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中世における四国の熊野信仰の考察
教科・領域教育専攻 社会系コース 新 井 隆 文
第1章熊野信仰の展開
第1節熊野三山の成立と熊野権現
熊野三山の成立と熊野権現について、熊野三 山とは、熊野本宮大社(本宮)、熊野速玉大社 (新宮)、熊野週間大社(君陶)の三社の総称 であり、熊野信仰の中核をなしていた。
第2節熊野三山領荘園
平 安 矧4むの荘園は、院政期に入って熊野三山 が皇族、貴族らの信仰を集めるにしたがって、
皇族、貴族らによって荘園が寄進された。また 別当家をはじめ熊野一山関係諸が、熊野以外の 荘園の荘官となることも認められたャ全国各地 に散在した熊野の荘園は、熊野三山の運営、造 営などの重要な財政基識であった。同時にこれ らの荘園には、熊野権現の神仏の分霊を移して 記られて、熊野先達の活動拠点、となっていった。
鎌倉時代の荘園は、源頼朝と鎌倉幕府か瀬野 神領や上皇、貴族の熊野詣に対して様々な配慮 をし、南北朝時代の荘園は、鎌倉時代末にはそ れまで熊野三山全体を統治していた別当家の支 配体制が崩壊した。その結果、南北朝時代には 三山それぞれに関わる在地領主が、南・北両朝 から寄進を受けていた。
型丁・戦国時代の荘園は、熊野三山それぞれ が個別に割幕府や守護大名などから荘園の寄 進守安堵を受けて、そ併樹寺ヰ彊営をはかられ ていた。
第3節熊野の檀那・先達・御師
先達は熊野への道案内、関所、湖位、宿泊な
指 導 教 員 大 石 雅 章
どの世話を行なった。また、熊野に参詣したり、
寄進する人を翻陀呼ばれ、熊野には、こうし た檀那や先達を受け入れ、宿泊、祈祷、山内案 内などに従事する街輔がいた。そして、先達は 檀那を熊野に導き、御前涜に熊野権現への檀那 の願文を提出した。この願文提出を契機として、
その闘ト先達と棚市との結びつきが慣例イヒす るようになっていった。こうした御師と先達・
檀那の関係を一般に師檀関係と呼ばれていた。
そして、願文は先達・翻
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が署判して御師に提 出し、師檀関係の締結を示した。先達と檀那は 御師に願文を提出することによって、今後は必 ずこの御師のもとに来ることを契約したのである。
御師にとっては、前檀関係、を結んだ檀那号先 達は、一定の得分をもたらすものであり、貴重 な財産とされた。そこで御師は自己の廟日・先 達の願文を大切に保存し、さらに名簿ヰ樹日の 系図などを作成して保存していた。
第2章四国への熊野信仰の広まりと分析 第1節 阿 波 国
阿波国の併教と金額で見た場合の結論として は、正安2年の1300年に大野で引翻日注文 案があるが、阿波国ベまそれ以前に熊野信仰が 入って、檀那が存在したことがわかる。 146
1年'"'‑'1480年が最も活発に売買されていた ことがわかる。翻日売券が1521年からはみ られないことから、阿波国での熊野信仰も表退 したものと考えられる。
- 260 - 阿波国の熊野信仰を地銀的に見た場合、檀那 分布地図から、倒防鴇岸沿いや吉野川流域に 点在することから、熊野信仰カ鴇上交通・河川 苑重を通じて、発展したと考えられる。
第2節 土 佐 国
土佐国の件数と金額で見た場合の結論として は、元弘3年の1333年に津野などで翻日注 文があるが、土佐国べまそれ以前に熊野信仰が 入って、翻日が存在したことがわかる。前述の 阿波固と比較すると闘院券は、併数・金額と もに規摸が小さいが、 1441年"'1460年 には多少である洲申ひていることがわかる。檀 那売券が1521年からはみられないことか ら、士佐国での熊野信仰も表退したものと考え られる。
土佐国制眼的に見た場合、土佐国への信仰 の広まりが少なかった理由として、熊野から土 佐国は、阿波国よりも遠方にあり、信仰が入り にくかったと考えられる。
第3節 伊 与 国
伊与国の併教と金額で見た場合の結論として は、元弘2年の1332年に闘院券があるが、
伊与国へはそれ以前に熊野信仰が入って、檀那 が存在したことがわかる。 1461年"'148
0年には急激に伸ひており、最も活発に売買さ れていたことがわかる。檀那売券が1541年 からはみられないことから、伊与国での熊野信 仰も扇島したものと考えられる。伊与国の熊野 信仰を地醐句に見た場合、檀那分布地図から、
檀那カ鴇岸沿いに点在することから、熊野信仰 が耀
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内海の海上交通と密接に航戸ついて、発 展したと考えられる。第4節 讃 岐 因
調弱童の件数と金額で見た場合の結論として は、永仁6年の1298年に権正僧都導覚紛失
状があるが、調瑚童へはそれ以前に熊野信仰が 入って、間日が存在したことがわかる。 148
1年"‑'1500年には大きく伸ひており、最も 活発に売買されていたことがわかる。間日売券 が1541年からはみられないことから、讃岐 国での熊野信仰も高島したものと考えられる。
讃岐国の熊矧言仰を会鯉的に見た場合、種目自 分布地図から、担靭防鴇岸沿いに点在すること から、熊野信仰が耀炉内海の海上交通と密接に 結びついて、発展したと考えられる。
第3章 ま と め
熊野信仰は、四国内で暢織している4ヵ国で ありながらも、それぞれに共通性があることが わかった。信仰が広まった地域は、阿波国では 梅岸沿いと吉野JI腕域、土佐国では梅岸沿いと 仁淀川流昧伊与国では海岸沿いの全域、讃岐 国でも海岸沿いのほぼ全域に展開した。 4ヵ国 とも海上交通明可)11交通など水上交通の盛んな 会出或に信仰が展開していることがわかった。
信仰が盛んで、あった時期は、 4ヵ国ともに、
1 5世埠己中頃から後半を中心に盛んであったこ とがわかった。
檀那売券がみられなくなった時期は、阿波固 と土佐国が1521年"‑'1540年で、伊与国 と讃樹君が1541年"‑'1560年であり、 1 6世記中頃以降から4ヵ国にみられなくなって いる。したがって、ほぼこの時期から4ヵ国で の熊野信仰も蔚昼したものと考えられる。