田原嗣郎著﹃赤穂四十六士論一幕藩制の精神構造一﹄
木
ある所から頼まれた書評のために読んだ︑ ﹃日本史研究入門﹄ ︵佐々木潤之助・石井進共編︶の中に田原嗣郎氏
︵北大教授︶の﹁思想史というもの﹂と題する一篇があった︒その要旨は︑思想史の対象を特定の人物や特定の事
件に限ることなく︑そういう人物が生き︑そういう事件が発生した時代と社会の中に生きていた︑倫理や思想を明
らかにすることが大切ではないか︑というものであった︒
氏はその例として赤穂浪士による復讐事件を挙げ︑筆者などが思いもおよぼなかった︑江戸時代というものの基
本的性格を提示されたのである︒それは松之廊下における浅野の吉良に対する刃傷事件に対し︑幕府は浅野の即日
切腹という異例の措置をとった︒そうしてそれは浅野家の断絶という最終的処分にまで発展した︒五万石もの大名
に対し︑即日切腹という措置は全く異例で︑幕府の施政中にその例を見ないという︒しかも刃傷事件の相手たる吉
良には何の処分を行わなかったぽかりでなく︑その神妙な態度を賞揚さえした︒ かたおち この幕府の措置は喧嘩両成敗の不文律に反する片落︵当時はこういつたようである︶とされ︑民衆をも含めた多
くの者が浅野の境遇に同情し︑吉良の態度を武士道に反する卑怯なものとして冷笑し︑また非難もした︒そうして
浅野の遺臣による吉良への復讐は︑武士としての当然の行動として期待された︒
しかし田原氏はそれに対し︑幕府には大名や武士間にあまねく浸透していた武士道を超え︑時にはこれを否定す
る論理のあったことを強調する︒それは朝廷一幕府という縦の線で︑朝廷に対する絶対尊崇の論理である︒だか
ら浅野は勅使・院使の接待という公務を帯びながら︑しかもその饗応の当日凶行におよんだのであるから︑即日切
腹という異例の厳刑に課され︑吉良はお構いなしということになったのである︒そしてこの朝廷一幕府の従属関
係は︑将軍を頂点とする幕藩制においては︑大名︑武士には隠微に付され︑かつて知らされることもなく︑したが
って一般の大名・家臣の理解するところではなかったというのである︒
また︑ ﹁君辱められて臣死す﹂といったような︑いわゆる武士道の倫理は大名とその家臣間にのみ通用するもの
で︑もう一つの主従関係である︑将軍一大名というそれには適用されないぽかりでなく︑将軍−大名間の倫理
は時にそれを圧倒し否定する場合もあった︒赤穂浪士の復讐行為が犯罪として処罰されたのはその一例でもあると
いう︒ つまり徳川支配の幕説得は朝廷i幕府︑将軍−大名︑大名一家臣という三つの世界から成り︑武士道とい
う︑一般に広く浸透している武士の倫理は︑最後の第三の世界の倫理で︑公法という幕府の論理の厚い壁に取巻か
れた︑狭い範囲の中でだけ生き続けるものであったというのである︒
しかも同論文によれぽ︑その事については︑旧著﹃赤穂四十六士論−幕藩制の精神構造1﹄の中に詳しく論
ぜられているという︒
私が改めて田原氏の右の書物を読み︑その内容を紹介する理由である︒
同書によれぽ刃傷事件の当日︑大目付荘田下総守から浅野に示された処分の理由は︑
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吉良上野介へ意趣これある由にて︑折柄と申し殿中を揮らず︑
れ候︒之によって切腹仰せ付けられ候︒ ︵﹃江赤見聞記﹄︶ 理不尽に切付白魚︑重々不届き至極に思し召さ
というもので︑吉良への達しは
田原嗣郎著『赤穂四十六士論一幕藩制の精神構造一』
御場所を弁へ手向ひ致さず神妙の至り云々 お かど
(「ス門伝八郎覚書﹂︶
であったという︒
