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中国における社会主義経済の建設と社会主義像 ―1949〜78年―

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<神奈川大学経済学会 50 周年記念講演会> 第4回

中国における社会主義経済の建設と社会主義像

―1949〜78年―

鈴 木 義 嗣

はじめに

【鈴木】 ただいまご紹介いただきました本学経済学部卒業で,現在神奈川大学附属学校の校長を している鈴木です。中高の教員として勤務しつつ,本学の経済学部で中国経済論をまた教職課程 の教科教育法の講義を学校長に就任する2011年まで担当しておりました。

大学在学中の経済学部では社会主義経済に興味を持ち中村平八教授(故人)のソ連経済論のゼ ミに所属していました。とくにソ連の社会主義経済建設初期の農業集団化に興味を持ち勉強をし てきました。

私が社会主義に興味を持ったのは,高校生の時代です。高校時代は安保問題を中心とした政治 運動が盛んな時期でした。私もその中に身を投じた一人でした。出身は北海道なんですが大学生 と議論すると一番分からなかったのが経済だったんです。それで何とかマルクスの『資本論』を

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読破しようと思って経済学部を選択したわけです。ほかにも個人的には,早く家を出て自分で勝 手に暮らしたいというのもありまして,神奈川大学を受験し合格しました。当時の,神奈川大学 は授業料が非常に安く,確か年間9万6000円だと記憶しています。国立大学の授業料が5万い くらだったと思います。東京六大学の私大からするとかなり安かった。サラリーマン家庭なので その点は「ラッキー」と思っていました。

大学4年のときにゼミで中国社会主義を担当するゼミ生がいなくて私が担当することにしまし た。それがきっかけで大学院に進んで中国社会主義を研究しようと思い進学しました。院生のと きに他大学の実情を知るようになり,神奈川大学は非常に特徴のある大学だと感じるようになり ました。と言うのは当時,1970年代の初めのころに,経済学部の中で講義として中国経済論を 開講している大学はなかったはずです。神奈川大学では,中国経済論があって,アジア経済論が あって,そして新興国経済論がある。これはもちろん貿易学科というこれも他大学にはないユ ニークな学科のがあったのと関連していると言えるんですけど。こういう特徴ある大学だという ことは,その中で学んでいる当時は意外と分からないんですね。ところが外の事情がだんだん分 かってくると,自分たちのおかれていた学習環境の良さや特徴を改めて感じました。

大学院では,小島麗逸先生のもとで中国農業を学びました。小島先生は中国農業経済の大家 で,アジア経済研究所から大東文化大学教授となった方で,先生のおかげで多くの研究者の方々 と面識を持つことができました。そういう意味では,神奈川大学の経済学部に所属して学ばせて いただいて,多くの人との出会いがあって良かったと思っています。そして,神大に勤めて自分 が学んできたことを自分の後輩である学生諸君に伝えることができるということ,また,経済学 部の卒業生ということで記念すべき講演会にお声をかけていただき,貴重な機会を与えてくだ さったことを非常に感謝しています。どうもありがとうございます。

さて,本題に入りましょう。現代の中国はどんな政治体制の社会ですかというふうに問われた ら,皆さんは何と答えますか。正式名称は中華人民共和国で,中華人民共和国の政治体制は何と 言われているんですか。

【受講生】 社会主義。

【鈴木】 社会主義…そうですよね。じゃあ,ほかに社会主義の国はどんな国がありますか。

【受講生】 キューバ。

【鈴木】 そうだね。キューバも社会主義だ。カストロ,ゲバラ。若干憧れて,学生時代僕はスペ イン語を履修しました。だけどそっちに進まずに,こっち,中国に入ってしまいました。身近な 国もあるじゃないですか,もう1つ。新聞をにぎわしている。半島に。どこ? 日本の近くの半 島といったらどこ?

【受講生】 朝鮮半島。

【鈴木】 とすれば,どっち? 南と北では? 北だよね。正式名称は朝鮮人民民主主義共和国。

民主や共和国と付くわりには,何となく民主や共和国じゃないようなと,若干思っちゃうんだけ

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どね。あまり皮肉を言ってはいけませんが。

1.マルクス主義の共産主義論とソ連の社会主義論について

さて,中国ですが,中国の社会主義が大きく転換したのは,皆さん知っていると思うんです ね。1978年,三中全会という重要会議で当時の実力者鄧小平が改革開放政策を決したことから 中国は大きく転換しました。今も中国は社会主義国家と言っています。ではそれまでの社会主 義,中国が1949年に新中国を成立させてからどんな国家社会を目指してきたのか,もちろん社 会主義社会を経てから共産主義社会を実現することを最終目標としていたことに間違いはありま せん。

そこでちょっと,社会主義と共産主義って一体何かということについて考え,理解しておきま しょう。先にこちらのプロジェクターの図を見てください。マルクスは19世紀に資本主義社会 の経済学の仕組みを明らかにし,それを著したのが『資本論』です。その中で彼は資本主義の自 己崩壊メカニズムを論証しました。他方,彼は政治運動家としても活動していましたから資本主 義後の社会について問われ,資本主義社会と対極の社会,共産主義社会像を理論的に示しまし た。その彼の考えを恐れずに表現するならば,資本主義社会では私たちが労働して生み出した価 値を自分たちは正当に受け取っているんだろうか。資本主義はそのような社会ではない。した がって,その後の社会では働いた人が自ら生み出した価値を正当に受け取れるような社会が本来 の社会だと。それには当然のことながら,膨大な生産力を持っている社会でなければならないと いうことです。マルクスは,共産主義社会について,泉から水が湧き出るように生産物の生産が 可能になること生産力を持った社会であり,その分配は「必要に応じた分配」,必要に応じたの 意味は,自分がこれ欲しいなと思ったら必要な物を必要なだけ手に入れられるような,そんな社 会になると構想しました。また,そうした社会になると労働そのものも苦痛ではなくなる。ある いは,生きるためのものではなくなってしまうと。だから当然,「疎外」からの解放された社会 であると。この社会の実現は高度に発達した資本主義の生産力と発達した民主主義社会が前提と なっています。そして,共産主義への移行過程で国家は死滅していくと考えていました。これが マルクスの構想した共産主義社会像だといえます。

彼は労働運動家として活動していく中で,どんな道筋でそうした社会に到達するのか,労働者 が革命を起こしたら,すぐに共産主義社会を実現できるのか。他の運動家たちからの現実的な疑 問に答えなければならない場面に直面することになります。そこでマルクスは,資本主義社会の 膨大な生産力を持った社会の後とは言ってもすぐには共産主義社会にはならないだろう,そこに 行き着くまでの過渡的な社会,過渡期が必要になってくるという考えを示します。生まれたばか りの共産主義社会には旧社会の母斑があると。母斑って分かりますか? 赤ちゃんの時のお尻に 青いあざみたいなのがありますよね。あれは成長するにつれてなくなるよね。そのような過渡期 という時期が必要だと考えたわけです。この過渡期をマルクスは低次の共産主義と表現していま

