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雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学

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J. モルトマンにおける神論の構造(3)

著者 佐々木 勝彦

雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学

号 38

ページ 27‑56

発行年 2004‑03‑29

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024381/

(2)

1

J.モルトマンにおける神論の構造 (III)

佐々木勝彦

VI

第6章(「自由の王国」)は, これまで検討してきた三位一体論にふ さわしい社会像,政治形態, そして自由論とはどのようなもの葱のか を論じている。 この第6章は第一節「政治的唯一神論と教権主義的唯 一神論の批判」,第二節I三位一体的王国論」,第三節「三位一体的自 由論」の三節から構成されている。

第一節は, さらに表題の通り 「政治的唯一神論」と「教権主義的唯 一神諭」の二項に分けて論じられている。モルトマンはまず,三位一 体論の問題は, キリストのゆえに様々な唯一神論的傾向を克服するこ とにあること,その唯一神論は専制君主制にほかならないことを確認 し, そしてこのような神の専制君主制という表象は,地上の様々鞍支 配を正当化する機能を果たしてきたことを指摘している。全能なる世 界支配者という表象は,被造物の絶対的依存性,無力性,隷属性を示 唆しているため,現実に支配の正当化のために利用されてきた。それ は,古代の皇帝崇拝から始まり,ビザンチンの皇帝教皇主義を経て,−│‐

七世紀の絶対主義のイデオロギーと,二十世紀の独裁制のイデオロ

−27

(3)

ギーに見られる通りである。これに対し三位一体論は,真の神学的自 由論を展開することによって,宗教的・政治的唯一神論つまり専制君 主制を克服しなければならない。 この三位一体論は,僅越性に基づく 支配や抑圧とは無縁な自由な人間社会を目指すのである。

第一項(「政治的唯一神論」)は,古代から現代までの宗教的表象と 政治制度の関係の歴史つまり政治神学の歴史を丁寧に跡づけた上 で(11T三位一体論において留意すべき事項を次の四点にまとめている。

①われわれは,父と子と聖霊の統一性から全能なる(0mnipotent) 世界専制君主の像を作り出してはならない。キリスト教的三位一体論 は,全能の(allmachtig)父なる神を, イエスつまり十字架にかけられ 犠牲とされ子と,生命を創造する霊つまり新しい天と地を創造する霊

と,一つに結びつけているからである。

②われわれは,全能者をこの世の権力者の原型としてはならない。

この父は,われわれのために十字架にかけられ甦らせられた(aufer‑

weCkt)(2)キリストの父だからである。神はイエス・キリストの父とし て全能であると言うことができるのは,受苦,痛み,無力, そして死 という経験に自らを曝すからである。神は全能であるというよりも,む しろ愛である。そして全能であると言うことができるのは, それが情 熱的で受苦しうる愛を意味するときだけである。

③われわれは神の栄光の照り返しを王冠の上や,勝利者の凱旋

< ] ' Cf. 'rul<G.2()8ff. ,邦訳309以下. ここにおいてモルトマンが取り上げている のは. ヨセフス. フ'リストテレス,古代のキリスト教の謹教家たち,近代の絶対主 撰,特に| ・七世紀のユグノー的匡l家論である。

(M' TIIR().214,邦訳317. auferwecktの訳語およびその恵味については,拙諭 1J.モル1、マンにおけるキリスト論の構造lを参照。

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J・モルトマンにおける神諭の構造 3

のうちに見てはならない。三位一体の栄光は,十字架にかけられた者 の顔と, このお方が兄弟となってくださる抑圧された者たちの顔に反 映しているからである。十字架にかけられた者こそが,見えざる神の 見うる似姿である。三位一体の神の栄光は,信仰者と貧しい者たちの 共同体に反映している。

④われわれは,生命を生み出す霊の働きを,つまり将来と希望を 与える霊の働きを,絶対主義的支配や権力の集中のうちに求めてはな らない。霊は, イエス・キリストの父とその子の甦りから発するから である。復活は,死の陰において,聖霊の生命を甦らせる力を通して 経験されるのである。

このように三位一体の神に対応しているのは,支配者の専制君主制 ではなく,特権も抑圧もないような共同体である。それは,権力と所 有によって定義される共同体ではなく,諸位格相互の関係と意義に よって定義される共同体である。三位一体の三つの位格が共通に持つ 汲み尽くせぬ生命を表す類比として, これまで二つのカテゴリーが提 示されてきた。その一つは個別的位格であり, もう一つは共同性(交 わり :Gemeinschaft)である。西欧においては前者が, カッパドキア の神学者たち及びギリシア正教の神学者たちにおいては後者が, それ ぞれ優勢であった。 この神学者たちは,三位一体の一体性を家族の像 を用いて考え, それを三つの位格と一つの家族として説明しようとし た。従って神の似姿としての人間は,個別的人格というよりも,他の 人と共なる人間であるとみ鞍された。これに対し西方教会の三位一体 論では位格の概念が強調され,周知の通りそれは西洋の人間学に強い 影響を与えた。 この人間学は人格の代替不可能性を強調し, 「所有的」

−りQ−P、'

(5)

個人主義の発展を促した。 しかし今やわれわれは,ペリコレーシスの 概念によって,つまり諸位格の一体性と共同性の概念によって示唆さ れているような共同性を再発見しなければならない。人格主義と社会 主義を一つの根拠へと連れ戻さなければ葱らない。個人的人権と社会 的人権を収數させる必要がある。この意味で,西方教会の三位一体論 (位格的三位一体論) と東方教会の三位一体論(社会的三位一体論)の 対話は焦眉の課題である。

専制君主制的唯一神論の危険性は,政治神学だけでなく教会の権威 論にも現われている。これが第二項(「教権主義的三位一体論」)の問 題である。それは,初期の司教職と, その後強化されていった教皇の 主権の問題を明らかにしようとしている。アンティオキアのイグナ ティウスは,専制君主的司教の原則を次のように定式化した。つまり,

一人の神→一人のキリスト→一人の司教→一つの教会。教会のヒエラ ルヒーは神の専制君主制に対応し, それを代理していると考えた。確 かにこのような専制君主的司教職という教説は, キリスト教会に統一 をもたらした。しかしその反面それは, カリスマ的な預言者を排除す るという役割も果した。それ以後,霊は職制と結びつけられるように なり,神の恵みは聖職の恵みと解されるようになった。今や教会の統 一を保証するのは司教の権威であって,教会における意見の一致では なかった。中世と十九世紀の「教皇権の神学」はこの思考を受け継ぎ,

