戦国期の河内田守護と一
向
は
じ
め
に
本論は、畿内戦国期の権力構造を解明することを目的とする。 主な対象は、戦国期の守護と⋮向一授勢力との関係についてで ある。対象とする地域は、湾内国である。河内田を対象とする 利点は、一向宗徒によって建設された寺内町が河内に多数ある こと。特に、本願寺と寺内町群を結ぶ権力体系・平和領域とさ れる﹁大坂並﹂体制の評舗と藍接関わる地域であることであ る。しかし、この問題は、守護公権力から守護役の免除を前提 に成立しているにも関わらず、守護公権力との関連では十分議 論されたとはいえない。その理由は、畿内の守護研究のうち、 細川京兆家や六角・京極氏研究以外は研究が退潮であったため授勢力
谷
春
日
明
である。これは、明応の政変による細川京兆家の畿内領国化説 によって摂河泉の守護研究の意義が展望できなかったことによ る。このため、﹁大坂滋﹂体制は、今谷明氏の畿内守護研究の 成果を得た上でも織豊政権との関係でしか議論されず、戦国賠 社会との関係で検討されることがなかった。 河内守護の研究は、今谷明氏の一連の研究がその土台となっ ている。しかし、近年湾内国守護畠出氏の研究は、いくつかの 点で大きく前進した。これによって、守護と一向一捺勢力との 関係も見産される必要がある。ここで、守護畠山氏研究の前進 した諸点について上げておこう。 まず、守護岳山氏を研究対象とする時期の範屈について、今 谷氏は天文一四年︵一五四五︶以前とし、それ以後は一種の戦 国大名段賠とされている。これに対し、矢田俊文氏は、天正一ニ 五偽教大学総合研究所紀前立別冊﹁宗教と政治 の織田帰国長の河内攻めまで、守護公権による河 内支配は続いたとされた。矢田氏の研究により湾内匿の政治史 を一貫して叙述する視点が提示されたのである。 次に守護の支配機構についてであるが、これも今谷氏の研究 が土台として理解されてきた。今各氏は、守護の支配機構を守 護・守護代・小守護代・郡代と遊行される支配の体系を検出し、 郡単位に地方支配が行われていることを実証された。これに対 し、矢田氏は戦国期に入ると守護と守護代が共同で河内を支配 する体制であることを指摘され、筆者も守護と守護代が独自に 行政機構︵守護家泰行所・守護代家奉行所︶を持ったことを実 証した。これは、従来守護代遊佐氏や木沢氏によって、守護畠 山氏が抽出俸となったという考え方に対しての批判でもあった。 また、戦毘期の地域権力である義就系守護代木沢長政の登場す る背景や政長系の守護家を代表する丹下氏の果した役割もこの 実証上の手続きのなかで評価することができたのである。 守護の軍事動員権については、矢田氏の研究によって、守護 が戦国領主に対し、一貫して軍事動員権を持っていたことを実 証された。また弓倉弘年氏は、元亀元年︵一五七
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︶の本願寺 の挙兵と雑賀衆について分析され、惣毘として雑賀衆が本腰寺 方として挙兵しなかったことを実−証された。これについて、天 の守護畠山氏滅亡以前と以後を分けて一撲を分析する必 ︵ 一 五 七 五 ︶ 正 五 問 問 要を言及されている。また、弓倉氏は河内国の守護代遊佐氏の 第 一 挙 一 編 成 も 検 討 さ れ 、 元 亀 昭 年 に は 、 上 ・ 下 郡 代 を 中 心 と し た 軍事一編成がなされたことを示した。この上・下郡代という新し い地域の創設と、軍事一編成について、地域認識の問題とともに 更に検討すべき点がある。これについては後述する。 守護の政策については、従来ほとんど問題とされなかった。 これについて、筆者は由回出義英が綿川政元の飽偶であったとす る説との関連で臨法の一部について検討した。つまり、岳山義 英は、文亀元年︵一五O
一︶段階で、閣法である指出を行った。 これは﹁段銭之地﹂のほかに﹁高除新開等﹂ことごとくの﹁指 出﹂であり、これらすべての田地に対し﹁堀銭﹂を賦課するこ とを目的としていたことである。これによって義英が独自に領 毘支配を強化する意思を持っていたことを指摘できた。 以上は、従来と違った守護畠山氏像が提示されている。一向 一授権力との関係で蓄えば、摂来寺や雑賀衆は守護畠山氏が滅 亡するまで、一貫して守護による箪事動員を受けており、彼等 を傭兵的な性格で議論するには、問題がある。 また、﹁河内錯乱﹂についても、従来細川政元と突如の関係 のみが問題となったが、﹁河内錯乱﹂の舞台となった河内閣内 の権力構造自体は問題とならなかった。 ﹁ 河 内 錯 乱 ﹂ と は 、 永 正 一 ニ 年 ︵ 五O
六 ︶ 一丹に絹川政元が本願寺宗主実如に依頼して向一撲を催し、畠山義英・畠山尚 順を攻め、その後、教団内部の混乱へと発展する事件である。 実如は政元による再三にわたる依頼で、河内・摂津の坊主・門 徒の出兵を命じた。しかし、喪河の坊主・門徒は、兵呉もなく、 先例もないとしてこれを拒否した。これにより、実如は、加賀 門徒を呼び寄せ、河内攻めを行った。 その後、摂河の門徒・坊主は、実如を蕗し、大坂締坊の実賢 を擁立しようと画策する。しかし、実賢は、これに乗らず、関 係者は処分された。この時、実賢と実賢の母の蓮能尼も大坂を 出た。これに対し、畠山尚顕は、蓮能尼を大坂に残すよう申し 出ている。結馬、蓮能尼は大壌を出た。その後、ふたりは一二年 牢々の身であったという。一河内久宝寺にある西証寺︵のちの顕 証寺︶実願︵蓮能尼の子、実賢の弟︶も同様であった。 この摂河内徒の動向について、従来の研究では、畿内では本 顕寺の世俗的支記が及んでいないとする評価が一般である。し かし、加の見方をすれば、接持門徒の主体的な行動は特筆すべ きであろう。上場顕雄氏は、これを大和川水系を中心とした門 徒の主体的活動と評価される。本論はこの視点を重視した吋。 こ こ で 、 問 題 点 を 簡 、 単 に 述 べ る と 、 前 述 し た よ う に 、 白 岡 山 義 英は文龍一元年から思法を発布し、河内盟内の支配を強化してい た。この状流下で、義英は宿敵であった畠山尚順と間同盟したの 融 制 図 郊 の 河 内 国 守 護 と 向 崎 駅 勢 力 である。摂河門徒は、この陪盟を支持したのではないか。 また、摂河門徒が実賢を謙立しようとした持期や、自由山尚顕 が蓮能尼に大坂に残るように申し出た時期も気になる。 喪河門徒の実賢擁立が、再畠山氏の没落以前であれば、摂河 門徒は明確に皮細川政元方として行動したことになろう。また、 実賢譲立が両自白山氏の没落後であれば、実如と政元の関係から みて、この行動が実行可能な時期とは、細則政元が暗殺された 永正四年六月以陣となろう。 ところで、尚順は没落後、紀伊屈に逃げている。蓮能尼を大 坂 に と ど め る よ う に 本 顕 寺 方 に 命 じ る 発 一 一 一 一 口 が 可 能 と な る の は 、 政元暗殺後と見るのが妥当である。つまり、摂河内徒が実賢を 捷立しようとした時期は、政元暗殺後と考えられる。それは高 山氏の軍事行動と連動していた。なぜ、摂河門徒は畠山氏を支 持 し た の で あ ろ う か 。 ひとつの答えとして、蓮能尼が岳山氏の出身であったことも 指摘できよう。摂河内徒は蓮能尼の子供たちの支配を望み、自白 山氏を支持したのかもしれない。僅し、畠山氏は領盟支配を強 牝している時期であり、摂河門徒はその支配を受け入れる必然 性があったのであろうか。 本稿は、河内圏の権力構造を守護公権との関係で展望し、こ の問題に接近したいと考えている。方法としては、守護権力内 一 五 五
