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文久幕政改革に関する一考察 : 徳川慶喜を中心と して

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(1)

して

著者 欄木 寿男

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 17

ページ 111‑117

発行年 1965‑03‑21

URL http://doi.org/10.15002/00011791

(2)

文 久 幕 政 改 革

関 す

考 察 る

ー 徳 川 慶 喜を 中心として

l

、 は じ め に

明治維新以後成立した政府を指して、その権力形態を普通「絶

対主義天皇制」と解するのが通説化している。そうした動向と共

に、幕府が幕末期に断行した諸改革を指して「徳川絶対主義」と

いう

評価がなされ、さらに討幕派諸勢力の急速な形成に対抗する

ところの慶応期幕仏関係の深化を指して「買弁的絶対主義」とい

- 評価があり

、きわめて有力化しつつある。即ち、レオン

・ ロ

シュが構想し幕府が受け入れ、構築しようとしたこの統一権力を

「 徳

川絶対主義

」と

名づけるならば、それは石井孝博士の言われ

るように、「フランスからの援助によってのみその権力を確保し

うる、買弁的絶対主義である」(るとも

言え

よう

言うまでもなく、一八六七(慶応三)年二月六、七、八日にわ

たった、レオン・ロッシュと慶喜をはじめ板倉勝静、松平乗諜ら

との会見、そしてロッシュの改革案提示などをみれば、そこに幕

文久幕政改革に関する一考察(欄木)

f

f

木 寿 男

政の改革を「徳川絶対

主義

の構想と解しうるし、改革の某礎た

る財政的問題にふれるならば、幕府のたのむところフランスある

のみ

あったろう。さらに「内圧」として討幕派の勢力が台頭し

てくるに比例して、幕府は「買弁化」する可能性も存在したこと

を十分「論理」としては理解しうるところである。それならば「買

弁的絶対主義」という評価は十分説得的であろうか。以下文久則

に限って若干の考察を加えてみたい。

(1)石井孝「明治維新の国際的環境』五八六頁二、慶喜の将軍後見職就任

文久幕政改革に先立つ謀

、氷H安政期を幕府側からの改革派勢、

力形成から考えるならば、そこに一橋(のち徳

川 )

慶喜が政局

の最前面に進出する可能性を多分にはらんだ将軍継嗣問題を通し

てまず位置づける必要がある。その慶喜が隠居謹慎を解除せられ

再び中央政界に登場してくるのがこれから扱う文久期である。当

(3)

法政史学第一七号

時、安政大獄以後の尊王援夷運動の発展は、それまでの幕政改革

運動の性格をさらに進めて、幕府を否定するとこ

ろま

で強めてい

たため、幕府はこの情勢に対応する為には天皇の権威を無視する

ことが不可能な時点にあり、公武合体が推進せられ、それも島津

久光の登場する後半期をむかえていた。ここでは将軍後見職問題

を『徳川慶喜公伝』(以下『慶喜公伝』と略す)に従って述べて

’ - vJ、 。

島津久光は一八六二(文久一一)年四月入京即日、近衛大納言へ

進言、幕政改革の意見書を提出した。その中に慶喜を後見職にほ

平慶永を大老職に補せんとする意見がみえる。叩ち

関東にては有名無実なる田安大納言ハ慶親〉の後見を免じ、天

( 凌 碍 )