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【マルクスの移行モデル】

資本主義社会 → ← 共 産 主 義 社 会 →

← 低次の共産主義 ← 高次の共産主義 →

(労働に応じた分配)

プロレタリア革命

(必要に応じた分配)

【レーニンの移行モデル】

資本主義社会 → ← 過   渡   期 → 共産主義社会

(国家は死滅)

← 特殊な過渡期 ← 社会主義 →

(多ウクラード)

革命

(二所有制→

全民所有制)

【中国の移行モデル Ⅰ = 毛沢東時代】

封建・半封建 植民地・半植民地

→ 新民主

主義社会

← ← 共産主義社会

社会主 義社会

← →

過渡期=社会主義革命期

社会主義へ の過渡期 社会主義革命期=過渡期 1949年新民主主義革命の勝利

新民主主義革命

=社会主義革命への転化 資本主義社会 →

【ソ連 = スターリンの移行モデル】

→ 1936年

1917年

共産主義社会

← 過渡期 ← 社会主義社会

ロシア革命 スターリン憲法

→ →

【中国の移行モデル Ⅱ = 改革開放時代】

封建・半封建 植民地・半植民地

社会主義へ の過渡期

← ← 共産主義社会

社会主 義社会

→ 過渡期=社会主義革命期

社会主義の 初級段階 新民主主義革命期

1949年 1953年

社会主義革命

図Ⅰ 共産主義社会への移行モデル

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す。のちにこの時期の社会は社会主義と表現されます。したがって,これからの話の中では,マ ルクスの言う低次の共産主義を社会主義と表現し,共産主義はマルクスの言う高次の共産主義の ことに限定することにします。

しかし,歴史の現実は,資本主義が最も高度に発達していたイギリスでも,労働者階級による 革命がなかなか起きそうにない。むしろ労働者がどんどん豊かになっていく。革命が起こる,あ るいは起こす差し迫った状況は後退していく。マルクスも資本主義の心臓部,イギリスのことで すが,と言うのはそう簡単に崩せるようなものではないというように労働運動家として考え始め ます。

また,過渡期の社会についての質問も多く出されるようになります。過渡期の政治形態はどん なものなのかと。それにはパリ・コミューン,これは世界史で習ったと思いますが,そうです,

歴史上で最初の労働者政権が初めてパリで誕生する出来事です。これをモデルにしながら,その 基本構想して表明していきます。さらには,もしかしたら革命自体は高度に発達した資本主義社 会じゃなくても,起こる可能性があり得るんではないかということを,彼は晩年に考え始めま す。これはロシアのヴェラ・ザスーリチという女性からの質問の中で答えています。もしかした ら革命は先進資本主義国ではなく後発資本主義国で起こるかもしれないと。そして,むしろこの 考えが歴史的には現実となるわけです。レーニンによるロシア革命がそれです。

そのレーニンは後発資本主義国で革命を起こしてしまったがゆえに,共産主義社会にたどりつ くまでにはいろいろな段階が必要になるだろうと。彼の考えた共産主義への移行モデル図(図

Ⅰ)を参照しながら説明を聞いて下さい。

当時のロシアは当然のことながらいわゆるツァーリによる専制の時代でしたから,地主,商 人,農民,労働者もいれば,国営的な経済もあれば,国家資本主義的な経済もあり,個人経済も あれば,株式会社のようなものもある多様な経済要素から成る社会でした。これを多ウクラード 社会,ウクラードはロシア語で,英語のセクターという意味です。ロシアの革命後の社会建設 は,マルクスの想定とはほど遠い社会経済状態だったと言えます。したがって,マルクスが想定 した旧社会の母斑がある過渡期,すなわち社会主義へ到達するための,もう1つ過渡期が必要に なってくる。レーニンはそうした特殊な過渡期が必要だと考えました。さらに特殊な過渡期は多 ウクラードの社会と二所有制社会へと段階的に移行していくという構想を示しました。この二所 有制とは国家的所有,いわゆる国有と協同組合所有,いわゆる集団所有のことです。つまり,

レーニンは共産主義社会までを過渡期と捉え,この過渡期は2つの小段階から成る特殊な過渡期 と社会主義という2つの過渡期から成るという考えを示唆しました。

ところがレーニンが亡くなった後,スターリンは,レーニンのこの構想を単純化してしまいま す。この背景には,一国で社会主義の建設ができるかどうかというトロツキーとの論争がありま す。トロツキーが世界革命でなければ共産主義の実現はできないと考えたのに対してスターリン は,一国でも社会主義社会の実現は可能だと主張します。党内での激しい闘争の結果,スターリ

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ンの一国社会主義派が勝利します。

スターリンは,多ウクラード社会,これを過渡期と考え,二所有制の社会主義社会を過渡期と は捉えず,独立した社会構成体と考え,社会主義として固定化していきます。この考えは1936 年のスターリン憲法において明記されました。これ以後,共産主義への移行問題は,社会主義の 建設と発展という現実問題の中に埋没していきます。

ただ,この二所有制社会主義の建設をめぐる議論が起こります。マルクス主義の理論からする と社会主義は資本主義よりも優れた生産力を持つ社会であることから,自分たちがもし社会主義 社会に到達したと言うならば,現存のアメリカやイギリスなどの資本主義国よりもより大きな生 産力を持つ国家でなければならない。そのためには工業化が必要になってくる。その工業をどう やって達成するのか。とりわけ,その工業化の資金をいかに生み出すかということで,議論が起 きる。それがプレオブラジェンスキーという人とブハーリンとの論争となり,これが先のスター リンとトロツキーの党内闘争とも密接に関連しています。

両者の論争の共通点は,工業化の資金は農業を源泉とするという点です。いかに農業からこの 資金を獲得するか。そのためにはどんな政策がいいのかが議論の軸になります。プレオブラジェ ンスキーは,農業を協同組合化,いわゆる農業集団化による合理的な生産を行い,そこで原資を 獲得すべきだと考えます。それに対してブハーリンは,土地の用益権を認めて,中農という自作 農を創出してその経済的刺激を生産力につなげることが最善であると主張します。だから富農,

ソ連ではクラークと呼ばれますが,このような層の農民が1つの社会的な勢力,生産力の担い手 として認める姿勢を示します。農業集団化についてブハーリンは,その対象を十分な農業生産手 段を持たない貧農にすべきであると考えていました。そして,工業力が農業生産を支えるほどに なったときに本格的な集団化へという「漸進主義的な農業集団化」を主張し,農業集団化後の構 想として「農工コンビナート」を提示しました。こうして農業と工業を連携させ,工業化を進め ながら農業の発展も保障していく,このような経済発展構想を示しました。ブハーリンはスター リン派の論客として,プレオブラジェンスキーはトロツキー派と言われていますが,両派の党内 闘争でスターリン派が勝利した後,権力を掌握したスターリンは,かつての論争で否定していた プレオブラジェンスキーのいわゆる社会主義本源的蓄積論にもとづき農業集団化を強行します。

