【論文】
中国社会主義市場経済における分配原則
「多種の分配方式」の理論的基礎をめぐる論争の検討
黄賀*・宮川彰**
Abstract
In this thesis, an inquiry is made into the complexities of the distribution system, namely the existence of the distribution according to labor and the distribution according to factors of produc−
tion, which are enforced as the contemporary income distribution principles in Chinese socialist economy. We examined the conflicting interpretations of the Chinese academic circles regarding the distribution principles estabhshed at the 16th CPC,2002.
In conventional arguments, the understanding of the complex distribution system has been en−
tamgled with misunderstandings of the economic structural conditions of the public sector and the non−public sectors. To dispel the insuf丘ciency of contemporary Chinese arguments of distribution principles, the authors put forth basic propositions of the Theory of I丑bor Value.
はじめ
現代中国経済改革の総設計士郡小平は、「広 大な国土と膨大な人口を抱える中国は、一挙に 豊かになることはできないから、まず一部の 人、一部の地域が先に豊かになれるものから豊 かになる」という経済方針=「先富論」で1980 年代の改革を率いた。この方針は毛沢東時代の 悪しき「平均主義」を打破し、国民の意欲を刺 激して、中国経済の急成長を促す原動力となっ
た。
後継の江沢民は1990年代には経済成長優先を 推進した。「広範な人民の根本的利益」などを 代表する「三つの代表論」を党規約に盛り込 み、起業活動を奨励して成長路線を後押しし た。しかし2002年には、四半世紀に及ぶ経済成 長路線の矛盾・軋礫の歪みが露見して、転機を 迎えた。同年の中国共産党第16回全国代表大会 報告の中で、次のような留意文言が注目を集め る。「われわれは今世紀の最初の二十年に、力
を集中して、……より一層高いレベルのいくら かゆとりのある社会を全面的に築き上げ、経済 がさらに発展をとげ、民主がさらに健全なもの となり、科学、教育がさらに進歩をとげ、文化 がさらに繁栄し、社会がさらに調和がとれ、人 民の生活がさらに豊かになるようにしなければ ならない。……工業と農業の格差、都市と農村 の格差と地域間の格差が拡大する趨勢がだんだ んと転換されることになる」。中国社会に種々 の格差が現存することを前提とした格差是正
と、「調和がとれた」「いくらかゆとりのある社 会」を築き上げるという目標が掲げられたので
ある。
現胡錦濤政権になると、2005年10月には「国 民経済と社会発展の第11次5力年規画制定に関 する中国共産党中央の提案」1)が可決された。こ
こでは、第16党大会で提起された、「全面的な 小康社会(ややゆとりのある社会)」を2020年
までに実現させるという目標に向けての、今後
* 首都大学東京大学院社会科学研究科経営学専攻博士課程
**
@首都大学東京大学院社会科学研究科経営学専攻教授
5年にわたる行動方針が示されている。なかで も収入分配の合理的調節の必要に触れた個所が 注目を引く。「低収入者レベルを高めることに 力を入れ、しだいに中等収入者比重を拡大し、
高すぎる収入を有効的に調節し、個人収入分配 秩序を規範化する。地域間および一部分社会成 員の収入分配格差拡大の趨勢を緩和しなければ ならない。社会的公平に意を配り、とくに就業 機会と分配過程の公平に注目し、収入分配の調 節強度をつよめ、分配結果の監督を強化する」
という。これによって、従来追求されてきた
「先富」主義から、諸分野の格差が是正されて 共に豊かになるという「共同富裕論」への、実 質的な戦略転換を意味することが図られた。つ まり、一緒に豊かになろうという「共富」主義 に軸足がシフトしつつあることが窺えよう。
2006年10月に開催された第16期6中全会で は、「中国共産党の社会主義および調和ある社 会建設に関する若干の重大な問題に対する決 定」を承認した。「社会の調和は中国の特色あ る社会主義の本質的属性であり、国家の富強、
民族の相互の尊敬、人民の幸福を保証する」こ とであると確認し、「調和ある社会」の実現に 努力することを強調した。同時にまた、「中国 社会は総体的には調和が取れているが、社会の 調和に悪影響を及ぼす矛盾と問題が少なからず 存在する」ことをも認めた。
こうした「先富論」から「共富論」への政策 転換の背景を冷静に探らねばならない。現状は 農民と都市部の一部住民の収入増加が鈍化し、
失業者数が増大し、一部の大衆の生活は依然と してかなり困難なものになっている。沿海部と 内陸部、都市と農村、地域内の所得格差などが 顕著な程度に拡大している2)。顕在化したこの 富分配の不均衡状況は、社会の安定はもとより 経済発展の障害ともなりえよう。中国における 諸改革とくに個人収入分配制度の改革やその他 の諸要因に関係しているが、同時に中国がます ます広範囲で「諸生産要素に応じた分配」2a)の 方式を実行することとも直接に深く係わってい
ると思われる。
本論文では、市場経済化の進展に伴って浮上 した中国独自の混合経済のもとでの「多種の分 配方式」を考察する。その分配原則の解釈と評 価とをめぐる中国経済学界の諸見解を検討し、
特に「諸生産要素に応じた分配」および「労働 に応じた分配」の理論的基礎を解明することを 通して、論争の足りない部分を補いつつ「多種 の分配方式」の理論根拠を明らかにしたい。
まず第工章では、2002年中国共産党第16回全 国代表大会報告に記述された分配原則の解釈を めぐる論争を概観しておこう。
第1章 中国の収入分配原則の理論的基 礎をめぐる2002年の論争
経済格差の拡大という課題を受けて、2002年 11月の中国共産党第16回全国代表大会の報告で は、労働と分配とに関する基本指針として次の ように述べている。