下の与望を失ひたる老中安藤対馬守を退職せしめ、更に一橋刑

部卿、尾張前中納言、松平春獄の慎を解き、刑部卿を後見

に 、

春日付を大老職に補し、且春獄及老中久世大和守の上洛を促し、

前件を奉行すべき由の厳命を授け給ふベし(2

と。しかしこの久光の建言は、直ちには幕府のとりあげるところ

とはならなかった。『慶喜公伝』によれば、慶喜に対する幕吏の「誤

解」があり、それによって慶喜を忌悌したという

。そ

の理

由に

付「公の父なる烈公が幕府の政策に反対して忌まれ給ひし事L

、 付

「八ムが夙に英明の聞えおはしまし主事

、 」

ω

「継

嗣問

の際

、公

自ら深く謙譲して之を避け給へども、志士運動の結果は、却て公

自ら紀州家の競争者たるが如き姿ありし事、」州「将軍家立ち給ふ

に及びて、幕府の有司が公に対して猪疑せる事」として特に同を

最重要視している(3

)。

さら

に慶

喜の

一評

判を

みる

と、

公に

して要路に立ち給はぱ、全権ば公の子に帰して、将軍家も

老中も其成に圧せらるべし、きすれば譜

代の

輩は必ず公を氏み

ん、譜代と外様と札機せば、天下紛乱の源とならん(4

) 。

と心配する者もある。久世

広周

は、

公は人望を有し給へども、そは平素の御様子を知らざるより起

りたる説に過ぎず、実は権謀、智術をのみ専にし給ふ御方なれ

ば、大政に参与せば、将軍家の御為然るべからず(3O

と一一足ったという。しかし、長井雅楽の誘詞事件を聞にはさ

んで

の久世広周は一八六二(文久

一 一

)年六月

二日

をもって老中を辞任

した。だが慶喜後見職就任運動に対する老中達の反対意見はあ

る。一八六二

(文

一一

〉年

六月十

三日

、松平慶氷及び老中達が大

原勅使と会見した時、老中達は、

将軍家既に長じ給ひて、目安大納言も後見を免ぜられたる紅な

るに、今又刑部卿を後見とせんは、事情の許さざる所、且春識

は政務参与の命を受けてより以来、実際に於て大老と川じ任務

に服しつれば、改めて大老と称するに及ばず〈6

)。

と後見、総裁職就任を拒否している。

この間にあって慶喜がいかなる行動をとったかは明らかでな

い。ただ松平慶永については、幕政に参与して以後政治の刷新に

力を

そぞ

ぎ、

一方

前述した如き慶喜常用反対気運の中にあって屡

麗老中に慶喜枝川を進

一 =

目し

てい

(7

1

そしてことの進展のない

中で、政務参与の辞意をもって抵抗している。

さて後見職就任の事情について、慶喜自身の語った後年の記録

があるが、その「昔夢会筆記」のみでは説得的でない。

「慶

(4)

…同一

によ

ってもその存情

を 、

突如

八六

(文

一 一

)年六月二十

九日になるや、勅使ιヘ原の半ば強制的な

hA

のう

ちに

反日

比職

就任

決定されたかの

よう

に述べて

いる

8

)。

かし

、-

}と

の経

緯に

慶喜白’身老中述

との

交渉があったに州連な

いだ

ろう

し 、

又、老中

間に

おける親度存派と反対派との形成もう然予測されるところで

あるが、今は予測の域を出ない。慶喜は一八六二(文久一一〉年七

月六日、将軍後見職に就任した。

(2)「徳川出書

公伝

二巻

二八ll

九 . R

(3)「徳川慶喜公伝』第二巻四

O l

四二只

(4

)『徳川股

喜公伝』第二巻目一一民

5)『徳川股喜

公伝

二巻

四 一

6

) 大

一服左

門督書

簡 (

「徳川皮喜公伝』第二

巻五

O l

冗 一

頁。

)猶

、同

様な

記事

は、

「逸

事史

補」

(尾

佐竹

猛『

明治

新 』

上巻二六二l二六

三頁

所引

〉参

照。

(7

『 徳 川 慶

公伝

第二巻五二l五

三頁

ハ8)『徳川慶喜公伝』第二巻五五頁三、幕閣と慶喜との矛盾

崩壊期徳川封建体制にあって、その期待と信望を次第に集めつ

つあった慶喜であれば、後見職就任という任務がいかに重大な意

味を国内政局に与えるかは十分察知していたとみなければならな

い(9

3

事実後見職就任後の文久改革は、戊辰戦争を中心とする

徳川政権と明治政権との罷史のつばぜり合いの時期に演じるその

力量の前提を形成せしめる役割をはたしたという点で、極めて重

要な内容と意義を有し、その改革案の基本的方向ないし構想は既

文久幕政改革に関する一考察

(欄

木)

