[翻訳] クルト ・ ゼールマン『法哲学』(第四版
・ 二〇〇七年)(一)
その他のタイトル [Translation] Kurt Seelmann, Rechtsphilosophie (1)
著者 竹下 賢, 川口 浩一, 森永 真綱, 小島 秀夫
雑誌名 關西大學法學論集
巻 59
号 2
ページ 246‑301
発行年 2009‑08‑31
URL http://hdl.handle.net/10112/1500
今日︑法哲学が主に取り組むのは︑次の二つの問題である
︒
という現象が如何にしてより精密に定義されるぺきかを解明する試みである の立法機関によって公布された規範や︑あるいは司法上の裁判実務からは未だ推察され得ないような正当性
(R ic ht ig ke it )
ま し
ー ー
︵
が
き
﹃ 法 哲 学
﹄
クルト・ゼールマン
︹翻訳︺
︵ 第 版 四
・ ニ
0 0 七 年 ︶
スイス・バーゼル大学のゼールマン教授の﹃法哲学
﹄
はコンパクトであるがレベルの高い法哲学の教科
書としてドイツ語圏の
大学の授業等で広く採用され︑版を重ねているものである
︒
またゼールマン教授は︑ドイツのみならず英米の法哲学にも造詣 が深く︑この教科書の中にもドイツの議論との興味深い比較がみられ︑現在の法哲学の水準を示す重要な著書であるといえよ
う︒
本書は︑既に輯国語などにも翻訳されているが︑このたびゼールマン教授および出版社の
C . H
・ベック社から日本語へ の翻訳の許可を得ることができたので︑本誌に連載することとした
︒
︱つ目は︑そもそも﹁法﹂において問題となるのは何か︑
(
‑
︶
の有無 ︵本テーマについてはA
論で
ずる
︶
︒二つ目は︑国家
竹 下 賢
・ 川 口 浩
一 ︵ 監
訳 ︶ 森 永 真 綱
・ 小 島 秀
︵ 夫 訳 ︶
\ ー ︑
J J ︵ 二
四六
︶
つまり法
ゼールマン(‑︶ を決する何らかの諸基準の存否︑
八九
つまり﹁前実定的な﹂あるいは﹁超実定的な﹂法を語ることの意義の有無の探究である︒特に後
者は今日しばしば﹁法倫理学
(R ec ht se th ik
)﹂とも呼ばれる︵本テーマについてはB
で論
ずる
︶
︒非実定的な正当性の諸基準に関
する問いには︑国家によって発布されたもの︑そしてその存在を肯定すれば︑﹁前実定的な﹂あるいは﹁超実定的な﹂ものも含め
て︑規範の拘束性が根拠付けられうるかどうか︑根拠付けられるとすれば︑如何にして根拠付けられうるかという問題も含まれて
いる
︒それゆえ既に︑実定法の現実的妥当性(
Ge lt un g)
証の過程の中で明らかにされる︒
逆に
︑
の諸基準について思索を巡らす者は︑たとえ規範が破られた場合の当該
法の妥当を︑例えば国家による制裁のような何らかの不利益の発生という一定の蓋然性にのみ還元するにしても︑上記の非実定的
な正当性の諸基準について精杏しなければならないのである︒第二の問題提起が第一の問題提起から生じたものであることは︑論
いかなる非実定的な正当性の諸基準が︑強制力を通じて︑つまり法によって貫徹すること
が許されるのかという問いは︑法哲学上の中心的な問いである︒この問いにおいては︑再び︑﹁法﹂という概念︑例えば道徳との 相違におけるそれが前提とされる︒この点においては︑第二
の 問 題 提 起 す な わ ち 非 実 定 的 な 正 当 性 の 基 準 に 関 す る も の が
︑
第一
の 問 題 提 起 す な わ ち 法 と い う 概 念 に 関 す る も の に 還 元 さ れ る
︒
第一の問い︑すなわち﹁そもそも法とは何か﹂という問い︑つまり文化的現象の総体への法の組み入れは︑あらゆる者にとり日 常理解の重要な問いであろう︒結局︑あらゆる者は︑日々︑法に直
面 さ せ ら れ る の で あ る 買 い 物
︑ 職 人 へ の 仕
事の依頼︑損害
賠償請求︑保険金の請求︑結婚︑あるいは国家からの社会扶助や補助金の受領︑税金や手数料︑贖罪金の支払︑また犯罪実行ある
いはその告発︒職業上︑法の取り扱いに従事する者︑すなわち法律家にとり︑法に関する問いはそれ以上のこと即ち︑彼の自己理 解の前提であることを意味する︒あらゆる者にとり︑明らかに最も高い実践的意義があるのは︑次のような第二の複合的問いであ る︒はたして世界観的に中立的な国家においてもなお︑規範の拘束性について︑何らかの内容上の根拠付けをなしうるか︒規範を 受容することの根拠は存在するか︑あるいは明らかに不利益が生じる場合でさえ︑同規範により自己が義務づけられているとみな
す根拠は存在するか︒それどころか︑規範の一
定の内容が正当であることを証明することはできるか例えば︑財または義務の
﹃法
哲学
﹄
︵ 二
四七
︶
かったのである
︒
(g er c e ht
