フランコ期の映画における政治文化
一ベルランガとβ
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の歴史性一士
JEコい
1.日本におけるスペイン映画
2010年11月スペインを代表する映画監督ルイス・ガルシア・ベル ランガが亡 くなつた。スペインでは大 きなニ ュース となつたが、 日本では言及 されなかっ た。それ どころか、スペイン映画が世界的 に注 目される画期を作ったベルラン ガの活虎πυθπ〃θ,ル.協雰力α
J〃
(『ようこそマーシャル さん』1952年)を
は じ め とす るベル ランガの映画はこれまで 日本 に一本 も入つてきていない。フランス、 ドイツ、 ロシア、アメ リカ映画は戦前か ら認知 されているにもか かわ らず、スペイン映画はまだまだ 日本 と距離がある。最初 に日本 にブニ三エ ルの『 アンダルシアの大』(こル タ″η απグα
J%z/働 zθ
カルπ απグαわπ,1929)『黄 金時代』(Lαθ滋 グル θ御/Liむθグ
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,1930)『糧なき土地』1(Lαs〃
″虎s,′姥ηηSグπ夕α
2/ニ
クS協〃υs,1933)が
入つてきた時 も、スペイン映画ではな くフラン ス映画 として扱われた。50年代 に『忘れ られた人々』
(ι
θs θJ薇力あs,1950)に
ういては、安部公房が「不朽の名作である」 と評価するな どの反響がみ られたが、 この作品もメキシ コ映画 として入つてきている。またブニュエル2がスペィンの伝統 に根 ざした映 画 を作 るスペイン人の監督であるにもかかわ らず、安部公房は 「ブニュェルは スペインの監督ではない」
3と
し、その作品をスペインの映画であると認めていなスペインで最 も貧 しい地方の一つ といわれるラス・ウルデスの台地 と、そこに生きる人々を描 く ことによ り、強烈な社会批判をしている。ブニュエルはラス・ウルデス保護委員会の会長 グレゴ リオ・マラニ ョンと対立 し、33年 に上映禁止 となる。ブニュエルは37年にパ リで、ブラームスの 音楽を背景 にフランス語で この作品にナ レーシ ョンを入れて発表 している。
「ブニュエル
生誕一〇〇年記念特集」『ユ リイカ』2000年 9月 。ブニュエルが、27年 世代
(内
戦前 の時期に活動 していた文化的なグループ。 ロルカ、アルベル トな どの多数の詩人、芸術系だとダ リ)で
、ほとん どが共和主義者で亡命を強い られたため海外で活動 してお リブニュエルが特別では ないこと、またブニュエルが ロルカや ダ リの自由教育学院の学生寮での寮友であったことなどブ ニュエルの全貌がわかるようになつたのはごく最近のことである。安部公房『死 に急 ぐ鯨たち』新潮社、1986年 、196頁 。
‑45‑
レヽ。
初めてスペインで撮影 されたスペイン映画 として 日本 にやつてきたのはブニュ エルの『 ビリデイアーナ』(西笏 グαπα
,1961)で
ある。しか しこの映画 も本国で 検閲に通 り、国際的 に評価 を受 けたものの、フランコが激怒 し、またカ トリッ ク批判 によリバチカンか ら非難 を受 けるな ど、いわ くつ きのもの となつている。その後『械れなき悪戯』
0%π
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ノ 万πθ,1955)の
音楽が ヒッ トし、バルデムの名作 として知 られる『恐怖の逢引き』
0効
θγ′θル %π εグε″s′α,1955) が来 るが、スペイン映画は70年代までB級
映画 として公開 され る。 ビデオ以前 の70年代 に、スペイン映画は採算が とれ る と見倣 されていなかつた。そのため スペイン映画は外国映画の配給の際にセ ッ トにされ、パ ッケージの中にスペイ ン映画が紛れ込む とい うかたちで入 つてきた。 ブニュエルや ラバル も登場す る が、『昼顔』(BθJJ● グπノθπγ,1966…67)な
どは、スペイン映画 としてではな く、ヨー ロッパ・サスペ ンス 0マ ーケ ッ トに乗 っかってお り、全てフランス経由で 入 つてきていた。『ザ・チャイル ド』(どOπ
ttπ
夕πθ虎 %α′αγππ π物〆
,1976)は
、『オー メン』『エクソシス ト』 に便乗 してお り、「スペイン」が売 りになること は全 くな く、国際製作のものばか りが入 つてきている。
しか し80年代 に入 る と様相が異なる。戦前か らの英・仏 0伊 な どの ヨー ロッ パ映画に加え、張芸謀、田壮壮、陳凱歌など中国第五世代やポーラン ド、スウェー デン、チェコ、ハ ンガ リー映画、ニ ュー・ ジャーマン 0シ ネマな どにより、 日 本の映画 シーンは一気 に多様化す る。スペイン映画の上映 は この時期以降のも
のがほ とん どである。
スペイン映画は、エ リセの『みつばちのささやき』
(EJEψ
″ ιπ虎 ル εθJπ
θπα,1973)『エル・スール』(EJ S%γ,1982)、 またシネ・ヴイヴァン六本木4などの ミ ニシアターでサウラの『カル メン』
(C″
πθ力,1983)な
どのフラメンコ3部
作 が上映 され るようになる。また『みつばちのささや き』の主演アナ 0トレン ト 人気でカル ロス・サウラ監督の『カラスの飼育』(Cπα ε%θ