さらに,一人の神→一人のキリスト→一人のペテロ→一人の教皇→一 つの教会, という図式を完成しようとした。 ここにおいて教会の統一 を保証しているのは教皇の権威である。

しかし従来カトリック教会が行ってきたように,教皇の意義および

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J.モルトマンにおける神論の構造 5

教会の統一性をマタイ16章やヨハネ17: 20に根拠づけることは,歴 史的にも神学的にも無理である。それはむしろ三位一体的に基礎づけ られるべきである。教会の統一性は三位一体の一体性に基づいている のであり, それは,父の子への内住(EinwOhnug) と子の父への内住 に対応している。三位一体の神は愛なる神である。三位一体の神は,教 皇の普遍的で無謬なる権威のうちに現われる「全能」なる神ではない。

われわれがこの愛なる神を経験するのは,われわれがキリストによっ て受け入れられているように,互いに受け入れ合うときである。専制 君主的唯一神論は教会をヒエラルヒーとして基礎づけるのに対し,三 位一体論は教会を「支配から自由な共同体」 として構成する。三位一 体の原理は,力の原理を一致の原理に置き換える。そこには権威と服 従に代って,対話と同意と一致が現われる。教会の権威に基づく信仰 ではなく,啓示の真理に対する自らの洞察に基づく信仰が前面に出て くる。 ヒエラルヒーに代って, キリストの教会の兄弟性と姉妹性が登 場してくる。この社会的三位一体論に最もよく対応しているのは,会 員相互の意見に基づいて運営されるような組織である(3)。

第二節(「三位一体的王国論」)は「ヨアヒム・フォン・フイオーレ の王国論」 と 「三位一体的王国論」の二項から構成されている。

第一項においてモルトマンは「ヨアヒム・フォン・フィオーレの王 国論」を取り上げ, それを自らの「自由の王国論」の重要な出発点に しようとしている。ヨアヒム・フォン・フイオーレは, キリスト教に 見られる二つの相異なる終末論を結びつけることによって,独特な王

ヤ3) モルトマンはその例として, diepresbyterialeulldsynodaleOI‑dnungder Kirche (TuRG.220,邦訳324)を挙げている。

‑31‑

(7)

国論を展開した。その一つは, ティコニウスによって主張され, アウ グステイヌスによって展開されたものである。それは,神は七日間で 世界を創造したのであり,世界史もこれに対応して七つの時代に分け ることができるとの思想である。労苦と労働という六つの時代の後に,

安息の時代がやってくる。それは世の終りの前にある世界史の安息日 である。この第七番目の日が終るとき,終ることなき神の栄光の国が 始まるというのである。 もう一つは, カッパドキアの神学者たちに由 来する思想である。彼らは父の王国と子の王国と霊の王国を区別し,神 の支配の歴史をこの順序で理解していた。モルトマンによると, カッ パドキアの神学者たちもヨアヒムも, トマス・アクィナスが考えたよ うに三位一体を世界史に解消しようとしたのではなく,むしろ世界史 における王国の形を三位一体の諸位格に当てはめようとしたのであ

る。

ヨアヒムの思想の独自性は,世界史の第七番目の日を霊の王国と同 一視したことにある。彼によると,三つの世界秩序の特徴は, それぞ れ次のような言葉によって表現される。父の王国:世界の創造と確立,

神の律法と人間の恐れ。子の王国:子の服従による罪からの救済,福 音の告知とサクラメントの賦与,神の子としての自由な人間,神への 信頼。悪の王国:内住する霊,人間の再生,神の友としての人間,悪 の知恵,愛。この三つの王国は極めて緊密に組み合わされているが,モ ルトマンによると,この関連を連続的発展として捉えてはならない。そ れは質的飛躍を意味している。例えば,神との関係における人間の自 由の諸段階は,神の僕(奴隷)の身分→神の子の身分→神の友人とし ての身分, という具合に移行すると説明されているが, これも質的な

(8)

Jモルトマンにおける神諭の構造

pp

飛躍を指していると考えるべきである。 「神の友」は,完成した者を意 味する古いグノーシス的・神秘主義的表現であり,神との親密な関係 を表している。神の友であることは, ヨアヒムにとって自由の最高段 階である。自由の王国は霊の王国であり,彼はいつもその典拠として

「主の霊のおられるところに自由があります」 (IIコリ3: 17)との聖句 を引き合いに出していた。

前述の通りヨアヒムによると,三つの王国は歴史の諸時間であり諸 段階である。霊の王国は歴史の最後の時間である。霊の王国は歴史の 完成である。しかしそれは決して歴史の終りではない。父と子と聖霊 の王国はさらに栄光の王国を指し示している。従ってヨアヒムは王国 の歴史を三位一体的に理解し,王国の完成を終末論的に捉えていると 言うことができる。彼は四つの王国論を展開している。三位一体の王 国は栄光の永遠なる王国において完成されるのであり, そこでは時間 は解消されてしまうと考えられている。

ところがプロテスタント正統主義は,キリストの王的職務との関連 で, ヨアヒムの理解と異なる王国論を展開した。ヨアヒムが,父の王 国→子の王国→霊の王国:栄光の王国,という図式で考えたのに対し,

彼らは, 自然の王国→恩寵の王国:栄光の王国, という図式を展開し た。後者は,子の王国と霊の王国をひとまとめにして恩寵の王国にし てしまった。 この企ては,後に霊の王国を排除することに大きく貢献 した。既に中世の神学は, 自由に関する神学的諸問題を「自然と恩寵 の弁証法」として捉えていたが,啓蒙主義の登場と共に, その自然は

「必然性の王国」として理解されるようになった。それに対して恩寵の 王国は自由の王国を意味するものとなった。 しかも「霊の王国」こそ

?P]

一向〕リー

(9)

