立教大学教職課程 2014 年 12 月
道徳の授業における心情追求の一考察
-国語の心情読みとの比較を通して-
高橋 喜代治
1 はじめに
現行の小・中学校学習指導要領・道徳は、道 徳教育の目標を「学校の教育活動全体を通じて、
道徳的な心情、判断力、実践意欲と態度などの 道徳性を養うこととする」としている。この「道 徳的な心情、判断力、実践意欲と態度」で構成 される道徳性を、各教科などの指導と「密接な 関連を図りながら」育成する時間が要としての
「道徳の時間」とされている。
道徳性の筆頭に示されている道徳的な心情の 育成は、道徳の授業の中心的な目標ということ になる。したがって、物語などの読み物資料を 使った心情的な共感を追求した道徳の授業方法 が、これまで学校現場の主流を占めてきたのも 当然なことといえる。
この道徳の授業における人物の心情や気持ち の追求という学習方法について、おおきく二つ の問題が指摘できる。一つは、予定調和的な授 業になってしまい、児童・生徒が教師の誘導に 合わせるようになりやすいということである。
道徳的価値の獲得の問題である。もう一つは国 語の文学作品の読みの学習と混同されやすいと いうことである。教科指導との違い、関係の問 題である。
道徳教育法を受講している学生たちに、小学 校や中学校での道徳の授業について振り返えさ せることがある。すると次のような上記の二つ に関連する感想が報告されることが多い。
・国語が得意だったので、物語を使った道徳の 授業はとても楽しかった。
・先生が期待している内容が分かっているの で、その期待に応えて意見を述べていた。
・先生に気持ちばかり質問されるので国語の授 業のようだった。
生徒や学生たちばかりではない。私がかつて 参加した埼玉県のある中学校の道徳の授業の研 究発表会で、参加者の教師の一人が指導者の県 の指導主事に、「国語と道徳のどこが違うので すか」と質問していたことがあった。
本稿では、この二つの問題のうち、国語の授 業との違い、関係について考察する。国語の心 情読みと道徳の心情追求はどこがどう違うの か。また、なぜ、この2つは混同されるのかに ついて、具体的な授業のあり方を比較しながら 考える。その違いを明確に意識化することは道 徳の授業者にとって、とりわけほぼ全教師が国 語も道徳も教えている小学校の場合、少なから ず意義あることであると考えられる。
2 学習指導要領における国語の道徳的位置
道徳と国語の授業の混同について考察するの
には、日本の国語教育の始めにまで遡らなけれ
ばならない。1900年(明治33年)には次
のような国語科に関する記述が小学校令施行規
則には見られるのである。
「国語科ハ普通ノ言語、日常須知ノ文字及文章 ヲ知ラシメ正確ニ思想ヲ表彰スルノ能ヲ養ヒ兼 ネテ知徳ヲ啓発スルヲ以テ要旨トス」
更に1941年(昭和16年)の国民学校令 施行規則では、
「国民科国語ハ日常ノ国語を習得セシメ其ノ理 会力ト発表力トヲ養ヒ国民的思考感動ヲ通ジテ 国民精神ヲ涵養スルモノトス」
とある。
「知徳ノ啓発」も、「国民的精神ヲ涵養スル」
も道徳教育に他ならない。このことは国語教育 の教科的な観点からすると「言語の教育として の国語」の軽視につながっているという指摘が ある(阿部 2014 7−8)。
実はこの国語教育の道徳的な傾向は時代的要 請の違いによる程度の差、文言の違いこそあれ、
現行の学習指導要領・国語まで連綿と引き継が れている。現行の2008年(平成20年)改 定の小・中学校習指導要領・国語ではその教科 としての目標が次のように定められている。
国語を適切に表現し正確に理解する能力を育 成し、伝え合う力を高めるとともに、思考力や 想像力を養い言語感覚を豊かにし、国語に対す る認識を深め国語を尊重する態度を育てる。
(下線は高橋による)
「国語を適切に表現」し、「正確に理解する能 力を育成」することも、「思考力や想像力を養
い言語感覚を豊かに」することも、つまるとこ ろ文末部分の「国語を尊重する態度を育てる」
に収れんするのである。小・中学校学習指導要 領・国語が明確に定め、国語の授業で求めてい るのは紛れもなく「国語を尊重する態度を育て る」ということである。
