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17世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(上)

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(1)

17世紀レイデン毛織物工業とネ←リング制(上)

79

17世紀レイデン毛織物工業と

ネーリング制(上)

佐藤弘幸

1 は じ め に

17世紀に驚異的な経済的繁栄をみせ,時人の賛嘆の的となったオランダ共 和国,このオランダ共和国の経済史的意義を明らかにしようとする場合,オラ ンダ国内の工業的生産力の発展をいかに評価すべきかという点がこれまでわ が国のオランダ経済史研究において一つの重要な争点を形作っていたことに ついてはほとんど異論がないであろう。そしてこの場合,工業的生産力として まず第一に指を屈すべきものがレイデンを中心とした毛織物工業であったと いうことにもまず異論がなかろう。周知のようにレイデンの毛組物工業は16 世紀末以降急速に発展し,17世紀全般にわたってめざましい繁栄を維持した。

それはまさしくオランダ共和国の政治的独立,それに続く17世紀の驚異的な

経済的繁栄とほぼ軌を一にするものであった。しかも18世紀にいたりレイデ

ン毛織物工業の不振とともにオランダ共和国もまた停滞に陥るといった事実

からするならば,両者の密接な相互連関が想定され,レイデン毛織物工業が

オランダ経済史上において一つの重要なキーポイントをなしていることがわ

かる。しかしレイデン毛織物工業の歴史的意義はこれにのみつきるのではな

い。17世紀のレイデン毛織物工業は空前の繁栄をほこったとはいえ,国際的

には独占的地位を占めていたわけではなく,かのイギリス毛織物工業ときび

しい競合的関係に立っていたのである。そしてそれが両国毛織物工業の内部

構成に探刻な影を落としていたことはいうまでもない。こうした点からする

ならば,レイデン毛織物工業は単にオランダ経済史の枠内において重要であ

るばかりか,比較経済史的観点からもきわめて再要な研究対象をなしている

といわねばならない。

(2)

80 

経 営 と 経 済 いうまでもなくレイデン毛織物工業は

16

世紀後半に南ネーデルラント(主 にフランドノレ地方)から移植されたものである。その生産力的担い手となっ た人々についてみると,南ネーデノレラントから直接レイデンにやってきた者 もいれば,いったんはイギリスへ渡り,それからレイデンにやってきた者も いる。いずれにしても南ネーデルラントで毛織物工業に携わっていた人々で あることに変りはない

o

イギリスへ渡った人々がノーフォクを中心としてイ ングランド束部にいわゆる新毛織物工業(主としてウステッド系の毛紘物工 業)を伝え,それが1

7

世紀半ば以降のイギリス毛織物工業の繁栄の礎石を築 いた乙ともまたよく知られている

o

したがって系譜的にはレイデン毛織物工 業もイングランド束部の毛織物工業も同じ出自をもっているという乙とがで きる

D

そして乙の両者が1

7

世紀前半にかけて市場獲得の死闘をくり返すにい たるのである

o

しかし世紀半ばにもなれば勝利の女神ははっきりとイギリス にほほえみ,レイデン毛織物工業はあらたな態勢の立てなおし,つまり内部 構成の転換を余儀なくされる

D

乙うしてみるならば両国の毛織物工業の明暗 をわけることになった経済的諸条件がいかなるものであり,どのような相違 がそこにみとめられるかという問題はきわめて大きな重要性をもっているこ とがわかる

D

しかし経済的諸条件とはいっても問題はすこぶる大きくかっ広い。二つあ るいは三つ以上の国ないし地域を同時に分析の対象とせねばならないこうし た問題を扱うことはもちろん筆者の能力をはるかにこえているし,この点で 何よりも各国別の研究の積み重ねとそれらのつきあわせが要求される

o

幸い わが国では米川伸一氏が従来とは異なる比較経営史的観点からこの問題にア プローチされ,企業風土,経営者資源の移住,経営主体の連続と断絶という 問題に鮮かに光を与え,大きな成果をあげておられるわ。本稿ではそうした米 川氏の侵れた成果を摂取しつつ,オランダ毛織物工業とりわけレイデン毛織 物工業に分析の対象を限定して比較経営史的アプローチのための素材を提供 してみたいと思う。もっともレイデン毛織物工業それ自体に対する優れた研 究はすでに先学によってなされておふュの