「必ず労働を尊重し、肉体労働であろうと頭 脳労働であろうと、簡単な労働であろうと複雑 な労働であろうと、わが国の社会主義現代化の 建設に貢献する労働は、すべて光栄なものであ り、すべて認められ、尊重されるべきものであ る」。そして、社会主義の初級段階では「規制 緩和し、すべての労働、知識、技術、管理と資 本の活力が競い合ってほとばしり出るように
し、社会の富を創り出すすべての源泉を十分に 湧き出させる」。また、分配問題では、「国、企 業と個人の分配関係を調整し、規範化させる。
労働、資本、技術と管理などの諸生産要素の貢 献に応じての収益分配への参加という原則を確 立し、労働に応じた分配を主体とする多種類の 分配方式が同時に存在するという分配制度を充 実させる」、以上のことが明示された。
これら指針の指し示す方向付けの内容は中国 経済学界に大きなインパクトを与えた。現段階 中国の分配制度の改革論議を前進させるととも に、労働価値論の認識を深化させるきっかけと
なった。
改革開放以来とくに計画経済から市場経済へ の転換過程において、中国政府は常に収入分配 問題に注目し、分配制度も次第に拡充されてき た。この経緯は、中国政府が打ち出した諸報告 文書における分配制度に関する言及から窺い知
ることができる。
(1)1982年中国共産党の第12回党大会報告 でははじめて、国有経済の主導的な地位を堅持 することと多種類の経済形態の発展とを結合す る改革構想が示された。
(2)1987年第13回党大会報告は画期をなし た。「社会主義初級段階の分配方式は単一では 不可能である。われわれは、労働に応じた分配 を主体とし、その他の分配方式を補充とする原 則を貫かなければならない」と、従来の単一の 分配方式が突破された。労働以外のその他の生 産要素が分配に参加することが認められ、労働 に応じた分配収入以外の各種合法的な労働収 入、経営収入なども容認される。ここに中国収 入分配制度の市場化が始まることになった。
(3)1993年中国共産党第14期三中全会で は、「個人の収入分配は労働に応じた分配を主 体とし、複数の分配方式が並存する制度を堅持 しなければならない。同時に、効率を優先し、
公平を考慮する原則を体現すること」が謳わ れ、「個人に属する資本など生産要素は収益分 配への参加を許可する」と述べる。このように 資本など生産要素の重要性が指摘され、「効率 優先、公平考慮」という江沢民路線の重点が押
し出された。
(4)1997年第15回党大会報告はもう一つの 画期をなした。「労働に応じた分配を主体と し、複数の分配方式が並存する制度を堅持し、
労働に応じた分配と生産要素に応じた分配とを 結合する」ことを提起し、「先に豊かになるこ とを認め、奨励する。資本、技術など生産要素 は収益分配への参加を許可し、奨励する」こと を打ち出した。ここでは、改めて「労働に応じ た分配」の主体的地位を肯定しつつ、その他の 生産要素による分配参加が「労働に応じた分
配」とは「並存・結合的」であることが、指し 示された。それだけでなく、資本、技術など生 産要素が収益分配に参加することの必要性と合 法性とが明確に肯定され、それらの分配参与が 積極的に「奨励」される。「先富論」を促し基 礎づける分配方式がいっそう明確に提示され
た。
しかし、「複数の分配方式」がどのように結 合しあうかまたは関連しあうのか、生産要素の どのような作用に応じてどの程度に分配するか などの問題に関しては、立ち入って規定されて
いない。
以上の収入分配方式の変遷の過程を背景に、
既出の第16回党大会での労働と分配方式とに関 する理論指針と政策設計をめぐって経済学界で は大きな論争が起こった。第16大報告の内容を めぐる論争の焦点は以下のように要約できる。
第1、中国建国の指導思想であるマルクス主 義理論は新しい情勢下の社会主義市場経済に適 応できるかどうか。「マルクス主義に対する誤 ったドグマ的な理解から解放し、新たな理論の 内容を書き上げ、新鮮な経験を創造しなければ ならない。……発展しつつあるマルクス主義で 新たな実践を指導しなければならない」ことが 強調される。とはいえ伝来のマルクス主義の基 本的原理を堅持することと、理論の革新を推し 進めることとをどのように統一するか、どのよ うに理解するかに関して、理論界では労働価値 論が陳腐化して時代遅れとなり中国の現状を説 明できないのではないかという論調が台頭し
た。
第2、諸生産要素の自由市場を拡充させる根
拠は何であるか。換言すれば、諸生産要素は生
産的、価値創造的かどうか。別に言えば、混合
経済下の分配方式の理論的基礎づけにおいて労
働価値論は否定されるべきかまたは擁護されう
るか。社会主義市場経済体系を健全化させるた
めに以下の指針が拠り所となっている。「財産
所有権、土地、労働力と技術等の市場を発展さ
せ、全国の市場における商品と生産要素の自由
な流動を促進し、民営科学技術企業の創業者お よび技術者、外資企業に招聰されている管理 者、技術者、個人業者、私営企業のオーナー、
仲介組織の従業者、自由業者などの社会層の合 法的権益に対しては保護しなければならず、彼 らの中の優れた人たちに対しては顕彰しなけれ ばならない」。こうした言明によって、資本、
土地、労働力と技術、管理等の諸生産要素によ る生産力推進要因としての重要な役割は、当然 期待されるようになっている。
第3、情報、科学技術、知識、サービス業は どのように価値形成に参加するか。換言すれ ば、これらの要素要因の価値形成性と価値分配 との関係をどのように理解するか。国の振興戦 略と持続可能な発展の戦略に関連して以下のよ うに謳われている。「情報化はわが国が工業化 と現代化の実現を加速するうえでの必然的な選 択である。現代サービス業の発展を加速し、国 民経済の中での第三次産業のウエイトを高めな ければならない。新しいパターンの工業化の道 を歩むには、必ず第一の生産力としての科学技 術の重要な役割を発揮し、科学技術サービス体 系を充実させ、科学技術の成果の現実的生産力 への転化を加速しなければならない」。これら 情報、現代サービス業、科学技術の領域におけ る新しい経済形態の勃興は、マルクスが労働価 値論と分配理論を樹立した時代に比べると重要 な現代的特徴を帯びている。情報、科学技術、
知識、サービスの先導権を握れば、国際市場で 競争優i位に立つことができるし、経済学理論の 革命的な変革を促進する契機となっている。そ の意味で、情報、科学技術、知識、サービス業 の価値形成と創造における役割と影響力は、歴 史上のどの時期よりも際立っている。
第4、公有制経済と非公有制経済との関係に ついて、すなわち、混合経済をどのように捉え るか。換言すれば、「労働に応じた分配」と
「諸生産要素に応じた分配」との関連づけをど う理解するか。社会主義市場経済の建設と経済 体制の改革を論じる際に以下のことが強調され
た。「確乎として非公有制経済の発展を奨励 し、バックアップし、導かなければならない。
個人経営と私営など様々な形態の非公有制経済 は社会主義市場経済の重要な構成部分であり、
法によって監督と管理を強化し、非公有制経済 の健全な発展を促進する。私的財産の保護iに関 する法律制度をさらに充実させる」。党と国家 の重要文献の中で、第16大報告は初めて法制度 の裏付けを伴って、「諸生産要素の貢献に応じ た分配への参加」という原則を確立した。
