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生命倫理と環境倫理

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生命倫理と環境倫理

生 嶋 素 久 宮城大学看護学部

キーワード

 生命共同体、生の質、生態系、DNA

 bio. community, quality of life, eco−system, Deoxyribonucleic Acid

要  旨

 エシックス(ethics)とは、ギリシャ語のEthos(エートス、精神)を語源に持つ。そのカテゴリーは、個 人・職業・社会上の規律と規範のことである。最初は個人を律することから始まり、家族、社会へと広がって いった。倫理とは「正しい行動とは何か」「いかなる行動が義務を伴うものであるか」という決定を下すことと される。このエシックスが、いま大きく揺らいでいる。生命倫理(bioethics)と環境倫理(environmental ethics)のあいだで。その「ゆらぎ」を問い直すことが、現代の抱える問題へのテーゼの一つとなりうる。

 結論をのべるなら、環境倫理が地球上の生命共同体全体の生存を主張するのにたいし、生命倫理は、個々人の 生命を最優先課題とするものである。それゆえ、生命倫理と環境倫理とは、生命を尊重する点で一致しながらも、

見る視点が、個か全体かで大きく異なることとなる。

Bioethics and Env甘onmental Ethis

Motohisa lkushima Myagi miversity School of Nur団ng

Abstract

 The term ethics is derived from its Greek origin, Ethos. It referrs to the disciplines and norms on the part of individuals, occupations, and society. Individuals were first disciphned, and then families and s㏄iety, as the Concept came to be applied more widely. Ethics is conceived to be able to determine what a

correct behavior is, and what behavior involves what obligations. Today sethics, however, fluctuates wideiy particularly between bioethics and environmental ethics. By rexamining this fluctuation, we may

arrive at a theme that bears most urgently on the problems of the contemporary world。

 One of the conclusions rearched here runs as follows:Environmental ethics adopt a holistic perspective

by looking at the earth as a bio−community and taking humans to be only a part of the eco−system, while

bloethlcs not only identifies human life as merely a unit of living entity on earth but tries to arrive ultimately

at a kind of life each of which is endowed with personality .

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1 生命倫理

 価値が時代とともに相対化し、変化する中で、「生 命」は常に絶対的価値を持ち続けてきたものである。

 モーゼ十戒の中にある「汝、殺すなかれ」という 戒律は2㎜年余の時空を超えて動かしがたい重みを 持って、われわれ人間の心と精神を律してきた。死 を恐れる気持ちは、当然ながら生命を尊ぶこととな る。本稿では、医の倫理でメインテーマとなってい るヘルシンキ宣言に基づく生命倫理を論ずるもので はない。生命倫理には、人間尊重dignityが根底に あり、その視点から考察していくこととする。

 生命は誕生し、成長し、老化し、死を迎える。個 体の死は終息であり、すべての終わりである。それ ゆえに、霊魂の不滅と救済の思想がうまれたのだが、

ここで注目することは、自然死であれ、事故死であ れ、生死が人知の及ばぬところで決定されていた時 代は、すでに終焉してしまったことである。

 1.「見えざる手」から「人の手」へ

   人類史上、現代に至るまで生死をめぐるわれわ   れの経験則は、変わることがなかった。それが、

 初めて生と死の概念が一挙に激変しようとしてい   るのである。人の生死が、「見えざる手」から「人   の手」に委ねられる時代となったのである。これ   は、脳死判定が一つの典型である。脳死か心臓死   かという問題のとき、脳死判定には、心臓死後に   当然起こる脳死を考えに入れていない。しかも脳  死(brain death)という言葉、概念が登場する   のは、バーナードの心臓移植の翌年に当たる1968

  年のことである。

   生命維持装置の高性能化が、進んだこともある。

  脳幹死(cerebral death)に至らず脳機能喪失の   ため植物人間となった患者は、いつまでも肉体だ   けは生き続ける。これが脳死と違う点である。脳   死者は人工呼吸器の助けがなければ、心臓死とな   る。人工呼吸器をはずせば、肉体の死がやってく   るとして、はたして装置をはずす決定を誰が下す   のか。安楽死の問題でもある。