N.W. PO

1

I

l

に乙依拠するかぎりではもはや新しい史実はほとんど;期明待できないといつてよ

(3)

17世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(上〉 81  い。しかしそれでもなおわれわれがここで屋上屋を架すにも似た作業をここ ろみるのは,米川氏にあってはいうまでもなく分析の重点がノーフォク(あ るいはノリッジ市)の毛織物工業におかれており,フランドノレあるいはレイ デンの毛織物工業それ自体の分析の比重が著しく小さく,それにまたレイデ

ン毛織物工業に関する先学の優れた研究も旧来のわが国の経済史研究に支配 的な問題視角に制約されていて,ここ10数年のイギリス毛織物工業史研究に みられる折新な成果からするならば,4)  レイデン毛織物工業をあらたに分析 の対象にすえる乙ともまた可能になっているのではないかと考えるからにほ かならなし"0したがってわれわれはとりわけ複雑な構成をとるレイデン毛織 物工業を今一度とりあげ,ノーフォクとレイデンとの聞にみられる経営者資 源の移住とそれを受容する企業風土の相違ないしは類似点をあきらかにする 上でのなにがしかの素材を提供してみたいと思う5)

注1)

米川伸一『イギリス地域!と研究序説~

,第7.1i15 ‑17 

W'~:êのウステッド工業

J,未来社, 1972

2)  栗原福也「近世前期オランダ毛織物業一一ライデン毛織物工業の

j

見合一一」日村

・小松・増田・矢口組『社会経済史大系』第4;とさ,弘文堂, 1960年。同「最盛期に おけるライデン毛織物工業の構造‑‑Pieterde 1a  Court, 't  We1varen der  Stad Leidenの新説を中心として一一」東京女子大学『論集』第9trn 1958年。上野

存『オランダ初期資本主義研究~ ~Sl章「オランダ共和国の部 iU

工業と都市貴族成立について」第2 r17世紀オランダ共和問の「???業の自由」に ついてJ. 

:(;m誌の7k~Ij:民.

1973

3)  N.  W. Posthumus (ed.) 

, 

Bronnen tot  de  geschiedenis van de Lei dsche  Textie1nijverheid, 6 d1n (Rijks  Geschiedkundige  Pub1icatien,  nos.  8, 14.  18, 22, 39, 49, 's  Gravenhage, 191022).

以下

L.T.N.と 略記。

4)  代表的なものとしては,注1)であげた米川氏の研究のほかに,山之内市『イギ リス産業草命の史的分析』郊1編第1:41:  m 2

112

~(,青木主回,

1966年。吉岡 昭彦「産業ft.命朋におけるヨークシャー毛織物工業のf,I'J

J

U向学論集』知 30{~

2 1962

j 反巻

rJu:

i l t

ウィノレトシャーの毛椛物ーl

て す

ιJIT'

J ‑ J U U l i 1 j

皮史学』知

50 ì.:~,

1970 

(4)

82 

経 営 と 経 済

5)  ホントスホーテをはじめとするフランドル諸都市の毛織物工業については,本稿

ではその用意がないためほとんどふれていなし」乙の点の研究の深化が今後の課題 として望まれる。

ネーリング制の成立

15世紀から16世紀前半にかけて毛織物工業都市としてその名を馳せていた レイデンは,オランダ独立戦争の渦中でスペイン軍に包囲され(1574年) ,  危うくその難をのがれることができたが,その頃にはさしものレイデン毛織 物工業も気息奄むたる状態にあった。それから数年後の1577年にいたると,か つて1560年代に戦乱のフランドノレをのがれて対岸のイングランド束部に移住 していたフランドル人の一部が再び、海を渡り,乙んどはレイデンにやってき た。いうまでもなく彼らは自分たちの生地フランドルにおいて各程の毛織物 製造に携わり,それをイングランドに伝えたのであった。しかしながらそのイ

ングランドも彼らの最終的定住地となることなく,彼らは再び大陸に舞い戻 ったD 彼らがレイデンにやってくることになった動機は必ずしも明らかでは ないが,ノーリッジやコルチェスターといったイーストアングリアの地が彼 らの故郷フランドルとくらべてみた場合企業風土としては様相を著しく異に していたことは十分考えられることであるD 彼らがイングランドを去るにあ たって,新たな移住地レイデンの都市当局と移住条件の交渉を行なっている