)﹂と合理的に根拠付けることはできるか
︒ ︵二
四 八
︶ 非実定的な正当性の諸基準の根拠付けの可能性だけでなく
(B
)︑法の存在でさえも
( A
) ︑歴史上常に︑様々な形態で疑問視さ
れてきた︒
法哲学は︑法学の補助科学にとどまるものとしてのみ理解されるものではなく︑この原則的な談論を捕捉しなければな らないのである
︒
それゆえ︑双方の部においては︑これらの問題提起に関するテーマヘの導入が目的とされる
︒
本テキストは︑まず最初に問題を喚起し︑その問題に関する最初の思索のきっかけを与えるよう構成されている
︒そして︑これ
らの問題に対して今
H与えられているいくつかの回答について習熟させた上で︑如何に︑これらの回答のみならず問題提起までも
が︑哲学的思索の
一定の伝統の中に位置付けてはじめて︑その意義を獲得し︑理解されうるものであるかを提示することを試みて
一方では︑法哲学の歴史的な叙述においては︑必ずしも歯車が新たに発明される必要はない
︒
しかし︑他方でそ こでは︑同じテーマに関する時代を超えた絶えまない討議に対する疑念も示されている
︒
テーマですらその歴史を有し︑言葉はそ の意味を変遷させるのである
︒あらゆる時代の﹁重要なテキスト﹂が知られなければならないが︑それらはそれぞれの歴史的文脈
の中で知られることが求められる
︒
これはいくつかの今日的な問題が︑今日の文化的な文脈においてのみ理解できるのと同じこと である︒それゆえ歴史的説明と現代の誠論状況は︑ごく手短ではあるにしても︑同様の手法で︑ともに︑記述されなければならな このテキストは︑初心者にとり理解しやすいように構成され︑概観を可能にしつつも︑上級者にとり脚注における選り抜か
れた文献の指摘をも通じてさらなる研究の手助けとなることが意図されている
︒
専門家は︑テーマや論証がいくつか欠けてい ることを不満に思うであろう
︒
しかし︑本書は︑願わくば︑最終的には読者が本書の要旨の再述にとどまらず︑自分で展開できる ようにするための橋渡しにすぎないことを考慮してもらえればと思う
︒
いる
︒
れそ
ゆえ
︑
賦課の一
定の分配を﹁正義にかなっている 関
法 第 五 九 巻 二 号
九〇
く・災心拉匡粂
掘
I
爛「乏如仕益訃唇叶」ヤ~~心'悉さ皿苔S
如S
やさ対こ似~:Adorno, Negative Dialektik, 11. Aufl., Frankfurt a. M. 2003国王涙・要図拒臣・悪王西・遥翠芭・111遠縦1. {喜酌笛
闘製牛岩悉』(1‑K和く
q . :s::
ロ且:ti)]; Arnaud, Entre modernite et mondialisation. Cinq lec;ons de la philosophie du droit et del'Etat, Paris 1998 ; Augustinus, De Civitate Dei 〔華苺樹封活・濫怜裁111((巨)(ば)0冷)『要0回』(1)‑(ば)(1 ‑Kぐ
l
母""1‑K<l 1母""1兵ぐ隣""1 ‑Kぐ繹""1-K~1母・1翫韓III迎)] , dt. 訊ers.,Der Gottesstaat Bd. II, ZUrich 1955 ; Blankenburg
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印恙罹lil辿)
J,
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怜纏
i
酎饂.1 <f‑Rギーf‑R<母0睾淀牲遥語』(一)(N) (]兵<1母・米匹細些)] ; Morsch, Mediation statt Strafe ? Eine Unter‑suchung der ,,mediation penale" in Frankreich, Koln u.a. 2003; Osterkamp, Juristische Gerechtigkeit, TUbingen 2004; Peters,
中一~I"、ヽ『坦卸訃』(])
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こより
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﹁法﹂を構成するものについて︵きわめて暫定的な︶
いて考察すれば︑自ずと
• R e h c t )
(A
t l e r n a t i v e n 1 m
解に対する導入として︑ 組
んで
らか
︑
は否定である るものではないし︑ R a t i
a l o n i t a t
, R
ec ht un Gd e s l e l s c h a f
t ,
F r a n k f r u
t Ma. .