ηθS,1975)も
注 目 を浴びた。それでもスペイン映画の公開は圧倒的 に少ない。また、サウラは第16回ベル リン国際映画祭で銀熊賞を受賞 した んα εα
zα
(『狩 り』1965)な
どフランコ期 に その代表作を制作 してお り、この時期 に発表 された作品は最盛期を過 ぎている。また『ヵル メン』(Cαγ%ιπ
,1983)な
どのフラメンコ3部
作 により、サ ウラと 4シネ・ヴィヴァン六本木の98年の閉館は、バブル期の芸術的関心の高ま りの終焉の象徴 ともいえる。
‑ 46 ‑
いえばスペイン主義の印象がついて しまった。そのため、スペインの代表的な 監督作品が 日本 に取 り入れ られた時期は、スペイン映画の普及 とい う点で不運 であつた。
一方80年代 にはビデオ5が普及 し、『無垢なる聖者』
(Zθ s sα
π′θsグ
πθεθπ′θs,1984) な ど、 ヒッ トしなかつた映画まで入 つて くるよ うになる。また この時期、ペ ドロ・ アルモ ドバルの映画が上映 され始めた。今で こそ国際的に知 られるアルモ ドバルだが、『 マタ ドール』
0%′
αあ γ,1986)は
ポル ノ扱い され、地味でマイナー な印象 を与 えている。『 アタメ』(ノ五″απグ,1990)は
失敗 におわ り、『ネ申経衰弱 ぎ りぎ りの女たち』(吻θπS αJ bθ
〃θ虎 %π αノク̀%θ
ル πθηグθ
s,1988)は
小 さ な映画館で しか上映 されなかつた。80年代 には初めてスペイン映画が体系的 に紹介 されている。1983年のフィル ムセ ンターにおける「スペイン映画の史的展望 〈1951‑1977)」 で、戦後の代表 作が回顧上映 された6。 翌84年には第一回スペイン映画祭 において、それ以降の 新作が集 中止映 され、 これ によリスペイン映画の全貌 を 日本で垣間見ることが できるよ うになつた。 しか し、スペイ ン映画研究は、晴矢 となったフィルムセ ンター発行のカタログが唯一無二である状況が長 らく続 く7。
コンスタン トにスペイン映画は 日本 に入 つてきていたが、評価 されるように なるのは90年代 に入 つてか らである。アルモ ドバルの『オール・アバ ウ ト・マ イ・マザー』
(乃
洗)sθ
bπ πグ%αグπ,1999)、 ビセ ンテ・アランダの『 アマンテ ス 愛人』(4π
απルs,1991)と
いつた作品が顕著である。シネ・ヴィヴァン六 本木では『 スペイン映画祭'98』
が開催 された。スペイン映画 に関す る最初の通 史をベース とした体系的な入門書 もこの時期 に刊行 された8。 90年代のスペイン 映画の上映数の急増か ら、スペイン映画 とい うものが認知 され始め られ るよ う になつた。しか し、スペイン映画は今 日もなお ビデオ、
DVDレ
ンタルでは混沌 とした扱 いを受 け、ジャンルを確立 しているとはいえない。『スペイン映画史』以外は、劇場公開よりも安 く済むため ビデオ・バブルが起 き、また本当のバブルがあ り、83年 にシネ・ヴィ ヴァン六本木ができるな ど、芸術的関心が大いに上がった時期で もある。
和田矩衛 「スペイン映画祭 と同映画の史的展望」『キネマ旬報』164‑169頁。まだ 80年 代 にはス ペイン内戦す ら知 らないとす るレビューのみで、専門家が不在である。Bルπυιπ〃θも上映 された が、全 く注 目されていない。ベル ランガの
Cα
″b%θ力は、国際性の狙いはわかるが、ス トー リーの 組み立てが旧弊で、アイデアが出ていない と酷評 されている。西村安弘 「乾英一郎著『 スペイン映画史』」『映像学』49、 106‑108頁、106頁 。 乾英一郎『スペイン映画史』芳賀書店、1992年 。
‑ 47 ‑
翻訳や雑誌 によるブニ ュエル論 にとどま り、作家論 も昨年刊行 された『ペ ドロ・
アルモ ドバル 愛 と欲望 のマタ ドール』
9と
『 ビク トル・エ リセ』10以
外 ほ とん どな レヽぎこのように日本 におけるスペイン映画そ してスペイン語文化圏の映画研究は、
特 に80年代以前の作品に関 してまだまだ厳 しい状況 にあるといえる。 しか しス ペイン映画史上の代表作の数々が80年代以前 に制作 されているため、 この時期 の映画を理解することは、スペイン文化史 においても不可欠である。そのキー となる監督はスペインを代表する監督ベル ランガである。その初期の作品であ る βルπυθπκθは、スペイン映画が初めて国際的孤立か ら国際的評価 を受 ける大 きな扉 を開いた最初 で唯一 の作品であ り、スペイ ン国民 はカ ンヌ映画祭 での, 3ル πυθπ
ttθ
受賞の春 に喜びを抑え切れなかつた程である11。 しか しスペイン映画 史における重要な画期 と作 つた代表的な作品であるにもかかわ らず、スペイン 本国の研究 において、ベル ランガは映画史の一部 として語 られ、伝記以外の個 別研究は数少ない。本稿では、伝記そ して映画史のパ ノラマの一部 として紹介 されてきたベル ラ ンガを文化面か ら考察す る。スペインの最 も優れたB12の一人ベル ランガの映画 によって表現 されたスペイン文化 とは どの ようなものなのだろ うか。スペイン の旧き伝統 を完璧 に表現 し、ピカ ロと呼ばれ、regeneracionista(再 生主義者)