農村を一気にコルフォーズという集団所有制にしたわけです。これは高校世界史か政治経済で 習ったよね? 国営農場はソフォーズ,集団農場はコルフォーズって。今は授業ではあまり触れ ないかもしれないね。一方,こうしたスターリンに異を唱えたブハーリンはスターリンに粛正の 対象とされ処刑されてしまいます。

さて,マルクス主義の社会主義と共産主義についての理解とソ連の経済建設,社会主義の考え が中国の社会主義にも反映せざるを得ないわけですが,ではその中国について見ていきましょ う。

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2.新民主主義社会の建設と土地改革

さていよいよ中国の内容に入っていきます。スライドに1949年から78年までの経済をその特 徴にもとづいて時期分を示してあります。国民経済回復期,第一次五カ年計画期,大躍進期,経 済調整期,文化大革命期,この時期区分が一般的だと思います。この軸区分に沿って中国の社会 主義の経済建設,主に農村農業建設と社会主義についての中国共産党の考えを見ていくことにし ましょう。

まず,1949年の中国革命の性格について理解しておきましょう。その理解の鍵は中国の国旗 にあります。この国旗に当時の中国共産党の意思が表されているといえます。この旗の通称は 知っている? 5つ星があり,旗の色は何? 赤だから「五星紅旗」と言われている。赤は革命 を意味します。星の色は黄色ですが,それは光明を意味します。この黄色の星5つ。これは何を 意味するのか。中国は革命の中心となった中国共産党が大きな星。あとの星は何を意味するか。

中国共産党が中心になって,一番上は労働者です。次が農民。3つ目が知識人とか小ブルジョア ジーと言われる人たち。それと4つ目が,民族ブルジョアジーと言われる人たちです。この民族 ブルジョアジーと言われる人たちは,革命前の社会で総資本額の8割を占める四大家族と言われ る,蒋・宋・陳・孔という4つの財閥の支配・従属を強いられていた商工業者で,彼らはその四 大家族への支配・従属関係から解放されることによって,自分たちの自由な経済活動が保障され る社会を望んでいた。その支配・従属関係から解放されるならば中国共産党をも支持しようと。

中国共産党の指導者毛沢東は,中国の革命について次のように考えていました。歴史上の旧来 の民主主義革命,その主体はブルジョアジーである。しかし,ロシア革命によって世界の流れが 変わった。ロシアで労働者階級が権力を握る社会が出来上がった。だから,われわれが目指す革 命は,将来世界の主体となる労働者階級が指導する,そういう方向性を持った革命となる。これ までの民主主義革命とは違う。中国共産党と支持基盤である労働者階級が主導する革命,中国が 目指す革命は新しい民主主義革命,「新民主主義革命」であると,こう説いたわけです。

したがって新民主主義革命後の社会は,中国共産党を軸に4つの社会勢力によって築かれる新 民主主義国家であり,新民主主義社会を建設することが当面の目的であると。だからこの革命 は,レーニンが行ったような社会主義革命ではない。封建・半封建の社会状態で民主主義の経験 がなく,経済的にも大きく立ち後れている中国では社会主義は遠い目標であると捉えていまし た。だから,まずは新民主主義国家,新民主主義社会の実現を目指さねばならない。この認識の 根底には,高度に発達した民主主義と資本主義経済の前提の上に社会主義があるというマルクス 的理解が強く反映していたと言えます。中国では新民主主義社会を経て社会主義社会に到ると。

革命後の最大の目標は,新国家の建設のためにも経済を回復することでした。そのための経済 政策の柱は,官僚資本の没収とその国営化,そして最大の柱が農村復興と農業生産の回復でし た。それが土地改革です。この土地改革は,地主による農村経済支配を打倒して,「耕者有其田」

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を実現することでした。この言葉は「耕す者がその土地の所有者になる」という意味です。地主 の土地や財産を没収して農民に分配し,農村に多くの自作農を創出するというこれが土地改革 で,これは孫文の掲げた革命の目標でもありました。

では,ここでその土地改革ってどんなものかを映像で見てみましょう。

[映像解説]

これは四川省金堂県の農村を舞台とした「偉大なる土地改革」というドキュメントの一部 である。記録は中国共産党の中央で訓練を受けた宣伝工作隊の到着のシーンから始まりま す。宣伝工作隊は農民をいくつかの生産グループと労働補助グループに分け,生活を共にし ながら土地は地主のものだと信じてきた農民たちに,土地改革をすれば誰もが自分の土地を 持てると説得することから活動を開始します。次に苦訴大会が村の広場で開催され,農民が 地主たちを前にいかに彼らに苦しめられたかをみんなの前で訴える大会を開催し,最後に公 審大会,いわゆる人民裁判を行って地主の処分を決めます。毛沢東は,これまでの農民運動 の報告の中で,土地改革における農民たちの激烈さを当然のことと指摘し,さらに革命とい うものについて次のように述べています。「革命とは宴会でもなければ,文章をひねること でも,絵を描くことでも,刺繍をすることでもない。そんな上品で優雅で穏やかで心優し く,礼儀正しく寛大で控えめなものではないのだ。革命とは暴動であり反逆なのである」

と。そして工作隊は1つの村に何カ月も滞在して,農民を地主・富農・窮農・貧農に分類 し,地主たちから没収した土地や財産分配しました。農民たちは,富農より貧農に分類され ることを望みました。なぜなら土地改革では,貧しい農民ほど優遇,つまり土地が多く分配 され,家畜や農機具さらには家具などの分配を受けることができたからです。

このように土地改革は,生まれたばかりの共産党政権の基盤を固めたと言えます。とくに 全人口の90% を占める農民の毛沢東に対する支持を絶対的なものにしました。

表1 地主による土地支配

人口の割合 耕地所有の割合 備 考 地主・富農 10% 70〜80% 地主は三位一体(地主+

高利貸し+商工経営者)

中・貧・雇農 90% 30〜20%

小作料50%,70% もあり 賦役・小作料の追徴や前 払い・所有地の担保

さっき見たとおり,低い階層に区分されればされるほど地主からの没収物などのたくさん農具 など資材の分配にありつける。旧来の農村の社会構造と言うのは,地主や富農は人口の10% 程 度で,耕地所有は70% から80% という状態でした。パール・バックの作品『大地』の最初の巻 を読むと,当時の貧しい農民たちの生活の様子が克明に描かれています。ぜひ読んでみてくださ い。

