密
教
發
達
史
上
に
於
け
る
觀
賢
僧
正
松
永
有
見
目
次
第
一
章
緒
言
第
二
章
開
宗
以
來
眞
言
宗
の
開
展
第
一
節
遺
弟
の
教
線
擴
張
第
二
節
年
分
度
者
第
三
章
眞
言
宗
と
南
都
北
嶺
の
關
係
第
一
節
南
都
の
密
教
化
第
二
節
叡
山
台
密
の
發
展
第
三
節
傅
教
慈覺
の
諡
號
第
四
章
東
密
の
興
隆
第
一
節
聖
寳
の
醍
醐
山
建
立
第
二
節
寛
平
法
皇
の
御
出
家
密
教
發
達
史
上
に
於
け
る
觀
賢
僧
正 三
一
密
教
發
達
史
上
に
於
け
ろ
觀
賢
僧
正
三
二
第
三
節
密
教
の
信
仰
と
醍
醐
天
皇
第
五
章
觀
賢
僧
正
の
活
動
第
一
節
觀
賢
僧
正
人
格
及
び
其
の
思
想
第
二
節
統
一
の
大
業
と
三
十
帖
策
子
問
題
第
三
節
諡
號
の
奏
請
第
四
節
大
師
信
仰
の
發
達
第
六
章
觀
賢
僧
正
の
學
説
第
一
節
學
系
第
二
節
其
の
事
相
と
教
相
第
三
節
著
述
第
七
章
後
代
の
影
響
第
一
節
僧
正
の
門
下
第
二
節
不
等
葉
の
血
脉
第
三
節
教
主
論
の
影
響
第
八
章
結
論
第 一 章 緒 言 本 年 は 觀 賢 僧 正 の 一 千 年 忌 、 智 泉 大 徳 の 一 千 百 年 の 遠 忌 に 當 る の で 、 吾 が 密 教 研 究 會 に 於 て 、 何 か 催 し た い と 考 へ た の で あ り ま す が 、 何 分 思 い 付 た の が 遅 か っ た の で 充 分 の 準 備 も 出 來 ず 、 御 覧 の 通 り 僅 か ば か り の 、 御 省 像 、 遺 品 、 研 究 資 料 、 遺 著 を 蒐 集 し た の み で あ り ま す 。 随 つ て 其 の 研 究 も 充 分 で は あ り ま せ ん が 、 觀 賢 僧 正 の 密 教 發 達 史 上 に 於 け る 御 功 績 と 云 ふ 様 な も の を 述 へ て 見 る こ と に す る 。 觀 賢 僧 正 は 高 祖 御 入 定 後 、 二 十 年 、 文 徳 天 皇 の 齊 衡 元 年 に 御 生 れ に な つ た の で あ り ま す 。 其 の 一 生 七 十 三 年 間 は 、 吾 が 眞 言 宗 發 展 史 の 上 に 尠 か ら ぬ 影 響 を 與 え 、 吾 宗 教 學 史 上 に も 、 大 師 信 仰 史 上 に も 、 宗 治 の 上 に も 、 偉 大 な る 功 績 を 残 し た 、 高 祖 以 後 最 も 傑 出 し た 高 僧 の 一 人 で あ り ま す 。 僧 正 は 學 者 に し て 徳 者 、 而 か も 甚 雄 渾 な る 氣 魂 に 富 ん だ 大 政 治 家 で あ つ た 様 で あ り ま す 。 特 に 大 師 を 信 ず る こ ど が 最 も 熱 烈 で あ つ た 。 か く の 如 き 諸 點 を 具 備 し て 積 極 的 に 、 當 代 の 佛 教 界 に 活 躍 せ ら れ た 所 は 、 確 か に 一 代 の 偉 觀 で 、 吾 宗 一 千 百 年 の 歴 史 上 に 於 け る 唯 一 人 者 と 云 つ て も よ い の で あり ま す 。 御 室 喜 多 院 の 守覺 親 王 の 捨 要 意 と 云 ふ 、 祖 師 の 傳 記 を 記 し た る 書 に 、 僧 正 を 讃 し て 次 の 様 に い つ て 居 り ま す 。 尊 師 の 付 法 を 般 若 寺 の 僧 正 觀 賢と 號 す 。 延 喜 の 聖 主 に 遇 ひ 奉 る 、 知 法 高 位 の 入 な り 。 現 に 大 師 を 密 教 發 達史 上に 於 け ろ 觀 賢 僧 正 三 三
密 教 發 達 史 上 に 於 け る 觀 賢 僧 正 三 四 拜 し 奉 る 天 下 無 雙 の 人 な り 。 獨 り 此 の 僧 正 祖 恩 を 抱 く 者 か 。 此 の 批 判 は 簡 に し て 誠 に 要 を 得 た も の で 、 自 分 の こ れ か ら 述 べ ん と す る と こ ろ も 、 或 は 多 く 此 の 範 園 を 出 で ぬ こ と と 信 じ ま す 。 延 喜 の 聖 世 は 、 從 來 歴 倒 的 勢 力 を 有 し た 台 密 が 聖 寳 、 觀 賢 等 の 活 動 に よ り て 、 東 密 が 台 密 を 歴 し て 隆 運 に 向 は ん と す る 轉 換 時 代 に 屬 す る 。 而 し て 其 の 中 心 人 物 は 云 ふ ま で も な く 吾 が 觀 賢 僧 正 で あ り ま す 。 然 し な が ら 古 來 高 野 山 に 於 て は 、 觀 賢 僧 正 に 付 て 種 々 の 誤 解 か ら 批 難 が 一 部 の 人 の 間 に あ る や う で 、 甚 だ 評 判 が よ く な い の で あ り ま す が . そ れ は 觀 賢 僧 正 の 理 想 と 其 の 事 業 を 理 解 せ ぬ か ら で あ り ま す 。 觀 賢 僧 正 の 一 代 に 於 て 、 吾 が 宗 史 の 上 に 貢 献 し た る 最 も 重 裏 な も の は 、 大 體 左 の 三 點 に 歸 す る こ と と 思 ふ 。 一 、 諡 號 奏 請 と 大 師 信 仰 二 、 三 十 帖 策 子 問 題 と 統 一 の 大 業 三 、 教 學 史 上 に 於 け る 功 績 第 一 は 信 仰 史 上 に 重 大 な る 意 義 を 將 來 し 、 第 二 は 宗 教 の 統 一 の 大 理 想 を 實 現 す る に 關 係 し 、 第 三 は 教 學 史 上 に 於 け る 問 題 で あ り ま す 。 然 る に 此 三 要 點 に つ い て 述 べ ん と す る に は 、 勢 い 大 師 の 以 來
東 密 の 教 勢 、 東 密 と 台 密 と の 關 係 等 に 就 い て 一 應 調 べ て 見 な け れ ば な ら ぬ 。 以 下 本 問 題 に 入 る に 先 き 立 つ て 、 暫 く 問 題 の 生 ず る 原 因 事 状 を 明 ら か に し て 見 よ う 。 第 二 章 開 宗 以 來 密 教 の 發 達 第 一 節 遺 弟 の 教 線 擴 張 太 陽 が 地 平 線 上 よ り 出 て 、 高 く 強 く 普 く 世 界 を 照 ら し て 、 地 上 の 凡 て に 光 輝 と 生 命 と を 與 へ て 後 、 静 か に 夕 陽 西 山 に 没 し て 、 餘 光 遙 か に 大 千 を 照 ら す が 如 き 高 祖 の 御 一 生 は 、 其 の 遺 弟 の 上 に 不 断 の 活 躍 を 與 へ た 。 高 祖 御 入 定 に 際 し て 、 後 争 を 顧 み て 、 諸 弟 子 に は 、 各 其 の 機 根 と 性 質 及 び 周 園 の 境 遇 に 慮 じ て 、 分 擔 の 部 署 を 定 め ら れ た 。 實 慧 大 徳 は 付 法 の 正 嫡 に し て 、 且 つ 徳 望 最 も 高 か つ た も の で あ る か ら 、 東 寺 の 長 者 と し て 一 宗 を 統 轄 せ し め た 。 さ す が に 高 祖 の 推 賞 し た 程 あ つ て 、 此 の 大 徳 の 一 化 十 三 年 間 は 、 教 團 に 些 の 風 波 を も 起 さ す 、 順 調 に 發 展 し 、 承 和 四 年 に は 圓 行 を 入 唐 せ し め 、 河 内 に 觀 心 寺 を 開 き 、 春 秋 二 季 の 結 縁 灌 頂 を 東 寺 に 始 め 、 或 は 諸 國 に 眞 言 宗 の 講 讀 師 を 任 命 し て 、 地 方 の 教 化 と 密 教 の 普 及 を 企 つ る 等 、 密 教 擴 張 宣 傳 の 上 に 、 偉 績 を 現 は さ れ た 。 眞 雅 僧 正 に は 、 大 和 の 弘 福 寺 と 東 大 寺 の 眞 言 院 と を 管 せ し め て 、 南 都 方 面 に 於 け る 密 教 興 隆 の 任 に 當 ら し め 、 兼 て 東 寺 の 経 藏 を 司 ら し め た 。 然 る に 師 は 後 藤 原 良 房 と 清 和 天 皇 の 歸 依 を 受 け て 、 貞 密 教 發 達 史 上 に 於 け る 觀 賢 僧 正 三 五