だが、正確には戦後すぐに一度だけ学習指導 要領・国語から、この「態度」が消えたことが ある。それは試案とされた1947年(昭和 22年)と1951年(昭和26年)の小・中 学校学習指導要領・国語編である。ここでは次 に示すように「態度」の文言はないか、あるい は対象が明確に異なっている。
・1947年版
国語学習指導の目標は、児童・生徒に対し て、聞くこと、話すこと、読むこと、つづる ことによって、あらゆる環境におけることば の使い方に熟達させるような経験を与えるこ とである。(目標の前文)
・1951年版
自分の考えをまとめたり、他人に訴えた りするために、はっきりと、正しく、分か りやすく、独創的に書こうとする習慣と態 度を養い、技能をみがく。(目標の4つ目の 項目)
戦後の一時期のこの二つの指導要領には言語 の教育としての方向性がみてとれるのである。
だが、1958年(昭和33年)の小・中学
校学習指導要領からは、「国語に対する関心や
自覚を持つようにする」や「国語を尊重する態
度を育てる」などの態度を求める道徳的傾向が
復活し、現行の小・中学校習指導要領・国語に 至っている。
この戦後の国語の目標の変遷は、国語の指導 方法的な側面から見れば経験主義と能力主義、
生活単元学習と教科の近代化という図式で理解 することもできる(中村 2011 21−
25)。だが、政治的な時代の要請を背景とし た目標からは、言語としての教育と道徳的な態 度主義という図式を見て取ることができる。
この「国語を尊重する態度を養う」は学習指 導要領解説・道徳編ではどう説明されているの だろうか。中学校版では次のように解説されて いる。小学校版でもほとんど同じである。
国語科においては、目標を「国語を適切に表 現し正確に理解する能力を育成し、伝え合う力 を高めるとともに、思考力や想像力を養い言語 感覚を豊かにし、国語に対する認識を深め国語 を尊重する態度を育てる。」と示している。国 語による表現力と理解力とを育成するととも に、人間と人間との関係の中で、互いの立場や 考えを尊重しながら言葉で伝え合う力を高める ことは、学校の教育活動全体で道徳教育を進め ていくうえで、基盤となるものである。また、
思考力や想像力を養い言語感覚を豊かにするこ とは、道徳的心情や道徳的判断力を養う基本に なる。更に、国語を尊重する態度を育てること は、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんで きた我が国と郷土を愛することなどにつながる のである。(下線は高橋による)
この解説からは、2つのことが読み取れる。
1つは国語で示す目標は、道徳的心情や道徳的
判断力を養う基本になるという言語の教育とし ての国語教育の認識である。もう1つは、国語 を尊重するということが、国や郷土を愛するこ とつながるという道徳的主義的認識である。つ まり、道徳教育の立場から国語の目標を道徳的 であることを認め、期待しているのである。
ところが、おもしろいことに学習指導要領解 説・国語編では次のようにすこし事情が違って いる。
「国語に対する認識を深め国語を尊重する態 度を育てる」ことを求めているのは、我が国の 歴史の中ではぐくまれてきた国語が、人間とし ての知的な活動や文化的な活動の中枢をなし一 人一人の自己形成、社会生活の向上、文化の創 造と形象などに欠かせないものであるからであ る。国語に対する自覚と関心を高め、その特質 や機能についての認識を深めさせることによっ て、国語の習得を一層確実にすることができる。
また、表現力や理解力を高めていくことによっ て、国語の重要性に対する認識を深めつつ、国 語による話すこと・聞くこと、書くこと及び読 むことの活動や言語生活を更に充実したものに していくことができる。このような特質と役割 を担っている国語に対する認識を深めていくこ とによって、国語を愛し、尊重して、国語その ものを一層優れたものに向上させていこうとす る意識や態度をも育っていく。(下線は高橋に よる)
国語教育の目標に対する道徳と国語の解説の