が必然性と自由のこの二律背反を止揚するはずなのに,人々はそれを 全く無視してしまった。

モルトマンはこの歴史を踏まえながら,王国の歴史を三位一体的に 理解し,その中で「人間の自由の歴史の神学」")を確立しようとしてい る。

では,三位一体の各位格は王国とそれぞれどのように関わるのであ ろうか。それが第二項(「三位一体的王国論」)のテーマである。

父の王国の本質は,将来に向かって開かれた世界の創造と, その保 持と,栄光の国に対するその開放性にある。世界創造の目的は,三位 一体なる神の栄光化にある。従って創造の内的根拠は契約ではなく栄 光である。最初の創造は,継続的創造と新しい創造を包含している。神 の摂理は,被造物を絶滅から守ると共に,被造物の自己閉鎖の傾向に 抗することを意味している。それは被造物に対する神の期待であり,希 望である。それは神のI愛の忍耐」であり, その中で被造物の将来が 開かれていく。世界の創造は,既に神の自己限定,外化,そして愛の 忍耐と共に始まっている。創造は,子を通し霊の力において自己を限 定する父の業であり, 自由へと向かう道程の第一段階である。それゆ えわれわれはッ父の王国を自然の王国ないし力の王国としてのみ特徴 づけてはならない。

子の王国の本質は,十字架にかけられた者の,解放をもたらす支配 と,長子であるこのお方との交わりにある。子は, 自らの死に至るま での献身を通して,人間を死から解放した。 ここにおいて子は父の忍 耐を完成している。子は,人間を神の子たちの栄光ある自由へと導く

(4) TuRG、226,邦訳333

(10)

J.モルトマンにおける神論の構造 9

のであり, この点で霊の王国を先取りしている。人間が神の似姿とし て創造されたのは,神の子たる身分(Gotteskindschaft)(5)に到達する ためである。人間を自己閉鎖性から解放するのは,つまり 「開かれた 体系」の死から解放するのは,強大な力や強要ではない。それは代理 的な受苦と,それを通して開かれる自由への呼びかけである。罪と死 に満ちた歴史において, 自由の王国は十字架につけられたお方の姿を とる。それは, キリストの形をとった王国となる。子は,受苦と死へ の献身と,到来しつつある栄光への復活を通して「支配」するのであ

り, それは「自由への解放」 (ガラ5: 1)による支配である。

霊の王国は,子によって解放された者に聖霊の力が賦与されること において経験される。霊においてわれわれは, キリストの仲保のゆえ に,ある種の「直接性」 (魂の内なる神の誕生) を経験する。それは,

神がわれわれのうちに, そしてわれわれが神のうちにいるという経験 である。今や人間は神の友となる。霊において新しい交わり ・共同体 が誕生する。それは自由な者たちの交わり ・共同体であり,そこには 特権も抑圧も見当らない。霊において,栄光の王国における新しい創 造が先取りされている。霊の内住において,神の終末論的栄光の内住 が先取りされているのである。

最後に栄光の王国は,父の創造の完成として,子の解放の普遍的貫 徹として,霊の内住の成就として理解される。創造は栄光の現実的約 束であり,将来の美しさの徴に満ちている。子の王国は栄光の歴史的 約束であり,兄弟性と姉妹性の経験と希望,つまり愛の経験と希望に 満ちている。霊の王国は, たとえそれが歴史と死の制約の下にあると

(5」 ′I、LIRG.227,邦訳334

35−

(11)

しても,栄光の王国そのものの始まりである。それゆえ三位一体的王 国論は,三位一体の業(創造,解放,栄光化)を統合し, それを三位 一体なる神の「故郷」へと向かわせる。栄光の王国は,歴史における 全ての神の業の目標なのである。

第三節(「三位一体的自由論」)は「人間的自由の諸形式」, 「三位一 体と自由」, 「三位一体の神の王国における自由」の三項から構成され ている。モルトマンはここでヨアヒムの思想をさらに批判的に深めよ うとしている。つまり神の王国の三位一体的歴史は人間の自由の歴史 である, との思想をざらに展開しようとしている。

前節で述べたように,父の王国は,世界の創造と,神の忍耐による 世界の保持によって規定されている。被造物の自由はこれによって構 成され, またその生活空間を保証されている。子の王国は,受苦する 愛によって,人間がその致命的自己閉鎖から解放されることによって 規定されている。子の受苦する愛によって被造物は自己破壊から救い 出され, その自由が回復される。霊の王国は,新しい創造の力とエネ ルギーよって規定されている。これにより人間は神の住まいとなり,故 郷となる。人間は新しい創造に参与し,終りなき希望に満たされつつ 自由に生きるようになる。神の王国のこの三つの規定は終末論的な栄 光の王国を指し示しており, この栄光の王国において人間は究極的に 三位一体の神の永遠の生命のうちへと引き入れられる。古代教会はこ の事態を「神にされる (VergOttet)」(6)と表現した。

このような王国論に対応する「人間の自由論」 とはどのようなもの か, それが最終節の課題である。

(6) TuRG、230,邦訳338

(12)

j.モルトマンにおける神論の榊造 11

第一項(「人間的自由の諸形式」) においてモルトマンはまず「自由 の王国」に関する一般的表象を取り上げ,次に自由の概念の歴史的変 遷を跡づけている。

自然科学的認識と技術のおかげで,人間は,改めて自分が自然に依 存している存在であると同時に, それをコントロールすることができ る存在であることを自覚するようになった。しかし人間が, この自然 を支配する力をどのように用いるのか,つまり善用するのか, それと も悪用するのかという問題は, この力を手に入れたという事実とは別 の問題である。 この意味で法則や必要という必然性からの解放は,始 まりにすぎなく,これを自由の王国そのものと解することはできない。

モルl、マンは, この必然性と自由を質的に越える領域を「善の王国」と 呼んでいる。それは, 自由を正しく,つまり生命を守り,破壊せずに 用いるために, 自由の王国に倫理的目標と価値を与えるような王国で ある。自由にはこのように,強制と必然性からの解放という側面と,善 の実現を目指して努力するという側面がある。自由の王国は,真の自 由を追い求める歴史であり闘いの歴史である。

しかしモルトマンによると, この必然性の王国, 自由の王国,善の 王国という三つの王国は,三つの時代ではない。それは, 自由の経験 の中にいつもある三つの段階であり移行過程である。われわれはそれ を自由の三つの盾として理解することもできる。人間は常に必然性か ら自由へと, また選択の自由から善の自由な行為(善を喜ぶ自由な行 為)へと移行する過程のうちにある。自然を支配する力が増すことは,

人間の歴史がますます危険に曝されることを意味しており,今日われ われはそれを善の王国と緊密に関連づけることを求められている。

−37

(13)

