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有機体説と弁証法

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(1)

有 機 体 説 と 弁 証 法

川 田 俊 昭

﹁今日の社会は固定的な結品物でな‑'変化し得る・絶えず変化の過程にある1つの有機体Organismusで

あ る

︒ ﹂

(マルクス︑﹃資本論﹄︑第一版序文)

三 木 活 は

︑ 論 文  

﹁ 有 機 体 説 と 弁 証 法 ﹂   ︵

﹃ 社 会 科 学 の 予 備 概 念

﹄ ︑ 由 和 四 年

︑ 所 収 ︶   に お い て ︑ 次 の 様 な

︑ 通

ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ

念からすれば︑かなり恩い切った断定を行う︒﹁私は云おうと思う︑弁証法はヘーゲルにあって著しく有機体説への

ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ

傾向を含んでいる﹂︑と︒﹁弁証法はヘーゲルにあって尚シェリング的なるものに付き纏われている︑− シェリング

は有械体説の源である︹?⁝⁝﹁ドイツにおける有機体思想の発端をなしたのはカントである﹂!﹃経済学大辞

典﹄︺1︑ヘーゲルを解放して真にヘーゲルたらしめたのは却って唯物論者マルクスである︒﹂

斯くて︑我々は知る︒先に三木活が︑﹁形t式的であるにせよ﹂︑有機体説と弁証法との﹁概念構成上における差異

ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ     ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ   ヽ

を分析﹂した折の︑︑﹁有機体説﹂と﹁弁証法﹂とは︑夫々実は︑シェリングの有機体説とマルクスの唯物弁証法︑と

の所謂﹁最も鋭い対立﹂における比較であったことを!﹁有機体説﹂が︑例えばリストを含むに余りにも狭義に︑﹁

(2)

経 営 と 経 済

七 O 

弁証法﹂がへ l ゲルを指示するに余りにも過激に︑説明された所以である︒従って又当然︑有機体説︑弁証法︑両者

の間にある斯かる堀割を我々が何等かの作為で埋めるならば︑そこに両者の何れともつかぬ一領域を我々は発見し得

る筈である︒言わば三木清にとってへ l ゲルはその様なものとして現れるのである︒

へ l ゲルの弁証法が有機体説的なものであるとする三木清の根拠ーーー両者を聯関せしめ得るところの共通なるも

の︑それは如何?

﹁斯かるものこそ実にかの﹁具体的普遍己 g 同

O D W B

H E ﹀

= m o E O E O ﹄ で あ る ︒ ﹂

( 1 )   三木清がへ

l ゲルの所謂﹁具体的普遍﹂を指示する時︑例えばーーー

歴史学派ゴットルの﹁構成体﹂

│ i

﹁共同生活の・:本源構成体の総体は一本の巨大な生命の木に等しい︒それ

はその根を悠遠な太古にもち︑爾来その枝の如何に多くが枯死したにしても︑繰返し繰返し違った枝を出して何時ま

でも存続する︒﹂(ゴットル︑﹃経済と科学﹄):::この比愉はカント﹁判断力批判﹄における有機体︑殊に﹁一本の

樹木﹂を愉えにしての説明(後述)と略同じである││

ゾムバルトの﹁経済体制﹂││﹁経済的諸現象を一つの体系に形成し得べき理念:::これは経済のあらゆる本

質的諸特徴を含有し︑又これら個々の諸特徴を一つの統一体に綜括せねばならない︒﹂(ゾムバルト︑﹃三つの経済 っ

学 b

i ‑

‑ ‑

これはカント﹃判断力批判﹄に謂うところの﹁反省的判断力﹂の (有機体についての)機能を指向してい

Gill

と ( 3 )

経 済 第

rヲ

参 、 ー ノ

ウ ェ

l パ i

の ﹁

理 想

型 ﹂

ウェ!パ l の﹁理想型﹂と有機体との密接については︑拙稿﹁学説並びに方法﹂︑経営

( 4 )  

歴史学派の一分派 ハルムス一派における﹁構造

2 2

ロ円﹂││﹁部分が相互に︑又部分が全体に結びつけ E

ら れ る 態 様 ﹂ (タ!ルハイム):::この規定はカントにおける﹁有機体﹂概念と完全に一致している││

(3)

‑ :

等 々

が ︑

夫々想起される︒三木清の云う︑

﹁有機的発展にあっては全体は﹃構造﹄の概念において:::解明

されると看倣されることが出来るであろう︒蓋し構造においては全体は所与でなければならぬ口

1 1

構造ということ

を最も力説したディルタイも︑構造では全体が根源的に与えられる︑と繰返し述べている︒﹂

全体の所与性:::三木清は続けて云う︑﹁乙のものは弁証法においては︑最初に掲げたかの弁証法の三つの契機の

うち特に﹃思弁的なるもの﹄に属する︒ところでこの思弁的なるものは単にへ i

ゲルにのみ特有のものではなく︑む しろ︹カントに始まる]あらゆるドイツ思弁哲学に︑従ってシェリングにも共有のものである︒それは既にカントに よ っ て 所 謂 綜 合 的 普 遍

含 ω ω

可 ロ 52

古 ♀

' ﹀

] ]

向 ︒

B 巴 DO

として発見された︒それ故にヘ

i ゲル自身も:::云う︑﹃判

断力批判は︑ヵントがそ乙においてイデ!の表象︑否!思想を言い表わしたという著しいものをもっている︒直 観的悟性︑内的合目的性等の表象は︑同時にそのもの自身において具体的として考えられた普遍である︒従ってこれ

らの表象において独りカントの哲学は思弁的として自らを示す︒﹄ カントが︹﹃判断力批判﹄において︺夙に有機体

に結びつけたところの具体的普遍的なるもの︑ ヘ l

ゲルの謂う思弁的なるものは︑まことに有機体説の主なる思想内

容である︒﹂

普 一

極 に

あ っ

て は

例えば︑ゴットルにおいて︑或は︑ゾムバルト(又はタ i ルハイム)においてまさにそうであった如く

l l

﹁ 具

体 的

一切の特殊が一つの完了した・統一ある全体の中で一義的な・必然的な位置を保つ︒この時︑各々

の部分は全体を要求し且つ部分部分を互いに要求する

D

それと共に全体は又部好を要求し且つ各々の部分をして互い

に要求せしめる︒如何なる部分も全体によって規定されて︑全体の意味を現わさぬものとではない︒カントは斯くの

如き構成を有機体において見︑ドイツ歴史学派の有機体説はそれを歴史的存在一般のうちに見た︒﹂

即ちカントによれば ﹁有機体﹂においては││

有機体説と弁証法

七.