この分配原則の文言をめぐる理解は様々であ る。たとえば、諸生産要素には「労働」要素が 含まれているために、「労働に応じた分配」
は、「諸生産要素に応じた分配」の一種類であ ると認識される。そこで、「労働に応じた分配 を主体とする多種類の分配方式が同時に存在す る」という分配制度ではなく、「諸生産要素に 応じた分配」だけが一元的に実行されるべきで あるという見解が主張されうることになる。
次章では、『資本論』と『ゴータ綱領批判』
に基づいて分配理論を掘り下げつつ、「諸生産 要素の貢献に応じた分配」および「労働に応じ た分配」の理論的基礎を打ち固める。中国研究 者の論争を検討する予備作業としたい。
第∬章 「多種の分配方式」の理論的基 礎の考察
[1] 諸生産要素の「貢献」について
「諸生産要素に応じた分配」は、単に分配制
度の問題にとどまるものではない。それは、国
家・地域の釣合いのとれた市場経済の育成、成
長、経済増長のスピードに緊密な関係を持って
いる。江沢民は「七一講話」および「国民経済
と社会発展の第十次5ヵ年3)計画の提案につい
て」の中で、分配と労働価値論について次のよ
うに言及した。「分配制度の改革を深化し、労
働に応じた分配と諸生産要素に応じた分配とを
結合し、新しい歴史的条件のもとで、労働と労
働価値理論への認識を深化しなければならな
い」。こうして「諸生産要素に応じた分配」は
マルクスの労働価値論と一致しているかどう か、またどのように「結合」させうるかという ことが、論点の軸となっている。
この問題で第一に明確にしなければならない のが、諸生産要素の「貢献」とは何か、何に対 するどのような「貢献」かということである。
諸生産要素は、人間が物質的財貨の生産を行 うために備えなければならない諸要因である。
すなわち、主に労働力、土地、資本、技術、情 報および管理などが含まれる。まず一面で、普 遍的な「労働過程」の観点でまとめるならば、
「合目的的な活動または労働そのもの、労働の 対象、および労働の手段である」4>。これら労 働、労働手段、労働対象は、人間の労働過程の 最も基本的な生産要素として概括したものであ る。この三つの生産要素を生産の結果である生 産物の見地から捉え直すならば、労働そのもの は生産的労働となり、「人的要素」をなす。労 働対象と労働手段とは共に生産手段となり、
「物的生産要素」を構成する。
これらの区別に基づいて、他面では、資本主 義生産に独自な「価値創造過程」における相異 なる作用が生じる。労働価値論によれば、生き た労働の抽象的労働が価値の唯一の源泉であ
り、労働以外の諸生産要素は価値を作らない。
これとの関連で問われるべきは、「労働、資 本、技術と管理などの諸生産要素の貢献に応じ て収益分配への参加という原則の確立」は、マ ルクスの労働価値論を否定することであると言 えるかどうかである。これを判断するために、
諸生産要素が価値創造と使用価値の創造とに果 たす役割の関係を明確に認識しなければならな いo
労働価値論は、商品の使用価値と価値、商品 を生産する労働の二重性すなわち具体的有用労 働と抽象的労働とを析出し、さらに労働と労働 力の区別および労働力の商品としての特殊性を 明らかにする。労働生産物の形成過程におい て、労働力の発揮である労働つまり生きた労働 の、抽象的労働だけが価値を生み出し、しかも
労働力はそれ自身の価値以上に剰余価値を創出 する。生産過程の主体的要因である労働力が自 己を発現することを通して、商品を生産する
「その運動の各瞬間に、付加的価値すなわち新 価値を形成する]5)。他方では、ある使用価値
(素材)としての生産手段が、生産要素として 新たな生産物の生産のために合目的的に消費さ れるならば、消費された生産手段の生産に必要 な労働時間は、新たな生産物の生産に必要な労 働時問の一部分をなす。このように摩滅した生 産手段の価値が新生産物に移転・保存されるの は、労働に媒介されて、生きた労働の具体的有 用的な性格の働きによってである。つまり労働 力は新価値を付け加えることによって、また、
生産手段はもとの価値を移転することによっ て、それぞれ生産過程における価値形成に直 接・間接に関与する。
このように資本主義的生産過程では、労働者 の労働は、新価値の創造と旧価値の移転という 二面的な役割(この二面性は労働そのものの二 重性からのみ説明することができる)を同時に 果たす。これに対して、諸生産要素(=「物的 要素」)は、付加的価値すなわち新価値を形成 することはなく、それが生産過程で摩滅してい く程度に応じて、その価値を生産物に移転して いき、その結果価値は同じ大きさだけ移し変え
られるにすぎないのである。言い換えれば、価 値の源泉は一元的で、その源泉は抽象的労働で あり、労働以外の諸生産要素は価値を作らな
い。
しかし、他面では、諸生産要素は自ら価値を 作らないとはいえ、価値創造の客体的要因とし て関与する。諸生産要素の質、規模、配置様式 など生産力要因として、直接的であれ間接的で あれ価値創造に影響を与えることもまた事実で ある。諸生産要素は価値を作らないにもかかわ らず、価値の担い手である使用価値を作ること に深く関与する。使用価値の源泉は多元的であ り、労働と労働以外の生産要素すべてが含まれ
る。
これについて、マルクスは『ゴータ綱領批 判』の中で明言した。「労働はすべての富の源 泉ではない。自然は、労働とちょうど同じほ
ど、使用価値の源泉であり(そして確かに、使 用価値から物的富は成り立っているのではない か?)、労働そのものが人間の労働力という自 然力の現われにすぎない」6)。人間は、彼の生産 において、自然そのものと同じようにふるまう ことが出来るだけである。すなわち、素材の形 態を変えることができるだけである。それだけ ではない。形態を変えるこの労働そのものにお いても、人間は絶えず自然力に支えられてい る。したがって、「労働は、それによって生産 される使用価値の、素材的富の、唯一の源泉で はない。ウィリアム・ペティが言っているよう に、労働は素材的富の父であり、土地はその母 である」7)。このように諸生産要素はすべて使用 価値の源泉であり、物的富の創造過程において すべて作用を発揮している。したがって、科学 技術の進歩につれて、知識、管理、技術など諸 生産要素が物的富の創造過程で果たす役割はま すます重要になってくることを認識しなければ ならない。第16大報告における「第一の生産力 としての科学技術」という表現は、こんにち科 学技術という生産要素が物的富の創造において 果たす巨大な作用の評価・反映にほかならな
い。
以上の確認に基づいて、「諸生産要素の貢 献」を分析する際に、価値創造と富の創造、価 値源泉と使用価値の源泉という区別に十分に注 意しなければならない。諸生産要素の分配への 参加を容認する前提として、諸生産要素が価値 を作ると判断するとすれば、マルクスが批判し た「経済学的三位一体的定式」で描かれたJ.