にこの時にめばえ、それがX改革の決意を確固たらしめたと吉え

よ一つ

。ま

ず盛

山一

日は就任早々の炭必で、

慶長

リの

家ロ

幕府

ト門

司に

今はただ汝等の力を頼むばかりなれば、上下の隔でな

く 、

天下

の御為め御不為と心付きたる事あらば、何事に寄らず存分中山

77

づべ

し。また我等の

一一

一口

行に

つき

て立

しか

らぬ

事も

あら

、伏蔵

なく中間くべしヘ叩)。

と述べた。ところで慶喜の考える「改革案」が具体化するにはい

くつかの障害が

あっ

た。

一八

六二

(文

久一

一)年五月七日、松平慶永は政務参与という立

場か

ら、幕府に対して、私政を去り天下の公論に従い政治を刷新

することを勧告した(日)。この方向は二ヶ月後に、慶喜が後見職

に就任すると具体化し、同年八月七日、後見職以下連署の書面を

伝奏に送り、従来の失政を久世、安藤などの老中達に帰し、その

罪を謝し次いで諸大名へ

此度制度を改革するにつきでは、参勤の制をも緩うすべけれ

ば、執れも武備の充実を心掛くべしへ竺。

と幕府政治は慶喜の考え通り幕政改革へ一挙に進むかにみえた。

ところが、慶喜の狙一う改革はその第一歩で再び老中、若年寄達の

抵抗にあった。『慶喜公伝』は慶喜の立場から、老中、若年寄達は

姑息倫安で改革に誠意がなく、事毎に責任をのがれていると強く

幕閣の腐敗、弛緩ぶりを批判している白

) 。

事実、老中達は諸大

名が進物を幕閣に献ずることの廃止などについて反対し、三季の

進物のみは存置すべきであると主張しているのをみると、そこに

(5)

法政史学第一七号 は、慶喜などの政治改革への認識とまことに大きな隔たりがあ

る♀

)。

分な気迫をもってのぞんだ幕政の中央がこれでは流石

の慶存も憤慨して設営を拒んでいる。そして同年八月十六日、慶

喜は松平鹿永に注目すべき書簡を送った。即ち

廟議時勢の変を察

し 、

天下積年の弊を除かれ、世界第一等の強

固に遊ばされの趣意は、余に於ても深く感侃に堪へず、

精々

一粉

骨を期し居れるに、とかく人情浮薄にして、実地の著眼なく、

変革は唯京都、諸藩

の折

合の為なりと心得る者多く、公辺

の政

事は琴柱に謬するのみにて、改張すべきを知ら

ず。 今実 情を し察

するも、天下一度瓦解せば、徳川家の御事はきて置き、円五統さ

へ恐れ多き事に至らんか、其時に至りでは、千悔も及ぶべから

ず、然るに人々の所存此の如くにては、改革の断行思ひも寄ら

ず。きれば寧ろ改革を止め、諸藩不平蜂起の時を期して、興亡

を一 戦に 川伏 する

の勝れるに若かず。余無学短才を以て大任を許

す事、天朝、公辺に対

して

恐懐砂からざるが故に、追って相願

ふ儀もあるべけれど、先づ愚見の大意を申し入るるなり(日)O

鹿 士以 日

mA

M営拒否の直接的な対立点となった進献物廃止問題は、

老中側がおれ八月十七日進献物全廃が決定ぎれ、八月二十二日に

は一連の改革が発令された。慶喜の幕政改革はともかくもここで

軌道に来ったかにみえる。だが、この慶永宛の書簡にみえる酎脱出

の思想と論即日は、解決されたのであろうかへぢ。

(9

「 徳

慶喜 公伝

』第 一巻 一一 一

Oi--

二一 一一 良、 二一

九l二

O頁

( 日)

「猪飼正為筆記」(『徳川慶喜公伝』第二巻五六百所引)