自由の概念の変遷は,そのうちに多様鞍歴史的経験を含んでいる。政 治の歴史を振り返って見ると, 自由は常に支配を意味していた。権力 の把握を目指す政治において自由な者とは勝利者に他ならず,敗北し,

征服され,搾取される者は不自由な者であった。従ってある者の自由 は,他の者の犠牲と抑圧を前提にしていた。 この事態は今日において も変わらず, 自由を支配と解する者は, 自己自身と自己の所有にのみ 関心を寄せている。それは自己自身をさえ支配と所有の対象とみなし ている。ブルジョワ的自由主義も,他者を,力と所有をめぐる闘争に おける競争相手とみなしている限りで, この範曜に入る。 ここで想定 されているのは,孤立した個人にすぎない。

他方,社会史を振り返って見ると, 自由は支配ではなく,共同性・

交わり (Gemeinschaft) として定義される。それは,愛を内容とする 自由であり,連帯性の自由である。わたしは, 自分が他の人に承認さ れるとき, そして自分が他の人を承認するとき, 自由であると感ずる ようになる。わたしが自由になるのは,わたしが自らの生命を他の人 に開き, それを他の人と分かち合うときであり,他の人がその生命を わたしに開き, それをわたしと分かち合うときである。 このとき他の 人は,わたしの自由を制約する者ではなく,わたしの自由を補う存在 となる。各人は,生命に相互に参与することによって自らの限界を越 え, そして自由の共通空間を発見する。 これが自由の社会的側面であ る。孤立した個人は, この愛と連帯性において自らの統合(Ver‑

einigung)を経験する。この意味で自由の真理は愛であり,愛において 人間の自由は真理に到達する。愛は限界を切り開くのである。

自由が支配を意味する限り,人は,支配するために全てのことを分

(14)

J・モルトマンにおける神繍の柵造 13

断し,孤立させ,差別しようとする。しかし自由が共│司性・交わりを 意味する場合,人はその自由の中で統合を経験する。それは,人間と 人間が,人間と自然が,人間と神が,再び一つになる経験である。従っ て共同性としての自由の展開は,支配としての自由つまり権力闘争と 階級闘争の歴史に対して反対する歴史と葱る。

しかしながらモルトマンによると,自由にはこの二つの次元の他に,

つまり支配としての主体と客体の関係における自由と,共同性として の主体と主体の関係における自由の他に, もう一つの次元がある。そ れは「投企(Projekt)に対する主体の関係における自由」(7)である。 こ の将来との関係において,自由は創造的で自発的なものになる。思想,

言葉, そして業において,現在を越えて将来に向かう者こそが自由な 者である。神学的に表現するならば, これは霊的経験(Geisterfhrung) の特別な次元である。つまり霊においてわれわれは,現在を越えて神 の将来へと向かう。なぜなら霊は「栄光の手付金」だからである。 こ の自由は,現にある事物や共同体を越えて,可能なものを求めようと する創造的情熱である。それは,到来しつつある神の将来へと向けら れている。人間は新たな可能性を実現しようとする。そのとき悟性は,

希望の中で「創造的(1)roduktiv) ファンタジー」僻)となる。人は,新 たな生命についてメシア的夢を抱き, この夢を実現するために将来の 可能性を探求しようとする。われわれは今こそ自由のこの将来の次元 を再発見しなければならない。信仰の自由とは神の創造的霊に参与す ることに他ならないことを,再確認する必要がある。

(7' 'l、LIRG、234!邦訳3 13 '淵) ′I、uRG,234!邦訳344

−39

(15)

支配の自由は所有と関わり,共同性としての自由は社会ないし存在 (Sein)と関わっているとすれば,将来に対する情熱としての自由は生 成(Werden)に関わっている。われわれに求められているのは, これ らの諸次元のバランスをとりながら,考え,実践することである。支 配としての自由が,共同性としての自由において止揚されるのは,共 通の将来に自発的かつ責任的に関わろうとする自由が前面に出てくる

ときだけである。

第二項(「三位一体と自由」)は,三位一体の神こそがこのような人 間的自由を生み出すお方であることを強調している。三位一体の神は,

創造と解放と栄光化の歴史の中で栄光の王国を実現するお方であり,

このお方は人間の自由を欲し,人間の自由を基礎づけ,人間を絶え間 なく自由へと解放する。従って三位一体の王国論は神学的自由論とな る。神御自身が,全く汲み尽くすことのできない自由そのものであり,

このお方が被造物の自由を欲するのである。

第三項(「三位一体の神の王国における自由」)は,父の王国,子の 王国,霊の王国における自由を, それぞれ神の僕(Knechte)の自由,

神の子(Kinder)の自由,神の友(Freunde)の自由として特徴づけて いる。

父の王国において,神は創造者であり被造物の主である。人間は神 の被造物であり,神の所有物である。人間は創造者に全面的に依存し ている。人間は,神の僕として神に用いられることによって, その生 に意味が与えられ,他の全ての被造物に勝るものとされる。従って神 の僕という呼称は名誉あるものである。使徒たちは自らを神の奴隷で あり,王国の僕であると理解していた。彼らはこの点にこそ世を凌駕

(16)

J モルトマンにおける神論の柵造 15

する自由を見いだしていた。僕は確かに創造者に全く依存しているが,

他の事物や権力に対しては全く自由だからである。神の僕は神のみを 恐れ, この世の何ものをも恐れないのである。

子の王国において,神の僕の自由は保持されたままであるが, それ はそれ自身において質的に変化させられる。主の僕たちから父の子た ちが生まれる。人間は,子との交わりにおいて,新しい神関係に入る。

神の子たちの自由は,子が現われるところで初めて可能になる。父を 知り,父に自由に近づくことができることが,子たちの自由の特徴で ある。子たちは家族に風しており,父とひとつになっている。彼らは 父の所有物ではなく,むしろその共同所有者である。従って神の子た ちの自由の本質は,父との人格的で親密な関係と父の王国への参与に ある。神の子たちは,主の僕たちと違ってその兄弟姉妹性によって結 ばれている。

