話し手と解釈 理の違いから、心的なものは物的なものには還元されえな ソンによれば、三角測量による客観性のもとでは信念と真 いる事実を前提として信念を持つことになる。デイヴィド られるとともに、二つの生物が真理という概念を共有して この考えにより、客観的なもののあり方という概念が与え かつ同時的に反応するという事実に依存すると考えられる。 位的な刺激やその刺激へのそれぞれの反応に対して相互的 観性は、三角測量の議論に従って、二つの生物が共通の遠 向の関係が三角測量である。思考と言語にとって必要な客 を選び出しうる。この二人の話し手と共通世界の間の三方 (

ca

に共通するような子どもの反応の「原因

us e

)」

e・ ・th

われの見方を前提として、われわれの反応と子どもの反応 位置づけられる。われわれは、世界と子どもに関するわれ )」が「刺激

lu mu sti e・ ・th

s

ルへの線とが交差する点に、 とする。子どもからテーブルへの線とわれわれからテーブ かい、さらにもう一つの線がわれわれから子どもに向かう ブルに向かい、もう一つの線がわれわれからテーブルに向 ここで、と言うようになる。一つの線が子どもからテール」 されると、やがて子どもがテーブルを前にすると「テーブ

(8)

超越論的論証をめぐる論争では、ローティが概念枠と内容との区別を破棄するデイヴィドソンの議論に従って超越論的論証を自己論駁的と見なし、ストラウドがストローソンとシューメイカーによる懐疑論の論駁を退ける。これに対してデイヴィドソンは、概念枠と内容との区別を破棄すると同時に真理条件的意味理論が確立されるとして、そこから心的なものの非還元性と一人称の権威を主張する三角測量の議論を展開している。

三自己意識の統一と「思考する私」

デイヴィドソンが展開している三角測量の議論は、言語共同体におけるコミュニケーション可能性の条件を明らかにする超越論的な議論を構成するという指摘がある一方で

、超越論的な外在主義を明らかにする形而上学的な議論としては成功していないとも見られている

。これに対して筆者は、統覚の超越論的統一という自己意識のあり方を主張するカントの議論を援用して、デイヴィドソンの思想体系として一人称の権威を主張する議論と三角測量の議論を展開することを試みる。カントの自己意識論の全体構成は次の通りである。カントは、『純粋理性批判』第一版の「超越論的分析論」にお ける純粋悟性概念の超越論的演繹では、純粋悟性概念の客観的妥当性の根拠として「統覚(

Ap pe rz ep tio n

)」という自己意識のあり方を明らかにしている(

Vg l. A 95 ff.

)。感官、構想力、統覚による経験的な総合には「純粋で根源的な不変の意識」が「超越論的統覚(

tra ns ze nd en ta le Ap pe rz ep tio n

)」として前提される。カントは、「予備的注意」としてこのように述べたうえで(

Vg l. A 10 7

)、いわゆる上からの演繹と呼ばれる証明によって「純粋統覚(

re in e Ap pe rz ep tio n

)」と構想力の産出的総合との関係を根拠として(

Vg l. A 11 6 ff.

)、さらに「下から(

vo nu nt ena uf

)」(

A 11 9

)の演繹によって現象と構想力の超越論的機能との関係を根拠として(

Vg l. A 11 9 ff.

)、純粋悟性概念が経験を可能にすると主張している。他方、カントは、第二版の超越論的演繹では、やはり統覚という自己意識のあり方を根拠としてカテゴリーが経験を可能にすることを明らかにしている。そのさい、カントは、判断の論理的機能を介してカテゴリーに直観が従うこと(

Vg l. B 14 3

)、構想力の超越論的機能を介してカテゴリーが経験を可能にすることそれぞれを証明する二段階の議論を展開している(

Vg l.B 15 9 ff.