該当箇所(下線部分)を比べれば、そこに違い
があることが分かる。道徳の解説は指導要領で
述べられている国語の道徳的なねらいをはっき りと認めているが、国語の解説は曖昧にしてい ると言える。だが、国語の教育目標が示してい るのは、これまでのべてきたように、また歴史 的な国語教育の目標の変遷が示しているよう に、道徳的な内容がそこに含まれていることは 明白である。
3 説明的文章教材の道徳的内容
人間が言葉で認識し言葉で感じる以上、言語 が人格の形成に深くかかわっていることは当然 のことであり、改めて論ずるまでもない。だか ら、言葉の力を磨く学習としての国語があるの である。子どもは授業や読書で言葉の芸術であ る文学作品を読み、学習し、その作品の人物の 生き方や考え方に共感したり反発したりしなが ら、内在する人間観を認識することで自然にも のの見方、感じ方、生き方を身につける。だか ら人間存在の洞察に基づいた深い文学教育は子 どもの人間観を鍛え、おのずと優れた道徳教育 になり得る(盛岡 2009 69)。それは まさに言語としての国語教育がもたらす知であ り徳である。
だが、前節で述べてきたような学習指導要領・
国語に長い間位置づけられてきた「国語を尊重 する態度」という目的は、国語の授業で道徳を 指導することを求めている。そして、それは物 語・小説などの文学作品教材よりも説明的文章 教材に端的に見ることができる。
次に掲げた文章は首都圏で多く採用されてい る「生き物はつながりの中に」 (『国語六 創造』
光村図書、2011)の第7段落である。説明 的文章の三部構造上の結論(まとめ)となる部
分である。
あなたは、今日もあなたであり、明日もあな たであり続ける、たった一つのかけがえのない 存在です。と同時に、あなたは過去のすべてと つながり、未来へもつながっていく存在なので す。また、地球上の他の生き物ともつながって います。そう考えると、今、あなたが生き物と して生きていることが、とてもすてきに思えて きませんか。そして、自分自身のことが大切で あるように、他も大切であるという気持ちにな りませんか。(下線は高橋による)
タイトルでもわかるように、この説明文は生 き物の特徴をロボットのイヌと本物のイヌと比 べながら、命の「つながり」で解き明かしたも のである。だから第6段落で「生き物は、外の 世界とつながり、一つの個体としてつながり、
長い時間の中で過去の生き物とつながるという ように、さまざまなつながりの中で生きている ことがわかりました」と、本論で展開してきた 説明をまとめているのである。
それなのになぜ第7段落を必要としているの か。ここでの「あなたは」と呼びかけられてい る読み手は教室の中の小学6年生である。その 子どもたちに対して、筆者は「そう考えると、今、
あなたが生き物として生きていることが、とて もすてきに思えてきませんか」とか、「自分自 身のことが大切であるように、他も大切である という気持ちになりませんか」と、子どもたち に道徳的な思いや気持ちの同意を求めているの である。
そのために、すでに第6段落でまとめを述べ
ているにもかかわらず、更に第7段落を設定し、
道徳的な価値観の同意を求めていると考えられ る。生き物がつながっていることがすてきかど うか、大切かどうかはすぐれて個人(ここでは 教室でこの教材文を学んでいる小学6年生の子 どもたち)の価値観にかかわることである。だ から、この第7段落があることで、この「生き 物はつながりの中で」という教材は説明文の重 要な教科内容である論理と事柄の学習ととも に、価値観を学ぶ道徳的な教材になっているの である。教科書の筆者の価値観の主張、更には それをそのまま教えてくれる教師に異論を唱え る子どもはまずいない。
もう一つ例を示す。論説文「生き物は円柱形」
(光村図書 2011)の結論にあたる第11 段落である。