B.セー流儀の価値理解に陥ってしまう恐れが あるであろう。中国学界の論議では、自覚的で あれ無自覚的であれ、この認識に傾斜する研究 者が少なくない。しかもこの論点をめぐる理解 は、論争の最も基本的で重要な分岐点を形づく っているため、以下ではマルクスによる生産要
素論批判を整理しつつ労働価値論と生産要素論 との対比を確認しておきたい。
[2] 労働価値論と生産要素論との相違 社会の表面と資本家の日常意識では、資本主 義的生産様式の経済的諸関係は、各種収入とそ の源泉への関心という形で現われている。それ では資本主義制度下の各種収入とその源泉形態 をどう認識するか? これに関して、スミスの 解釈者J.B.セーは「生産三要素論」を唱え、
生産を通して作られる価値は、労働、資本、自 然力(土地)の三者の協力に起因すると捉え
た。さらに「三位一体的定式」という分配定式 を主張した(のちに検討する北京大学教授曇智 傑氏はこの論調である)。
この定式が語っているのは、 資本 を元本 として生み出されたのが「利潤」または「利 子」であり、 土地 を元本として「地代」が もたらされ、 労働 を元本として「労賃」が もたらされる、という把握である。 資本 と
土地 と 労働 とが並んで、自分たちの役 立ち・貢献の固有の果実・成果であるかのよう に、資本には利潤または利子、土地には地代、
労働には労賃という対価報酬がそれぞれもたら されるという形で受け止められている。しか し、このような定式が客観的検証に耐ええない ものであることは、以下のように指摘されう
る。
まず第一に、社会的生産の特定の歴史的形態 にのみ属する 資本 という要素に対して、一 方には 土地 、他方には 労働 という労働 過程一般の二つの要素が同格で無造作に並列さ せられている。土地と労働は、生産過程の社会 的形態とは何の関係もない素材的要素である。
第二、この定式では、素材的生産要素としての
資本、土地、労働が利子、地代、賃金という価
値物(交換価値)に対置されている。第三、こ
の定式は、素材(使用価値)が諸収入(交換価
値)を生み出すというように、資本主義的生産
の本質的関係を転倒させる。年々の価値生産物
が利潤(企業者利得+利子)、地代、賃金に分
解するといった収入現象をめぐる表面の記述に とどまり、生産関係の内的関連を無視したこと は、この定式の誤りの認識論的根源である。
マルクスによる「三位一体的定式」への批判 は、従来の古典派ブルジョア経済学者らの価値 源泉把握、すなわち三要素が共に価値を作ると いう見方を批判することにあった。生産要素価 値論は、生産要素分配論の理論的基礎であり前 提である。価値は諸生産要素によって共に作ら れるのであれば、生産要素に応じて、労働は賃 金を、資本は利潤(利子)を、土地は地代を、
それぞれ分配されると捉えることは、至極当然 であろう。生産要素価値論者は剰余価値生産を 否定する立場に立って、「資本(管理や技術を 含めた生産手段)は価値を作る」、「資本は剰余 価値を作る」などの理論を擁護している。しか し、マルクスによれば、彼らは以下のように、
一連の理論的な間違いを犯した。第一、使用価 値の生産と価値の生産とを混同し、労働過程と 価値形成過程とを混同した。商品の生産過程は 使用価値の生産と価値の生産との統一である。
労働過程は使用価値の生産過程であり、諸生産 要素は共に使用価値を作るのに関与する、とい うのが正しい理解というべきである。諸生産要 素が価値を作る、価値を生み出すというのは誤 りである。第二、具体的労働と抽象的労働とを 混同し、価値創造と価値移転・保存とを混同し た。商品を生産する労働は、商品の二つの要因 に結実する二側面すなわち具体的労働と抽象的 労働との二重性を帯びている。この二重性によ って、摩滅した生産手段の価値は新生産物に移 転される。諸生産要素が価値を作り出すという のは誤りだ。第三、価値形成過程と価値増殖過 程とを混同した。資本主義的商品生産過程は、
労働支出による新しい価値創造が労働力の価値 と等しい時点にまで進行するならば、単純な価 値形成過程である。新しい価値が労働力の価値
より大きく付加されれば、価値増殖過程であ る。資本主義的商品生産過程は価値形成過程と 価値増殖過程の統一である。第四、生産領域の
価値創造と分配領域の価値分配とを混同した。
資本主義的市場経済において、労働者は賃金形 態で、労働力の価値と等しい対価を得る。彼ら が作り出した剰余価値は資本家に無償で取得さ
れる。
以上の考察に照らして、第16大報告の文言
「すべての労働、知識、技術、管理と資本の活 力が競い合ってほとばしり出るようにし、社会 の富を創り出すすべての源泉を十分に湧き出さ せる」という趣旨は次のように理解できるであ ろう。この内容は、諸生産要素がすべて社会の 物質的富(=使用価値)を作る源泉であり、諸 生産要素の活力が「競い合ってほとばしり出
る」こと、社会的富の源泉として「十分に湧き 出させる」こと、つまり諸生産要素が社会の物 質的富の創造過程において十分にその作用を発 揮して、その潜在力を汲みつくすべきであるこ とを指摘、強調した。これが「諸生産要素の貢 献」の首尾一貫した適切な理解である。具体的 に言えば、社会の物質的富(=使用価値)の創 造過程においては、「労働力」が最も決定性を 持つ主体的要素であり、「生産手段」がその基 本的な物質的客体的条件であり、「科学技術」
は先進的生産力の集中的な体現要素として巨大 な役割をますます顕著に発揮している。最後に
「管理」は複雑労働の特殊な形態として、現代 の大規模な協業労働では重要な役割を担ってい
る。
[3] 資本主義的な分配関係と生産関係 社会主義市場経済の「諸生産要素に応じての 収益分配への参加」という分配原則の理論的根 拠を探る場合に、中国学界の議論では従来、諸 生産要素が価値を作るかどうかまたはどのよう に価値が分配されるかという問題に重点が置か れた傾向があった。しかし、分配の前提であり 土台である生産関係を抜きにして議論すること は不十分である。分配諸関係と生産諸関係とが どのように関連しあっているかを整理しておこ
うQ
1、生産関係は分配関係を規定する
消費手段の分配とその生産条件の関係から見 れば、消費手段のどの種類の分配も、それに先 立つその生産条件の分配の結果である。そして 生産条件の分配は、より深い生産様式そのもの の性質に根差しているといってよい。どの社会 制度においても、分配はなによりまず生産条件 の分配または生産要素の分配が基礎であり、す なわち生産手段所有制の形態およびそれによっ て決められた生産手段と労働力の結合様式に、
生産関係に、基づく。
社会各成員は、生産物の分配を行うまえに、
一定の生産関係に従って生産手段および労働力 など生産要素の分配を行わなければならない。
この生産要素の分配は生産物の分配を決める。