   このように、生死が「見えざる手」から「人の   手」に移ったケースは、現在、急速にふえてきて

  いる。

   カレン・クラインの尊厳死。脳死判定と臓器移   植、試験管ベビー(体外受精)、クローン・ヒッ   ジ、遺伝子操作といった医学上・生物学上の問題   が次々と起こっている。

  科学史上、「コペルニクス的転換」とカントが 呼んだようなパラダイムの転換が、生死において  も起こっているのである。このパラダイム転換に

当たって新たに生命倫理学が必要とされるに至っ

 た。

  このような背景のもとに、1970年前後を境にバ イオエシックスという生命倫理を問う学問が誕生  し、おびただしい論文が発表されるようになった。

  バイオエシックスは、学際的に広範囲にわたっ ており、人の生命に影響を及ぼすすべての問題を 対象にしているのである。

2.クローン・ヒツジ

  クローン人間の製造を禁止しても、クローン人  間の可能性が現実の射程距離に入ってきた今と  なっては、20年ほど前の騒ぎは、一つの予言でも  あった。

  アメリカのジャーナリスト、デヴィド・ロー  ビックが、「複製人間の誕生」という著書を発表  し、「クローン人間現れる」と大騒ぎした事件が あった。アメリカ合衆国議会は小委員会を作って、

 クローン人間誕生が真実かどうか、検討に入った  ものであった。騒ぎは、大きくなったが、結局、

 当時は作り話と判明して実にあっけなく幕となっ  てしまった。しかし、この20年のあいだにクロー  ン技術は、着実に進んだ。

  ところで、生物のクローンの歴史は40年近く潮  ることとなる。すでに、1960年にクローン・カエ  ルが、オックスフォード大学のジョン・ガードン  によって作られている。彼は、カエルの受精卵か  ら遺伝子のはいっている核を抜き取り、代わりに  オタマジャクシの腸の細胞から取った核を入れて  みた。すると、カエルは発生過程を通って、立派  なカエルに育っていた。腸の細胞であっても、D  NAは、一匹のカエルに育つ遺伝子をすべて備え  ていることが確認されたのである。しかし、生殖  過程を経ることなく、細胞の核によって個体が生  まれるというクローニング(同じ遺伝子を持つ生  物グループ)に成功したのは、その後長いあいだ  アフリカツメガエルのみであった。

  クローン・カエルから21年たった1981年、ネズ

 ミのクローンに成功したという報告は、世界中に

 大きな波紋を投げかけた。カエルのクローン出現

 には、さほど反応しなかった世論が、ネズミとい

 う哺乳動物のクローン誕生には、ビッグニュース

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となって騒いだ。哺乳動物のクローン誕生はヒト により近ついたということを示唆していた。先に 記したクローン人間出現の騒ぎも、このころのこ

とであった。

 ジュネーブ大学のカール・イルメンゼーのグ ループは、胚の核を卵に移植して同じDNAを持 つ三匹のクローン・ネズミを誕生させた。この実 験は、発生の初期の胚の段階ならクローンは可能

であることを示した。

 続いて1982年、スーパーマウスが誕生する。

ラット(大型のネズミ)から取った成長ホルモン の遺伝子をマウスの受精卵に注入したところ、通 常のマウスの二倍の体重を持つマウスに成長した。

これは違う種類の遺伝子が動物の体内で立派に働 くことを示した貴重な実験となった。

 さて、1997年2月、イギリスの研究グループが、

世界初の体細胞クローン・ヒツジ「ドリー」の誕 生を報じた。(Asheep who was clonedfrom

the mammary cell of an adult ewe)