(4)

七 二

﹁各部分がただ他の全ての部分を通じてのみ存在すると同様に︑又他の部分のために及び全体のために存在するも

経 営 と 経 済

のとして︑換言すればその道具(機関)として考えられるのであるが︑しかしこの後者だけでは尚未だ充分ではない

(何故なら︑それは技術の道具でもあり得べく︑従って単に目的一般としても可能であり得るものとして表象される

からである︒)むしろそれは他の部分を(従って又各自相互的に)生産する機関として考えられねばならぬ︒しかも技

術の道具は到底斯くの如きものであることは出来ないのであって︑それはただ道具そのものに対しても全ての素材を

(技術のそれに対してさえも)供給するところの自然のそれにおいてのみ可能なることである︒而してただ然かる場

合︑然かる故にのみ︑斯くの如き産物は有機化された・る及び自己自身を有機化する存在として︑一つの自然目的と名

付ける乙とが出来るのである︒﹂(カント︑﹃判断力批判﹄︑岩波文庫︑下巻) ﹁自然目的としての物が︑有機体であ

る ︒

歴史学派︑殊に後期歴史学派(ウェ i i ︑ゾムバルト︑ゴットル・:・:)の場合︑彼等は具体的普遍について弁証 パ ﹂

法でなく︑(ディルタイ︑ ハ イ デ ッ ガ l 或はフッサ i ルについて特徴的な)﹁理解的方法﹂を以って操作した︒

﹁ 具

的普遍の把握はそれ自身として弁証法的であるを要しない:::人は具体的普遍の認識に対して特に﹃理解﹄という術

語を育成した︒理解の理論としての﹃解釈学﹄はドイツ歴史学派の有機体説の内部において著しい成長を遂げた︒理

解の根本命題は︑﹃個々のものは全体のうちで︑そして全体は個々のものから理解される﹄︑という乙とである︒﹂

﹁この様にして思弁的なるもの︑具体的普遍は弁証法のみに固有なるものではないのである︒﹂﹁しかるに︑奇妙

にも︑従来︑哲学者の側から弁証法が説かれる時︑全んどすべての場合︑具体的普遍の論理のみが︑少くともそれを

中心として︑論ぜられている

D

人々はヘ!ゲルの論理学を全くこの意味に解釈して怪しまながった︒﹂﹁例えばラスク

は へ

l ゲルの論理学をもって直観的悟性の論理学となし︑それを流出的論理学岳

O O B S

町 の

宮 ﹁

m ︒

停と呼んでい

(5)

る︒マックス・ウェ l パーその他の人々はこれに従っている︒しかし斯く特性づけることによっては︑ へ i ゲルの弁

それにおける﹃弁証法的なるもの﹄︑それ故にそれが運動論理学 証法における思弁的なるもののみが表わされて︑

0 4

o m

ロ ロ m m

] o m 符である所以のものが見失われてしまう︒﹂

が︑三木清の考慮を借りるまでもなく︑所謂へ l ゲルのカント批判なるものは︑ 一つにはカントの静的・没歴史

主義的側面︑その無課題性にこそ匹胎した︒即ち三木清によれば︑こうである︒﹁弁証法にあっては︑具体物は弁証

法的論理的に︑換言すれば︑否定の﹃媒介﹄を通じて︑反対物への転化の過程を通じて生成し︑従って優越な意味にお

いて思弁的なるものである︒これに反し有機体説の場合では︑具体物は普遍と特殊との各々の時において全く個性的

な結合であり︑芸術的天才の創造の場合と類似して︑純粋に連続的なる︑いわば無意識からの生成をもち︑従って特

に天才的なるもの︑優越な意味において芸術的なるものである︒:::︹カントによると有機体は一つの自然目的とし

て見られ得るから︒︺しかしながら︑ヘ l ゲルの言った如く﹃物はその目的において尽されるのでなくて︑却ってそ

の遂行において尽される︒又結果は現実的な全体でなくて︑却ってそれはそれの生成と一緒にして斯かるものであ

る ︒

﹄ ﹂

斯くて︑弁証法における﹁弁証的なるもの﹂は︑ここでも矛盾││矛盾による発展︑乃至矛盾の媒介による自己の

止揚である

D

少くとも︑へ l ゲルには斯かる事柄の把握においての明確な自覚があった︒にも拘らず︑

ー「

〆¥

ゲ ノ レ

る ﹂

の体系にあってはこの様な弁証的なるものが絶えず抑圧され︑束縛され︑斯くて有機体説の傾向は著しくなってい

﹁全体の所与性というととは有機体説の最

と 三

木 清

は 一

一 一

口 う

︒ 全

体 の

所 与

性 の

尚 余

り あ

る 強

調 ︑

これである

D

も重要な構成要素の一つであった︒しかるにこのことは︑全体が自己完了的性質のものであるということと密接に関

聯する︒ヘ l ゲルにあっては幾主もの理由かヨりして全体は与えられてあるもので¥あった︒︹殊に U それは宗教的体験

有機体説と弁証法

(6)

経 営 と 経 済

七四

によって与えられた全体的なる神であった

D :

: :

﹃哲学はいかにもそれの対象を先づ宗教と共通にもっている︒両者

は真理をそれに対象にもつ︒そしてしかも︑││神が真理であり︑彼ひとり真理である︑という││最高の意味にお

い て で あ る ︒ ﹄ ここに言われた神は言うまでもなく汎神論の神である︒:::︹換言すれば U へ i ゲルの弁証法は︑ま

さしくその汎神論的基礎のために︑白から有機体説の概念構成の諸要系を具えざるを得なかったのである︒﹂

斯くては︑哲学史上︑カントとへ l ゲルにおけるが如き好対照ーーー例えば︑直観(情念)のパスカルと理性のデカ

或は東洋哲学では老子と孔子︑王陽明と朱子︑の相異の問題︑殊に後者における一種の虫色

o r z w

の所有

の問題も︑両者の結局が何れも神であったという意味で︑無問題化する︒

! へ

l ゲルが本来有機体説︑殊にカントの有機体思想をその概念構成の手掛りとしたが故にこそ︑とは言えま

いか?H当らずとも︑遠からずH│の思い付きの放言を敢てなせば︑如よの怠味では︑ヘ l ゲルがカントに倣える部

分(換言すれば理性の自己運動としての弁証法の基礎的想源)は︑カントの主要ともいうべく我々における力学的考 ル

ト ︑

慮の精 l ﹁純粋理性﹂︑即ち悟性に関わる箇条ではなく︑いかにも︑次の部分

i

l 即ち生物学的考慮たる﹃判断力批

判﹄︑第六十四節﹁自然目的としての事物の特異的性質について﹂︑第六十五節﹁自然目的としての事物は有機化さ

れ た 存 在 で あ る ﹂ : : : で あ る ︒

例えば︑カントは︑恰もへ l ゲルを予定せる如き口吻で次の如く言う︑ ﹁ある事物がただ目的としてのみ可能であ

ること︑換言すれば︑その根源の因果性が自然の機械的関係の中でなく︑むしろその作用能力が概念によって規定さ

れる殺な一種の原因の中に求められねばならない乙とを洞察するためには︑次の如き乙とが必要である︒即ちその形

式は︑単なる︹機械的な︺自然法則によっては︑換言すれば感官の対象に応用された悟性のみをもって我々の認識し

得るが如き自然法則によっては︑不可能であって︑むしろその原因及び結果の不可能であって︑むしろその原因及び

(7)