霊の王国において,神の僕の自由(世界を凌駕している自由) と神 の子の自由(親密な自由)は保持されたままであるが, それらはさら にもう一度質的に変化させられる。主の僕と神の子から,神の友が生 まれる (ヨハ15: 15参照)。聖霊が内住することによって,人間はこ の新しい直接的な神関係に到達する。 しかし神の友の自由は神の子の 自由から発展してくるのでない。それは,人間が神において自らを,ま た自らにおいて神を認識するとき,初めて可能になる。それは聖霊の 光の下で起こることである。われわれは,神の戒めに服従する中で,自 分は主の僕であると感ずるようになる。われわれは,福音を信ずる中 で, 自分は天の神の子であると感ずるようになる。 これに対しわれわ れは,祈りの中で,神の友として神と語るようになる。その祈りは,天

41

(17)

にいるわれわれの友との対話となり,相手に聞き届けられることを確 信することが出来るようになる。友との対話には,僕や子の場合のよ うな地位の差は見られない。霊において神の友となることによって,神 に働きかけ,神の支配と共に働く可能性も生じてくる。神は永遠に僕 の謙遜を望んでいるわけでも,子の感謝を欲しているわけでもない。神 は,その支配を御自身と分かち合う友の大胆さと信頼を望んでいる。友 としての祈りは,僕の服従でも子の執勤な催促でもなく,愛の自由に おいて,相互に参与することを認め合うような語り合いである。友は 常に相手の自由と責任感を尊重するのである。

これらの三つの自由は神の王国の歴史に対応しており,言わばひと つの道における諸段階である。しかしそれらは連続的発展における諸 段階というわけではない。ここでは自由は,量的にではなく質的に規 定されている。従ってヨアヒムが試みたように, それらを時間的な前 後関係として理解し,固定化してはならない。むしろ自由の概念の中 にある諸増として捉えるべきである。全ての自由の経験の中に, これ らの移行が現われている。つまり自由を経験する中で,われわれは自 らを神の僕として,神の子として,神の友として経験する。しかしこ の自由の経験には,神の僕であることから神の子であることへと,神 の子であることから神の友であることへと向かう傾向が見られるのも 確かである。 これを「成長」 と呼ぶこともできる。自由そのものは分 割不可能であり,包括的である。それゆえ自由の部分的経験は全て,全 体的自由へと, また全体的創造の自由へと迫っていく。この自由の渇 望は,部分的なものによって充たされず,神の友であることをも越え て,栄光の王国における自由を目指していく。それは,神における完

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1,モルトマンにおける神諭の描造 17

全な至福に到達する自由である。顔と顔とを合わせて神を認識すると き,神の僕の自由,神の子の自由,神の友の自由は,ついに神におけ る自由の完成に至る。それは,三位一体なる神の永遠なる生命へと参 与することであり,われわれの心は,三位一体の神の栄光の中で自由 になるまでは,いつまでも不自由なのである。

VⅡ

組織神学論叢を展開するにあたり,モルトマンは本書の「序」にお いて, 自らの基本的関心に言及しているので, ここでその内容をみて おきたい。

彼の主な関心を箇条書きにすると,次のようになる。

①モルトマンにとって体系的諭叢は,いわゆる体系や教義学では ない。それは, 自らの立場を絶対化して,あらかじめ批判的な思惟を 封ずるものではない。それはむしろあらゆる時代の神学との対話を目 指している。

②従ってモルトマンは自らの立場も相対的であることをはっきり 自覚している。例えばヨーロッパ人で男性である人間は, ヨーロッパ を中心に, しかも男性中心に発想する危険性がある。 しかしわれわれ は, この危険性を自覚的に捉えることによって, それを乗り越えるこ

とができる。具体的には,第一世界に住む者の視点から考えるのでは なく,抑圧されている人々の声に耳を傾けることが大切である。

③このような主張の背後には,真理は,人間の側から見るならば,

自由な対話の中で初めて出来事になるとの信念がある。真理を認識し

−43

(19)

ようとする者にとって,交わりと自由は不可欠である。われわれは相 互に参与し,統合的な共感をもって関わろうとしなければならない。真 理は,強制力を用いずに変化をもたらし,一致を引き起こすからであ る。真理は,対話の中で人々に自らの思想を持たせるものなのである。

④組織神学論鐺は歴史における対話であり,開かれた神学問題に 対する現代のひとつの解答である。それは決して究極的な妥当性を要 求することはできない。しかし神学におけるこのような未完結性は,決 して悲しむべきことではない。それはむしろキリスト教神学にとって 本質的な事柄である。なぜならこの未完結性の中でこそ,終末論的な 希望の力が示されるからである。

⑤今日のキリスト教神学は,自らの伝統と対話するだけでなく,さ らに開かれたエキュメニカルな共同性を目指さなければならない。神 学的思惟は, もはや他の人々に抗して思惟するのではなく,他の人々

と共に, そして他の人々のために,思惟する必要がある。現代神学は 特にIフィリオ・クエ問題」の克服にエネルギーを注がなければなら

ない。

⑥特に現代神学が解決しなければならないもうひとつの問題は,

ユダヤ教との不幸な対立の歴史である。それは神の国における鰻初の シスマであった。今日のユダヤ教とキリスト教は,聖書に対し共同の 責任を負っており,王国に対する共同の希望を持っていることを再確 認しなければならない。

⑦モルトマンによると,本書における三位一体論の描想は,特に 1975年以来の神学的対話の中から生まれてきたものであるが,視覚的 イメージの源泉となったのは,15世紀のAndreiRublev作のイコンで

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J.モルトマンにおける神論の柵造 19

ある。それは,三人の人物の深い一体性を示すと共に,永遠の昔から 三位一体の真ん中に御子の十字架が立っていることを示している。彼

らが取り囲む机の上には杯が置かれているからである。

⑧「三位一体論の社会的理解」へと導くことが,本書の狙いである。

以上がI三位一体と神の国」の内容である。今やわれわれは, J・モ ルトマンの神論の構造とその特質をまとめることができる段階に到達 した。ここでもう一度各章の内容をごく簡単に振り返り,本諜の構成 を明らかにしておきたい。

第1章(「今日の三位一体の神学」)において, モルトマンはまず近 代人の経験概念の限界を指摘し,神学にふさわしいのは,蝿きや痛み に「開かれた」経験であることを強調している。 しかもこの経験は人 間の経験であるだけでなく,神の経験でもある。神は神独自の仕方で 人間を経験するのであり,聖書はその神の経験の証言でもある。世界 の歴史は人間の歴史であると共に,神の受苦の歴史でもある。十字架 につけられたお方において自らを表す神へと向かうわれわれの省察と 瞑想は,必然的に実践へと向かうはずである。