1 9 9 1
; R
a i s e
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Gr un l d ag en e d R r e c
h t s s o z i o l o g i
4e . ,
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T i . i b i n g e n 2 0 0 7 ; Gr n u dl ag e
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R e s o l u t i o n : E i n f t i h r u n g i n d i e a l t e a t r n i v e r e S t i t b e i l e g g u n
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Su 20 5 0
,
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ふf
20
06 ,
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s ,
Ge me n i sc ha f t un d G e s e l l s c h a f t u e ( z r s t
︹杉
之原
寿
一訳﹃ゲマインシャフトとゲゼルシャフト純粋社会学の基本概念
﹄︵一
九五七年・岩波書店︶
] ;
nU
ぎg
Th C r e i t i c a l L e g a S l u t d i e s Mo ve me
nt ,
i n : Ha v r ar d L aw e R vi ew 96 ( 1 9 8 3 ) , S. 56 1
f f . ;
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Ab sc hi ed
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m R c e ht F ? r a n k f u r t
M a. .
1 9 8 3 .
﹁法とは何か﹂という問いに対するある程度実りのある回答は︑哲学の成果でしかあり得ず︑
ましてや法哲学の単なる導入のはじめに既に与えられるもので決してない
︒し かし︑法哲学を学び始める者 は︑まず法という概念への最初のアプローチをする必要がある
︒
(1)
﹂︶ と主 張し がた
︑ o( mm sd t e er mm at io e s t n g e a t i o ことによってのみ︑限界をうまく設定することができるということてある
︒
﹁アンチ・ドラマ﹂や﹁アンチ・ヒーロー﹂
﹁ドラマ﹂や﹁ヒーロー﹂が意味しているであろうことについてよりよく分かるそうであるならば︑
Sc ha
pp ,
Ge me n i sc ha ft a l s
︵ 二
五0
) したがって最初から
え与 られて
﹁全 ての 定規 これが意味するのは︑限界の向こう側にあるものと区別する
に取り
﹁ 法 ﹂
法 に 対 す る 批 判 を 考 察 す る こ と か ら 始 め る こ と は で き な い だ ろ う か
︒
法 に お け る 代 替 手 段 及び法に対する代替手段
(A
l t r e n a t i e v n z
um e R c h t )
こ れ ら は 現 代 特 有 の 現 象 で は な い に つ
﹁法﹂と呼ばれるものにとって典型的であろう
一定の現象形態を見い出すことになる
︒
代﹁
替手
段論
﹂争
理解が可能となるのである
︒もっとも最初はこの限りでのみ︑本
議論は関心の対象とされるべきである︒法批判に関する批判的検討は︑後で行うこととする
︵ 第
四 章
︶
︒
法に対する批判は︑歴史上︑特定の法規範または判決に対する批判としてのみ登場したわけでもなければ︑法的に規定された
e r s c h i e n e n 1 8 8 7 ) , Da rm st d a t 2 00 5
関 法 第 五 九 巻 二 号
d e r
スピノザ︵一六
三ニ
ー一
六七七年
︶
正は
当に
も︑
︵上︶
i n : R e c h s t t h e o i r e
49
f f : .
