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【研究ノート】 ソシオロジカル・ペーパーズ第 24 号

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言語の形式とコミュニケーション

――社会システム論的アプローチのための予備的考察――

原科 達也

1.はじめに

本稿の目的は、N. Luhmannの社会システム論的な知見、および彼の門下生であるイタリ アの社会学者、Elena Esposito の考察を通じて、言語とコミュニケーションの関係を議論し

ていく。Luhmannによれば、言語とは形式であり、またコミュニケーションとはシステムで

ある。そうである場合、形式たる言語とシステムたるコミュニケーションの関係はどのよう なものとして描き出すことができるのだろうか。

分析哲学をはじめとする哲学や論理学において一般に探究対象とされる命題や言明文、

あるいは発言などの言語によって構成されたものないし、言語の使用という伝統的な問題 と、一般に社会学において問題にされるコミュニケーションの問題は、どのような相違点あ るいは接合点を有するのであろうか。本稿では、このような哲学(あるいは論理学)と社会 学の間にある根深く、また伝統のある問題を考えるための予備的考察として、Espositoの議 論を一度精査し、その問題の一端の解明に努めるものである。

そこでこのことを議論するために、とりわけ本稿では、彼女がG. Spencer-Brownの『形式 の法則』において論じられた指し示しの算法に基づきながら論じる、指し示し/区別の区別 と自己言及/他者言及の区別の間の関係が直交的関係(Orthogonal Beziehung)であるという ことに注目をしてみたい。Espositoは、まず、指し示し/区別の作動を、作動によって、指示 されたもの/区別されたものから区別することから始める。果たしてこれは何を意味してい るのであろうか。

直交的であるということのそもそもの意味は、G. Sommnerhoffによれば(1969: 155)、「二 つの変数が、直交的であるのは、一方の値が、いずれの瞬間であっても、それと同じ瞬間に は他方の値を決定しない場合」であり、またMaturanaによれば(1992: 78)、「システムの諸 要素が、それらがシステムを構成するための次元とは異なる次元を通じて、参加している、

交差と関係を、直交的な交差、直交的な関係と呼ぶ」とされる。

言語の形式において、指し示し/区別と自己言及/他者言及の区別が直交的であるというこ とが含意していることは、言語形式は、システムの作動と指し示しのそれぞれ独立した同時 性を描いており、それぞれの作動を、それぞれの作動を通じて、同時に条件づけあっている のである。そして、結論を先取りして言えば、このことが含意しているのは、発言などの単 なる言語使用とコミュニケーションとの間の非連続性である。

この非連続性は決して特別なものではなく、日常的な理解に照らして考えてみれば、至極

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当然なものである。すなわち、すべての有意味で、状況適合的と思われる発言が必ずしもコ ミュニケーションとして次の発言に接続していくことができるわけではない、という単純 な事実に照らして考えてみれば、何も不思議なことではない。言語によって構成された発言 は、コミュニケートされる可能性を備えているが、しかしその可能性が十分な見込みを持っ て実現されるためには、その可能性は蓋然的なものになっていなければならない。

コミュニケーションは、言語によって構成される諸発言などを利用はしているが、しかし どの発言がコミュニケーションとして次の諸発言に接続しうるかということに関しては、

言語の問題(意味論、統語論、語用論1)の範疇を越え出た問題、すなわちコミュニケーシ ョンそのものの問題に属するものである、ということなのである。本稿で問題にしたいのは、

発言の構成と構成された発言がコミュニケーションとして接続していくということの間の 問題の一端を「直交的」という概念を手がかりに、その一端を明らかにするということなの である。

2.形式としての記号

システム論において、記号あるいは語とは、システムではなく、形式であり、形式とはす なわちシステムにおいて、システムが使用する構造である(Luhmann 1990=2007, 1993a)。 したがって、記号とは、システムそのものではなく、その都度のシステムの作動において、

システムの内部で2、何かを指し示すために、使用されるものである。

さらに、形式とは、ここではSpencer=Brownの意味での形式であるから、それは必ず、内 と外の区別を持っている。くわえて、システムの作動が、その都度何かを指示すためには、