密 教 発 達 史 上 に 於 け る 觀 賢 僧 正 三 六 觀 寺 を 深 草 に 創 し て 、 宮 廷 方 面 に 非 常 な 勢 力 を 得 、 官 位 は 僧 正 法 印 大 和 尚 位 に 上 り 、 東 寺 の 一 の 長 者 に 各 宗 の 法 務 を 兼 ね 、 諸 宗 を 統 理 す る に 至 つ た 。 眞 濟 僧 正 に は 高 雄 山 と 宮 中 の 眞 言 院 と を 管 せ し め 、 宮 庭 方 面 に 於 け る 教 線 を 張 ら し め た 。 此 れ は 師 が 紀 氏 の 出 で 、 宮 中 に 因 縁 の 多 か り し が 爲 め で め ら う 。 高 野 山 は 諸 弟 子 の 中 、 特 に 年 少 な る 眞 然 僧 正 に 與 え て 、 経 管 未 だ 半 ば な る 高 野 山 を 興 隆 せ し め ら れ た の で あ る 。 次 に 高 祖 の 付 法 に し て 顯 密 一 致 の 見 地 に 立 つ て 、 密 教 を 弘 通 し た る も の に 、 海 印 寺 の 道 雄 、 法 輪 寺 の 道 昌 の 二 人 が あ る 。 道 雄 は 元 華 嚴 宗 の 碩 學 で 其 の 第 七 世 の 祖 師 と な つ た 人 で あ る が 、 後 大 師 に 昂 し て 、 両 部 の 灌 頂 を 受 け 、 大 師 が 般 若 三 藏 よ り 受 け た る 、 顯 密 開 合 の 旨 を 得 て 、 密 教 的 華 嚴 宗 を 開 き 、 東 大 寺 系 、 栂 尾 系 の 二 系 華 嚴 宗 開 祖 と な り 、 宗 性 、 凝 然 、 明 慧 等 の 碩 徳 を 出 し 、 南 都 佛 教 を 密 教 化 す る に 、 甚 大 の 影 響 を 與 へ た 。 道 昌 亦 三 論 宗 よ り 入 つ て 大 師 の 弟 子 と な り 、 嵯 峨 に 法 輪 寺 を 開 き 、 顯 密 二 教 を 唱 へ て 説 法 教 化 甚 だ 盛 ん に 、 或 は 大 井 川 の 改 修 を な し 、 高 租 の 社 會 的 民 衆 的 方 面 に 活 動 さ れ だ 。 其 の 他 高 祖 の 遺 弟 に し て 、 入 唐 求 法 し て 、 密 教 の 内 容 を 豊 富 な ら し め た る も の に 、 超 昇 寺 の 眞 如 親 王 あ り 、 璽 巖 寺 の 圓 行 あ り 、 安祥 寺 の 慧 運 あ り 、 太 元 の 新 法 を 傳 へ た る 法 琳 寺 の 常 曉 あ り 、 寺 院 を
建 立 し て 教 線 を 弘 め た る も の に 、 禪 林 寺 を 開 創 し た る 眞 紹 あ り 、 室 尾 山 の 堅 慧 大 徳 あ り 、 修 藤 寺 の 呆 隣 等 が あ る 。 其 の 後 、 盆 信 僧 正 の 圓 城 寺 、 聖 寳 尊 師 の 醍 醐 寺 、 寛 平 法 皇 の 仁 和 寺 、 醍 醐 天 皇 の 勸 修 寺 等 皆 京 畿 の 附 近 に 開 き 、 而 か も 此 等 の 諸 山 は 、 皆 定 額 寺 官 寺 と な り 、 年 分 度 者 の 制 を 定 め て 。 多 数 の 教 徒 を 養 ふ に 至 り 、 其 の 勢 力 の 増 大 な る に 随 つ て 、 各 山 に 各 三 綱 を 置 き た る を 以 つ て 、 動 も す れ ば 獨 立 し て 、 東 寺 の 管 攝 を 離 れ ん と す る に 至 っ た の で あ る 。 特 に 高 野 山 は 、 御 遺 告 第 十 六 條 に 、 大 師 始 め は 年 分 度 者 を 東 寺 に 置 か ん と せ ら れ だ が 、 そ れ で は 僻 地 不 便 の 地 に あ る 、 入 定 留 身 の 高 野 山 の 荒 廢 せ ん こ と を 憂 へ て 、 更 ら に 改 め て 、 高 野 田 に 年 分 度 者 を 置 く 様 に 遺 言 せ ら れ 、 承 和 二 年 八 月 、 長 者 實 慧 大 徳 め 奏 請 に よ り て 實 現 す る こ と に な つ た 。 そ こ で 眞 然 師 は 、 實 慧 大 徳 を 請 し て 、 金 堂 に 大 日 経 を 講 ぜ し め 、 春 秋 二 季 の 傅 法 會 を 起 し て 、 事 相 教 相 の 練 磨 を な さ し む る 制 度 を 定 め 、 一 面 堂 塔 伽 藍 は 次 第 に 完 美 す る に 至 り 、 海 抜 二 千 五 百 尺 の 高 野 山 上 に も 學 徒 雲 集 し て 、 學 山 と し て の 基 礎 を 定 む る に 至 つ た こ と で あ る 。 更 ら に 眞 然 僧 正 は 大 師 の 族 縁 の 甥 で 、 而 か も 諸 弟 子 中 最 後 ま で 生 存 し 、 東 寺 の 長 者 と な り 、 高 野 山 を 領 す る こ と 五 十 六 年 の 久 し き に 及 ん だ も の で あ る か ら . 高 野 山 は 師 の 晩 年 に は 、 名 實 共 に 大 山 と な り 、 東 寺 高 雄 と 相對 立 す る に 至 つ た 。 之 れ 觀 賢 僧 正 の 三 十 帖 策 子 問 題 及 び 高 野 山 座 主 問 題 の 生 ず る 一 因 と な る の で あ る 。 第 二 節 年 分 度 者 密 教発達 史 上 に 於 け る 觀 賢 僧 正 三 七
密 教發 達 史 上 に 於 け ろ 觀 賢 僧 正 三 八 密 教 を 興 隆 し 教 線 を 擴 張 す る は 、 主 と し て 傳 法 の 人 物 に よ る こ と は 勿 論 で め る 。 然 る に 平 安 朝 の 初 期 に あ つ て は . 年 分 度 者 の 制 度 が 嚴 重 で 、 私 に 僧 に な る こ と は 絶 對 に 禁 ぜ ら れ て 居 つ た 。 何 散 な ら ば 當 代 の 僧 侶 は 一 種 の 官 吏 で 、 國 家 が 僧 侶 を 公 認 し て 其 の 待 遇 を 定 め 、 兵 役 、 課 役 、 租 税 を 免 除 し 、 寺 院 を 與 へ 、 衣 食 を 給 し 、 國 費 を 以 つ て 僧 侶 を 養 ふ も の で あ る か ら 、 其 の 数 を 制 限 せ な け れ ば な ら ぬ か ら で あ る 。 已 に 僧 と な る に 制 限 を 與 ふ る な ら ば 、 其 の 質 を 撰 ば な け れ ば な ら ぬ 。 そ こ で 延 暦 二 十 五 年 、 傳 教 大 師 の 歸 朝 す る や 、 佛 教 改 革 の 第 一 歩 と し て 、 各 宗 の 年 分 度 者 を 定 め 、 華 嚴 宗 に 二 人 、 天 台 宗 に 二 人 、 律 宗 に 二 人 、 三 論 宗 に 三 人 、 法 相 宗 に 三 人 を 年 々 度 す る こ と と し 、 其 の 得 度 に は 試 験 制 度 を 用 ひ 、 所 定 の 學 科 に 就 い て 大 義 十 條 を 試 問 し 、 五 以 上 に 通 じ た る も の を 及 第 と し 、 園 家 の 公 験 に よ り て 得 度 す る こ と に し た 。 傳 教 大 師 は 更 ら に 天 台 宗 に は 、 遮 那 止 觀 の 二 業 を 研 磨 せ し め 、 得 度 の 後 十 二 年 間 山 門 を 出 づ る こ と を 許 さ す 、 專 心 研 究 せ し む る こ と に し た 。 此 れ が 有 名 な る 山 家 學 生 式 で 、 後 年 比 叡 山 に 高 僧 智 識 の 雲 の 如 く 輩 出 し て 、 教 界 に 覇 を 唱 ふ る に 至 り た る は 、 全 く 此 の 教 育 制 度 に よ る の で あ る 。 然 る に 吾 が 眞 言 宗 に は 、 定 額 僧 の 制 は あ つ た が 、 承 和 二 年 に 至 る ま で 年 分 度 者 の 制 度 が 確 立 せ な ん だ が 、 漸 く 承 和 二 年 正 月 二 十 二 日 に 至 り 、 延 暦 二 十 五 年 の 官 符 に 準 し て 、 金 剛 業、 胎 藏 業 、 聲 明 業 の 三 業 に 分 業 し て 、 三 密 に 準 し て 毎 年 三 人 宛 度 せ ん こ と を 奏 請 し て 勅 許 を 愛 け 、 實 施 す る こ と に な つ た 。 此 れ が 吾 宗 に 於 け る 三 業 度 人 制 の 起 原 で あ る 。 然 る に 同 年