結果の関係における経験的知識すらも︑既に理性の概念を前提するということがそれである︒:::一体理性はある自

然産物(リ有機体︺において︑その生産に結合せる諸制約だけでも洞察せんと欲する以上は︑自然産物の各個の形式

についてその必然性をも認識しなければならぬのであるが︑しかもこの場合与えられたる形式においてはこの必然性

を仮定し得ないのであるからーーーそれ自ら︑この因果性をば︑恰もそれがまさにその故にただ理性によってのみ可能

なるものであるかのように仮定すべき一つの根拠となる︒そうなればしかしこれは目的に従って行為する能力(意

志)であり︑而して乙れに基づいてのみ可能なるものと考えられる客体は又やがて目的としてのみ可能なるものとし

て表象されるであろう︒:::さて自然目的としての事物には︑第一に部分が(その存在並びに形式において)ただそ

の全体との関係によってのみ可能であるということが要求される︒蓋しその事物はそれ自ら一つの目的であり︑従っ

てそこに含まるべき一切のものをア・プリオリに規定すべき一つの概念もしくは一つの理念の下に把持されるからで

あ る

︒ ﹂

(カント︑前掲書)

カントにおける有機体説︑ 乃至有機体の場合には︑

そこには何一つ無駄なものは存せず

l l e 有機体においては

﹁如何なるものも無意味ではないのである﹂ 1 l l ︑全体と部分とが相互に完全な統一 (全体の所与性︑自己完了的性

質)をもってわる︒:::ここには丁度我々がある目的をもって技術的に何かの精巧な機械を生産する場合の如く︑自

然(自然 U 神を予想?)の技術寸

2 F

ロ片付によってある目的をもって有機体が.作られたと考えることが出来る口即

ち我々は﹁自然の根底に目的の概念をおく﹂乙とによって︑自然の産物としての有機体を﹁自然目的 Z

巳 ロ

足 当

2E

として考察せざるを得ないのである︒もとよりこの場合も(我々がカントの批判主義に忠実なる限り)我々は決して

有機体の根底に自然の目的があると主張することの出来ないことは一一一口うまでもなく︑そこではなく︑我々はただ判断

力(反省的判断力)によってそこに自然の目的の存するかのごとく宮町

m H U ‑

‑ : :

森鴎外の著作の一一湖︑﹁かのやう

有機体説と弁証法

七 五

(8)

経 営 と 経 済

/¥ 

に﹂を想起せよ!)有機体を考察し得るに過ぎない︒(岩崎武雄︑﹃カント﹄︑昭和三四年︑参)

一つの意志による目的表象と︑その実現が︑世界の中で我々に経験される口:::我々は︑生

ある有機体︑植物や動物を自然的現実として眺める口有機的存在者は︑﹃自然目的としての物﹄である︒我々は︑乙

﹁ 人

間 に

あ っ

て の

み ︑

れらのものの現実の根底に︑我々が自分の目的を実現する場合を移入して考え︑恰も目的をもった思想がこれらのも

のを生み出したかの様に︑物の合目的性を考えるのである︒﹂

( ヤ

ス パ

l

ス ︑

﹃ カ

ン ト

﹄ )

確かに︑確かに︑カントに我々が止まる限り︑有機体説は以上に尽きるものであろう︒が︑しかしー l

﹁ カ

ン ト

身は飽迄も反省的判断力の立場を越えはしなかったけれども︑しかしその反省的判断力の原理として考えられたもの

は人間以上の神的な悟性によって自然が合目的的に作られているということであり︑乙のカントの考えがやがてドイ

掲書) ツ観念論の哲学がカントの否定した形而上学へ逆転してゆく一つの原動力となってしまったのである︒﹂(岩崎︑前

フィヒテ︑:::ディルタイ︑ハイデッガ

l :

: :

の系列に問われる世に謂う﹁カントの形而上

シ ェ

リ ン

グ ︑

学﹂︑乃至存在論の問題︑とれである︒

カントの﹃判断力批判﹄が歴史的に見てその影響力が極めて大きく︑所謂ドイツ観念論の哲学は全般的に言ってカ

ント哲学をこの﹃判断力批判﹄の方向に発展せしめたものであるということは通常言われることであるが(岩崎︑前

掲書

) i

i へ l ゲルの場合︑又然りである︒彼はカントの批判とは言い条︑カントより形而上学(所謂﹁全体として

の学﹂)を︑しかもその勝れて勤学的な処理のうちに︑ひき出すことに成功した第一人者である︒

(9)

﹃ 判

断 力

批 判

﹄ i

│ そ

れ は

﹁彼の他の如何なる著作にもまして︑当時ドイツの思想界に大きな影響を与えた︒﹂

r'¥ 

山崎正て﹃カントの哲学﹄︑昭和三二年) ﹁ヵントの哲学の積極的な展開の出発点をなすものは︑第一批判と第二批

判を差し措いて︑却って乙の第三批判にあるのである︒フィヒテさえ判断力批判の抜粋を作り︑ゲーテも彼の生涯の

最も美しい時期を判断力批判に負うことを告白しているのである︒シェリング及びヘ l ゲルの哲学が第三批判の発展

の方向にあることは言うまでもない︒従って判断力批判はカント哲学の冠誌をなすと共に︑後続哲学者に対する影響

において最大の意味をもつのである︒﹂(高坂正顕︑﹃カント﹄︑昭和一四年)

注 意 せ よ

!

﹁シェリング及びへ!ゲルの哲学が第三批判の発展の方向にあることは言うまでもない﹂︑とある

全体︑普遍︑と云い条︑我々は︑我々におけるすべてを問題にする乙とは到底不可能である︒ を ︒

握をなさんとする希望:::乙の理想

1 1

それは不幸にじて一つの幻影である︒﹂(シュムペ i タ ! ) ﹁完全な現実性の把

と共に︑我々の

認識は︑それが飽迄(固有の意味において)

の様に書いたことがある︒(註 一つの認識たる限り︑決して混沌たることは許されない︒私は嘗.って次

﹁ 経 済 学 の 方 法 ﹂ ︑ そ の 三 ︑ 経 営 と 経 済 ︑ 九 一 号 ) ﹁ : : : 現 象 が 一 つ の 理 論 体 系 の 対 象 と な

り得るためには︑先づそれが﹃一個の根本原理﹄乃至一定の全体的関聯(認識形式):::を媒介として統一的に把握

されなければならない︒﹂ 又︑﹁一体﹃有機体O お

8 2 5 5

﹄ │

玄 ゅ

F の

2 5 5 ω

( 機構︑機械論)の対ーーなる実体概

念:::は︑:::概念を有機的(組織的)︑統一的︑全体的(社会的):::に構成するに

i

i 就中問題・対象をそれ自

ら(文字通り)自律的に限定すべく│l極めて有用・便利である︒﹂

斯くて︑私をして言わしむれば︑へ l ゲル(或は歴史学派)が採った抽象のための方法論(へ l ゲルにあっては

有機体説と弁証法

七 七

(10)