神の現実性については, これまで哲学者や神学者たちによって,最 高実体としての神,絶対主体としての神,三位一体としての神,といっ た理解が提示されてきたが,聖書にふさわしいのはもちろん「三位一 体としての神」という理解である。しかしアウグスティヌスもトマス・

アクィヌスも, さらにはプロテスタント正統主義も,ひとつの分割し えない神的実体という一般概念を前提として,彼らの神学を展開した。

そのため彼らはまず初めにこの神の存在とその唯一性を論じ, その後

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で初めて三位一体の神について論じた。しかしわれわれは, もはや単 純に実体的三位一体論に戻ることも,あるいは主体的三位一体論を主 張することもできない。モルトマンによると, いま求められているの は「社会的三位一体論」である。それは,神の単一性から始めて, そ の後に三位性を問うのではなく,反対に諸位格の三位性から始めて,そ の後で単一性を問う神論である。

第2章(「神の受難」)は,神の受苦可能性をめぐって戦わされてき た議論を批判的に取り上げている。キリスト教神学は,ギリシア哲学 の思惟形式を用いながら自らを形成してきたため,多くの神学者たち は,神の受苦不可能性と神の子キリストの受難を同時に主張せざるを えなかった。しかしオリゲネスは神の能動的受苦について語り,その 受苦は愛から生ずることを三位一体の問題として展開しようとした。

他方,ユダヤ教のアブ.ラハム・へシェルは預言者の神学を神のパトス の神学として規定した。が, この神学は,神の内なる自己区別ないし 裂け目を仮定せざるをえなくなり,やがてそれをカバラのシェキーナ の理論と結びつけて論じた。 このシェキーナは, イスラエルにおける 主の現臨つまり内住を指しており,それは永遠なるお方のへり下りで あり,到来しつつあるお方の栄光の先取りに他ならない。

モルトマンはさらにフランツ・ローゼンツヴァイク,C、E.ロルト, ミ ゲル・デ・ウナムノ,ベルジャーエフらの思想を取り上げ, 「神の受難」

の問題に対するそれぞれの貢献と限界を指摘している。神の受苦の問 題は結局単に抽象的理論によって解決されるものではなく,それは人 間の受苦の問題と深く結びついている。それは神義論として問われる べき問題であり,新しい世界の経験によってのみ答えられる問いであ

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J モルトマンにおける神諭の構造 21

る。従来教会は,この人間の受苦の現実に対するひとつの答えとして,

ローマ害6: 23にみられるようなラビ的・パウロ的教説を強調してき た。しかし今日われわれは,もはやこれに満足することができない。受 苦の経験は,罪の経験と恩寵の経験を越えているからである。愛する 子供を失った者にとって,罪の問題とその解決は決して真の答えとな らない。それは,有罪か無罪かといった問題をはるかに越えている。受 苦の経験が及ぶ範囲は,愛の経験が及ぶ範囲と同じである。

次にモルトマンは, カール・パルトによって展開された「神の自由」

の問題を取り上げ, さらに「神は愛である」 との聖書の根本命題の意 味内容を明らかにしようとしている。選択の自由や処分の権能といっ た概念は「支配の言語」に由来しており,三位一体の神にふさわしく ない。三位一体の神にふさわしいのは「交わりの言語」である。三位 一体の神は,父と子と聖霊の交わりにおける愛として自らを啓示する とすれば,神の自由は,人間を友とするその「友としての関わり」の うちにある。神の自由は, その驚くべき愛と開放性のうちにある。神 は, 自らの受苦,犠牲,献身,忍耐を通して, 自らの永遠の自由を実 証する。被造世界の自由は,この神の自由にによって保持されており,

人間は,愛に生き,共に苦しみ,神の栄光を賛美することを期待され

ている。

「神は愛である」と言うとき,聖書は,善の自己伝達であるような愛 をイメージしている。その愛は,他の存在に参与し,他の存在のため に自らを捧げようとする。 しかも愛は, このように全く他者の中にあ りながら,全く自己自身である。愛は, 自己区別と自己同一化の力で あり,否定的なものの全ての痛みを含むプロセスである。創造は,三

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位一体の永遠なる愛から生じてくる。世界は,子に対する父の愛から 創造され,父に対する子の応答する愛を通して救済される。 この世界 の救済は,受苦からの神の救済の過程と結びついており,終末論的に のみ完成される。愛の神学はシェキーナの神学であり,聖霊の神学で ある。

第3章(「子の歴史」)は,新約聖書に記されているイエス・キリス トの生涯にそって,各場面の三位一体的要素を明らかにしようとして いる。しかしこの章は決して読みやすくない。それは,聖書の歴史学 的分析の成果を取り入れながら, しかも組織神学的な関心でまとめよ うとしているからである。モルトマンはまずカール・バルトの「専制 君主的」三位一体論の問題点を再確認し,聖書は,父と子と聖霊の,世 界に開かれた関係を物語り,告知していることを指摘している。彼は イエスの生涯についての説明を, その誕生からではなく,子の派遣→

子の献身→子の高挙→子の将来, という構成に見られるように,バプ テスマのヨハネによるイエスの受洗から始めている。受洗の際に,天 が裂けて「霊」が鳩のように降り,天からあった声,つまり 「あなた はわたしの愛する子,わたしの心に適うものである」 との声は,父と 子との特別な関係を指している。イエスにとって父は「アバ」と呼ぶ

ことができるお方であり, イスラエルにおいて他に神をこのように呼 んだ者はいなかった。イエスの使信と行動は, この「アバ」との関係 によって全く規定されていた。イエスが宣く伝えたのは,服従と隷属 の国ではなく, 「憐れみの国」である。この段階で父と子と霊の関係を 三位一体的に表現すると,次のようになる。①父は霊を通して子を派 遣し,②子は霊の力により父からやってくる。そして③霊は人間を

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1.モルトマンにおける神論の構造 23

子と父の交わりへと引き入れる。

「子の献身」はイエスの受難の場面であり,ゲッセマネとゴルゴタの 物語は,父と子との間の受難物語である。父と子の関係は今や愛の関 係ではなく,呪いと無限の痛みの関係になっている。イエスの受苦と 死は能動的受苦であり, ゴルゴタで起こったことは「神性の深み」に まで及んでいる。ここにおいて,①父は,御自身の子をわれわれのた めに絶対的死において犠牲にしている。②子は,御自身をわれわれの ために犠牲にする。③父と子の共通の犠牲は,霊を通して起こってい る。この霊は,見捨てられた状態にある子を父に結びあわせて,ひと つにする。