﹁折柄と申し﹂や﹁御場所を弁へ﹂等の文字に︑朝廷尊崇を第一義とする︑幕府の論理がよく表われている︒し
かも相手から切付けられても手向いしなかった︑武士道に反する吉良の態度が﹁神妙の至り﹂とされている︒田原
氏はこの点︑浅野にすれぽ︑切付けたら︑吉良が必ず応戦してくるであろうという誤算があったのであろうとする
が︑武士道の倫理からすれぽ当然である︒
この場合︑喧嘩両成敗の不文律が適用されていないが︑田原氏によれぽ︑そもそも喧嘩というのは︑戦国大名下
での在地領主が︑その所領をめぐって互いに武力抗争に出る場合をいうので︑部下統制上困惑する︑戦国大名がそ
の理非を問わず︑平等に罰するというのがその原則で︑ ﹁信玄家法﹂にすでにその規定があるという︒しかし幕府
の論理一公法がその不文律に優先したのである︒
しかしこの幕府の論理一公法の権威は︑浅野家の家臣でも︑吉良への復讐を唯一の念願とする堀部らの一部急
進派を除けば︑大石をはじめとする首脳層にはよく理解されていた︒たとえぽ仇討ちに参加した大高源吾なども︑
その決行直前に母に寄せた書簡の中で
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−されども︵浅野が︶御短慮にて︑時節と申し︑所と申し︑一方ならぬ不調法故︑天下︵将軍のこと︶の御
上り深く︑御仕置きに仰ぜ付けられ候ことに御座候へぽ︑力及び申さぬこと︑全く天下︵同前︶へ御恨申し上
ぐべき様御座なき儀にて候故︑御溝は仔細なく差し上げ申したることに御座候︒是天下へ対し奉り候て異議を
存じ奉り申さぬ故にて御座候︒
と言っている︒
幕府の公法に対しては︑大名i家臣という主従関係を貫く武士道の倫理は﹁力及び申さぬこと﹂だったのであ
る︒ しかし厳重な公法の規制の中においても︑家臣たる者のその主君に忠を尽さねぽならぬ武士道の倫理がある︒そ
ひとまえれは田原氏によれぽ﹁人前﹂の回復である︒換言すれぽ体面の回復とその維持である︒武士道の諸徳目も終局的に
は体面維持である︒大名の﹁人前﹂は将軍の下において︑その禄高を問わず︑すべて他の大名と同等たることによ
って保たれる︒それはまた大名の﹁家﹂が祖先以来同じように維持されているということでもある︒浅野の﹁人
前﹂はその主君の死と家の断絶と︑そしてその主君がかつて遺恨を抱いて死んでいった吉良が︑何の処分もされず
生き続けていることによって失われたのである︒
公法に従いながら︑しかも﹁人前﹂の回復に努力した旧慣野家家臣の心情を︑
のようにいう︒すなわち 前記大高の書簡はさらに続けて次
田原嗣郎著『赤穂四十六士論一幕藩制の精神構造一』
大学様︵浅野長矩の弟で︑かねてその養子嗣とされていた︒︶御閉門にて候ぽ︑御免なられ候時分︑もしや殿
様逆縁少しにても仰せ付けられ︑上野介殿へも何卒品も付ぎ候て︑大学様外聞よく世間も遊ばし乱曲にも罷り
なり候は璽︵﹁人前﹂の回復ができれぽの意︶︑殿様こそ右の通りに候とも御家は残り申すことにて候︒然れば
我々は出家沙門となり︑また自害仕り候ても憤りは休め候はんと︑此節まで口惜しき月日をも送り候1
勿論︑浅野の家臣には﹁主人の命を捨てられ候程の御憤り御座候仇を︑安穏に差し置き申すべき様︑昔よりもろ
こし我朝ともに武士の道にあらぬことにて候﹂ ︵同前大高書簡︶という︑主君の讐は報ぜねばならぬという﹁武士
の道﹂から生ずる当為があるのであるが︑浅野家の再興はその﹁人前﹂め回復であると同時に︑大名家そのものは
また家臣が拠って立つ生活の基盤でもある︒大名家が祖先伝来のものであると同じように︑家臣にとっても︑それ