経 営 と 経 済

J I 、

弁証法︑歴史学派にあっては解釈学) 乙そ︑実に﹁有機体﹂を手段(てだて)とする以外の何ものでもなかった︒し

かも︑それは既にはやくカントの指し示してくれた方法でもあった︒巧妙な比愉を用いてカントの云う︑﹁今ある人が

無人の境と思われるある土地において︑ 一種の幾何学的形象︑しかも規則正しい六角形が土砂の中に画かれているの

を見付けたとすれば︑彼の反省はその概念に対して働くに際し︑たとえ臆気ながらも理性を介してこの概念生産の原

理の統一性を自覚するであろう︒そしてこの点から︑従ってその砂や附近の海や風や︑もしくは又彼が知る限りの足

痕をもった動物や︑或はその他のあらゆる没理性的原因をば︑斯くの如き形態の可能の根拠としては判定しないであ

ろ う

D

その故は彼にとってただ理性の中においてのみ可能なる斯くの如き概念と契合すべき偶然性が︑実に限りなく

大にして︑それに対しては恰も全く何等の自然法則も存在せざるに等しき趣きがあり︑従って単に機械的に働く自然

の原因でなしに︑むしろただ斯くの如き客体の概念のみが︑理性の与え得る︑そしてその対象をこれと比較し得ると

ころの概念として︑斯くの如き結果に対しての因果性をも含蓄する様に││・従って又これは自然目的でなく︑純然た

る目的として︑即ち技工関口ロ丘の所産として見倣され得る(︿

2 z m E B E B Z 広三含

o

人間の痕跡を見る)様に

思われるからである︒﹂(カント︑前掲書)

M 砂に書いたラヴ・レタ lH ではないが││﹁砂に画かれた三角形のしるしといった殺な

ll

目的表象によってのみ

生産され得るあるものを見ると︑私は人間の形跡を感ずる︒我々はこの様な先史時代の製作品を自然の産物から識別

し︑そしてこれらのものにおいて︑我々がこのような形跡を見出すところには人間が存在したという証拠を見るので

ある︒と言うのは︑ただ人間にあってのみ一つの意志による目的表象とその実現が世界の中で我々に経験されるから

で あ る ︒ ﹂ ( ヤ ス パ l ス︑前掲書)

歴史︑文化(なる概念)││へ l ゲル︑新カント派(但しパ l デン学派││新歴史学派の方法論たり得た)の可能

(11)

性︑これである︒

カントにおける如く││有機体が一つの﹁自然目的﹂として見られ得るという乙とは︑遂には︑自然全体││﹁我

々にとって自然は全体として有機的なものとしては与えられていない﹂→│を二つの目的の体系と考えることをも可

能にする︒(以下︑カント︑﹁判断力批判﹄︑第二部﹁目的論的判断力の批判﹂︑附録﹁目的論的判断力の方法論﹂︑

﹁自然の最終目的常吋 ]OHNZN

話 ︒ ︒

w a R Z m E

円﹂は︑道徳的存在者としての人

﹁文化問巳苫こを生ぜしめてゆくということである︒:::道徳的存在者として 参):::この様な見地からすれば︑

聞にその課題を遂行させるために︑

の人間は﹁造化の絶対目的閉口弘 N 巧

2 w

品 ︒ 円

ω の

F o u p

口問﹂であって:::従って自然の最終目的は︑人聞をしてその道

徳的使命を果し︑造化の絶対目的が実現される様に人聞を陶冶してゆく乙とであり︑これが即ち文化に外ならない︒

(自然の最終目的は文化であり︑自然の絶対目的は道徳である︒):::﹁文化のみが︑人類に関して我々の自然に帰

する理由をもっところの最終目的なのである︒﹂:::﹁絶対目的とは︑その可能の制約として如何なる他のものをも

必要とせざる如き目的である︒﹂それは無制約的ロロ σ

包 宮 阜 な 目 的 で あ る

D:::(

岩崎︑前掲書・高坂︑前掲

者︑参)

即 ち

l ゲルの﹁絶対的理性﹂︑ ﹁絶対精神﹂:::歴史哲学︑或は新カント派における﹁文化科学﹂の可能性︑こ

れ で

あ る

投 一

一 一

一 口

︑ 詳

言 す

れ ば

︑ 乙

う で

あ る

│ │

有機体が﹁自然目的﹂であると言うこと(内的合目的性としての有機体の可能)は︑﹁目的の規則に従った一つの体

有機体説と弁証法

F

(12)

︑ 経 営 と 経 済

八 O

﹁このイデーのもとに自然のあらゆるメカニズムが︑理性の諸原理に従っ 系としての全自然と言うイデ l

﹂ に

導 き

て(少くともこのイデーによって自然現象を探究するために)従属せしめられなければならない︒﹂:::﹁我々が一

たび自然において︑ただ目的原因の概念によってのみ思惟され得る如き産物を産出する能力を発見したならば︑更に

一歩を進めて︑斯かる自然の産物を一つの目的の体系巴ロ

ω 3 Z B

含 円

N 君 ︒

︒ w o

に属する:::ものとして判定して

差支えないのである︒蓋し既に第一の理念(自然目的)が︑我々をその根拠に関して︑感性的世界のかなたへと導き

行くからである︒それのみか超感性的原理の統一は︑独りある程類の自然存在に対してのみならず︑更に体系として

の自然全体に対しても同じ仕方で妥当するものとして考えられなければならないからである︒﹂:::斯くて︑水や空

気や土の如き生命なきもの(非有機体)と云えども︑﹁尚且つ目的の体系に属するものとして判定し得る﹂のである︒

﹁有機体の示唆する自然目的による目的論的判定が自然の目的の一大体系というイデーを是認した以上は︑自然の

美即ち自然の現象が把握せられ判定せられるに当って︑自然が我々の認識能力の自由な活動と調和しているというこ

とも︑又体系としての全体における自然 11l 人間もそのうちの一項をなしているーーの客観的合目的性と考えられる

そして︑自然におけるあらゆる存在者のうち︑﹁人聞こそは︑諸々の目的の概念を構成し︑合目的につ

くられた諸事物の寄せ集めを︑その理性によって諸々の目的の体系たらしめるところの︑地上における唯一の存在者 の

で あ

る ︒

人間は斯くて他の有機体と同様に自然目的であるのみではなく︑人間は更に﹁自然の最終日的﹂であると

判定せられ得る

D :

: :

人間以外の一切の事物は︑乙の自然の最終目的たる人間に関係することによって︑目的の体

で あ

る ︒

系を構成すると考えられる:::しかし︑斯く人間が自然の最終目的或は﹁造化の最終日的己免

] Z N Z N 当

︒ 兵

含 吋

ω O

E O

‑ ロロ肉﹂であるとしても︑それは﹁条件付きにおいて﹂である︒即ち︑﹁それゆ︑人聞が自然に依存せず︑自己充

足的な︑従って絶対目的開口弘 N 君︒兵であり得る様な目的関係を︑自然にも︑自らにも与える意志をもっ限りにおい

(13)