地主による支配と貧困,それを最終的に断ち切ったのがこの土地改革でした。ただし,中国共

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産党は革命が達成されるまでに,彼らの支配地域においてさまざまな経験,試行錯誤をしていま した。革命後の1950年6月の「中国土地改革法」にもとづく土地改革は,ここに「五・四指示 の精神が復活」と書いてありますけども,これは1946年に共産党の支配地域で実行した土地改 革の通称で,この時の土地改革で重要視されたのが農業生産の向上でした。ですから,地主や富 農に対しても階級闘争的な政治的側面を抑え,彼らの生産力を限定的に活用する方策を採りまし た。この全国的な土地改革は,この時の経験を基本モデルとしたわけです。当時の地主と言うの は三位一体と言われます。土地の所有者であり,商工業を営み,高利貸しもやっている。この土 地改革ではこの地主の土地の部分,地主の身分だけを徹底してなくする方法を採りました。もち ろん地主にも土地は分配しますが。とくに商工業者の部分,ここは残しておく。なぜかと言った ら,農作物購入と販売は彼らの商業活動の範囲でした。また農産物を原料とした加工業も行って おり,そこで労働者として農閑期に働くことができ,農民の現金収入の道にもなっていたことが あります。したがって,この商工業部分にかかわる土地の所有は認めました。この容認が高利貸 しを温存させることになります。これがこの「中国土地改革法」によって行われた土地改革の概 容です。これでいわゆる土地持ち農民,自作農がたくさん生まれました。分配された土地を含め ての土地所有面積の全国平均1戸当たり面積は,0.8ヘクタールと言われています。ただし,中 国は広いですから,気候が良くて農業が集約的に行われている地域,例えば珠江や長江流域であ るとか,淮河の流域と北方では所有耕地面積は当然のことながら違っています。ちょっと余談に なりますが,中国農業地理としてちょっと知ってもらいたいのは,黄河と長江という2つの大河 はもちろん農業生産で重要なのですが,この2つの大河の間にあまり長い川ではないのですけ ど,淮河があります。この河が農業地理的にも,一般的にも言う中国の南北分岐線なんです。北 は古代からの雑穀・麦地帯,南は米地帯となります。

さて,この土地改革に成功は,言うなれば新民主主義国家を打ち立てる一番大きな基盤が固 まったと,このようなときに起こったのが朝鮮戦争です。中国はアメリカと戦っているキム・イ ルソンの朝鮮支援をスローガンに「愛国豊産運動」を全国的に展開していきます。この運動は東 北・華北地方で行われていましたが,51年全国農業工作会議でこれを全国運動として展開する ことが決定されます。この運動の主なねらいは,農民の生産意欲の向上ととくに経済作物の増産 を図ること,自然災害に対抗するためにも農民の共同労働を軸に組織化を図ること,大衆的な技 術革新運動を展開し生産の向上につなげることにあるとされました。

とくに重要視されたのが革新的農業技術のモデル化とその普及運動だと言えます。政府は一般 農民などの多収穫技術経験を公表・表彰して技術普及を図りました。ただし,革新技術とは言う ものの農業技術としては,「精耕細作」という農業の伝統的技術の徹底を基本にしています。例 えばこの典型として陳永康型技術というがありますが,これはまさしく伝統的な小農技術,すな わち「精耕細作」に他なりません。土づくりと田間管理,深耕・密植,追肥などの作物管理をす ることです。ちょっと農業について,まず農業の基本はと問われたら,古今東西を問わずやっぱ

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り土づくり,地力の維持なんですね。地力の維持とは,土地の栄養分を維持することと理解して ください。この地力維持方法はと言ったら皆さんは高校の地理や世界史の授業で習っています よ。一番よく知っているのは,中世ヨーロッパの農業生産を安定させた生産方式,何と言った?

そう三圃式と言ったよね。ついでに概念図(黒板に示す)を書いてみると,こういうやつだね。

ここは永久放牧地。休閑地。これは穀物で,ここは牧草地だよね。これを回していくんだよね。

ただしこれは休閑地と言っても,年間に必ず何度か犂を入れます。なぜかと言ったら,放ってお いたら何が生えてきますか。雑草だろう。生えた雑草を土の中に返してしまえば,雑草はどうな るの?

【受講者】 腐る。

【鈴木】 腐るよね。栄養分になるよね。また,土の中の栄養分には,さまざまなバクテリアが活 動するんですよね。そうすると,土は砂のようにサラサラという感触じゃなく,しっとりとした 状態の土がつくられるんです。これが団粒構造を持った土なのです。バクテリアによる団粒構造 を持った土地は肥沃な耕地ということになります。そういう栄養分のある土地を深く耕すほうが いい作物ができる。これは改革開放後の1980年代半ばの農業報告に見られるのですが,これま でより10センチ深く耕したがために生産量が20% 上がったという数字がみられます。それだけ 深く耕すということは,生産増加に大事になってくる。

また,湿潤地帯と乾燥地帯とは若干違います。湿潤地帯の日本の場合は,作物の成長期に生え てくる雑草の草取りをします。ところが中国の乾燥地帯は土の表面を農具で掻きます。これは,

団粒構造になるとここから地中の水分が蒸発してくるんです。だから,土地の表面を掻いて地中 の水分の蒸散を防ぐ,これも大切な伝統的技術なんです。

ヨーロッパ人たちが中国や日本に来た時に,農民たちは土地にへばりつくような作業をしてい るわけです。彼らは,こうしたことは圃場ではしません,庭でやるようなことなので日本や中国 の農業のことを園芸農業だと言ったと言われています。このような伝統的な技術をしっかりやっ て生産を向上させたのが陳永康だったのです。

次にもう一つ,これは共産党が革命以前から解放区で試みていた方法です。これは昔からあっ た,農民たちの中にある習慣,慣行を活用して労働力を合理的に活用しようというものです。日 本では,「結」と言われています。これはどこの社会にもあると言われます。例えば,田植えの 時に手伝ってくれたら,相手の田植えの時に手伝いに行きますよ。刈り取りの時は行ったら,刈 り取りをやりますよと,そういう労働互助慣行があったわけです。中国では,牛などの役畜に対 してもありました。役畜の共同購入です。脚1本分とかの出資分で使う日数や起耕の順番や面積 が決められます。これらの互助慣行を基盤に生産の組織化を図る方法です。これは互助組と言わ れ,農繁期の季節だけに組織する場合と1年中やろうという2つのパターンが出現します。後者 だと労働力や畜力を集中的に使うことができ,余剰労働力を農業の基盤整備に投入することがで きる。また,余剰労働力を農作物の生産だけではなくて,農産物加工などにも使おうという動き

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も出てきます。また,ここでは種子を温水,ぬるま湯につけるんです。そうすると発芽が早くな ります。発芽が早くなると,種子から芽が出てきて発芽が早く生長も早くなる。生長が早ければ 作物の抵抗力がつく。こうした方法も実施されました。また,中国共産党は,人糞尿の肥料とし ての活用を考え,便所作り運動なんかも起こします。便所づくりには木材が必要になる。ところ が当時,中国は森林面積が全体で約7% なんです,国土面積の。林業学の観点からすると,国土 面積の30% の山林がないと安定的な農業は営めないと言われています。しかし,この運動では 大量の木材が必要となり,運動をやめざるを得なくなるという事態になります。これは余談とし ても,こういう組織的な農業生産組織をつくり効果を上げたのが李順達が中心になって行った互 助組と言われるものです。ただし,農業生産技術はやはり「精耕細作」が基本になっています。