一一

(日)『徳川慶喜公伝』第三巻八九頁

(ロ)『徳川慶喜公伝」第二巻九四l九五頁

(日)『徳川慶喜公伝』第二巻九五頁

(日 出 ゾ

幕府役人

の弛

緩ぶりは外国人の目にも映じたので

あ ろ ぅ 。

イギリス人通訳ア

!ネ

スト

・サ トウ

はそれを「日本は、

森の中に眠る美姫にも似ていた。国家泰平の夢を守る役目

の人々は、姫の安眠をさまたげる雌を一扇で追うよりも容易

な仕事をしていたのである。却の夢が、熱烈

で旺

盛な西洋

人の出現によって破られたとき、年老いて毒除した航くち

ゃな番人どもは、その職責にたえられなくなり、四国の情

勢の変化に即応するため、もっと適任の人々に自分の席を

設らなければならなくなった」(岩波文庫版『一外交官の

見た明治維新』

上 、

四五頁〉と見通している。同様なこと

をモ

lリス・クl

ラン

E C

Wσ

。コ

ωωHmw

H Ah ω

からE・H

・ ノ

lマンは引用している。

( 『

円本における近代国

家の成立」三八1

一 二

九百

(日)『徳川慶喜公伝』第二巻九六頁、猟、全文は上掲書第五

巻二八四|

二八

五一

(日)この時期の慶喜の分析は、文久から慶応への幕政改革の

推移を知る上に主要であり、その一つの手がかりは、

との

書簡以後肢菩の後見職貯れ中し出の分析にあると思う。今

はそれは要項的に列挙するにとどめる。

一八六二(丈久二〉年八月十六日、慶喜の度

、 氷

宛書簡

十月二十一日、老中への後見職昨

(6)

近内願書

十月二十二日、丘中への後見職辞

退の願書

十一月十五日、老中への辞退再願

常 日

一八六三(文久

一 二

) 年 五 月 十 四 日

、朝廷への後見職辞

職願

六 月

三日

、朝起への後見職辞

職願

六月十四日

、朝廷への後見職昨

職願四、文久改革の推進

皮帯と森閑主脳部との間に種々の矛店は存在し

つつ

、八月二

十二日、幕府が改革令を諸大名に発

した

とは

、単にその結架か

ら評価するのではなく快活一な検討が必要で

ある

さてその改革案は如何なる内容のものであったか。『慶喜公伝』

は、

同年中行事全除u I 参勤交代の改革

ω

献上物のの改路、、、

い 川

来切

啓一

城の

免許

、凶一服制の改半、と分類している0

C

事実

上 、

ここに文久改革は始まり

、又

、 官 一

hははが幕政に参画した第一歩であ

った

こ 。

守 れより先、

一 八

一ハ

文久

五)

三月、幕府は旗本らに文武

修業主倹約を命じ、時勢の切迫しているこの時期にこそこれまで

「囚

備の

」なうちゃぶる必要を強調、決意をうな

がし

(店) 、

「概老之者は被仰什間

敷候

」(

? と

従米の老年者にか与えて少壮有

文久幕政改革に関する一考察(欄

木 )

為の

者を

山政

し、以後次々に改革は断行され、翌六二(文久

二 )

年六月には「親衛常備軍編成之次第」(加)が老中に提出されるに

一 全

り、幕府の軍制改革は本格化したと

一 .一両

える

。(

幻〉

とこ

ろで

この

「親衛常備軍制成之次第」は、

御市制改正之義は巾上候迄も無之候得共、不評い仰一大事件にし

て、唯々軍律戦法のみに限らす、

十川

米の

御制

度愛

一新して諸

般之御仕法現に御大変革無之候ては難相立、実に中興之御大業

とは乍申、民一礎一定不仕候ては、柱梁成り難く、大綱を後にし

小日を議し伎は、

真に

道却

一叛

仕候義にて、始終之目的相立不

中、甚当惑仕候得共、偏に広州之事件に一日

一り、

月を送り候も

却て迂遠之議なきにあらず、何く捷径を歩して、差向候親衛之

御備向、速に議定可申上旨ポ領仕侠に付、共振合を以見込之義

左に中上

候 ( 幻 )