生き物は実に多様である。長い進化の時間を かけて、それぞれが独自の多様な生き方をする ようになり、多様な大きさや形をかくとくして きた。そのことを思うと、あらゆる生き物に対 して、おそれ、うやまう気持ちすらいだかずに はいられない。そういう多様な生き物に囲まれ ているからこそ、わたしたちは、にぎやかで豊 かなのだ。「ああ、こんな生き方をしている生 き物もいるのだ。」と、その多様さを知ること はとてもおもしろい。それと同時に、多様なも のの中から共通性を見出し、なぜ同じなのかを 考えることも実におもしろい。(下線は高橋に よる)
「生き物は円柱形」は、生き物の体はなぜ円 柱形なのかについて、ミミズの体やチョウの羽
などを例に筆者の仮説を興味深く展開した論説 文である。その結論は第10段落に「円柱形は 強い、円柱形は速い。だからこそ、生き物の体 の基本となっていると言っていいだろう。」と 端的にまとめられている。だが、第11段落は、
筆者の道徳的価値観が述べられている。特に下 線を引いた部分は道徳の小学5、6年の内容項 目の「美しいものに感動する心や人間の力を超 えたものに対する畏敬の念をもつ」と相通じる。
「生き物は円柱形」は、あくまで生き物の体 はなぜ円柱形なのかについて仮説を設定し推論 を展開した論説文なのである。言語教育の立場 からの第一義の教科としての指導内容は推論の 読解、述べ方の学習である。
この二つの教材で述べられている道徳的な価 値観そのものを否定しているのではない。たぶ ん多くの読み手が納得する。だが、子どもに対 して、国語の授業なのに道徳を教えていること を指摘したいのである。また、このような説明 的文章における道徳的な内容を含む国語教材 は、教科書会社の別に限らない。他の教科書会 社の国語教材にも見られることである。
4 国語と道徳の授業における心情、気持ちの 読み取り
文学作品における心情、気持ちの読み取りは 国語の授業の重要な内容・方法である。
現行の小学校学習指導要領・国語の「読むこ と」の「文学的な文章の解釈」にはこのことに 関連して次のように述べられている。
・場面の移り変わりに注意しながら、登場人物 の性格や気持ちの変化、情景などについて、
叙述を基に想像して読むこと。(小3,4)
・登場人物の相互関係や心情、場面についての 描写をとらえ、優れた叙述について自分の考 えをまとめること。(小5,6)(下線は高 橋による)
事件の発展で成り立つ物語・小説は、事件を 構成する主要な要素である登場人物の心情、気 持ちの変化の読み取りが言語の学習として不可 欠である。だが、それは「叙述を基に」想像し て読むのである。登場人物の心情は、「描写を とらえ」るのである。叙述や描写表現を無視し て勝手に想像して読めばよいのではない。国語 と道徳の心情、気持ちの学習の決定的な違いは ここにあるといえる。そのことを具体的な教材 と指導案を検討しながら次に述べていく。
1)道徳の授業「ないた赤おに」
「ないた赤おに」(『3年生のどうとく』文 渓堂)は、童話作家の浜田広介(1893−
1973)の代表作の1つである。
『3年生のどうとく―教師用指導書』(文渓堂 128)によれば、道徳の内容項目は「友情」
―「友達と互いに理解し、信頼し、助け合う」で、
ねらいも同じ文言で設定されている。
指導案の展開例では、次のように気持ちを問 う発問が4回ある。
(1)村で大暴れするという青鬼の提案を聞い たとき、赤鬼はどんな気持ちだったか。
(2)「だめだい。しっかりぶつんだよ。」と言 った時の青鬼の気持ちは、どんなだったか。
(3)青鬼は、どんな気持ちから、置き手紙を して旅に出たのか。
(4)青鬼の手紙を読んで涙を流す赤鬼は、ど
んな気持ちだったか。
ここでは、比較的分かりやすく、また後に述 べる国語の授業との比較の都合で、(1)の問 いの「気持ち」について検討する。青おにの提 案という場面は次のようなものである。
「そんなことかい。ねえ、きみ、こうすりゃあ かんたんさ。ぼくが、これから、ふもとの村に おりていく。そこで、うんとこあばれよう。」
「じょ、じょうだんを言うな。」
と、赤おには、少しあわてて言いました。
「まあ、聞けよ。うんとこあばれているさいち ゅうに、ひょっこりきみがやってくる。ぼくを おさえて、ぼくの頭をぽかぽかなぐる。そうす れば、人間たちは、はじめてきみをほめたてる。
「ふうん、うまいやり方だ。しかし、それでは、
きみに対してすまないよ。」