それからもう1つがソ連の農業技術,ミリューチン農法と言います。しかし,この技術は大型 馬耕農具による耕作体系でしたから耕作方法は東北地方の国営農場で主に行われたものでした。

ほかの技術には,密植技術と輪作がありました。前者は参考にされました。

中国共産党は,政治手法としても伝統的と言っては何ですが,こういう典型例を『人民日報』

などで大々的に推奨して,国を挙げてやろうという大衆動員方式をこの時も展開していきまし た。

この成果,国民経済の回復状況ですが,画面の表2でも分かるとおり,穀物生産では,49年 には解放前最高水準を上回り,52年になると45% の増加を示しています。この土地改革と「愛 国豊産運動」が大きな成果を上げたことが分かります。

ところが,当の毛沢東は当初述べていた新民主主義社会の建設という考えを変えていきます。

それの要因のひとつは朝鮮戦争です。アメリカの圧倒的な物量を投じた戦争に驚愕し,アメリカ 帝国主義への対抗上からも急速な工業化が必要だと認識するようになりました。もうひとつの毛 沢東にとって大きな関心事となったのは,農村における富農層が出現し,都市部の民族ブルジョ

表2 国民経済の回復状況

(a)農工業生産額の回復

1949年 1952年 増額率 農工業生産総額 466億元 872億元 77.5%

農業総生産額 326 484 48.5 工業総生産額 140 343 245.0 軽工業生産額 103 221 214.6 重工業生産額 37 122 326.7

(b)農業生産の回復

解放前最高生産 1949年生産量 1952年生産量 食糧(万t) 1億3,870 1億1,320( 8.4% 減)1億6,390(44.8% 増)

綿花(万t) 84.9 44.5(48.0% 減) 130.4( 293% 増)

豚(万匹) 7,853 5,775(26.1% 減) 8,977(55.4% 増)

黄牛(万頭) 3,528 3,375( 4.3% 減) 4,496(33.2% 増)

注)49年の( )は対解放前最高比率,52年の( )は対49年比率

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預金 農民

取引

農産物の販売

農業諸資材の販売 融資・配当

直 接 生 産 過 程 前方関連部門

信用協同組合

後方関連部門

購入販売 協同組合

個人 業者

農民 農民

アジーが非常に成長していきます。これが新中国社会を逆行させるのではないかとの認識です。

皆さんにお渡しした土地改革の後の農業生産システムの構図(図Ⅱ参照)を見てもらいたいん です。前方関連部門と直接生産過程と後方関連部門と書いてありますが,直接生産過程の担い手 は個人農民で,前方・後方関連部門の主体者は,農産物の買い付け業者や農業書資材の販売者に なります。この役割はのちに信用協同組合と購入販売協同組合という組織が担うことになりま す。ただし,この時期,まだこれらの協同組合が十分な役割を担うまでには至っておらず,民間 の専門業者や個人業者のほうがはるかに影響力が大きく,農産物を買い付けていくんです。とく に経済作物の綿花や油料作物は農産物加工原料として民族ブルジョアジーのほうに流れていく。

こうなると農民にも当然,価格インセンティブが働きます。だから,民族ブルジョアジーの経済 も成長していくことになります。こうした動きは,当初は当然と認めていた毛沢東でしたが,次 第に危機感を持つようになり,敵対的矛盾の元凶と考えるようになっていきます。

毛沢東は中国社会の当時の矛盾についてこう述べています。「主要矛盾は,プロレタリアート と民族ブルジョアジーの矛盾」ではないかと。ただし,当時の中国に近代的労働者は,120万い るかいないかですから,このように階級的矛盾と言えるかどうかは疑問です。しかし,彼は独自 の哲学である「矛盾論」に社会理解と政治的なカリスマ性を発揮して,新民主主義から社会主義 へ移行すべき時期にあるという主張を強めていきます。当時の他の中国共産党の指導者である劉 少奇や周恩来との間での社会認識のずれが明確になります。毛沢東は新民主主義社会の秩序を確 立すべきと主張していた指導者たちを社会変化とその矛盾を理解しない,停滞論者として痛烈に 批判します。

3.第一次五カ年計画の重工業化路線と農業集団化

1953年,毛沢東の意向を反映した「過渡期の総路線」が提起され,いよいよ中国はソ連の中 央指令型の計画経済による社会主義社会の建設へ向かって舵を切ることになります。農業ではソ 連でスターリンが農業集団化を推進したことを述べましたが,中国でもそれを始めると宣言した わけです。この生産手段所有制の社会主義改造が終わるまでが1つの過渡期だという考え方を示 します。この過渡期の目標は2つあります。ひとつは生産力の面では社会主義工業化の基礎を築

図Ⅱ 土地改革後の農業生産システムの構図

(13)

くこと,もうひとつは生産関係面における社会主義的改造を進めること,いわゆる農業や商工業 の国営化と協同組合化,中国語では「合作化」と呼んでいますが,こうした集団的経済組織へ個 人経済を抱摂していくことです。

ただし,農業集団化の見通しとしては,3回の5カ年計画で一応の土台ができるだろうと。そ して50年,つまり10回の5カ年計画でやれば,まずまず何とか格好がつくんじゃないかという 構想で第一次5カ年計画を発動します。この時の構想の土台はソ連ですから集団農業生産組織は コルフォーズで,その生産力を支えたのがトラクターです。つまり生産関係としてのコルフォー ズ,生産力としてのトラクターがモデルでした。中国では高級合作社がこれに当たります。

表3 1・5計画期の工業部門内投資比率 軽工業 重工業 1952年 14.4% 85.6%

53 17.8 82.2 54 17.6 82.4 55 12.3 87.7 56 13.8 86.2 57 15.2 84.8

さて,第一次5カ年計画の工業部門内の投資比率(表 3参照)を見てください。投資比率から重工業偏重であ り,第一次5カ年計画は重工業優先計画だということ分 かります。ソ連の重工業投資比率が80% ですが,それ を上回る85% です。軽工業は消費財生産部門と言われ,

国民の生活に関連している部門ですが,これは極端に抑 制されていると言えます。さらに重工業というのは,全

部が出来上がって1つのプラントとして稼働するまでに数年かかるわけです。だから,もし工業 の内部でもって蓄積メカニズムが働くといいのですが,そうでない限りは,他部門からの蓄積に よらざるを得ません。この重工業化のための資金供給源が農業であり,その蓄積のための方策が 農業集団化を推進するというソ連と同じ方式を採用しました。

ここで重工業化の蓄積メカニズムというものがどういうものだったのかを見ておきましょう。

重工業の資金は,2つの軽工業生産部門にあります。この2つが実は稼ぎ頭です。しかも両方と も農業と生活に深く関わっている分野です。食品工業と繊維工業です。原料は当然農産物です。

実はこの2つの部門からの国家納入金が重工業に投資されるという構図が見て取れます。このメ カニズムを指摘したのが小島麗逸氏なのですが,これは食品工業部門の国家納入額,つまり言う なれば利潤だと思ってくれてもいい。これが国家に納められたのが150億元です。そして同じく 繊維工業が国家に納めた納入金が100億元です。その翌年,重工業に投資されたのが250億元。