「子の高挙」は, イエスの死人からの甦り,復活顕現, そして創造的 霊の派遣の場面を取り上げている。 ここではまず①父は子を,霊を 通して甦らせる。②父は子を,霊を通して啓示する。③子は,霊を 通して神支配の主に定められる。

さらに, イエスが神御自身の内的存在へと復活した場面には,次の ような三位一体の形態が見られる。①父は,死せる子を,生命を造り 出す霊を通して甦らせる。②父は子を父の国の主に定める。③復活 した子は,天と地を更新する父の創造的霊を派遣する。

この創造的霊の派遣により,神の三位一体の歴史は,世界と人間と 将来に対して開かれた歴史となるのであり, ここには次のような形態 が見られる。①洗礼においてわれわれに出会うのは,前方に向かって 開かれた終末論的な神の歴史としての,神の三位一体である。②それ ゆえ父と子と霊の「一性」は閉じられた一性ではなく,開かれた一性 である。③その一性は,信仰者との,人類との,全被造物との一体化

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に対して開かれている。

「子の将来」は,キリストの将来としての「子」が持つ三一論的な意 義を明らかにしている。 ここでの三位一体は次のような形態を取って いる。①父は全てのものを子に委ねる。②子は,完成された御国を 父に引き渡す。③子は父に従属する。

キリストの派遣,献身,甦りには, 「父一霊一子」という順序が, キ リストの支配と霊の派遣には, 「父一子一霊」という順序が, それぞれ 見られた。これに対し,終末論的完成と栄光化との関連では,「霊一子一 父」 という順序が見られる。このように三位一体は開かれており,各 場面において変化する。 ところが西方教会は「父一子一霊jのモデル に固執してしまい, 「開かれた三位一体の変化」を無視してしまった。

第4章(「三位一体の世界」)は,従来「外に対する三位一体の業」と して論じられてきた内容を神論の視点から取り上げている。モルトマ ンは, まず旧約と新約における創造信仰の誕生とその歴史的展開を跡 づけて,創造を三位一体的に論ずる必要性を確認し, さらに次の問い に答えようとしている。それは,三位一体内の愛から, どのようにし て創造が起こってくるのかとの問いである。彼によると,子に対する 父の愛のうちに既に世界の理念も含まれている。彼は, リュリアによっ て展開されたツィムツムの理論を用いて,神の永遠性の中で時間が,神 の無限性の中で有限性が,神の無私なる愛の中で自由が創造されるこ とを説明している。神の最初の行為は自らの自己制限であり, これに よって生み出される「原空間」の中で初めて創造が可能になる。父は この空間の中で,子に対する永遠の力によって世界を創造する。父は,

その永遠の愛から,子を通して,聖霊の力において,父の愛に応答す

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Iモルトマンにおける神諭の綱造 25

る世界を創造する。創造においては全ての能動性が父から発している が,子はロゴスとして,霊は力として,同じく創造に参与している。

次に取り上げられているのは,神論との関連における受肉論と聖霊 論である。まず受肉諭において問題となるのは, その必然性をめぐる 二つの解釈である。ひとつは,人間の罪が原因であるとの説であり,他 は,神の子の受肉は永遠から神の意図であったとする説である。モル トマンによると,神の子が人となったのは,人間の罪のためだけでな く, むしろ創造の完成のためであった。キリストにおいてこそ,創世 記1章において約束されている人間の規定,つまり神的似像性が成就 されているのであり,信仰者は彼との交わりにおいて人間存在の真理 を見いだす。この御子の受肉は,外に向かっての業であるだけでなく,

内にむかっての神の自己卑下を前提としている。神のこの自己卑下は,

子なるイエスの受難と死において完成されるのであり,神は,死に至 るまで, そしてさらにそれを乗り越えるまで,被造物と連帯するお方 である。

聖霊は,栄光化する神であり,統合する神である。霊の注ぎの場合 には,霊は子を通して父から来たが,霊を通しての栄光化の場合には,

霊から子を通して父に至る統一が見られる。全ての能動性は霊から発 している。今や通勤の方向が逆転し,万物は,霊によって動かされ,子 なるキリストを通して父のもとに至る。父から子を通しての謡の派過 を「外に向かっての業」 と呼ぶとすれば,子を通して父に至る鯉のこ の「取り集め」は, 「内に向かう業」である。霊において子を通して父 が栄光化されるとき,創造は完成される。それは,天と地が歓呼の声 をあげる永遠の祝祭のときである。それは,救われたものたちが踊る

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ときであり, 「宇宙の笑い」が鳴り響くときである。人間と万物は,聖 霊を通して,子と父の内三位一体的栄光化の内へと引き入れられる。こ うして人間と万物は神と統合されるのであり, それは,子を父に,父 を子に統合する霊の働きと共に起こるのである。

第5章(「三位一体の秘義」)は, まず三位一体論の歴史(アリウス,

サベリウス, テルトゥリアヌス, カール・バルト, カール・ラーナー)

を振り返り, その中から典型的な類型を取り出し, さらにそれぞれの 問題点を論じている。特にわれわれは, それらの類型が政治的宗教的 イデオロギーとして利用されてきた事実を忘れてはならない。例えば バルトは,神は主であるとの認識から出発することによって,神の主 体性を強調しようとした。 ところが,その神学は「三位一体的専制君 主的なもの」になってしまった。それは,唯一なる神から出発して,次 に諸位格の区別と関係を論じようとしたためである。しかしモルトマ ンによると, これは哲学的論理に基づく方法であり,聖書の証言にふ さわしくない。聖書の証言にふさわしいのは,本質の概念でも自己同 一的主体の概念でもなく,三つの位格相互の一体性である。 この概念 だけが,伝達可能な開かれた一体性を意味しうるからである。三位一 体の一体性は,父と子と聖霊の交わりそのものを通して既に与えられ ている。つまり父と子と聖霊は, その位格性により,互いに他から区 別されるだけでなく,互いに他と共に, また互いに他の中へと一つに なっている。位格の概念は, それ自身のうちに既に一体性の概念を含 んでいる。しかしまた, それは次のように言うこともできる。つまり 神の一体性の概念は,それ自身のうちに既に三つの位格の概念を含ん でいる, と。