というのは、「分配は、生産物の分配であるよ りもまえに、①生産用具の分配であり、②各種 生産部面への社会成員の分配(一定の生産関係 のもとへの諸個人の包摂)である。生産物の分 配は、生産過程自体のなかに含まれていて生産 の仕組みを規定しているこのような分配の結果 にすぎない」8)。ところで資本主義生産は、直接 生産者を土地とその他あらゆる生産手段から分 離することを、土地や生産手段が独占的排他的 に私人の手に集積されることを、前提する。
年々新たに生産される価値が利潤、地代、賃金 という相異なる収入に分解するのは、もともと 資本、土地、労働力という生産要因が相異なる 経済主体の問に分配され帰属していることの必 然的結果である。こうした生産要素の分配を前 提として資本一賃労働関係が成立する。社会成 員がどんな社会形態で社会的生産物の分配に参 与するかは、彼らがどんな社会形態で生産に参 与するかによって、すなわち生産関係=階級関 係によって、決められる。
さらに社会的再生産の見地から見れば、この 関係規定はいっそう明瞭に裏付けられる。資本 主義生産の繰り返しは、単に生産物を再生産す るばかりでなく、生産物を生産する資本主義生 産関係、それとともにそれに照応する資本主義 分配関係をも、たえず再生産する。分配関係は
生産関係によって決められるという関連は、社 会的再生産の過程において基礎付けられるので ある。なぜなら、資本主義的生産は、継続的反 復的過程として見れば、労働力と生産手段との 分離という基軸の生産関係を、それ自身の独自 の成果としてたえず再生産するからである。換 言すれば、当初生産の前提だった労働力と生産 手段との分離という生産要素の所有=分配関係 をたえず結果として創り出し、こうして資本主 義的生産関係を再生産し、拡大し、自律的機構
として永遠化するからである。
2、分配関係は生産関係と同一の関係であ り、生産関係の裏面である。
第1、分配形態は生産関係を前提とする。
年々の生産物は一方では資本に、他方では諸 収入の二部分に分かれ、諸収入の分配は資本を 前提とする。「生産物の一方の部分が資本に転 化しないならば、他方の部分も労賃、利潤、お よび地代の形態を取りはしないであろう」9)。た とえば、労賃は賃労働を想定する。賃労働の場 合、労賃においては分配の規定として掴まれる のに対して、労働の方はしばしば(誤って無規 定の)単に生産要素としてだけ規定される。労 働が賃労働と規定されないかぎり、労働の生産 物分配への参加様式も賃金として表わされるこ とはない。また、利子と利潤は生産要素の資本 を想定する分配様式である。それらは、資本家 が所有する資本によって労働者の創造した剰余 価値を取得する具体的な形態である。さらに、
資本主義地代の前提は生産要素となる土地の私 有制である。それは、土地を賃借する農業資本 家が、農業労働者から搾取した剰余価値の一部 分を地代の形で大土地所有者に譲渡する関係
を、分配形態として表わしたものである。
こうして、これらの特定の分配形態は、生産
条件の特定の社会的性格と生産当事者たちの特
定の社会的関係とを想定する。つまり生産物の
分配関係は、生産過程の、また人々が生産にお
いてとり結ぶ諸関係の、歴史的に規定された独
自な社会的な諸形態に照応し、これらの諸形態
から形成される。分配関係はただ生産関係のひ とつの側面を表わすにすぎない。すなわち、分 配関係は労働生産物の分配にかぎってみても、
それ自身で成り立つ独立の関係ではなく、生産 と分配とは表裏一体の関係に立つものである。
第2、法的権原は分配関係を通して実現され なければならない。
地代は土地所有権という法的権原の経済上に おける実現であり、利子は資本所有権の経済上 における実現である、等々。さまざまな法的権 利・権原は、それ自体はなにごとかを働きかけ 影響を及ぼしうる範囲と程度とを宣言するにと どまるものであって、現実の経済的物質的財貨 の創造や実際の帰属を生みだすものではない。
直接生産者が土地を共同所有していて近代的大 土地私有制が確立していなければ、生産条件を 資本に転化することは不可能であり、新たに生 産される価値が利潤、地代、賃金という収入形 態をとることはない。
第3、分配カテゴリーは同時に生産カテゴ
リーでもある。
まず第一に利潤は、ただ個人的に消費されう る生産物の単なる分配カテゴリーに止まるもの ではない。市場経済で規制的な生産価格は、そ れ自体また、利潤率の均等化とそれに対応する さまざまな社会的生産部門への資本の配分とに よって調節されている。だからこの場合には、
利潤は諸生産物の分配の主要要因としてではな く、諸生産物の生産の要因として、すなわち、
さまざまな生産部面への資本と労働との配分の 誘導・規制要因として、現われている。第二に 地代は、超過利潤として、諸資本のあいだの競 争がもたらす平均利潤を超える超過分という生 産関係の具現である。第三に賃労働を挙げる と、労賃は労働力の対価としてはなるほど収入 分配の規定性を帯びているが、労働力価値を補 填する必要労働の限界を画する基準として、翻 って剰余労働を決める基準の転化形態として、
生産カテゴリーの性格を帯びている。
以上の分析から分かるように、社会主義市場
経済における「労働、資本、技術と管理などの 諸生産要素の貢献に応じての収益分配への参 加」という原則は、資本主義的市場経済におけ る分配関係と同じ理論的基礎を持っている。す なわち、資本主義的生産過程は、使用価値を生 産する労働過程と剰余価値を生産する価値増殖 過程の二側面を持っている。商品に体現されて いる労働は、使用価値をつくりだす労働(具体 的有用労働)と、価値を形成する労働(抽象的 人間労働)との統一なのである。価値の源泉は 一元的であり、抽象的人間的労働である。使用 価値の源泉は多元的であり、労働も諸生産要素 も共に作用して使用価値を作る。分配の土台は 生産関係である。分配関係は生産関係によって 規定され、その本質としては生産関係と同一の 関係を持ち、生産関係の裏面でもある。
[4] 「労働に応じた分配」のマルクスの考察 第16大報告によって、公有制経済における社 会主義的性格を持つ「労働に応じた分配」が主 体的地位にあることが認識され、明確にされ た。しかし同時に、こんにちの新しい情勢のも とで、「労働に応じた分配」という分配方式を どのように理解し実践するべきか、その理論的 根拠を労働価値論に見いだすべきであるかどう かについては、学会でも様々に意見の分岐対立
がある。
マルクスは、資本主義的生産関係と分配関係 の本質との分析を通じて、未来の共産主義社会 の第一段階(=社会主義段階)における分配原 則、分配様式などを考察し、未来の社会主義的 分配関係に関する「労働に応じた分配」理論を 書き残している。以下ではそれを手がかりにし て整理しておきたい。
未来社会の生産様式と分配様式について、マ
ルクスは『資本論』第1巻で以下のように想定
した。「共同的生産手段で労働し自分たちの多
くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働
力として支出する自由な人々の連合体を考えて
みよう。……この連合体の総生産物は一つの社
会的生産物である。この生産物の一部分は、ふ
たたび生産手段として役立つ。この部分は依然 として社会的なものである。しかし、もう一つ の部分は、生活手段として、連合体の成員によ って消費される。この部分は、だから、彼らの 間で分配されなければならない。この分配の仕 方は、社会的生産有機体そのものの特殊な種類 と、これに照応する生産者たちの歴史的発展程 度とに応じて、変化するであろう。もっぱら商 品生産と対比するだけのために、各生産者の生 活手段の分け前は、彼の労働時間によって規定 されるものと前提しよう。そうすると、労働時 間は二重の役割を果たすことになるだろう。労 働時間の社会的計画的配分は、様々な欲求にた いする様々な労働機能の正しい割合を規制す る。他面では、労働時間は、同時に、共同労働 にたいする生産者たちの個人的関与の尺度とし て役立ち、それゆえまた、共同生産物のうち個 人的に消費されうる部分にたいする生産者たち の個人的分け前の尺度として役立つ」1°)。
以上の論述は、生産手段の公有制を基礎に、
連合労働を行う社会のことである。この社会に おいては、人々がだれもが社会的労働力の一成 員として、生産手段を共有している。労働者は 労働以外に何の特権を持たない。同時に消費手 段の分配は、生産者の諸個人が社会に提供した 労働が基準となり、労働時間は労働量の尺度と して役立つ。これが周知の、社会主義のもとで の「労働に応じた分配」である。このうえマル クスは、厳密なロジック推理を経て、共産主義 社会の第一段階=社会主義社会段階における
「労働に応じた分配」の見取り図を総括的に提 出した。すなわち社会的公有制という条件のも
とで、労働可能な社会成員は労働に従事する。
社会は全社会的総生産物に必要な控除を行って から、労働者が社会に給付する労働の量と労働 の質を唯一の尺度として、個人的消費分が分配 される。等量の労働が等量の報酬を受ける。社 会に多く与えたものは多く受け取り、少なく与 えたものは少なく受け取り、労働を与えないも のは受け取らない、ということである。
[5] 「労働に応じた分配」と「労働の貢献 に応じた分配」
中国共産党と国家の重要文献の中で第16大報 告は初めて、「労働、資本、技術と管理などの 諸生産要素の貢献に応じての収益分配への参加 という原則を確立し、労働に応じた分配を主体 とする多種類の分配方式が同時に存在するとい う分配制度を充実させる」という原則を打ち出 した。これによって、第15大報告に採択された
「資本、技術など生産要素は収益分配への参加 を許可し、奨励する」という内容が、理論上に 一歩すすんで明確化された。すなわち、「労 働」という生産要素が明示的に付け加えられ、
その他の「資本、技術と管理など諸生産要素」
と並ぶ「収益分配への参加」要因の一つとし て、すなわち「労働の貢献」、「資本の貢献」、
「技術の貢献」、「管理の貢献」などに応じた分 配分として認められた。ところが、この分配原 則の記述をめぐっては様々な解釈が示されてい る。たとえば、諸生産要素の中には「労働」が 含まれているのだから、「労働に応じた分配」
は、「諸生産要素に応じた分配」のなかの一一es 成部分でしかないと解釈される。そしてそこか
ら、「労働に応じた分配を主体とする多種類の 分配方式が同時に存在する」という記述は同じ 関係の重複となってもはや余計なことである。
「諸生産要素に応じた分配」方式こそが一元的 に実行されるべきである、という帰結を導き出 そうとする見解がある。
「諸生産要素の貢献に応じての収益分配への 参加」という分配原則の趣旨または真意を理解 するために、「労働の貢献に応じた分配」の本 質を解明しなければならない。分析してみよ
う。
既述のとおり、労働力、土地、資本、技術お
よび管理などを含む諸生産要素はすべて社会の
物質的富(=使用価値)を作る源泉である。社
会の物質的富の創造過程においてそれぞれの諸
生産要素の役割を十分に発揮させることの重要
性をまず承認することである。次に、「収益分
配への参加」は社会的分業の前提の下では、労 働を内容とした尺度による評価に依拠せざるを えないから、価値形成過程とその成果とが基礎 となる。ここでは農民や製造職人などの独立小 生産形態または個人企業形態は度外視される。
というのは、彼らの労働の発揮とその成果であ る価値生産物とのあいだの対応・帰属関係は初 めからきわめて明瞭であり(=「自己労働に基 づく所有」)、「労働の貢献に応じた分配」の関 係は、異論の余地なく自明だからである。
注目されるのは、「諸生産要素」の一つとさ れる「労働」である。それは、公有制経済にお ける労働者の労働の量と質を指すのではなく、
非公有制経済における「労働」、つまり資本に 雇用された労働者の提供する「労働」であり、
また彼らの分配分与ぶん、すなわち「労働力の 価値に応じた分配」ということである。具体的 に言えば、私営経済、外資経済など非公有制企 業において労働者は、労働力の価値の貨幣表現 としての賃金を受け取る。このように、これら をひとまず関連づけることができる。
ところが、日常の経験と意識では、資本家と 労働者とのあいだの関係は、労働者が資本家に 一定量の「労働」を提供し、資本家はその「労 働の代償」として(=「労働の貢献に基づい て」)、労働者に一定量の貨幣を賃金として支払 っているかのように現われている。つまり、資 本家は労働者が提供した労働時間と成果とに基 づいて支払い、しかも労働者が労働を提供した 後で賃金を支払う。賃金は、労働者が売った
「労働」の対価であるのかそれとも「労働力」
の対価であるのか、ということを明らかにしな ければならない。
労働者が売ったのは「労働」ではなく「労働 力」である。その理由は次の三つにある。第1 に、労働者が売ったのがもし労働であるとすれ ば、売られる以前に労働が商品でなければなら ず、その労働の価値は労働によって決まるとい うことになるが、これは意味をなさない無内容 な同義反復に帰着するしかない。第2に、労働
が商品として売買されるためには、売られる前 に独立の商品として存在していなければならな いが、しかしいっさいの生産手段から切り離さ れている労働者は自分で独立して労働すること はできず、労働が独立商品として労働者によっ て売られることはありえない。第3に、もし労 働が商品として販売され、賃金が提供される労 働そのものの対価となるならば、労働が全部等 価で支払われるということになる。すると剰余 価値成立の余地はなくなり、資本主義の存立の 基礎がなくなることになるだろうし、またもし 逆に、労働が全部支払われないで不等価交換さ れるとするならば、価値法則に反することにな るであろう。