)。これに対してカントは、『純粋理性批判』第一版の「超越論的弁証論」における「純粋理性の誤謬推理について」の章では、自己意識を実体へと拡大する議論を退けている。

(9)

合理的心理学は、「単なる統覚」にすぎない「私は思考する」という命題を「唯一の原典」として(

Vg l.A 34 3 /B 40 1

)、「思考するものとしての自我(

Ic h, alsd en ke nd

)」である「魂(

Se ele

)」を内的感官の対象と見なし(

Vg l.A 34 2 /B 40 0

)、その「実体性(

Su bs ta nt ia lit at

)」、「単純性(

Simp liz it at

)」、「人格性(

Pe rs on ali t at

)」、「観念性(

Id ea lit at

)」を次のようにして推論する。魂は、

絶対的主語であるゆえに実体であり(

Vg l. A 34 8

)、

すべての私の可能的判断の

えに単純であり(

Vg l. A 35 1

)、 の働きが決して多くの働く物の競合とは見なされえないゆ

Vg l. A 36 1

)、 己自身の数的同一性を意識しているゆえに人格であり

異なった時間の中で自 かし、 に対して、その現実存在は確実である(

Vg l. A 36 6 f.

)。し 覚に対する原因としてのみ推理されうるゆえに疑わしいの

外的感官の対象の現存在が与えられた知

)、

0 35 A l. Vg

ではなく( ()」

kt bje Su s ale re

「実在的主体であって属性の)」

kt bje Su

「思考する私」

es ch gis lo

(「論理的主観思考のは、

)、

lic f. 5 35 A l. Vg

)」は認識されず(

it he ch fa in heE rk wi

( 「現実的単純性は超越論的に表示されるが、)」

it he in E

その「論理的単一性(

e ch gis lo

)、

f. 2 36 A ke eB eh ar rli ch

とは異なり

it

)」

kt

Vg l. iv je

(恒常性

ob eI

「論理的同一性(

lo gis ch

その

de nt at

)」は「客観的

it

内的感官の対象に対する外的感官の対象の関捉のすべての総合(それは経験的である)を一つの超越論 の自己の同一性をそれもアプリオリに思考することは、把 性がみずからの表象の多様性の内で心「というのも、る。 関係が法則に従うようになるとして、次のように述べてい 超越論的演繹では、統覚の超越論的統一に基づいて表象の 識のあり方に根拠を求める点にある。カントは、第一版の を明らかにするために、統覚の超越論的統一という自己意 悟性概念の超越論的演繹としてカテゴリーの客観的妥当性 筆者の見るところ、カントの自己意識論の核心は、純粋 格性・観念性を否定している。 する私」とみずからを意識する自我の実体性・単純性・人 『純粋理性批判』の誤謬推理章では、してカントは、「思考 一という自己意識のあり方を明らかにしている。これに対 命題で表現される超越論的統覚ないしは統覚の超越論的統 粋悟性概念の超越論的演繹では、という「私は思考する」 の純『純粋理性批判』このようにしてカントは、はない。 意識における自我を実体と見なす推論を退ける内容に違い 書き換えによる第一版との異同の問題があるにせよ、自己 する議論を退けている。第二版の誤謬推理章についても、 カントは合理的心理学を否定し、自己意識を実体へと拡大

37 Vg l. A

0 f.

)。このようにして験の現実性は確実である 係からその観念性は推論されえないが、外的経験と内的経

(10)

的統一に従わせて、そうしたアプリオリな規則に従う総合の関係をはじめて可能なものにするようなみずからの働きの同一性を眼前におかなければ、不可能かもしれないからである」(

A 10 8

)。他方、カントは、第二版の超越論的演繹では、統覚の総合的統一が構想力の超越論的総合に関わり、多様なものの総合的統一の内で私が自己自身を意識するとして、次のように述べている。「これに対して私が表象一般の多様なものの超越論的総合の内で、したがって統覚の総合的な根源的統一の内で私自身を意識するのは、私が私に現象する通りにでもなければ、私が私自体である通りにでもなく、ただ私があると意識するだけである」(

B 1 57

)。これに対してカントは、第一版の誤謬推理章では、外的経験と内的経験を内に含む「われわれ」が単なる一人称の主語としての「思想の超越論的主観=x」(

A 34 6 / B 40 4

)であって、これを超え出た「内的感官の超越論的対象」(

A 36 1

)としての「魂(

Se ele

)」ではないとする。要するにカントの自己意識論が主張するのは、統覚の超越論的統一として対象の意識が表象の関係における法則と同一的な自己の意識とのいずれをも可能にするが、ここで意識されるのは単なる自己だということである。「超越論的対象=X」を介して現象を対象とすると述べているところから(

A 10 8 f.