つまり,この両部門の総計が重工業投資額に相当しており,重工業化の資金がこの両部門によっ ていたことが分かります。

また,1953年から徐々に重要な農作物や工業製品については,国が公定価格で統一的に買い 付け,公定価格で統一的に販売する制度が開始され,政府の管理する製品項目が多くなっていき ます。とくに食糧の義務供出は,都市労働者人口を支えるものでしたから政府は買い付け価格を 低くし,労働者に安価な食糧供給を行いました。1954年には,農民からの食糧買い付け量が過 大となり農村で食糧よこせデモが発生しました。綿花等の経済作物も統制され,それが工業化の 蓄積に大きく寄与したと言えます。ちなみに56年の統計ですが,豚肉の国家買い付け価格は37

(14)

農業生産合作社 預金

生産物など販売物

・集団所有制経済(=農民は社員)

・土地や農具など生産手段の共有

・経済採算単位 農業諸資材の販売

下達 融資・配当

直 接 生 産 過 程 前方関連部門

信用協同組合

後方関連部門

購入販売 協同組合

中国農業 銀行

中国人民

銀行 国家計画の指令性 国営商業

指標(食糧・綿花など)

元/50kgに対し農村販売価格は54元/kg,同様にたばこは22元に対し45元,ジュートは黄麻 のことですが14元に対して30元などといった具合です。

ちなみに,この時期の農民たちの所得は約300元です。都市の労働者の賃金と農民の年間所得 と労働者の年間賃金と格差は,農民を1としたら大体都市労働者の平均は1.8から2です。この 所得・賃金構造は文化大革命終了ぐらいまでほぼ変化せず続いていきます。

第一次5カ年計画期の重工業化の蓄積メカニズムを根本で支えた農業部面,とくに生産関係の 変化である,農業の生産手段所有制の社会主義的改造,すなわち農業集団化について見ておきま しょう。このねらいは工業化資金源として農業を再編することにあります。それが農業集団化で す。さらにこの組織化は,コストのかからない行政的仕組みとしての意味も大きかったと言えま す。しかし,中国とソ連では工業化の度合いの違いもあり,毛沢東はスターリンの集団化に対し て懐疑的だったこともあって,より段階的に進めることを考えていました。その段階とは,農業 生産互助組から初級農業生産合作社へ,そして高級農業生産合作社,これはソ連のコルフォーズ に当たります。ここに至るのに先ほどの年月が必要と考えていました。

さらに先にも述べましたが前方・後方関連部門である供銷合作社や信用合作社と農業資材,資 金,買い付けなどのサービスを国の行政部門に直結させました。例えば農業銀行は中国人民銀行 へ,信用合作社は最終的には商業部に結び付ける。ですから農民たちのわずかながらの貯金や,

信用合作社への出資金はこのルートで中央政府の資金として吸収されていく,こういう構造をつ くり上げました。図Ⅲは農業集団化によりつくり上げられた生産システムを示しています。

しかし,この農業集団化,中国では農業生産合作化と言いますが。この動きについてもしだい に指導者間に認識の差が生まれていきます。毛沢東は急速な工業化を意図しており,そのために も農民たちを合作社に組織することが必要と考えました。劉少奇は生産と経営基盤を合作化の段 階を経て固めていくべきと考えていました。

ここで少し農業生産協同組合の形態の違いを皆さんのお手元の資料で説明しておきましょう。

農業生産合作社の経営状況の表(表4参照)を見てください。ソ連の経験にない組織形態は,初 級農業生産合作社です。高級合作社,ソ連のコルフォーズと初級合作社の違いは,土地などの生

図Ⅲ 農業生産合作社の生産システムの構図

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産手段にも報酬があるという点です。これは土地などの生産手段を一挙にみんなの所有物として 共有化してしまうのではなく,土地改革で農民たちの中には,土地を多く持っている人もいれ ば,牛や馬,犂などの大型農具を持っている人もいます。だからその生産手段を株で評価し,そ の持ち株によって報酬に差があっても良いとする段階を設定したほうが農民の理解を得やすく,

合作社の有益性を実際に示して農民を組織化していく党の方針に合致するという考えにもとづい ています。この経験を積みながら,ここで徐々に経営ノウハウを獲得し,合作社の優越性を示す ことにより農民は共有制に納得し高級合作社へと進んでいくことができると。高級合作社では,

完全に土地も生産手段もみな共有化して,労働に応じた,働いた分だけのものを皆がもらえるよ うになるわけです。ただ,ソ連のコルフォーズとの違いは結局どこにあるかというと,コル フォーズの経営構造の表(表5参照)を見てください。国家への供出があって,2番目にMTS への現物支払いとありますね。これが違いです。MTSというのは国家トラクターステーション です。だからソ連の場合は,MTSに賃耕してもらう。その代金が国家財政へ入ることになりま す。ところが中国の場合には,MTSに対する支払いはありません。ある意味では工業力の差が 見て取れます。結局は中国の場合,高級合作社であっても,先ほど言った中国の伝統的な農業技 術を農村の過剰労働力を投入し,合作社の大面積に全面開花させて生産の向上を図る。トラク ターに相当する生産力は,畜力という構造を大きく変えることはできなかったのが現状でした。

表4 農業生産合作社の経営状況―初級社と高級社の比較―

農業税 生産費 公積金 公益金 分 配

労働報酬 土地報酬 その他

全社平均 4.1 25.3 4.0 1.0 46.5 17.8 1.3 高級合作社 6.7 30.1 6.1 1.1 53.2 ― 2.7 農業社 9.5 25.9 6.3 1.3 54.3 ― 2.5 蔬菜社 3.4 33.9 5.6 0.8 53.2 ― 3.0 初級合作社 3.9 25.1 3.9 1.0 46.1 18.8 1.2 農業社 4.2 24.5 3.8 1.0 45.7 19.6 1.2 蔬菜社 0.7 32.5 4.8 0.9 52.3 6.7 2.1 出所)佐藤真一郎著『農業生産合作社の組織構造』アジア経済研究所,1963年

注)原資料は中国国家統計局農業統計司が1955年に実施した農業生産合作社2.7万社の調査による 表5 コルフォーズの経営構造

(単位:%)

1937年 1939年 A 国家への供出 27.6 37.5 1.強制徴収

2.MTSへの現物支払い 3.借入種子の返却

12.2 13.9 1.5

14.3 19.2 4.0 B 国家・自由市場への販売 4.8 4.0 C コルフォーズの必要量・予備貯蔵

1.種子 2.飼料 3.共済積み立て 4.その他経費

31.7 16.3 12.7 1.1 1.6

35.9 18.2 13.9 0.8 2.7

D 分配 35.9 22.9

出所)ラデジンスキー『ソ連農業の社会化』p.121,岩波書店より

(16)