To ch te rm n a
n ,
l A t e r n a t i v e
九
理の V o i
g t
︵ 下 ︶ D i p u
e t
5 4 3
ゼールマン︵一︶ 個々の支配形態︑あるいは法曹の欠陥に対する批判としてのみ登場したわけでもない︒法それ自体を疑問視する法批判も︑繰り返し行われているのである。(例えば、司法的形態の手続きや裁判官による裁判のような)法の一定の—|'典型的であるとみな
さ れ た 観 点 に 限 定 さ れ た 問 題 提 起 と の 限 界 は 流 動 的 で あ る
︒それでもやはり︑以下の考察の重点は︑﹁代替的な法形態﹂に
関する議論よりはむしろ︑﹁法に対する代替手段﹂に置かれることになる︒
しかしながら︑ここでも︑その現象は多種多様である江法は︑社会的な規制の道具︑
九
つまり思考様式や行動様式として︑
に︑あらゆる生活領域との関係で問題となることは稀である︒しばしば法的規制に対する留保
( V o r b e h a l t ) が ︑
︵例えば文化的エリート︑宗教結社︶ 一定の人的グ
や生活領域︵例えば特に神と人間の関係における宗教︑経済秩序や所有権秩序︑合
意に基づく人的関係︶に対してのみ妥当することがある︒もっとも︑例えば﹁取引法
( l e x m e r c a t o r i a ) ﹂の意義が増大している
ことや︑今日単一民族国家的な法秩序によるインターネットが制御不可能であることが既に明らかになっていることを指摘して︑
(2 )
国家までもが疑問視され︑予期を安定させる法が受け入れられることもある︒この国家哲学的な観点については︑ここては掘り まず︑法批判の歴史に目を向けることにしたい︒そこからのみ︑現代の法批判が理解可能となる︒
そもそも古代︑中世︑近代という時代区分については︑これまでにあらゆる疑問が投げかけられているけれども︑依然として
我々がそのように区別して呼んでいるヨーロッパ精神史の各時代において︑相異なったタイプの法批判が明らかにされる︒
古代の文献においては時折︑法は個人の利益追求を妨げるものと捉えられている︒中世においては︑しばしば︑︵一次的には 神の︶恵み
だと思われるのは︑法的に規制された社会的関係が特定の l.古代︑中世︑近代における法批判 下
げな
い︒
ループ
(G na de )
や愛
( L i e b e )
﹃法
哲学
﹄
のような︑より高次の諸原理との関係で︑正義が批判されている︒近代の法批判に典型的
︵ネガティヴに評価された︶支配秩序または経済秩序の表現にすぎな
︵二
五一
︶
几又
一舟
6 て︑今だ解明されていない
︒ ︵二
五二
︶ いという批判︑換言すれば︑他のありうる人的相互作用形式を背景に︑法を特定の人的作用形式であると批判的にみることであ
(3 )
る︒
以下ではがいくつかの例が示されるに過ぎない
︒影
響 作 用 史 上
︑ 特 に 重 要 な テ ー ゼ を で き る だ け 歴 史 的 な 順 序 を 守 り つ つ
(4)
古代における法批判は︑特にギリシャの文献において行われている
︒
ソフィストのゴルギアス
おい
ては
︑ ノモスや正義を表すディケの伝統的諸規則に対して﹁正しい弁論術﹂をもって反論するレトリ
ックヘの称賛がみられ
る︒
法 に は レ ト リ
ックと異なり︑そのときどきにおいて実際に重要性を帯びている問題領域の諸相を考慮に入れる能力
四三一ー四0四年︶ ︵プラトンが作った架空人の可能性もある︶とペロポネス戦争
︵紀元前
の時代に活躍したトラシュマコスにおいては︑
ノモスの有用性について対照的な見解が見られる
︒即ち
カリクレスによると︑強者を震撼させるために法を公布するのは弱者であるとされる!これに対し︑自然は強者が弱者に優越 するのが当然であることを証明するものだとする
︒自然と法は︑大抵は︑相互に矛盾しているとまでいうのである
︒
この傾向に
る︒
彼に
れよ
ば︑
︵紀元前五世紀のうち最後の四
0年間の生
存が確認されている︶においても同様の記述が見られ ノモスは人間にとって暴君であり︑自然に多くを強いるものだとされるそれゆえ︑むしろ賢者は自然に従 うべきであるとする