)、統覚の超越論的統一は単なる自己が自己 とは異なる対象へと向かう自己意識の統一のあり方であるとも言えよう。筆者の考えでは、カントの自己意識論を援用するならば、次のようになる。デイヴィドソンは、一人称の権威を主張する議論ではこう考えている。話し手は、自分の言葉が何を意味するかを語るために、「~」という私の発話が真であるのは、~ときかつまたそのときに限るというような種類の言明が与えられるのみである。カントによれば、自己意識は、超越論的な主観と対象との相関関係を含む統一を通じて、内的経験から外的経験を区別しなければならない。したがって、話し手は、「思考する私」として内的経験から外的経験を区別している限り、真理を条件として意味を求めるさいに心的なものから物的なものを区別していることになる。また、デイヴィドソンは、三角測量の議論ではこう考えている。話し手は、自分の反応ともう一人の反応に共通するような、もう一人の反応の原因を選び出す。カントによれば、自己意識は、統覚の超越論的統一として自己とは異なる対象へと向かう単なる自己を通じて、第三者的な観点を共有していなければならない。したがって、二人の話し手は、第三者的な観点を共有している限り、互いが相手の解釈者でありうることになる。いずれの話し手も、言語記号を使用する主体として自分の反応ともう一人の反

(11)

応を関係づけるために、みずからを第三者的な観点に置いている。要するに三角測量では、現象における自己あるいは自己自体とは区別され、単なる自己として意識される第三者的な観点が前提されるが、これを裏づけるのが「思考する私」の権威であると考えられるのである。

おわりにデイヴィドソンは、三角測量の議論を展開して、寛大さの原理では最大にされなければならない一致や整合性を求めないようになる。これに対してカントの自己意識論を援用するならば、デイヴィドソンの議論では、「思考する私」による自己意識の統一という前提条件のもとで一人称の権威が認められ、さらに三角測量が成立することになると考えられる。本稿は、言語分析哲学における一人称の問題に対して、この点を明らかにした。最後に、デイヴィドソン自身の言葉を引いて、本稿の締め括りとしたい。「もしも個人がなしには済ませない、そして究極的には避けがたく創造的な最終的裁定者という役割を果たしていないならば、いかなる思考も存在していないであろう

」。 (

( 二〇〇七年、一六―三四頁) 的、客観的』清塚邦彦、柏端達也、篠原成彦訳、春秋社、 20niversityPress,,p01fop.314.(『主観的、間主観rdU -),ID.Davidson,Subjectivente,Oxrsubjective,Objective1

( )Davidson,ibid.(前掲訳書、同箇所)2

( ,Lff.610.,p5919ndoonls)uaiddivIn,onwstra.SFP.3

( 四二頁以下) 同一性』菅豊彦、浜渦辰二訳、勁草書房、一九八九年、二 ,UniversityPress6319ne,pp.215f.(『自己知と自己llorC )S.Shoemaker,Self-KnowledgeandSelf-Identity,4

( )Davidson,ibid.p.12.(前掲訳書、三二頁)5

( )Davidson,ibid.pp.1538.(前掲訳書、三五―七一頁)6

( otversityoMinnesfaPss,1979.re icsstdwe:MiMeysphtadieStuol.sinPhilosophy,v4,Uni- diensiStuF,H.,rench,T.Ehling.UeK.(Wes.ed)intetts uaT.Burge,Individ)lismandtheMental,in:P.A.7

( reUniveryPsitss,1975. eaLanguageandRridlity,Cambndge,Mi,ersaplPcaii: )emnineaPuTham,tnfH.gog・,・meaninin:Philosophi-8

( )Davidson,ibid.pp.3952.(前掲訳書、七二―九四頁)9

( 10)Davidson,ibid.pp.51f.(前掲訳書、九一頁以下)

( 11)Strawson,ibid.,pp.38ff.