~ 1) 

事実は,乙うした事情を哀付けるものであろっ 。こうしてレイデンに移住し てきたフランドノレ人は市民権を与えられ,営業の自由を保証され,大いに優 遇されることになったが,これは何にもましてレイデン市当局が没落してし まった旧毛織物工業に代わるフランドル伝来の新毛織物工業の保護育成によ り,毛織物工業都市レイデンの名声を回復しようと欲したからにほかならな い。フランドノレ移民に対する経済的優遇はこうした都市当局の志欲のあらわ れであったO しかしそうした優遇もフランドル移民を必ずしも十分に満足さ せたわけではなく,その後レイデンを去り,ハールレムに移っていった者も でたようである2)

その後1582年にいたりフランドルの一大毛織物工業都市ホントスホーテが

(5)

17世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(上) 83  スペイン軍に焼かれ,特産のサーイ織の織元や職人が多数レイデンにのがれ てきた。彼らもまたレイデン市当局と移住の条件を交渉している3)。さらに 1585年のアントウェルペンのスペイン軍による陥落を経て,南ネーデノレラン ト諸都市から西ヨーロッパ各地への移民の流れが 17世紀の初頭にかけて続い た。彼らのうち毛織物業関係者はその多くがレイデンにのがれてきたことは いうまでもない。その数は1575年から1619年までの45年間に1298人を数えて

いる的

O

乙のようにしてレイデンにのがれてきたフランドル移民は,いわゆる新毛 織物と総称される多種多様の毛織物製品の製法をレイデンに伝えることにな っ た 。 そ の 代 表 的 な も の を あ げ れ ば , サ ー イ 級 (saai),グログレイン紘 (grogrein) ,ラス織 (ras),フュステイン織(fustein),カンジャント (cangeant) , トルコ・グレイン級 (Turksegrein),パーイ級 (baai),  ベレ・ラーケン織 (Be

l 1

se1aken) ,ラーケン紋(1aken),ロル紋 (ro1),  カノレサーイ織 (carsaai),スタメット織 (stamet), ワルフ。織 (warp) どであるD こうした事態に対応してレイデン市当局は,これらの新毛織物製 造業の保護育成をはかるために,使用する原毛や織物の和類さらには製法の ちがいを基準にして多TITI多核の新毛織物を似辺ったいくつかのクツレーフ。にわ

けで組織化し,それぞれの組~放の中心に会所(ホーノレ)をおいて製品の品質

管理や規制を行なうことになった。つまり中世的ギソレドとは異なる,毛紋物 の製品別の縦断「内組織化を試みたわけであるの。こうしてできたのがネーリ ング制 (nering)であるO そ の 最 初 の も の が1578年 の パ ー イ 織 ネ ー リ ン グ である。これはイーストアングリアに見切りをつけたフランドノレ移民がレイ デンに定着した1577年の翌年にあたるから,両者の関係は密接である。乙の ノイーイ紋ネーリングの成立当初のネーリング規制 (keuren)は羽存してい ないため,たしかめることはできないが,当初このノ

f

ーイ織ネーリングには

/,' ーイ織のほかにラーケン紋,スタメット総, ドゥク級,ロル級その他が含 まれていて,それらが一括して組織化され,規制の対象となっていたようで ある6) それから1582年にサーイ紋ネーリングが成立するc これは同年のホ ントスホーテからの大移民を宍伐としている。このサーイ紋ネーリングには

(6)

8 4   経 営 と 経 済

グログレイン織, レイスト織(1ijst),へーレンサーイ紘 (herensaai)

7)