︒彼らとは異ハなり︑トラシュマコスは︑優越するものにとり有用なものだけが正しいと主張する
︒
それ
ゆえ
︑
︵弱者として︶法的に行動する者は︑常に不利な立場にあるという
︒
カ リ ク レ ス と ト ラ シ ュ マ コ ス に お け る 法 的 振 る 舞 い は
︵強者であれ︑弱者であれ︶個人に損害を与えるものだという法批判の明白な動機は︑後世における法の学術的検討におい 倣
い︑
ソフィストのヒッピアス
はないとされる
︒
のそ
後︑
① 古 代 に お け る 法 批 判
重点的にとりあげる
︒
関 法 第 五 九 巻 二
ソフィストのカリクレス 号
︵紀元前四八三ー三七五年︶に 九四
10
︐
8 7ゼールマン(‑︶
教父アウグスティヌス
(5) あった︒アウグスティヌスは︑人間の共同体は二つ存在すると説く︒
の国(
c i v i t a s
< l e i )
︵三五四ー四三0
年 ︶
九五
﹃神
の国
(De
C i v i t a t e De i)
﹄
という著
書
は︑影響作用史上︑重要な意味が
であり︑もう︱つは︑その構成員が世俗的な自
愛を志向する地の国
( c i v i t a s t e r r e n a ) である︒双方は現世に おいて相互に絡み合っており︑表面上区別することはできない︒上記の志向に応じて︑二つのうちのいずれかの共同休に︑個々 一方の地の国は悪の世界である︒地の国の世俗性はカインに由来するが︑世俗的な領域を越えて︑堕天使もまた地の国の構成
員とされる︒よって︑その限りで︑世俗の国は邪悪でさえある︒しかし︑他方の神の国は地上の巡礼の上に成り立っ
てい
る以
上︑
地上の平和を必要とし︑これを作るのが地の国の法律である︒そのため地上の司法は必要悪としての性格を持つものとされ︑そ の不幸についてアウグスティヌスは詳述している︒地上の平和は不完全なものであることから︑それは単に不幸中の慰めに過ぎ ないのである︒もし神までもが万人に当然の報いを与えれば︑その帰結は永遠の死ということになろう︒何人かをそこから救済
(6) このアウグスティヌスの﹁自然法的論法によるアナーキズム﹂は︑後に様々な解釈が施され︑しばしば政治的意図が明らかな ものさえ見られた
︒もっとも︑教会を神の国と偽るのも︑﹁政治的なアウグスティヌス主義﹂において︑但俗の国家に宗教的な
厳粛さを与えようとするのも同じ事である世俗的な正義を︑神の愛や恵みによ
って形作られた共同体のバックグラウンドに
(T
o p
o s
)
だったのである︒
法批判は︑さらに︱二世紀から一三世紀におけるフランシスコ会の清貧論争に見られる︒このフランシスコ会の清貧論争は︑
中世の教会のキリスト教の教義との関係における法の意義に関する最も重要な論争の︱つであった︒私有財産の放棄は︑既に聖(7)
ベ ネ デ ィ ク ト の 戒 律 に お い て
︑ 修 道 者 に 対 し て 義 務 づ け ら れ て い た が
︑ そ の 後 も
︑ 所 有 を 教 会 の そ れ も 含 め て キ リ ス ト
﹃法
哲学
﹄ することは︑流行のトポス するのは︑神の余りある恵みなのである︒ 人が振り分けられるに過ぎないのである︒
⑯中世の法批判の諸相︑
の アウグスティヌスから宗教改革
まで
︵ 二 五 ︱ ︱
‑ ︶
︱つは︑神の愛を志向する人間によって構成されている神
13 12 ば ︑ 11
皇帝と教皇
の争いにおいて︑
にすぎないと確
︱ ︱ ‑ E
し た の で あ る こ の 評 価 は
︑
皇ニコラウス三世は︑
︵例
え
フランシスコ会修道士は
︵詳細は戒律と同様︶︑自分が使う物︑あるいは︵例えば自分が食べる物のよう
ローマ教
である
︒ ︵
托鉢修道会の
〜つ
あで
る︶
フランシスコ会の創始者のア
ッシジのフランシスコ
︵︱‑八:ー︱
二二六年︶は︑その厳
︵ 二
五四
︶ のまねびと調和しないと考える運動が絶えなかった
︒
サンフランシスコ会の創立は︑このような批判を教会内部的に受けたもの 格な戒律を︑
ローマ教
皇
ホノリウス三世から擁護しなければならなかった︒所有問題について対立が生じ︑最終的に.