この両方を同時に指示すことはできないから、その形式の一方だけがマークされることに なる。

もう少し具体的に見てみよう。我々が、「リンゴ」という語を使用するとき、それはリン ゴを指示すと同時に、リンゴ以外のものからの区別をも含意している。さもなければリンゴ という語は意味をなさない。だから、リンゴという語は、リンゴ/リンゴ以外という形式に おいて、リンゴの側がマークされた状態であると理解できる。リンゴという語が、あるコミ ュニケーションにおいて、何を意味しているのかは、それが何から区別されているのか(語 の区別のネットワーク)に応じて、規定される。つまり、語の使用は、その都度リンゴとい

1 ここで、語用論をコミュニケーションの問題ではなく、言語の問題に含めていることに対 して簡単に述べておく。一般的に、語用論はしばしばコミュニケーションの問題として理解 されることがある。たとえばJ. Habermas などのコミュニケーション的行為なども J.Austin

やJ.Searleらの発話行為論に基づいて、コミュニケーションの分析を行っているものとされ

ている。しかし、少なくともここで私が問題として取り上げていることは、Habermas らが 行っている発話文の構造の分析(普遍語用論)からはコミュニケーションの問題、すなわち 発話の接続の問題に実のありある形では到達することができないということである。

2 このことは、シニフィアン/シニフィエの区別において、シニフィエが、システム/環境の 差異の環境の側、したがって、外的世界にある対象ではない、ということをも含意している。

シニフィアン/シニフィエの区別は、Saussureが述べているように(Saussuer 1910=2007)、そ の一切が言語的なものであり、それゆえ、その一切がシステム内部の事象なのである。言語 にあるのはただ純粋な区別だけなのである。

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う語をほかの語から区別し、さらにその一方、リンゴの側だけをマークするようにして、作 動していく。

そして、その排除された側に言及するためには、その区別に言及しなければならず、その 区別に言及するためには、さらなる区別をもってこれに言及しなければならない。指し示し /区別の区別が、次の作動に移行するためには、自らの指し示し/区別に対して、時間を用い て、回帰的にその区別に指し示しを行っていく必要がある(Luhmann 1990、1993a; Glanville

and Varela 1981)3。したがって、リンゴという語が、何を指し示しているのか(果実なのか、

それとも「アップル社」のロゴなのかなど)は、前後のさらなる区別(すなわち時間的区別 によって)において、規定され、そして何から区別されたのかに応じて、次なる接続可能性 を制限していくことができるのである(ほかの果実からか、それとも「ウィンドウズ」から かなど)。

重要なことは、諸語が区別を持ち、そして、その都度その片方を指示できるということで ある。そして、一方がマークされた後、作動の時間的経過のなかで、マークされなかった側 は、次なる接続のための選択性あるいは冗長性を与え、これによって次なる指し示しに方向 を与えていくのである4

3.二つの区別

Espositoは、このような語の使用がもつ言及の作動を、指し示し(indication; Bezeichnung)

/区別(distinction; Unterscheidung)として定式化する5。しかしながら、ある語の使用を理解す

るうえで、この指し示し/区別だけを挙げるだけでは、十分ではない。Espositoはこれに加え、

さらなる区別の必要性を主張する。

ある対象を別のものから、あるいはある名前を別のものから区別することは、対象を 名前から区別することとは異なるのである。(Esposito 1993a: 92)

3 こうして、区別を引き、さらに一方を指示すことによって、次の時間単位において、他方 を示す可能性が開かれる。すなわち、リンゴの否定可能性が指し示しによって与えられる。

4 この論述は、相当なあいまいさを残しているが、時間の都合上割愛してある。問題は、次 なる作動にリンゴという語がどのように接続しうるのか、という問題をここではほぼ触れ ずに議論を進めてしまっている。

リンゴという語は、それ自身がすでに、剰余的な意味をもっており、その剰余的意味、す なわち、冗長性によって、その接続可能性を高め、次なる接続へと導いていくのである。つ まり、我々が使用する諸語や記号はすでに、歴史的にさまざまな諸観察が圧縮された産物で あり、リンゴという語がもつ冗長性は、過去の諸観察の上にすでに複雑に構築されてしまっ ているのである(Esposito 1993a: 112-115)。これは、Saussureにおいては、連辞的配列、連辞 的な関係と連合的配列(Saussure 1910=2007: 160-162)を想起してもらえればいいし、また 冗長性ということに関していえば、C. Shannon のエルゴード性に関する議論(Shannon 1949=2009: 84-102)を想起すればよいだろう。