は祖先伝来の生活基盤なのである︒だから大高らはまず﹁人前﹂の回復11浅野家の再興を念願した︒そうしてそれ
が実現すみならぼ︑.主君の遺恨をはらすというもう一つの武士道を貫くということは放棄して僧籍に入るか︑自害
しょうというのである︒なぜならぽ吉良に対する復讐は公法に背き︑幕府の配慮によらねぽならぬ浅.野家の再興と
両立しないからである︒
しかし事実においては浅野家再興は実現せず︑吉良に対する処分もなかったから︑浅野の家臣は武士道を貫く唯
だ一つの方法として残された吉良への復讐を決意するのである︒しかし武士が武士らしく武士道に則して主君の仇
を報ずるということが︑いかなる結果を招来するかは︑彼等のよく知るところであった︒前記大高書簡はその最後
に次のように記している︒
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右申すごとく︑武士の道をたて㌧御主の讐を報じ申すまでにて︑全く天下︵将軍︶へ対し奉り御恨み申すにて
は御座なく候︒然れどもいかなる思召御座候て天下︵同前︶へお恨み申し上げたるも同然とて︑我々どもの親
子︑御た㌧り御座.候とも力及び申さず候︒
田原氏によれば︑当時の世論の一つとして︑浅野を死に至らしめたのは吉良ではなく︑幕府であるから︑浅野家
家臣の仇は吉良ではなく幕府である︒したがって吉良に対する復讐は浅野に対する幕府の﹁吐血﹂的措置の面当
て︑つまり幕府批判となり︑許されぬ非法行為となる︒右の大高の書簡がこの点に関し︑仇討ちが将軍に対する恨
みに発するものでないことを繰返しているのはそのためである︒
武士道とは所詮︑このような大名−家臣という狭い一つの世界の中だけの倫理で︑その実践は︑他の二つの世
界の論理と衝突し︑武士そのものの破滅に通じる︑という田原氏の所説はきわめて説得力がある︒
しかし武士道というものは元来そういうものではなく︑武士道がそういう壁に取り囲まれるようになったのは︑
徳川氏による幕藩制の固成によって生じたというのが︑田原氏が本書によって最も強調するところである︒
田原嗣郎著r赤穂四十六士論一幕藩制の精神構造一』
徳川氏による幕藩制の固成とはどういうことであろうか︒徳川家康による幕府の創設は源頼朝による鎌倉幕府の
創設を模範とするものであったことは︑家康が慶長十六年︵一六一二︶の段階で︑京都において有力大名からとっ
た誓詞の中の﹁条々﹂に︑﹁右大将以後代々公方の法式の如く︑これを仰ぎ奉るべし︒﹂とあるのでも明瞭である︒
そうしてそれは﹁代々公方の法式の如く﹂とあるように︑鎌倉幕府ぽかりでなく︑それを継承した足利幕府の伝統
すなわち武家政権の継承を表明したことになる︒それはまた家康が平清盛や織田・豊臣のように︑朝廷を中心とす
る公家政権の内部にあって全国を支配するという体制を否定したことでもある︒
しかし同じく武家政権を継承しながら︑徳川幕府が前二者と異なる所は︑その配下たる大名との主従関係の内容
においてである︒すなわち鎌倉幕府における将軍の配下は御家人であるが︑これは将軍によって分封されたもので
はなく︑祖先伝来の所領を﹁所領安堵﹂という型で︑頼朝によってその領有を公認され︑その代償として主従関係
を結んだものである︒室町幕府の守護大名はその勢力において鎌倉幕府下における御家人のそれとは比較にならぬ
ほど大きいが︑それは本質的には御家人−守護の勢力を拡大したもので︑将軍との主従関係においては同様であ
る︒というのは徳川幕府以前の両幕府時代における配下と将軍との主従関係は︑徳川幕府の下におけるそれとは異