紳問教大学総合研究所紀愛別問 J 一 小 数 と 政 治 ﹂ 部の権力のあり方を類型化し、それについて地域支配と結び付 け て 考 察 す る 。 また、地域社会にとって必要な公共事業を堤普請を例に検討 する。中心は、労働編成や主体についてであり、守護と⋮向一 撲勢力との関連でこれを議論することである。 また、﹁天文の一向一挟﹂後の体制は、織豊政権に至るまで の重要な時期であり、中近世移行期を考えるためにはこの時期 の権力を検討しなければならない。これを﹁天文の一向一挟﹂ の和平のありかた及び暦法との関連で検討し、守護公権力と一 撲について論じ、問問題に追りたい。本来ならば元亀・天正期ま で考察の範囲に入れねばならないが、永禄以降の守護高出氏の 実証的研究がまだ不十分な段措にあり、断念せざるを得なかっ た。これらの開題は、後日の課題としたい。
第一章
河内守護畠山氏の権力構造
第一節 守護内衆のふたつの領主像 高山氏は、三管領のひとつで河内国・紀伊国・越中国・大和 盟字智郡を領国とし、山城闇守護も度々勤める大大名であった。 高山氏がふたつに分かれ、対立をはじめるのは、畠山持閣の患 一 五 六 子義就と同養子政長が後継者争いをはじめた一五世紀中葉から のことである。雨者の子孫は、約一臼年に渡って争っており、そ れ を こ こ で 整 理 す る 余 格 は な い が 、 領 日 出 支 配 の 時 期 一 以 一 分 を 簡 単 ︵ 初 ﹀ に 整 理 し て お く こ と に す る 。 まず、義就・政長の対立の画期として位置付けられる事柄に、 文明九年︵一四七七︶九丹に畠山義就が京都を出て湾内属に下 向し、湾内国の領国経営を始めたことが上げられる。この時、 義就は誉回に本拠を置き、基家の代に高屋城を築いたという。 この体制は、義就・碁家・義英と三代続いた。例外的に、政長 の息子尚顕に占領された持期があるが、概ね永正三年︵一五O
六︶までの三十年間義就流畠山氏が河内支配を行っている︵永 正元年二一月からは、尚顕と共陪支記︶。これを伎にI
期とす る 。 その後、明応の政変で諸国を流浪していた前将軍足利義手が 上洛し、畠山尚順による汚内支配がはじまったのが、永正五年 ご 五O
八︶である。その後、尚頼と恵子積長の対立などがあ っ た が 、 大 永 七 年 ︵ 一 五 二 七 ︶ の 一 一 一 好 元 長 に 擁 さ れ た 前 将 軍 足 利義澄の子義雄、細川澄元の子晴元が阿波から堺に上陸し、い わゆる﹁堺幕府﹂体制が成立するまでの時期、約二0
年 陪 が 、 政長流畠山氏の河内支酷の時期である。︵立期︶ この﹁堺幕府﹂成立時期から天文四年︵一五三 に 天 文 の一向一授の和平が行われる約八年間は、河内の状況がよくわか らない。史料の残存状況にも関わるが、河内の在地状況も特に 混 乱 し て い た の で は な い か 。 ︵ 国 期 ︶ 次に天文一授の和平成立期で、領、王権力の支配範囲が確認さ れた持顕である。義就流では長経・在氏、政長流では弥九郎が 河内守護として荷内国を共向で支配した。この時期、在氏守護 代木沢長政が讃良郡に飯盛域を築域し、潤内国の権力構造が大 きく変わった。この体制制が変化するのは、天文一一年の河内太 平寺の戦いで木沢長政が戦死し、紀伊国から復帰した畠山植長 による一員守護支配が実現したことである。植長の後、空白期 があるが高政が継いだ。この後、畠山氏による体制が崩壊した のは、永捺五年︵一五六二︶の河内教興寺の戦いで畠山高政が 三好長慶に破れたことによる。︵
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期 ︶ 教興寺の戦い後、三好氏による河内支記が本格化する矢先、 永諌七年に三野長慶が病死する。翌年一一月には三好三人衆と 松永久秀の対立が表面化した。一方畠向高政・同守護代遊佐信 教は松永久秀と同盟し、永禄一O
年 に は 箪 事 行 動 を 開 始 し 、 ⋮ 内 内の匝復を始める。この謬着状態が決着するのは、永禄一⋮年 の織田信長のよ洛であった。︵V
期 ︶ 信長により、三好義継が若江城、自問山秋高が高屋城の体制と なるが、一苅亀四年︵一五七三︶畠出秋高が反信長の遊佐信教に 融 制 間 期 の 河 内 国 守 護 と 一 向 一 後 勢 力 暗殺され、同年一ニ好義継が信長方の若江三人衆に殺害される。 天正三年︵一五七五︶には、信長が河内攻めを終え、河内諾域 がことごとく破却され、河内守護勢力の歴史が終わる。︵明日 期 以上、多分に便宜的だが、ー期から羽期に分けてみた。本稿 では、このうちI
期から却期までを対象とする。この期間で、 筆者が以前明らかにした点をまとめてみると、まず、I
期の米 期と日期の特徴を見ると、市内畠山氏ともに領国支配のために官 僚組織が完成し、それとともに守護代家が自立して守護家・守 護代家が共同で河内闘を支配する体制となっている。 具体的には、義就流畠出氏の場合、義英段轄で守護泰行所と 守護代奉行所のふたつに奉行所が分かれ、各地に指出検地を行 い、公田を論ぜずすべての田地に堀銭を賦課しようと菌法を発 布した。この段轄で、守護奉行人に木沢氏が登用され、守護公 権力を背景一に田期で自立し、木沢長政は地域権力として成長す マ h v o 間じく、政長系畠山氏の場合、守護代遊佐氏とともに守護奉 行人の丹下氏が奉行人を越えて独自に守護の意を受けて文書を ︵ 泣 ︶ 発給する存在となる。これら、木沢・丹下は、守護公権力の執 行者として登場した奉行人であった。彼等は、守護公権を分有 された権力の側面が強い。ここでは彼等を、官僚型戦闘領、王と 一 五 七偽教大学総合研究所紀要別問﹁宗教と政治﹂ 呼ぶ。この内、木沢長政は紹川晴元の内衆として大和・山域・ 河内の守護代となり、天文一授以後では畿内最大の地域権力と なった。一六世紀のはじめは、これら官僚型戦闘領主が守護代 とともに拾頭した時代であった。彼等は、国人領、玉を軍事動員 する権限を持ち、段銭の徴収権や免除権を持った。これらの諸 点については、すでに筆者はいくつかの論考で言及しているの で そ れ に 譲 る 。 官僚型戦属領主と対比する存在は、国人領主から拍頭してき た勢力である。具体的には、政長流畠山氏しか現在指摘できな い が 、 野 尻 ・ 諮 問 一 援 ・ 安 見 氏 な ど が 上 げ ら れ る 。 彼 等 は 日 期 ・ 国 期では目立たない存在であったが、
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期 に 入 る と 拾 頭 ず る 。 例えば、安見宗一房が摩史上に登場したのは、天文一五年︵一 五四六︶九月のことである。彼は、細川氏締に加担して挙兵し た遊佐長教の河内方の武将として、突然姿を見せる。その後、 彼は畠山氏によって鷹山氏とともに山城層上三郡の守護代とな っ た 。 それについて、彼等が守護代となった理由は、次の史料から 読み取れる。﹁域州上一ニ郡守護代之儀、前人︵鷹山主殿助弘頼 ・安見与兵衛尉宗一局l筆者注︶御存知之儀候之条、従彼諸侍毎 篇被申事、弘頼・宗房可被仰次候﹂とある。つまり、出域の諮 待が鷹山弘頼と安見宗一房両人の守護代就任を望み、支持してい 一 五 八 る の で あ る 。 自 治 山 氏 は 南 山 城 地 域 の 議 待 を 軍 事 編 成 し た 。 諸 侍 を 一 編 成 で き たのは、鷹山・安見によってであった。彼等は諮侍の基盤の上 に乗った戦盟領、乏であったのである。ここでは、これを地域権 力型戦盟領主と呼ぶことにする。 天文年間中期、諸侍に持される形で、守護代となった安見・ 臆山両氏を抱える細川氏嬬権力は、広く諾侍を結集する論理を 最初から内包していたことがわかる。この後、細川氏綱権力の 中程であった河内守護代遊佐長教は、三好長慶と同盟し、一ニ好 政権が成立する。