しかし,毛沢東は当時の国家主席劉少奇が初級合作社の多くを解散させたことに腹を立て,

1955年に地方の党書記を集めて「農業合作化問題について」という講演で「纏足のよちよち歩 き」と合作化に慎重な劉少奇を痛烈に批判します。劉少奇はトラクターを保有できなくても「3 頭の馬,犂1台,荷車1台の農民8割」になったら合作化を円滑に進めることができると考えて いたようです。しかし,毛沢東は農民の積極性を捉え,突き進めと農村幹部を叱咤激励します。

地方幹部たちは,毛沢東の指示を自分たちの村に帰ったりして,一斉にやり始める。そして,農 業集団化の進展状況は,表6を見て分かるとおり55年には統計数値として現れなかった高級合 作社化が56年末には全国的組織化を完了してしまいます。段取りを追って,初級合作社の中で 経営のノウハウなどの経験を蓄積してやっていこうという当初の構想は吹き飛んでしまったわけ です。この状態は,ソ連の生産力としてのトラクターそして生産関係としてのコルフォーズと比 較すると生産関係では同様な所有形態でしたが,生産力は畜力農具にすぎませんでした。この中 国の状態は「進んだ生産関係,遅れた生産力」と表現されましたが,この後の人民公社でもこの 状態は変わらなかったと言えます。

さて,この現実の中で生産力の基盤と向上を目指し,56年ころから2つの農業技術改革案が 出されます。その1つが,双輪双鏵犂というソ連からの新しい大型耕作農具の導入,そして,も う1つは青森5号という水稲品種の導入です。これは日本の品種で,耐寒品種と言われています が,これを華中など南方にも植え,大減産になります。双輪双鏵犂という農具は,馬耕用で重く て牛では引っ張れないんです。それで双輪,2つの車輪が付いて畑作地帯では多少は使えるけれ ど,水田地帯は駄目なんです。そこで車輪をソリに変えたりしますが,使い勝手が悪く,価格も 高いことから納屋に置かれたままになった。使われずに休眠状態になった犂だから「睡犂」と皮 肉られて呼ばれていたようです。では農民たちはこの合作化の動きに抵抗しなかったのか。消極 的ではありますが,その形跡は豚の飼育頭数の激減にみてとれます。屠畜して食べてしまいま す。ソ連では役畜としての牛に同様な現象が起き,農業生産に大きな影響を与えました。

合作化の中で起きた農業生産技術の導入失敗により合作化への悲観論が生まれてきます。これ をうち破るのが旱魃に対抗しようと河南省で起きた水利建設運動で,実はこの動きが人民公社の 成立といわゆる「大躍進」の起因となっていきます。

表6 農業生産合作社の進展(農家組織化率%)

年 互助組 初級合作社 高級合作社 互助・合作化 1950 10.7 ― ― 10.7 1951 19.2 ― ― 19.2 1952 39.9 0.1 ― 40.0 1953 39.3 0.2 ― 39.5 1954 58.3 2.0 ― 60.3 1956 50.7 14.2 ― 64.9 1956 ― 8.5 87.8 96.3

(17)

農民の集団労働投資

農具・工具など建築資材 の重要の急増

農村 工業化

農村向け必要製品の生産

(鉄・セメントなど)

土法製鉄

中央工業の再編地方 製鉄,農業生産財や資材

地方中小製鉄 工業の建設

自給経済圏 の構想

4.大躍進と労働蓄積による社会主義農村建設

旱魃に対抗すべく発動されたこの水利運動建設は,高級合作社の枠を超えて行わねば効果が期 待できない。とすれば合作社が共同でやれば多くの労働力を合理的に活用できるという考えに行 き着き,いくつかの高級合作社が合併して新しい組織をつくり,それを人民公社と名付けまし た。毛沢東は地方のこの動きを全国的な運動へと推し進めていきます。1958年毛沢東の提起に より「社会主義建設の総路線」が採択され,毛沢東版の高度経済成長路線が開始されます。その スローガンは「大いに意気込み,高い目標を目指し,多く・はやく・立派に・無駄なく社会主義 を建設しよう」というものでした。この運動の中心は人民公社の成立にありました。人民公社に おける農業建設の特徴は,大衆動員をして,圃場の整備だけでなく水利やダムの建設などの農業 インフラとも言うべき,いわゆる固定資本形成にまで向かったことです。小島氏による水利建設 の経済試算では,国家基本建設投資と比較してみると58年の大型建設コストを基準した計算で は270% にものぼり,小型工事のコストを基準としても30% を占めることになる。これが大躍 進期の農業建設における最大の特徴である労働蓄積,あるいは農民による集団労働投資と言われ る方式であり,この方式が農業建設の基本となり,継続されていくことになります。文化大革命 期から改革開放政策直前まで農村・農業建設と「自力更生」のシンボルとされた「農業は大寨に 学ぶ」運動は,まさにこの延長にあるものだと言えます。

また,この動きは大量の工具や機器,そして建設資材の需要へと連動していきます。すると,

これら資材や機械・器具を供給するために中央工業の再編が必要になってきます。ここに至り重 工業の大型プラントからようやく農業向けの工業部門に目が向けられるようになり,中央の工業 再編が始まります(図Ⅳ参照)。

図Ⅳ 大躍進による経済再編

(18)

ところが他方で,この工業部門の再編はすぐにはできませんから,必要な農具くらいの鉄を自 分たちで造ろうということから鉄づくりの運動が開始されます。土法製鉄と言います。このよう な動きの背景には工業化は鉄に象徴されるという認識があり,製鉄鉄鋼生産でアメリカを追い越 せというスローガンが掲げられていました。しかし,この方法で造られた鉄は,ほとんど使い物 にならなかった。さらにコストからみると1トン当たり600元ですから,工場で製造される鉄の コストの6倍という指摘もあったほどです。そこで,この中央工業の再編は容易ではないことか ら,もう少し地方にも中小の製鉄工場を建設して,農村に供給できればいいだろうということを 考えて,今度は中央の大型から地方の中小の製鉄業を軸にした自給経済圏を構想していくことに なります。そのためには農村に必要な工業を起こしていく,いわゆる「農村工業化」という構想 が生まれてきます。ちなみに大躍進初期には,年間のべ人数で水利建設と土法製鉄に2.6〜2.8 億人の基幹労働力が動員されたと言われています。

人民公社と大躍進による農業建設は,共産主義の到来をも予想させ,その中で来るべき共産主 義社会の人間像と社会像を次のように描きました。そこには都市化した農村,仕事をしながら学 べる環境と多能な人間像が描き出されています(図Ⅴ参照)。