なるのである︒すなわち将軍の配下たる御家人︑守護大名はいずれも祖先伝来の土地を領有し︑将軍に対して独立
国家の地位を保ち︑たとえ主従関係は結んでいても︑主たる将軍に対して︑その不法な行為や処遇に対してはその
武力をもって戦う︑いわゆる抵抗権をもっていたのである︒勿論︑徳川幕府も家康・秀忠という︑いわゆるその草
創期においてはその伝統を残していた︒しかし第三代家光の頃になると︑将軍一大名の主従関係は変質した︒す
なわち幕府の命令によって︑大名は家臣ともども転封させられ︑或る時は改易と称して絶家させられることもあっ
た︒すなわち大名の封土はもはや祖先伝来の所領とは見倣されず︑現に祖先とは何の関係もない土地に移封された
のである︒藤田東湖は江戸時代の大名・武士を﹁鉢植えの武士﹂と称したが︑事実当時の大名も武士も直接土地に
根付いた在地領主の特色を失っていたのである︒それは徳川幕府が鎌倉や室町のそれと異なる︑圧倒的な武力をも
って全国を平定したという事実によるところが大きいが︑祖先伝来の大名の所領といえど︑すべて徳川氏の所領︑
家産と考えられ︑その処分は徳川氏の権限とされるにいたったのである︒かつて認められていた将軍に対する従た
る者の抵抗権は否定され剥奪され︑徳川幕府治下の大名は︑徳川家の全国的所領の家産管理人という地位に変貌さ
せられた︑というのである︒この点︑田原氏が徳川幕藩儒をもって単純に封建制度とは称し難いとする主張は根拠
のあるものである︒
田原氏はさらに︑このように変質した諸大名の職務内容を民政に限定し︑大名が地方行政官としてその管轄下の
人民に︑もつぼら仁政を施すべきことを要求した論理の拠りどころが︑天←将軍←大名←人民という朱子学の倫理
であったとする︒
しかし問題はごの縦の線の将外に置かれた︑大名の家臣︵将軍直属の家臣たる旗本・御家人をふくむ︶の存在と
その倫理である︒すなわち将軍−大名の主従関係は︑前にも記したが大名の家臣には及ばない︒大名の家臣は大
名とのみ主従関係を結ぶものである︒したがってそれら大名の家臣からすれぽ︑たとえ将軍の一地方行政官の地位
に変質した主君であっても︑彼等にとっては祖先伝来の主君であり︑祖先伝来の所領を維持すべき義務をも有する
もので︑その主従関係に適用されるべき倫理は唯だ一つの武士道あるのみということになる︒
このことは将軍とその直属家臣たる旗本・御家人との主従関係においても例外ではなく︑かつて徳川幕府が崩壊
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田原嗣郎著『赤穂四十六士論一幕藩制の精神構造一』
した時︑一部の旗本・御家人ば上野の山に立籠り︑或は五稜郭を根拠に徳川氏に対する節を守り︑そうして朝敵と
いう汚名をきせられたという歴史事実がこれを明かにしている︒
このように幕府の公法という厚い壁によって大名−家臣の主従関係が阻まれたように︑大名もまた将軍−大
名という変質した主従関係によって︑その家臣との主従関係が阻害されるようになり︑いわぽ上下から板挾み的地
位に立たされていたのである︒
したがって田原氏によれば︑浅野対吉良のいわゆる赤穂浪士の事件に材をとった︑後の﹁忠臣蔵﹂というもの
は︑浅野とその家臣という主従関係を︑その上位にある他の二つの主従関係から切離して描いた武士道の世界であ
って︑いわぽ武士ではない町人の世界からみた浅野事件だということになるのである︒
大石はその死に際し︑
あら楽し思は署る㍉身は捨つる
浮世の月に騎る雲なし
と詠んだというが︑これは幕府の公法の前に手も足も出ず︑種々苦慮画策した揚句の果てに︑わずかに一身を犠牲