三好政権の革新性問、遊佐長教段階からのも のではないかと考えられるのである。 このほか、野尻・萱援氏は郡代的な性格ももっているが、や がてそれを越えた権力となったと考えられる。これについては、 後述するが、彼等の活動が目立ってくるのは、天文年間からで あ る 。 野 尻 ・ 菅 一 振 氏 の 権 力 を 考 え る と 、 る よ う に 思 わ れ る 。 一授勢力との関係があ 戦国期の守護権力は、室町時代以来の守護公権力を引き継ぐ と共に、この時期に広範に生まれる侍衆を基盤とする地域を権 力的に編成するふたつの権力基盤が必要であった。前者を宮様 型戦闘領、王に、後者を地域権力型戦毘領主に仮託して議論を進 めるが、両者が完全に分別できるわけではない。以下この範轄をめぐって検討を加えたい。 代ごろまでの住居跡などはよく検出されているが、 四世紀以 降の発掘例は非常に少なく、それは田村と震なるからとされ る。真宗を支持した人々は、新たに自然堤防上などに村を形成 した人々であった。但し、寺内町の形成は一六世紀に整備され はじめるし、自然堤前上の特の開発も近世初頭までつづいてお り、一回世記に新しく形成された村と住人だけの問題ではない。 但し、寺内甫も自然堤防や、河岸段丘上に分布しており、河川管 理は、これら地域の重要な開題で あったはずである。堤普講を問題 にすることは、真家勢力と守護と の関係をその存立基盤から潤うこ 第二節 堤普請にみる守護権力と地域社会 まず、ここでなぜ堤普請の問題を取り上げるのか、明確にし ておきたい。よく議論されるように、真宗勢力は、河川の自然 堤防・河岸段丘上に分布している。一方、発揖成果から鎌倉時 戦霞期の河内国守護と一向一挨勢力 豆沼扇状地 箆翠段
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ヨ 潟 湖 性 低 地 ~山 と に な る 。 河内の場合、﹁天文御日記﹂か 根 島 十 湿 辺 北 ら 焔 状 七 地 が ・ 真 の の ケ 帯 中 中 宗 よ 地 所 で 心 湾 の う 帯 ・ あ で 内 村 な で 河 り あ の の 深 あ 内 、 る さ 淀 分 団 つ 八 特 。 Jll布 士 通 た ケ に こ と を 帯 。 所 北 の ! 日 み で 現 と 河 地 大 る あ 夜 呼 内 域 和 と る き で ば は はJ
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。 も れ 湾 、 の 凡 ま 蓮 る 内 低 罵 そ た 、 中 河 内 も 、 極 地 帯 が 多 く 、 自 然 五 九帥 開 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 愛 別 m 間 J 京 教 と 政 治 ﹂ 堤防上では潅説が必要であるが、堤防の普請をしっかりしなけ れば、洪水によって村が流されるような地域であった。これら 田村が定着できたのは、河川の流路を⋮定度問定できたためで あろ%。それ以前が、洪水などによって、村が常に移動してい たのに対し、田村が移動しない構造を持っていた。それは、堤 普請が広範な地域を維持するだけの構造を持ったためであり、 そのような村落社会が生まれてきたことに求められるはずであ
ヲ 。 。
ところで、堤普請について、大山喬平氏は一五世紀初頭の古墳 例について検討している。応永一O
年︵一四O
三︶五月に春日 社 鎮 の 摂 津 国 榎 坂 郷 名 主 百 姓 等 申 状 の 分 析 か ら 、 神 崎 川 ︵ コ 一 一 回 川︶の堤の修護は、擾坂郷・垂水皮・穂積庄・野田秋永などが 分担するのが慣例であった。上流の吹田堤は、本所が年寅を下 行して堤を築いた。このとき、近隣傍庄はおろか大和・湾内か らも人夫が走来て、工事を終えたという。 堤普請の労働編成が荘醤領主による年賞下行によって行われ、 しかも近隣を越えて他圏からの労働力を確保することも可能な 社会であったことが理解できるのである。 三浦圭一氏は、一七世紀の尾張屈の入鹿池の築堤工事から河 ︵ お ︸ 内田の土木技術の高さを論じている。この池の堤防築造は、寛 か ら 翌 一O
年までで、語負ったのは湾内国 永九年ご六三一︶ ノ、。
の 日 一 庭 環 甚 九 部 で あ っ た 。 一 一 一 浦 氏 は こ の 日 麗 頭 甚 九 郎 の 存 在 か ら河内属の日麗集団の成立の背景に、中世からの谷池や大和問 の堤前などの自然との戦いの歴史を見出している。一七世紀の 堤普請については、村田路人氏が夫頭と呼ばれる専業の藷負人 ︷ 訂 ︶ がおり、村に替わって国役を代行したことが指摘されている。 両 者 は 共 通 の 存 在 で あ ろ う 。 三浦氏の指摘されたように日雇頭甚九郎と一五世紀の大和・ 河内の民衆像は、共通した部分を抱えているであろう。この村 落社会を越えた労働の在り方 l 過剰な労働は、藤木久志氏が指 摘された民衆による食うための切ない戦争と共通する問題であ ︵ お ︶ る。この労働形態が畿内の場合、一六世紀に寺内時の建設に向 か っ た の で は な い か 。 しかし、ここで問題なのは、一五世紀や一七世紀の堤普講に つ い て の 労 働 一 編 成 が 議 論 さ れ た が 、 六世紀のそれは今だに議 論されていないことである。ここでは、 の村落が堤普請を する必然的な性格を持つこと、またその労働編成が解明されて いないことを指摘した。以下異体的に論じていく。 ①出口光善寺と伊香費郷国人土屋氏 蓮如の河内布教を検討した上場顕雄氏は、蓮如の湾内進出に 重要な役割を果たした者に、渋川郡久宝寺の慈願寺法円と出口坊舎︵光善寺︶の光善を上げている。後に、久宝寺には蓮如に よって西証寺が創建され、出口も光善寺に蓮如の長男頼如が入 寺し、再地域は本顕寺の最も震要な御坊を持つ地域となる。 このふたつの坊は、天文の一向一授後の復興でも﹁河内層ニ ヶ所之坊﹂と呼ばれ、河内自の真宗勢力の象徴であった。まず、 出口光善寺周辺の問題を考えてみたい。 出口は淀川左岸の自然堤防に位霞し、すぐ北に畠山尚願方の 国人領主で鎌倉時代以来の茨田郡伊香賀郷の地顕である土屋氏 の 本 拠 が あ っ た 。 土屋氏が戦国期に活躍をはじめるのは、明応の政変後である。 それ以前、土屋氏は長く浪人をしていた。事実上、伊香賀郷に 復帰するのは尚願の河内支配がはじまってからである。永正元 年二一月に尚瀬と義英は和睦するが、その翌年の永正ニ年十月 一 一 一 日 付 畠 山 奉 行 人 世 帯 書 が 土 屋 孫 三 郎 宛 て に 発 給 さ れ て お り 、 ﹁ 河 内 錯 乱 ﹂ 以 前 に は 伊 香 賀 郷 に 痩 帰 し て い た 。 尚々以白眼堤之儀承之候、主︵分嶋中へ可申付候、出 口 之 儀 も 堤 切 候 関 、 間 前 申 遺 鏡 、 難以使者可申御沈酔之由娯、然らは不申崩候てハと甚書ニ て申子細ハ、今度伊香賀堤及大破、十七ケ所へ水入候、 連々此堤之事堅田に可取付旨、自嶋中も雄令催偲候、伊香 戦闘郊の河内国守護と 向 授勢力 賀ニ不令合点候欺、知此成行候、無是非次第候、鳴の様韓 貿所にも淵底可有御存知候問、不能中分候、伊香費ニ水止 等無沙汰可有之条、自十七ケ所罷上候もの堤を可築之由令 内談之由鉄、百姓難儀きわまり候問、定商盆︵はたらきを可 成候獄、然者互に事を左右によせ、不患の暗一嘩等もあるへ く候哉、所設一両日中ニ、以日限堤の儀堅田ニ土屋かたへ 可被仰付張、これ又制御異見之外あるましく候、いまつの儀 も 、 一 在 か た へ 此 筋 時 申 置 候 、 恐 々 謹 一 言 、 願 盛 ︵ 花 押 ︶ 五丹廿三日 ︵ 切 封 ︶ 丹 下 備 後 殻 へ 河 I I園 内 盛芸守 進之候 この文書は、湾内守諮問代遊佐願盛が内衆丹下盛賢に宛てて出 された文書である。丹下は前述したように畠山尚顧の時は守護 奉行人の筆頭と考えられ、稿長期に入ると単独で守護の命を受 けて文書を発給する存在となり、守護家の代表として活寵す る。この文書は守護家と守護代家のそれぞれ中心的存在である 遊佐順盛と丹下盛賢が連絡を取り合っている史料である。この 文書が、土屋氏の手に残ったことを見ると、この文書は盛賢を 通じて土康氏のもとに届けられたと考えられる。土一農民は守護 ノ 、