三 月 十 五 日 の 二 十 五 ケ 條 の 御 遺 告 第 十 六 條 に 、 夫 れ 以 れ ば 件 の 宗 分 度 者 、 初 め に 思 ふ が 如 き は 東 寺 に 試 度 す べ し。 然 れど も 山 家 を 荒 ら し め ざ ら ん と 欲 し て 、 良 ら に 改 め 奏 し て 、 官 符 を 金 剛 峰 寺 に 申 し 下 さ ん と 欲 ふ 者 な り 。 敢 て 東 寺 を 厭 ふ て 南 嶽 を ひ か ん や 。 ( 弘 法 大 師 全 集 七 ノ 二 六 五 ) 此 の 御 遺 告 に よ り て 、 實 慧 大 徳 同 年 八 月 二 十 日 、 得 度 の 日處 を 定 め 、 金 剛 峯 寺 に 於 て 、 交 義 十 條 を 課 試 し 、 五 以 上 に 通 じ た る も の を 及 第 と し 、 受 戒 の 後 六 年 間 、 高 野 山 に あ つ て 修 練 せ し め ん こ と を 乞 ひ 、 勅 許 を 得 た の で あ る 。 想 ふ に 高 祖 は 、 承 和 二 年 正 月 に は 、 根 本 道 場 た る 東 寺 に 試 度 せ ん と し た の で あ る が 、 御 入 定 に 間 近 さ 三 月 十 五 日 に な つ て 、 將 來 の 高 野 山 を 顧 念 す る 餘 り 、 良 ら に 高 野 山 に 試 度 す る こ と に 改 め た こ と は 、 令 法 久 住 の 勝 計 な る と 共 に 、 人 情 の 自 然 に 出 で た も の で あ る 。 後 年 高 野 山 の 隆 盛 は こ こ に 基 礎 を 有 す る と 共 に 、 三 十 帖 策 子 問 題 の 遠 因 と な る の で あ る 。 其 の 後 文 徳 天 皇 の 仁 壽 三 年 、 眞 濟 僧 正 大 法 の 未 だ 廣 ま ら す 、 學 徒 の 猶 少 き を 憂 い て 、 新 た に 高 雄 山 に 三 人 の 度 者 を 賜 は ら ん こ と を 乞 ひ て 、 許 さ れ 、 天 安 三 年 に は 眞 雅 僧 正 の 願 に よ り 、 貞 觀 寺 に 三 人 の 度 者 を 賜 ひ 、 貞 觀元 年 に は 慧 蓮 僧 都 の 安 群 寺 に 三 人 の 度 者 を 賜 ひ 、 其 の 他益 信 僧 正 の 圓 城 寺 、 寛 平 法 皇 の 仁 和 寺 、 道 雄 僧 都 の 海 印 寺 、 濟 高 の 勸 修 寺 に 、 各 二 人 の 度 者 を 賜 ひ 、 延 喜 七 年 に は 新 た 密 教發 達 史 上 に 於 け る 觀 賢 僧 正 三 九
密 教 發 達 史 上 に 於 け ろ 親 賢 僧 正 四 〇 に 四 人 の 度 者 を 東 寺 に 置 く に 至 り、 諸 大 寺 の 年 分 の 数 は 次 第 に 増 加 し て . 二 十 四 人 の 多 き に 達 し た 。 か く し て 諸 大 寺 の 年 分 度 者 の 数 の 増 加 す る に 随 ひ 密 教 の 隆 盛 を 來 す の で あ る が 、 こ こ に 高 野 年 分 と 高 雄 年 分 及 び 東 寺 の 宗 分 と の 間 に は 、 し ば く 紛 争 を 起 し 、 遺 弟 の 問 に 種 々 の 問 題 を 生 ず る に 至 つ た 。 始 め 仁 壽 三 年 眞 濟 倫 正 の 長 者 と な る や 、 高 雄 山 に 三 人 の 度 者 を 置 く と 共 に 、 高 野 山 は 道 程 稍 遠 く 、 試 業 の 阿 闍 梨 の 往 復 困 難 な り と の 理 由 に よ り 、 東 寺 に 於 て 試 問 し 、 高 野 と 高 雄 と に 於 て 得 度 す る こと に 改 め た 。 こ こ に 於 て 一 時 高 野 山 は 修 學 の 人 絶 え 、 大 師 の 本 願 に 乖 く を 愁 い て 、 元 慶 六 年 眞 然 僧 正 の 奏 請 に よ り て、 再 び 高 野 山 に 試 度 す る こ と に し た 。 處 が 寛 平 九 年 に 至 り 宗 の 長 者 益 信 僧 正 年 分 度 看 は 、 根 本 の 道 場 を 去 つ て 、 枝 末 の 末 山 に 移 す 可 ら す と 稱 し て 、 再 度 東 寺 に 復 奮 す る こ と に 定 め た 。 か く の 如 く 高 野 の 年 分 度 者 は 、 幾 度 も 高 野 と 東 寺 と の 問 に 争 論 を 起 し 、 朝 庭 に 於 て も 、 餘 程 困 難 し た 結 果 、 延 喜 七 年 七 月 四 日 、 寛 平 法 皇 の 宣 旨 に よ り て 、 高 雄 高 野 の 年 分 は 各 其 の 山 に 返 し 、 新 た に 東 寺 に 四 人 の 宗 分 を 置 く こ と に な り 、 漸 く 此 の 問 題 は け り が つ い た の で あ る 。 高 野 山 と 東 寺 と の 問 題 は 今 に 始 つ た こ と で な く 、 千 年 來 の 問 題 で あ る ら し い 。 第 三 章 眞 言 宗 と 南 都 北 嶺 と の 關 係
第 一 節 南 都 の 密 教 化 南 都 の 大 安 寺 よ り 出 で た る 高 祖 は 、 弘 仁 元 年 東 大 寺 の 別 當 に 補 せ ら れ た 。 別 當 は 諸 大 寺 の 長 官 で 大 衆 を 統 理 す る も の で 、 此 の 下 に 諸 寺 の 三 綱 あ り て 分 擔 任 用 す る の で あ る 。 東 大 寺 は 元 華 嚴 宗 を 主 と し て 創 立 し た 、 大 寺 中 の 大 寺 で 、 冥 辨 僧 正 の 開 創 以 來 、 華 嚴 宗 の 人 が 代 々 共 の 別 常 に 補 せ ら る 、 の が 例 で あ つ た 。 然 る に 十 四 代 目 に 突 如 と し て 、 大 師 が 任 命 せ ら れ た の で あ る 。 是 れ に は 種 々 の 原 因 も あ る で あ ら う が 、 元 來 南 都 に は 、 大 安 寺 を 中 心 と し て 、 道 慈 系 、 菩 提 僊 那 系 の 支 那 密 教 、 印 度 密 敏 が 、 大 師 以 前 已 に 可 成 の 勢 力 を 以 つ て 、 南 都 の 佛 教 界 に 起 り つ ゝ あ つ て 、 其 の 経 軌 修 法 の 一 遍 り は . 已 に 實 行 さ れ つゝ あ つ た の が 原 因 の 一 つ で あ ら う 。 今 一 つ は 平 安 遷 都 以 來 、 動 も て れ ば 南 都 の 佛 教 は 、 衰 頽 せ ん と す る の で 、 朝 庭 に 於 て も 特 に 大 師 を 任 用 し て 、 南 都 佛 教 を 復 興 せ し め ん と せ ら れ た の で あ ら う 。 十 大 弟 子 の 多 く は 此 の 時 代 に 生 長 し た も の で あ る か ら 、 其 の 後 も 眞 言 宗 の 僧 侶 が 、 多 く 東 大 寺 の 別 當 と な り 、 南 都 佛 教 と 眞 言 宗 と の 間 に 、 甚 だ 密 接 な る 關 係 を 生 ず る に 至 る 。 其 の 後 大 師 は 更 ら に 、 乙 訓 寺 の 別 當 と な り 、 大 安 寺 の 別 當 と な り 、 弘 福 寺 を 賜 ひ、 東 大 寺 の 中 に 眞 言 院 ( 現 今 は 東 大 寺 の 圖 書 舘 と な る ) を 創 立 し て 、 灌 頂 道 場 と す る に 至 つ て 、 益 南 都 と 密 教 と の 密 接 な る 關 係 を 生 し 、 教 理 上 よ り す る も 、 前 節 に 遠 べ た 道 雄 僧 都 の 如 き あ り て 、 密 激 的 華 嚴 宗 を 唱 え た も の で あ る か ら 、 南 都 の 僧 侶 に し て 眞 言 宗 を 學 ば ざ る も の な く 、 又 眞 言 宗 に 於 密 教 發 達 史 上 に 於 け ろ 親 賢 僧 正 四 一