とされたベル ランガ監督 と、Bルπυθπ〃θをめ ぐるスペイン社会 と歴史性及びそ の時代のメンタ リテイーを通 して、ベル ランガ映画の表すスペイン文化 につい て明 らかにしていきたい。
2.ベ
ルランガとβJcん
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の歴史性ベル ランガ監督作品の特徴の一つは、40年代初頭か ら20世紀末迄のスペイ ン に起 こった政治的な有様 を完全 に捉えている点である。ベル ランガのフイルム グラフイーによつてスペイン20世紀後半史を研究することが出来 るほどである。
無論、フランコ独裁体制 とい う現代史の構成 と、 この映画 の構成は直線でつな がつてはいない。 しか しベル ランガが、当時のスペイン社会 とスペイン人、そ 9フレデ リック・ス トロース編
(石
原陽一郎訳)『ペ ドロ・アルモ ドバル愛 と欲望のマタ ドール』フイ
ルムアー ト社、
2007年
Ю『 ビク トル・エ リセ』紀伊國屋書店、
2010年
。1l Nieto Ferrando,J。
,Cjπ
θ θη夕α夕ιJo C%J′%%ノθ%ガ
θα θグπιπα′οgrtttθα ι2 E年
)απαα9θ
9■
9δ」り,Valencia, 2009, p.230。
12 treS maores
B'',Bunuel,Berlanga y Bardelln。‑ 48 ‑
して時代精神の一側面 を表現 しているのは間違いない。
ベル ランガの人物像 とその代表作 Bルπυθπ〃θについて述べ るにあた り、その 歴史性 は不可欠要素である。3ルπυι蒻あ は、歴史映画ではな く、監督 自身が「架 空の創作である」 としているものの、 この映画 にはフランコ独裁体制の政治史
と検閲のあ り方がそのまま反映 されている。
歴史映画 についてナ タ リー・デーヴィスは、歴史学者 と映画研究者の間に専 門領域間の勢力争いがある としている。彼女 自身は、史実 を最重要視する傾向 にある。歴史映画では、創造、脚色、推論 な どの行為が許 されるのは当然のこ とだが、それで も可能な限 りにおいて、歴史の証拠史料の示唆す るところに忠 実 に過去 を描 くことが大切だ と映画製作者 に対 して主張 している。
これ に対 して映画研究や、映画批評の立場か らは、歴史映画 とはいえ、歴史 叙述の決ま りごとに従 つて製作す る必要はな く、歴史叙述 と歴史解釈が「真実」
を描写す る行為で、映画は 「虚構」である とい う、単純な 「真実/虚構」の二 分法の理解があるのではないか、そ もそ も歴史家が過去の真実 を叙述 している のか と批判 している13。
史実 と虚構 の三分法 に収敏 して しま うと、研究は大 き く制限 されて しま う。
ここでは Bル πυθπ〃θを、史実 とつ き合わせてい くことはしない。歴史社会状況 において政治決定がいかなる理由で下 され、その結果 どうなるか といった現代 史 と映画の表現方法の連関を軸 として考察す る。価値判断 と理解の存在を障害 とす るのではな く、 この時代のバイアスが どうい うものなのかを、広い視野で 解釈す ることによリベル ランガ映画 における風刺・政治文化が どの ようなもの かを明 らかにしたい。
まず、ベル ランガ監督の歴史性であるが、その政治的姿勢は、共和主義者で 反フランコであるとされている。ベル ランガはフランコ期 について、
我々は飢え きったΞ だをみ、背″ゞな く、太 つてい(不 詣 であると推測 され る、アル ー トのよ う強声 の、大 材 ろ帝国 の支配者 ででもあるかのよ うだ考え られ ていた一人 の男 の意志 の 下だ生 きていたM
8ナタ リー・デーヴィス『歴史叙述 としての映画一描かれた奴隷たち』岩波書店、2007年 。
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%θυasJαグιBcriα
ηgαen 18ユ
Semana lnternacional de Cine Medina del Campo,el 10 deabril de 2005。
この要約は、E′ルイ%πあ ,la edici6n Valladolid,e14 de 2005に 掲載 されている。これがアルツバイマーを患っていたベル ランガの実質的に最後のインタビュー記事 となる。
‑49‑
と、当時のスペイ ン社会 を表現 している。
フランコ独裁体制は、ベル ランガ とBルπυθπ〃θに最 も大 きな影響 を与えた。
フランコ体制は1975年に終わつたが、今 日もなお、大 きな後遺症 をスペイ ン社 会 に残 してお り、普遍的な問題であ り続 けている。「1975年のフランコ独裁の崩 壊 と民主主義体制への移行か ら30年を経てスペイン社会 は大 きな変貌 を遂 げて きた」とされ、一応2007年 に歴史的記憶の法 (la Ley de Memoria Hist6rica) が可決 されることによって15、 敗北 した共和国側が認知 された。それ によリフラ ンコ独裁政権 によって、Pαsθグ′θs(お 散歩)と 俗称 され る銃殺刑 に処 された人々 の遺骨 をようや く発掘 してもいいことになつた16。 しか し、実際には旧フランコ 派 による強い反発があ り、思 うよ うに進 んでいない ことが2010年 に国際的 に大 きなニュース となつた。今 日スペイ ンは、二つのスペイ ン、内戦 によりもた ら された社会の分断が再来 しているとまでいわれ、フランコ期が克服 された とは 言い難 く、今なお大 きなタブー となつている。スペイ ンはまだ 自らの20世紀 を 相対化できてお らず、ベル ランガヘのフランコ期の影響は、スペイン人全てが 共有す る本質的な問題である といえ、Bル πυθπ〃θはまだまだ過去のものではな レヽ。