偽教大学総合研究所紀婆別田川﹁宗教と政治﹂ 家系の居人であったと見てよい。これは土屋氏が河内に痩帰す るに際し、丹下氏宛てに文書を出していることからも窺える。 宮債型戦毘領主が拾頭する時期の文書一である。 さて、これを見ると、淀川の水が増水したためか伊香賀堤が 大破し、河内十七ケ所に水が入ったことが記されている。ここ で、堤の管理についていくつかのことがわかる。 ィ、普段は、守護は堤管理者たちに堤を堅固にするよう命じ ていたこと。伊香賀郷の場合、土屋氏であろう。 ロ、また、堤が切れたとき、被害が想定される地域からも関 様の要求が出ていたこと。この場合、嶋中である。嶋中に ついては人物を指す可能性もあるが、後述するように地域 を指す言葉と考えられる。但し、直接の被害地域は河内十 七ケ所である。嶋中と十七ケ所は完全には一致しない。こ こでは、ひとまず、嶋中を淀川の堤防と対応する地域社会 の呼称と定義しておく。 ハ、しかし、堤が大破した場合は、被害の影響の出ている地 域の百姓たちは率先して堤普請に参加することが予想され る こ と で あ る 。 以上から、広域の堤の管理者は守護であり、ここの堤の管理 責任は閑人領主などが持っていたこと。柏崎中と呼ばれる地域が 間人に対し、堤を堅聞にするよう命じる権眼を持っていたこと。 」4 ノ 、 問内十七ケ所などの村落住人が堤普請に参加していたことなど が 理 解 で き る 。 また、尚々書で出口堤も切れたことが記されており、間同様の 指導をしたことがわかる。この場合、遊佐がだれに文書を発給 したかわからない。ここで少なくとも出口光善寺自身も洪水に 見舞われたことは確かであろう。浄土真宗地域の社会的安定の 一端は、守護や国人領主にかかっていたことがわかる。一六世 紀前半段階の堤普請は、守護や国人領、王・地域社会が共同で行 っ て い た 。 もうひとっこれに関連する史料がある。 就出口堤之儀、為合力自身被打越、別而御馳走之由、僻気 遣本望投。権野善左衛門尉令逗留候問、弥制御入魂喜悦候、 猶 期 面 候 、 恐 々 謹 一 言 、 三 月 廿 一 一 日 遊 佐 長 教 ︵ 花 押 ︶ 土屋喜左衛門尉殻 進之候 この文書は、守護代遊佐長教が発給した文書であるため、天 文期の文書一である。これでは、土屋氏が出口堤の合力に自ら出 て行ったことがわかる。やはり堤普藷と考えるのが自然だろう。
また、食料の下行も土屋氏が一部行ったことがわかる。出口の 北隣に本拠がある土屋氏も、自分の持ち場以外の近郷地域の堤 に対しても協力し、地域全体で堤を守る体制があったことを物 語っている。食料の下行もこの場合、近郷の土屋氏も協力して いるが、これらも堤を維持すべき権力が下行するようになった と 思 わ れ る 。 そして、これらは地域だけが解決することではなく、常に守 護或いは守護代の問題でもあったことは、守護代遊佐長教が文 書を発給し、褒めていることからも理解できよう。 ところで、本願寺は伊香質郷のすぐ北に本拠のある三屋氏と 深いかかわりがあったようだ。 一ニ屋弥九部兵衛跡職之事、子細候間従此方取立候儀候。遊 佐 河 内 守 殿 へ 此 段 申 受 候 、 就 笠 ︵ 御 拝 領 伊 香 賀 郷 内 下 地 之 事 、 依申可被返付候由蒙仰候、祝着本望候、然者御一行申受度 候、為其案文認進之候、自此方⋮行之事被保候、彼者女子 之事候、猶子を可申付儀候、其時如御望候、調可進候、 先々ロハ今丹下殿へ之害状ニ、一行之通申入候、随高雄軽勘 之至候、一腰二百疋進入候、喜悦義計候、恐々謹言 十 二 丹 七 日 頼 玄 ︵ 花 押 ︶ 土屋弥次郎殿 戦 国 期 の 一 河 内 腿 守 護 と 一 向 一 授 勢 力 御宿所 ︵ 包 紙 ︶ 土屋弥次郎殿 御寵所 下 問 頼 丹 玄
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後 この文書は、本顕寺の下関頼玄が土屋氏に宛てた文書である。 まず、この文章に出てくる人名について観察しておこう。遊佐 湾内守については、時期的にみると、遊佐長教が河内守を名乗 る天文一四年︵一五回五︶であり、頼玄との関係からみて、こ の文書を天文一四年以降のものとはできないだろう。従って長 教の父、順盛の時とみるべきである。また、丹下もこのため感 賢 に 当 た る 。 さて、遊佐顕盛の活動時期だが、管見の範囲では大永七年 ︵ 一 五 一 一 七 ︶ 以 降 そ の 存 在 が 確 認 で き な い 。 ま た 、 頼 盛 が 一 円 内 守を名乗る以前は、次郎友衛門尉を名乗ったが、吋多聞院司 記﹄永正四年︵一五O
四︶十二月二十一日条が下眼で、河内守 を名乗る初見には﹁御慈顕続殿日記﹂永正七年八丹七日条であ る。従って河内守を名乗るのは、この間と思われる。この文書 の時期は、これでおよその時期が比定できる。 さて、内容であるが三鹿弥九郎兵衛が死亡した後、その所職 である伊香賀郷内の下地を本願寺方が所持していた。これにつ ム ノ 、係数大学総合研究所紀姿別冊ぷ部教と政治﹂ いて、遊佐順盛が申し出て返付することに承諾したことが記さ れ て い る 。 これについて、本願寺方は土屋方から一行を要求し、本願寺 が 案 文 を 土 屋 氏 に 送 っ て い る 。 こ れ に は 、 一 一 一 屋 弥 九 部 兵 衛 の 女 子に猶予を取り、それに相続させる約束であったようだ。これ を条件に本願寺は、伊香賀郷の下地を返還したのである。これ について守護家筆頭奉行人丹下盛賢にも同意を得ている。 本願寺が三麗弥九郎兵衛の跡職を所持し、所領返還に際し、 相続開題まで口入するのは、本願寺と三屋弥九郎兵衛家が深い かかわりがあってのことだろう。土屋氏がこれにかかわれるの は、問題の土地が伊香賀郷内にあったためである。 以上、土屋氏と出口寺内・本願寺の関係は、人的な交流も含 め深いものであった。また、地域社会の存立の基盤でもある提 の管理でも再者は協力関係にあった。河川の維持は、地域全体 の問題であり、守護の諜題でもあったのである。また、一六世 紀前半、前述の時期臨分でいう
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期は、守護家の丹下盛賢と守 護代遊佐順盛が連絡を取り合いながら圏内の国人領主を支記し ている状況が見て取れるのである。 ② 久 宝 寺 西 註 寺 ・ 智 一 振 恵 光 寺 と 萱 振 氏 出口光善寺と並んで蓮如と深いかかわりを持った寺院に渋川 ム ハ m 悶 郡久宝寺︵八尾市︶の慈願寺がある。後には、蓮如によって西 註寺︵のちの顕証寺︶が明応年間に創建された。ここには、 ﹁湾内錯乱﹂にかかわる蓮如の息子で実賢の弟実頼が住職をし て い た 。 また、若江郡萱援の恵光寺︵八尾市︶は蓮如の息子で実如と 陪じ母を持つ蓮淳によって創建された寺院である。 ところで、この久宝寺の所在する渋川郡については、永正五 年︵一五O