てである︒:::﹁人間の存在は最高の目的を自ら自己の中に含んでいる口彼はその目的に対してなし能う限り︑全自

然を従属せしめることが出来る︒少くとも彼はこの目的に違反しては︑自然の如何なる影響にも従属することは許さ

れないローーもし世界の事物が︑その存在に関して依存的なものとして︑目的に従って行為する最高原因を必要とす

るならば︑人間こそ造化の絶対目的である︒﹂:::斯くてカン卜によれば︑﹁道徳の主体 ω ロ

Z o E

号円宮

0 3 ]

広 三

としての人間のみ︑ ﹁造化の絶対目的﹂たり得るのである︒:::﹁ただ人間においてのみ︑しかも道徳の主体として

の人間においてのみ︑目的に関する無制約的立法が認められるからである口それが︑人聞をして︑全自然が目的論的

に従属せしめられる絶対目的たる乙とを可能ならしめるのである︒﹂:::而して︑

に︑なさねばならぬ乙とに対して︑人聞を準備するために︑自然がなし得るところのもの﹂が﹁文化﹂である

D

﹁人間自らが絶対目的となるため

﹁ 文

化のみが︑人類に関して我々の自然に帰する理由をもっところの'最終目的なのである︒﹂:::(更に附言すれば││

)カントによれば︑ 人間の自然素質の最大の発展は︑ ﹁ 市 民 社 会 σ

口 同 問 ︒

ユ 目 ︒

F 0

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己 宮 の

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J¥ 

ノ レ

の ﹁ 市

﹁ 世

民社会﹂を想え!)と呼ばれる﹁合法則的権力﹂においてのみ可能であり︑更に斯かる市民社会の成立には︑

市民的全体なるすべての諸国家からなる一体糸﹂が要求せられる︒ (カントの﹁世界市民﹂の概念︑乙れである

D )

‑::人間は道徳的存在者としてのみ︑造化の絶対目的であり得る︒このことに基づいて︑世界は︑目的の上から聯関

ある一全体として︑又諸々の目的原因の体系 ω ヨ芯日︿ O

口 開

門 戸

門 吉

円 g

o F g

として看倣すことが出来︑斯くて︑又︑

諸々の自然目的をごつの叡智的な世界原因︒山口 O ︿ O

g e 円 丘

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巧 巴

苫 円

ω ω の

宮 ﹂

に 関

わ ら

し め

﹁目的の国における至

上根拠としての第一原因

e o o

ωZC 円 g

o E

の本性と属性とを思惟し︑斯かる第一原因の概念を規定する﹂ことが

出来る︒カントによれば︑斯かる﹁根源的存在者ロコミ

28

﹂は︑﹁目的の固における立法的首長﹂として考えられ

ねばならず︑﹁最高善﹂は彼の支配のもとにおいてのみ可能であり︑従って彼は﹁全知﹂であり︑﹁全能﹂であり︑

有機体説と弁証法

J ¥  

(14)

経 営 と 経 済

)1 、

﹁至仁﹂にして﹁正義﹂であり︑ ﹁永遠﹂にして﹁遍在﹂するのである︒即ち︑

﹁ 道

徳 的

世 界

原 因

︒ 日

ロ O B O E 宏

各 ︒

当 巳

苫 吋

ω ω

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﹂ ﹁世界創始者巴 5 O

巧 巴

苫 号

︒ σ

R ﹂として︑神が存在することを︑道徳的存在者としての我々は︑認

めなければならぬのである︒(山崎︑前掲書・高坂︑前掲書︑参)

斯かるカントの︑ドイツ浪漫派︑殊にへ l

ゲルとの相似・密接を想え!

へ l ゲルは(カントに準じて 1 註.但しこれは︑乙乙でも飽迄私固有の解釈であるが)現実をーーー定立と反定立を通

じて新しい綜合へと進んでゆく││絶対的理性の弁証法的展開の世界(恰も合目的々な有機体の世界には何一つとし

て無駄なものがないことを象徴するかの如き註・カント:::シェリング︑ミュラ!・::にへ l

ゲ ル

風 の

弁 証

法 の

ロ ジ

ッ ク

あることについては︑次稿予定)と解したわけであるが︑このことが(成程︑自明とも云えるが

1 l )

へ l ゲ ル の 場 合 ︑

保存・保守を文字通り絶対的なものにし︑所謂﹁弁証的なるもの﹂を封じた︑と三木清は観ずる︒即ち彼は云う︑

﹁保存ということは有機体説の一つの構成要素であった︒ところで我々は又保存の概念がへ 1 ゲルにあって絶対的な

意味をもっているのを見る︒彼は云う︑ ﹃哲学の歴史の全体は一つのそれ自身において必然的なる斉合的なる進行で

ある︒この進行たるやそれ自身において︑それの理念によって規定されているが故に︑合理性的である

D :

: :

第二の

規定は︑各々の哲学は必然的であったし又尚必然的であり︑それ故に如何なる哲学も没落し終ることなく︑却ってす

べでは一つの全体の契機として肯定的に哲学のうちに保存されている︒片││カントの云う︑﹁世界においては如何

なるものも無意味ではない︒﹂:::そこでは︑恰も︑感傷的な乙女の過去についての美しい記憶の全体における如

く l

l l

︺一切の過去は観念的に保存される︒この保存の場所とも云うべきは絶対的なイデーである︒そして絶対的なイ

デーにとっては過去のすべては現在的に常に在る︒絶対的なる保存を可能にするところのものはまさに絶対的観念論

である︒:::神の摂理が隈なく現実に実現されて居り︑それ故に歴史の一切が肯定され︑保存されるということは汎

(15)

神論の棋本の関係である︒斯くてヘ l ゲルの弁証法においては︑ その﹁弁証的なるもの﹄の活動は制限され︑少くと

も和らげられざるを得なかったのであった︒否定的なるものはただ﹃理性の狭智門出

o F

2 H

己 R ︿

0 5

ロ ロ

止 ﹄

の 意

味 に

までおとしめられるに到った︒﹂

斯かるへ l

ゲ ル

そ の

﹁ 理

性 ﹂

の 姿

は ︑

実 は

既にカントに在ったのである︒

即ちカント﹃判断力批判﹄の場

﹁何等かの自然物が同時に自然目的と考えられる際には︑その自然物の根底に何等か理性的なるものが想定される必

﹃イデーがその自然産物の可能の根底に横たわらなければならぬのである口しかるにイデーは表象の絶対

的統一である︒:::それ故︑かのイデ l の統一が:::先天的なる規定根拠として役立つべき場合には︑自然の産物の

要 が

あ る

中に横たわるすべてのものの上に拡げられなければならぬのである︒﹄

に︑イデ!の能力はそれがその下に横たわる自然物のあらゆる部分に行きわたるべきだと言うのである︒自然目的は

イデーに基づくと判定されるが故に︑そこにおいては如何なるものも無意味であることはないと判定さるべきなので

ある︒﹂(高坂︑前掲書) 即ちイデ l

は絶対的統一の能力であるが故

││こうである︒崎えて云えば︑ 一つのフアッシズムの︑しかも強力な支配がそ乙にはある︒

カントの場合︑判断力 d

ユ 色 町 付

E

止とは︑特殊を普遍の下に包摂するところの能力であり︑

の)反省的判断力円え

‑ o r Z 2 0 E o d z

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‑ : : そ の 先 天 的 な 原 理 は 自 然 の 合 目 的 性