どが含まれていた o さりに1586年には一つのネーリングが成立した。ベレ

・ラーケン織ネーリングとフュステイン織ネーリングがそれであるO このう ちベレ・ラーケン織ネーリングは1585年に仏領フランドノレのベレ (Belle フランス名 Ba

i l 1

eur)からのがれてきたベレ・ラーケン織的の職人の来住を 契機としているO しかしこの製造業はその後不振続きで, 1591年にはパーイ 織ネーリングに吸収合併された9) 。もう一方のフュステイン織ネーリングは やはり同年のフュステイン級職人の来住を契機として成立しているo 乙れに は各程のフュステイン織のほかにさらに6程類の製品も合まれていた10) さらに1596年にはラス絡がサーイ織ネーリングから分離して一つの独立した ネーリングとなっている11) oそして翌1597年のカンジャント織ネーリング の成立12)によって,ひとまずはネーリング制も完成したD このカンジャン ト織ネーリングはリノレ (L

i l 1

e,オランダ名 Rijssel)からの移民を契機にし て成立したようである。しかし乙のカンジャント織ネーリングは短命で,1606 12月には当初期待されたほどの発展がみられなかったとして廃止されてい

13)。したがってこのカンジャント織ネーリングが廃止された時点をとっ てみると,それまでに6つのネーリングが成立し,そのうち2つが合併や廃 止によって姿を消した乙とになるO そしてこの1606年をもってネーリングの 設立も一段落をみることになるので,さしあたりこれらを「初期のネーリン グ」とよんでおこうD この「初期のネーリング」の成立の特色としてあげら れることは,その多くが比較的多数の移民の集団的定着を契機にしていると いうことであるO 後にもふれるように,この点はネーリング制を考える場合 にかなり重要であるように恩われるo

さて1606年以降はしばらくは新しいネーリングの成立をみないが, 1638 にいたりこんどは17世紀後半のレイデン毛織物工業を主導することになるか のラーケン織のネーリングが成立しているO 乙のラーケン織は16世紀半ばま でレイデンで、大量に生産されていたいわゆる旧ラーケン織と区別するために 新ラーケン織とよんでいるが,これがすでにのべたノ

f

ーイ織ネーリングの中 に一括して合まれているラーケン織と同ーのものかははっきりとたしかめる

(7)

17世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(上〉 8S  ことができないO お そ ら く は 同 ー の も の と 忠 わ れ るO もしそうであればラ ーケン織ネーリンクやはノ

f

ーイ織ネーリングから'の分離独立という乙とにな 14)。ラーケン織は1630年頃までは年間生産量が2000反未満にすぎなかっ たが, 1638年になると突如1万反を突破し,パーイ織ネーリングの中の最‑大 の部門にのし上がるO そ し て こ の 年 に ラ ー ケ ン 紋 ネ ー リ ン グ が 設 立 さ れ 15)。したがってこのラーケン織の急速な発展をおいては,パーイ織ネー

リングからの分離独立は考えられない。

その後1652年にいたりワノレフ。織ネーリングの設立をみている16)。このネー リングにはワjレプ織のほかにティーレンテイン紋 (tierentein)

,フやゼル ~:ìt

(boezel) ,フノレラーケン紘 (voe

r 1

aken)など10忠類ほどの製品が合まれ ていたが,これらはいずれも16世紀半ば以前のレイデンの旧ラーケン織の流 れをくむ粗質で安価な毛織物であり,それまではパーイ織ネーリングの中に 一括して合まれていたもののようである17) 。したがってこれらもまた生産量 の拡大とともにパーイ紋ネーリンクゃから分離独立したという乙とができる。

それからさらに2年後の1654年には乙んどはトノレコ・グレイン紋ネーリン グが設立された。このトノレコ・グレイン織(辺称グレイン級)というのは,

サーイ織ネーリングの中に合まれているグログレイン織や先にのべたカンジ ャント織と同系統の純物であり,したがってこのトルコ・グレイン紋ネーリ ングはサーイ織ネーリングからの分離独立ないしは先に短命に終ったカンジ ャント織ネーリングの復活とみなすことができる18) 。 こ の ネ ー リ ン グ も ま た急速な生産量の拡大によって成立したのである。このトノレコ・グレイン総 ネーリングの成立を最後として,以後新たなネーリングの設立はみられな い。そこでわれわれは17世紀半ばに相次いで成立した3つのネーリングをさ しあたり「後期のネーリング」とよんでおきたい。乙の「後期のネーリン グ」はいずれも, 16世紀末に大日:移民の定着を契機として成立した「初期の ネーリング」とはその成立の契機を異にしていることは明らかであるo この 3つのネーリングは既存のネーリングの内部においてそれまでは副次的部門 にとどまっていたものが,急速に生産主を拡大した結果,既存のネーリング から分離独立するという形をとったのである。したがって大量移民の定着!こ