八︶の将軍足利義努の河内復帰以後、萱振氏と吉益 氏がその支配に当たっている。ロ期における萱振氏の活動に目 を見張るようなものはないが、遊佐氏の舟者と一言われる鷲振 氏が、郡支配など通じて除々に実力を付けていった時期と一言え よ ﹀ つ 。 十 店 日 一 接 氏 は 、 先 に 触 れ た よ う に 、 後 に 河 内 聞 の 公 権 力 を 考 え る よで重要な役割を果たす。それは、南荷内︵高度域を中心に中 ・南河内を中心とした地域︶の軍事権を握る権力として萱按氏 が最も重要な守護内衆︵守護代系内衆︶となったためである。 ﹃天文間日次記﹄天文二十一年二月十五自条に天文二十年 ご五五二五月に暗殺された河内守護代で三好長慶の岳父遊 佐長教の暗殺事件とその後についてが記されている。それには、 ﹁去年河州遊佐殿生害之事、悉皆宣振むほんなる白風間在之、 それ以来高麗の内輪しかじかと不調して、萱振上郡代ハ高屋ニ!日大和Jllの自然堤防と村落(中河内地域) ’・−−
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図 2 戦留期の河内問守護と一向一袋勢力 国土地理院「土地条件図」 大阪東南部を元に、大阪市 立博物館図録「大阪の町と 本願寺」を参考し、作図し た。 寺 中 守 沼 平 草 宝 原 地 島 作 野 横 太 蛇 久 老 大 田 鞍 平 「天文劉臼記」にみえる 真宗門徒の村 12 13 16 17 18 14 15 19 11 池島 葉 由 江 振 厨 持 堂 箆 稲 岩 若 萱 御 宝 佐 八 6 9 10 7 2 3 4 ~ 8 1 居、安見下郡代ハ飯盛の域に居て、両方互に遺穫をむすび用心 し て そ 居 け る 、 ﹂ と あ る 。 菅 一 振 氏 は 上 郡 代 と し て 高 麗 域 に あ り 、 飯盛城の下郡代の安見宗房とともに軍事権を持っていた。 また、ご大文間日次記﹄は続けて、﹁部萱援ハ米銭以下充満し 彼 国 に て ハ 髄 分 の 果 報 ヲ し で あ り け る か 、 ﹂ と す る 。 古 田 一 振 氏 は 河内でも圧倒的な財力を持った存在に成長していた。この財力 はどこからきたのであろうか。 W 期 に 当 た る こ の 持 期 に 菅 一 振 氏 は確実に地域権力として成長していた。 まず、菅一振氏の本拠についてであるが、同氏の名字の地であ る若江郡鷲按には、蓮如の︷息子で証如期の最高実力者蓮淳の創 建した萱振恵光寺がある。恵光寺・菅一振寺内町と萱按氏の関係 は史料からは窺えないが、萱振氏の協力なしに恵光寺の創建は 困難であろう。従って、蓑按氏が河内でとびぬけた経済力を持 一 六 五悌教大学総合研究所紀婆別問ぷ市教と政治い つことと萱提寺内町の経済活動とは関連すると考えるべきであ ろ ﹀ フ 。 この地域の経済活動を考える上で、萱掠のすぐ北にある河内 田の守護所があった若江は注意すべき地域である。東大阪市で 若江城の発摺等をされた福永信雄氏は、この地域について次の 指摘をされている。つまり、若江域のあった地域は古代からの 寺 院 で あ る 若 江 寺 ︵ に ゃ く ご う じ ︶ と 若 江 郡 街 が あ り 、 若 江 中 市 川 婦 が河内湖の後身である深野池の貿易港の管理寺であったとされ る。若江寺は平等院の末寺であり、この周辺には摂関家領玉櫛 庄や辛島牧があり、八尾市高安郡大竹には平等院の瓦を生産し た向山瓦窯があった。若江寺の機能は、若江域の時代でも続い たと想定されている。ところで、若江域の発掘では、畠山氏段 階の第 1 次若江域と三好義継の段階の第 2 次若江域、織田信長 段賠の第 3 次若江域の三段階に分けられている。 福永氏は、第 1 次若江城の終了を畠山義就の河内国下向時に し、この時に廃城となったとされた。 高屋城の築城後、若江地域が政治的な都市機能を低下させた ことは予想される。萱振地域は、回大和問筋のひとつ楠根川筋 にあり、閉じ川筋 1 キロ北に若江がある。若江地域の政治的地 位の低下によって、模様川筋の交通の中心が萱振になった可能 性 を 指 摘 し て お き た い 。 一 六 六 また、楠摂川の西を流れる回大和川の長瀬川筋にある西証寺 ︵ の ち の 顕 証 寺 ︶ と 慈 願 寺 が あ っ た 久 宝 寺 地 域 も 古 田 一 振 氏 と 関 係 し て い る 。 就今度久宝寺堤之儀、被人数出、被築候次第、菅一振善左衛 門尉具註進候、祝着候、誠連々無疎略給為悦此事候、弥可 葱 入 鏡 、 尚 善 左 衛 門 尉 可 申 候 、 恐 々 謹 一 一 一 一 口 十 一 月 十 三 日 順 盛 ︵ 花 押 ︶ 慈願寺 進之候 この文書一は、久宝寺川、現在の長瀬川の堤普請に久宝寺住人 が参加していたことを示す文書である。発給者は前節の出口光 善寺と同じく遊佐願盛である。そのため、天文の一向一撰以前 の史料となる。この時期、久宝寺地域が寺内町化していたか不 明であるが、これから明確に真宗門徒が守護と協力して堤普請 を行っていることが確認できる。 そして遊佐と慈願寺の仲介をした者が、萱振善在簡門尉であ った。菅一振氏は吉議氏とともに渋川郡地域の行政権を持ってお り、そのためこれに関わったのであろう。恐らく萱接氏は、長 瀬川筋も管理する役割を持っていたと思われる。久宝寺寺内町
族である安井氏が注話されるが、安井 氏が高山氏の一族であることは近世の系臨でしかわからない。 安井氏が歴史的に登場するのは、織田信長段階である。渋川郡 内の発給文書の状、況からみても萱接氏が渋川郡内でもっとも影 響のある守護内衆であった。 天文一授以蔀の状況についてわずかな例を上げたが、いずれ も河内の真宗史を考える上では、重要な地域である。真宗寺院 や寺内町は、菅一振氏のような守護内衆や国人との関係なしに存 続することは、困難であったと思われる。真宗寺院を中心とし た経済闇の成立と、守護権力からの自立は別の問題であろう。 守護内衆・圏人は真宗勢力による経済活動と不可分な関係にあ ったのではないか。これによって彼等は地域支配を安定させた の で あ ろ う 。 天 文 一 授 後 に 諮 問 一 按 氏 が 強 大 化 ず る 理 由 は こ の た め については、畠山氏の だ ろ う 。 以上、出口・久宝寺の事関から、守護・国人・真宗寺院並び に周辺村落が、堤普請を共同で行っていたことを指摘した。一 六世紀の公共性は荘騒領主が村請制などでその存在を無力化し、 替わって守護が重要な役割を果たした。守護自体、堤普請は鎌 倉時代以来の守護役の系譜を持つが、これら社会関係は一六世 紀特有の在り方とみるべきであろう。 この一六世紀段階の特性を判断するためには、先にみた嶋中 戦 国 期 の 一 円 内 国 守 護 と 向 授努力 と呼ばれる地域概念を検証する心要がある。次にこの問題を検 討 す る 。 第三節 守護権力の統治領域及び地域概念の変化 今谷明氏の研究によれば、守護の地域支配の方法は、郡能遵 行による地域支配から発展したという。湾内国の場合、交野郡 ・茨田郡・讃良郡・河内郡・高安郡・若江郡・渋川郡・大県郡 .志紀郡・丹北郡・八上郡・丹南郡・安語部郡・古市郡・石川 郡・錦部郡の一六郡のうち、いくつかの郡で小守護代や郡代な どの人名が検出されている。このことから、畠山氏が河内障に 入堕した永徳二年ご三八二︶以降、守護高山氏は郡単位で地 域支配を行なったと考えられる。 ところが、一六世紀には河内の地域認識の変化を示す語が見 られるようになる。天文一一年二五回二︶に河内閣太平寺で 守護代木沢長政が滅んだ後、河内国に復帰した自国山種長が紀伊 国 国 人 湯 河 氏 に 宛 て て 出 し た 知 行 空 所 注 文 が あ れ か ︸ 。 こ こ で 種 長 が示した地名を見ると従来の郡による表記と別の方法であるこ と に 気 付 く 。 そ れ は 、 ﹁ な か す ち ﹂ ︵ 中 筋 ︶ ・ ﹁ 下 か わ ち わ か い ﹂ ︵ 下 河 内 若 江 ︶ ・ ﹁ 下 か わ ち ・ : た か や す ﹂ ︵ 下 河 内 ・ : 高 安 ︶ ・ ﹁ か わちくになか﹂︵河内国中︶・﹁なかすちひかしの山そであお ノ 、 vむ