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2

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丘 四

8 日

芹 含 吋

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H C

円であり︑我々は自然に合目的性が存するかの如く考える

ll

のであるが︑我々が実際に経験の中において︑

(その一つとして

有機体説と弁証法

) ¥ 、

(16)

経 営 と 経 済

J ¥   四

自然の対象について斯かる合目的性を見出すことが出来る︒カントによると我々は乙れを二種類の仕方で見出すこと

が出来る︒即ち美しいものの場合と有機体の場合とである︒:::(と同時に)このことは︑ ﹁自然の合目的性という

ことが単に反省的判断力の原理ではなく︑実際に自然そのものの原理である﹂︑と読み替える可能性をも︑そ乙に指

し示す︒換言すれば︑ ﹁この方向を辿ったのがまさにドイツ観念論の哲学であったのである︒﹂(岩崎︑前掲書)

: ・

: ド

イ ツ

観 念

論 哲

学 (

i ゲルを含む)と有機体思想との不可分離も又斯くて生じた︑と言うべきである︒

﹁生物のあらゆる有機的身体は︑神的機械の一種であり︑或はあらゆる人工の自動的機械を無限に凌駕せる自然の

自動機械である︒:::これは全く神の業と︑我々の業との相違を決定づけている︒﹂(ライプニッツ)対照的ともいう

べく︑カントの言う︑﹁有機的存在は︑:::決して単なる機械ではない︒蓋し後者は単に動かす力を有するに過ぎな

いが︑前者はそれ自体の中に形成する力を有するからである︒のみならず︑乙の力は︑前者が元来これを有せざる物

質に対して伝与する(それを有機化する)力であり︑従ってそれは単なる運動能力(機械関係)のみをもってしては

説明すべからざる一種の自己繁殖的形成力である︒﹂(カント︑前掲査一日)

﹁生物とはカントにとって︑同時に理念でもあるところの一つの事実である︒この自己矛盾的な命題は︑次のこと

を言おうとしているのである︒即ちこの生物という事実は︑理念なくしては全然それを生物として確定出来ないとい

うことを︒悟性は︑範鳴をもって生物としての事実を把握するのではなく︑却ってそれを不可避的に無機的自然の事

実でもある様な事実の次元に還元するのである︒﹂

( ヤ

ス パ

l

ス ︑

前掲書) このことは又︑同じく有機体思想なが

ら︑ドイツ浪漫派とコント︑ スペンサ i 等との︑ある意味での︑或はある程度の︑相違をも我々に暗示してくれる︒

(17)

﹁社会的構成体と有機体は相互に極めて近い︒どちらも鋭い観察眼を向ければ一殺に働く統一体であり︑自ら働い

て獲得した存立︑いわば内面的につくり出された生を保ち︑ その周囲に適応している︒﹂(ゴットル︑﹃民族・国家・

経 済 ・ 法 律 ﹄ )

を技術の類比物と呼ぶならば︑ カントについて同様な言葉を探そう︒﹁有機的所産における自然及びその能力について︑もしこれ

それは余りにも過少の説明となるであろう︒何故なら︑乙の場合にはどうしてもその

物以外の技術家(ある理性的存在者)が考えられるからである︒むしろそれは自らそれ自身を有機化するものであ

り︑しかもその有機的所産の各種別において全体としては同一の範例に従うとは云いながら︑尚四回の事情に応じて

自己保存の目的が要求するところの巧妙なる変異を伴うものである︒:::ただ自然目的としてのみ可能であり︑又そ

れ故に有機的存在と呼ばれる殺な事物が有する如き内面的なる自然的完全性は︑吾人に知られたる何等かの物的即ち

自然的作用との類比によっては││否! 五口人自身も又最も広義における自然に属するが故に

l

l 人間的技術との適

切なる類比によってすらも︑考うべからざるものであり︑説明すべからざるものである︒﹂(カント︑前掲書)

で は

カ ン

ト は

一つの大いなる実践的価値判断(実践理性)を伴った民族乃至﹁国家の理念﹂に有機体的比愉を

用いる(ゴットルの如き)を果して容認し得ょうか?然り!カントは書いている︒﹁吾人は現実よりもむしろ理念の

中に︑より多く見出されるところのある程の結合関係に対し︑先に述べた直接的の自然目的との類比によって光を投

ずることも出来る︒例えば近来企図されたある大きな民族を完全に一つの国家に改造する場合において︑市参事会そ

の他や乃至全国家的形体そのものの設定に対して︑屡々有機的組織の名がすこぶる適切に用いられている︒蓋しその

各ロ貝は事実斯くの如き全体の中にあって︑単に手段たるに止まらず︑同時に又目的でもあり︑而して全体の可能性の

ために共働すると共に︑逆に全体の理念によってその位置及び機能を規定されるからである︒:::それ自身において

有機体説と弁証法

J ¥  

(18)

経 営 と 経 済

¥ L ¥

F/

一 ノ

それであるから悟性乃至理性の構成的概念ではないが︑しかし尚目的による吾人の因

果性一般との僅かな類比に基づいてこの程の対象に関する研究を指導し︑又その最高の根拠について思念すべき反省

的判断力に対する一種の統制的概念ではあり得る︒もっとも乙の後者の事は︑自然もしくはその本源的根拠の知識の は自然目的たる事物の概念は︑

ために資するのではなく︑むしろ我々がかの合目的性の原因を︑まさにそれとの類比において考察したところの我々

自身の中における実践的理性能力のために奉仕するのである︒﹂(カント︑前掲書)

﹁有機的存在は︑それ故にたとえ吾人が乙れを単独に他の事物との関係なしに考察しても︑尚且つ自然の目的と

して始めて可能と考えられねばならぬ自然界唯一の存在である︒従って又・それは一種の目的││但し実践的のそれ

でなく︑自然の目的ーーーの概念に対して︑先づ第一に客観的実在性を与え︑又それにより自然科学に対して目的論

寸 巴

g z

柱︒への根拠︑換言すればある特別の原理によるその客体の判定方法への根拠を提供する唯一の存在であっ

ることは全く出来ないから)絶対に否認されてしまうであろう︒﹂(カント︑前掲書) て︑これなくんば斯くの如きものを自然科学の中に導入する理由は(乙の種の因果性の可能をア・プリオりに洞察す

﹁我々の生活即ち体

し か

も ︑

験する生活が︑他の生活即ち有機体的生活に従属していることは︑我々の生の怖しい秘密である︒﹂(ゴットル)

﹁国家は全く自立的である︒国家は人間の怒意や発明から独立して︑人間と同じところから直接に且つ人間と同じ

時に由来する︒即ち自然から││古人の語で言えば︑神から由来する︒﹂(アダム・ミュラ

l )

しかし︑カントにあ

つ て

それは飽迄︑楯の一面である︒ ﹁一つの君主国は︑もしそれが内面的な国民の法律に従って支配されるなら

l ま

一個の魂を具えた身体によって︑しかしもしそれが個別的な絶対意志に支配されるならば︑ 一個の単なる機械

(19)