 さらに、人間の遺伝子を注入したクローン・ヒ ッジ「ポリー」の誕生が続いた。ポリーは人間の 血液凝固因子を作り出す遺伝子を卵子に組み込み、

血友病の治療薬となる成分入りの乳を出すヒツジ

である。

 クローン技術や遺伝子組み替え技術(recomb−

inant DNA technique)が急速に進んでいること

を示す研究であった。

 アメリカのクリントン大統領は、敏速に行動し た。クローン人間の研究に国家予算を使うことを 禁止し、国家の倫理委員会に諮問した。諮問委員 会では、90日かけて答申をだした。クローン人間 の研究を5年間禁止するというものであった。フ ランスやイギリスなどでは、すでにクローン人間 を法規制しているが、1998年1月12日、クローン 人間を禁止する初の国際協定が欧州会議倫理委員 会で調印された。クローン人間づくりに対し、各 国の禁止の動きは同じであるが、畜産や科学研究 のためにクローン技術を応用する価値は大きい、

と学会や産業界では強く期待している。

 これまで、家畜の世界では、受精直後の分裂を 始めた受精卵をバラして、人工的に四つ子などの 牛をつくる技術は実用化されている。これは、受 精卵クローンである。ドリーが成熟したヒツジの 体細胞からつくられた体細胞クローンとは、まっ

 たく違うものである。

  クローン技術は家畜まで許容されており、人間  には禁止といってみても、基礎研究は進んでいく。

 ヒトに免疫拒否反応を起こさない臓器つくりに、

 ブタやマントヒヒにヒトの遺伝子を組み込みのた  めに、クローンをつくり量産することも考えられる。

  やはり、クローン家畜の研究は、家畜の段階に  止まらない。ヒトとの関係を深めていく。クロー  ン人間(human cloning)は、遺伝子が同一で  あっても、コピー人間とは違う。誕生時期の異な  る「一卵性双生児」と言える存在である。姿、形  が同一でも、別の人間であり、別の人格である。

 やはり、ヒトは、別の人格を持つ人間を作り出す  領域まで踏み込んでよいのか。まして、臓器提供  のために、クローン人間を作り出すこととなった

 ら、どうなるか。

  生物はこの地球上に先ず単細胞として生まれ、

 雌雄の遺伝子を混交することで、多様な子孫を残  す性の仕組みが出来た。これが進化の歴史である が、体細胞から同一のDNAであるクローンを作  ることは、性の仕組みを無視しており、生物の進  化と逆行することとなる。環境に適応した生物の  みが生き残るという自然の掟に逆らうことでもあ  る。やはり生命倫理バイオエッシクスが問われる

 こととなる。

  クローンとは、ギリシャ語で「小枝」を意味し、

小枝を挿し木すると、根が出て、花が咲き、立派  な一本の木に育つ。植物ではクローンは見慣れた  ことだが、ヒトを挿し木と同じレベルで考えるこ  と自体、許されることであろうか。

3 尊厳死と生の質

  患者と医師のあいだでインフォームド・コンセ  ント(lnformed consent)がいかにして成立した のかは、医の倫理という観点において、バイオエ  シックスの最も重要なテーマであるが、ここでは、

尊厳死と生の質(quality of life)について触れ

ておきたい。

  人間として善く生きることは、人間らしい死に 方をすることと結びつけて考えられている。

 尊厳死(death of dignity)をめぐり、医学哲 学者H.T.エンゲルハートは、次のように論じて

いる。

 人の生には、「生物学的な生命」と「人格的

生」とがあり、前者には価値のみがあり、後者に

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は、理性を持つ人間として自己決定権がある。こ れが尊厳死を容認する根拠とする考え方である。

 一方、E.W.カイザーリングは、生命を「生の 神聖」と「生の質」の二つに分けた。今まで生命 の神聖を強調するあまり、生命の延命思想が強ま り、医療は治療を第一とする傾向を生み出してき た。しかし、大事なことは患者を最後まで人間と