係 数 大 学 総 合 研 究 所 紀 婆 別 印 刷 ﹁ 宗 教 と 政 治 ﹂ た に : ・ お ん ち ﹂ ︵ 中 筋 東 の 山 添 、 青 谷 : ・ 恩 智 ︶ な ど で あ る 。 これを整理すると、﹁下河内﹂は若江や高安などの地域を指 すが、郡を指しているわけではないようだ。高安郡は高安も恩 管も入るが、この場合、感知回は青谷とともに﹁中筋東の山添﹂ に分類されている。つまりこの場合、﹁下湾内﹂は現在の東大 阪市若江から八尾市東部北地域を指している。 また﹁中筋東の山添﹂は八尾市東部南地域から柏原市全体を 指すと考えられる。﹁中筋﹂自体は、その西地域を指すと想定 すると、志紀郡や古市郡・安宿部郡辺りも指す可能性がある。 このほか、﹁河内問中﹂と呼ばれる地域があった。この史料 からは、場所が特定できない。 以上から、一六世紀中葉に畠山氏は従来の郡と別の次元の呼 称日地域を創出している。この新たな地域の部出は、従来の郡 よりも広域の地域を指す概念と考えられる。 次に、この変化が守護権力の統治領域の変化を指すのか検討 する必要がある。後述するが、一六世紀中葉段階で守護権力が、 ﹁国法﹂を発布している。そのなかに、給人に対し納所の日時 について﹁臨法﹂が出されたものがある。 それには、﹁所詮田地苅次第二可綿所之由国中へ被相触張。 嶋中へも先日申出侯﹂とある。給人に対し、困地を苅り次第に 納所するように、﹁盟中﹂と﹁嶋中﹂に栢触れたのである。こ 六 八 れは、渋川郡の所在する守護畠山氏と守護代遊佐氏の菩提寺で ある真鏡寺と湾内国安国寺に宛てて出した文書であるため、 ﹁国中﹂は渋川郡の周辺を指すと思われる。由国山議長の知行空 所 注 文 に あ っ た ﹁ か わ ち く に な か ﹂ と 局 、 じ 地 域 で あ ろ う 。 ま た 、 ﹁柏崎中﹂は、前述した出口堤の管理に登場した地域と同じであ る。具体的には、北海内の河内十七ケ所や河内八ケ所を指すも のと思われる。真観寺は、讃良郡にも土地を持っていることか ︷ 印 ︶ ら、﹁嶋中﹂についても書き記したのであろうか。 これから守護勢力は、﹁儲法﹂を発布する、単位に ﹁嶋中一などの新しい地域呼称を用いていることが指摘できる。 しかも、先に見たように、この地域呼称が主体となって、国人 に対する要求も行っており、権力の単位打権力自身を現す一言葉 でもあるのである。二ハ世紀に現れるこの地域は、地域権力と 対 応 す る 一 言 葉 と 考 え ら れ る の で あ る 。 また、この文書を発給したのは、萱按氏とともにこの地域の 行政権を持っていた吉益底弼である。彼等は、これら新しい地 域﹁陸中﹂の権力として立ち上がって来たと考えたい。 次に守護の統治組織の変化についても見ておこう。前述した 新しい地域呼称の成立した時期に、守護権力は﹁上郡代・下郡 代﹂と呼ばれる者が登場する。 前述したように、﹃天文問日次記﹄天文 一年二月一五日条
に﹁萱振上郡代ハ高屋ニ居、安見下郡代ハ飯盛の域に震で﹂と あって、地域支配を上郡代と下郡代に分けて行っていたことが わかる。そして、それぞれ高屋城と飯盛域がその本拠となって いた。これについては、﹁天文御日記﹂天文五年七月二八日条 に﹁遊佐内向内南郡代ニ就揮取之儀、樽遺候。﹂とあり、守護 代遊佐長教の初期段階で遊佐の内部組織として両郡代が部設さ れていたと考えられる。この段階では、安見宗一房は高山氏の内 衆ではないため、天文二一年段措の宣振・安見両郡代体制とは 違う人物であったと考えられる。 また、﹁尋憲記﹂元亀四年正丹朔日条には﹁上軍代車部肥 後・下軍代野尻﹂とある。軍代は郡代と同じと考えられる。 上郡代の草部は高潤内を中心にその地域の武士を編成し、南方 の方面で合戦をしている。野尻は下郡代として、北一内内の武士 を編成し、北方の合戦を中心に活躍した。 これらの編成は、政長流畠山氏の守護代遊佐氏が創設した権 力構造のひとつと考えられ、上・下郡代は、守護代遊佐の有力 な武力装置として活躍した。新しい地域の創出は、守護権力の なかでは、高屋・飯盛南城の支配体制に組み込まれ、上・下郡 代と呼ばれる組織を生み出したのであろう。 そ こ に 登 場 し た の が 、 地 域 権 力 型 一 戦 関 領 主 で あ っ た の で あ る 。 守護島山氏は、丹下氏を中心に根来寺など有力寺院や有力国人 戦 間 出 期 の 河 内 閣 守 護 と 一 向 一 授 努 力 に対し、軍事動員権を持ったことは、前述した。守護代遊佐は、 地 域 権 力 盤 戦 国 領 、 支 を 媒 介 に 国 内 の 中 小 国 人 を 一 編 成 し た と 考 え られる。天文来年、守護代遊佐長教は、これら地域権力型戦国 領主によって暗殺され、その後、彼等の権力闘争へと発展した のが、前述した安見氏と鷲振氏の対立であったのである。 信 用 二 童 ・
畿内天文一授の和平・還住と守護権力
第一節 天 文 の 一 向 一 授 の 経 過 と 守 護 の ﹁ 無 事 の 筋 毘 ﹂ 前章で二ハ世紀前葉の守護・昌人と真宗勢力・地域社会につ いて、検討した。本章では、一六世紀中葉の段階で起きた天文 の一向一授のその後を検討することで、戦争とその終結和平 からみた守護と本願寺・一撰勢力の関係を検討する。 天文の一向一撲が起る遠閣は、大永七年︵一五二七︶に細川 晴元が、三好一元長とともに堺に上醸し、将軍足利義晴・管領細 川高国を近江に追放し、﹁堺幕府﹂を成立させたことにはじま る。この大永七年から天文元年に至る時期は、史料が大変少な く、このため謎も多い。この史料的空白は、この時期の謬着状 態 を 現 し て い る 。 状況が動いたのは、亭禄四年︵一五 ︶六月に高国が尼崎 / 、 九紳 問 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 委 別 冊 ﹁ 宗 教 と 政 治 ﹂ で自刃し、晴元の時代が確定したことによる。しかし、その後、 晴元体制内部で対立が起る。 晴元側に属していた河内守護畠山義尭は、河内守護代の木沢 長政と対立し、享禄四年八月、木、沢長政の龍る河内飯盛域を攻 め た 。 こ れ に は 、 一 一 一 好 元 長 の 一 族 、 三 好 遠 江 守 も 参 加 し て い る 。 この対立に、細川晴元は木沢長政を応援し、義尭を破った。し かし、これで荷者の決着は着かず、翌事課五年六月、再び飯盛 域を攻めた三好遠江守は、一向一撲によって滅ぽされ、義尭も 誉回城を落とされ、自刃した。 日 後 、 堺 南 症 の 一 一 一 好 元 長 も 一 撲に攻められ、自刃している。この一向一撲がおこったのは、 縮川晴元に依頼を受けてのことであった。 天文の一向一撰自体の考察については、金龍静氏の綿密な研 究 が あ る 。 こ こ で は 、 金 龍 氏 の 訴 究 か ら 儲 問 、 単 に 経 過 を 述 べ る に 止 め た い 。 由 国 山 義 尭 ・ 三 好 一 克 長 を 討 ち 取 っ た 一 授 は 、 や が て 奈 良 七 郷 を 攻め、高市郡高取域を攻めた。これに危機感を持った将軍足利 義晴・細川晴元は、京都の法華寺院と町衆などからなる法華衆 に協力を要請し、やがて反一向一撲連合が成立した。 天文元年ご五三二︶八月四日、木沢長政によって堺の浅香 道場と近郷が放火され、これに対抗して和泉・河内・大和・摂 津で一授がおこったという。八月二四日には、六角定頼・法華 七