密 教 發 達 史 上 に 於 け る 観 賢 僧 正 四 二 て も 、 高 祖 の 遺 戒 に よ り て 、 法 相 三 論 を 兼 學 せ ん と 至 る よ り 、 南 都 に 留 學 す る も の 多 く 、 聖 賓 尊 師 が 東 大 寺 に 東 南 院 を 開 創 し て 三 論 宗 の 根 本 道 場 と し て 、 顯 密 を 兼 學 せ し め 、 親 賢 僧 正 亦 三 論 宗 の 碩 學 と し て 、 維 摩 會 の 講 師 と な り し よ り 、 勸 修 寺 に は 年 分 度 者 の 一 人 に 、 三 論 宗 を 學 ば し め 、 醍 醐 も 亦 三 論 宗 を 兼 學 せ し め 允 る よ り 、 奈 良 の 僧 徒 に し て 顕 教 よ り 密 教 に 入 る も の 多 く 、 古 都 の 六 宗 を 擧 げ て 、 密 教 化 す る に 至 つ た 。 後 年 觀 賢 僧 正 が 、 奈 良 坂 の 般 若 寺 を 興 し て 、 學 徒 を 教 育 す る こ と 二 千 人 に 及 び 、 東 大 寺 の 別 當 と し て 、 南 都 佛 激 の 覇 權 を 掌 握 し た り し も 決 し て 偶 然 で は な い の で あ る 。 第 二 節 台 密 の 發 達 傅 教 大 師 の 傳 へ た る 密 教 は 、 胎 藏 の 一 部 若 し く は 雜 部 密 教 の 多 少 を 傅 へ た の み で あ る か ら 、 甚 だ 貧 弱 な も の で 、 到 底 弘 法 大 師 の 堂 々 た る 正 統 密 教 に は 及 び も つ か な ん だ の で あ る 。 夫 れ 故 に 弘 仁 三 年 の 高 雄 の 灌 頂 は 最 澄 の 發 起 で 灌 頂 が 修 せ ら れ 、 向 ら 入 壇 し て 密 教 を 學 ば ん と せ ら れ た 位 で あ る 。 併 し な が ら 傅 教 大 師 は 、 圓 密 襌 戒 の 四 察 を 一 山 に 弘 め ん と す る 一 大 理 想 を 有 し た る 點 に 於 て 、 室 前 の 偉 聖 で あ る こ と は 勿 論 で あ る 。 唯 惜 む ら く は 、 此 の 一 大 理 想 の 高 樓 は 、 漸 く 設 計 が 出 來 泥 ば か り で 、 弘 仁 十 三 年 五 十 六 歳 を 一 期 と し て 入 滅 さ れ た。 そ こ で 弟 子 の 圓 澄 等 二 十 三 人 は 、 傳 教 大 師 の 遺 旨 を 繼 承 し て 、 大 師 に 密 教 の 受 法 を 懇 請 し 、 次 の 様 な 誓 約 状 を 捧 げ た 。 弟 子 若 し 一 大 法 を 受 く る の 後 、 本 源 と 力 を 争 は ば 永 く 無 間 の 人 と な り 、 遂 に 成 覺 の 期 な か ら ん 。
傳 教 大 師 滅 後 の 弟 子 の 間 に 起 れ る 一 大 誓 願 は 、 傳 教 大 師 の 理 想 の 完 成 、 換 言 す れ ば 密 教 の 大 成 で あ つ た に 違 な い 。 傳 教 弘 法 の 二 大 師 が 密 教 を 傳 へ て 後 三 十 年 、 仁 明 天 皇 の 承 和 五 年 よ り 清 和 天 皇 の 貞 觀 四 年 に 至 る 前 後 二 十 四 年 間 に 、 東 密 よ り は 靈 巖 寺 の 圓 行 、 小 栗 栖 の 常 曉 、 安 祥 寺 の 慧 運 、 襌 林 寺 の 宗 嚴 、超 昇 寺 の 眞 如 親 王 、 襌 念 、 中崔 等 の 人 々 が 入 唐 し 、 台 密 に 於 て は 、 慈 覺 、 智 證 、 圓 載 等 の 人 が 入 唐 す る 。 此 等 の 人 々 は 各 競 争 的 に 密 教 の 新 法 を 吾 が 國 に 傳 へ 、 其 の 靈 験 威 力 を 以 つ て 國 家 を 鎭 護 し 、 王 威 を 發 揚 せ ん と し た 。 中 に も 慈 覺 智 證 の 二 人 は 最 も 傑 出 し 、 入 唐 の 年 限 も 長 が か つ た も の で あ る か ら 、 具 さ に 支 那 密 教 を 傳 へ 歸 り て 、 新 し き 台 密 の 教 理 を 組 織 し 、 教 義 の 上 に 於 て も 毫 も 東 密 に 譲 ら ず 、 傳 教 大 師 の 理 想 は 此 の 二 人 に よ り て 大 成 せ ら れ た の で あ る 。 特 に 蘇 悉 地 の 法 、 七 佛 藥 師 法 、 熾 盛 光 佛 頂 法 の 如 き は 、 東 密 の 知 ら ざ る 新 法 と し て 尊 重 さ れ 、 當 時 の 教 界 に 異 状 な る 威 動 を 與 へ た 。 中 に も 熾 盛 光 法 は 靈 験 最 も 顯 著 な り と 信 ぜ ら れ 、 文 徳 天 皇 の 嘉 祥 三 年 に は 、 叡 山 に 天 子 本 命 の 道 場 と し て 惣 持 院 を 建 立 し て 、 藤 原 良 房 の 依 頼 に 應 じ て 、 盛 ん に 此 の 新 法 が 慈 覺 大 師 に よ り て 修 せ ら れ 、 慈 覺 大 師 の 弟 子 慧 亮 も 亦 惟 仁 親 王 の 爲 に 祈 念 し た の は 此 の 時 で あ る 。 世 に 傳 ふ る 所 に よ れ ば 、 文 徳 天 皇 の 皇 子 惟 喬 親 王 と 、 惟 仁 親 王 と の 立 太 子 の 位 争 が 此 の 時 あ つ た と 云 ふ の で あ る 。 惟 喬 親 王 は 文 徳 天 皇 の 長 子 で 、 正 四 位 下 紀 の 名 虎 の 女 に 御 生 れ に な つ た 。 天 皇 は 密 教 發 達 史 中 に 於 け ろ 觀 賢 僧 正 四 三
密 教 發 達 史 上 に 於 け る 親 賢 僧 正 四 四 親 王 を 深 く 寵 愛 さ れ て 皇 太 子 と 爲 し 給 は ん と し た 。 然 る に 藤 原 良 房 の 女 染 殿 皇 后 と 申 す 方 に 惟 仁 親 王 が 御 生 れ に な つ た 。 冥 房 は 豫 て 皇 子 の 降 誕 を 眞 雅 僧 正 に 頼 ん で 居 つ た と こ ろ が 、 嘉 祥 三 年 三 月 二 十 五 日 に 皇 子 が 誕 生 さ れ た 良 房 は 更 ら に 惟 仁 親 王 を 皇 太 子 に 立 た し め ん こ と を 慈 覺 及 其 の 弟 子 慧 亮 に 願 つ た 。 惟 喬 親 王 は 高 雄 の 眞 濟 僧 正 が 護 持 す る 。 そ こ で 此 の 争 は 、 一 面 よ り 日 へ ば 、 天 皇 と 良 房 、 紀 氏 と 藤 原 氏 、 台 密 と 東 密 と の 法 験 競 と な っ た の で あ る 。 競 争 の 方 法 は 競 馬 の 勝 負 に よ つ で 決 せ ん と す る の で あ る 。 眞 濟 僧 正 は 惟 喬 親 王 の 騎 手 を 加 持 し 、 慧 亮 は 惟 仁 親 王 の 騎 手 を 加 持 し た 。 慧 亮 が 獨 鈷 以 つ て 脳 を 碑 き て 熱壽 し た 結 果 、 み で と 台 密 の 勝 利 に 歸 し て 、 惟 仁 親 王 が 其 の 年 の 十 一 月 二 十 五 日 に 皇 太 子 に 立 た れ た 。 後 の 清 和 天 皇 は 此 の 御 方 だ あ る 。 尤 も 此 の 事 件 は 正 史 に は 記 載 な く 輕 卒 に は 信 用 し 難 い が 、 當 代 の 社 會 状 態 と 藤 原 氏 の 婚 姻 政 略 に よ り て 、 氏 族 の 繁 榮 を 計 ら ん と す る 傳 統 的 精 紳 よ り 考 ふ る に 、 強 ち に 否 認 す る 課 に ゆ か ぬ 。 東 寺 長 者 補 任 に 國 史 を 引 き て 、 天 安 二 年 八 月 文 徳 天 皇 病 に 寝 ぬ 。 眞 濟 病 に 冷 泉 院 に 侍 す 。 大 漸 の 夕 時 論 嗷 々 、 眞 濟 志 を 失 ふ て 隠 居 す 。 (續 々 群 書 類 從 第 二 ノ 四 八 〇 ) 又 元 享 釋 書 に も 此 の 件 に つ い て 、 天 安 二 年 八 月 天 皇 病 に 寝 ぬ 。 眞 濟 看 護 に 侍 す 。 昇 遐 の 後 志 を 失 ふ て 隠 居 ( 高 雄 )す 。 さ き に 慧 亮 法