いずれにせよ、現象に現れている「労働の価 格」や「労働の交換」をそのままに受け入れる ことは、理不尽に陥らざるをえない。労働は価 値の実体であり価値の尺度であるけれども、そ れ自体はなんらの価値を持たないものである。
労働者が賃金とひきかえに資本家に売っている ものは、「労働」ではなく「労働力」であり、
賃金は「労働力の価値または価格」である。つ まり、賃金は本質的には、「労働力の価値(価 格)」の「労働の価値(価格)」への転化形態で あり、本質的関係の現象形態を表わしている。
以上の分析に基づいて、「諸生産要素の貢献 に応じた分配」のなかの「労働の貢献に応じた 分配」を突き詰めてみると、その本質は「労働 力の価値に応じた分配」だということが分か
る。従来の議論では、「労働に応じた分配」と
「労働の貢献に応じた分配」とが明確に区別さ れず、前者を一種の「生産要素の貢献に応じた 分配」に収敏・帰着させてしまう誤解さえも見 受けられた。これらの混同は、実に「労働に応 じた分配」と「労働力の価値に応じた分配」と の区別の曖昧に起因しており、この議論全体の 根底的な論点をなしていて、研究者たちのさま
ざまな解釈の対立状況を左右している。
続いて次の第皿章では、2002年論争に現れた
三つの潮流の主要見解を吟味する。
第皿章 分配原則の理論的基礎をめぐる 中国研究者の主張の検討
社会主義市場経済のもとで、「労働に応じた 分配」と「諸生産要素の貢献に応じた分配」と いう二つの表記が、異なる制度内容を持つ分配 原則であることを明確にさせることができなか ったことをはじめ、労働価値論の基礎命題の理 解の不十分に起因して、中国研究者たちによる 分配原則の理論的基礎の考察に混乱が生じた。
以下においては、二種類の分配制度を明確にさ せるうえで、資本主義的分配関係と社会主義的 分配関係の分析に照らして、第16大報告に盛り 込まれた分配原則の解釈をめぐる研究者の見解
を点検してみたい。
[1] 「生産要素論」派(生産要素価値分配 説、剰余価値論否定)一論者:曇智傑 北京大学教授婁智傑は、報告「専門家研究者 による収入分配制度改革深化の論述」(『労働保 障通訊』2003年11期)において、収入分配制度 について次のように述べた。「党の第16大は生 産要素分配の原則を確立した。党の歴史とわが 国の分配制度においては、これは重大な突破と 飛躍である。報告が打ち出したこの分配原則に よれば、国民的富または社会的富は、諸生産要 素によって共に創造したことを表わし、したが って要素分配論に対して理論的基礎を提供し た。この理論的基礎はすなわち価値源泉と富源 泉の一致1生である。この一致性に基づく科学的 認識によって、われわれは社会経済政策と指導 方針を立てなければならない」11)。
曇氏の見解は、伝統的な労働価値論を否定 し、代わりに生産要素論を分配の根拠とする主 張であり、旧来の労働価値論派に大きな衝撃を
もたらした。しかし、曇氏の分析は第16大報告 内容との乖離に立脚していると思われる。第一 に、嬰氏による第16大報告内容の趣旨に対する 理解は誤っている。その解釈は、第16大報告の 本来の意味を把握したうえでのものではなく、
第16大報告内容を道具として、報告に存在しな いいわゆる「生産要素論」の観点を押し付けた
ものである。第16大報告は、たしかに労働と労 働価値論の認識と研究問題に触れてはいない が、しかし「生産要素価値論」の肯定または確 定を意味するものではなく、そこから、「生産 要素論」が全面的に是認されたとして引き出す ことはできない。四つ併記された生産の要素の 中で、「労働」を尊重することを第一位に位置 づけたことは、むしろ労働と労働価値論の重視
を表わしたものと理解するべきである。
第二に、嬰氏が労働価値論を疑う根本的な原 因として、社会主義市場経済発展の表面現象に よって取り違えを来たしたように思われる。す なわち、生産領域での諸生産要素は、すべて商 品価値の生産に参加するように見え、そこで曼 氏は生産要素価値理論が生産要素分配の理論的 基礎であると思い込み、したがって、分配領域 においては、諸生産要素がそれぞれに対応する 報酬を得なければならないと結論づけた。ここ で、肝心なことは、非生産要素が価値を作るか どうかという重要な理論問題に答えなければな らないということである。マルクスの論述によ れば、使用価値を生産する労働過程には、労 働、労働対象と労働手段という三つの要因が含
まれる。そのうち、労働対象は労働過程で人間 の労働が向けられるすべてのものである。土地 などのように自然そのものによって与えられて いて労働がまったく加わっていない労働対象 と、前もって労働が加えられている労働対象、
すなわち原料との2種類がある。労働手段と は、労働過程で人間が自分の労働対象に働きか ける物的手段である。労働対象と労働手段とは 共に生産手段であるため、労働過程の三要因 は、労働力と生産手段という二要因に簡略化で きる。物質的生産を行うにはその二要因が揃わ れなければならない。ただし、ここで言う三要 因また二要因は使用価値を作る要因であって、
価値を作る要因ではない。だから、第16大報告
は明確に「すべての労働、知識、技術、管理と
資本の活力が競い合ってほとばしり出るように
し、社会の富を創り出すすべての源泉を十分に
湧き出させる」ことを打ち出した。すなわち
「社会の富」は価値とその源泉に関するもので はなく、素材的富または使用価値とその源泉を 意味するのである。
第三に、曇氏によれば、マルクスの労働価値 論は社会主義市場経済に適合的ではなく、生産 要素価値論を根拠に、指導方針および政策を立 てなければならないという見方である。すなわ ちマルクスが解明した商品生産の基本法則は、
社会主義市場経済には作用しないという見方で ある。これは明らかな誤りである。マルクスが 解明した商品生産の基本法則は、成立条件が備 われば、資本主義商品生産に適用できることは もちろんのこと、社会主義商品生産にも適用可 能である。マルクスの労働価値論は簡単な商品 経済、資本主義市場経済と社会主義市場経済の 共同の理論的基礎であって、資本主義市場経済 においても、社会主義市場経済においても、商 品価値が問題となる限りでは、価値源泉の一元 論は妥当する。
[2] 「労働価値論発展」派(労働価値論と 生産要素論との折衷)一論者:銭伯 海、藥継明
1、厘門大学教授銭伯海は、「労働価値認識 の理論思考の深化について」(「度門大学学報
(哲学社会科学版)」2001年02期)の中で、「科 学技術と経営管理労働が、共に価値と剰余価値
を作る」という主張を以下のように述べた。
「進んでいる科学技術と優れた経営管理は、
労働生産率を大幅に高め、必要労働時間を圧縮 し、剰余労働時間を延長するので、相対的剰余 価値を作る。したがって、科学技術が進めば進 むほど、管理が優れれば優れるほど、労働生産 性がより大幅に高められ、より多い剰余生産物 と剰余価値を創造する。剰余価値も価値であ る。ゆえに科学技術と経営管理が労働の重要な 形態として、労働生産率の向上によって、価値 一剰余価値、巨額な剰余価値を作ることが証明 され、社会の認可を得るに違いない」 2)と。こ こで科学技術と経営管理労働とを区別して検討