三世紀初
(8 )
めには理論的な次元にまで発展したのであった
︒
フランシスコ会の自己評価に友好的な
︱二七九年の大勅令において︑
な︶自分が消費する物に対してでさえ︑所有権を有しているのではなく︑キリストや彼の使徒と同様
│
│単
'な
る事
実的
使用
権(
m p s i
l i c e
f a m
c t i
u s
m u
) を有しているに過ぎない︑
つまり法的な帰属とは完全に切り離された単なる事実的使用をしている 二 三 二
年にローマ教皇
クレメンス五世によって基本的に引き継がれた
︒
そのわずか十年後に︑ある法律家が︑このような構成に対する徹底的な批判を教
皇
ヨハネス
ニ十二世に対して行
った︒使用と
所有の永久的な分離を可能にするのは︑彼の法理解と相容れないとされたのである
︒玉
子 や チ ー ズ を 食 す る 者 は こ の よ う に ヨハネスは極めて具体的に││̲︑相応する法的地位を有していなければならない︑と述べたのである
︒
しかし︑都市の貧民層に よって支持されていたフランシスコ会の﹁司祭﹂にとり︑これは決して即座に譲歩することができない根本問題であった
︒
この
ようなことから︑文献上の長きにわたる争いが起こり︑さらにこれは政治的対立によって何度も繰り返されたのであった であるとも解釈しえたのである
︒
フランシスコ会の主導的な修道士の陣営が
皇
帝側についたこともあった︶
︒
フ ラ ン シ ス コ 会 の 清 貧 論 争 に お い て 教 会 指 導 部 の 目 か ら 見 て も
︑ こ れ は 危 険 性 を 芋 ん で い た
︑ 富 裕 と 貧 困 は も は や 単 なる経済的相違ではなかった︒むしろ任意に選択された貧困は︑法という枠組みが象徴する人間の共同生活の形態と対象的な姿
一六世紀初期の宗教改革においては︑既に初期教会が取り組んだキリストの救済との関係における旧約聖書の律法の意義付け
に関する︑激しい争いが新たな形で勃発した
︒
トリエント公会議後のカトリック教会と同様に︑宗教改革前の教会は︑﹁律法﹂
関 法 第 五 九 巻 二 号
九
̲.L.
ノ
16 15 14
ゼールマン
法的素人が繰り返し行う考察である︒哲学者ヘーゲル が当てられている︒
い 近 代 に お け
る法批判
と福音を可能な限り調和させることが求められていたが︑
約聖書に含まれる全ての宗教的な要請を意味する︶
で︑キリストが律法の欠陥を補充した
( e r f l i l l e n ) 以上︑律法を廃止すれば︑キリストが何者かを知ることはできなくなってし まうと根拠付けることで律法を擁護し︑議論のきっかけを作ったのであった︒ルターの攻撃の対象となった反律法主義者はより 急進的であった︒彼らは旧約聖書の戒律のキリストに対する妥当性を︑つまり慈悲を内容とするキリスト教の戒律の存在をまさ
( 1 0 )
に一
般的に疑問視したのである︒彼らは︑キリストをまさに律法や律法枠組み的思考を超越した存在とみなしたのであった︒
いことではなかったと総括することができる︒ここでは︑法や正義より高い価値を有する諸原理は︑
領 域 か ら 人 間 の 生 活 領 域 に 入 り 込 む も の な の で あ る
︒
端的に言えば︑古代における法批判はどちらかといえば︑内部的 (e o g ze nt ri sc
h ) このようにして︑
九七
ルターの支持者や︑後にはプロテスタントの教会にとり︑この区別が
︵一
四 八
︱ ︱
‑ I
一五四六年︶自身は︑たしかに律法︵ルターの場合︑旧約聖書の戒律だけではなく︑新
や律法を遵守した生活は︑神前における人間の正当化に必要とはみなさず︑
(9) ︵さもないと︑恵みは恵みである
ことを放棄することになるという
︶と主張しているが︑他方
一六世紀までの中世の議論においては︑法とより高い価値の諸原理︑特に神の恵みを対峙させることは珍し
いわ
ば外
から
︑ であるのに対し︑中世の法批判は︑外部的
(e xz en tr is c h)
な特徴を有しているといえよう︒ つまり神の