(8)

86 

経 営 と 経 済

直 接 的 契 機 を 発 し て い る の で は な い こ と は 確 実 で あ るolこわれわれは「初 期 の ネ ー リ ン グ 」 と 「 後 期 の ネ ー リ ン グ 」 の 規 制 内 容 を 検 討 す る こ と に な ろ う が , ネ ー リ ン グ 制 の 歴 史 的 性 格 を 考 え る 際 に は , こ の 点 は か な り の 霊 要 性 を も っ て い る よ う に 思 わ れ る 。 こ う し た 急 速 な 生 産 量 の 拡 大 が い か な る 条 件 のもとで可能になったのかはさしあたりわれわれの問うところではないが,

毛 織 物 を め ぐ る 国 際 的 な 市 場 椛 造 が そ の 一 因 と な っ て い る こ と は , こ れ ま で の 諸 研 究 が 明 ら か に し て い る 通 り で あ る19)

さてその後のネーリング制の推移を一瞥しておくと, トルコ・グレイン織 ネ ー リ ン グ の 成 立 に よ り 全 部 で7つ の ネ ー リ ン グ が 存 在 し て い た こ と に な る 1662年 に い た り 不 振 を 続 け て い た ラ ス 織 ネ ー リ ン グ が サ ー イ 紘 ネ ー リ ン グ に 吸 収 合 併 さ れ20) , 1674年 に は フ ュ ス テ イ ン 紘 ネ ー リ ン グ が や は り 不 振 のためワjレフ。織ネーリングに吸収合併されている21) D し た が っ て 残 っ た5 つのネーリング(パーイ織,サーイ織,ラーケン織,ワノレフ。級, トルコ・グ

レイン織)がそれ以後18世 紀 末 ま で 共 和 国 時 代 を 通 じ て 存 続 し た こ と に な O

注1) L. T. N.

, 

d

1 .  

m

, 

No. 279 

2)  N. W. Posthumus, De Geschiedenis van de Leidsche Lakenindustrie,  d

1 .  

II, blz.  16, noot (2), d

1 .  

m, blz.  1127.以下 Geschiedenisと略記。

3)  L. T. N., d

1 .  

m, No.  86. 

4)  N. W. Posthumus, Geschiedenis, d

1 .  

II, blz.  84. 

5)  ただしラーケン椴ネーリングやパーイ紙ネーリングの乾式仕上工程だけはネーリ ングの中に包括されず,独立のギノレド (ambacht)を形成していた。

6 )  

L. 

T. N.

, d

1 .  

m, No. 301303, noot 

( 1 ) .   7 )   L. T. N.,  d 1 .  

m

, 

No. 100. 

8)  L. T. N., d

1 .  

m, No. 292.別名レイデン・ベレ織 (Leytsche bellen)と もいう。乙れは名称が示す通りもとは仏領フランドルのベレでつくられていたラー ケン織の乙とであるO後にはブリュージュ (Bruges)などでもつくられていたと いうO

9 )   L. T. N.

, 

d  1

, m, No. 305. 

(9)

17

世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(上)

87  10)  L. T. N.

, 

1 .  

m, No.  238.

このフュステイン織はブリュージュからイ云えら

れたもののようである。

L. T. N.

, 

d

1 .  

m, No.  237

, 

243

, 

253

, 

ll)  L. T. N.

, 

d

1 .  

m, No.  229.

乙 の ラ ス 織 は 仏 領 フ ラ ン ド

l

レ の 都 市 ア ラ ス

(Arras)

と何らかの関係があるようである。アラスはフランドノレにおけるサーイ 織 業 の

3

大中心地の一つであった。

N.W. Posthumus

, 

Geschiedenis

, 

d

1 .  

1 I ,  

b1z. 2 3, 34

1.なお英語ではラス織は

arras

という。

12)  L. T. N.