師 と 法 験 を だ く ら べ て 勝 た ず 。 此 に 至 つ て 益 快 々 た り 。 貞 觀 二 年 二 月 二 十 五 日 逝 く 。 と 云 ふ よ り 見 る も、 多 分 此 の 事 件 は 事 實 で あ ら う 。 か く し て 、 文 徳 、 清 和 、 陽 成 、 光 孝 の 四 帝 四 十 年 間 に 台 密 は 、 教 義 の 上 に も 、 實 勢 力 の 上 に も 、 異 常 な る 發 展 を 遂 げ 、 圓 澄 の ﹁ 本 源 と 力 を 争 は ず ﹂ と 稱 し た る と 反 對 に 、 台 密 は 却 つ て 密 教 の 本 源 た る か の 現 象 を 呈 し た 。 此 の 時 東 密 に は 、 眞 濟 、 眞 雅 、 眞 然 等 あ り と 難 も 、 單 に 大 師 の 大 成 し た 密 教 を 忠 實 に 傳 承 す る の ろ に し て 、 新 し き 教 義 上 の 組 織 は 更 ら に な く 、 圓 行 、 常 曉 、 慧 運 の 如 き 入 唐 家 あ り と 雖 も 、 創 造 的 氣 魂 に 於 て 遙 か に 慈 覺 智 證 に 及 ば ず 。 台 密 の 雄 飛 は や が て 東 密 の 雌 伏 時 代 と な つ た こ と で あ る 。 ( 此 の 一 節 密 教 研 究 第 十 二 號 台 密 の 教 義 及 び 歴 史 蓼 照 ) 第 三 節 傳 教 慈 覺 の 諡 號 東 密 に は 空 海 大 師 を 始 め 、 實 慧 、 眞 濟 、 眞 雅 等 代 々 の 東 寺 の 長 者 は 必 す 僧 綱 と な つ て 、 佛 教 界 の 統 理 者 と な つ た 。 特 に 眞 雅 僧 正 の 如 き は 、 生 前 に 於 て 清 和 天 皇 の 御 歸 依 淺 か ら ざ る 爲 め 、 官 は 僧 正 に 位 は 法 師 大 和 上 位 に 上 り 、 東 寺 の 長 者 に 各 宗 の 法 務 を 兼 ね 、 輦 車 宮 中 に 入 る の 殊 遇 を 賜 は つ た が 、 天 台 宗 に は 最 澄 も 圓 仁 も 、 生 前 に は 曾 て 僑 綱 の 任 官 な く 、 無 位 の 護 持 僧 で あ つ た に 過 ぎ な い 。 然 る に 台 密 の 隆 運 に 向 ふ に 當 つ て 、 慈 覺 の 弟 子 に し て 法 験 比 類 な き 、 無 動 寺 の 相 應 和 尚 の 奏 請 に よ り て 、 清 和 天 皇 の 貞 觀 八 年 七 月 十 二 日 、 最 澄 圓 仁 の 二 人 に 同 日 に 、 諡 號 と 法 印 大 和 尚 位 を 賜 は つ た 教 密 發 達 史 上 於 に け る 觀 賢 僧 正 四 五
密 教 發 達 史 上 に 於 け る 觀 賢 僧 正 四 六 の で あ る 。 始 め 相 應 和 上 、 支 那 の 天 台 の 祖 師 、 南 嶽 の 慧 思 襌 師 、 天 台 の 智 者 大 師 は 共 に 勅 號 が あ る 。 願 く は 先 師 圓 仁 に 大 師 の 諡 號 を 賜 り た い と 奏 請 し た 。 朝 庭 に は 之 れ を 詮 議 し て 曰 く 、 最 澄 法 師 猶 未 此 の 稱 な し 、 師 資 の 道 自 ら 順 序 あ り 、 何 ん ぞ 獨 り 弟 子 に 及 ば ん と 拒 絶 し た 。 相 應 は 更 に 奏 し て 曰 く 、 祖 澄 、 父 仁 は 龍 の 如 く 象 の 如 し 、 各 西 唐 に 赴 き 共 に 東 漸 の 燈 火 を 傳 ふ 。 弘 法 の 功 優 劣 な し 。 然 る に 圓 仁 を 先 き に す る こ と は 、 直 接 の 師 で あ る か ら で あ る 。 聖 恩 若 し 二 師 に 賜 は ゞ 祝 慶 之 れ に 過 ぎ ず と 、 此 れ に よ つ て 最 澄 に 傳 教 大 師 、 圓 仁 に 慈 覺 大 師 の 諡 號 を 賜 い 共 に 法 印 大 和 尚 位 を 追 賜 し た 。 之 れ 實 に 吾 國 に 於 け る 大 師 號 の 最 初 で あ る 。 最 澄 は 入 滅 後 四 十 五 年 に 當 り 、 圓 仁 は 入 滅 後 三 年 目 で あ つ た 。 両 人 の 諡 號 が 何 等 の 故 障 な く 、 す ら く と 運 ん だ こ と は 、 一 は 先 例 が あ つ た か ら で あ ら う が 、 主 と し て 台 密 の 興 隆 と 、 慈 覺 慧 亮 の 法 験 の 結 果 で あ る と 思 ふ 。 若 し 其 の 勅 書 を 讃 ま ば 此 の 意 味 は 明 瞭 に 現 る る で あ ら う 。 傳 教 大 師 の 勅 書 に 、 勅 す 、 道 の 高 き も の は 光 榮 目 ら 遠 し 、 徳 の 盛 な る も の は 號 諡 必 ず 彰 は る 。 奮 章 の 存 す る と こ ろ 、 已 に 眞 俗 未 だ 異 な ら す 。 故 の 天 台 の 本 師 最 澄 、 遠 く 重 溟 を 渉 り 、 詳 に 一 乗 を 求 め た り 。 慈 雲 を 西 極 よ り 引 き て 、 法 雨 を 東 岳 に 注 ぎ た り 。 世 始 め て 波 利 の 平 路 を 知 り 、 人 新 た に 僑 奢 の 美 衣 を 羞 づ 。 滅 度 し て 年 深 け れ ざ も 、 遙 か に 虚 空 の 涙 を 堕 す を 聞 く 、 而 し て 興 隆 日 に 就 る 、 近 ご ろ 景 葉
の 輝 り を 揚 ぐ る を 見 て 、 既 に 渇 仰 の 誠 を 篤 く す 。 何 ぞ 追 崇 の 典 を 空 し く せ ん や 。 宜 し く 法 印 大 和 尚 位 を 贈 り 、 仍 て 諡 し て 傳 教 大 師 と 號 す べ し 。 ( 日 佛 企 書 天 台 霞 標 一 ノ 二 四 ) 興 隆 日 に 就 り 近 く 景 葉 の 輝 り を 揚 ぐ 云 ふ 文 は 、 云 ふ ま で も な く 慈 覺 智 證 等 の 台 密 興 隆 を 指 し た も の で あ ら う 。 次 に 慈 覺 大 師 の 勅 書 に 、 勅 す 。 日 轡 ま さ に 昇 ら ん と し て 、 先 づ 高 く昇 を 揚 ぐ 、 金 波 已 に 没 し て も 尚 餘 輝 を 散 す 。 故 の 天 台 座 主 圓 仁 、 慈 襟 測 ら れ す 、 慧 翅 高 く 飛 ぶ 。 五 臺 に 到 り て 津 を 問 ふ 。 誠 、 頸 を 刺 す に 同 じ 。 三 密 を 開 き て 教 を 弘 む 、 業 、 こ れ 華 を 増 し 、 大 梵 輪 を 轉 し 、 獅 子 吼 を 正 す 。 朕 ( 清 和 帝 )眇 た る 身 を 以 つ て 頻 り に 慈 顔 に 接 す 。 護 持 の 俄 に 隔 り た る を 恨 む 。 崇 飾 を 思 ふ に 何 ぞ 窮 め ら ん や 。 宜 し く 法 印 大 和 尚 位 を 贈 り 、 慈 覺 大 師 と 號 す べ し 。 ( 日 佛 全 書 天 台 霞 標 一 ノ 三 三 ) 股 眇 た る 身 を 以 つ て 頻 り に 慈 顔 に 接 す 。 護 持 の 俄 に 隔 た り た る を 恨 む と は 、 慈 覺 天 皇 の 御 誕 生 の 塒 よ り 護 持 僧 と し て 、 薫 化 し 奉 り 、 特 に 立 太 子 及 御 即 位 、 皆 覺 大 師 の 護 持 に よ る 。 故 に 天 皇 に 取 つ て は 師 父 の 如 き 思 あ る を 示 さ れ た も の で 、 如 何 に 天 皇 が 慈 覺 の 法 力 護 持 に 頼 ら れ た か を 察 す る に 餘 り が あ る 。 師 最 澄 の 大 師 號 も 實 は 、 覺 大 師 三 密 加 持 の 餘 光 と 日 つ て よ い か も 知 れ の 。 か く し て 慈 覺 傳 教 の 諡 號 の 降 下 は 、 台 密 の 興 隆 の 結 果 で あ つ た こ と を 察 知 す る に 足 る の で あ る 。 然 る に 陽 成 天 皇 の 退 位 、 光 孝 天 皇 の 登 極 、 宇 多 天 皇 の 入 密 、 醍 醐 天 皇 の 御 歸 依 に 關 し て 、 益 信 、 聖 密 教 發 建 史 上 に 於 け る 觀 賢 僧 正 四 七