これまで述べてきたタイプの法批判とは異なり︑この五但紀における批判は︑個人の利益の重視や︑より高次の価値を有する 諸原理の法領域への導入というよりはむしろ︑これらとは異なる︑ともすれば︑優れた共同生活の様式について︑より強く焦点 例えば社会的紛争に関する法的な議論や解明に際し︑当該関与者にとり特に重要な多くの事柄が顧みられていないというのは︑
﹃法
哲学
﹄(
‑)
キリストは律法の創造者ではない 中心論点であったルター︒
︵一七七
0
│
︱八
三
一年︶はこの観点を先駆者の
一人として法哲学的に取
︵二
五五
︶
18 17
第 五 九 巻 二 号
︵あるものが存在 (1 1
)
り扱い︑特に青年期において﹁法状態﹂批判の出発点に据えた
︒
ここで重要なのは︑以下の二つの議論の関係である
︒す
なわ
ち︑
ギリシャにおけるポリス的人倫とローマの法思想の関係︑及びこれまでの識論から我々にと
って
既 知 の 問 題 で あ る 旧 約 ヘーゲルの解釈によると︑ギリシャ人の
生
活は︑彼らの共同休と直接的に
一体化したものであるとされる
︒
人の
場合
︑
ヘーゲルによれば︑
もはや﹁生き生
きとした民族精神﹂との自然的結合から個人が離脱したことが︑ギリシャ精神の凋落の歴史なのである
︒
ロー
マ
一般的なものが﹁極めて多数の個人という原子へと拡散された﹂と見る
︒個人は相互
に人格であり︑平等であるとし て承認される
︒
ただしこのことが
意
味しているのは︑現実的にも彼ら個々人が相異ならない点でのみ︑法的主体として承認され るということである
︒もはや共同の確信︑共同の伝統︑共同の課題の内部的連関ではなく︑法的主体としての相互承認が人間を
統一するのである︒
こうして法は︑まさに
一方の個人の生
活を他方の個人のそれと区別するものを顧みない
︒
個人は︑特性︑欲 求︑利益︑社会的地位︑政治力︑経済力とは無関係に︑法的主体として
平
等な関係になる
︒
しかし︑このように恣意的で︑偶然 に 委 ね ら れ た 内 容 は ロ ー マ 神 聖
皇
帝 に お い て み ら れ た が
︑
(R
ec ht sz s u ta nd
﹂の帰結なのである)
︒
しかしヘーゲルも直接的に人倫へと遡及しようとしているわけではなく︑あくまでも必 然的なものとして現れる発展段階の消極的な側面を指摘しようとしているに過ぎない
︒
(1 2
)
ヘーゲルが法批判において
一定の神学的伝統にも依拠していることは︑律法と愛に関する叙述においてさらに鮮明となる
︒ま
︵神
的な
︶恵
みで
はな
く︑
︵キリストの愛と︶隣人愛である
︒
ヘーゲルは︑山頂 の垂訓を例に︑イエスが律法に対する服従よりも
一層
高次のものをどの点で表現しているかを示すことを試みている
︒
ーヘ
ゲル
によれば︑律法とは︑﹁対立するものを﹂それ
自体は現実と対置される﹁︱
つの概念に統合したもの﹂である すべきとき︑それはまさに未だ存在しない
︶ ︒
律法は傾向(
Ne gi un g) ることに現れるこの捨象
(Ab
t s ra kt io ) n は︑イエスの愛の﹁命令﹂によ
って超克され︑それゆえこれは決して本来の
意味での
ずヘーゲルが律法と対置しているのは︑もはや 聖書の律法とキリストの愛との関係である
︒ 関法
との対立をも前提とする
︒二 つの側面のうちの
︱つ
をと
ヘーゲルによれば︑
こ れ は 他 な ら ぬ ロ ー マ の
﹁法状態
九八
︵二五六︶
21 20 19
ゼールマン それではないことになる︒
まり︑﹁生の様態(
M o d i
f i k a
t i o n
( ) ﹂としての愛であり︑これは当為として現実と対置されてはならないものである
1 3 )
の点でヘーゲルはカントに与しているのであるが︑およそ命令され得ないものであろう︶︒
ヘーゲルの抽象化I法批判はより過激に展開され︑法と経済との関係において︑カール・マルクス
によって先鋭化された︒
九九 一九世紀末から二0世紀初頭にお ヘーゲルによると︑イエスが示しているのは︑命令に対する服従を不要と化するものなのである︒つ