ベル ランガは1921年 12月
6日
にバ レンシアに生まれた。父方の祖父母は地主 で19世紀のスペインのブルジ ョワジー と農民のメンタ リテイーを持 ち、20世紀 に入 つて も中世封建制の中にあつた、とベル ランガは回想 している。祖父のフイ デル・ガル シア・ベル ランガは法学 を修めた後、 自由党の政治家 となつたが、若 くして急死 した。一人息子であつたベル ランガの父ホセ・ガルシア・パル ド17 が人脈 を受け継 ぎ、ホセ・ガルシア・ベル ランガ として出馬 し、政治家 となつ た。ホセ・ガルシア・ベル ランガ も法学 を修 め、1914年 か ら1936年まで国会議 員を務めた。そ して反 プ リモ・デ・ リベ ラに共謀 した ことが露見 し、パ リヘ逃 亡 した。1936年には共和党の人民戦線 に参加 したが、国民党に捕 らえられ、死 刑 を宣告 され る。後 に減刑 され、死刑は無期懲役 にな り、1952年に釈放 された が、その 6ヵ 月後 に亡 くなつた。 このようにベル ランガには、地主家系か らく るイダルギスモの影響 と祖父 と父の政治的姿勢であつた左派の影響 を大き く受 けているといえる。また祖父 も父 も骨の髄か ら反教権的であつたためか、ベル 6吉田好一「フランコ独裁体制の犠牲者を名誉回復・補償。07年
12月
成立 したスペインの「歴史の記憶 に関する法律」」『前衛』88‑95頁。
:
16 Asociaci6n para la Recuperaci6n de la Memoria Hist6rica(ARMH)が パイオニアとなつて発 掘に携わっている。
17父
方の祖母はこの父を産んだ とき産褥でな くなつている。‑ 50 ‑
ランガは宗教 に対 して関心がない。
しか し通常ベル ランガの紹介でまず挙 げられ るのは、母方の二番 目の叔父、
ホセ・マルテ イの影響である。母方は実業家の家系で、ルイスはバ レンシア信 託銀行の頭取 とな り、 さらにはバ レンシア慈善協会や ファジェーラ地方議会の 議長 も務め、バ レンシアのセ レブ とまでいわれている。 このルイス・マルテイ は劇作家で もあつたため、ベル ランガが映画監督 を志 したのは、 この叔父によ るところが大 きい とされている。 しか しベル ランガが一番好 きだつたのは、作 曲を し、ボヘ ミアンで反抗的で、アナーキーな生活 を し、バルセ ロナで早世 し た三番 目の叔父のホセだつた蟷。ベル ランガがアナーキーであると称 されるのは ホセの影響 によるものであろ うか。
母のアンパ ロ・マルテイ・ア レグレは、鼓膜硬化症の障害があ り、左側か ら しか話せなかつた。そのため外出はほ とん どせず、家事 に専念 していた、非常 に厳格な人であつたD。 夫が共和主義者の不可知論者
20で
ぁったにもかかわ らず、信仰心厚い女性であった。 しか し斬新なものを攻撃す ることはせず、また行動 を制限はす るものの強要は しなかつた。子供 を見張 るが異端審問官ではな く、
教育への意識が高 く、寛大な内面 を持 つていた刻。父親の不在時に一切を引き受 けていた母親の厳格 さは、ベル ランガ映画の ミソジニー として表われ る。また ベル ランガの家族構成が
4人
兄弟の末 つ子であ り、4人
の息子の父で、娘 を切 望す るな ど、女性への距離か らくる ミソジニーもあったのだろ う。女性 に対 し ては、生涯並外れて内気であつた よ うである。スペイン内戦が終結 した際、ベル ランガは青い旅団
22に
入隊 しなければな らな くなる。それは死刑宣告 されたスペイン共和国の政治家であった父親の命 を救 うためである。家族 はベル ランガが青い旅団のメンバーに名を連ねていれば、死刑宣告 を変更 しうるのではないか と考 えた。 しか し結局の ところ父親の命 を 救 うためには全財産 をはたいての 「死の闇取引」 をす るしかなかつた23。
1941年 7月14日に派遣 された ロシアのノブゴロ ド近郊でベル ランガは 「身の 毛の よだつ寒 さと恐怖」に震 えた24。 ベル ランガは凍死者が多 く出る中「あのチ
18G6mez,Rufo,A:,ι
%た Gα
πtt Bι
γ′αηgα,Alicante,2009,p。73.
Dベルランガ兄弟が
50歳
を、母親が80歳
を越 えていたにもかかわ らず、夜出掛けるときには母親に 怒 られるのが怖かったので、隠れて出たほ どである。20 4gπ
δs′グθθは 日本語で響 くほ ど神学的な意味はな く、一般的 によく用い られている表現である。21G6Πlez,Rufo,A.,」 乃ガ,pp.76‑77.
221941年
7月 に独 ソ戦線 に約2万人の「青い旅団」がスペインか ら派遣 された。23 caneque c。
,Grau,M。,Bル πυθπttθ,ル
タ.Bθ
γル4gα
,Destino,1993,p.41.24G61nez,Rufo,A.,Ibググ,p.91.