赤おには、考えこんでしまいました。
青おには、立とうとしない赤おにの手を引っぱ ってせきたてました。(下線は高橋による)
一人で、ある山の中に住んでいる赤おには、
いつも人間たちと仲良く暮らしたいと思ってい た。そこである日、自分の家の戸口に立ふだを 出して村人を招き入れようとするが、通りかか った村のきこりたちはこわがって逃げてしま う。そこへひょっこり仲間の青おにがやってき た。赤おにから事情を聞いた青おにが言ったの が先の自己犠牲的な提案である。
この場面での赤おにの気持ちは読み手には非
常にわかりにくい。なぜなら、気持ちがすぐに
分かるようには書かれていないからである。た
だし人物の形象を読むことで、ある程度類推す ることはできる。それは下線部の赤おにの会話 文とその情況描写の部分の言葉の形象を読むこ とで可能となる。
「じょ、じょうだんを言うな。」という赤おに の言い方からは、青おにの提案に動揺している 気持ちが読み取れる。人は動揺するとどもるこ とがよくある。しかも「少しあわてて」言った のだから、半信半疑の状態だっということにな る。あるいは、どうしていいか自分の気持ちが わからないとも読める。「ふうん、うまいやり 方だ。しかし、それでは、きみに対してすまな いよ。」からは、青おにの提案をアイデア―と しては認めつつも、青おにを犠牲にして成り立 つことを認識していることが分かる。自分の願 いの成就のために、なかまの青おにを犠牲にす ることを躊躇しているのである。そう言って、
赤おには「考えこんで」しまう。そして「立 とうとしない」ので、青おには「手を引っぱ ってせきたて」たのである。赤おにには、こ の青おにの提案は最後まで受け入れ難かった のである。だが、赤おには明確に提案を拒否 もしていない。ずるずると青おにの言うこと に従っている。
表現されている言葉からは大まかだが以上の ように読み取れるのではないか。
指導案では子どもの反応の予想として「本当 に成功するだろうか。」と、「もし失敗したら、
もう二度と人間と仲よくなれない。」の二つが 例示されている。さらに、指導上の留意点とし て「人間と仲よくなりたいと思っていた赤鬼に とっては、絶好の提案だったが、青鬼の深い思 いやりに気付いていない赤鬼に共感させる」と
ある。
だが、前述したように、書かれ方からは、そ うは読み取れない。
「村で大暴れするという青鬼の提案を聞いた とき、赤鬼はどんな気持ちだったか」などと、
教師が設定した道徳的価値への共感を求めて発 言させた場合、書かれ方に注目させなければ、
言い換えれば言語の教育としなければ、子ども たちは思い思いのことを自由に発言するに違い ない。表現を学習対象にしなければ、何を言っ ても間違いないのだから、例示された他にも「そ んなことをして青おにくんはどうなるんだろ う。」とか、「ほかの方法はないのだろうか」と かいくらでも出るはずだ。
だが、それはあくまで道徳の授業でのみ許さ れる。国語の授業であるなら、それは言語の学 習にならいから、国語の授業ではではないとい うことになる。
2)国語の授業「ないた赤おに」
では、同じ場面で、実際の小学校の国語では どう指導されているのだろうか。ある小学校の 2年生の国語科指導案
(1)を例に検討してみる。
全15時間の学習指導計画によると、この場面
(指導案では、四の場面としている)の学習活 動及び支援は次のように計画されている。
〈学習活動〉
○四の場面から、作戦を実行するまでの様子か ら赤おにと青おにの気持ちを読み取る。
・赤おにと青おにの関係を読み取る
〈支援〉
○青おにの提案を聞き、実行を決めた赤おにの 気持ちを考える。
○悲しむ赤おにを見て、作戦を提案した青おに の気持ちを考えさせる。(下線は高橋による)
展開案ではないので、詳しいことはわからな いが、この国語の授業で指導者が何を学ばせた いのかの見当はつく。〈学習活動〉で述べてい るように、赤おにと青おにの気持ちを読む学習 が構想されているのである。この点においては 道徳の授業と変わらない。この授業が国語にな るためには、その気持ちの読み取りが言語の学 習になっているかどうかによる。