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J.モルトマンにおける神論の構造 27

第二節(「頌栄論的三位一体」)は,内在的三位一体論と経輪的三位 一体論の関係について論じている。この関係を考えるうえで最も難し い問題はイエスの十字架の位置づけである。モルトマンによると, キ リストは屠られた小羊であり, しかも世の初めからそうであった。屠 られた小羊のいない内在的三位一体や神の栄光といったものは考えら れない。救いの経験に基づいて語ろうとする頌栄論においては,神は,

永遠から永遠へと「十字架につけられた神」である。その救いは,十 字架の死に至るまで献身したキリストに基づいているからである。三 位一体の「中心的認識根拠」は十字架である。父は子を,聖霊を通し てわれわれのために犠牲として十字架にかけたのであり,十字架と献 身が問題にならないような本質的三位一体といった見解は非聖書的で ある。しかし内在的三位一体と経総的三位一体の根本的同一性という この主張は,決して一方を他方に吸収しようとしているわけではない。

それはむしろ両者の相互作用を表現しようとしている。われわれのた めに十字架上でなされた子の献身は,父に影響を与え,無限の痛みを 引き起こす。十字架において神は,外に向かって全被造物のために救 いを創造するが, そのとき同時に神は,内に向かって全世界の災いと 不幸を御自身に引き受けている。十字架の痛みは,三位一体の神の内 的生命を永遠から永遠へと規定している。経輪的三位一体が内在的三 位一体へと完成されるのは,救済の歴史と救済の経験が完成されると きである。それは,全てのものが神の内にあり,神が全てにおいて全 てであるときであり, そこにおいて経輪的三位一体は内在的三位一体 へと高められていく。そこに鳴り響いているのは,栄光のうちにある 三位一体の神を讃える永遠の讃歌だけである。

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第三節は内在的三位一体の構成,その生命,そしてその統一性を扱っ ている。 この描成において特に注意しなければならないのは「父」の 意味づけである。なぜならそれは,唯一神論的父性宗教のイメージを 呼び起こしやすいからである。三位一体の父はむしろひとり子の母性 的父であり,構成的には「起源なき起源」であるにもかかわらず,決 して専制君主ではない。三位一体の諸位格は共通の神的本質のうちに 本質存在するだけで鞍く,他の位格との関係のうちに現実存在してお り, しかも互いに他の位格を通して生き生きと活動している。三位一 体の生命のこの事態を適切に表現しているのが,ダマスコのヨハネに よって展開されたペリコレーシスの理論である。この概念によって初 めて,永遠鞍る神的生命の円環運動をとらえることができるように なったからである。三位一体の神の内では,エネルギーの交換によっ て永遠なる生命の過程が展開されている。そこでは, まさに三者を区 別するものが, それらを結合するものになっている。諸位格の統一性 は,唯一者なる神の支配のうちにではなく,神的生命の円環のうちに あるのである。

第四節は, フイリオ・クエの問題を取り上げている。モルトマンの 答えは次の通りである。つまり, フィリオ・クエが聖霊の関係的ペリ

コレーシス的形態を指しているとすれば, それは正しいと言うことが できる。 しかし聖霊の発出ということから考える場合には, それは退 けられなければならない。聖霊は,子の父から発し,そして父と子か ら形態を受け取るからである。内的三位一体の生命においては全てが 一回的であり,われわれはこの内的三位一体について「物語る」 こと ができるだけである。強おその後,モルトマンがフイリオ・クエの問

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J モルトマンにおける神論の柵造 29

題の克服のために多くの頁を費やしたことについては,既に言及した 通りである。

第6章(「自由の王国」) は, これまで検討してきた三位一体論にふ さわしい社会像,政治形態ッ そして自由論について論じている。モル トマンは特に,三位一体論が果たしてきた政治的機能の歴史を念頭に 置きつつ, その唯一神論的解釈を批判している。本来,三位一体論は この唯一神論的傾向を克服する内容を持っているはずであり,われわ れは,父と子と聖霊の統一性から,全能なる世界専制君主の像を作り 出してはならない。この父は, キリストの父だからである。全能であ ると言うことができるのは,それが受苦しうる愛を意味するときだけ である。三位一体の神の栄光は,勝利者の上にではなく,信仰者と貧 しい者たちの共同体の上に反映している。三位一体の神にふさわしい のは,権力と所有によって規定された共同体ではなく,特権と抑圧の ない共同体である。それは,個人的人権と社会的人権がそこにおいて 収散するような共同体である。そこにあるのは,権威と服従ではなく 対話と同意であり, ヒエラルヒーではなく兄弟姉妹の関係である。

次にモルトマンはヨアヒム・フォン・フィオーレの王国論からその 真理契機を取り出し,父の王国,子の王国,霊の王国,栄光の王国の 特質に言及し, さらにそれぞれに対応する「人間の自由の形式」につ いて論じている。その際彼は,必然性の王国→自由の王国→善の王国,

あるいは神の僕→神の子→神の友といった図式を,連続的ないし発展 的に考えないように注意している。それらはむしろ質的飛蹴を指して おり,三つの層とも言うべきものだからである。例えば霊の王国にお いて,神の僕の自由(世界を凌駕している自由) と神の子の自由(親

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密な自由)は,保持されたままであると同時に, もう一回質的な変化 を経験する。つまり,主の僕と神の子から,神の友が生まれてくる。わ れわれは,神の戒めに服従する中で, 自分は主の僕であると感ずるよ うになる。われわれは,福音を信ずる中で, 自分は神の子であると感 ずるようになる。さらにわれわれは,祈りの中で,神の友として神と 語るように鞍る。神は永遠に僕の謙遜を望んでいるわけでも,子の感 謝を欲しているわけでもない。神は友の大胆さと信頼を望んでいる。友 としての祈りは,僕の服従でも子の催促でもなく,愛と自由において,

相互に参与することを認め合うような語らいである。さらに栄光の国 においてわれわれは, この神の友であることをも越えて,神の永遠の 生命へと参与し, 自由の完成を経験するようになる。それは,顔と顔 とを合わせて,神を認識するときである。従ってわれわれの心は,三 位一体の神の栄光の中で自由になるまでは,いつも不自由なのである。

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