‑51‑
ビ (フランコ
)の
ために無為 に死ぬ ことがあつてはな らない と、いつ も脱出を 考えていた」25。 軍医の友人のおかげで救急部隊 に配属 され、戦闘にこそ巻 き込 まれなかつたが、この青い旅団での経験 を通 じて、Bル πυθπ〃θ制作への教訓 を 得ている。それは 「誰 も自分のために何かを解決 して くれた り、獲得 して くれ た りはしないので、何かを得たいのであれば、一人一人が努力 しなければな ら ない」 とい う「再生主義」である。 これは 「アメ リカ人は何 もスペインの問題 を解決 して くれず、我々 自身の問題である」26と
す る、Bル πυθπ〃θにおけるメッ セージに直接つながつている。「フランコがベ ッ ドの上で亡 くなつたのは、我々 が彼 を追い出す十分な努力をしなかつたか らであ り、またや りたい ことと、実 現 し うることの違いで もある」 とし、生涯 を通 じての映画制作の困難 さとフラ ンコとを直接結び付 けている27。青い旅 団に行 つていれば、徴兵 は免除 され るであろ うと考 えていたが、入隊 させ られた。 しか し家族の友人 に大佐がお り、そのお陰で 「居心地のいい」隊 に配属 された。スペイン独特のア ミギスモ もベル ランガの映画作 りによく表れ ている。
帰国後バ レンシアの大学生協 シネ・クラブの中心的存在の一人 とな り、新聞、
雑誌、 ラジオの映画批評 を担 当した。マ ドリッ ドの Ⅱ
EC(1940年
2月 に創立)に
1946‑1949年
まで学び、1950年代 によく作 られた旧弊な歴史映画のパ ロディー を制作 した。ベル ランガの世代が、現場や趣味か らではな く、学校 を卒業 した 初めての監督 となる。1951年には初めての長編映画であるE"夕
αttαルル28を
、 1953年にはBグ
θπυθπ〃θを制作 している。1953年にサ ラマンカ国民映画会議が催 され、スペイン映画の実情を広 く討議 するこの会議は、知識人、学生、俳優、ファランヘ党員、 リベ ラルな神父、共 産党の党員 に到 るまで、幅広い層か ら支持 を受 けた。ベル ランガ も主な参加者
―の一人であった。1955年 5月 にバルデムは 「政治的 に無効、社会的に偽 り、知 的に最低、美的 に無価値、産業的 に脆弱」とい う有名な言葉 を述べている29。 こ の会議では、検閲による国産映画 と外国映画の取 り扱いの違い、批評のあ り方、
25」E"′夕lθυづs′α
26 」E2′夕lθυグs′α
27 」E2′%θυグs′α
28E"夕α
ttα
ル′ルでもキス・ シーンのカ ッ トに観客の一人が「す ぐカ ッ トなんだか ら」と文句をい うシーンがあ り、検閲への批判をしている。29 caparr6s Lera,J.M.,月
7s′θttα
θπ′グθαグθ′θグπθ
θ
̀ψα′狗′″θSグθ1897カ αs′α力
9ガ
,Ariel,1999,pp.85¨
90。‑ 52 ‑
法制度の整備、労働契約、NO―
DO社
によるニュース・ドキュメンタ リー映画の 独 占な ど広範囲にわたる問題が討議 されている。政府はサ ラマンカ国民映画会 議の要求 には全 く耳を貸 さなかつたが、 これ を支持す る若者 によリシネ・クラ ブが続々 と結成 された。「公式のスペイン・公式の文化」 と「現実のスペイン・現実の文化」 に大 きな乖離があることに若い世代は気づか された と評価 されて いる映画史上の一大画期である。
映画史 における偉大なる歴史的事件 とされ るサ ラマンカ会議 についてベル ラ ンガは 「バルデムの有名な言辞 を皆が真 に受けす ぎた。今で こそポジティブに 捉 え られているが、 当時のあの集会 により自分 とバルデムの作 ってきた映画が 埋葬 され、他の映画 によって破壊 されて しま うこととな り、誤 った熱狂が独 り 歩きして しまった」と苦言を呈 している30。 運動が大 きくなると妥協の産物になっ て しま うが、サ ラマンカでの宣言の結果は、ベル ランガにすれば発信者の根本 の意図 とは大 き く離れて しまった ようである。
1454年に結婚 したが、ベル ランガの結婚式は
EJ″
〃律 に宗教的風刺 として 再現 されている。最 も安い結婚式 を頼 んだため、音楽 も止め られ、蝋燭 も消 さ れ、絨毯 も取 り除かれた。映画では花飾 りも取 り去 られたが、実際の結婚式で は花だけは残 しておいて くれた・ 。1959年にはソモサウゴに引っ越す。父の遺産 で「少 しお金が入 つた」ためで、家の購入金額 は350万ペセ タとい う、今では想 像 もつかない高額であった。現金は投獄 されていた父の罰金を払ったため残 つ てお らず、所有 していた電力会社 も売 り払って しまっていたが、残 っていた幾 つかの地所 を相続 したのである32。国立映画学校の教授 を1958年か らその閉鎖までの1970年まで務めている。1979 年か ら1982年まで最初の
UCD内
閣のホセ0ガル シア・モ レーノによって、最初 のFilmoteca Espahola(国
立フィルムライブラ リー)の会長 に任命 されている。以降コンプルテ ンセ大学名誉教授 とな り、アス トゥリアス王太子賞を受賞 して いる。 しか し、ベル ランガのような左翼の知識人 とされている者はスペインで は長 きにわた り冷遇 され続 けたもベル ランガ にとってアンチアメ リカ とロシア との交流は自然な流れだったのであろ う。生涯 にわたって、 ロシアの映画祭 に 招待 され、審査員 としてかの地 を訪れ続 けた。
1975年にフランコが亡 くなつた際、 当然ベル ランガが大喜び しただろ うとあ 30G6mez,Rufo,A., 〃,p.119.
31G6mez,Rufo,A.,fb〃 ,p.108.
32G6mez,Rufo,A。
,fιが
,p。 112.
‑53‑
らゆる雑誌が報 じたが、ベル ランガは哀 しみ、喪 に服 した。彼 にしてみればフ ランコは既 に随分前 に亡 くなつているよ うなもので、ず つ と以前か ら好 きな本 が何でも買え、カフエで好 きな話ができるようになつていたか らである。ベル ランガ にとつてはるか に重要な政治的事件 は、1936年 7月18日の軍事蜂起 と、
1981年
23‐ Fの
軍事 クーデター とカ レー ロ・ブランコの死であつた。2005年
以降は病魔に冒され、常々「この苦しみに比べればフランコの検閲な どなんでもない」 33と 話していたようである。ベルランガは最期まで トラウマで あり続けた検閲とどのように関わってきたのだろうか。
3.フ
ラ ンコ期 の検 閲 とβJθんυθんjJo9″L腕
rsλαJ″
フ ランコ期 の映画制作 の困難 さの要 因は検 閲 にあ る。検 閲 は1975年11月にフ ラン コ総統 が死 亡 に よ り、 立憲君 主制 の下 で民 主化 が進 め られ、思想統 制 が緩 和 され、映画検 閲 が廃止 され るまで映画制作 を制 限 し続 けた。
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フランコ体制下では 「各種 メデイアにたいす る国家統制 は、1966年まで完全 かつ絶対であつた」
34と
されている。40年に及ぶ独裁制であるフランコ政権下で は、映画 に対す る国家的な助成35と
規制が強力であつたのが特徴的である。映画 は19世紀 に誕生 して、またた くまに戦争 と共犯関係 になる。映画は単なる娯楽 の一つではな く、政治的なイデオ ロギーを表現 し、大衆 を教育す るための手段 として も認識 され るよ うになる。サイー ドが 「報道す ることは隠蔽す ること」と述べているよ うに、敵の悪魔化な どの情報操作のツールの一つ となつた。不 都合な映画 はプ ロパガンダ
36と
して不適切であ り、人々の目に触れてはいけない とされ、検閲、編集 により映像 をモンタージュされた37。 フランコが政権 を掌握 した際、最初 にしたことの一つは検閲の整備である。同じファシズムのム ッソ リーニ とヒ トラーに倣い、スペインにおいても映像 メデイアヘの検閲が義務化 され る。33G61rlez,Rufo,A.,9ク .θグム,p。
331.