とい

う 。

ここ

には

軍制改革の方向は当然凶洋近代兵制に習うよ

り他ないとはいえ、「古来之御制度愛に一新

して

「御

変革無

J L 供ては難相立」いと、そのことの封建制下での実施の困難が述

べられている。そして

元来欧経巴各削之兵制に依り候得ば、王之親衛は格別小勢

のも

のに御政候、然るに本邦封建之御立制と中、殊に方今之形勢に

とりでは、諸侯何れも大衆と競供向も不少供故に什、外国之制

度にのみ拘泥仕がたく、衆寡両端之間を計り、政府相当の親衛

相備

度(

とみえる。確かに一回では封建制の矛盾をついて、それの克服な

くしては西洋近代に学ぶことさえ不可能であることを示唆

しつ

一一

(7)

法政史学

第一

七日

も、ここには「諸侠何れも大衆と競峡向も不少候」とあるごとく、

やはりそのぼには、桜田門外の変後の反幕勢力への対抗が主要課

題であり、この案が幕府防衛の為の突であることを明らかにして

いる

(出)従って

この

改川

山十 に

制約があることは確かだが、それに

してもこの時期を川川

に 吋け が

の方向に大きな引退が現われてきた

と一

一 一

行え

る。

川ち前述したり市明、収制改革に児常な力を入れはじ

めたこと、は八月二十二日令にみる内政、統治機構の改革、ここ

に「絶対主義化」

への

二大要件の萌芽と評価しうる改革が斎手さ

れた

。 へき そ

してこの際側めて南裂なのは、それを明確に怠議し

た指導者!他川底古守持ちえたということを考慮しなければな らな い。

(口)「徳川

一 法 草

口公

」第二在九九l一

O O耳 、

折、尼杭竹山

『明治維新』上在三O九民参照。

(日)「附徳院御実

紀」

(「

新汀増問問史大系』五一巻二八|二

九円間三l

同一

二点

(日)勝海舟

「山

日市

原山

九(

下)

」(『海舟全集』

第七 巻)

一二

八貞

(却

け海舟「段平

歴 川九 (

下)

(『

人 ト民 』

第七巻

)一 二九 ロ、

(幻)井と一一川「恥刊の兵制改ぷ・とその矛悶」

(『 日本 の川 市凶 主主

n

一川

収七

l

八六

.)及び

m

中彰『明治維新政治史研究』H

七二1八六日参山…

( 幻

)( お) 勝海 舟「 陸市 歴史

(下

「(「海舟全集』第七桂三二九一只

(担)藤原彰

『引

事山

』(

円本況代児大系」) 一

二円参照。狛、

あわせて小

文の 沌( お) 参照

(お)忠府軍制改革が先述

の如

く多分に幕府防出の為で

ある

一 一

したら、それを二大要件の一つとして絶対主義へのメルク

マールとするに批念を抱くかも知れない。しか

し 、

市平力

。如

、 矛 ・

セれを使用する汗

の考 えに

よっ

て 仙 台

にも必に使われ

るものに幕府防耐の・角川の傾向があったとして、公式的に、絶

対E

Aで な

ければ北位制維持

、 あ

るいはそうでなければ

、 ブ

ルジョア改平的などと、際山への事実一を一回化するのには問

題があろう。ここでも種々の要点を合ん

でい

ので

あって、

それを幕政改平の中に住民づければやはり絶対主義化への

倒きを認めなければならない。獄、小

西四 郎『 日本 人上 史

8』

六 日 只の注にみえる大久保利謙、遠山茂間両氏の説参照。

、 お わ り に

通常、慶長が前百にとりあげられるのは、慶応期に入ってから一

八六

六(

慶応

二 )

午ヒ

刀二

十九

の主である。石井孝博士は「将市家茂の没後、徳川宗家の主とな

った慶喜は

、ロ

ッシュの万飛に従っ

て 、

長州と休戦し、親仏政策

な強め、幕府の実力地養につとめることとなった(おこが

、 こ の

「「

川絶対主義』の構想をもって進められた底』吾の政治は、反対

派をして「家康の再米」を疑わせるねのはなばなしさをもってい

たが

、それは全両的にフランスからの援助に頼るという恨の戊い

ものであ

った

(竺とレぅ。つまりつ目弁的絶対主義」へお)という

評価が下

され る。

フランス公使レオン・ロッシーの「精力的、有能で契約を暗重

し、日本同氏を進歩の途へ進ませようとする決意をもち、白咋心

や狂信が全くない

」 (

泊)という鹿出への「讃美」は別にせよ、

山 石

人行

けパ

(初)、坂本屯応(号、木パ孝允(犯)等皆それぞれに三橋の

(8)