, 

d

1 .  

m, No.  269

, 

27

1.これにはオセット

i

(ossetten)

やトルコ

・グログレイン織なども合まれている。このカンジャント織は

17

世紀半ば頃にあら たにめざましく進出してくるトノレコ・グレイン織と大体同じもののようである。な おこのカンジャントという名称は一定したものではなく,ポスチュムスも

cange‑

ant

, 

changeant

と 二 通 り の 書 き 方 を し て い る 。 史 料 の 中 で も

cangeanten

canganten

, 

cacheanten

, 

cancheanten

というように一定していない。ノーフ ォクででてくるコーンジエントリー

(caungentry)

もおそらくはこれと同じもの で あ ろ う 。 フ ラ ン ス 話 で は

drapschangeants

という。

L.T. N.

, 

d

1 .  

m

, 

In1eiding, IX. 

13)  L. T. N., d

1 .  

m, No.272. 

14)  N. W. Posthumus

, 

Geschiedenis

, 

d

l .  

m, b1z. 928. 

15) 

乙のラーケン織ネーリングにはラーケン織のほかにカルサーイ織とスタメット紋 も合まれていた。スタメット織もそれまではノイーイ織ネーリングにはいっていた。

L.  T. N., 1.  IV, No.  288.  16)  L. T. N.

, 

d

l .  

V

, 

No.  290. 

17)  N. W. Posthumus

, 

Geschiedenis

, 

d

1 .   l I ,  

b1z. 254. 

18)  ibid.

, 

b1z. 272.ポスチュムスはサーイ織ネーリンクゃからの分離独立とみている。

19)  Ch. Wilson, C10th  Production  and Internationa1  Competition  in  the  Seventeenth Century

, 

Economic History  Review

, 

(2)  xm;2 (960)  . A

山栄一『イギリスにおける経済措成の転換』第

1

辛「イギリス毛織物工業と同際競

J

,未来社,

1967

年。拙稿「オランター共和国の成立と毛椴物工業の展開

JW

社 会

経済史学Jl

m36~箔 4 号,

1970

年。

20)  L. T. N.

, 

d

l .  

V, No.  155.

つまり元にもどったことになる。

21)  N. W. Posthumus

, 

Geschiedenis

, 

d

l .  

m, b1z 1128. 

(10)

経 営 と 経 済

88 

「織機数調査」からみた経営形態の分析 1602年の

次にわれわれは「初期のネーリング」成立期のレイデン毛織物工業の内部 構成に目を転じてみようO こ乙では初期の5つのネーリンクゃがいかなる序列 をなしていたかをまず検討する。従来のわが国の研究においては主に各ネー リングの生産量の推移からこの問題に接近していたのであるが,われわれは ここでは1602年にレイデン市で行なわれた織機の実態調査を手がかりにして

(1 ) 

パーイ織ネーリング

l酬 の 所 │ 所 開 [ 慨 を 有 台 数 (織機数) 比率(%)

1 88(88) 67.7

16(ω2)1  24.6  2(6)  4.6  1(4)  3.1  織 │ 計 1107(130) 1  100.0  1 62(62)  1  88.6  2( 4)  5.7  そ の 他 (4 ) 5 . 7  

計 │ 的0) 1  100.0  3( 3)  23.1  1  1( 2)  15.3  1  2( 6)  1  46.3  そ の 他 (2 ) 1 5 . 3  

計 │ 的3) 100.0 

総 計 │ ロ7(2ω│

( 1 )  

乙のうち2人はほかにラーケン 織機を l台ずつもっているので,

ラーケン織機の楠に加算しである。

( 2 )  

乙のうち

2

人はほかにスタメッ ト織機をl台ずつもち,さらに2 人はラーケン織機を1台ずつもっ ているので,それぞれの相に乙れ を加算しである。

(L.T.N., d

1 .  

m, No.  328) 

サーイ織ネーリング 織械の所│ 所有者主% I総織機数に 有 台 数 I

(織機数~

I

対 す 設 す

419(419)1  36.0  122(244)[  20.9  60(180)!  15

. 4  

34(136)1  11.3  18( 90)[  7.7  8( 48)1  4.1  3( 21) 1.8  1(  9)[  0.8  16  1(  16)1  1.3  不 明 (5)1  0.7 

666(四 )

︑ ︑ ︐ ノ

H H

' t

!:j'J  1

ラ l

ケン織

100.0  1168

台の内訳

小幅織機 52 広幅識機 389

不 明 727

乙のほかにグレイン織機 12

スタメット織 計

(L.T.N., d

l .  

m, No.213)  100.0 

(11)

17

世紀レイデン毛織物工業とネーリング制(上

89

(m)  フュステイン織ネーリング

(V) 

カンジャント織ネーリング 級台機所有薮

I

所 ( 織 有 機 者 数 数

5I

対総渦す機場数ず

 ζi

59(59)  2

1 .