する必要がある。まず科学技術について検討し てみよう。
マルクスは労働生産力を規定する要因と価値 を規定する要因とを厳密に区別した。労働の生 産力は多種多様な事情によって規定されてい る。「なかでも特に労働者の技能の平均度、科 学とその技術的応用可能性との発展段階、生産 過程の社会的結合、生産手段の規模および作用 能力によって、さらにまた自然事情によって、
規定されている」13)。すなわち、労働生産力は 多元関数であり、労働生産力は複数の変数要因 によって規定される。科学技術が現実の生産力 に転化する場合、生産力向上に資する物的要因 と人的要因それぞれによって役割を演じる。物 的要因は労働手段と労働対象を含み、人的要因 は労働者、管理者と科学技術労働者を含む。科 学技術は生産過程で応用されることによって、
労働手段に属する動力システム、機械システ ム、運輸システム、情報システムなどがより先 進になり、労働対象の範囲が拡張される。他面 では、科学技術はより高い素質を持つ労働者、
管理者と科学技術労働者の養成を牽引する。高 い素質を持つ人的要因と高い効能を持つ物的要 因との結合によって、新しい生産力が形成さ れ、人類の自然支配能力が高められる。
しかし、科学技術は労働過程の中には入る が、価値形成過程には入らない。科学技術自身 は、直接には、使用価値を作る具体的有用的労 働の作用度だけに係わるのであって、価値形成 要因とはならないし、価値を作らない。労働生 産力を規定する要因が多元的であるのに対し て、価値を規定する要因は一つしかない。それ は一般的無差別な人間労働、抽象的労働であ る。価値生産関数は一元関数であり、価値は労 働という変数だけによって規定される。科学技 術と労働者とが共に価値を作るとするならば、
二元論の価値論に陥ってしまうだろう。
それにもかかわらず、科学技術と価値の創造
とは以下のような緊密な関係を持っている。第
一、科学技術は新しい社会的生産力に転化で
き、相対的剰余価値の生産に絶大な効果をもた らす。第二、新しい科学技術を採用する企業は 労働力の素質をもっと厳しく要求する。労働者 が生産過程に占める主体的な地位は、科学技術 の発展によって、もっと強調されるようにな る。科学技術の進歩で、労働者の労働効率が大 いに高められるので、投入された生きた労働の 数は減っても、使用価値と価値の量が増加す る。第三、一番先に新しい科学技術を採用する 個別企業は、例外的に高い生産力を持つことに よって「強められた労働」として同じ時間によ り大きな価値を創造し、同業種のその他の企業 より多くの剰余価値、すなわち特別剰余価値
(超過利潤)を獲得する。それゆえ、特に高い 生産力を持つ労働はより多くの価値を作るが、
しかし依然として価値を作るのは唯一労働であ り、新しい科学技術ではない。第四、したがっ て、銭氏による「剰余価値も価値であるゆえ に、科学技術と経営管理が労働生産率の向上に よって、価値・剰余価値を作る」という推論は 転倒・飛躍がみとめられる。科学技術の利用に
よる労働生産力の増大によって、その内容の中 身については、すでに第一、第二、第三で見た ように、剰余価値の増加は必然的である。銭氏 はこの相対的剰余価値生産のメカニズムを理由 として、短絡的に生産力要因を誤って、剰余価 値の増加要因に結び付けてしまった。
次に経営管理労働について、見てみよう。銭 氏が言及する経営管理労働について見ると、資 本家による経営管理機能とその労働者代理人に よる管理労働とを区別するべきである。資本家 と区別される労働者代理人は、生産的労働者の 範囲に属する。しかし、社会主義市場経済にお いては、特に非公有制経済における私営経済の 場合は、資本主義的管理労働の二重性がそのま まあてはまることになる。すなわち、資本主義 的生産過程は労働過程と価値増殖過程との二重 性を帯びているため、資本主義的管理労働は、
一方では、労働過程の本性から生じたその全体 労働のなかの独自的機能として分化する管理機
能の担い手である。この側面において、管理労 働は労働過程の計画・指揮・統制を行う。その 限りでは、管理労働は労働者と共に共同的生産 に参加し生産的労働である。他方では、管理機 能を発揮し、出来るだけ大きな価値増殖のため の業務にのみ専念にするが、この資本の動機・
目的のための管理機能は、同時に社会的労働の 剰余価値の生産、管理抑圧の機能を果たす。そ
の限りでは不生産的労働である。不生産的労働 であるために、価値も剰余価値も自ら形成する ことはない。資本主義的生産過程のもとでは、
管理機能の生産的と不生産的という二重性格が 不可分に結合されている。ここではもちろん、
資本主義的価値増殖の観点に立つ評価が決定的
である。
以上のことに照らして、科学技術と経営管理 労働とは共に価値を作るという銭氏の議論の運 びに見られる特徴は、剰余価値の自然的な基礎 または生産力的条件を、剰余価値生産の現実性 そのものと混同する見解だということである。
マルクスが警告しているように、「恵まれた自 然条件は、常に、ただ剰余労働したがってまた 剰余価値または剰余生産物の可能性を与えるだ けで、決してその現実性を与えるのではな い」14)。この指摘は、銭氏の議論の運びにあて はめることができる。
[2]、清華大学人文社会科学学院教授察継明 は、論文「生産要素の貢献に応じた分配の理論 的基礎と政策含意」(『学習論壇」2004年第7 期)において、「労働生産力は価値の大きさに 正比例して変動すること、および労働生産力が 多元的である」という論点に依拠して、「諸生 産要素は全部価値を作る」という結論にたどり ついた。察氏は次のように論点を展開した。
①「同一部門内における個々の生産者の労働 生産率による創造された価値総量への影響を考 察しよう。もしその他の条件が不変であれば、
個々の生産者の労働生産力が高ければ高いほ ど、単位時間内に創造した使用価値が多いし、
したがって、形成した価値の総量も大きい。逆
ならその反対である。同じ時間に生産力の高い 労働によって作られた価値は、同じ種類の社会 的平均労働より多いことであり、いわゆる労働 生産力は、価値の大きさと正比例して変動する
法則である」15)。
②「労働、企業家才能、資本、土地など要素 は、価値形成過程にそれぞれの役割を発揮して いるので、社会主義の給料、利潤、利息と地代 は、労働、企業家才能、資本、土地など生産要 素の貢献によって要素所有者に報酬を与える。
社会主義の分配原則は、すなわち諸生産要素の 価値形成過程における貢献によって分配が行わ れる。簡単に言えば、『貢献に応じた分配』で ある。『貢献に応じた分配』は、社会主義が複 数の分配方式を一体化させる統一的な分配原則
である」ユ6)。