5 もちろん、この定式化は、彼女のオリジナルのものではない。Spencer=Brown に始まり、

Luhmann を含むセカンドオーダーサイバネティクスの論者たちに広く使用されているもの

である。

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指し示し/区別の作動は、ある語をほかの語から区別することを可能にするが、しかし、

そもそも語、ないし記号それ自体を、対象から区別することがなければ、語の構成や文の構 成は不可能である。

彼女は、この言語(対象の観察)と対象を分けたままにしておく区別を、自己言及と他者 言及の区別(Selbstreferenz/Fremdreferenz)として、定式化する。言語は、言語とそれ以外(対 象)を区別できなければならない。

語の形式の持つ区別とともに、外的な対象は指示されるわけであるが、しかし、いかなる 形式もシステムの環境には存在できないものであるから、この言語以外として区別された 対象の側も、システム内の事態である。あらゆるシステムの言及あるいは観察にも言えるこ とであるが、それらは、システム/環境の差異に対して、システム内部で言及していくシス テム言及の問題なのである。

自らの差異を観察することを通じて、内と外とが区別されることにより、システムは、自 らの要素を自らのものとして、同定することができる。言い換えれば、この観察によって、

システムは、その自律性を獲得していくことになる。ソシュールの用語でいえば、この区別 によって、記号体系は十分に恣意的なものとなり、自らの記号体系を純粋な区別の体系とし て維持することができる6

自らの要素を同定し、自律的なものになるからこそ、指し示し/区別の区別が可能になる。

この区別によって、語の次なる接続先もまた、語であることが可能になるのである。このこ とを言い換えれば、自己言及/他者言及の区別は、指し示し/区別の区別それ自体を、他から 区別しているともいえる。このことは、形式の形式という問題に通じることである(Luhmann 1993b)。

あるいは、Luhmannのメディア論の観点からすれば、こういってもよいだろう。自己言及 と他者言及の区別は、指し示し/区別の形式が、文による指し示しであれば諸語(意味素)、

語による指し示しであれば諸音素、というメディアに刻印させることを可能にする、と。す なわち、形式/メディアの区別それ自体を、自己言及/他者言及の区別は可能にしていく。つ まり、自己言及/他者言及の区別は、指し示し/区別の形式を、どのメディアに刻み込むべき かを、規定していく区別である、ということもできる。

6 このことは、同時に言語が対象との類似性によって構成される、アナログなものではなく、

自らのコードを通じて構成される、デジタルなものである、ということができる。リンゴと いう言葉は食べることはできないのである。このように、言語による指し示しは、対象との 類似性を必要としない。類似性を必要としないデジタルな性質は、言語が、対象への連続的 な指し示しではなく、離散的な指し示しという性質を持つことを意味している。すなわち、

言語には、純粋に二項からなる区別のみが存在するということである。

言語構造のそのような環境からのノイズに依存しない性質は、システム内において記号 に自由な組み合わせの可能性と記号の反復的利用の可能性を与る(Esposito 1993a)。とりわ け、この性質は、言語の分解可能性(文章⇒文⇒語⇒音素)を与え、それによって、言語は システムが作動していく限り、その都度の環境に依存せず、自律的に指し示しを構成するこ とが可能になる。

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19 4.直交的関係

これまでに、指し示し/区別の区別が、自らを通じて区別し、指し示していくことによっ て、諸語の接続可能性を制限し、自己言及/他者言及の区別が、指し示し/区別それ自体を区 別し、それによって、その区別は自律性を担保することができる、と述べてきた。彼女は、

二つの区別、指し示し/区別と自己言及/他者言及のそれぞれの区別の間の関係を、「直交的関 係」として、定式化する。

冒頭のSommerhoffの定義において、直交的関係は、二つの変数が互いの作動を決定でき ない、すなわち互いの作動の独立性を意味しているのであり、Maturanaの定義では、システ ムの要素の構成には参加しているものの、システムのオートポイエーシスそのものには参 加していない関係のことを指し示しているのであった。