大躍進で行われた農村・農業建設の動きは,農民の集団労働投資による固定資本の形成,これ を労働蓄積と言います。結局,農村における農業に必要な基盤整備は,中央政府からの資金をほ とんど使わずに行ったと言うことになります。基本的には,この考えと方法が改革開放政策まで の農業政策の基本と考えて良いと思います。しかし,この大躍進運動は,国民経済のバランスを 大きく崩す結果を生みました。また,「政社合一」と「一大二公」,前者は単なる生産組織ではな く政治行政機能を持った社会組織という意味であり,後者は生産手段などの共有化水準が高く規 模が大きいという意味ですが,その人民公社への組織移行は1年も経たずにほぼ全国で完成しま す。人民公社の成立は,共産主義社会の到来という妄想,これは「共産風」といわれる風潮を生 みました。また先に述べた労働蓄積を行う上でこの組織による労働力の調達機能は有効性があっ たと言えます。また,この労働力の調達は,女性労働力の社会化を進めました。しかし,基幹労 働力が水利建設などの重労働に動員されたため圃場の農業労働は女性と老人が担うことになり,

これが自然災害と相まって農業生産に大きな損害を与えることになりました。また,このような 大規模な組織体を経営する能力は不足していました。大躍進が人為的失敗,政策的失敗といわれ るゆえんです。とくに農業生産への打撃は大きく,多くの餓死者を出しました。

5.経済調整と「農業基礎論」の成立

毛沢東が指導した大躍進の失敗は明確になり,彼は政治の第一線から引くことになり,劉少奇 や鄧小平らを中心とする,いわゆる実務派の人たちが「調整・強化・充実・向上」のスローガン を掲げ,国民経済バランスと生産の回復を基調とする政策に着手しました。この中で人民公社で は,「整社」が実施されます。合作社の経営経験もないままに人民公社間で突き進んだことから,

(19)

図Ⅴ 共産主義社会の農村と人間像

出所)小島麗逸編著『中国の都市化と農村建設』龍渓書舎,pp.370―380

(20)

経営組織としての機能を人民公社のままで持たせようとする動きと言って良いと思います。その 最終的な人民公社の組織構図が皆さんの資料に示した図Ⅵです。これは「三級所有制にもとづく 人民公社」と言われ,かつての合作社を基本単位に構成されていることが分かると思います。こ の人民公社も集団所有経済単位という位置づけでしたが,実態は中央政府の農村末端組織でし た。行政的には公社の管理委員会幹部の一人が中央政府から派遣され,党組織としては生産大 隊,かつての高級農業生産合作社に当たりますが,ここに支部が置かれています。中国の古代か らの歴史的にみてもこの地方レベルまで中央の管理支配体制が築かれたことはないのではないか と思います。また,公社に課された課題は,食糧生産と軽工業原料作物の生産向上でした。その ために生産を農家に請け負わせる方法,「包産到戸」など改革開放後の農業生産責任制と言われ る方法が認められました。

また,大躍進期までの重工業の発展速度と規模の調整にも着手しました。とくに経済建設では 農業発展計画を基本に策定する「農業基礎論」,正式には「農業を基礎とし,工業を導き手」と

公社管理委員会 生 産 組 耕種・畜産・工業生産 商業・信用・購入販売サービス 国家幹部:行政管理者

地方幹部:社員代表大会で選出 政治工作組 教育,衛生,思想宣伝

①指令性指標の決定と下達

(作物の品目,作付け面積と生産量,

単収,種子と肥料)

②労働力の調達

③工業企業の経営

(農業機械の組立工場・修理工場,農 産物加工場,機械部品の製造工場)

④種豚場の経営

⑤病院の経営

組 織 組 生産大隊と生産隊の幹部管理

革命委員会

事 務 室 日常の事務業務一般

生 産 大 隊 (高級農業生産合作社) 地元幹部が生産を指導 共産党支部が設置

学校,診療所,日用品の販売店の設置 200〜300戸(行政村レベル)

生 産 隊 (初級農業生産合作社)

生産小組 実際の生産を担う単位

(5〜6戸)

土地・その他生産手段の所有単位,土地 の使用と管理

生産計画と労働力配置の検討と実施 毎日の作業計画と労働管理 20〜30戸(自然村)

図Ⅵ 人民公社の組織と機能

(21)

する発展方針が確定されました。他方,大躍進の中で進められた農村工業化は伝統的手工業と一 部の工業を除き中断されます。ある意味で経済は中央集権化が強められ,技術,産業立地,産業 部門などで効率的な選択・重点投資が実施されました。例えば,農業生産財では農業機械と化学 肥料,合成繊維とプラスティックの石油化学工業,魔法瓶・万年筆・などの輸出用耐久消費材と いうように。また化学肥料やプレス機械では独自のプラント技術の開発にも成功しています。

工業の発展は最終的には農業の発展に依拠するという「農業基礎論」が社会主義経済建設の基 本方針として明確に位置づけられたことは,当時の中国の経済状況からも十分な合理性を持って いたと私は考えています。時間が押してきました。急いでまとめに取りかかりましょう。

6.まとめ―文化大革命革期・華国鋒時代の経済―

毛沢東は政治的権力を回復すべく文化大革命を発動しました。その根拠が経済調整期の方法が 社会主義に逆行するものであるという認識,つまり経済的自由の容認を逆行と捉えたと言えま す。この時期に三代差別,つまり都市と農村・農業と工業・肉体労働と精神労働の解消が唱えら れました。そのための典型モデルが経済建設方式や経営方式,人間像などでも示されました。先 ほど大躍進のところでも少し触れましたが,「農業は大寨に学ぶ」運動は,労働蓄積方式を再評 価したものでした。ただし,「農業基礎論」は放棄されたわけではありませんでした。文化大革 命の混乱は1969年には終息し,経済水準も文化大革命前に回復しました。周恩来が政治の前面 に出て提案した73年の「四三方案」は外資導入計画も含まれており,大躍進と文化大革命の基 調スローガン「自力更生」路線からの脱却をねらったものでした。文革派の「四人組」の妨害は あったものの,75年には「四つの現代化」が提起され,改革開放への動きは進んでいたと言え ます。農業では「食糧を要」とする方針から山間部の限界地でも食糧作物の作付けが進められま した。ここでは人力に頼るでしか成立しない農業で,その意味で「自力更生」と「大寨方式」を 強調せざるを得なかったとも言えます。

「四人組」逮捕後,華国鋒時代はスローガンとしては文革,経済建設では「四つの現代化」と いう混在したものでした。また,農業では「増産すれども増収せず」という実態の中で農民の生 産意欲の停滞が注視され,人民公社生産隊の経営自主権の尊重と経営の多角化が推奨されていま した。

さて最後になりますが,中国の社会主義経済建設は決して順調でなかったこと,さまざまな試 行錯誤の中で多くの問題を抱えて進められていたと言えます。しかし,これまでの建設の中で農 民が大きな役割を担わされ,厳しく表現すれば大きな犠牲を払いながらも,それを果たしてきた ことは間違いないと思います。配付した毛沢東時代の表7の統計を見てください。文化大革命期 の後期ころには,一人当たり食糧供給量は300kgに到達します。図Ⅶを見てください。これは 経験数値からの区分ですが,1人当たりの食糧供給量が250kg以下だと飢饉が発生すると言わ れています。それが300キロを超えると主穀,言うなればご飯で腹が満たされる段階になりま

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