密 教 發 建 史 上 に 於 け る 観 賢 僧 正 四 八 寳 、 觀 賢 等 の 威 徳 が 顯 れ て 、 東 密 の 興 隆、 大 師 の 諡 號 降 下 と な つ て 、 台 東 二 密 の 轉 換 期 を 現 幽 す る の で あ る 。 第 四 章 東 密 の 興 隆 第 一 節 聖 寳 の 醒 醐 山 建 立 台 密 が 隆 運 の 絶 頂 に 達 し た 、 清 和 天 皇 の 貞 觀 十 六 年 、 聖 賢 理 源 大 師 は 醒 醐山 を 開 い て 、 東 密 の 爲 め に 一 大 根 本 這 場 を 建 設 し た 。 聖 賢 尊 師 は 天 長 六 年 降 誕 し 、 十 六 歳 の 時 、 貞 觀 寺 の 眞 雅 僧 正 の 室 に 入 つ て出 家 し 、 南 都 に 遊 び て は 華 厳 法 相 の 宗 義 を 究 め 、 特 に 三 論 の 宗 義 を 窮 め て 古 今 に 獨 歩 し 、 南 都 の 東 大 寺 に 東 南 院 を 開 き 、 三 論 の 中 興 、 維 摩 會 の 講 師 と し て 、 雷 名 を 天 下 に とど ろ か し た 。 密 教 は 眞 雅 、 眞 然 の 二 師 に 學 び 、 遂 に 南 地 院 の 源 仁 僧 都 の 密 灌 を 受 け て 、 付 法 の 正 嫡 と な り 、 小 野 流 の 根 本祖 師 と な つ た こ と で あ る 。尊 師 器 宇 甚 宏 濶 に し て 、 其 の 雄 渾 偉 大 な る 氣 魂 は 、 翔 天 の 翼 を ひ ろ げ て 潟 大 千 を 呑 吐 す る の 慨 あ り 。 役 の 小 角 以 來 人 跡 絶 へ た る 大 峰 山 を 蹈 破 し て 、 修 験 道 の 開 祖 と な り て 、 民 衆 的 密 教 を 開 き 、 山 岳 佛 教 の 精 粹 を 發 揮 し て 、 國 民 に 猶 未 だ 強 健 雄 偉 な る 精 紳 を 皷 舞 し つ つ あ る は 、 尊 師 の 偉 業 の 一 つ で あ る 。 此 の 雄偉 な る 氣 魄 は 、 東 寺 、 仁 和 寺 、 貞 觀 寺 等 の 都 市 佛 教 、 平 地 佛 教 に 飽 き 足 ら ず 、 傳 教 大 師 の
比 叡 山 、 特 に 高 祖 の 高 野 幽 開 創 の 芳 躅 を 慕 ひ て、 密 教 相 應 の 勝 地 を 示 し 給 へ と 祈 願 す る に、 王 城 の 辰 巳 に 當 つ て 五 色 の 雲 靉 靆 た り 。 尊 師即 ち 尋 入 つ て 笠 取 山 に 至 り 、 多 年 念 願 の 勝 地 を 得 、 直 ち に 草 盧 を 結 び て 準 提 、 如 意 輪 の 二 尊 を 刻 し て 奉 安 し 、 醍 醐 山 を 開 創 し た の が 、 眞 觀 十 六 年 の 秋 の 頃 で あ つ た 。 私 は 今 回 觀 賢 僧 正 の 調 査 研 究 の 爲 め に 、 醍 醐 に 行 つ て 、 始 め て 上 の 醍 醐 に 登 り 、 其 の 雄 大 な る 結 構 に 驚 い た の で あ る 。 海 援 一 千 五 百 尺 の 高 峰 、 都 の 東 南 に聳 え て 南 方 寳 部 の 靈 徳 を 收 め 、 山 岳 重 疊 と し て 、 曼荼 の 海 會 を 現 ず 。 一 度 こ ゝ に 到 る も の 、 誰 れ か 當 年 の 聖 寳 尊 師 の 雄 圖 と 靈 徳 に 感 激 を 禁 す る も の ぞ 。 後 年 觀 賢 僧 正 が 上 の 醍 醐 の 西 北 に 中 院 を 開 き て 、 更 ら に 大 伽 藍 を 建 て 、 叡 山 、 高 野 山 に も 劣 ら ぬ 雄 大 森 嚴 な る 道 場 を 造 り 、 教 界 に 雄 視 す る に 至 つ た 。 特 に 都 に 近 か き だ け そ れ だ け 教 界 を 支 配 す る こ と 、 高 野 山 よ り も 便 利 で あ つ た に ち が ひ な い 。 想 ふ に 聖 寳 尊 師 も 、 觀 賢 僧 正 も 、 上 の 醍 醐 に 住 し て は 、 叡 山 を も 凌 駕 し て 密 教 の 靈 威 を 振 は ん と す る 至 願 に も え た の で あ ら う 。 當 時 眞 言 宗 の 大 寺 院 に 、 貞 觀 寺 あ り 、 襌 林 寺 あ り 、 仁 和 寺 あ り 、 東 寺 め り と 雖 も 、 平 地 の 道 場 は 、 雄 渾 偉 大 な る 精 紳 を 鍛 錬 す る 場 處 で な い 。 醍 醐 も 上 の 醍 醐 と 下 の 醍 醐 の 繁 榮 せ る 時 と は 、 氣 風 の 上 に も 、 宗 教 觀 に 於 て も 大 な る 相 違 が あ る よ う で あ る 。 又 高 雄 山 あ り と 雖 も 規 模 が 小 さ い 。 上 の 醍 醐 の 雄 大 な る 結 構 を 見 ざ れ ば 、 聖 寳 觀 賢 の 雄 略 な る 精 紳 は 、 理 解 出 來 ぬ と 思 ふ 。 密 教 發 達 史 上 に 於 け る觀 賢 僧 正 四 九
密教 發達 史上 に 於 け る觀 賢 僧 正 五 〇 醍 醐 天 皇 の 母 后、 藤 原 の 胤 子 は 聖 賢 觀 賢 の 二 師 に 歸 依 す る 關 係 上 、 醍 醐 天 皇 は 、 延 喜 四 年 親 し く 臨 幸 し て 、 山 上 に 五 大 堂 、 山 下 に 釋 迦 堂 を 建 て て 勅 願 寺 と し た 。 特 に 觀 賢 僧 正 の 時 に な つ て 、 伽 藍 完 美 し 、 延 喜 十 九 系年 觀 賢 僧 正 を 座 主 と し 、 始 め て 三 綱 を 置 き て 大 衆 を 統 理 せ し め 、 顯 密 二 教 の 一 大 道 場 を 現 出 せ し む る に 至 つ た 。 且 つ 朱 雀 村 上 の 二 帝 は 、 醍 醐 の 準 提 觀 音 に 尊 師 の 所 願 し た る よ り 、 降 誕 し た ま ひ し よ り 、 醍 醐 朱 雀 村 上 の 三 帝 は 特 に 御 歸 依 深 く 、 醍 醐 天 皇 の 如 き は 、 御 歸 依 の 餘 り、 玉 骨 を山 上 の 念 覺 院 に 納 め 、 御 陵 を 醍 醐 の 山 下 に 築 き玉 ふ た 。 こ れ よ り 醍 醐 山 は 、 皇 室 御 歸 依 の 中 心 地 と な り 、 仁 和 寺 、 東 寺 と 相 對 立 し て 、 日 本 佛 教 界 の 重 鎭 と な り、 特 に 幾 多 法 流 の 根 本 道 場 と し て 、 異 常 な る 影 響 を 日 本 佛 教 界 に 及 し た こ と で あ る 。 第 二 節 寛 平 法 皇 の 御 出 家 寛 平 法 皇 の 御 出 家 、 次 で 入 壇 灌 頂 廣 澤 流 第 二 の 祖 師 と な ら れ た こ と は 、 吾 が 日 本 佛 教史 上 空 前 の 重 大 事 件 で あ る 。 然 ら ば 如 何 な る 御 思 召 に よ り て 御 出 家 せ ら れ た の で あ る か 、 出 家 の 動 機 は 充 分 明 瞭 で は あ り ま せ ん が 、 想 ふ に 密 教 の 御 信 仰 と 、 鎖 護 國 家 寳 祚遠 長 の 二 つ に 歸 す る こ と と 思 ふ 。 佛 教 渡 來 以 來 三 百 五 十 年 、 其 の 有 す る出 離 解 脱 の 印 度 佛 教 思 想 は 、 可 成 深 刻 に 上 下 一 般 の 思 想 界 に 浸 潤 し 、 聖 徳 太 子 の 佛 教 興 隆 .聖 武 孝 謙 二 帝 の 受 戒 と な り 、 密 教 の 流 傳 せ ら る る に 當 つ て 、 平 城 天 皇 、 清 和 天 皇 の 密 灌 を 受 け て 出 家 す る あ り 、 次 第 に 密 教 信 仰 の 隆 盛 な る に 随 つ て 、 護 持 僧 た る 東 寺 の 長