彼女の言う直交的関係が意味することは、それぞれが互いに独立した作動の形式を有し つつ、しかしその作動は互いの作動という条件のもとでのみ、それぞれは可能になり、また それらを通じて、言語による観察の作動も可能になるということである。つまり、二つの形 式が同時に作動しうる場合にのみ、言語による対象への指し示しは可能になるのである。

二つの形式が直交的であるというとき意味されていることは、第一に、この二つの形式は 独立した作動の形式である、ということであった。指し示し/区別の区別が区別しているこ とは、あくまで言語内的な区別をしているのであって、対象と言語の区別ではない。反対に、

自己言及/他者言及の区別が区別していることは、言語と言語以外の区別であって、個々の 語や音素の区別ではないのである。これらの区別は双方ともに言語の作動を構成している 形式ではあるけれども、しかし、それらは互いに独立した作動を組織しているのである。

さらに、この二つの作動の形式は、独立した作動の形式ではあるけれども、しかし、これ らは互いに条件づけあってもいる。自己言及/他者言及の区別が、その区別を再生産してい くことができるのは、指し示し/区別の作動が次なる接続を十分に達成していくことができ る限りにおいてのみである。その限りにおいて、言語は言語としての統一を維持できる。つ まり言語の使用が生成され、語に語が接続されうるかぎにおいて、自己言及/他者言及の区 別は存続可能なのである。反対に、指し示し/区別の区別は、語と対象が十分に区別され、

諸語の接続していくネットワークが十分に自律している限りにおいて、この指し示しを達 成していくことができる。

そして、この二つの作動の形式は、それらの作動の同時性を示している。それらは、独立 性と上で述べた意味での依存性を有しているのであり、これは一種のパラドクスである。し かし、これがパラドクスとして現れるのは、あくまで今ここでなされている言語形式の観察 においてである。言語の実際の作動においては、いちいちリンゴとそれ以外の区別を意識す ることもなければ、言語と言語以外の区別を意識することもない。それゆえ、実際の作動に おいてそれらは、互いを盲点として用いて作動していくがゆえに、パラドクスとして現時化 することはないのである。しかし、これをセカンドオーダーの観察の水準からみれば、独立 性と依存性の同時的なパラドクスとして記述されるのである。

したがって、この水準からみて、言語を用いて何かを示すことは、その語をほかの諸語か ら区別すると同時に...

、言語それ自体を、対象から区別することというそれぞれ独立した作動 の交差なのであり、それゆえそれは直交的なのである。直交的な交差は、ある種のパラドキ

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20 シカルな同時性として、理解することができる。

こうしたことが意味しているのは、言語の使用が常に、観察の形式となっていることに他 ならない。作動としての観察もまた、指し示しと区別を必要とするのであって、システムの 内において、指し示し/区別と自己言及/他者言及の区別を用いて行われる。そうすることに よって、観察はその指し示しを、自己の側にも、外側にも向けることができる。そして、自 己言及/他者言及がシステムの自律を可能にし、指し示し/区別が、システムの次なる観察の 作動の接続可能性を制限することを可能にする。このふたつは、システムの観察において、

相対的に独立しながら、常に同時に作動し、互いを条件づけていく7

ただし、あらゆる観察を言語の構造の内に還元することはできない。言語はシステムが観 察する際に用いる重要な構造になっているが、それは十分に自律したシステムによる観察 のための構造なのである8。自律したシステムということが含意しているのは、まさに、自 己と他者を区別することであって、自らの要素と外的な要素とを区別できる場合である。

システムの自律という問題は、ファーストオーダーの観察ではなく、セカンドオーダーの 観察の水準において現れる問題である。言語に自律性の形式が刻まれているということは、

言語はその形式のうちに自らを観察する形式を備えているのである。だから、自己言及/他 者言及の形式を持つ言語は、常にセカンドオーダーの観察を可能にする形式であり、それゆ えに、自己言及/他者言及の区別は、作動として観察していくシステムにとっての、自己/他 者なのである。