34『
スペィン現代史模索 と挑戦の 120年 』大修館書店、1999年 、241頁 。
35金
谷重朗 「スペイン映画祭'98」『 キネマ旬報』1250、 96‑98頁。スペイン映画の制作 には本来国 か らの助成が不可欠であつた。映画制作面 と人材が多様化するのは、1989年 以降次々 と開局 して い く民放放送 による制作援助が加わつてか らのことである。36プ
ロパガンダ映画 とは、情報の発信者が自分(国
家)の利益を最大化す るため、様々なコミュニ ケーシ ョンスキルを駆使することで受け手の利益 を、一方的に説得すると定義 される。同じフア シス トのム ッソリーニは 「映画は最強の武器である」 とし、 ヒ トラーは映画製作 により「公式の 記録の捏造」をした とされている。37藤
崎康『戦争の映画史』朝 日新聞出版、2008年 。‑54‑
しか しフランコ期の検閲 と映画制作 には、単純な二項対立構図で説明できな い複雑な関係がある。ベル ランガはスペインの検閲について、検閲は制度その もの よりも、組織 されてお らず、いい加減であつた ことにむ しろ効果があつた としている。 フランコ政権 は超保守的傾向を有 していたが、検閲において実際 なにが通 らないのかの細かい ところまではわか らなかった。
ベル ランガは検閲について以下のように述べている。
齢鯵彬ガ ″ らか た非 常にスペイン″、 すなわ ちや っつゲ仕事 であ った38。
検閲 は ち ぐは ぐであ ク、宗教的、性的、道徳的 な るのの乾 羹 夕 鍔 習 を探 ナ ことだと クつかれ ていた。乙 磁ま宝 ぐじや ロシアンル ーレッ トの一種 ● 誰 る な/c蛯嫁 ぜ検閲 ナるの″磁 滲 らなか つた。その申で生 じる最悪 の ことは、自ら。
ヒ大 きな フラス トレーションをグ階 起 こナ虜Ξ検閲 へ と破棄 虜判し てしまうこ とである。確実
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脚本力ヽら削 往 シ%るの″場 ク、多 窃 期″クこ大 きな憲J限となつ ていた。 しか し最悪 なのは、検閲 の動機力不 策 〃 であるため39、 その検閲 ナろ か しな いかが ま くわか らな いシーンを、6し
か した ら検閲 を通 るか もしれない を念 をを きつつ、どうするか決めることである。虜ご検閲 で最悪な のは、あ ま クだ ろ多 くのシーンを脚本 か ら取 ク除 きナま 晟 詢 動 フ可 能 となることと、遅延 たま ク融資 を失 うことである。このため過剰な レ ハノックだ走 ク、検閲 ノ イ ローゼだな つてしま う。ヌペインの検閲カミ ま ク組織 され ていて、
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な規 定″場 だ 全 での人間が検閲 富のよ うだ考え てしま うよ うな こと″Zめ な か ったはデなの で、その意味 にお いて、ヌペインの検閲 ケま大成功 を夕めた とい ぇる40
検閲は不条理であ り、気ま ぐれで もあった。 フランコは 自身 もハイ メ・デ・
アン ドラーデの名で脚本 を書 きRα
zα
を制作 しているよ うに無類の映画好 きで、エル・パル ド宮殿 の映写室で、助言者 とともに映画 を見て、決定を下 していた。
検閲はフランコの個人的な好 き嫌いに拠 るところが大 きかつた ようである。ベ ル ランガは検閲の気ま ぐれ について、以下のように述べている。
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′πυお′α.Bルπυθπグあ の前の映画では、映画が始まるシーンで、一人の職を失つた鉱夫が生きる ために盗みを働 き、警官 に撃たれて怪我 をしなが ら逃げる場面で、「警官が銃 を外すわけがない」と検閲が入つた。主人公が警官の奇跡的な射撃の腕前 により映画の最初の 15分 で死ぬ とい うこと はあ りえなかつたため、計画そのものが取 りやめ となつている。
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して もら 多ことが この時期非 常ケこ大 事な ことであ つた。「rフラン コ″リ ケ ″ 虜 してい た の で、この映画は気 だ食わ 式 赫 行 ン の シーンル"ハ
して しま うだ ろ うゴ「 フェル ナン ドοレイ の映 画が鎌 いな の で攻 ク除 い て しまったゴ と、 フラン コ
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き嫌 いたよ つて決 まつ ていたため、検閲 は気 ま ぐ`れ であ ク、あ らゆ る情報源 を探 さな ゲれ ばな らなか つだ 1。
表
1
スペインにおける検閲関連年表42年 検 閲 効 果
初 期
映画館の衛生、建築の安全性、火災予防に関する 基準が設定。1910年 12月 29日
入場料の5%の税金がかけられ、青少年保護委員 会 と物乞い撲滅委員会の活動資金 に当て られる。
1912年 11月 28日
青少年保護を目的 とした検閲が導入。全ての映画 は上映前 に市町村役場 に届出。
1913年
映画の事前検閲が制度化1937年 1月
14日
情報宣伝局創設1936年
〜1974年
まで多数の外国映画が 上映禁止。1937年
3月21日
セ ビー リャとラ
0コ
ルーニャに検閲委員会 鮮風道・プロパガンダ委員会 に属する)
1937年