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一授が、山科本願寺を攻め、これを焼き払った。その後、摂河 泉 を 中 心 に 戦 闘 慨 が 行 わ れ た 。 天 文 四 年 ご 五 一 一 一 五 ︶ 四 ・ 五 月 に は、河内各地が武家方に奪われ、ムハ丹に本願寺の膝下の天王寺 ・高津・渡辺・津村等が焼かれるなど、一向一撲餓の敗北は決 定的となった。この年、本願寺と武家方の和睦がなったのであ っ た 。 天文四年の本願寺と細川晴元の和睦については、史料がない ため、よくわからない。具体的な状況がわかるのは、天文五年 正丹からはじまる証如上人の日記﹁天文御日記﹂︵以下﹁日 記﹂とする︶によってである。 天文五年の﹁日記﹂は、各守護との﹁和与﹂に伴う贈答行為 の記録が多い。ここで、本願寺と武家方の和睦の基調について 検 討 し た い 。 まず、これらの和睦が、守護と本願寺との交渉であったこと を確認したい。このことは、天文の一向一撲の和平が、細川晴 元との関係だけで議論すべきではないことを示している。﹁日 記﹂の記述願に論を進めると、まず一丹二O
日条に大和国吉野 上市下市の還住のことが論じられている。ここでは﹁大和之儀 木沢為守護関、木沢進退鰻之由色々申事候問、﹂とあり、木沢 長政が大和守護として選住の問題を扱うことを申し出ている。 次 に 四 月 二 一 一 一 日 条 で は 、 ﹁ 従 木 沢 方 弁 遊 佐 方 、 湾 内 盟 以 無 事筋目、門徒衆不可有別儀之出書商、制札⋮一枚来候﹂とあり、河 内国について木沢長政と遊佐長教が門徒の還住の許可の制札を 得 て い る 。 また、十月二
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日条では、摂津田の堺坊と富田坊の再興につ い て 、 細 川 川 晴 元 の 下 知 を 受 け て い る 。 日 間 じ 持 、 河 内 爵 の 二 ケ 所 の坊︵出口・久宝寺︶は、﹁非細川分菌候、小次部井遊技方へ 届け候て、重両可制到来之由候﹂とあり、長政の擁立した守護畠 山小次郎在氏と遊佐長教に了解を得るように木沢長政が命じて い る 。 これらの記述から言えることは、門徒|百姓については、 毘︵分間︶の﹁無事の筋毘﹂によって還住を許していることで ある。﹁河内回以無事筋自、門徒衆不可有部儀之由﹂とある文 一 可 一 口 は 、 文 書 か ら 抜 き 出 し た 部 分 と 思 わ れ る 。 こ の 一 言 葉 は 、 本 願 寺と守護の和睦の基調を指すが、守護の一回の安堵権自体の表 現として、この﹁無事の筋自﹂という一言葉がある。畠山氏の河 内 支 配 の そ の も の を 指 す 一 言 葉 で あ ろ う 。 これ以前の−堺幕府﹂段措︵阻期︶以降は、現実には畿内が どのような状態であったかわからない。この和平は、守護によ る 一 一 回 支 配 が 再 び 明 確 に な っ た 点 も 評 価 さ れ ね ば な ら な い 。 ところで、御坊の再輿はこれとは別に安堵を受けねばならな かった。本願寺の河内田の拠点で、﹁天文御日記﹂に﹁河内国 戦闘期の河内国守護と 向 障 問 勢 力 ニケ所之坊﹂﹁河内圏一階寺久宝寺出口﹂と記される久宝寺 の酉証寺︵のちの顕証寺︶と出口の光善寺は、前述したように、 木沢長政が基本方針を伝えたことから交渉が始まった。︵﹁天文 御 日 記 ﹂ 天 文 五 年 一O
月 一 一O
日 条 、 以 下 五 ・ 一0
・ ニO
と注記 する︶。次の段階は、寺領の返付交渉である。山科本願寺の跡 地が欠所処分となったように、﹁寺領・買得分﹂など寺額送付 交渉が完了しないと事実上御坊の再建は困難であったと思われ る。これについて木沢は、一階寺の木沢の存知分の返付を約束し て い る ︵ 六 ・ 九 ・ 二 九 、 ム ハ ・ 一 一 ・ 二 一 一 一 、 六 ・ 一 一 ・ 二 六 、 六 ・一ニ・一一、六・十一了間︶。しかし、還、住は権力者間で調 整が付かず延引している。天文七年に入って木沢長政は父浮詑 に一一ケ寺の還住について申し関かすことを約東している︵七・ 一・一二︶。木沢浮詑は、判物を独自の発給できる﹁官瞭型戦 国領主﹂である。また、この問題について、もうひとりの一河内 守護代遊佐長教と調整がつかなかったらしい︵七・ニ・去、 六︶。結局﹁久宝寺草坊﹂の再興が許可されたのは、天文九年 の秋であった︵九・九・二五、九・一0
・ 五 ︶ 。 守護による﹁無事の筋目﹂が確認された後でも、飽別の交渉 は長い時間がかかったことが理解できる。これは、欠所処分な どによる知行が複雑であるため、調整する必要があったためで あろう。大坂本願寺の寺内特権が天文七年から九年にかけて個 七係数大学総合研究所紀婆別問 J m 教 と 政 治 ﹂ 別の交渉のなかで獲得されたように、地域の安定は数年を要し た の で あ る 。 第二節 還住の二重構造 制御坊などの還住が、本願寺主導で行われたことは、前節で たが、村落住民の還住は、大変なことであった。金龍氏の論文 を引用すると﹁野田衆にかぎらず、一撲に参加した人々のよに 及ぽされた﹁敗戦処理﹂は過酷だった。畿内の一門庶子寺院は こ ぞ っ て 退 転 ︵ 反 古 裏 金 百 ︶ 、 ﹃ 天 文 日 記 ﹄ に は 在 地 を 追 わ れ た 諸 国の﹁牢人﹂坊主衆も多数記載されている。また、京都の公家 の日記には、近衛家の雑人たる小八が一向衆ということで召し 寵められ︵尚通︶、青蓮院坊官鳥活小路家の被官である四軒在 家の与太郎、二条安房室の乳母の子商方寺、其堂供僧大進東禅 等が殺害されている︵経厚・実陸・子恒二年三丹一日︶﹂とあ る 。 また、金龍氏は、榎並十七ケ所の還住についても取り上げら れている。これは、惣郷が多額の詫び銭を細川方に払うことで 還住が許された例である。榎並下庄東西方双方とも本願寺に銭 を借りたため記録に残ったが、地域が館別に守護や国人と交渉 し、解決すべき問題が多かったのではないか。 七 残念ながら、摂河泉地域でこの問題を考える手掛かりがない ため、同時期に京の時衆を中心に超きた法華一撲の還、住問題か ︵ 部 ︸ らこれを検討したい。検討する村落は京都市左京区の松崎地域 で あ る 。 松崎は、鎌倉時代末に松崎の歓喜寺の借実眼が法華宗に転じ て、一村すべてが法華宗徒となったといわれる。この点、京都 近郊の村落でも地と違った性格を持っている。中世後期の知行 関係をみると、複雑でその全貌は知り難い。わかるものを上げ る と 、 上 ・ 下 賀 茂 社 領 、 鹿 苑 焼 額 、 禁 裏 制 御 領 、 大 徳 寺 徳 禅 寺 領 、 時養徳院鎖、北野宮寺外会所領、宝鏡寺祥雲院領、吉田家領な どが知られ、錯綜した支配がされていたようである。 このような謹雑な知行関保のなかで、松崎は二つの惣中から なっていた。例えば、享禄四年七月二十八日付コ一好元長折紙案 ︵ ﹃ 大 日 本 古 文 書 ﹄ 大 徳 寺 文 書 五 五 一 号 ︶ の 宛 所 が 、 ﹁ 当 所 東 西 名、五百姓中﹂とあることからもあきらかである。また、﹁政所 賦銘引付﹂文明五年十ニ月二十五呂条には、﹁松崎西寺住人岩 崎兵庫長安﹂とみえ、西惣中を西寺住人と呼んでいる場合があ る。この商寺は、歓喜寺の後身である妙泉寺のことと思われる。 寺を中心に惣中がまとまっていたのであろう。 法華一授は、天文元年ご五三二︶八月に山科本願寺を焼き 討ちし、以後京都支配の一部が法華一授によって維持されてき