者、 叡 山 の 座 主 め 如 き は 、 常 に 宮 中 に 入 つ て、 佛 教 の 法 要 を 説 き 、 其 の 不 可 思 議 な る 、 神 秘 的 靈 力 に よ り て 、 天 皇 の 御 降 誕 以 前 よ り 、 護 持 し 奉 た の で あ る か ら 、 天 皇 は 己 に 幼時 よ り 佛 教 の 感 化 を 受 く る こ と 深 か く、 地 よ の 王 國 よ り も 寧 猜 神 的 王 者 た ら ん と す る 道 念 を 有 す る に 至 る は 必 然 の 結 果 で な け れ ば な らぬ 。 寛 平 法 皇 の 幼 時 、 叡 山 に 登 つ て 僧 儀 を 見 る や 、 終 日 歸 る こ と を忘 、 恒 に 諸 寺 を 歴 觀 す る を 無 上 の 樂 み と し 、 十 七 戯 の 時 己 に し き り に 出 家 を 求 め ら れ 、 善 無 畏 三 藏 を 理 想 の 人 物 と さ れ た よ り 考 ふ る も 、 明 ら か な 事 實 で あ る と 思 ふ 、 特 に 御 即 位 中 、 常 に益 信 僧 正 及 び 觀 賢 僧 正 を 召 つ て 、 金 剛 乗 第 一 義 の 法 門 を 聞 き 、 宿 願 愈 捨 て す 、 遂 に 寛 平 九 年 秋 七 月 三 日 、 位 を 皇 太 子 に 襌 り 、 昌 泰 二 年 十 月 十 四 日 、 益 信 僧 正 を 戒 師 と し 、 東 大 寺 叡 南 法 師 を 剃 髪 師 と し て 御 落 飾 し 法 號 を 空 理 と 改 め 、 太 上 天 皇 の 尊 號 を も辭 し て 、 仁 和 寺 に 退 く 、 此 の 時 公 卿 大 官 の 平 生 知 遇 を 得 た る も の は 、 皆 随 ひ 去 つ て 、 出 家 し た こ と に よ る と 、 ま す く 明 瞭 な こ と と 思 ふ 。 そ こ で 其 の 年 の 十 一 月 に は 、 南 都 の 東 大 寺 に 幸 し て 、 嚴 絡 な る 比 丘 の 二 百 五 十 戒 を 受 け 、 更 ら に 延 喜 元 年 十 二 月 に は 、 益 信 僧 正 を 請 し て 大 阿 闍 梨 と し 、 乞 戒 師 に は 權 律 師 峯 學 、 教 授 に は 神 日 律 師 、 歎 徳 に は 聖 寳 尊 師 を 請 し 、 八 十 口 の 職 衆 を 供 へ て 盛 ん 塗 る 具 支 灌 頂 を 受 け 、 益 信 僧 正 の 付 法 の 正 嫡 と な り 、 廣 澤 第 二 の 祖 師 と な ら れ た 。 後 、 醍 醐 の 中 院 に 幸 し て 、 觀 賢 僧 正 の 小 野 の 灌 頂 を 受 け 、 更 ら に 比 叡 山 に 登 り て 、 千 光 院 め 僧 命 に 就 い て 、 三 都 灌 頂 を 受 け て 台 密 の 深 旨 を も 極ぬ ら れ 、 こ こ に 小 野 廣 澤 、 台 密 東 密 の 全 密教 に 密 教 發 達 史 上に 於 け ゐ 觀 賢 僧 正 五 一
密 教 發 達 史 上 に 於 け る 観 賢 僧 正 五 二 通 ぜ ら れ た の で あ る 。 か く て 仁 和 寺 に 御 室 を 開 き 、 三 時 の 修 法 を 嚴 修 せ ら る ゝ と 共 に 、 政 治 上 の 大 事 を も 聞 し 召 さ れ 、 國 家 の 樞 機 に 参 し 、 法 皇 院 政 の 起 原 と な つ た 様 で あ る 。 そ こ で 一 度 出 家 し て 更 ら に 政 事 に 参 與 せ ら る ゝ こ と は 、 そ こ に 深 い 思 召 が な く て は な ら ぬ と 思 ふ 。 當 時 藤 原 氏 の 勢 力 強 大 に し て 、 歌 權 を 逸 に し 、 稍 も す れ ば 勅 命 を も 拒 否 す る 暴 状 を 呈 し た 。 寛 平 法 皇 御 在 位 の 時 、 彼 の 有 名 な 阿 衝 事 件 に よ り て摂 政 藤 原 基 経 に 苦 め ら れ た る 、 苦 き 御 経 験 と 、 當 時 眞 言密 教 の 靈 力 は 、 帝 位 を も 左 右 せ ん と す る 勢 力 を 示 し た の で 、 こ こ に 法 皇 は 、 將 來 の 皇 室 の 不 安 を 除 き 、 皇 統 と 密 教 と の 融 和 、 王 法 不 二 の 精 神 に よ り て 、 永 へ て 國 家 を 鎭 護 せ ん が 爲 め に 、 率 先 し て 御 自 ら 範 を 示 さ れ た の で は あ る ま い か 。 か く し て 法 皇 の 御 出 家 は 、 法 皇 御 自 身 の 菩 提 心 の 發 動 と 、 鎭 護 國 家 の 大 精 神 よ り 、 自 發 的 に 發 起 せ ら れ た も の で あ ら う が 、 自 分 は ざ う も 、 之 れ に は 觀 賢 僧 正 が 何 等 か の 關 係 が あ る 様 に 思 は れ て な ら ぬ 。 成 尊 僧 都 の 宗 體 要文 及 び 、 密 宗 血 脉 鈔 尊 に 、 觀 賢 僧 正 を ﹃ 寛 平 法 皇 御 出 家 の 師 ﹂ と あ り 、 然 れ ど も 是 れ は 恐 ら く 、 御 出 家 を 勤 め 奉 つ た 師 と 云 ふ 意 で は な い か と 思 ふ 。 何 故 な ら ば諸 傳 悉 く 益 信 僧 正 を 御 出 家 の 戒 師 と し て 居 る か ら で あ る 。 傳 燈 廣 録 に 、 帝 (宇 多 ) 圓 城 の 益 信 、 醍 醐 の 觀 賢 を 召 し て 、 金 剛 乗 察 最 大 一 義 諦 の 法 門 を 聞 く 、 夙 心 益 捨 て ず 。 ( 八 葉 學 會 傳 燈 廣 鎌 上 ノ 五 )
之 れ に よ り て 見 れ ば 、 平 生 觀 賢 僧 正 天 皇 に 密 教 を 講 し て 、 帝 の 御 出 家 を 勤 め 奉 り 、 王 法 不 二 の 理 想 を 説 い た の が 因 縁 と な つ た の で あ る ま い か 。 且 つ 後 に 説 く 様 に 、 法 皇 及 び 醍 醐 天 皇 と は 、 勸 修 寺 の 宮 道 氏 の こ と に 關 し て 、 深 か き 關 係 が あ る か ら で あ る 。 血 脉 鈔 に 、 眞 雅 の 入 室 寛 平 法 皇 御 出 家 の 師 な り 。 仍 つ て 、 仁 和 寺 の 別 當 に 任 ず 。 ( 密 教 血 脉 中 ノ 十 四 ) と あ る は 此 の 意 味 を 語 る も の で あ ら う 。 か く て 寛 平 法 皇 の 東 密 に 入 り 給 ひ し こ と は 、 東 密 の 興 隆 の 上 に 非 常 な る 便 宜 と 因 縁 と を 與 へ 、 仁 和 寺 は 貴 族 的 密 教 の 本 源 と な つ て 、 之 れ よ り 天 皇 及 び 皇 子 皇 孫 の 出 家 す る 御 方 多 く 、 眞 言 密 教 は 、 吾 が 國 體 と 切 つ て も 切 れ ぬ 、 深 か き 關 係 を 結 ぶ に 至 つ た こ と で あ る 。 第 三 節 密 教 の 信 仰 と 醍 醐 天 皇 眞 言 密 教 は 頗 る 現 世 爲 本 の 宗 旨 で 、 現 世 に 高 遠 の 理 想 を 實 現 し 、 個 人 に あ つ て は 現 世 の 諸 願 を 成 就 せ し む る の み な ら す 、 即 身 に 佛 身 圓 満 の 果 徳 を 實 證 せ し め 、 國 家 に あ つ て は 、 皇 室 の尊 嚴 愈 高 く し て 一 園文 化 の 中 心 た ら し め 、 萬 民 快 樂 、 五 穀 の 豊 熟 は 勿 論 、 災 を 除 き福 を 來 す る 大 法 と し て 、 密 教 渡 來 以 來 、 皇 室 の 御 歸 依 は ま す く 盛 ん に 、 宮 中 に 於 け る 佛 事 の 数 は い よ く 増 し て 、 天 皇 は 神 事 、 政 治 の 國 家 の 最 重 要 事 件 も 、 皆 佛 陀 の 加 持 護 念 に 依 る と 云 ふ 様 な 有 様 で 、 延 喜 の 聖 代 に は 眞 言 密 教 の 靈 威 は 遺 憾 な く 發 揮 せ ら れ 、 其 の 信 仰 は 絶 頂 に 達 し た 。 か く の 如 く 密 教 の 法 験 、 國 家 の 政 事 密 教 發 建 史 上 に 於 け る 觀 賢 僧 正 五 三