〈支援〉から、教師がこの場面を子どもたち にどう読ませたいかが垣間見える。「実行を決 めた赤おに」の気持ちとある。だが、この場面 で赤おにが提案の実行を決めたことは、どこを どう読んでも、読み取るのは困難である。した がって、その気持ちは子どもたちには読み取れ ない。
提案を「うまいやり方」だと思いながら、 「考 え込んでしまう」赤おに、「立とうとしない」
赤おに、青おにに「手を引っぱってせき立て」
られる赤おにの描写や台詞から読み取れるの は、悩み、ためらう赤おにの姿である。かとい って提案をきっぱり拒否できない赤おにの姿で ある。つまり、提案の実行を決めきれない赤お にである。したがって、実行を決めた赤おにの 気持ちは読み取れない。もし読み取ったとした ら、それは国語の授業とは言えないし、言語の 学習になっていない
国語の授業としてここで子どもたちに獲得さ
せる国語の力(教科内容)は、これらの赤おに の様子に着目させる力であり、その書かれ方(言 葉)から読み取れる心情や気持ちである。また、
その言葉による効果である。例えば、「考えこ んでしまう」から読める豊かな形象である。具 体的には「考えてしまう」や「考えこみました」
と「考えこんでしまう」はどう違うのかという ことである。
また、 「せき立てる」が持つ言語の形象である。
動作化などを仕組んだらきっとおもしろい授業 になり、言葉の定着がはかられ、豊かな言葉の 使い手が育つのではなだろうか。
「悲しむ赤おにを見て、作戦を提案した青お にの気持ちを考える。」も、ほぼ同じことが言 える。まず、この場面で「悲しむ赤おに」を読 み取るのは困難である。これまで検討してきた ように、赤おにが悲しんでいる描写はどこにも 見当たらない。したがって、それを見た「青お にの気持ち」は読み取れない。
国語はあくまで言語の学習のために気持ちや 心情を読み取る学習である。その結果子どもた ちが主人公の気持ちや生き方などに共感するこ とはある。もちろんその逆もあり得る。だが、
教師があらかじめ設定する道徳的心情、気持ち への共感の追求を第一義とする道徳の授業で は、その点はほとんど問題とされない。なぜな ら、言語の学習ではないからだ。
6 おわりに
学習指導要領や指導案の検討を通して、道徳
と国語の授業における心情、気持ちの読み取り
の違いを検討してきた。道徳が教師が設定した
道徳的価値に基づき、登場人物の心情、気持ち
そのものへの共感を求めているのに対して、心 情、気持ちを読み取ることで国語は言語の力の 獲得を目指している。当然のことながら、それ が、学習指導の方法の違いにも及んでいる。し かし、国語の授業ではそのことが曖昧になって いることが指摘できる。つまり、道徳と国語の 心情、気持ち読みの混同は、国語の授業のあり 方に主たる原因があると考えられる。
一方、道徳の心情、気持ちの読み取りは、学 習指導要領・道徳の内容項目に基づいて教師が 持ち込んだ道徳的価値への共感を追求する。し たがって、資料となる物語・小説などの書かれ 方は学習の対象になりにくい。「ないた赤おに」
で設定されていた「友情」も教師が外部から持 ち込んだ道徳的価値である。それは、確かに、
書かれ方に頓着しないで心情や気持ちを読み取 らせる場合の国語の授業に似ている。
また、このように国語の心情読みの学習が道 徳的傾向を帯びている背景には、戦前、戦後を 通じて指導要領などに見られるように、国語の 目標に「態度」などの道徳的要素が掲げられ、
授業に求められていることがある。それは本来 自然科学や社会科学に関する説明や論説である はずの説明的文章などの教材にも指摘できるの である。
《参考文献》《引用文献》
・阿部昇「いまこそ授業で身につける国語の 力の再構築が求められている―権利保障とし ての国語の授業の創造」 『国語の授業改革 14』、学文社、2014年
・中村哲也「戦後日本における国語教育の変 遷と国語教育の動向」 『新しい国語科指導 法』、学文社、2011年
・盛岡修一「第2章 道徳性の発達」『道徳の 指導−改定版』学文社 2009年
《註》
(1)「ないた赤おに」国語の指導案・桜台小で検索す ることができる。