た。天文の向一授が終わった後も、法華一撲は健在であった。 しかし、延暦寺との宗論などから延麿寺と関係が悪化し、天文 五年七月、延麿寺と六角定頼軍によって、法華一授は敗北する。 松崎の百姓たちもこの一撲に参加していたと考えられる。 ﹃ 鹿 苑 臼 録 ﹄ か ら 、 松 崎 百 姓 の 還 住 史 料 を 上 げ て み る 。 ①天文五年七月二十二邑条 災 刻 ヨ リ 間 抑 郊 法華衆訂廻、松崎域落、岩蔵之山本、田中之渡辺裏返云々、 午 時 也 故 法 禁 衆 責 問 中 放 火 、 ②天文五年八丹十三日条 松崎之事霜蓬へ遺一書、五笛懐荒々申也、 ③天文五年八月十五呂条 就松崎之儀、進藤新介方へ或否疋、開片岡善左衛門五十疋、 折紙以納所遺之、進藤・永原明日十六下向、麗形遺書状也、 ④天文五年八月二十四盟条 谷 口 来 納 所 一 去 、 諸 役 共 閤 其 言 可 也 去 々 、 ︵ 中 略 ︶ 自 霜 裏 一 松 崎 郷 事 出 状 不 可 然 旨 被 申 候 、 ⑤天文五年十月二十一日条 松崎小百姓還住折紙、先自浄光院 重 而 学 頭 代 之 折 紙 可 来 一 宮 々 、 ⑤天文五年十月二 遇 、 院 輿 百 姓 中 至 也 、 一 日 ︵ 二 十 五 カ ︶ 条 戦協期の河内国守護と一向一授勢力 就 松 崎 郷 儀 落 語 、 持 書 状 、 ⑦天文六年二月十六日条 松崎百姓一玉、以内儀山門江信事可為云々、予去、非当院領 計 、 有 御 料 所 之 関 、 不 経 上 裁 荷 可 調 一 挙 如 何 、 僻 料 所 へ 代 宮 三淵方江被崩、如何被申哉之由、先霧星ニ申荷可然殿、納 所 罷 向 也 、 ③天文六年三月十八日条 松 崎 百 姓 四 五 員 可 成 山 内 被 官 去 々 、 進 新 、 神 左 、 片 善 南 行 、 一 向 不 能 許 容 塩 、 以上は、法華一撲の敗北︵①︶から松崎小百姓の還住までの 内容である。この史料から鹿苑院が松崎小百姓の還住問題に深 くかかわっていたことが理解できる。まず、史料②から、鹿苑 院は法華一授が敗北してから二十日程で、六角氏に五ケ条の申 し 出 を し て い る 。 二 呂 後 に は 六 角 内 衆 に 銭 を 送 り 、 六 角 氏 に 骨 一 一 百 状を送っている。︵③︶。しかし、六角氏は許可しなかったよう だ︵@︶。その後、ムハ角氏によって松崎小百姓の還住が許可さ 一授が敗北してから三ヶ月自のことであった。︵⑤ れ た の は 、 ・ ⑥ ︶ 。 翌年には、松崎百姓自身が延腎寺に詫び事がしたいと申し出 ている︵⑦︶。そして、松崎の百姓の内、四・五人が﹁山内被 官 ﹂ と な っ た 。 七
品 川 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 要 別 問 J r m 教 と 政 治 ﹂ 以上から理解できる点を上げると、鹿苑院の立場から松崎小 百姓の還住問題を処理するには、この時期京都支配の一部を祖 ︵ 師 ︶ 当していた六角氏と交渉することであった。このため鹿苑読は 六角氏と交渉し、銭なども払っている。また、延麿寺からも折 紙 を 得 て い る 。 これに対し、還住が適った百姓たちは、翌年延麗寺に詫び事 の交渉に入っている。領、去による六角氏・延暦寺との選住交渉 が整っても松崎百姓は、新たに延暦寺との関係諺後を計らねば ならなかった。この副産物といえるが、百姓の内、数人は﹁出 門被官﹂となろうとしたことである。これらの開題は、鹿苑践 とともに他の領主の問題にもなった。 以上から還住開題は、二段賠を設定できる。つまり、領主権 力と守護等による交渉段階と還住した百姓と守護等地域権力と の交渉段階である。前者は、この一授に関係する地域の全領主 階級が抱えた問題といえよう。つまり、一向一撲の場合で言え ば、本願寺と地域だけの問題ではなく、摂河泉に知行を持つ領 主すべての問題と捕らえるべきであろう。 後者は、武家の保証以外に百姓自身が解決すべき問題を持っ ていたということである。これは、前節で検討した文脈で言え ば、守護の﹁無事の筋自﹂以外だけでは、安機されない構造が あったことである。これについては、もう少し松崎の問題から 七 回 検 詰 し た い 。 史料④に、谷口という人物が、鹿苑院納所と藷役について協 議し、鹿苑院が承諾している記事がある。この谷口と向じ名字 を持つ人物が、大徳寺領松崎蓮田の請人として登場する。大永 五年五丹二十九日付璽問団地作職預り状︵﹃大宮本古文書﹄大 徳寺文書一一二六号︶の預り主となった谷口勘解由左衛門尉久 重である。また、京都市歴史資料館所蔵文書の﹃古舘三徳氏旧 蔵文書﹂慶長十一一年八月四日付松崎惣中害状案に、庄屋として 谷 口 氏 の 名 が み え る 。 ま た 、 ﹁ 松 村 常 光 家 文 窪 田 ﹂ ︵ 京 都 市 歴 史 資 料館所蔵写真資料︶松村系図書には、﹁当村ニ歓喜寺ト臼フ寺 有、期チ今ノ堀ノ之町妙泉寺六坊ノ問地也。其ノ門前谷口ノ之 農舗是レ又松村氏ノ出地也﹂とある。谷口氏の屋敷は妙泉寺門 前︵現在の松崎小学校︶に谷口氏の鹿敷があったらしい。これ は 、 商 松 崎 惣 中 方 と な る 。 この谷口氏は近世初頭には、松崎村の庄屋となったが、中世 段暗では、政所と呼ばれた。吋鹿苑日記﹄には、両政所と呼ん でいるので、東西惣中それぞれ政所がいたようである。 次の史料は、近世の写であるが、本論と深いかかわりがあり、 あまり知られていない史料なので、全文紹介する。 ﹁ 朱 引 之 内 虫 く ひ に て 御 座 繰 ﹂
己代売渡申松崎井手の水、開堤田︹ 上井下芥彼両潜水可有御下式文号一口定申候、 合 堤 壱 所 者 堤 在 所 者 抜 カ 芝 也 、 地 溝 共 に 、 但 七溝の大水は売巻のことく、其外 は 先 規 、 右井手堤事、口此度治却仕儀、惣地下雄難儀に存候、去年 七月就当郷大乱、惣庄子今不致還住、永可致遂電候之問、 山門井六角殿儀、以彼売代椙調串之致案諸候、此儀不申合 候へハ、還住之儀一向不成候関、如此鏡、然問、水つまり 鰻て、従己︵満カ︶日すへ水に可成と申鰻前の日上井・ロ ロ ︵ 下 井 カ ︶ 一 向 溝 一 日 又 七 日 自 に 両 溝 一 日 又 番 に 成 保 て 、 三日自に両溝一日又七日自に片溝口己口上、四日に七溝、 堤萱所トヲ藍銭拾七賞八百文、下鴨新農敷主許︵計カ︶殿、 弥 二 郎 殿 、 又 三 郎 殿 、 弥 五 郎 殿 、 衛 門 四 郎 殿 、 一 一 部 四 郎 腰 、 与四郎殿、対此七人、当郷政所名主地下人為惣中口口仕、 永代売渡申鹿実正也、促此内片溝は、政所三郎さへもん分 ヲ売申候也、然に其方の水、報は東シラミヨリ、タつりは 自の入於限に可為御進退問、其間に聯もいろい串間敷候、 将又、十夜まてうち通御下可有水の事、是又少も不可致聯伝 候、然に番すへ水之儀、雨ふり候て水高満つり候へハ、何 時もやふれ候問、文水つまりすへ水ニ成候ハパ、壱ケ年内 に雄為幾度、彼定置申ことくすへ水の前の白ヨリ七日目七 日目ことに西ケ日に七溝之儀者、速可有御進退候、然関其 方溝御進退の臼者、高野水にでも、又者如何様之水ヲあい そえられ御下候共可為御訂鏡、次堤の儀者不時切候儀候ハ パ、此方ハ縦雄不存知候、水此方の井手へ可下候問、相当 いかほと候、為其方水ほうたい以此方の水可進候、彼堤の 犠、為其方御進退之上は、田地ヲひらかれ耕作あるへき共、 用水ヲつつませらるへき可為御斗様、本役者百文、十月サ 日に可為候、此外は諸公事有田敷張、為惣庄契約投上者、 永代御進退之儀相違有関敷候、自然菟角申儀繰ハパ、為惣 地下於子々孫々可居申候、万一不致其崩候者、被行盗人之 御沙汰、如何様にも可預鰐成敗候、其持於公私不可及一 候 、 佑 永 代 売 券 之 状 如 件 、 天文六年四月三日 売主松崎地下惣[ 西ヨリ[ あ う ミ 新 部 五郎さへもん 一 郎 郎 郎 W A H e 良 品