密 教 發 達 史 上 に 於 け る 観 賢 僧 正 五 四 を も 支 配 す る に 至 つ て 、 先 き に 定 め た 、 年 分 度 者 の 制 度 は 破 壊 さ れ 、 私 に 僧 と な ゐ 供 養 を 受 け ん と す る も の 天 下 に 満 つ る の 状 を 呈 し た。 三 善 清 行 の 意 見 封 事 に 、 ﹃ 當 時 天 下 の 人民 三 分 の 二 は 僧 侶 な り ﹄ と 云 つ た の も 、 多 少 誇 張 し た 言 葉 で あ ら う が、 以 つ て 延 喜 時 代 に 於 け る 佛 教 信 仰 の 普 及 を 見 る べ き で あ る 。 尤 も 其 の 多 く は 衣 食 の 爲 め に 僧 に な る の で あ る か ら 、 清 行 の所 謂 、 ﹃ 形 は 沙 門 に 似 て 心 は 屠 見 の 如 き ﹂ も の も あ つ た で あ ら う が 、 概 し て 此 の 時 代 に は 名 僧 智 識 も 多 く 、 眞 劔 に 三 密 喩 伽 の 觀 行 を 修 し て 、 其 の 清 行 は 骨 を 刺 し 髄 を 徹 す る に 至 り 、 五 相 三 密 の 觀 行 は 曼荼 海 會 の 諸 尊 を 驚 覺 し て 、 如 何 な る 所 願 を も 成 就 せ し む る に は 充 分 で あ つ た 。 當 時 の 高 僧 が 如 何 に 實 修 體 験 に 重 き を 置 い た か は 、 著 述 の 全 部 が 事 相 上 の も の で 、 教 相 の 著 述 が 殆 一 部 も な い の で も わ か る 。 特 に 本 號 に 掲 載 し た る 、 觀 賢 僧 正 の 道 場 觀 が 、 具 さ に 三 十 七 尊 の 曼荼 羅 を 觀 し 、 此 れ を 實 修 體 験 し た る に よ り て も 知 る べ き で あ る 。 そ れ 故 に 眞 言 行 者 の 、 一 擧 手 一 投 足 は 、 天 下 國 家 を 支 配 し 、 一 國 文 化 の 源 泉 と な つ た こ と も 想 像 し 得 ら る る の で あ る 。 醍 醐 天 皇 の 王 家 は 、 眞言 密 教 の 法 験 に よ つ て 最 も よ く 恵 ま れ た る 王 家 で あ る 。 天 皇 の 母 后 は 藤 原 高 藤 の 女 胤 子 と 申 す 方 で あ る 。 高 藤 青 年 の 時 山 科 の 里 に 、 鷹 狩 り し て 、 郡 領 宮 道 彌 益 の 女 列 子 を 得 た 。 彌 益 密 教 の 靈 験 を 信 ず る こ と 深 か く 、 醍 醐 の 聖 寳 觀 賢 の 二 師 に 歸 依 し て 、 一 門 の 繁 榮 を祈 つ た 。 列 子 後 に 胤 子 及 び 、 定 國 、 定 方 を 生 む 。 胤 子 は 時 康 親 王 の 皇 子 に し て 、 當 時 臣 籍 に 下 り た る
定 省 朝 臣 に 嫁 す 。 藤 原 基 経 の 湯 成 天 皇 を廢 す る や 、 諸 皇 子 を 物 色 し て 、 仁 明 天 皇 の 第 三 の 皇 子 時 康 親 土 を 迎 へ て 天 皇 と な し 奉 つ た 。 此 れ を 光 孝 天 皇 と 申 す 。 仁 和 三 年 天 皇 病 重 き に 及 び 、 基 経 を 召 し て 皇 儲 を 定 め し ら れ た 。 基 脛 は 當 時 己 に 臣 籍 に あ り た る 定 省 王 を 立 て ゝ 、 太 子 に 定 む る こ と を 申 上 げ た 。 宇 多 天 皇 は 即 ち 此 の 御 方 で あ る 。 か く し て 、 宮 道 彌 益 の 心 願 は 不 思 議 に 成 就 せ ら れ て 、 郡 領 の 孫 が 皇 后 と な ら れ た ば か り で な く 、 胤 子 皇 后 は 、 子 敦 仁 敦 實 等 を 生 む 。 敦 仁 親 王 は 後 の 醍 醐 天 皇 で あ る 。 か く し て 彌 益 は 醍 醐 天 皇 の 外 曾 父 に 當 る を 以 つ て 、 援 躍 せ ら れ て 、 宮 内 大 輔 に 昇 進 し 、 其 孫 定 方 は 右 大 臣 に 昇 り 、 定 國 は 近 衛 の 大 將 と な り 、 一 門 は 俄 か に 大 繁 昌 を 爲 す に 至 つ た 。 高 藤 ま た 、 彌 益 の 縁 に よ つ て 、 醍 醐 天 皇 の 朝 、 内 大 臣 と な つ た 。 今 の 華 族 、 耳 露 寺 、 葉 室 、 勸 修 寺 、 萬 里 小 路 、 清 閑 寺 、 中 御 門 、 坊 城 、 芝 山 、 池 尻 、 梅 小 路 、 岡 崎 、 穂 波 、 堤 の 諸 家 は み な 高 藤 の 後 で あ る 。 更 ら 系に 彌 益 の 同 族 仁 海 は 、 小 野 流 の 祖 と な り 、 玄 孫 雅 慶 は 勸 修 寺 の 別 當 と な り 、 雅 慶 の 兄 寛 朝 は 廣 澤 流 の 開 祖 と な つ た 。 か く し て 彌 益 の 心 願 は 不 思 議 に 酬 い ら れ て .堂 上 華 族 の 繁 榮 の み な ら す 、 密 教 の 野 澤 の 祖 師 を も 出 す に 至 り 、 非 常 な る 影 響 を 與 へ た の で あ る 。 彌 益 、 此 の 一 門 の 繁 榮 を 以 つ て 、 み な 密 教 の 靈 験 と な し 、 歓 喜 法 悦 の 感に 堪 へ ず 、盡 未 來 際 で も 、 其 の 功 徳 を 享 受 せ ん と し て、 山 科 の 家 を 捨 て ゝ 寺 と な し 、 華 嚴 経 の 語 に 、 帝 王 の 爲 め に 十 善 を 勸 修 す と 云 ふ よ り 、 勸 修 寺 と な し た 天 皇 は 延 喜 三 年 八 月 御 震 筆 の 法 華 経 を 寄 進 し 、 僧 綱 等 百 七 人 を 屈 し て 、慶 讃 の 供 養 を な さ れ た 。 密 教 發 達 史 上 に 於 け る觀 賢 僧 正 五 五
密 教 發達 史 上 に 於 け ろ觀 賢 僧 正 五 六 か か る 因 縁 あ る を 以 つ て . 延 喜 の 聖 主 は 、 深 か く 密 教 を 信 し 、 醍 醐 の 聖 寳 觀 賢 の 二 師 を 師 と し て 、 密 教 の 法 門 を 聞 き 、 遂 宮 中 眞 言 院 に 於 て 、 束 帯 の ま ゝ 傳 法 灌 頂 を 受 け 、 南 天 の 心 印 を 紹 ぎ て 、 密 教 の 精 粹 を 得 ら れ た 。 之 れ よ り 醍 醐 の 山 上 山 下 に 伽 藍 を 創 立 し 、 又 延 喜 十 九 年 に は 、 觀 賢 僧 正 を 座 主 に 任 し 、 大 師 の 撰 述 、 十 住 心 論 、 十 省 章 を 大 藏 経 に 編 入 し 、 後 聖 寳 尊 師 の 祈 願 に よ つ て 、 朱 雀 村 上 の 二 帝 を 生 み 、 其 の 他 十 六 皇 子 を 生 む に 至 る や 、 金 剛 界 の 十 六 大 菩 薩 に 準 し て 、 十 六 王 子 の 輔 相 等 、 各 王 子 を 抱 持 し て 、 醍 醐 の 梵 鐘 の鑪鞴 を 蹈 ま し め 、 帝 自 ら 其 の 鐘 銘 を 撰 し て 、 ﹁ 曉 驚 雪 叩 之 老 眼 、 夕 促 日 没 之 梵 唱 ﹂ と 云 ふ 有 名 な 秀 句 を 刻 せ し め 、 無 二 の 信 仰 を 表 示 さ れ た 。 か く し て 、 醍 醐 、 朱 雀 、 村 上 の 三 帝 は 、 密 教 の 法 力 よ り 生 し 、 醍 醐 山 を 中 心 と し て 、 深 か く 密 教 の 感 化 を 受 け 、 延 喜 天 暦 の 聖 世 、 密 教 の 文 化 を 來 さ し め た の で あ る 。