して看取るケア(care)であり、ケアが、「生の 質」を保証するものである、と主張した。延命治 療を排し、生の質を重視するケアの思想である。

その最終決定は、患者の自己決定ということにな

る。

 エンゲルハートにせよ、カイザーリンクにせよ、

生命を質と量という二元論的に捉えている。これ は、デカルトが「考える自己」を発展させ、精神 と物質という二元論の哲学体系を確立させ、近代 ヨーロバの哲学体系を作って以来の伝統的な発想

に通じるものがある。

 人間らしい最期をということは、尊厳死をさし ており、この自己決定権は、生命倫理の重要な課

題である。

皿 環境倫理

 1.ランド・エシックス

  環境倫理学の先駆的役割を果たした人物として、

  アルド・レオポルド(Aldo Leopold)があげられ   る。レオポルドは、ランド・エシックス(land   ethics)の提唱者として知られる。

   ランド・エシックス(土地倫理)とは、レオポ   ルドの遺稿である「Asand country almanac」

  (1949)の中に書かれている思想である。ランド   とは、水、土壌、大気、植物、動物、を含めた生   命共同体のことであり、生態系と考えることもで   きる。レオポルドは、「ヒトという種の役割を、

  土地という共同体の所有者・征服者から一構成員   に立場を変えること」を主張する。

   元来、自然には、生態系を維持するシステムが   内臓されている。しかし、人間が自然に手を加え   た結果、その秩序が変化し、最早、維持・回復す   る能力を喪失した事態が、各地で起こり、地球規   模にまで広がっている。

   レオポルドのランド・エシックスの思想を強く

  受けたベアーズ・キャリコット(J.B.Cllicott)は、

  ランドの生命共同体を継承して、地球全体主義へ

 と拡張しようとしている。ランドを地球まで拡張  したとき、有限な地球という枠組が見えてくる。

拡張の極が有限となると、有限な資源やエネル  ギーの姿が、浮かんでくる。当然、人間の自由な

経済活動や欲望は、制限されることとなる。

2 環境主義ヘ

  リオの地球サミット(1992)を受けて開催され  た1997年末の京都会議は、地球温暖化を防止する  という本来の議題より、各国の利害対立のみが、

 浮き彫りとされることとなった。

  環境問題は、あらゆる問題と相互に関連をもっ  ている。たとえば、エネルギー問題、食糧問題、

南北問題、人口問題などである。

  「豊かな社会」 (ガルブレイス)を目指すとい  う近代進歩主義は、地球が無限であり、資源エネ  ルギーが無限であるという前提に立っていた。し  かし、事実は、地球は有限であり、閉じた系で

 あった。

  有限な地球でヒトが爆発的に増え続ける問題は、

 環境破壊と環境汚染をより深刻なものとしている。

 1980年以降、年1.7%の伸び率で急速に増加を示  している。1996年に58億人を突破し、翌97年には、

 60億人に達したとみられている。

  国連環境計画(UNEP)ガ、1996年4月に発表  したレポートによると、「2025年までに83億人に  なり、2050年には100億人に達する」と指摘して

 いる。

  世界の人口を歴史的にみると、西暦元年ころ3  億人であったものが、長い間、緩慢に増加を続け、

 1600年には約5億人であった。産業革命が始まっ  た1750年には7億人であり、1900年になると16億  5000万人となった。1950年に25億人となり、この  20世紀後半50年は幾何級数的な増加を始めている。

 1950年から37年間で2倍となったことになる。

  人口の急激な増加は、産業革命が起こり人間の  経済活動が急速に高まった時期に始まる。20世紀  後半50年間に拍車がかかり、ことに発展途上国に  おける増加は顕著である。発展途上国の人口は、

 1950年に17.7億人であった。それが1990年には42  億人となり、UNEPの予測では、2050年までに増  加する47.3億人のうち、97%が発展途上国に集中  する、と見られている。

  アジアでは、中国が産児制限を実行して人口増

 加にブレーキが掛ってきているのに対し、アフリ

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カにおける人口増加は急速である。1990年に6.4 億人であった人口が、60年後の2050には約3.5倍