4月 唯一の政党 と認め られたファランヘ党内に報道宣伝局が倉
J設
され、その下に国民映画部が設置。1938年
ラモン
0セ
ラーノ・スニェル文化相はディオニシ オ・ リドルエホを報道宣伝部長 に、マヌエル・ガ ルシア・ピニ ョラスを国民映画部長に任命。ピニ ョ ラス国民映画部長の下で「ノティシア リオ・エス パニ ョル」のニュース映画ルポタージュ、ドキュ メンタ リー作品が制作。
1938年 11月
2日戦時中の検閲制度でもっとも強固なかたちを` とる 内務省の中に検閲委員会 と検閲高等評議会が「映 画の大衆への影響力は否定できず、そのためその 本来の使命を逸脱する危険の内容国家が諸機関を 管理す る」。
1939年
7月15日
自治省内に検閲課が設置 されシナ リオ検閲が義務 化さオ
Lる
。エ ドガル・ネビー リェ監督『マ ドリッ ド戦線』は内戦 を扱 うが、負傷 した国 民軍 と共和派の二人が抱き合 うシーン がカ ッ ト。セ リフも大幅に書き換 えら れる。同監督の『嘘のニュース』上映 禁止処分。
1940年
2月21日
自治省内に映画部が設置。国立映画学校設立。国 策に則つた基本構想をま とめ、宣伝映画、ニュー ス映画、
ドキユメンタ リーの制作促進 を指示。
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πυお′α42 caparr6s Lera,J.M.,″ ・θグ′・小倉英敬
『常盤会学園大学研究紀要』23‑37頁。
「ポス ト・フランコ期における「スペイン内戦」映画論」
乾英一郎『スペイン映画史』芳賀書店、1992年。
‑ 56 ‑
年 検 閲 効 果
1940年
4月 9日全ての制作会社に6月と
12月
にそれぞれ半年間の 制作計画書提出を義務化。①制作計画②シナ リオ③完成作品、三段階の検閲。
41年
カル ロス・アレバロ監督『赤 と黒』フアランヘ党員の少女が共和国軍志願 兵 と恋に落ちるが、共和国派に殺害さ れ、男性の方も共和派に粛清されると い うス トー リーに対 し、この恋愛自体 が成 り立たないもの として上映禁止。
41年
『巡洋艦バ レアレス』が上映禁止。1941年
4月22日
北アメ リカ とイタリアの映画によつて祖国の言語 の植民地化 と破格用法を防 ぐために、映画の吹き 替えが義務化 される。
1942年 12月
7日戦争プロパガンダとして各国で用い られたニュー ス映画のための
NO―
DOrLが設立。民間レベルの ド キュメンタリー映画消滅。NO―
DO社制作のニュー ス映画の上映が全ての映画館 に義務付 け。1976年 1月
1日まで継続。『あの有名 なルース・マ リア』が上映禁止。1943年
5月18日
産業商業省の省令により、自治省による検閲を通つ た上で、産業商業省 において制作プランが改めて 審査 され、その評価 によって必要な資材が与えら れ、かつ、出来上がつた作品の評価によつて外国 映画の輸入件を与えられる。そのための映画審査 委員会が設置。
自らの価値観に照 らしていかに良い作 品を作るかよりも、いかにして映画審 査委員会のよい評価が得 られるような 作品をつ くるかが興行上も経営上最重 要視 される。『 ドン・フアン・テノー リオ』『愛を馬鹿 にした男』『フアン・
シモンの娘』が上映禁止。
1944年
6月15日
「民族的価値の高揚、道徳的、政治的原則の教育に 足 ると認め られ る」作品に対 し、国家利益 とい う 等級が定められ る。 この評価を受けた作品は、興 行的に一番いい時期に公開、再公開 され、観客数 が全映画館の50%を越 えるまで延々上映 され る。
スペイン映画の振興にはなつたが、多 くの映画製作会社や個人のプロデュー サーが第一作 目を作つただけで消滅。
外国映画の輸入権を手に入れるだけが 目的 となる。
1947年
フランコ体制の思想を反映 した映画制作推進を目的 とした国立映画研究所が設立。
ベル ランガ、バルデムが一期生 とな る。
1951年
情報観光省が創設。労働者によるス トライキな ど 社会の不満が顕在化。反体制運動はもとより、そ れにつながる表現がないようあらゆるメデイアを 検閲。また外国向けのスペイン・イメージを管理 し、経済的な援助を受け易 くし、観光客をひきつ ける目的。
―
1952年
2月 情報観光省の中に映画・演劇総局が設けられ、映画指導部が設置。
1952年
3月映画検閲が産業商業省か ら情報観光省 に管轄が移 管。映画指導部内に映画審査検閲委員会が設置。
検閲の対象 となるのは、宗教的な意味での道徳、
公序良俗、政治的社会的内容。映画経済課 も設置 される。
「根な し草 (Surcos)事件」 により、
ガルシア・エスクデーロ演劇総局長も 離職。
1952年
6月16日
映画が
1■A.B、
ルA.Bと3‐
に分類 され、評価に 応 じて損失額の50,40,35,20%の 助成 される。1962年
7月映画・演劇総局長に復帰 したエスクデーロにより、
同総局が廃止。国内映画制作に関わる政府内の管 轄が、大衆文化・興行総局 に移管。映画審査検閲 委員会を改変 し、映画検閲院会及び映画審査委員 会の構成員を変更。新 しい考え方をもつ映画評論 家や映画研究家を送 り込んで影響 力を強化。
/ ‑57‑
年 検 閲 効 果 1962年 12月
特別映画価値観 とい う「良質で、道徳的社会的、
教育的、あるいは政治的 に特 に優れた作品」に対 しての新 しい評価方法を確立。
1966年
出版制限を緩和す る「出版法」を立案 し、脱フランコ体制ヘ