『純粋理性批判』横木恒夫、鈴熊谷直男、考』論限界 KaeRurritnt・sCfPsoeann,Londoueo1966.(『意味のiq 12)ouP.F.Strawson,TheBndnsofSense,AnEssayo 《注》

(12)

田栄一訳、勁草書房、一九八七年)(

345p.,p7519 viefDeduction,in:ReetawofMlephysics28,moobPr 13R.Bubner,Kant,Transc)dentalArgumentsandtheen

( 『超越論哲学と分析哲学』所収) (「超越論的論証の構造としての自己関係性」大橋容一郎訳、 ngW.Vossenkuhl,Bedguinend,erM8419.eithklicog hrdunerapch.SonE.vsge,zemeguArrletaenndnstrant elbstbhk;S一九九二年)書、eztruugliceitalsSktur イツ哲学と英米哲学の対決と対話』所収、産業図ド学 富田恭彦/望月俊孝訳、竹市明弘編『超越論哲学と分析哲 (「カント・超越論的論証・演繹の問題」.746

( 析哲学』所収) 『超越論哲学と分グマティズム」富田恭彦/望月俊孝訳、 chen,Dordrecet79.(「超越論的論証・自己関係・プラ19 lAranscendentantsgumeandSci-:TrintisgmaradPanm, 14scdeenRoan,TrrtyalR.nt)Argumes,Self-Referencent

( 二巻第四号、一九九四年、一〇一―一一三頁) 論」田山令史訳、二第カント』『現代思想3月臨時増刊 (「超越論的議68osophyLXV,19,p.p.241ofP256hillna 15B.Stroud,Transcende)ntrguments,in:TheJour-alA

( .0420korwY/Nelin ,anmKruWa().sgHreuthrdte?,WalteeGruyter,Ber- elhdarngumelendKnnuemaidHeH.:D.in?,nt.ErgsA 16T.Greigundmann,Wasist)entlicheintranszendta-en

勁草書房、高橋要訳、金子洋之、植木哲也、野本和幸、釈』 niv20yPrdUfoOxress,301,pp.18sit198.(『真理と解er 17)esiD.Davidson,InquirintoT,ruthandInterpretation ( 一九九一年、一九二―二一三頁)

( 18)Davidson,ibid.,pp.1736.(前掲訳書、二―二九頁)

( 19)Davidson,ibid.,p.27.(前掲訳書、一五頁以下)

( 15、二四四頁以下)(『主観的、間主観的、客観的』ff.4 20bjejecDavidson,Sup.,petivObcti,e)jecubrsnte,Ivetiv

( 九頁) 21sovidDa三一七―三三(前掲訳書、.0225n,20)pp.,idib.

( 22)Davidson,ibid.,pp.117ff.(前掲訳書、一八八頁以下)

( dgutleRoe,2003. ndtheideaofthetranscetaenyJ,lp.Maasedbdit,el sondyaphsoilophn:idntmeoDttanmKroF:inn,ioatav 23Cf.A.N.vidCarpenter,Da)son・stranscendenlargu-ta

( 0673.2,20,No,p290315.p. alnomenologicchResear,Vol.ndPheyasoiloPh:inism,ph 24geDas,f.ridBJ.soCvid)n・sTransceentalExternal-nd 25)Davidson,ibid.,p.91.(前掲訳書、一五四頁)

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関係委員会のお力で次第に盛り上がりを見せ ているが,その時だけのお祭りで終わらせて

現実感のもてる問題場面からスタートし,問題 場面を自らの考えや表現を用いて表し,教師の

わからない その他 がん検診を受けても見落としがあると思っているから がん検診そのものを知らないから

このように、このWの姿を捉えることを通して、「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しよう

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。

子どもたちは、全5回のプログラムで学習したこと を思い出しながら、 「昔の人は霧ヶ峰に何をしにきてい