となり、22.7億人に達する、とされる。

 先進国では、1990年に10.9億人から2025年に約 12.4億人となり、安定的に推移し、2050年には 12.3億人で定着する、と考えられている。

 発展途上国で人口増加が急激であるのは、出生 率と死亡率とのバランスに異変がおきているため である。1950年代、発展途上国では、出生率に対 し死亡率が低下してきた。このため、発展途上国 の自然増加率は20%である(出生率とは1000人当

たりの出生数のこと)。

 人口の絶対数の増加には、食糧増産が追いつか ず、限界があるとするマルサス以来の考え方があ る。しかし、現実は、産業革命以後、肥料の増産 や土壌の改善、品種の改良などによる農業生産の 拡大によって、人口増加を支え続け、労働集約的 工業化を推進することとなった。

 欧米先進国では、産業の高度な知的化、情報化 が進む中で、栄養の改善や衛生面の向上がみられ、

医療・医薬品が普及して、死亡率が低下していく。

続いて起こった顕著な現象は、出生率が低下する ことであった。「豊かな杜会」を実現させた先進 国では、少産少死という歴史的な人口転換を成し 遂げたのである。「豊かな社会」を作った先進国 のエネルギー多消費型の文明を、現在、10億人ほ どの人が享受している。この文明を21世紀半ばに 10倍となる100億人が追い求めた場合、化石エネ ルギーの枯渇、二酸化炭素ガスの上昇、食糧確保 のための森林伐採など、地球環境は無残な姿とな ることは明白であり、人類にとっても、地球全体 にとっても危機的な状況が出現する。核爆弾が一 瞬にして人類を全滅に追いやるとするなら、人口 問題は一歩一歩時間をかけつつ、人類を破滅に導

くこととなる。まさに「人[]爆弾を抱えた地球」

「宇宙船地球号」とボールデイングが指摘したと

うりである。

 発展途上国ことにアフリカでは、多くの人が飢 餓に苦しみ、2010年までに栄養不足の人が3億人 に達すると予測されている。

 21世紀に向けて人口爆発は、飢餓と環境破壊の 二つの側面から、人類に重い課問を投げかけてい

る。

 人口爆発は、結局、人間中心の考えから起こっ

ている。人間中心主義から脱却し、環境主義

(environmentalism)へ転換する動機を作った のは、カリフォルニア大学の歴史学者リン・ホワ イトJrとされる。ホワイトは、人間優位の思想 のルーツを旧約聖書の創世期にある、とした。

 神は天地を創造し、神の姿に似せて人間をつ くった。そして、神が人間による自然支配を認め た。つまり、人間優位の根源をユダヤ・キリスト 教的世界観に求めたのである。

 これに反論したジョン・パスモアは、人間は神 の代理人としてスチユワードという考えを提唱し た。ホワイト、パスモア、いずれにせよ、西洋思 想にルーツを求めているが、1970年代に人間優位 の思想は崩れ、環境思想に取って代わられること

となった。

皿 生命倫理と環境倫理(結論にかえて)

  多様な姿や形態を持って生存している生物たち。

 かれらは、生命の基本であるDNAという普遍性を  持っており、自然環境に適応しつつ、生き残りを賭  けて、生存競争をしている。時に生物には突然変異  が起こり、さまざまな種が生まれ多様化してきた。

38億年という永い歳月をかけて、生命共同体ともい  える生態系が作り上げられ、それぞれの生物が自分  に適した自然の中で生存しているのである。人間も  この生態系の中の一員として位置つけられる。

  人間も自然の一部であり、他の生物とのあいだに 進化の過程で非連続はない。かのチャールズ・ダー  ウィン(Charles Darwin)が「種の起源」「人間の  由来」の中で語ったことである。

  環境倫理学が、地球生命共同体、生態系の一員と  して生きる人間の生存、倫理を考える全体主義的立 場に立っているとすると、生命倫理学では、人間の 生命を一つの単位として、単なる生物でなく「人 格」を持つ生命の存在を究極の目的とする。