26(52)  18.6  16(48)  17.2  14(56) 

5(25)  5(30)  l( 7) 

不 明

(1) 

計 山 捌

l

(L.T.N., d

l .  

m, No.  259)  (N) 

ラス織ネーリング

20.1 

3.0 

100.0 

同 岡 崎 1 5 F

13(13)  6

1 .

l( 2)  9.5  2 (6)  28.6 

16(21)  100.0 

ここでは織機所有者は全員識元

(L.T.N., d

l .  

m, No.233) 

第 2

不 一 ン グ

│ 

域機数

一 イ

;i 1168 

)~

一 イ ~i~

213 

フ ュ ス テ イ ン 織

278 

フ ス

ii 21 

カ ン ジ ャ ン ト 倣

21 

│有断台数

I

l p 一撃機設数す

カ ン ン ト ジ 織 ャ

1 1 13 

( 判

15.6 

グ ン ト ノ レ レ コ 織 イ ・ I  ~ I~"

1 (6) 

~;!

130

1 .

.7 

不 明 │

42.1 

17 

( 叫

100.0 

L:421

人 台 ず と つ も ほ も つ かにオセット織械を

(L.T.N., d

l .  

m, No.270) 

( V I )   旧ラーケン織業

*故機所有者数

8

織 機 数

8

(L.T.N.

, 

d

l .  

m

, 

No..  83) 

( 四 ) 麻 織 物 業

織機所有者数

123

人 織 機 数

234

(L.T.N., d

l .  

m, No.347) 

(¥5)

│級機所有者数

(96) (68.5)  666  (66.5)  (12.5)  177  (17.7)  (16.3)  127  (12.7)  1.2)  16 

(  1 .

6)  1.2)  0.7) 

旧 ラ ー ケ ン 紋

(0.3)  0.8)  1709  (100.0)  1  1001  (100.0) 

(12)

90 

経 営 と 経 済 あらためてこの問題を明らかにしてみたい。次いでこの調査結果をもとにし て ,

17

世紀のレイデン毛織物工業の経営形態とフランドノレ移民当初の経営規 模についても若干の検討を行なってみたい。

この

1602

年の織機の実態調査とは,レイデン市当局が市外での織布を抑え る目的から,まず市内の織機数の実態を調査把握し,それの市外へのもち出 しを禁止するために行なったものであった

1) D

このため市当局は

1602

年に当 時の

5

つのネーリングと旧ラーケン織業者および麻織物業者に命じて,それ ぞれの所属の全織機数とその所有者ならびに所在地を調査させた。その調査 結果は,まとめると次のようになる(第

l

表) ( 第

2表)2)

みられるようにこの1

602

年の織機数の調査からわれわれはレイデン毛織物 工業の内部構成をかなりはっきりとみることができる

o

かつて

16

世紀半ばま でレイデン毛織物工業の名声を支えてきた旧ラーケン織業

(OudeLeidsche  draperie

, 

oude lakendraperie)

がこの時点までにほぼ姿を消し,フラン

ドノレから伝えられた新毛織物工業

(nieuwedraperie)がそれにとって代っ

た。換言すれば

17

世紀のレイデン毛織物工業は前世紀までの経営主体のほぼ 完全な断絶の上に築かれているのである

o

そしてこの新毛織物工業の中では サーイ織ネーリングが織機数において断然他を圧し,市内の全織機数(ただ し麻織物業の織機をのぞく)の約

7096(1168

台 ) を も 占 め て い る

o

しかも

1614

年の調査ではさらにふえて,

1607

台を数えているの。これは織機数はも とより生産量の上にもはっきりとあらわれている

D

サーイ織ネーリングが

「第一の産業

(hoofdnering)J

といわれた所以である。やがて

17

世紀半ば 以降レイデン毛織物工業を主導してゆくことになる新ラーケン業は乙の段階 では織機数,生産量からいってもまだ小規模にとどまっており,将来の発

4) 

展を予示する兆候すらみることができない。

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