(例えば手挽臼の如き)によって││二つの場合共にしかし単に象徴的に表象される︒﹂(カント︑前掲書)

カントは︑﹃純粋理性批判﹄(ニュートン力学の方法論的基礎づけ︑即ち﹁批判﹂たる)によって自然は機械的な自然因

果律によって規定されるとした一方︑他方﹃判断力批判﹄において有機体が単に自然因果律によって説明し得ないも

のをもっていることを認めた︒カントのその相異についてのロジック(のロジック)は次の如きである︒

﹁ 因

果 的

関聯は︑単に悟性によってのみ考えられる限り︑常に下向する系列(原因及び結果の)を形成するところの結合関係

である︒而してそれ自ら結果としてある他のものを原因として前提する所の事物そのものは︑決して同時に交互的に

逆に後者の原因となることは出来ない︒斯くの如き因果的聯関を名付けて作用的原因のそれ ( D O M E えな♀

z g )

云う︒しかし︑これに対しては尚理性概念(目的の)による一種の因果的聯関をも考える乙とが出来る︒それはもしこ

れを系列として考えるならば︑下向的と同時に上向にも依存関係を伴うのであって︑その中においては一度結果とし

て呼ばれた事物が︑ それにも拘らず上向的に更にその結果を原因として招致した事物の原因たる名をも与えられる︒

::斯くの如き因果的聯関は︑究極原因のそれ(ロ

σ M 5

巴 ロ ω ロ ω )

と呼ばれる︒おそらく一層適切に前者の場合を実

在的原因の聯関と呼び︑後者を観念的原因のそれと呼ぶことも出来るであろう︒何故なら乙の称呼においては︑最早

以上二程の因果性以外のもののあり得ない乙とが同時に理解されるからである︒:::斯様にして︑それ自身その内面

的可能性の点から自然目的として判定せらるべき形体に対しては︑各部分がすべてその形式並びに結合において相互

的に生産され︑又そこから一つの全体がそれ自らの因果性に基づいて生産され︑ 乙の全体の概念が再び逆に(斯くの

如き産物に適当なる概念による因果性をもっと想像されると乙ろのある存在者において)ある原理に従ってそれの原

因となり得ること︑従って作用的原因の聯関が同時に究極原因による結果として判定され得る乙とが要求される︒﹂

有機体説と弁証法

J ¥  

(20)

経 営 と 経 済

j ¥  

/ ¥  

︿カント︑前掲書)

厳密とは尚言い難いもののーーー後者の説明について︑それを(例えば)﹁目的﹂を冠した一つの系列

( H

体系)に

ついて発想・考慮する時︑へ l ゲルを︑殊に弁証法の三位一体の︑しかもその全体としての自己完結的構造(の香)

を嘆ぎとる者︑宣本稿の筆者のみならんや!(証明後述)

カントの場合︑有機体は︑その中ですべてが同時に手段であり目的でもある客観的存在者であり︑即ち全体が自己

自身のうちで完結し︑自己のうちで循環する合目的性である︒:::﹃ある物は︑もしそれが自己自身において原因で

あり結果である場合︑自然目的として実在する︒﹄それは自己自身を生産する︒穏属は生殖により︑個人は生長によ

り︑損傷の際には再生によって︒:::自然の有機的産物は︑それにおいてはすべての目的が交互に手段でもあるとこ

ろのものである︒(ヤスパ i ス︑前掲書) カントの巧妙に比輸して云う︑﹁先づ第一に︑ 一本の樹木は人々周知の自

然法則に従って︑そこから他の一本の樹木を生産する︒それが生産するところの樹木は︑しかし同一の類に属するも

のである︒而して斯くの如くして︑それは類の見地から云えばそれ自体を生産するのであり︑類の中において一方に

は結果として他方には原因としてそれは絶えずそれ自身の中から生産を続けて来たのであると共に︑又それ自身を屡

々生産しつつ類として自己を常に存続させていくのである︒第二に︑樹木は又個体としてもそれ自体を生産する︒も

っとも我々はこの種の作用を単に生長と名付けている︒しかしこれはあらゆる他の機械的法則による大きさの増加と

は全然異る意味に︑そして名称は違っても生殖と等しいものを見倣される意味において︑乙れを解釈しなければなら

ない︒樹木がその自体に附加していくととろの物質は︑この植物が予めこれをそれ以外の自然的機械関係が供給し得

ざる種別的に特異なる性質のものに変化するのである︒而して組成の上からは皐克それ自身の所産たる一種の材料に

(21)

よって︑その自体を発育させていく︒蓋しそれは外界の自然から受ける成案から云えば単に発生物に過ぎないとも考

えられるけれども︑しかし斯くの如き生の原料の分解と新たなる結合とにおいては︑この種の自然存在の非常に独自

的な分解作用及び形成作用を見ることが出来るのであって︑およそ人聞のいかなる技工もそれを分析して得らるる要

京からもしくは又自然がその栄養として供給する原料から︑かの植物界の産物を再生産しようと試みるならば︑そこ

に到達する迄に尚無限の距離を有する事柄である︒:::ji‑‑・﹂不識!これはヘ l ゲルの語り口以外の何もので

も な い

︒ 斯 く て

︑ へ

l ゲルの弁証法と有機体説カントを含むとは︑結局において一致

l

の可能性をもっ︒同一事 i

態にも拘らず︑ただその経過についての理解の︑説明の仕方が些か異るに過ぎない︒

斯くては︑三木清が次の様に言わざるを得なかった所似を我々は理解し得ないわけではない︒即ち言う︑﹁まこと

に我々は属々へ l ゲルが有機体説の言葉をもって語っているのを聞く︒﹃有機的﹄﹃有機的統一﹄などいう語は彼の書

物の程々なる筒所において見出される︒この様にしてある者はへ i ゲルにおけるへ l ゲル的なるものが弁証法である

ことを忘れて︑有機体思想をもって彼の哲学の根本概念と見倣すまでに立ち到っている︒いづれにせよ︑ へ i ゲル自

身がこの様な解釈を誘発すべきものをもっていることは疑うことが出来ぬであろう︒数多くの中からてこの例を引

い て

お こ

う ー

ー ー

﹃ 植 物 の 芽

1 1

この感性的に存在する概念ーーはその発展をそれと同様な存在をもって種子の生産をもって閉ぢ

る︒:::乙の端初と終末とが一つに結び合うこと︑ この概念がその実現において自己自身に来ることは︑しかるに精

神において単に生けるものにおいてよりも尚一層完成された姿をもって現われる︒蓋し︑後のものにあっては生産さ

れた程子はこのものがそれから生産されたところのものと同一でないに反して︑自己を認識する精神においては生産

されたものは生産するものと一つの同一のものである︒﹄

有 機

体 説

と 弁

証 法

/ ¥  

(22)