1967年 11月
映画・演劇総局が廃止。1968年 1月
大衆文化・興行総局が創設。1970年
3月映画局が設置。特別映画価値助成の廃止。主要映 画専門誌の廃刊。国立映画学校のマ ドリッ ド大学 情報科学部への移管。
1972年
8月 映画検閲評価委員会が廃止。映画指導評価委員会が設立。
検閲 とい うことばが使われな くなつた だけで、検閲制度がなくなつたわけで はない。
1974年
カル ロス・ア リアス・ナバ ロ首相の開放政策の発表 と民主化路線転換の中で、映画総局が設置。
1975年
3月 新たに映画評価基準が設定。 映画に関わる状況に実質的な大きな変化はない。
1976年
4月 映画の検閲全廃。フランコ独裁体制下で上映禁止 となつ ていた映画が有名な作品だけでも
180
本以上一挙公開による外国映画氾濫。1976年
6月 情報・観光省の廃止。文化省の中に映画総局が設置。
1976年 11月
作品の内容により観客の年齢制限を付す政令。1978年
4月NO―
DO社が独 占してきたニ ュース映画制作 自由化。
40年代の映画のジャンルは、政治的偏向内戦映画であ り、愛国的歴史映画、
戦争映画が多い。題材 をスペインの歴史 に採 りなが ら、あ くまで も主観的 にス ペイン人の気高い精神を描 く、つま り内戦後のフランコ体制が主張 した栄光の スペインにつながる形で、過去のおける出来事 を描いた作品が大量 に制作 され る。客観的視線 を持 とうとしてはな らず、あ くまでも勝利者の側 に立たなけれ ばな らない。またその内容か ら大作主義路線 を生み出す ことになる。Rα
zα
(『種 族』1941年)が
その顕著な例であろ う43。 また内戦前 と同様 に、サルスエ ラを原 作 としたものやカル メンものが作 られたが もはや主力ではなかつた。431942年公開のフランコ期の国策映画。監督のホセ 0ル イス・サエンス・デ・エ レディアはファラ ンヘ党を設立 したプ リモ・デ・ リベ ラの従兄弟にあた り、映画審査委員会か ら高い評価 を得てい る。愛国心 と Ab劉
o la inteligencia,宙
va la muerte"(知 性 をやつつ けろ、死 よ万歳)と死の文 化が基盤 となつている。強欲な悪役である共和国派国会議員である長男ペ ドロと正義感 と強い軍 人 となった二男ホセが対立す るが、三男で修道士になつたハイメが教会の焼 き打ちで惨殺 される ことによリペ ドロは共和国を見限る。 しか し重要な図面をスパイに渡 して しまい処刑 される。国 民党軍戦勝パ レー ドで幕を閉 じる。‑58‑
検閲では、共産主義、社会主義、 自由主義 に関わ る政治思想のカ ッ ト以外 に も、軍隊や教会、聖職者 に対 して少 しで も敵対す るよ うな台詞 もカ ッ トされた。
女性の素足や、キス・ シーン、水着姿な どが検閲 によ リカ ッ トされた。 これ ら 検閲 によリブニ ュエル監督が追放 されている。
40年代のスペイン映画の方針は50年代 に大 きな転換期 を迎 える。第二次大戦 後スペインが国際社会 に復帰 してい く中で、1951年 に観光省が創設 され、外国 向けのスペイン映画が制作 される。観光誘致 を意識 した映画制作が採用 され「カ ル メンもの」のパ ロディーフラメンコやマカ ロニ・ ウェスタンな ど文化 を単純 化 し、それ を収入源 として見込む映画制作が推進 された。 この よ うなスペイン 化は文化の埋葬である ともいわれ、映画史 において 「80年代までのスペイン映 画は陳腐なコメデイーであつた
Jと
い う決ま り文句があるが、それはこの時代 か らの映画作 りの伝統 によるものであろ う。50年代は検閲の時代で もあったが、スペイン発の映画が国際的 に評価 され始 めた時期で もあつた。また、検閲の規定
(C6digo de Censura)か
ら、社会の 現実 を表現す ることに重点が置かれ る移行期 にあた り、その よ うな流れの中で、NO―
DOの
モ ノポ リーの終焉の時期 にもあたる。この時期 に、あ くまでも国策 に 沿 つたかたちで娯楽映画 を作 った人たち とは一線 を画す る映画が製作 され るよ うになる。40年代か ら愛国的歴史映画のジャンル を破 り、政治批判の合みを持 つ50年代の映画制作への画期 となつた作品は、S%π
θs(『根無 し草』44、1951)で
ある。スペイ ン映画史 を変 えてきたのは、スペインの醜 い側面 (Cara fea deEspaha)を
描 く社会批判であ り、Surcos事
件 により、共和国時代か らの風刺、風俗描写、社会的 ドラマ、人種差別、民俗的、滑稽、策謀 といった映画 におけ るスペインの理が、フランコ期40年代の中断 を経て回帰 して くる。 この よ うな 新 しい流れ を象徴す るのがベル ランガ映画である。
ベル ランガのインタビューでの トピックスの一つが「なぜ Bルπυθπ〃θが検閲 を通 つたのかわか らない」である。ベル ランガヘのインタビューで検閲 に通 っ た理 由 として 「検閲官がなぜか 「この映画はスペイン文化 とスペイ ン民族 の優 越性 を表 した夢である」 と解釈 したか らだが、今 日に至 って もまだ この ことを 説明できない」と述べている。「検閲は、スペインはモ ラル的 にも社会的 にも退 廃 した外国 よ りも優位 にあること、そ して前 に進むためにアメ リカなんかの援 助 を必要 としていない ことを表 しているのだ と主張 していると理解 した よ うで