そこで一見すると、記号学者や分析哲学者がのべるように、言語の形式は、システムを構 成しているように見える。しかしセカンドオーダーの水準において観察してみれば、言語の 構造は、観察の形式が言語の構造内に再参入しているものであって、言語の構造それ自体は システムを構成しないのである。言語の構造は、常に観察していくシステムの存在を暗示し ているのである。

言語の形式が、常に作動していくシステムを暗示しているものである、というところに至 るとき、Luhmannが述べる、「言語を非システムとみなす」ということの含意もまた明らか になってくる。

言語の形式は、それ自体で作動を構成できず、常に作動として観察していく諸システムの 観察の形式なのである。だから、言語形式が恣意的であるとき、その恣意性は、一般的な恣 意性などではなく、何かにとって恣意的であるのだ。そして、その恣意性は、常に言語を用 いるシステム(観察者)にとっての恣意性でなければならないはずである。したがって、こ れまでに述べた自律性とは、言語形式の自律性ではなく、言語を用いて観察していくシステ ムの自律性なのである。

だから、彼は「言語と非言語の間に統一的な境界はなく…複数のシステムの境界があるだ けである」(Luhmann 1990=2007: 40=51)というのである。言語の形式は、自己言及/他者言

7 こうした、システムの分出とそこから相対的に独立した言及ついて、Luhmannは「並走す る 自己言 及 mitlaufende Selbstreferenz」とい う言葉 を与え ている (Luhmann 1984=1995:

604=814)。

8 作動水準における観察においては、自己と他者の区別というものは必要ない。純粋な作動 は、自己の要素と他者の要素とを区別することがないのである(Esposito 1996:273)。なお、

Espositoのこの考察は、Varela(1979: 212)に基づいている。

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言語の形式とコミュニケーション(原科)

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及が指し示している、その区別それ自体の作動(境界設定)を組織できないのである。この 作動それ自体を組織するのはあくまで観察として作動していくシステムであって、言語で はない。この二つの区別は、作動としての観察という最初の区別の内部においてのみ、可能 になる構造であって、作動としての観察が内的に分化し、構造化したものである。逆を言え ば、言語の形式が自らの内に、システム言及の形式を含んでいるということは、それが常に システムの作動を必然的に伴うということを、含意しているのである。

このことは、Luhmannのメディア論からあらためて論じてみれば、ある音素の列、あるい はあるインクの染みを、ただの音、ただの光の束として知覚するのではなくて、それらを言 葉や文字として、知覚できるよう、組織されていなければならない。「リンゴ」という文字 を、食べたり、それに見惚れたりするのではなく、何かの指示として使用できなければなら ない。そして、そうしたことが可能になるのは、常に作動していくシステムがあり、対象と 対象の観察が区別され、その区別が言語の形式に再参入した場合、それは語と対象の区別と して現れる。それができてこそ、インクの染みとリンゴという言葉の間の区別は可能なので ある。

5.結びにかえて

これまで、Esposito の言語を形式とみなすシステム論的な言語論について考察してきた。

とりわけ、言語の形式は、二つの形式からなり、またその形式は直交的関係であるという彼 女の議論を確認してきた。そして、言語の形式は、その自体の形式の内にすでに、システム の作動による観察を暗示していることが確認されてきた。すなわち、言語形式が使用される ためには、いつもシステムの作動が必要とされるような構造が、そこに刻まれているという ことが見て取れるのである。

こうした結果が含意していることは、言語は、あくまで諸システムとの相関において実在 しうるものであって、それ自体固有の実在性を何ら有していないし、したがって、諸語の意 味もあくまでシステムの作動に相関してのみ、意味の区別を構成できるものなのである。

こうした言語の構造は、一般的な言語論の観点からすれば、語用論と構文論の交差である ということもできる。すなわち、その都度の言語の使用においてこそ、言語というものは存 在しうるのであり、またその使用は、常にその言語がもつ指し示しの可能性(冗長性)によ って、その指し示しの接続可能性が制限されている限りにおいて、その使用は可能になると いうものである。その場合、意味論とは、この交差の産物であって、まさにその都度成功し てきた語の使用が構造化したものであるということができるのである。

参考・引用文献

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Heider, Fritz, [1926]2005, Ding und Medium, Berlin: Kulturverlag Kadmos.

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参照

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