 近代主義のベースには、自由主義、個人主義の思 想があり、この思想には、われわれが住む地球は、

無限とする前提の上に成立していた。産業革命を推 進する経済学上の精神をになったアダム・スミス  (adam Smith)は「国富論」の中で、自由放任主 義をとき、「見えざる手」によって市場はコント ロールされている、と考えた。個人は自由である。

個人所有物である資本、土地を自由に使って生産し、

マーケットで販売する。個人が自由であるという思

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想には、無限な欲望を肯定する思想がある。

 しかし、この自由という考え方は、環境問題を前 にして制限を加えられつつある。

 どこでタバコを吸おうと自由であった。今日では 至る所、禁煙という二文字がならんでいる。工場の エントッも同じである。有害な煙を勝手に放出する ことは、許されない。電車の中の喫煙は、大きく考 えるなら、宇宙船地球号の中での禁煙へと向かわざ るをえない。地球生態系の維持を重視する前に存在 していた自由主義に規制が加えられつつあるのであ

る。

 人口問題を例にとっても、環境倫理学では人口の 抑制のため人口妊娠中絶もやむなしとする。生命倫 理学では、個人の自己決定こそ重要と主張する。地 球全体主義と個人の自己決定主義との対立である。

 これは、かつて人が体験しなかった倫理学上の対

立を生んでいる。

 生物は、DNAを生命の根源として普遍性を持ち つつ、かつ個別性を有しながら、38億年の永い歳月 をかけて生物多様性へと進化してきた。このように、

生命の基本であるDNAがが持つ個別性と普遍性と 多様性の三つのキイワードを見てくると、生命倫理

も環境倫理も、DNAに収敏してくる。

 たとえば、人間一人一人を考えてみても、普遍的 であるDNAの ゆらぎ が個別性を生じさせてお

り、個人を主張している。一方、生物多様性は生態 系の維持を主張しており、環境倫理と繋がっている。

 この個別性と多様性こそが、種の存続にとって重 要なことであり、様々な自然環境に耐えて存続して

きたのである。DNAに満ち溢れた地球生命圏をみ るとき、DNAの個別性と多様性の二つから新たな 倫理学の構築が可能なのではないか。体外受精、遺 伝子操作、クローニング技術、遺伝子組み替えなど、

生命の技術を手に入れてしまった人間は、自然の絶 対的な力が作り出してきた掟を前にして、生命倫理 にせよ、環境倫理にせよ、新しい倫理観構築する必 要に迫られているのである。

参考文献

Nurse data Vol.17. No.111996生命倫理と環境倫

理p9−p14生嶋素久

Nurse data Vol.18. No.31997生命倫理と環境倫 理p51−p55生嶋素久

加藤尚武:バイオエシックスとは何か、未来社 J.ベルナール、藤木典生他訳:バイオエシックス、医 学書院

H.T.エンゲルハート、加藤尚武他訳:バイオエシク スの基礎つけ、朝日出版社

E.W.Keyserlingk:Contemporary moral Issues,

ed. W.Cragg.1987

米本昌平:バイオエシックス、講談社 本庶佑:遺伝子が語る生命像、講談社

アルド・レオポルド、新島義昭訳:野生の歌が聞こえ る、講談社学術文庫、1997

J.B.CaUicott:Compan三〇ntoASandC餌ntry

Almanac, Wisconsin Press、1987

加藤尚武:環境倫理学のすすめ、丸善、1991

ジョン・パスモア、間瀬啓充訳:自然に対する人間の 責任、岩波書店、1979

石弘之:地球環境報告、岩波新書、1988 中川米造:環境医学への道、日本評論社、1984 J.ド・ロネイ、菊池韻彦訳:生命とは何だろうか、岩 波書店、1991

鬼頭秀一:自然保護を問いなおす、ちくま新書、1996 立花隆:脳死、中央公論社、1986

辛島司朗:環境倫理の現在、世界書院、1994

参照

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