︵そして︑こ
︵一八一八ー一八八三年︶
(1 4
) マルクスによれば︑法の本質は不平等な個人に対する平等な基準の適用にあるとされる︒すなわち︑法
が保障する平等と自由とは︑商品の交換における平
等と自由であるつまり︑人間は︑交換者として︑他のあるゆる点で異な
るとしても平等であり︑商品の交換が強制なく行われる限りで自由でもある︒それゆえ︑法的主体は商品を交換する個人なので
ある︒しかし︑労働力という商品は︑それ自体の価値︑すなわちこの対価として支払われたものより︑はるかに多くの価値を生
み出すことから︑まさにこの平等が不平
等を生み出すことになるそして例えば﹁不公平な﹂賃金は︑他の社会主義者が考え
ていたように︑この不平等の埋め合わせですらないという︒
﹃法
哲学
﹄(‑) マルクスの関心は︑不平等かつ不自由であることが証明された︑平
等と自由の実現にあったのである︒アナトール・フランスは︑この問題提起を敷術し︑法は裕福な者と同程度に貧しい者に対し
て︑橋の下で寝ること︑パンを盗むこと︑街角で物乞いをすることを禁じているのだとすが
︑ ︒
けるこの種の法批判が︑﹁社会国家﹂を巡る譲論の火付け役となったのである︒
2.代替手段
(A lt er na ti ve n)
を探索する根拠として︑今日挙げられているもの
法による紛争解決の代替手段に関する議論は︑しばしば︑代替手段に期待されている紛争解決の種類が十分に決められていな
いという問題を抱えている︒しかし︑以下では︑限界は流動的であるが︑法に対する代替手段の要請と法における代替手段の要
請を区別することを試みたい︒
(1 7
) 既に︑法に対する代替手段を探索する根拠は一様ではない︒例えば︑﹁法﹂の援用は一定の共同体の存続にとって阻害的なも
︵ 二
五七
︶
24 23 22
︵二
五八
︶
一方当事
のと感じ取られることもあれば︑法は紛争の実際の解決にとってあまりに抽象的であり︑また直接関与者のための紛争解決の可 能性を剥奪するものであると捉えられることもある
︒法はそれが一
定の生活領域に広がるとき自由を迫害するものとして捉えら れることもあれば︑法はおよそ不確定なものであり︑経済や政治といった諸現象と区別が不可能であるともいわれる︒もっとも︑
法における代替手段の探索を促進しているのは︑裁判手続に対する
一定の留保である︒例えば︑裁判手続は費用や時間がかかり
すぎる︑現実離れしすぎている︑形式的すぎる︑あまりに予測不能である要するに︑あまりに非効率的で︑形式主義的であ まず︑法は︑直接的な人倫的関係︑
つまり多かれ少なかれ自明の共通の目的によって定義される関係という意味における共同 体を破壊するという考えが存在する
︒
﹁ギリシャ的な﹂社会化と﹁ローマ的な﹂社会化というヘーゲルによる区別が︑ここでも 方が法的地位を援用するときには既に︑友人関係や結婚生活といった親密な関係が解消の段階に入っているということがし
(1 8
)
ばしば指摘されている
︒
法を援用する者は︑例えば裁判所のような第三者の強制権に訴えることで︑自己の利益を貫こうとする 以上︑このような直接的な相互作用形態における法の援用は︑相互作用とは無閾係な︵中立的な第三者たる︶機関の共同体への 介入を結果として伴うのであり︑このような点に法と共同体における上述の対立の根拠が見い出されるのである
︒このような第(
) 1 9
三者による強制という威嚇によって︑直接的で︑友好的かつ自然発生的な関係が阻害され︑大抵は破壊さえされる
︒
しかし︑同様のことは取引にも妥当する
︒相互的な信頼に支えられている比較的長期の取引関係を維持するために︑
者はできる限り︑相手方に対して法的な措置をとらないようにする︒良好な関係を維持するためには︑不法であるという法的主
(2 0
)
張と結びついた不快な疑いを︑相手方に向けるべきではないからである
︒社会的領域によっては︑例えば経済のように︑独自の
なお影響を及ぼしているのである
︒
因 共 同 体 に 対 す る 阻 害
る と い っ た 制 限 で あ る
︒
関 法 第 五 九 巻 二 号
iOO