胆略決して不可似」(お)と言わしめた如く、慶応期には、反幕、

討幕の指導おをして慶一一品目の政治力を認めさせるだけの強大な改革

はともかくも進行していた。山ち、店応刷の川本々しい改革がフラ

ンスの援助によって巡脱していったとはいえ、幕府側改革勢力か

らの一貫した悦向が必要であり、まさに躍応期の改革は前述して

きた如き文久則の改革との迎続聞において抑制されなくてはなら

ぬし、繰り返しになるがこの意味からも慶斉を分析の対象とする

ことが重要視される。それは例えば、一

八六

一一一(

文久

一 一 一

)年

十一

月京都において松平鹿永が鹿古に、現在の諸改革「方針は創業の

御法相限なりや中興の御事阪なりや」と質問した時、慶存は「中興

にもあらず改革にもあらず、創業の方針を以って事に汽る所存な

りしと附合えている〈号。度十件は後年、故藤井県一太郎教授との談話

の除「中興と一五ひ改革といふのは川制度の存在をけけ定してのこと

であって、その旧制度を削り加へて改革しまた十日き制度を辿って

中興の政治を布くのであるが、今創業の方針と一五ったのは、それ

等旧

制度

を川

眠中

に山

口か

ずし

、文久三午十寸川に適応する制度を

天よ

り一

大降

った

如く

に布

くの

であ

る。

〈お)と説明していることに

よっても知られる。

さて幕末期本政改革はどう許仰きれてきたろうか。故政井比太

郎教授の「大いに回日を一新して:::大倒幕の運引を防がんもの

と試みた

」 (

ちという大医則の研究持何から、戦後の故服部之総

教授にみられる

、明治絶

対主義に対する徳

川絶対主義との許制

へ(ぎ、そして遠山、井上阿説ののちに、行井孝内士の「目弁的

絶対主義」説の主張へ、そしてこれらを合めて今日数々の見解の

文久幕政改革に関する一考察(欄木) 混在があるD

この小文は慶応期改革分析の前提作業主して、文久期をーとりあ

げ一試論を述べた。その紡梨、結論(課題)としては、付文久幕

政改革の重抗(連続性)、付慶喜を通しての幕政改革の再検討、こ

の一一つがあげられる。又慶応期、フランスの援助による改革を「徳

川町弁絶対主義」という持制については

、第

一節でふれた慶喜の

後見職就任辞退、そして就任、ひきつづき文久改革の実施という

幕府側改革勢力形成耐からの文久則の純情な分析と従ってそこか

らの述続としての、つまり慶応期のフランスの援助を、幕政の維

持と改革を指向する幕開主脳、改革派勢力の政策、あるいは矛盾

としてそれを理解し分析しなければ符易に買弁性の一五々を許す結

果になると考える。その点も今後の課題としていきたい。

(お)石井本『学説批判明治維新論』一一七

一一

(幻)石井孝『学説批判明治紘新論」二七一二!i

二七

一日

(お)石井孝『明治維新の国際的時境』五八六日

m

U)石井手『明治維新の国際的環境』

五七

rn

(初〉『岩倉公実記』中巻三五官、参照

( 訂)

『以本竜時関係文書』第一、二凶七頁参照

( 泣)

(お)土庁久一正『回天実記』下巻一八四l

一八

五一

(M)中根雪江『税同…ψ

ぃ記

事』

二、

一 一

O二l一一一O

一 二

百 戸

(お)藤井英一太郎「大政ボ還に関する考察」(文明協会編『明治

戊長』所収四八一日)

(お)藤井甚太郎『明治制新山火講話』

一八

九区

(釘)服部之総『明治維新の話』七一l七二百

一一

参照

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