にして︑偏固ともいわれよう武士道に生きるしかなく︑しかもそれをなし得た僅かな慰めと︑解放感とを示すもの
であろう︒
幕府は大石らのいわゆる赤穂浪士の復讐行為に対し︑明らかな犯罪行為であったにも拘わらず︑彼等を一時大名
預けとし︑しかも斬罪にもせず︑切腹という破格の処遇をしたぽかりでなく︑何の責任もないと思われる吉良の嗣
子良周を諏訪に配流した︒浅野長潟に対する措置が異例であったようにこれらの処置も異例である︒それは幕府も
公法の論理によっては処理でぎない︑世論の帰趨を考慮しての政治的な処置だったのである︒
しかし田原氏もいうように﹁殿中松之廊下に発した刃傷事件から︑四十六士および吉良家の処分に至るまでの全
経過において︑幕府がとった行為は終始一貫して処罰ばかりであった︒大名以下すべての武士に超出して天下を支
配するという幕府11将軍の基本的立場はいささかも崩れていなかったのである︒﹂それ故に幕藩制も維持されたの
であるが︑幕府11将軍がその権威と︑それを実行する実力を欠いた時︑幕府は崩壊したのである︒そしてやがて尊王
四夷に端を発し︑尊王倒幕︑王政復古のスローガンおよびその実践が日程に上るのであるが︑その時には朝廷一
幕府という第一世界は朝廷i人民に変貌し︑その関係の中に︑幕府11将軍の割込む余地は消滅していたと思われ
る︒ 私は田原氏最近の論文に触発されて︑氏の旧著を読み︑多くの蒙を旧いたのであ6が︑本書には︑前記論文で強
調されている︑第一世界の論理にふれるところが少ないことが残念であった︒それは氏の研究が最近の論文におい
て新しい進展を遂げたものと理解することが正しいのであろう︒
ちなみに本書は﹁四十六士の意識と思想﹂ ﹁幕藩制を組立てる二つの原理と思想﹂ ﹁四十六士論をめぐる論争﹂
﹁徳川武士の生きるべき精神的空間﹂の四章から成り︑特に義士をめぐる論争には全体の三分一をあてている︒そ
れについてはここに触れなかったが︑田原氏が当時の論争を着実に踏えて︑時代の精神構造を究明された学問的立
場には敬意と共鳴を禁じ得ない︒
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なお氏︒が本書の冒頭に︑
もっとも知りがたいのは古い時代の入びとが自明のこととして︑とくに意識することもなく行為するその大前
提に当たる部分である︒ ︵中略︶いかなる人であっても重大と考える行為に当たっては︑行為の前後にその意
味を自ら決定し︑反省するものである︒もちろん︑この意味とは後世人であるわれわれからみたときの意味で
はなく︑彼の存在に即しての意味である︒この意味が分るためには彼とおなじ場所にたたねばならない︒
田原嗣郎著『赤穂四十六士論一幕藩制の精神構造一』
と記しているが︑これこそ過去を対象とする歴史学を進めるための根本的態度でなけれぽならず︑それをいかにし
て可能ならしめるかが︑歴史学の根本問題である︑と私は思うのである︒
最後に蛇足ながら記しておきたいのは︑本書が普通にいわれる四十七士をとらず︑四十六士論とした理由につい
てである︒氏によれば事件に対する処罰として切腹を命ぜられた四十六人の義が︑当時の公法との関係において論
じられたのであるから︑切腹前に脱落した︷入︵理由あって︑大石から赤穂に帰国を命ぜられた寺坂某のことをい
うのであろう︒︶を除くのが至当であろうというのである︒
事実氏の提示するところによれぽ︑祖棟を除けば︑当時にあって浅野事件を論じた︑佐藤直方も浅見綱斎や太宰
春台も︑同じような論理によってか︑すべて四十六士の方をとっている︒ ︵吉川弘文館刊.一七〇〇円︶