. 経 営 と 経 済

九 O 

有機体思想は既に彼の初期の著作の一つ︑ ﹃自然法の学問的な取扱い方について﹄ という論文の中で完全に展開さ

れて居り︑有機的自然の領域から歴史の領域へ︑特に民族と個人との関係へ適用された︒

単に自然ばかりでなく︑歴史における人類の生活も又一つの生ける︑絶えざる発展のうちにあるところの有機的統

一を現わす︒そこでは個々のものは全体の発展と生命とにおける一つの﹃契機﹄に過ぎず︑ そしてただこの聯関にお

ける項としてのみ真理性と意味とを獲得する︒この見方はへ l ゲルの歴史哲学を支配しているものであり︑殊に哲学

史の考察において最も著しい︒

﹃哲学の部分の各々は一つの哲学的全体であり︑自己自らに閉ぢ込められた円である︒けれども哲学のイデーはそ

こでは一つの特殊な規定性もしくは契機においてある︒個々の円は︑それが白からにおいて全体性であるの故をもっ

て︑それの契機の制限を又破り︑次の圏を建てる︒全体は従って諸円の円として自らを表わし︑その各々は一つの必

然的なる契機であり︑斯くてそれらの固有なる諸契機の体系が全体のイデーを形づくり︑ 乙のものは同様に各々の個

々のものにおいて現われる︒﹄

乙こに有機体説はおそらく最も完全な相において表現されているであろう︒事実︑へ l

ゲルの体系にあって全体の

存在は一つの完結した統一態であり︑それの諸々の特殊態は純粋に従属的な諸々の完結した統一態から成っている︒乙

の体系の全体はもとより︑その何れの部分においても︑我々はかの﹀ロ位︒

F I l l

E 可巳岳││﹀ロロ

E

円 E

包 各

所謂三位一体︺の各完結した統一態に常に出会うのである︒私は今一つ引用を重ねよう︒

﹃これら諸々の特殊な固有性はかの一般的な固有性即ち民族の特殊な原理から理解すべきであり︑又逆に歴史のう

ちに存する詳細な事実から特殊性のかの一般者を見付け出すべきである︒ 一定の特殊性が実際一つの民族の固有なる

原理を形づくるということ︑これは経験的に受け入れられそして歴史的な仕方で証明されねばならぬところの方面で

(23)

ある︒このことをなすことは︑単に熟練した抽象ばかりでなく︑又既にイデ!との親密な知合を前提する︒﹄

宗教︑政治︑道徳︑法律などは民族精神から理解さるべきであり︑

そして逆に民族精神はそれら個々の形態から理 解さるべきである︑と言う

D

斯く語るへ i

ゲルの言葉は︑我々はそれを彼においてよりもドイツ歴史学派の人々にお いて期待すべき筈のものであったのである︒まことにそこでは弁証法の声は黙して有機体説が︑そして解釈学がひと

り語っているのである口﹂

へ l ゲルからの頭初の援用において︑ 乙乙に植物の生長についてのへ i

ゲルの比輸を我々は見ることが出来る︒し 三 木 清 の 場 合

︑ 好 漢 惜 し む ら く は 1 l

有総体説とへ i

ゲルの相似のみ見て︑弁証法が有機体乃至有機

体説(歴史学派をも含む)に在ることを看過している︒ただし︑敢でした彼よりの長い援用が︑その中に︑私自身の かしながら︑

以上にわたる多くの引用・註釈と(その表現において︑意味内容において)幾つかの酷似乃至重復をもっていること

l ま

(私自身の名誉にかけても)注意されて然るべきである︒

﹁特に近代的意味における有機体としての国家は︑へlゲルによって始めて告示された︒彼によって始めて︑この有機的国

家 は 機 械 的 国 家 と 対 置 さ れ た ︒ ﹂

これは︑福井孝治氏の論文﹁浪漫的有機的社会観と強力国家思想﹂

註.私見乃至三木清に一部一致をもっ本論文の存在を︑私はごく最近知った:::恰も私自身の発想が三木清の論文の発見に

先行していた如く)における H ・ヘラーよりの援用の部分である︒その他︑本稿の立場上︑注目され︑是認さるべき箇所(本 (﹃経済学の基礎にあるもの﹂︑昭和三三年︑所収││

稿 の 内 容 に 相 並 行 す る 筒 所 ) を 辿 れ ば ︑ 次 の 如 き で あ る ︒

﹁啓蒙的機械的世界観に対立する広い窓味において有機的世界矧という語を使用するならば︑我々は︑単に国家観の領域の

み に

止 ま

ら ず

︑ 一

史 に

一 歩

進 ん

で ︑

ブ ュ

ロ ウ

と 共

に ︑

1 ゲル哲学の基礎をなす形而上学的根本原理は﹁現実態を一全体とし

有機体説と弁証法

(24)

経 営 と 経 済

て︑即ち完結的な有機体として見ることにある﹄とも一一一一口うことが出来る︒ニュートンの徒をもって任じていたカントは︑精密

的自然科学的方法の是認に立脚した認識論的研究から出発したが︑同時にまさにカントにおいて斯かる方法の限界が証示され

た︒判断力批判は︑この限界を明らかにし批判的に決定した︒シェリングの自然哲学はこ乙から出発し︑たとえ形而上学の翼

に乗り過ぎたとはいえ︑未解決な諸問題の徹底的統一的な解決に立ち向った︒:::へ l ゲルはカントやシェリングと異なり︑

初めから生ける精神的生起の哲学者であって︑自然哲学者ではなかった︒歴史的政治的現実態を思想的に克服することが︑彼

の 主 た る 関 心 事 で あ っ た : : : し か し ︑ へ l ゲルが︑本来︑自然の哲学者でなく歴史的・社会的・政治的現実態の哲学者であっ

たということは︑彼の世界観が﹁有機的﹄と称さるべきものであることを︑何ら妨げるものではない︒ファルケンハイムが︑

ゲ l

テ と

i ゲルとを比較した論文において︑両者に共通する点の一つとして有機体論的思惟を挙げているのは正当であ

る ︒

( 註

・ ゲ

l テと有機体説との密接については︑拙稿︑前掲論文︑参︒)

﹁精神現象論の序一一一日中で︑諸哲学体系の相具において単に矛盾のみを見ることの代りに︑これを真理の進展として把捉すべ

きことを示すために︑へ l ゲルが挙げているところの例などは︑グロックナ l も認めている様に︑彼の有機体論的見解を端的

に表示するものと云えよう

l l

﹃士宮は花が聞くことによって消える︒人は云うことが出来よう︑苦は花によって否定されると︒同様に果実によって花は︑

植物の虚在と宣告される︑そして︑植物の真相として花の代りに果実が現れる︒これらの諸形態は自己自身を区別するばかり

でなく︑相互に両立し難きものとして排斥し合う︒だが︑それらの流動的性質は︑それらを同時に有機的統一の契機たらし

め︑そ乙ではそれらは斗争し合わないばかりか︑何れも等しく必然的なるものである︒そして︑乙の同等の必然性が始めて全

体の生命を形成するのである︒﹄

生命過程は︑個々の形態がそこから相互に区別され限定されて出てくるところの︑継続的な流れとして現れる︒斯かる限定

性は︑全体という立場から見る時︑これら形態をして全体の単なる契機たらしめるものである︑というのがへ i ゲルの見解で

参照

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